2014年12月31日水曜日

●除夜

除夜

桝の豆ほどに混み混み除夜詣  平畑静塔

除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり  森 澄雄

神戸美し除夜の汽笛の鳴り交ふとき  後藤比奈夫

おろかなる犬吠えてをり除夜の鐘  山口青邨

くれなゐにひびきもつれぬ除夜の鐘  永田耕衣

2014年12月30日火曜日

●年用意

年用意

一袋猫もごまめの年用意  一茶

ふる雪のかりそめならず年用意  久保田万太郎

円鏡のラジオやせわし年用意  小沢昭一

2014年12月28日日曜日

2014年12月27日土曜日

【みみず・ぶっくす08】 明るい部屋で、手をほどくふたつの川 小津夜景

【みみず・ぶっくす08】 
明るい部屋で、手をほどくふたつの川 小津夜景










小津夜景
【みみず・ぶっくす 08】明るい部屋で、手をほどくふたつの川


だが午後三時青い写真の中にをり、なぜ記号(意味)作用なのか、なぜ見ることなのか——これらの問いは時代錯誤である。《見る》ことのさざなみて不在のまなざしか海は問題性はすでに《見る》ことについて語る奇怪な困難の梟の〈かつてそこにあつた〉眼をひらく中に象徴的に示されてはいないだろうか。実際《見る》ことについて透明のマントで佇つやセカイが戸に語っているとき、われわれは《見えるもの》についてしか語っていないことがしばしば恋びとのくちびる或る日人語ありなのだ。見ることは透明に脱落して、見えるもの浮かび上がらせる。そして煮こごりに夜の音楽のなごりかな、見ることを価値づけているのは見えるものの価値、断章のしまくがままを逢ふ日なりに他ならないのだ。それを典型的に示すのは《画家の眼》の主題(=わがまなこ生の卵のごとく狩られ)だろう。それはつねに《かくされ=あばかれる真実》の主題いまはなき虹の画像のおぼえがきにほかならない。見るとき、 われわれがなにかもぐりこむ銀河は眩しもがりぶえを見るのは自明であるとして、しかし、この見えるものの超越性は凍港や胸に手紙をしまふとき自明なことだろうか。(宮川淳『紙片と眼差とのあいだに焼べるかなかの靴べらのかなしみを』)


……「写真」が再現するのは、ただ一度しか起こらなかったことである。

午後三時青い写真の中にをり

……「写真」は二度とふたたび繰り返されないことを、機械的に繰り返す。

さざなみて不在のまなざしか海は

……「写真」は本質的には決して思い出ではない。

梟の〈かつてそこにあつた〉眼をひらく

……「写真」は思い出を妨害しすぐに反=思い出となる。

透明のマントで佇つやセカイが戸に

……ある日、何人かの友人が子供の頃の思い出を語ってくれた。

恋びとのくちびる或る日人語あり

……彼らには思い出があったが、しかし私には、自分の過去の写真を見たばかりだったので、もはや思い出をもたなかった。

煮こごりに夜の音楽のなごりかな

……「写真」は一つの魔術であって、技術(芸術)ではない。

断章のしまくがままを逢ふ日なり

……「写真」のノエマは単純であり、平凡である。〈それはかつてあった〉ということだけである。

わがまなこ生の卵のごとく狩られ

……「それはかつてあった」は、「それは私だ」に切り傷を与える。

いまはなき虹の画像のおぼえがき

……これは単に、写真を見る者に過去を思い出させることを意味してはいない。

もぐりこむ銀河は眩しもがりぶえ

……むしろ「死」との関係からとらえられる写真の普遍を意味している。

凍港や胸に手紙をしまふとき

……写真は時間を不動化させる役割を果たしていのでありどのような写真であっても写真のうちは私の未来の死を告げる記号が存在しているのである

焼べるかなかの靴べらのかなしみ


2014年12月26日金曜日

●金曜日の川柳〔柳本々々〕樋口由紀子



樋口由紀子






ねえ、夢で、醤油借りたの俺ですか?

柳本々々 (やぎもと・もともと) 1982~

中学生の時に大晦日に部屋の掃除をしていたら、借りていた本が出てきた。明日は来年、借りたものは今年中に返さなくてはならない。我が家は三世帯同居だったので祖父母にそう教えられていた。自転車に乗って、遠くの友人の家にまで返しに行った。友人は何も大晦日に来なくても、新学期でもよかったのに、と怪訝そうな顔をしたが、帰り道はすでに暗くなりかかっていたが、気分もすっきりしてペダルを踏んだ。

夢であっても借りたものは気になる。自分ではないかもしれないけれど、ひょっとして、俺? もし、借りていたのなら、また夢で返しますと言っているようだ。「醤油」にノスタルジーがあって、いい。ちょっと以前までは醤油などの調味料の貸し借りは隣近所でふつうに行われていた。日常生活に借りたのを思い出したってなかなか詩にならないが、「夢で」で詩的発見になった。のびやかな韻律に乗って、「俺ですか?」と日常を揺さぶる。

〈ひやむぎのきびしいぶぶんはなしあう〉〈おだやかなかつらをかぶり鳥を抱く〉〈足らぬからつぎたしていく部屋の西〉 「SO」(第六号 2014年刊)収録。

2014年12月25日木曜日

●2015年 新年詠 大募集

2015年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

投句先

上田信治 uedasuedas@gmail.com
西原天気 tenki.saibara@gmail.com
福田若之 kamome819@gmail.com
村田 篠 shino.murata@gmail.com

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。

※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2015年11日(木)~1月3日(土) 20:00


※年内は受け付けておりません。年が明けてからお送りください。

≫2014年の新年詠
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/01/350201415.html

2014年12月24日水曜日

●水曜日の一句〔林亮〕関悦史



関悦史








踏まずとも消ゆることなし枯野道  林 亮


夏野のなかの道であればすぐ草に覆われる。踏まれなくても道が消えないのは枯野ならではだ。

句はそのことに満足しているわけでもなければ、安心しているわけでもなく、また心配しているわけでもない。認識しているだけである。

生い茂った植物の痕跡と、来春以降再び繁りだす潜勢力をはらみながら停止している枯野の停滞感。この停滞感には電車が事故で停車しているような、本来動くべきものが止まっているときの、どこか耐え難いもどかしさがひそむ。認識しているだけというスタンスは、その停滞感に見合っている。

道がついているからには、そこを通る用のある人間が一定数いるはずだ。それを消さずにおくのは自然の慈悲でもなんでもない。残るときは残り、消えるときは消える。今はたまたま努力して残す必要がない時期にあたっているだけだ。

