2008年11月10日月曜日
●大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む〔 1 〕野口 裕
大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む〔 1 〕
野口 裕
大本さんとはじめて顔を合わせたときには、すでに彼は声を失っていた。筆談を通して行う彼の物言いは、断定に近い響きを持っている。断定がどの程度にあたっているかを、そのつど考え込んでしまうので、なかなか対話には至らないもどかしさがある。
また、対話の最後を笑いで締めくくるよりは、いつも何かの結論を求め、うんうんと納得したい風情である。最後は笑いで締めくくりたい人間とは、結局すれ違いで終わるのだろうか。
しかし、かえって句の中では対話しやすいところがある。各章一句に絞り、私の流儀でゆっくりと密度薄く、読んでみよう。
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第一章 非(あらず)
翔ぶ鳥の翼のさきのほそい群島
習作と思える時期の作が並ぶ。「ひるすぎのコップのなかに水座る」、「花冷えの花よりみゆる東北や」、「死のうかと思った赤いカンナも咲いて」など、先行句の影を容易に窺うことのできる句や、「さくらちるそのはかなさを春といい」の饒舌さなどに、頬が緩んでしまう。
第一章は鳥がよく出てくる。「月へ向かう姿勢で射たれた鴫落ちる」、「人体の凹を焦して海鳥(とり)は翔つ」、「鶴渡る首に頭(づ)のある桃の花」、「階段の鳩の半身ひぐれている」、「風の鳥一樹に集うはすべて白し」など。我がものとなり得るかどうかわからない飛翔能力に対する憧憬を秘め、句はみずみずしい。上掲句は、さらに鳥の飛翔と「ほそい群島」を対比させる。釈迦の掌ではなく、鳥を飛翔させる群島の頼りなさ。それゆえ余計に鳥がまぶしく見えたのだろうか。
(つづく)
〔参照〕 高山れおな 少年はいつもそう 大本義幸句集『硝子器に春の影みち』を読む ―俳句空間―豈weekly 第11号
〔Amazon〕 『硝子器に春の影みち』
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