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2018年7月15日日曜日

〔週末俳句〕不審者っぽい 村田篠

〔週末俳句〕
不審者っぽい

村田 篠


「庭に河骨の花が一輪咲いたから、見てきたら?」と母が言う。見にゆくと、黄色いつぼみがひとつ。家に入って「可愛いね」と報告したら、母は「お父さんに言っても反応がないから」と言った。私が反応したことがうれしかったらしい。

高齢の両親のようすを見るために、ときどき田舎へ帰る。といっても、一日中仕事があるわけではなく、すぐにすることはなくなってしまう。田園地帯で遊びに行くところもないので、スマホを持って家を出る。

散歩がてら、周辺の写真を撮っていると、すれ違う人々が怪訝な表情でこちらを見る。田んぼや畑で働いている人たちも、ふと手を止めて様子をうかがう。それはそうだ。田んぼの稲や、畑の茄子やトマトの写真を撮る人なんて、この辺りにはひとりもいない。そんなことをする意味が分からない。この人は、どうしてこんなことをしているの?

いささか不審者っぽい自分の姿を自覚して、思わず笑ってしまう。そうだよね。都会ではあらゆる人がスマホ片手に写真を撮っていても、誰も気にかけない。ここはまだ、そういう人たちが来ない場所。もしかしたら、この先もずっと。

でも私は、この風景たちを撮るのが楽しい。知らないものだってたくさんある。例えば、農道の脇で撮った植物の名前。母に訊いても分からなかった。SNSに上げると岡田由季さんが「ニゲラの種かもしれませんね」と教えて下さった。調べてみたら、その通りだった。

母はニゲラを知らなかったらしい。じつは私も最近までよく知らなかった。観賞用に栽培される花だと思っていたので、農道の脇に無造作に生えていることに少し驚いた。母にもそのことがどうやら不満だったらしく、しばらくいろいろな植物の名前を挙げていたが、やがて「そんな花があるんだね」と呟いた。




2012年4月24日火曜日

〔俳誌拝読〕『鏡』第四号(2012年4月)を読む 村田篠

〔俳誌拝読〕
『鏡』第四号(2012年4月)を読む

村田 篠

発行人・寺澤一雄。本文48頁。同人作品のほか、散文として谷雅子「慈庵旅日記 稲田の闇を引寄せる」、羽田野令「「鏡」三号を読む」、寺澤一雄「羽田野令の俳句」など。

本誌の中心的存在だった八田木枯氏が3月19日に逝去され、この号に寄せられた14句が氏の最後の作品となってしまった。

我を置き去りに我去る墓参かな  八田木枯

本号掲載のインタビュー「八田木枯戦後私史(2)」(聞き手・中村裕)の中で、現在の俳句の状況について「いまの評論はほめすぎ」「すぐれた編集者の不在」「作家は作品で勝負しなければ」といった主旨の苦言を呈しておられるのが心に残った。お会いしたことはなかったが、文字としてでも、もっともっと氏の発言をお聞きしたかった。ご逝去が悔やまれる。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

以下、同人諸氏の句より。

寒鯉を飼ひ筆舌を尽しけり  八田木枯

不眠症氷柱先まで白濁す
  遠山陽子

雛壇を離れわが顔つるんとす
  大木孝子

銀河鉄道なら間に合った光りかな
  中村十朗

帽子ごと眠つてしまふ翁かな
  東 直子

これもあげるわしやぼん玉吹く道具
  佐藤文香

水光り又わかさぎの釣られけり
  菅野匡夫

消えさうな火星見上ぐる狐かな
  谷 雅子

冬薔薇の果てを紀の国からまはる
  羽田野 令

初地震か我身の揺れか止みにけり
  中村 裕

冴返る琳派ラカン派不受不施派
  大上朝美

春が来て紙屑箱の中の紙
  村井康司

雪搔き分ける儲かりますように
  木綿

春宵を私の馬がついてくる
  佐藤りえ

雪のほか動くものなき真昼かな
  笹木くろえ

隣りから醤油を借りるかひやぐら
  寺澤一雄

風動き己を恃む狩の犬
  森宮保子

2009年9月14日月曜日

●シネマのへそ サブウェイ123 激突 村田篠

シネマのへそ12
『サブウェイ123 激突』 
(2009年 トニー・スコット監督)