人の側もことさら努力しているとは感じていない。獣道とはそういうものである。人の営みと自然とが、特別意識することもなく押し合いを繰り返した結果、現在のバランスとして枯野道が残っている。特に意味や感情が生じるほどのものでもない。ただそういうもの、そういう状態がある。それに気づいてしまった者も、ことさら影響を受けることもなく、普通に暮らしていくしかない。ただそういうものに気づいてしまったという経験が、一時残る。その経験もやがて夏野のなかの道と同じように消える。句が捉えたのは、そういう局面なのである。そういう局面を捉えて残してしまった俳句というものがナンセンスなような気もし、めでたいような気もする。


句集『高知』(2014.12 私家版)所収。

2014年12月22日月曜日

●月曜日の一句〔酒井和子〕相子智恵



相子智恵







狐火もわが晩歳も音立てず  酒井和子

『花樹』(2014.11 角川学芸出版)より

狐火は、山野や墓地などの陰湿な地に自然に発生する青白い火花。夜中、音も立てずに青白い火が発光するのは、この世のものとは思えない不気味さだ。

狐火が音を立てずにすーっと光り、消えるのと同じように、自分の晩年もまた、音を立てないで過ぎてゆくのだという掲句。静かではあるが、その静けさはしかし、現実的な人が送る晩年のような、あっさりとした静けさではない。音を立てない物は他にいくつもあり、もっと現実的な物もあるはずなのに、狐火という不気味な無音の光に自分の晩年を重ねているからだ。

老いによって化け物とも近くなるような、現実と非現実が近づいていくような単純ならざる晩年。詩心のある人の晩年は静けささえも面白い。

2014年12月20日土曜日

【みみず・ぶっくす07】 みみずのてがみ 小津夜景

【みみず・ぶっくす07】 
みみずのてがみ 小津夜景


小津夜景
【みみず・ぶっくす 07】みみずのてがみ

ほんとうは【みすず・ぶっくす】を
買いに行ったのですが、
なぜか【みみず・ぶっくす】を買ってしまい、
しかもけっこう長い間
自分がうっかり【みみず・ぶっくす】を
買っていたことに気づかなくて。

というのもこの家に【みすず・ぶっくす】は
もともと一冊もなかったし、
あの【みすず】書房の【ぶっくす】シリーズだもの
みみずの研究書くらい出てるよね、と思ったから。

まさか勘違いだったとは。

でも最近は【みみず・ぶっくす】も
割と面白いことが少しずつわかってきました。
みみず、だけあって、かなりロハスな本です。
お経みたいに、宇宙を謳ったりもします。

大地の詩句と
彼らはよばれ
はいずりまわり
糞をする。

大地の詩句が
糞をするたび
いのちがそだち
歌となる。

こんなうたとか。
この本をよんでわかったのは、
みみず les vers が定型詩 le versと
同じ綴りだってこと。

定型詩って
そんな自由で、のたくねって、
くそまみれなものだったのか!
やばい、なんてすばらしいんだって
すごい手紙をもらった気分



いまだ目を開かざるもの文字と虹
くるぶしに冬の金魚のしづけさが
鳩尾はそぞろに詩句をそらんずる
欠伸して指のイデアと出逢ひしかな
つまさきを濡らしやさしい夜の糊
かほを撫でしぼんだ星の膨らみぬ
耳たぶはとぶぬばたまを見んとして
うら声のうらより皮を剝いでゆく
むらぎもは旅ごろも着てそのままに
凩をきく手のひとつきりとなる

2014年12月19日金曜日

●金曜日の川柳〔森田一二〕樋口由紀子



樋口由紀子






舌を咬む事の痛さに今日も負け

森田一二 (もりた・かつじ) 1892~1979

舌を咬んだら飛び上がるほど痛い。その事に慣れることなんて到底できない。その痛さを我慢できないことを「今日も負け」と自分を諌めている。身体の痛みと精神の痛み、現在強いられている状況の厳しさと怒りが「舌を咬む」で想像できる。

ああ、やっぱり。でも、信じられない。「舌を咬む事の痛さ」は衆議院議員選挙結果を見た今の私の心境と同じ。予想されていたが、まさかと思っていた。そんなばかなことはないと思っていた。世の中はどんどんきな臭い方向に向かっていくようでおそろしい。

森田一二は新興川柳運動の先駆者で、彼の創刊した個人誌「新生」が川柳革新運動の実質的な起点とされている。また、マルクス主義文学者でもあり、鶴彬に大きな影響を与えた。〈いろいろな穿きもので来る自由主義〉〈ジッと見るなかに一筋槍の先〉〈てっぺんに登って資本縊られる〉 『新興川柳詩集』(1925年刊)所収。

2014年12月18日木曜日

●筋肉

筋肉

冬森の背筋を伝ひゆくわれか  佐藤鬼房

紫蘇は実に雨のかすかなる筋肉  山中葛子

腹筋はアリアの為ぞ花氷  中原道夫

噴水や思はるる身の筋繊維  佐藤文香

風神雷神筋肉の裂けて黴  大石雄鬼

鉄臭いそれでいて筋肉が柔らかで柔らかで遅い銭湯のいつも君たち少年工  橋本夢道


2014年12月17日水曜日

●水曜日の一句〔武藤雅治〕関悦史



関悦史








飛んでゆく鞄のこゑの暗さかな  武藤雅治


一見何かの寓意がある句に見えるが、句は別の何ごとかを意味しているわけではおそらくない。まずは字義通りに読む以外にない。飛んでゆく鞄というものの存在を読者は受け入れなければならないし、その鞄があろうことか声を上げており、しかもその声が暗いというところまで、それがいかなる意味を持つ情景なのか一向に理解できないまま立ち会わなければならないのである。

単なるナンセンスではなく「意味」とか「寓意」がちらついてしまうのは「暗さ」の一語があるからだ。つまりこの鞄には感情がある。また「暗さ」の一語があるゆえに「飛んでいく」が自発的な行為ではなく、心ならずも吹き飛ばされているらしいという印象が生まれる。だがその印象も絶対的なものではなく、鞄は暗い声を上げながら自棄をおこして暴走するかのように、自発的に飛んでいるのかもしれない。

「こゑ」が本当に感情を表しているのかどうかも少々あやしい。虫の声と同じく、聴く側が情緒を付与してしまっているのかもしれないからだ。しかしこの新品とは思いにくい「暗さ」を帯びた鞄が、人に寄り添うようにして使われる中空状の道具であることを思えば、使ってきた人間の感情を多少は呑みこんでしまっているのかもしれず、そうなると鞄と視点人物との区別もあやふやになってくる。

