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2009年4月9日木曜日

●もの、それ自体 saibara tenki

ジョン・ケージ拾読:引用の断章 4/4
もの、それ自体

compiled by saibara tenki


作曲家ロジャーレイノルズによる1977年のインタビューより。
ケージ:(…)私は今でも、ものがそれ自体であってほしいと思っています……。人がものをそのもの以外の何かとして感受するとき、ものは、そのもの自体でなくなるのです。例えば、もし私が車を借り、そのブレーキを踏んだとき、ブレーキが正常に働いていないことを示す音が聞こえたとします。そのとき、その音はもはや音ではない。その音はブレーキの指示物なのです。(…)音楽の世界の音について話すなら、インド哲学で言うアルタ(つまり「成功」「失敗」といった実利)の視点ではなく、モークシャ(つまり解脱)の視点で話すことになります。そして故障したブレーキから音が聞こえてきたとき、私達は直ちに、モークシャから出、アルタの内に戻る。審美的な生活を考えるより、まず命を救わなければ(…)なりませんから。
(「『沈黙』の思想、その後」ジョン・ケージ:『音楽の零度』近藤譲訳/朝日出版社1980所収)



2009年4月7日火曜日

●目的を排除する saibara tenki

ジョン・ケージ拾読:引用の断章 3/4
目的を排除する

compiled by saibara tenki


作曲家ロジャーレイノルズによる1961年のインタビューより。
レイノルズ:(…)あなたにとって、今、音楽を書く目的は何でしょうか?

ケージ:私はよくこう言います。私は何の目的ももっていない。私は音を取り扱っているのです、と。(…)つまり、私は、目的を排除することによって、私が意識と言っているものが増大する、と考えています。ですから、私の目的は、目的を取り除くことなのです。
(「沈黙の思想」ジョン・ケージ:『音楽の零度』近藤譲訳/朝日出版社1980所収)
 
ケージ:(…)私は独自性という原則に心を奪われています。自己本位という意味での独自性ではなく、行なう必要があることを行なうこと、という意味での独自性です。明らかに、今行なう必要があることは、既に行なわれてしまったことではなく、未だ行なわれたことのないことです。(同)



ケージ:(…)私は他の問いを立てなければならないのです。つまり、無形式性などというものがどこかにあるのだろうか?と。殊に、望遠鏡や顕微鏡等がある今日では、私の画家の友人のひとりであるジャスパー・ジョーンズが言うように、「世界はとてもごちゃごちゃしている」。形はあらゆるところにある。(同)

2009年4月2日木曜日

●予知不可能 saibara tenki

ジョン・ケージ拾読:引用の断章 2/4
予知不可能

compiled by saibara tenki


実験的行為の本質とは何だろうか? それは単に、結果を予知できない行為である。したがって、音を、感情や秩序の概念を表現するためのものとして搾取するのではなく、むしろ、音がそれ本来の権利を取り戻すように予め決めてしまっておけばとても便利だ。
(「合衆国に於ける実験音楽の歴史」ジョン・ケージ:『音楽の零度』近藤譲訳/朝日出版社1980所収)

歴史とは、様々な独創的な行為の物語である。(…略…)いくつかの種類の独創性は、成功や美や観念(秩序の観念:例えばバッハ、ベートヴェン)等を伴っている。そして、唯ひとつ、そうしたものを伴っていない、言わば、まったく何も含んでいない種類の独創性がある。ところが、成功や美や観念等を伴った種類の独創性はすべて、普通によく見受けられるもので(…略…)こうした種類の独創的な芸術家達は、アントナン・アルトーが言ったように、自己宣伝に忙しい豚に見える。(同)




2009年3月14日土曜日

●ブリキと茸 saibara tenki

ジョン・ケージ拾読:引用の断章 1/4
ブリキと茸

compiled by saibara tenki


4回決め打ちです。

人が茸に熱中することによって、音楽についての多くを学ぶことができる。私はそういう結論に達した。その目的のために、私は最近田舎に引っ越したのだ。そして菌類の「野外採集の友」の熟読に多くの時間を費している。そういう本は、よく古本屋で半額で見つかるのだが、そんな古本屋はごく稀に、ページの端が捲れてしまった楽譜を売る店の隣りにあったりする。そんなときには、私のしていることが正しいという動かぬ証拠を見た思いに心浮き立つ。
(「音楽愛好家の野外採集の友」ジョン・ケージ:『音楽の零度』近藤譲訳/朝日出版社1980所収)

猿の腰掛のような茸と音楽の女神を結合させてしまったからといって、私が不真面目で軽率で、悪く言えば「ごたまぜ趣味」だ、と思われないために、作曲家はいつも音楽を他の何かと混ぜ合わせているのだということを考えてほしい。(同)

森の中で、私の沈黙の曲の演奏を指揮して、私は多くの楽しい時間を過ごした。聴衆はたったひとり私自身だけだから、その曲は私が出版した一般に知られている長さよりずっと長い。(同)




私は、音と音との間の関係に興味がないのと同じように、茸と茸との間の関係にもそれ以上の興味はない。そうした関係というのは、この世界では場違いなばかりか、時間の浪費でもあるような論理の導入に深く関わってしまうことになる。(同)

つまりそれ故に、私達は、ひとつひとつのものを直接に、それが在るがままに見極めねばならない。ブリキ製のホイッスルの音であっても、優雅な傘茸であっても。(同)