2015年2月18日水曜日
●水曜日の一句〔高岡修〕関悦史
関悦史
月光の立棺として摩天楼 高岡修
高層ビルから墓を連想した句に、福永耕二の《新宿ははるかなる墓碑鳥渡る》があるが、この句の情趣はそれとはかなり異なる。福永耕二の句では、遠景のビル群と渡り鳥が地上から眺められ、生活に根差した感情が背後にあることが感じ取れる。
ところが高岡の句では、渡り鳥の生気や郷愁も「新宿」の猥雑さもなく、立棺と化した摩天楼が「月光」の静寂のなかに屹立するのみである。
格助詞「の」が両義的で、外から摩天楼を照らしているはずの「月光」が、文法的には棺のなかに納められている当の死者のようにも見える。
棺となった摩天楼に納められる死者とは都市文明や、あるいは人類文明そのものだろう。地球上の文明はいずれは必ず滅ぶ。しかしそれは棺に入っても、横になって休むことを許されない。生きながら既に死に、死にながらまだ生きている、そうした、未来と現在とを見渡した形で、摩天楼は立棺に擬されている。
シャッターを開けっ放しにして撮られた天体写真のように、動く人の姿は消え、月光と摩天楼のみの像となるが、棺と言われたことで却って「摩天楼」に生の気配が残った。
「月光」自身を棺に入る死者のように見せて内外の差を無化してゆく「の」が要請されたのも、未来と現在、死物と生とを併せて視界に収めることをこの句が欲したからにほかならない。その結果、一見静的なこの句は、無限にも通じるひそかな湧出感を持つことができた。
この句はマンションの看板のような、未来の一時点に視座を固定した平板な予想図ではないのである。
現代俳句文庫76『高岡修句集』(2014.12 ふらんす堂)所収。
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