「飛んでくる」のでも「飛んでいる」のでもなく「飛んでゆく」という、視点人物からの遠ざかりが明示されていることがここで注意を引くことになる。つまり鞄は視点人物の代理として暗い声を上げつつ飛んでゆくのだと取った方が良いのではないか。

しかし視点人物の無感動な報告ぶりは、鞄に「暗さ」を託して流し去ったカタルシスによるものとは感じられない。視点人物と鞄の持ち主が別人という可能性も考えられるが、いずれにせよ救いもなければ終わりもない、消尽された煉獄である。

そして煉獄が十全に表現されると、それは奇妙に愉しいものとなる。


なお作者は歌人であり、句作は故須藤徹との出会いによって始まったという。句集に収められた作品が俳句か川柳か、はたまたそれ以外の何かなのか、作者は特定していない。


句集『かみうさぎ』(2014.12 六花書林)所収。

2014年12月15日月曜日

●月曜日の一句〔尾池葉子〕相子智恵



相子智恵







ふくろふに昼の挨拶してしまふ  尾池葉子

『ふくろふに』(2014.11 角川学芸出版)より

挨拶ができるほどの距離感と長閑さだから、この梟は野生の梟ではなく、動物園やペットショップなどで飼育されている梟なのだろう。

梟は夜行性だから、本来は「こんばんは」という夜の挨拶が妥当なのだろうけれど、昼間に動物園かどこかで見たせいか、梟の檻の前でつい「こんにちは」と昼間の挨拶をしてしまったというのである。とぼけた面白みのある句だ。

〈ふくろふ〉〈してしまふ〉という歴史的かなづかいの「ふ」が活きていて、掲句ののんびりとした内容が文字からも感じられてくる。

2014年12月13日土曜日

【みみず・ぶっくす06】積みたる貨車は 小津夜景

【みみず・ぶっくす06】 
積みたる貨車は 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 06】積みたる貨車は

氷湖より白い表紙のやうに明け
要のない身にあとがきを冬の薔薇
さらばとふことば時雨るるシェルブール
義戦知る友に仮死なる夜やあらむ
待ちながら神は旅寝のくさまくら
しろながすくぢら硝子のしらほねら
寒に触れかんざしに彫るフローラを
宵越しの風花もたぬ足裏かな
ぼろぼろのマントを脱がむ逝かば先づ
ふゆいちご去りて檻なる日向へと

2014年12月12日金曜日

●金曜日の川柳〔星野光一〕樋口由紀子



樋口由紀子






今日も銀座の一角に佇ち、開けゴマ

星野光一 (ほしの・こういち) 1927~

アラビアン・ナイトのアリ・ババと40人の盗賊が「開けゴマ」と唱えると盗んだ宝物が隠されて洞窟が開く。魔法の言葉である。

笑ってしまった。掲句を読んで、ユニークでわざととぼけた行動をする、こんな人は必ず存在すると思った。夢とユーモアがあって、いいなあ、こんな人。寂寥感も含んでいる。

場所設定が絶妙だ。クリスマス前の銀座はさぞ華やかに賑わっているだろうと地方に住んでいて思う。かっての銀座は江戸幕府直轄の銀貨の鋳造・発行所であったところ。その一角に佇って、唱える。「佇つ」だから、しばらくその場に立ち止まってだろう。もちろん、扉が開いてお宝が出てくることはまずない。でも、でも、ひょっとしたらなにかが起こるかもしれない。だから、「今日も」なのだろう。

〈雪だるまに そら恐ろしき目を与う〉〈朝 昼 夜 豚に雌雄のある限り〉 『川柳新書』(昭和31年刊)所収。

2014年12月11日木曜日

●大仏

大仏

大仏に袈裟掛にある冬日かな  一茶

大仏にひたすら雪の降る日かな  飯田龍太

大仏の冬日は山に移りけり  星野立子

うららかに美男大仏どじようひげ  橋本夢道

大仏に草餅あげて戻りけり  正岡子規


2014年12月10日水曜日

●水曜日の一句〔猪俣千代子〕関悦史



関悦史








白梟頸回さねば白づくめ  猪俣千代子


梟というと闇夜に啼く猛禽というやや不気味なイメージがあるためか、いわゆる写生的な句よりも、例えば加藤楸邨の《ふくろふに真紅の手毬つかれをり》のように、内面に食い込む幻想的な詠み方をされたものに印象的な句が多い。

「白梟」となると例句を思いつかないので検索してみると《閉じる眼の向うが遥か白梟》花谷清や、《略歴に白梟と暮らせしこと》水口圭子といった作が出てくる。いずれにしても体内感覚や自意識とのかかわりを詠んだ句である。

掲句はあまりそういう要素がなくて、ただただ白梟というものの独自の姿かたちに無邪気に興じている印象。

鳥類としては頭部が大きい、マトリョーシカか何かのようなシルエットを持つ、白いもこもこの羽毛の塊。そして不意に思いもかけぬ角度に回りこんでこちらを見る頸。

「回さねば」とあるので、後ろ姿の印象が強くなる。目鼻もない「白づくめ」の妙な物体にたやすく化けてしまうナンセンス味が面白く、それで白梟の造化の不思議さと愛嬌が伝わってくる。

句集全体としては真面目に構えた佳句も少なくないのだが、この句は物見遊山的なまなざしが妙なものに出くわした心の弾みがすんなり出ているのがよい。

作者の猪俣千代子さんはおととい12月8日、92歳で逝去された。


句集『八十八夜』(2014.11 角川学芸出版)所収。

2014年12月8日月曜日

●月曜日の一句〔宇多喜代子〕相子智恵



相子智恵







生前の冬に紛るる死後の冬  宇多喜代子

宇多喜代子俳句集成』に収められた最新句集となる第七句集『円心』より。

この句が詠まれた2012年の冬はもちろん、2014年であるこの冬も、生きている限りは〈生前の冬〉である。そこに〈死後の冬〉が紛れるとはどういうことだろうか。自分自身が今を生きている中で、未来である死後の自分が紛れているように感じているのだろうか。または自分と限定せず、私たちを含めた生者が過ごす〈生前の冬〉の中に、多くの死者の〈死後の冬〉が紛れているのだと読むこともできる。

生前と死後の自分を描いたとすれば未来までの「時間」を詠んだことになり、現在における生者と死者を描いたのなら、目に見える生者の世界にとどまらない、死者の世界とのパラレルワールド的な「空間」を詠んだことになる。そのどちらにせよ、生と死は時間的にも空間的にも触れ合うところにある近しいものとして、ここでは描かれている。