村田 篠


ニューヨークの地下鉄でハイジャック事件が起こる。武装グループはペラム駅1時23分発の電車の1両目だけを切り離して立てこもり、乗客19人の身代金としてニューヨーク市長相手に現金1000万ドルを要求する。タイムリミットは1時間後。

ストーリーは明快だ。その日たまたま運行司令官を務めたために事件に巻き込まれる地下鉄職員・ガーバー(デンゼル・ワシントン)と、主犯のライダー(ジョン・トラボルタ)の間で行われる交渉を軸に、ニューヨーク市長や警察の動向、タイムリミット目指して地上を走る現金輸送車のカーチェイス、地下鉄の暴走に至る「ニューヨークのひどい1日」が描かれる。

1973年に公開された『サブウェイ・パニック』のリメイクだが、当時とはまったく変わってしまった通信事情や都市機能をうまく取り込んで再構成されている。ことに、ガーバーにはじつは裏の事情があり、インターネットで偶然それを知ったライダーによって人質の命と引き替えに露わにされてゆくあたりは、スリリングでありつつヒヤリとするような日常性もあって、ぐいぐい引き込まれた。

というわけなのだが、エンドマークが出て劇場をあとにするとき、うっすらと腑に落ちないものが残ったのはどうしてだろうか。

ひとつには、この映画が「謎解き」の機能を果たしていないからだ、という気がする。ガーバーとライダーの間に交わされた会話の内容は、たんに「駆け引き」だったのか、それとも事実なのか。曖昧さが「あえて」なのか脚本の疵なのかは分からないけれども、脚本が『ミスティック・リバー』や『LAコンフィデンシャル』のブライアン・ヘルゲラントと聞くと、あえてドラマティックに仕立てず観客に解釈をゆだねたのか、いう気もする。

もうひとつは、ライダーの人物像だ。悪役としての強烈なインパクトを持ちながら、結局どういう人なのか、話が進むほどにだんだん分からなくなり、分裂してゆく。
トラボルタが大根なのか、演出ミスなのか、はたまたこれも「あえて」なのか。
ガーバーの人物像が明確だったことを考えると、映画はガーバー側、つまり一般市民側の視点で描かれている。思えば、「こちら側」から見たときそこにある「犯人像」というのは、じつはかんたんには理解しがたいものだ。テンタテインメント作品では御法度の「腑に落ちない」ということが、犯人像が見えにくいという都市型犯罪を、かえってリアルに感じさせてくれているようにも思える。

このあたり、もちろん賛否両論はあるだろうけれど。

電車の中で事件の一報を聞いたニューヨーク市長の描写が笑わせる。「車を用意しましたので、次の駅で電車を降りて下さい」という市職員に、「いや、このままいこう。電車の方が早い」と答える市長。「では、現場近くまでノンストップで走らせます」とすかさず答える市職員に、「えー!」と周りの乗客から強烈なブーイング。市長、思わず手を挙げてみなを抑え「分かった、分かった。各停で行こう」。日本では、なかなかこうはいかない、かもしれない。

車で地上を現金輸送していると聞いて「どうしてヘリコプターを使わないんだ」と突っ込んだ一言(だれのセリフか忘れたが)も面白い。あはは、そのとおり。この時代に、旧作どおりの方法を踏襲したオマージュの心意気を思い出させる一言に、拍手。


パニック度 ★★★★
「映像凝りすぎ!」度 ★★★★★

オフィシャルサイト

2009年6月20日土曜日

●シネマのへそ11 サッド・ヴァケイション 村田篠

シネマのへそ11
『サッド・ヴァケイション』 
(2007年 青山真治監督)

