2010年7月20日火曜日

●コモエスタ三鬼23 暗号解読

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第23回
暗号解読

さいばら天気


1940年(昭和15年)8月31日朝5時30分、京都府警の特別高等警察・警部補ほか4名のが東京・大森の三鬼自宅を家宅捜索。三鬼は京都府警へと連行される。その年の2月に始まった「京大俳句」関係者の検挙の最後が三鬼だった。「京大俳句事件」として知られる言論弾圧事件。容疑は治安維持法違反だった。

新興俳句の多くの作品と「共産主義」を結びつける根拠は乏しいが、三鬼が興味深い例を挙げている。
(…)私を担当した高田警部補が、奇妙きてれつな俳句解釈をするので、私が笑い飛ばすと、彼は憤然として「僕達は専門家に講習をうけたのだ」と口ばしり(…)

  昇降機しづかに雷の夜を昇る

という私の句の意味は「雷の夜すなわち国情不安な時、昇降機すなわち共産主義思想が昂揚する」というので、つまり新興俳句は暗喩オンリー、暗号で「同志」間の闘争意識を高めていたものだというのである。(西東三鬼「俳愚伝」)
雷の夜=国情不安、エレベーター=共産主義の昂揚とは、そうとうに噴飯物の「読解」だが、これに近いことは、いまも目にするような気がする。

暗喩(メタファー)の働きや象徴作用に着目して、句の「背後」を読み取ろうとする態度はたしかに存在し、それがまるで「深い」読み方であるかのように肯定される傾向さえ(どの程度広汎には定かではないが)存在する。

「自分の読みたいように読む」態度は、俳句=読み手の自由へと開かれたテキストとして句を享受することを目論んだつもりが、むしろさまざまに貧しく不適切な「読解」へと堕する危険も孕んでいる。「作品を自分のレベルまで引きずり落とすような読み方」、言い換えれば、わからない句を自分にわからせるために、「譬え」(暗喩etc)を読み取ろうとする。

あるいは、自分の好悪・目的に合致するよう、語句をメタファーや象徴の笊で濾過する。特高警察が三鬼の句に「共産主義」を読み取りたいがためにする暗号解読と同じことが、いまでも行われている。

もちろん、隠喩や象徴作用が働いてしまうケースがないわけではない。ある語がある脈絡に置かれるとき、隠喩として呼び寄せてしまう「意味」、言外の意味(コノテーション)は、たしかにあるが、それは個人の語句解釈によって召喚されるのではない。集合的(コレクティヴ)な働きとして、どうしても呼び寄せざるを得ないといったたぐいの事象である。

(ええっと、この「集合的」とは、オシム元監督が「コレクティブなサッカー」という言い方をしますね。アレです)

暗喩、象徴作用を用いての「自分レベル」「自分の関心事」への貶めは、意味への病的な固執ともいえる。あるいは、了解不能への恐怖症。雷の夜を昇っていくエレベーターというイメージを享受するだけで終わることができず、それが「なに」を意味しているのかに回答を見出さずにはいられないのだろう。


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