句集『円心』には震災の影響を受けた、死のにおいを感じさせる句が多い。一方で〈夏夕焼授乳の母を円心に〉〈秋風や人類の史は赤子の史〉といった、生のはじまりに目を向けた句も目立つ。生と死という、人間の根源を見つめた句集であると思った。

掲句は生の中に死を見る、ひたひたと淋しい冬の句ではあるが、同時に生前と死後が近しく描かれていることによる、一種の心強さのようなものも、私は感じるのである。

2014年12月6日土曜日

【みみず・ぶっくす05】3つのマント 小津夜景

【みみず・ぶっくす05】3つのマント 小津夜景



小津夜景
【みみず・ぶっくす 05】3つのマント

1 オホーツク・エトピリカ篇

冬の陽をふちどり虹といふ寝息
海鳴りがある貌のない音信に
湯冷めして割れん大地や鉄路鳴く
北風よ髪はとかずて馳せ参ず
犬橇の手は温くしてほのしづか
しはぶきのやうな袋が飛んでゐる
なみがしらなみだをまばらなしながら
ボルシェビキなるは肋のことなるか
神去りしことを光のマントかな
冬鳥のこゑが好きよとゆうてみる

2 フリードリヒ・ヘンデル篇

うたたねに死父のぬかるむ冬館
声楽家冬の虫歯をひつこぬく
つはぶきを娶りバロック晩餐会
枯野より寒いメニュウを読んでをり
火の番のシェフや織りなす肉の罠
ティンパニで食べるごはんの怖さかな
サラバンドなまこはうまく踊れない
エクレアをエロイカ的な鬘と思ふ
ねぐらまで食パン抱いてももんがよ
三分のマントで旅をしてをりぬ

3 フォトグラム・エクリ篇

過ぎ去りし時のマントを垂らしをり
くつがへす雪ぞすべなく陽を恋ひて
独りにしあればふいよるどふうの影
カトレアを光を耳に切り落とす
すずしろは透きとほり夜の餌となる
掌にかろき夜半の風花うすみどり
冬ざれがわたしの貌をおぼろにす
しまくまだその窓にゐてほむらなり
まかがやく葱のごとくに眠るかな
冬鹿の家族に瞠つめられてゐる

2014年12月5日金曜日

●金曜日の川柳〔岩村憲治〕樋口由紀子



樋口由紀子






日常よ鷗ととべば撃たれるか

岩村憲治 (いわむら・けんじ) 1938~2001

日常とはなんだろうか。生まれ出てしまったからには否が応でも日々を暮していかねばならない。広大な海を自在に優雅に飛ぶ鷗のように、鷗と飛んでみたいと思ったことのある人はたくさんいるだろう。

「撃たれるか」が切ない。とぶ、つまり、そんな夢を見て、未知に賭けると、日常に戻れなくなる。それを作者は痛いほど知っている。日々の暮らしから離脱して、とぶという緊張に捉まりたい。けれども、何事に捉われることなく、つつがなく、平凡に遣り過していく、日常とはそういうものである。「撃たれるか」の諦観が胸にこたえる。

〈どこへ行くバケツの中に海持って〉〈仲間が死んでなんで蝶々がとんでいる〉〈うかうかと素顔になって魚釣り〉 「新京都」(1982年刊)収録。 

2014年12月4日木曜日

〔人名さん〕車谷長吉

〔人名さん〕
車谷長吉

『赤き毛皮』(2009年9月20日・金雀枝舎)より

車谷長吉といふ冬野かな  柴田千晶


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2014年12月3日水曜日

●水曜日の一句〔深代響〕関悦史



関悦史








空の奥に
昼顔は去り

漂流市民
  深代 響


多行形式に限らず、前衛風の様式の句では、負性を帯びた言葉が使われることが少なくない。それが孤立意識と結びついて自己陶酔に近いセンチメンタルな句となったり、降霊術じみた句になったりする場合もある。

この句にも「去り」「漂流」と負性を帯びた語がないわけではないのだが、一句全体としては言葉同士のモビールのような軽やかさのうちに力と緊張が組織化されている。

まず注意すべきは「空の奥」という言葉だ。「空の果て」ではない。仮に「果て」とした場合、「昼顔」と地に残されたものとの間には断絶しかなく、地に残されたものは救いがたく鈍重な重力にとらわれることになる。ところがそこに「奥」という求心性を持った言葉が置かれると、空の彼方と地に残されたものとの間にピンと一本の張力がはりつめ、その張力がゆきわたった広大な空間が一句の中心を占めることになるのだ。

地に咲いていたはずの「昼顔」は「空の奥に」去った。おそらくは静かに。

ジョージア・オキーフの絵にクローズアップされすぎた結果、それ自ら宇宙のようになってしまった花がしばしばあらわれるが、この句にもそうした、凝視が非実体の領域まで柔らかくつきぬけるようなコスモロジーが感じられる。

そうした諸力の配置がはじめの二行で提示され、一行の空白による場面転換あるいは放心のようなものを挟んで、地に残されたのが何ものなのかが明らかとなる。「漂流市民」である。「空の奥に」「去り」という言葉による位置関係の呈示から、「漂流市民」は少なくとも一度は地に残されたものと思われる。

「昼顔」のうすさ、あやしさを通じて「空の奥」とのコスモロジーに触れてしまったものは、地にありながらか、あるいは「昼顔」を空の奥へと追いながらか、いずれにしても漂流するしかない。だが彼/彼女は漂流しながらも「市民」という社会的・行政的な位置づけに留まることをやめないのだ。

光瀬龍の無常観に満たされた宇宙植民SFに似た気配が漂ってくるのは、ここからである。この「市民」が属する社会的・行政的組織体が、非実体的なものをも含むコスモロジーのなかに存在し、機能しているように見えてくるのだ。ここまで来ると「市」と「市民」個人との区別もやや曖昧となってくる。倫理的で独立心に富んだ個人を思わせる「市民」という語は、しかし明確な個性を感じさせることはない。「市民」(たち)が「漂流」しているとばかりではなく、「漂流市」の「民」という読み方も一句の奥に透けてみえてくるのである。

いや、ここまでの読み方と、別な読み方もありうる。

「昼顔」と「漂流市民」とは別個の存在ではなく、「空の奥」へ去った「昼顔」が「漂流市民」となったと見ることも可能なのだ。句の語り手はその一部始終を地上で見届け、報告しているとも取れるのである。

