週刊俳句・第218号を読む
岡田由季
小学生の頃、作文の題で得意だったのは「家族について書きなさい」といった内容のものでした。うちの家族はみんなどこか変だったので、題材に困ることがなかったから。
逆に苦手だったのが読書感想文。たとえば「メロスのような勇気ある人に私もなりたいと思います」といったようなありきたりで白々しいことは書きたくないのに、いざ書こうとすると、ほかに何も思いつかないし、当時は、自分なりに、かなりの集中力をもって本を読んでいて、「この文章は何を言いたいのか」などと余計なことを考えず、ただ読んで内容を受け止めて味わうことを純粋な喜びとしていたいという気持ちがあるのに、自分の稚拙な感想なんかを述べることは苦痛でしかないし、本を読む楽しさが台無しになるように感じていました。
その後、中学、高校と、出会った国語の先生との相性が何れもみごとに悪く、すっかり文学アレルギーになってしまっていたはずなのに、なぜか、今、俳句などと関わっています。そうすると、俳句作品や、書かれた文章について「何か書く」という機会が時々はあるものです。今でもそういった行為は得意ではなく、稚拙な感想しか浮かんでこないのは同じです。ただ小学生の頃のように、純粋に読むことに没頭するということもできなくなっているように思います。それは長く生きてきたからいろいろな物がまつわりついてきたからかもしれないし、どこかに書き手としての自分がいるからかもしれません。その今の自分と、「書かれたもの」との距離を探るために、ぽつりぽつりと書いていくしかないのかもしれません。
さて、週俳218号。
あとがきによると、今号は原稿が少なく、編集部の方が急遽書かれたものもあるとのこと。
コンテンツは、まず超新撰21を読む、の記事が3本。生駒大祐さんの「たじま酔い」という言葉が面白い。たじまさんは俳句の話をし出すと止まらないので、その熱弁を聞いていても「たじま酔い」になることがあります。
野口裕さんの林田紀音夫全句集拾読はなんと170回に。この全句集が出たときに、図書館で手にとり、その分厚さ重さ字の細かさ、ぎっしり余白なく2段組みの俳句にすっかりくじけた覚えがあります。その時の印象では重く暗く貧乏くさい(失礼)句が並んでいると思ったのですが、こうやって数句ずつ、解きほぐしていただくと、そうでもなく感じます。研究肌の継続的ワークに感服です。
そして、「その他もろもろ毛呂篤」。ええと、読み方、「もろあつし」さんであっているのでしょうか。記事からのリンク先で、大畑等さんは、「モロトクさん」という呼び方をされています。
この毛呂篤さん、私は全く存じあげなかったのですが、西原天気さんが西村麒麟さんスタイルで、一句一句つっこみを入れながら紹介されているのも納得です。「つっこんで!」て言わんばかりの句が並んでいます。
あいつと夫婦(めおと)になるぞらっきょう畑全開
って…
らっきょう畑で画像検索をしてみると、花の時期はとても美しいのですね。鳥取までらっきょうの花を見に行きたくなりました。「全開」が花の時期を示しているとは限らないのですが。何かとても祝福したくなるような句です。
「この目でおがむ 毛呂篤の本いろいろ」を見ると、その句集の装丁の美しいことに驚きます。リトグラフのように連番が入っているのです。このような美麗な本に「らっきょう男」とか「ハアー」とかの句が入っているのかと思うと、美学だなぁ、と思います。
「100句ほど毛呂篤の詰め合わせ」は、御教訓カレンダー(今もあるのですね)のように、日めくりにして発売してもらいたいです。壁にかけて毎日眺めれば、最近よく耳にする、ちょっと癇に障る表現でいうと、「元気をもらえる」のではないかと思います。
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