村田 篠


つい先だって、『ハゲタカ』の物語性について書いた。この『サッド・ヴァケイション』にも物語はある。けれどもこの映画のそれは、『ハゲタカ』のように人物の行動を裏付けるための物語ではなく、「ただ、そこにある物語」だ。どうしてその人がそうするのかを説明することなく、その人がそこにいて、なにをするのか、どう思うのか、どう変わっていくのか、を伝える。

青山監督の「ただ、そこにある物語」として圧巻だったのは、やっぱり『EUREKA』(2000年)だったと思う。公開時、ほぼ4時間の長尺におののいて劇場へ行かなかったのだけれど、のちにDVDで観て、圧倒された。バスジャック事件に遭遇してしまった主人公たちとその周囲の人たちに起こるできごと、変わってゆく関係、壊れてゆくなにかを淡々と映し出す画面は、もうそれ自体、なんとも得体の知れない「不安」そのものだったが、主人公たちを追うカメラはゆるやかに、促すことも急かすこともなく、見守る速さであり続けたのが印象的だった。

『サッド・ヴァケイション』はその続編という作りだけれど、「不安」から180度の向こう岸にある、奇妙な「ゆるぎなさ」が描かれている。そして、この「ゆるぎなさ」にもまた、説明がない。主人公の母親(石田えりの怖ろしいばかりの怪演)のもつこの「ゆるぎなさ」がどこから来るのかよく分からないまま、観客はそれを見つめるしかない。
それはもしかしたら、「これが女というものか」というくくり方をされたらかなり抵抗を覚えるたぐいの「ゆるぎなさ」なのだけれど、それなのに、「それ」をただ見つめるしかないという愉楽――といって言い過ぎならば、体験――は、もう、どこまでも〈映画〉なのであって、思わずリビングの床に大の字に寝そべってしまうのであった。

それにしても、浅野忠信。分厚くなった顎の線だけで「中年」を体現したのは、監督の手柄か、本人のもつ存在感か。「ただ、映画の中に居続けて」いる役者にとっては、年をとることも「役者としてのありよう」のひとつだ、ということを、しみじみ感じさせてくれた。
「ただ、映画の中に居続ける」役者というと、西島秀俊もそういうタイプ(『2/デュオ』〈1998年 諏訪敦彦監督〉とか『ニンゲン合格』〈1999年 黒沢清監督〉とか、ほんと忘れられない)だと思うけれど、彼の場合はもう少しファンタスティックな部分を残している分、いろんなことができそうな気もする。

どちらも、これからどんどん年をとりながら、どんどん映画に出続けてほしい。


「さすらう男たち」度 ★★★★
「圧倒する女たち」度 ★★★★★


2009年6月12日金曜日

●シネマのへそ10 ハゲタカ 村田篠

シネマのへそ10
『ハゲタカ』 
(2009年 大友啓史監督)

村田 篠


テレビサイズでドラマを観ているときは特に思わなかったのだけれど、映画になってみると、これが「NHKドラマ」であることがしみじみと身にしみる。聞けば、NHKのドラマが映画化されるのは、はじめてなのだそうだ。

なにしろ、人間の描き方がドラマティックなのである。そういえば、映画の中に「日本人は情緒的な民族だ」という中国人のセリフが出てくる。日本人を十把一絡げで評する気は私にはないけれど、少なくとも、このドラマの作りは多分に「情緒的」である。

もしかしたら、「お金」についての物語だからよけいにそうなるのかもしれない。「金儲け」というものに対する心理的反作用がどこかで働いて、それに関わる人々の造型に「この人がこうなったのには、深いワケがあるのだ」という理由を(過去を)つくってしまう。それは非常に昔ながらの「ドラマ作り」の骨法かもしれないけれど、映画サイズになると、どうしてだか過剰なものに映ってしまう。スクリーンの不思議である。

逆に、説明シーンが足りなくて、状況がよく分からないくだりもあった。テレビの連ドラとして観ているとなんとなく分かるのだけれど、2時間尺の映画では、それではキビシイ。