語り手は「漂流市民」自身なのか、それとも別な何ものかなのか、また「昼顔」が「漂流市民」となったとして、彼らは単数なのか複数なのかは判然とはせず、その自他の区別の曖昧な、おのおののありよう=解釈が透けながら幾重にも重なり合っている、寄る辺なくも美しいさまをこの句は示している。

透けるように薄く萎れやすい花を、一本の蔓でつながりあいながらそこここに幾つも咲かせる「昼顔」が選ばれたのは、この句においては必然的であったのだ。


句集『雨のバルコン』(2014.11 鬣の会)所収。

2014年12月1日月曜日

●月曜日の一句〔岩崎信子〕相子智恵



相子智恵







寒卵蛇の供物として売らる  岩崎信子

句集『幻燈』(2014.10 ふらんす堂)より

寒中に産んだ鶏の卵〈寒卵〉は産卵数が少なく、栄養豊富で生で食べるのが良いとされ、昔は珍重されてきた。しかし現代では卵は安定的にいつでも食べられるようになったため、実際の〈寒卵〉の感覚は想像するしかない。そのような季語である。

掲句はそんな状況にある寒卵という季語の本意を、人間以外が食べるという意外な内容によって照らし出している。供物が売られているくらいだから、この蛇は神鶏のように神の使いとして飼われているのだろう。そんな特別な蛇に、栄養豊富な寒卵を供える。ここでは寒卵が活きているばかりでなく、不思議な力さえみなぎっている。

2014年11月29日土曜日

【みみず・ぶっくす04】果て近き秋 小津夜景

【みみず・ぶっくす04】果て近き秋 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 04】果て近き秋

つばさなき肺や膨らす秋の暮
梨をむく指に手紙のあふれたり
音も秋はかろき傷のやうに笑ふ
鹿の恋瞠るあらくれ坊主かな
酔郷や死にゆくものに荻の髷
逆巻くも絮は前科を身ごもらず
その昔絶えて鼓膜を航くことり
今を離れ此処に恋しき火を抱く
そよと笑む淵より龍を引き揚げて
存在の軽さと草を闘はす

2014年11月28日金曜日

●金曜日の川柳〔田中明治〕樋口由紀子



樋口由紀子






マネキンは手をあげたまま夜が来る

田中明治

明りの消えた商店街の店舗の前や裏に用済みになったマネキンが無造作に積まれているのを何度か見たことがある。店頭で綺麗に着飾っているマネキンは華やかで美しいが、役の終えたマネキンはなんとも侘しい。

そのほとんどのマネキンは手をあげている。洋服の着脱のためだろうが、動作の途中で無理やり止められたような、誰かに助けを求めているように見える。しかし、マネキンに足を止める人はほとんどいない。

夜が来て、あたりはさらに暗くなり、マネキンが手をあげて呼んでいるのも気づかれない。マネキンは手をあげたままでどこかに連れていかれるのだろうか。マネキンに自分自身を投影している。夜が来て作者とマネキンの距離はぐっと縮まる。

2014年11月26日水曜日

●水曜日の一句〔岡田一実〕関悦史



関悦史








入学試験四部屋に分かれゐて心臓  岡田一実

入学試験から心臓への連想、これは一応常識の範囲内である。緊張でどきどきしているのだろうと大体誰もが思うはずだ。

ところが「四部屋に分かれゐて」が曲者で、「入学試験」の会場のこととも「心臓」の四つの部屋、つまり右心房・右心室・左心房・左心室のこととも、どちらとも取れてしまう。

これで試験の緊張による動悸という当たり前の線は薄れ、句は奇妙な迷宮に入り込んでいく。

句を頭から読み下していけば、入学試験会場についた受験生が四部屋に分かれた会場のいずれかへと入っていくイメージが浮かぶのだが、そうすると最後に不意に「心臓」があらわれ、それが「四部屋に分かれゐて」へと遡及していって、心臓のなかに試験会場があるようなシュルレアリスティックな捩れが生じるのである。

いやそれでも常識的な読みを重視する人は、四部屋に分かれた試験会場へと進んでいくにつれ、次第に緊張が高まって、自分の心臓が意識されはじめたと取るのかもしれない。それはそれであり得ない読み方ではないのだが(ほかに「入学試験」ではっきり切れ、「四部屋に分かれ」ている「心臓」という常識的な事柄と取り合わせられているという読み方も一応はあり得るが、これは「ゐて」のバネを殺してしまう。「四部屋に分かれゐる心臓」ではないのだ)。

「入学試験」は季語としては春である。この句を読む者がいま現在入学試験の最中であるということは通常あり得ないから、記憶または入学試験というものの漠然とした印象と、季語の秩序においては春であるというバイアスから句の世界を構成することになる。

するとそこから読者は、何やらなまあたたかい、建物とも臓器のなかともつかない、それでいて整然と分けられたことによる妙な清潔感の漂う時空をさまようことになるのである。最近たまたま精神分析学者・立木康介の『露出せよ、と現代文明は言う』本で《身体のない存在に無意識はない》という文言を目にしたが、その辺の機微に期せずして触れている句のような気もする。


句集『境界 -border- 』(2014.11 マルコボ.コム)所収。

2014年11月24日月曜日

●月曜日の一句〔鴇田智哉〕相子智恵



相子智恵







ひだまりを手袋がすり抜けてゆく  鴇田智哉

句集『凧と円柱』(2014.9 ふらんす堂)より

写生句である。けれども俳句として立ちあがった言葉からは、作者が描いた風景を読者が自分の経験に照らして脳裏に再現することはできない。現実であるのに抽象的で不思議な世界が開けているからだ。それでも、写生の質感、感覚は十分に残っている。いわゆる写生句とは違う、不可逆的な「超写生」とでも言いたくなる句だ。

〈手袋がすり抜けてゆく〉とあるが、手袋をした「人物」は、おそらくいたのだろう。手袋をじっと見つめたことで人物は消え去り、手袋だけが浮かび上がる。ほかに冬の句でいえば〈棒で字が書かれてゆきぬ冬の暮〉〈靴ふたつその上にたちあがる冬〉などという句もあって、手袋からも棒の先からも靴からも、主体の人間はふっと消えている。主体がその痕跡を残しながらも消えている「透明な句」が本句集にはいくつもあって、それが喪失感と不思議な安らかさをもたらしている。読んでいるうちに、心がひたひたと現実から遥か遠いところまで流され、いつのまにか淋しく、うす明るく、穏やかな場所に出ている。そんな稀有な読後感の句集である。

