〔暮らしの歳時記〕
石蕗の花
山田露結
最近は何もイイ事がない。
「いい事ないなあ。寂しいなあ。」とブツブツ言ってたらコンちゃんが「またその話か。」と言ってイヤな顔をした。彼の言葉はいつもオレを不安にさせる。
「飲みに行く?」
オレはコンちゃんを誘って町のはずれにある『マデ』という行き付けの居酒屋へ向かった。音楽好きのマスターがやってるその店にはいつもフォークギターが置いてあって、時々常連客が弾き語りをすることがある。その日、店は忘年会のあと流れてきた連中なんかでけっこう賑わっていた。オレが生ビールをジョッキで立て続けに3杯飲むと、マスターが「今日は調子いいねえ。ちょっと何か歌ってよ。」と言うので、待ってましたとばかりにギターを弾いて歌いはじめた。
オレは調子に乗って2、3曲続けて歌った。オレのレパートリーはフォーク・ソングやら演歌やら滅茶苦茶だがこの店に来る客はだいたいオレと似たような世代だったので大いにウケた。どういうわけかオレが歌う度、喋る度に拍手喝采が起こり、店中を巻き込んでの大盛り上がりになった。「君、面白いねぇ。」と言っておひねりをくれる客まで現れた。こんな経験は初めてである。オレはまるでスターにでもなったかのような気になって上機嫌で歌いまくった。歌いながらビールのジョッキをいったい何杯空けただろうか。その間、コンちゃんは騒いでいるオレを尻目にカウンターの隅に座ってずっと一人で黙って飲んでいた。
目が覚めると自宅の玄関の前だった。何時まで店にいたのか、どうやって帰ってきたのかはまったく覚えがない。なぜか家の鍵を手に握り締めたまま、中へは入らずに靴を枕に寝ていたようである。こんな季節によく表で寝ていられたと思うが、不思議と体は温かかった。
起き上がって上着のポケットから携帯電話を取り出して開いて見ると、コンちゃんからの着信履歴が何回か残っていた。それからもう一人、誰だかわからない電話番号からも着信履歴が何回か残っていた。
「誰だろう。」
オレはその誰だかわからない電話番号へ掛け直してみた。
「あ、もしもし。スミマセン。あの、電話、もらいました?」
「・・・・・」
「あの、もしもし?」
確かに誰か電話に出ているのだが、どういうわけか相手は何もしゃべらない。
しばらくすると女の声で一言、
「あんた、サイテーだよね。」
そう言って電話はそのままプツっと切れてしまった。オレは急に不安になってコンちゃんに電話してみた。
「もしもし、コンちゃん?あのさー、ゆうべ何かあった?」
「え?何かあったって、覚えてないの?けっこうめちゃめちゃだったよ。店のトイレに客の女を引っ張り込むしさあ。『マデ』のマスターもかなり怒ってたよ。」
まさか、と思った。まったく何も覚えてない。コンちゃんはそれ以上詳しくは話さなかった。オレも聞きたいと思わなかった。聞くのが怖かった。オレはふと『マデ』の店内にマスターの字で書いてある張り紙を思い出していた。
「飲み潰れるマデ。夜が明けるマデ。」
店で盛り上がったときにいつもマスターが言う文句である。しかし、いくら飲み潰れるまでと言ったって限度がある。昨夜はちょっとやり過ぎたみいたいだ。
「何やってんだろうな、オレ。」
急に悲しいような、切ないような、何とも言えない気持ちで胸が一杯になった。表を見ると家の前をサラリーマンや高校生が足早に通り過ぎて行く。もう出勤時間なのだ。ふと向かいの家の庭にかたまって咲いている石蕗の花が目に飛び込んできた。朝の日差しに照らされたその無垢な黄色がやたらにまぶしく、何かオレを責めているようにも思えた。
数日後、再びコンちゃんに会った。
「いい事ないなあ。寂しいなあ。」とブツブツ言ってたらコンちゃんが「またその話か。」と言ってイヤな顔をした。彼の言葉はいつもオレを不安にさせる。今日は酒を飲まずに寝よう。
さびしさの眼の行く方や石蕗の花 蓼太
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2009年10月31日土曜日
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