それにしても、せっかくリーマン・ブラザーズの崩壊や派遣雇用問題を意識して盛り込んでいながら、随所でプロットの甘さが感じられたのは残念だ。例えば【以下ネタバレ:白字・マウスでドラッグ】、これだけ互いに情報戦にしのぎを削っているにもかかわらず、主人公・鷲津側が、土壇場で敵役・劉側に打って出る動きを、劉一派はどうして読めないのか、そんなにお間抜けでいいのか、【以上ネタバレ】と感じたのは、私だけだろうか。こういう、日常からかけ離れた話はただでさえ嘘っぽいのだから、きちんと構成されていないとほんとうに嘘っぽくなる。ただもし、これほど「情緒的」でなければ、もしかしたら「経済ファンタジー・ドラマ」として面白くなったのかもしれないけれど。

とはいえ、主人公がタメをつくって決めゼリフを言うようなドラマ、決して嫌いではない。

柴田恭兵「これから、君はどうするんだ」
大森南朋「……見にいくさ、資本主義の焼け野原を」

なんていうラスト近くのやりとりは、私にはひたすら面白かった。

それから、玉山鉄二演じる中国人・劉一華の「出自が貧しく、野心家で、美しい」という造型は、昭和24年組(大島弓子、萩尾望都、山岸凉子)登場以前の少女マンガにおける「ヒール」の典型であって、いやもう、個人的に大いに楽しんでしまったのでありました。


ドラマティック度 ★★★★★
敵役イケメン度 ★★★★★


「ハゲタカ」オフィシャルサイト ≫こちら

2009年4月30日木曜日

〔俳誌拝読〕「や」第50号

〔俳誌拝読〕
 
第50号/記念号・2009春(2009年3月31日発行)58頁



戸松九里氏が発行人を務める季刊誌。

巻頭からひとり1ページ10句ずつの同人作品が掲載されている。上段が俳句、下段が短文という構成で、おひとりおひとりの個性がよく見えるつくりになっている。

  賽銭の光となりぬ初御空  戸松九里

  ゆりかもめ水心とはくすぐつたい  関根誠子

  日の昏るるまでに間のある初戎  菊田一平

  手袋に手袋重ねおく昼餉  麻里伊

  寒波乗せエスカレーターのすれちがふ  三輪初子

  湯たんぽたんぽしっぽの散歩ぽっかぽかぽ  吉野さくら

  行く人は蕎麦屋の湯気のようなもの  中村十朗

  嘘つくとおしやべりになる冬の星  遠藤きよみ

 

続いて、同人外部の執筆者による「『や』49号を読む」が見開き2ページ。本号は坪内稔典氏の選による句評が並ぶ。

そのあとに吟行や各地の句会、特別作品の記事。多くの俳句とともに写真がふんだんに使われていて、見やすい誌面になっている。50号記念企画として、各同人が過去の号から面白い俳句を拾って講評した「なんじゃこりゃ俳句」には、同人の間にある和やかな絆がうかがわれる。

「おそれおおくも やが選ぶ高浜虚子」では、それぞれに虚子の1句を選んでの1句講評。「音を詠む」では、「音」をテーマに詠まれた7人の句が5句ずつが掲載されている。「九里の旅俳」は、戸松九里氏による俳句から少し離れた旅のエッセイで、文末に添えられた戸松氏の1句で俳句と繋がる粋な構成。この号ではセザンヌのアトリエが紹介されている。

 

全体に、それぞれのコーナーに同人が広く参加しておられる印象を受けた。本誌の背景にある和気藹々とした句座の雰囲気が伝わってくる。

(村田 篠)

2009年3月6日金曜日

●シネマのへそ05 ベンジャミン・バトン 村田篠

シネマのへそ05
ネガとポジと
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 
(2008年 デビッド・フィンチャー監督)


村田 篠


ラブストーリーだと思って観ると、荒唐無稽でしかないかもしれない。だいいち、主人公が年齢とともにだんだん若返ってゆく、という設定は、小説やドラマの台本など「物語をつくること」を志した人なら、一度は「なんとかものにしよう」と考えたくなるようなアイデアでもある。