掲句は〈ひだまり〉が暖かくて、たとえばこの手袋が毛糸の手袋だとしたら、喪失感がありながらも優しい、やや屈折した童話のような手触りがある。

2014年11月22日土曜日

【みみず・ぶっくす03】蔦の手帖 小津夜景

【みみず・ぶっくす03】蔦の手帖 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 03】蔦の手帖

石ころと暮らして蔦の手帖かな
なんとなう忘れがたみぞ額に露
黄落の蕩いでこゑのあかるみぬ
戸は萩にわれは仮寝に酔うてをり
夜の桃と見れば乙女のされかうべ
指を折り数へよ噓に棲む鳥を
火を恋はばひらく薬香わがものに
ゆく秋の虹を義足に呉れないか
その日より霧のグラスとなりにけり
いさよひの紙にながるるのは雲か

2014年11月21日金曜日

●金曜日の川柳〔三浦蒼鬼〕樋口由紀子



樋口由紀子






梟になれるポイント貯めている

三浦蒼鬼 (みうら・そうき) 1956~

ポイント社会である。財布はポイント券のカードが溢れて、ぱんぱんに膨れ上がっている。ガソリンを買ってもパンを買っても、ネットで買い物をしても、なんでもかんでもポイントが付く世の中である。ポイントが貯まって、値引きしてもらったり、モノと交換してもらうと、得したような気になる。確かに得をしているのだが、ポイントに振り回されているようにも感じる。

「梟」は比喩としても読めるが、私は「梟」そのものとして読んだ。梟は止まり木でじっと見ていて、不思議な雰囲気があり、得体のしれなさがある。変身願望の一つとしてはありかもしれない。でも、ポイントを貯めてまで、しいてなりたいだろうか。現実的かもしれないが、私は夜出て、ノネズミなんか捕りたくない。がんばってポイントを貯めても梟だったら、パスして、もういいかなと思う。ポイント社会を揶揄しているとも読める。「おかじょうき」(2014年11月号)収録。

2014年11月19日水曜日

●水曜日の一句〔甲斐一敏〕関悦史



関悦史








うみみぞれれくいえむ聴く海鼠かな  甲斐一敏

「うみ」「みぞれ」「れくいえむ」と、しりとりからレクイエムが出てきて、それを海鼠が聴く図に転じる。

この海鼠はどこにいると取るべきか。

海から上げられ、室内で調理される寸前となると音楽が聞こえていても不自然ではなくなるが、レクイエムがやや意味でつきすぎとなる。一方、海の中で聴いていると取るとモチーフ全体があまり締まらない想像画となる。

別な解釈として、語り手(人間)が自分を海鼠に見立てているという取り方もあるが、これはこれでみぞれる海の存在感が消えてしまう。

この句はもともと「うみ」と「海鼠」が近く、「みぞれ」と「海鼠」が季重なり、「みぞれ」と「れくいえむ」も情調的に遠くないので、しりとりのわりには飛躍がなく、荘重なレクイエムを聴く海鼠というイメージの滑稽味に句の価値のかなりの部分がかかっている(言い換えれば、一句が意味性中心に構成されている)ので、なるべく即物性を回復させたい。やはり海鼠は室内にいるととるべきか。

句集全体としては、作者が先に興じ過ぎで文体に締まりがない句や、定型感覚の裏打ちのない字余り・字足らずの句が多かったのだが、この句はぴったり定型に収まり、「かな」止めで「海鼠」が打ち出されている分、「れくいえむ聴く」の滑稽が浮かず、みぞれる海と海鼠との大小(または遠近)の対比による実体感のなかに余裕を持って引き留められた句となり得ている。

せっかくしりとりになっているのだから「うみみぞれ」を単なる状況設定と読むのではなく、一度切り離し、「うみ」の波音、「みぞれ」の降る音、「れくいえむ」の三つを同時に海鼠が聴いていると取った方が、海鼠に集中する広大なもの複雑なものの度合いが増すのかもしれず、そうなればもはや海鼠がどこにいるかなど気にもならなくなるが、句中の「海鼠」はもっとちんまりとした風情に見えるし、そちらの味はそちらの味で捨てがたい。


句集『忘憂目録』(2014.11 ふらんす堂)所収。

2014年11月18日火曜日

【柳誌拝読】『Senryu So』第6号/終刊号(2014年秋)

【柳誌拝読】
『Senryu So』第6号/終刊号(2014年秋)

西原天気


同人3氏(石川街子、妹尾凛、八上桐子)の作品に、終刊号は柳本々々氏をゲストに迎えている。

A6判(105×148mm)、てのひらサイズ。


広げるとA3判。表裏ともにカラー。



返送されてき来た手紙から雪が舞う  石川街子

葬送のからだを包むシャボン玉  妹尾凛

一本のみじかい紐になる真昼  八上桐子

詩的成分の濃い句においては、現代川柳と俳句は、かなり近い感じになるという印象。

ゲスト作品からいくつか。

句読点煮込んだよるにすこし浮く  柳本々々

信号でめがねをはずすぬるい虹  同

ねえ、夢で、醤油借りたの俺ですか?  同

〈語のはたらき〉という点で刺激的な句群。

さらに八上桐子「からだから」の身体モチーフに惹かれた。湿るでも乾くでもない、不思議な質感。

ねむたげにオカリナの口欠けている  八上桐子

くちびるへ手鏡の海かたむける  同

瞳孔にひしめきあっている檸檬  同



柳本々々:顔パンチされる機関車トーマス 柳誌『Senryu So』から湊圭史の一句

2014年11月17日月曜日

●月曜日の一句〔森泉理文〕相子智恵



相子智恵







ストーブを部分解禁する朝  森泉理文

句集『春風』(2014.11 邑書林)より

天気予報で「明日の朝は今年一番の冷え込みになるでしょう」というセリフが聞こえはじめる頃、掲句はそんな初冬の句だろう。ことに冷え込みの強いある朝。でもこれからはもっと寒くなるのだから、その寒さに備えるためにも、ここは暖房を使わずにしのぐべきか、それとも使ってしまおうか……暖房を使い始める日に迷うのは、多くの人が経験のあるところだ。

そこで作者が取ったのはストーブの〈部分解禁〉である。一部屋だけ使おう、といったところだろうか。ストーブという些細なものに〈解禁〉という言葉を使ったり、朝をあしたと読ませるようなどこか大げさな物言いに俳味があり、くすりと笑わせられる。とうとう暖房を解禁するぞという、誰にでもない自分への宣言は滑稽でありながら、多くの人にとって「あるある感」があるのである。

2014年11月15日土曜日

【みみず・ぶっくす02】見物小屋の目覚めから 小津夜景

【みみず・ぶっくす02】見物小屋の目覚めから 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 02】見物小屋の目覚めから

