夏の部(六月)五月雨
猫髭 (文・写真)
さみだれのあまだればかり浮御堂 阿波野青畝 大正13年
「五月雨(さみだれ)」とは五月の雨のことではない。「梅雨時の霖雨(りんう)である。陰暦五月に降るのでこの名がある。さは五月の略、みだれは水垂れかと。五月雨(さつきあめ)。さみだるる。」(虚子『新歳時記』)。
「五月雨」は上古の『万葉集』には見えず、中古の『古今和歌集』以来用いられてきた雅語で、「梅雨(つゆ)」は俗語と言える。五月雨が降ることを「五月雨(さみだ)る」と言い、和歌では「さ乱れ」の心を掛けて詠んだ。『万葉集』の「橘の匂へる香かもほととぎす鳴く夜の雨にうつろひぬらむ 大伴家持」を本歌取りしたような西行の歌がある。
橘のにほふ梢にさみだれて山ほととぎす聲かをるなり 西行
花の香が「にほふ」と声が「かをる」という嗅覚と聴覚の間に「さみだれ」という視覚が挟まれて、けぶるように五感をつつむ調べだ。
近世では「五月雨」と言えば、芭蕉と蕪村の教科書に並載される有名な句がある。
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
さみだれや大河を前に家二軒 蕪村
子規が『仰臥漫録』で、この二句を並べて、
芭蕉の句は俳句を知らぬ内より大きな盛んな句のやうに思ふたので今日まで古今有数の句とばかり信じて居た。今日ふとこの句を思ひ出してつくゞゝと考へて見ると「あつめて」といふ語は巧みがあつて甚だ面白くない。それから見ると蕪村の句は遥かに進歩して居る。(明治34年9月23日)と書いたことが特筆される。わたくしも「あつめて早し」が巧みだと学校で教わったが、それは褒め言葉としてだった。別に俳句でなくとも、年季を重ねれば経験の喫水線は深くなるから、変化をしないほうが稀なので、巧みが良いか悪いかという次元ではない。蕪村を発見した子規だからこそ言えた言葉だろう。
『現代詩手帖6月号』の座談会「滅びからはじめること」で、小澤實が、
晴天の平泉に行ったのに「五月雨の降のこしてや光堂」とやるわけですからね(笑)。と発言している句も、「降のこしてや」に巧みがあるが、光堂の句が作品として光っているかどうかを見れば、これは見事な句だと言える。
子規の『俳人蕪村』には芭蕉と蕪村の句を比較する個所も多いが、「五月雨」句の比較には芭蕉の光堂の句は挙げられていないし、
さみだれや仏の花を捨に出る 蕪村
という蕪村のしみじみとした一句も挙げられていない。虚子は『新歳時記』の「五月雨」の季題で、すべて例句として採り上げている。
こういう有名な句がある場合、後世が「五月雨」でこれに匹敵する句を詠むことは難しいが、何事にも例外があり、掲出句の阿波野青畝の一句はほれぼれとするような美しい調べを持つ秀句である。
青畝は、
湖の水まさりけり五月雨 去来
に少しでも及びたいと思ったところからこの句を発想したという。
浮御堂は滋賀県大津市堅田、琵琶湖畔の臨済宗大徳寺派海門山満月寺にある湖上に突き出た仏堂である。近江八景「堅田の落雁」で名高く、青畝の句碑をはじめ、
鎖(じょう)あけて月さし入れよ浮御堂 芭蕉
湖もこの辺にして鳥渡る 虚子
の句碑があるという。以前写真を見て、虚子の句碑は湖上に立っているので面白いと思ったことがある。青畝の句の調べは見事だと思ったが、本当に味わったのは実は二日前のことだった。
暦上では梅雨入りを控えた二日前、雨が降り、那珂湊の実家の近くの水神宮へ、福田平八郎の名画「雨」(→)ではないが、雨垂れと雨に濡れた瓦を撮ろうと出向いた。朽ちかけた瓦屋根に樋はないから、雨垂れは境内の地面に直接水銀が糸を引くように光って落ちる。雨垂れはどこから落ちるかタイミングが難しく、瓦だけ撮って、階段に座り、雨の音を聞いていた。ふと、浮御堂の瓦屋根にも樋はないはずであり、同じように雨垂れはあちらこちらから水滴を光らせるはずだが、琵琶湖に落ちるのだと気づいた途端、瓦を打つ雨の音と地面に落ちる雨垂れの音が「Samidareno Amadarebakari」と聴こえた。青畝は幼時からの難聴のために、中学で進学を断念していることを思い出した。「さみだれのあまだればかり」という平仮名表記は、雨垂れを聞くことが出来なかった青畝が視覚で聴いた音なのだった。そう合点がいった時、遠く離れた浮御堂の雨垂れの湖面にたてる音を聴いたように思った。
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