この映画を観ていて、「だんだん老いてゆく人生」より「だんだん若返ってゆく人生」の方がいい、と思う人は、おそらくほとんどいないのではないだろうか。つきつめてしまえば、いずれ最後に待っているのが「死」であるのならば、その経緯がどうであれ、どちらでも同じことだ。問題は、自分以外のすべての人が老いてゆくなかで、自分ひとりだけが若返ってゆく、という特殊性がもたらすものがなんなのか、ということなのだから。

みなが同じ方向へ向かってゆく、ということは、誰もが平等に「未来を知ることができない」ということでもある。永遠などというものはないのだ、と頭では分かっていても、いまの状態はいつか終わってしまうのだ、というようなことを、人はあまり積極的に考えない。

でも、ベンジャミン・バトンは、人が一番最後に行き着くところから、人が誰でも通り過ぎてきたところへ人生が逆行するために、他人とは違う未来をもつことを余儀なくされた。人と出会うことは、ベンジャミンにとっては例外なく「すれちがう」ことだった。いまの状態がいつか終わり、ずっとつづくわけではないことを、わりと人生の早い段階で知ってしまうわけである。

幼い日に出会った初恋の女性・デイジーとベンジャミンとの恋人としての時間が交差するのは、43歳と49歳のときだ。ふたりの時間は重なり、交差して、また離れていってしまう。その幸福な時間はほんの一瞬のように短いのだけれど、遠くない未来にやがて終わってしまうことを知っているがゆえに、きらきらと美しい。

原作がスコット・フィッツジェラルド、と聞いて、ああ、そうか、と思った。このきらめきは『グレート・ギャツビー』を思い出させる。そういえば、ギャツビーが思いを寄せた女の名もデイジーだった。

しかし『グレート・ギャツビー』が「永遠のきらめき」を求めて得られなかった一瞬の夏の物語だったのと対照的に、この話は、永遠につづくものなどないことを知っていた男の一瞬の夏を見せながらも、「決して不幸ではない一生」の物語になっている。ほんとうにまるでネガとポジのように、このふたつの話は照らし合っているのだ。

『グレート・ギャツビー』の有名なラストの一文を思い起こすと、ますますその意を強くするのだが、ちょっと引いてみよう。

 ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に――
 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
(村上春樹訳『グレート・ギャツビー』中央公論新社刊)

なんだかんだいっても、人は、物語を必要とする。私は、そう思う。

ところで、この映画は第一次世界大戦に始まり、ニューオーリンズの大洪水で終わる。それはおおざっぱに言えばほぼ「アメリカ合衆国の20世紀」であり、数多くの父親や母親が描かれることでもあり、主人公を巡る物語の底を見え隠れしながら音楽のように流れ、観客が「時間」を意識するためのもうひとつの設定になっている。ハリウッドにまだこういう映画を作る膂力があったことが、なんとなくうれしい。


甘美度 ★★
数奇度 ★★★★★


「ベンジャミン・バトン」オフィシャルサイト ≫こちら

2009年2月14日土曜日

●シネマのへそ04 インランド・エンパイア 村田篠

シネマのへそ04
インランド・エンパイア (デイビッド・リンチ監督2006年)

村田 篠


自分の中でつじつまが合わないまま見終わってしまっても、差し支えない映画。「どうして?」と考えなくてもすむものとして、観客を巻き込んでしまう映画。

こんなふうに、「デイビッド・リンチを一言で言う」という無謀を冒してしまいたくなるのは、リンチの映画自身のせいである。

リンチの映画とよく似たものに、「夢」がある。抱いて上京したりする夢ではなく、布団の中でみる夢の方。夢をよくみるタイプの観客は、リンチの映画をわりにすんなり受け入れられるのではないかと思う。ただし、リンチのそれはたいがい「悪夢」なので、そこはご用心。

この映画も例にもれない。ある女優のプライベートと、その女優が出演する映画のストーリー、そこに、その映画が実はリメイクで、未完成のまま放置されているという元の映画のストーリーと、テレビ画面をみて泣く女の話が交錯して、どこまでがどの話に属するのか、もう、途中からどうでもよくなってくる。そこでそのまま身を任せられなければ、アウトなのだろう。私は大丈夫なクチなので、今に至るまで、リンチのファンでありつづけている。