見えぬ手が見ゆる手を愛す秋の山羊
ひんやりと生クリームの立ちにけり
うたかたと桃の古風なかくれんぼ
自閉症ぎみのきのこを抱きよせる
在りし日のブローティガンを芒かな
秋は帆も指したり名指しえぬものを
さるびやの火のあばらやはほねとなる
とびてゆかましよとびらよありがたう
棹さしてくらんくらんと月の酔ふ
かほのない水底なりし電話かな

2014年11月14日金曜日

●金曜日の川柳〔むさし〕樋口由紀子



樋口由紀子






夜へ夜へ転がってゆく僕のフタ

むさし (1949~)

川柳の前身は前句附けで、前句題による附句が独立してはじまった文芸である。現在もそれを受け継いでいて、事前に与えられた課題に基づいて競吟することが一般的である。句会で題のもとでは生き生きしていた句が題を外れて句集に纏めると一気に力が弱くなるとも言われる。むさしは「書く句のほとんどは題詠である」と言い切る。掲句の題は「夜」。

「夜」と「フタ」の組み合わせがポイント。「フタ」で言葉の味が出た。中身や器そのものに比べて、どうってことないと思っていた「フタ」の存在感は一気に上昇する。川柳の「見つけ」である。フタは軽くて油断するとすぐに転がる。それも転がっていくのは「僕のフタ」。フタのとれた僕はどうなるのだろう。フタを追いかけて、一緒に夜へ転がっていくのだろうか。

〈釘抜きが頭の中に落ちている〉〈足の裏たどって行けば鼻がある〉〈化けそこねまだ熊である下半身〉 むさし句集『亀裂』(東奥日報社 2014年刊)

2014年11月12日水曜日

●水曜日の一句〔森泉理文〕関悦史



関悦史








春光の畑に回す洗濯機  森泉理文

今でもたまに見かける屋外に設置された洗濯機だが、どちらかというと田舎の、それもあまり裕福そうではない家の風情である。「回す」がなければまず野外に捨てられた廃家電に見えてしまうはずだ。回っているので現役とわかるだけでなく、家のすぐそばに家庭菜園どころではないれっきとした畑が広がる土地柄であるらしいこともわかる。

「春光」という大まかな季語の付け方が奏功していて、畑の作物の何やかやを季語に持ってきたのでは得られない大画面の殴り書きのような力が出た。しかし粗暴ではなく、あえて乱暴にしてみたという作為もない。「素朴さ」について中野重治がどこかで「中身の詰まった感じ」といっていたと思うが、そうした素朴さがある。

その中身の詰まった感じをもたらしているのが「回る」ではない「回す」である。「回る」であればただ事・報告句となる。「春光」の「畑」での「回す」に、張りのある逞しい暮らしぶりが感じられる。逞しいとはいってもピカソの半裸姿やメキシコの現代壁画などよりは、単なる日用品としての厚手の土器のような手応えを感じさせる句である。


句集『春風』(2014.11 邑書林)所収。

2014年11月10日月曜日

●月曜日の一句〔岡本紗矢〕相子智恵



相子智恵







四十億年過ぎて我あり流氷と  岡本紗矢

句集『向日葵の午後』(2014.6 ふらんす堂)より

四十億年は、地球に生命が誕生してからの時間だ。その40億年が過ぎた果てに自分がいる。いま眺めている流氷とともに、ということだろう。

生命があるということは、水があるということ。流氷はそこで〈四十億年過ぎて我あり〉の世界と通底しているように思う。

さらに、この句を読んで生物の授業で習った「進化の系統樹」を思い出した。進化しつつ分化していった果ての、人類の我。同じく春になって大きな氷の塊が融け、分離、浮遊してきた流氷。分かれていつの間にか流れついた存在……一句からは、そんな寄る辺なさのようなものまで感じるのである。

2014年11月9日日曜日

【みみず・ぶっくす01】音楽と曲芸 小津夜景

【みみず・ぶっくす01】音楽と曲芸 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 01】音楽と曲芸

秋の音の古い金具となりにけり
龍淵に潜むテーブルクロスかな
花園にあかるい椅子のある暮らし
晴れた日は覗き穴より木々をみる
ガーゼには鶉を包む木の時間
ものろおぐ編む音楽のごときもの
こゑといふこゑのえのころ草となる
あらぬ日はひかりもふりてゆくものよ
空壜のあらはれ宵の底となり
靴音のきれいな月と隣りあふ

2014年11月7日金曜日

●金曜日の川柳〔徳山泰子〕樋口由紀子



樋口由紀子






無理やりに割り込むおばちゃんがいて満月

徳山泰子 (とくやま・やすこ) 1948~

やっと前の席が空きそう。今日は仕事で疲れていたので立っているのがしんどい。前に座っている人が次の駅で降りてほしいとずっと願っていた。やっと座れる。がーん、おばちゃんが割り込んできた。わあっ~最悪。でも、しかたない。あきらめて、おばちゃんの頭越しに窓の外を見たら、満月。今日は満月だったのか。なんか、得をした気分。満月って、ほんとにかっこいい。

割り込んでくるおばちゃんがいるのもこの世、満月が見えるのもこの世。満月も現実だけれど、どこか現実離れしている。何事が起こっても、何事もなかったように、悠々として満月はある。生きていくには満月のようにはなかなかいかない。でも、満月を見ていると、心が落ち着く。おばちゃんも疲れていたのだ。そういえば、おばちゃんのお尻も満月もまんまる。さあ、早く家に帰ってお風呂に入ろう。「浪速の芭蕉祭」(2014年刊 鷽の会)収録。

2014年11月6日木曜日

2014年11月5日水曜日

●水曜日の一句〔大峯あきら〕関悦史



関悦史








大寺をとり巻く秋の草となる  大峯あきら

何が秋の草となったのか、主語が省略され、空白になっている。そこに正体の特定しがたい生気が入り込む。

単に少ししか生えていなかった草が、いつの間にか大寺をとり巻くほどに蔓延ったというのが現物に引きつけての常識的な解釈だろうが、「大寺をとり巻く秋の草」となったのは「私」かもしれないし、他の何かとも考えられる。「大寺」がはらむ連想範囲からすれば、「仏」や「仏性」や「死者」や「縁起」や「空」その他かもしれない。句の言葉はそのように組織されている。

