【みみず・ぶっくす 14】
西瓜糖カンフーの日々⑵ 小津夜景
こんにちは。
ここはまだ「はじまりのつづき」です。
私はまだこちらの世界にいて、西瓜糖の世界のことは何も知りません。
そこはよいところだけど、虎がいるかもしれないから、簡単には行かせてもらえないみたい。
私が今してるのは、ふつうの勉強と武術の稽古。
私の武術が無術の域に達した時、私は「逝く」そうです。
逝ったくらいの達人でないと、あの世界の住人になれないと、教師は言います。
でも。それってどういうこと?
……。
ほんと言うと私、西瓜糖の世界のこと、結構知ってるんですよね。リチャード・ブローティガン著『西瓜糖の日々』は中学の頃から愛読してたので。
ただ私の通っている学校はレイ・ブラッドベリ著『華氏451』みたいに読書禁止だから、このことは誰にも言ってないんですけど。
あの本を読んだ印象では、あそこは全然おだやかな場所なんかじゃなくて、かなり鬱鬱とした灰色世界。
失語園っぽいんですよ。
〈アイデスではどこか脆いような、微妙な感じの平衡が〉
〈わたしたちにある言葉といえば、西瓜糖があるきりで、ほかにはなにもないのだから〉
〈そう、なにもかも、西瓜糖の言葉で話してあげることになるだろう〉
なにもかも西瓜糖の言葉で話す、ということは、西瓜糖の言葉で語り得ないことは、決して語られないということ。
自然発火する本みたいに、それに関することばがゆらゆら燃えてしまう世界だということ。
キナ臭い。
あと「武術が無術の域に達する」と聞くと一見「天下無敵」のことかと錯覚しそうになるけど、でもこれふつうに読み下せば「術無し」のことだし。
だから、無術家と成ってそこに出かける、というのはある種の洗脳が仕上がったあとの崩壊プレイなんじゃないか
って最近思うんです。
もしくはアイデスとは、かつての工作員(なんのだろう)しか棲んでない廃兵園なんじゃないかなって、
綴りも iDEATH だしって
最近思うんです。
つまり、
あそこに逝っちゃいけないんじゃないかな、って。
脚千体かがみて春を葬してみろ
総重量かげらふほどの暗器なり
神技はロゴス字(あざな)は死のロード
死者光る風速うぱにしゃっどかな
天穹やダークホースの乱れ髪
はんなりと怖い華道部の手口は
抱き首で肉投げ合ふやもの狂ひ
教師三十六房僧と化し朧
戈が手を掴むが「我」と梅曰く
戦ぐのですわれ〈我死(アイデス)〉の草ゆゑに
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