相子智恵
冷まじや家の中まで千曲川 宮坂静生
句集『鑑真』(2024.8 本阿弥書店)所収
このたびの能登の、地震の後の水害という理不尽さに心が痛む。
掲句は〈長野市長沼 四句〉と題されたうちの一句で、同地は2019年、台風19号に伴う千曲川の堤防の決壊で大水害に襲われた。淡々と描かれた恐ろしさがある。
〈月天心家のなかまで真葛原 河原枇杷男〉や〈五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村〉といった句も思い出される。これらの句は「千曲川」のように地域を特定しないからこそ、誰の心にも情景が思い浮かびやすい。普遍的な心細さがある句だ。
けれども、掲句のように地名(ここでは川の名だが)があることの、生傷のようにリアルな恐ろしさというのもまたあって、あの千曲川の川幅や蛇行、速さ、光や音や匂いなどが思い出されてきて、本能的な畏怖が湧いてくるのである。
そういえば最近では自然災害と関連して、先人が名づけた古い地名(水にまつわる地名や、土砂崩れの多い地の「蛇崩れ」という地名など)も見直されている。科学技術が発達していなかった時代、いつしかそう呼ばれていた名前に宿るメッセージ。
本句集の帯の、作者の言葉〈俳句は自己表現を超えた風土・地貌という自然のちからの僥倖(ぎょうこう)に恵まれないとなにも残らない〉というのは、作者の一貫した志である。「なにも残らない」は思い切った啖呵だが、地名や季語(という自然と切り離せない名前が多いもの)の中に「自分以外の力が宿っている」と微塵も信じることができないならば、自己の俳句表現にそれらを使うことは、確かに虚しいであろう。
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