重要なのはこの「秋の草」がそれらのいずれでもありうる潜勢力を持ちつつ、しかし何とも特定し得ないことであって、その何ともしれない空白が「大寺」の周囲を占めるほどの規模の生命体の群れとなり、「とり巻く」という円環性のしなやかな運動を完結させたことからくる充足感は、アルカイックスマイルを浮かべた仏像にでも対面しているかのような軽い不気味さを秘めており、それでいながら句は清澄に静まりかえっている。理が徹っていながら、その理が単純明快さのなかに揮発し、豊かに澄んだ妖気に転じおおせている句で、こういう作はこの作者の独擅場であろう。


句集『短夜』(2014.9 角川学芸出版)所収。

2014年11月4日火曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。

2014年11月3日月曜日

●月曜日の一句〔川本美佐子〕相子智恵



相子智恵







音の無き象の歩みや秋深し  川本美佐子

句集『水を買う』(2014.9 ふらんす堂)より

〈音の無き象の歩み〉と言われてハッとしたが、そういえば動物園で見た記憶をたどると、蹄のある馬などの動物とは違って、象はたしかに足音の記憶がない。世界一重くて大きな動物である象。その重い体を支える足音が無音であることに、しみじみとした切なさを感じる。

季語の「秋深し」によって、そのしみじみとした感じがさらに増しているのだろう。象の故郷である地域には秋と呼べるような季節はないだろうから、故郷から遠くなはれた日本の動物園で秋が深まっているのだ。囲われて飼われている象の上に広がる秋の空は、広くて高い。

大きな象のゆっくりとした静かな歩みと、秋の深まりという時の流れに、虚子の「年を以て巨人としたり歩み去る」という句をふと思い出したりもする。静かに心に染み入る、晩秋の一句である。

2014年11月2日日曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 句集の読み方 その1・付箋 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その1・付箋

西原天気



句集を読むとき気に入った句などの上に付箋をするのはごく一般的です。SNSなどでその様子を拝見することもあるのですが、幅広の付箋がぐちゃっと重なっていたりして、「あ~あ、そうじゃないんだよなあ」と思うこと、多いですよ。

付箋は、こうありたいものです。


ソレ用にちっちゃい付箋を買っておかなくちゃあいけません。




2014年10月31日金曜日

●金曜日の川柳〔八木千代〕樋口由紀子



樋口由紀子






まだ言えないが蛍の宿はつきとめた

八木千代 (やぎ・ちよ) 1924~

生活していく中で、「まだ言えない」「今は言えない」ことがわりとたくさんある。「つきとめた」のだから、やっとわかったのだ。そう簡単にわかることではないことがようやく判明した。しかし、「まだ言えない」。それも「蛍の宿」であるから、かなり意味深である。しかし、感情に流されるのではなく、理知的に判断している。

どういういきさつがあったのだろうか。つきとめようの思ったときから言わないでおこうと決めたときまでの時間の経緯、心の変遷。動詞がうまく機能している。少々複雑な内実がありそうだが、情念に流されることなく、客観的に見る冷静さ、心の動揺をうまくまとめている。『椿守』(葉文館出版 1999年刊)

2014年10月30日木曜日

●いわき市復興支援プロジェクト傳 カレンダー・いわきガイドブック頒布のご案内

いわき市復興支援プロジェクト傳
カレンダー・いわきガイドブック頒布のご案内

http://project-den.com/menu/TOP.html




申込メール ≫project_den@me.com

郵送 171-0021 東京都豊島区西池袋5-5-21-419 山崎祐子

2014年10月29日水曜日

●水曜日の一句〔望月周〕関悦史



関悦史








同じ木のふたつとあらぬ茂かな  望月 周

木の茂り全体を漠然と見ている目がやがて木の一本一本に移り、さらにはそれぞれの枝ぶりを追うようになる。そのときあらわれてくるのが「同じ木のふたつとあらぬ」という認識と感嘆なのだ。

皆違うということ自体は当たり前の一般論に過ぎない。その一般論が俳句になるために目が要した時間と動き、それが句の背後にあるのである。

そこから浮き上がってきた同じパターンに束ねることのできない無限の複雑さは、「自然の偉大さ」や「みんな違ってみんないい」といったメッセージに容易に接近してしまいもするのだが、一句はそうした出来あいのメッセージをすり抜けつつ、目の前の枝葉が織りなすパターンの無限性のみを、見慣れた風景から引き出していく。

現前する無限は畏怖や崇高の感覚を呼び起こす。呼び起こしはするが、意識されることがなければ、それは何の変哲もない茂りに過ぎない。目の前にある当たり前のものが不意にその意味と潜勢力を変えていく驚異に触れつつ、それを「かな」で無害な感慨へと収め込み、切り離す。平易な言葉のなかに、そうした認識と感情の運動がひそんでいる句。


句集『白月』(2014.9 文學の森)所収。

2014年10月27日月曜日

●月曜日の一句〔大峯あきら〕相子智恵



相子智恵







ことごとく大根引かれ大月夜  大峯あきら

句集『短夜』(2014.9 角川学芸出版)より

畝から抜かれた大根が、そのまま畝の上に置かれている収穫途中の風景だろう。土の上に大根がびっしりと横たえられている。

夜になった。見事な月夜だ。無数の大根たちは白々と月に照らされる。そこには身近な野菜である大根のもつ生活感はなく、大根はただそこにある物体として、白いオブジェのように冷たく光っている。

収穫の風景としては、引かれた大根が並んでいるのは珍しくはないのだが、月夜だからか〈ことごとく〉がどこか狂気めいて感じられ、それがとても美しい。大根の下には、月の光が届かない、無数の大根が抜けた穴が真っ暗に開いている。

2014年10月25日土曜日

●角川俳句賞・落選展、応募締め切りは、明日26日いっぱい

角川俳句賞・落選展、
応募締め切りは、明日26日いっぱい

お知らせはこちら↓
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/09/2-0-1-4.html

2014年10月24日金曜日

●金曜日の川柳〔梅村暦郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






にんげんの胃袋から人間の骨

梅村暦郎 (うめむら・れきろう) 1933~

強い表現にどきりとする。怪奇ものではない。社会性川柳である。最後の「骨」に胸を突かれる。「骨」だからすでに死んでいる、殺されたのだろうか。「にんげん」と「人間」と表記が使い分けられている。「にんげん」でいた人、「人間」にならざるをえなかった人、どちらも人である。

昭和33年の作。昭和31年の経済白書の結語に「もはや戦後ではない」と記された。その頃から日本は高度経済成長の国へと邁進していく。人が人の犠牲の上で経済を発展させていく社会を批判した。それは現在に通じる。

梅村暦郎は〈月のない深夜に 虹の種子を蒔く〉〈汽車停る 昨日と同じ暮景にて〉のような抒情的川柳を書いていた。掲句のような川柳を書かねばならないと思ったのだろう。