西原天気
※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。
おふたりは百階の放送委員
丸田洋渡 (まるた・よっと)1998-
「放送委員」というからには、これは学校、それも小学校、中学校、高校での出来事だから、ふつう校舎は2階か3階、多くてもそれを数階上回る程度。だから、「百階」はずいぶんと多い。めまいするくらいの高階で、一般生徒がいる場所からははるかな距離がある。それでも、声は、機械というものがあるおかげで、一般生徒たちに届く。いや、まあ、それは届くことには届くのだが、もともとの発声の場所はあくまで「百階」、というはるかな場所なのだ。
一方、こんな意見もあろう。「百」とは多いことの比喩であって、ほら、議論百出ってったって、百まで数えたわけじゃないし、百人力は人の百倍の力があるわけじゃない。そういう(私からすれば無理筋な)読みもあっていいけど、比喩なら比喩で、比喩じゃない部分をきちんとイメージすることがだいじと、私などは強く思っているので、百階(かそれ以上を備えた)高層の建築物を、まずは頭に描く(比喩にしたいなら、まずは描いてから)。
それにですよ、掲句を引いた「川に柳」川柳50句には、《比喩とかじゃない血祭だった》という句もあって、「ひどい目に合わせる」という比喩の元をたどって、ある種具体的な暴力をもってして血だらけ・傷だらけにする、もしかしたら殺しちゃうというシーン、あるいは血のしたたる心臓をピラミッドの頂上に掲げるような供犠のシーンをイメージしないといけない。
イメージです。きちんと像を結ばないといけない。そのうえで、「百階」のマイクの前に行儀よく並んで坐る「ふたり」。比喩ではなく孤高のふたりである。
こんなシーンを見てしまうと、なんともいえぬ感慨を味わうわけで、どんな感慨かは、「なんともいえぬ」から、それ以上に伝えることはない。読んだ人それぞれが「なんともいえぬ」かんじに陥るのだと思う。
なお、この50句には、《百階で知る爆弾の作り方》という句もある。「百階」には、全校生徒へのお知らせやら安っぽい背景音楽(BGM)やら託宣だけでなく、叡智や悪意まで存するというわけなのです。
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