2010年6月20日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔23〕蠅・上

ホトトギス雑詠選抄〔23〕
夏の部(六月)蠅・上

猫髭 (文・写真)


客の前蠅来て匙をなめにけり 皿井旭川 昭和12年

なんとも接客した主の面目まるつぶれのとほほな句だが、心尽くしの冷し物にではなく、掬う匙に蠅がたかるところが、笑える。夏料理のデザートという感じもする。昭和12年というと、瓜だろうか。西瓜は今は早生物が五月から出回るが、当時はまだ早過ぎるような気がする。旭川はドイツに留学しているから冷菓のたぐいかも知れないが、読者がそれぞれ楽しめればいいと思う。わたくしは茨城の瓜連(うりづら)の瓜を井戸端で冷した懐かしい記憶があるので瓜の甘みを楽しんだ。

鎌倉の谷戸歩きでは、虫除けスプレーをしないと軽装では歩けないほど汗に薮蚊が寄って来るが、蠅はめっきり見かけなくなった。厠が汲み取り式ではなく水洗になり、下水も整備されたためだろうが、那珂湊の実家は、いまだに汲み取り式で、海のそばなので犬は放し飼いのようなもので、野良犬も餌を貰える家を渡り歩き、母の飼犬以外にも住み着いている野良犬がいたほどで、出物はところ構わず、緑色に光る金蠅も盛大に唸りながら宴会をやっている。冷房など古屋には無いから開け放して風を入れているので、蠅が自由に出入りしており、母との食卓には、

蠅とびてあそびゐる身にめしまづし 森川暁水 昭和10年

なので、

蠅打つて母は一時をがへんぜず 喜美 昭和19年

とばかりに、食卓の頭上には蠅取りリボンがぶら下がり(→)、壁には蠅叩きが吊り下げられ、足元にはベープマット、サイドテーブルにはキンチョールが置いてある。台所には加えてゴキブリホイホイが長屋のように並ぶ。どれだけ盛大に蠅や蚊や油虫が跋扈しているかわかろうという古屋である。だが、これでも昔に比べれば閑散としている。

昭和20年代には那珂湊の海沿いの道という道に煮上がった鰯が干され、それも、干し台を20段ほど積み重ねているから、町中が煮干の匂いで、蠅も浄土のようにたかっていた。乾燥芋の季節になれば一面に乾燥芋が干しあげられて並んでいたから、これまた蠅にとっては極楽で、今は専用の大きなプレハブの乾燥室で衛生的に作られているが、天日干しの方が味がいいのは、蠅にとっても同じことだった。

蚊柱やマクナギ(メマトイ)も家の前の空地で小さな竜巻のように音もなく渦巻いているから、夕方になると燕が飛び交い、日が落ちると蝙蝠がひらひら舞っては虫たちを捕獲しているのは、昭和の頃と変わらない湊町の夕暮である。

皿井旭川(さらい・きょくせん)。明治3年~昭和20年。本名立三郎(たつさぶろう)。岡山県の士族武市文太郎の二男として生まれ、皿井安太郎の養子となる。明治28年、三高医学部(現岡山大学医学部)卒業。同校講師、外科長拝命後、渡独ベルリン大学で聴講の後、ロストック大学卒。帰国後大阪で開業。皿井耳鼻咽喉科医院長。大正13年、高浜虚子に師事、昭和12年「ホトトギス」同人。句集は『旭川句集』(昭和18年、天理事報社) 。同名で昭和46年に私家版。高浜年尾は虚子の勧めで『猿蓑』輪講を行い「俳諧」に尽したが、そのメンバーに山岡三重史と奈良鹿郎と共に旭川も参加している。

あまたるき口を開いて茘枝(れいし)かな
龍の髭に深々とある龍の玉
健啖の己ともなし薬喰
己が囲をゆすりて蜘蛛の憤り
雑魚と置く赤鱏の眼の憤り
杣がさす鋭鎌の先のしめぢかな
横向いて真黒き顔の鶲かな
はでやかに羽づくろひせる鶲かな
苗代の水張りきつて波もなく
磨崖仏宇陀の菫に立ち給ふ
ほがらかに鍬に砕けて春の土
嵐山うつる大堰の濡れ燕
初御空八咫の鴉は東へ

(つづく)

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