しかし、そんな映画を受け入れられる、ということと、そんな映画をつくってしまう、ということの間には、暗くて深い川がある。つくる人の頭の中は、じつは幻想というものに対して非常に強靱にできているのではないだろうか、などと、ふと思う。

リンチ映画のミューズと言っていい主役のローラ・ダーンをはじめ、ジェレミー・アイアンズ、ハリー・ディーン・スタントン、ジュリア・オーモンドと、出演者も一筋縄ではいかない「顔」の持ち主ばかり。


悪夢度 ★★★★★
こんがらがり度 ★★★★★

2009年1月25日日曜日

●村田篠 歩くことから始まる~高梨豊写真展

歩くことから始まる ~高梨豊写真展

村田 篠


竹橋の東京国立近代美術館へ「高梨豊 光のフィールドノート」という写真展を見に行く。

1960年代から現在までの東京を撮った写真の数々がいい。ことに、『囲市』と題された一連の写真は、さまざまなものを覆う「囲い」ばかりを撮っている。囲うことで内部が生まれる。その内部は、見ることができない。都会には、そういう場所がたくさんある。

すべては、歩くことから始まるんだな、という気がする。なにかを見つけるために歩くのではなく、歩いているうちになにかが目に入って、なにかが始まる。

俳句を始めてから、ずいぶんと歩くようになった。でも、もっともっと歩きたい。写真展を見ているうちに、そんな欲望が湧いてくる。


「高梨豊 光のフィールドノート」は3月8日まで開催。≫公式サイト

2009年1月4日日曜日

●村田篠 虹の被害

虹の被害

村田 篠


はつ-ゆめ【初夢】元日の夜に見る夢。また、正月二日の夜に見る夢。古くは、節分の夜から立春の明けがたに見る夢。(広辞苑)


最近、夜中に何度も目が覚めるようになってしまった。眠りが浅い。たぶん、自分で覚えているだけでも、一晩に最低3回は目が覚めている。でも一瞬後には、また浅い眠りに落ちている。それが何度も繰り返されるのが、私の「眠り」だ。

当然、「夢」は、眠りがとぎれるたびに分断される。でも、よくしたもので、最近ではそういう断続的な眠りに合わせて、分断された「夢」の続きを見ることができるようになった。続きなのだけれど、話が少し展開して動いている、というのがおもしろい。人間の脳というのは、すごいものだ。

夢の中で、もてなし下手の私が、パーティを催すことになった。会場は、どこかの古びた旅館の二階。窓枠がサッシではなくて、木の枠なのである……といっても、若い人には想像できないかもしれない。かつてはそういう家がたくさんあった。窓から外を見下ろすと、道を挟んで向かいも旅館で、同じような総二階の建物が、長屋のように道に面して建っている。

部屋の中は、もちろん畳。30畳くらいの大きさだ。昔風の家屋の特徴で、天井が低く少し圧迫感がある。そこに、コの字型に座布団を並べて、みんなでお酒を飲んでいる。なぜか、料理が並んでいるのではなく、いろんな種類のお酒だけがふんだんにある。ビール、ウィスキー、ワイン、ウォッカ……まるで昨年、飲み足りなかったといわんばかり。

そこに―夢の普遍的なパターンではあるが―私が知っているというつながりだけで、同席するはずのない人々が集っている。小学校卒業以来会っていない同級生、最近の友だち、テレビの中でしか見たことのない人……「夢」の中では、みんな知り合いみたいに話している。

さて、不思議なのはここからだ。たぶん一瞬の「目覚め」の後だろう、話が少し展開している。私は、仲のいい女友だちとふたりで、いつのまにか会場を抜け出して道を歩いている。ひなびた田舎だと思っていたが、旅館を出ると、そこは無味乾燥なビル街だ。街路樹は裸ん坊で、寒々としている。あたりが無人なのは、「お正月」だからなのだろうか。なんとなく辻褄が合っている。

歩いているうち、友だちがポツッといった。
「最近、コウガイが問題になってるの、知ってる?」

コウガイ? はて。公害、口蓋、口外、鉱害、梗概……。問題になっているって、なにが?
「今、見せてあげる」
と友だちはいうと、ズンズンと歩き出した。必死についていくと、彼女は突然立ち止まって指さした。
「これのことよ」

無人の寒々としたビル街の片隅。そこに、桜が咲いていた。ただの桜ではない。七色の桜だ。数本の桜に咲いた花が、まるで虹のように、一本一本少しずつ色調を変えながら、咲き誇っている。赤から紫へ。青い桜もある。これはすごい。
「これを、コウガイっていうのよ」
と女友だちはいった。
コウガイって……もしかして、「虹害」?
彼女はうなずくと、じつに不機嫌な顔になった。
「原因不明なんだって」
心の底から感嘆しながらその七色の桜を見つめているうち、目が覚めた。

「虹」を「コウ」とちゃんと読んでいるところが、ずいぶん理屈っぽいなあと思う。起きてからさっそく広辞苑で調べてみたが、「虹害」という言葉はもちろんなかった。

やれやれ、変な夢だった……と思いつつ新聞を広げると、1999年は、フロイトが『夢判断』を出版してからちょうど100年だという。フロイトなら、「七色の桜の夢」をなんと診断するのだろうか。「酒」に「桜」に「虹」。なんだか意味ありげ。なんとなく欲求不満の権化みたいにいわれそうな気もして、かなりいやな心持ちがするのは否めない。

 *

これは、10年前の日記に書き留めていた初夢の記録。今年も初夢をみたのだけれど、これがまた、ヴァンパイアの登場する夢だった。ヴァンパイアが世界中で増殖している。でも、ヴァンパイアになると、物事が高精度、高速度、高密度に見えるようになるという。なんだか、コピー機の性能みたいだ。ヴァンパイアはそのへんにふつうに生息していて、私と会話をしたりするのだけれど、「怖い」という意識は夢の中でもきちんとあって、その「怖さ」が、ちょっといい感じなのであった。

2008年12月16日火曜日

●村田 篠 人名三句

村田 篠 人名三句




はじめての岸田今日子体験は、『黒い十人の女』でも『砂の女』でもなく、じつは、子どものころ毎週楽しみに観ていた「ムーミン」の声、だった。

岸田今日子のムーミンは、小池朝雄の刑事コロンボと同様、その声なくしてはありえない存在として、私のなかに生きつづけている。

声はすなわち音、音楽。ストレートにひとの心を撃つ成分なのかもしれない。


矢野顕子 ≫portrait ≫Wikipedia
田中角栄 ≫portrait ≫Wikipedia
田中真紀子 ≫portrait ≫Wikipedia
岸田今日子 ≫portrait ≫Wikipedia


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2008年12月11日木曜日

●シネマのへそ03 デッドマン 村田篠

シネマのへそ03
デッドマン (ジム・ジャームッシュ監督1995年)

村田 篠


ジム・ジャームッシュの映像と、ジョニー・デップの芝居と、できあがった映像を見ながら即興でつけたというニール・ヤングの音楽が、奇蹟のように融合した映画。

19世紀末のアメリカ西部を舞台にした、モノクロの「西部劇」なのであるが、これがなんとも、アメリカの原像のような、はたまた幻像のような、叙事詩的味わいを持っている。

登場人物がなにかおかしなことをしているわけでもないのに笑ってしまうのは、ジャームッシュの映画がOFF-BEATだからだ。

出会った相手がどこのどいつかわからない。過去がない。あってもウソくさい。目的もない。突然思いつく。その場で次の行き先を決める。決めないこともある……。

しかし、ジョニー・デップ扮するウイリアム・ブレイクは、会計士をしているありきたりの男だ。それが突然、OFF-BEATの波に放り込まれる。するとどうなるのか。なんと、詩人になるのである。そして、殺人者にも。

そういう意味では、ウイリアム・ブレイクという役名は、あまりにも象徴的だ。

ジョニー・デップは、「途方に暮れる」姿が似合う。受けの演技ができる。流されるままになることができる。そして、人が詩人になったり殺人者になったりする瞬間の表情を持っている……それも、途方に暮れたままで。

ブレイクを助け、いっしょに旅をするインディアンが、ブレイクの顔から眼鏡を外しながら言った台詞が印象的だ。
「眼鏡がないほうが、よく見える」。

そうかもしれない、とは、私にはまだ言えない。


ストーリー放置度 ★★★★★
ジョニー・デップ純度 ★★★★★

2008年11月25日火曜日

●シネマのへそ02 ICHI 村田篠

シネマのへそ02
ICHI (曽利文彦監督2008年)

村田 篠



時代劇といえば勧善懲悪、というのが、ひとつのお決まりのパターン。

しかし、大映映画のかつての二大シリーズ、市川雷蔵の『眠狂四郎』と勝新太郎の『座頭市』は、単純な勧善懲悪ではないところがミソだった。
それを成功させたのは、もちろん、雷蔵と勝新という大スターふたりのスター性であり、人間の業に重きをおいた脚本であり、クライマックスを引き立たせる殺陣の鮮やかさである。
ふたりの際だった個性の賜物として、かの映画群は、今でも輝きを失わない。

が、それは、あくまでも、男の世界を描いた映画としてのこと。
主人公「市」を女性に設定して「座頭市」の世界を再構成した『ICHI』で、同じ骨法を用いるわけにはいかない。
よぼよぼと杖をつく盲目の男が、一転して白目を剥き、人を斬る姿は、勝新ならばかっこよくなろう。が、綾瀬はるかのような若い女性に、それをやらせてはいけない。誰もそれを望んでいないし。

というわけで、やはり、恋をキモに据えたメロドラマにならざるをえないのであった。
しかも、あれが現代風なのかどうなのか(テレビドラマ風なのかもしれない)、気持ちのやりとりがおとなしく曖昧で、人を斬る市の覚悟や感情の昂ぶりが、いまひとつズドンと胸にこない。
さらにもうひとつ言うならば、盲人が人を斬ろうというとき、なにより「物の音」が問題になってこようが、その部分の演出があまりきちんとなされていないのも、不満が残る。

そんななか、綾瀬はるかは、「はなれ瞽女」という被虐の歴史をほのかに背負い、堕ちてはいるが朽ちてはおらず、オバサンでもなくオンナのコでもない、強く切ない女を凛々しく好演。
横顔がいいんだよね、ってオンナの私がいうのも何ですが。
それと、忘れるところだった。中村獅童のヒールぶりは、文句なしにおすすめである。


アクション度 ★★
綾瀬はるかオススメ度 ★★★★★


ICHI 公式ホームページ

2008年11月14日金曜日

●シネマのへそ01 レッドクリフpart1 村田 篠

シネマのへそ01
レッドクリフ part 1 (ジョン・ウー監督2008年)

村田 篠



ひとことで言えば、「三国志版 男たちの挽歌 前哨戦(伝書鳩付き)」というところか。

全然、ひとことじゃないけど。

でも、私はオトナなので、「こんな、全編の4分の3が合戦シーンの、中身のない、人物造形の薄っぺらな映画の、しかも前半分だけを、2時間半もかけて見せるなよ~」などと、決して怒らない。

だって、トニー・レオン(『悲情城市』)と金城武(『恋する惑星』)とチャン・チェン(『牯嶺街少年殺人事件』)が出ていて、そのうえ、チャン・フォンイー(『さらばわが愛 覇王別姫』)と「あなた、どこかでお見かけしましたね」のフー・ジュン(『東宮西宮』とか)まで出ていて、元・中華圏映画オタクにとっては、これを観ずにはおくものか、の歓喜のキャスティング。卑怯じゃ。

それにしても、ジョン・ウーは、いつまでたってもラヴ・シーンを撮るのが上手くならない。

きっと、とことん、女に興味がないんだろうなあ。


オールスター度 ★★★★
 (御大チョウ・ユンファを口説き落とせなかったらしいという噂により、★ひとつ減点)
ジョン・ウー度 ★★★★★