2023年5月31日水曜日

西鶴ざんまい #44 浅沼璞


西鶴ざんまい #44
 
浅沼璞
 
 
 筬なぐるまの波の寄糸    打越
四十暮の身過に玉藻苅ほして
  前句
 飛込むほたる寝㒵はづかし
  付句(二オ4句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、表4句目。
ほたる=夏。 はづかし=恋。 寝㒵(ねがほ)=寝顔。 浮草―蛍(類船集)。

【句意】飛込んできた蛍の、その光で寝顔を見られるのも恥ずかしい。

【付け・転じ】打越・前句=機織り業の女性から漁業の年輩女性へと続ける。前句・付句=年輩女性を受けながら夏の恋へと転じる。

【自註】中年寄(なかどしより)たる女は身に白粉(おしろい)を色どりさまざまに作るとすれども、㒵形(かほかたち)おのづからすさまじ。此句は前と同じ心の移り*、大かた前句の噂*にも成ける。恋の付合には、前句のうちより出でたるすがたならず也(や)。寝㒵を思ふも火の影に恥ぢぬる一体。「ほたる」は前の「玉藻」に付寄せ、連俳にかぎらず、正風の付よせ物也。
*心の移り=元禄風の「移り」。 *前句の噂=貞門では説明的な噂付を嫌ったが、談林は容認した[角川・俳文学大辞典]。西鶴も「恋の詞」に頼り過ぎるのを嫌い、恋の噂付を好んだが、噂話のように間接的に恋句を詠むことを庶幾した〔定本西鶴全集「俳諧のならひ事」〕。

【意訳】年輩の女性は、身に白粉を塗り、さまざまに化粧をしても、外見は自ずから似合わしくなくなる。この句は前句と同じ心の「移り」、あらかた前句の意を含んだ噂付にもなっている。恋の付合としては、前句の中から出た形ではないだろうか。寝顔を(恥ずかしく)思うのも、火によってあらわになることを恥じての一風景。「ほたる」は前句の「玉藻」に付寄せたもので、俳諧にかぎらず、和歌・連歌でも縁語になっている詞である。

【三工程】
(前句)四十暮の身過に玉藻苅ほして

 まだ恋心隠し持つなり    〔見込〕
    ↓
 ほたるの照らす恋のはづかし 〔趣向〕
    ↓
 飛込むほたる寝㒵はづかし  〔句作〕

前句の四十女にも恋心がまだあるとみなし〔見込〕、どのような恋をするのかと問いながら、浮草―蛍(類船集)の縁語によって夏の恋と定め〔趣向〕、初老の地女(素人女性)の「寝顔」という題材に焦点を絞った〔句作〕。


 
そういえば『一代男』にも蛍の恋句がありましたね。
 
「ああ、江戸吉原の吉田大夫やろ」
 
はい、貞門派の嶋田飛入(ひにふ)が〽涼しさや夕べ吉田が座敷つき、と発句を詠むと、〽蛍飛び入る我が床(とこ)のうち、と大夫が即座に挨拶した場面ですね。
 
「飛入の俳号を詠みこんだんは吉田の手柄やけど、もともとは源氏の蛍巻の面影や」
 
その元ネタをここでは年輩の地女に趣向したわけですよね。雅俗混交の『一代男』から俗談平話の『胸算用』への流れにシンクロしてますね。
 
「? 新九郎って誰やねん」
 

2023年5月29日月曜日

●月曜日の一句〔金子敦〕相子智恵



相子智恵






サンドイッチしづかに倒れ雲の峰  金子 敦

現代俳句文庫88『金子敦句集』(2023.4 ふらんす堂)所収

そういえば、サンドイッチは音もなくゆっくり倒れる。それも、ひとかたまりで倒れるのではなくて、たいてい中身の部分でばらけてしまう。レタスのところで分かれて倒れることが多い気がするが、きっと密着しにくいのだろう。

取り合わせは〈雲の峰〉だから、外で食べていると想像される。ピクニックだろうか。食べきれなかった少し乾いたサンドイッチが静かに倒れ、どっしりと動かないように見える雲の峰もまた、静かに形を変えていく。そんな午後である。

外で食べるサンドイッチのある風景というのは、幸せな一場面のような気がするのに、この静寂には、どこか寂しさがある。サンドイッチの乾いてゆく午後の光は、過ぎ去った夏を思い出す時の、うっすらとした寂しさにつながっていく。

2023年5月26日金曜日

●金曜日の川柳〔小林不浪人〕樋口由紀子



樋口由紀子






あきらめて歩けば月も歩きだし

小林不浪人 (こばやし・ふろうにん) 1892~1954

なんとなくわかる。こういうあきらめのかぶせ方をしたことがある。もちろん、月が歩きすわけはない。「あきらめ」は生きていくうえの大切な対処法で、それは月だってわかってくれている。だから、一緒に歩いてくれていると思いたかったのだ。

「あきらめて」と「月」はなんとも味のある取り合せである。それぞれの言葉は別種で、まったく異なる温度と世界を持っている。「あきらめ」のONのスイッチが入れるためには、都合のいい錯覚を作り出すには、「月」は好適役である。軽妙な韻律で温かみのある絵になった。『東奥文芸叢書川柳22 柳の芽』(2015年刊 東奥日報社)所収。

2023年5月22日月曜日

●月曜日の一句〔井出野浩貴〕相子智恵



相子智恵






鮎焼かれなほ急湍をゆくかたち  井出野浩貴

句集『孤島』(2023.5 朔出版)所収

〈急湍(きゅうたん)〉は、流れの速い瀬。早瀬のことだ。考えてみれば、鮎の塩焼きをつくる際に、まるでまだ生きて泳いでいるかのように、ぐねりと曲げた形で串に刺して焼き、その形をとどめるというのは、〈海鼠切りもとの形に寄せてある 小原啄葉〉の刺身の並べ方と並んで、本当は残酷なことであると、このような句によって突きつけられる。活き活きとした新鮮さの演出が、死んで私たちの食べ物となったものに対して施されるという矛盾。

それでも、ただ「泳ぐ」という認識の範囲で書くのではなくて、〈急湍をゆく〉と想像したのがいい。岩の間を縫って身をくねらせながら急流を素早く泳ぐ時こそ、鮎にとっては疲れるけれど最も楽しい時間だったのかもしれないと思う。〈なほ〉の一言にも、哀しみが際立つ。

2023年5月19日金曜日

●金曜日の川柳〔山本忠次郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






笑わない老爺と連れの嗤う老婆

山本忠次郎 (やまもと・ちゅうじろう) 1936~

町で見掛ける老夫婦に目が行くようになった。確かに掲句のような夫婦を見かける。その反対も、あるいは共に笑っていない、共に嗤っている、二人もいる。その中で作者はあえてここを切り取った。もっとも共感したのか、あるいは一番映えたのか。わかりやすい対称構造で、具体性と描写性が富んでいる。

それとも一枚の写真なのだろうか。過っての自分たちなのか。長い時間をかけて形成された、二人にしか出せないは絶妙のコンビネーションなのかもしれない。そこには写っていない重層とユーモアと割り切れなさがある。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2023年5月17日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇14 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇14
 
浅沼璞
 

近世文学研究者にして時代小説家の中嶋隆氏が、近ごろ西鶴に関する著作を二冊つづけて刊行されました。五月の連休にやっと通読しましたので、遅ればせながらご紹介します。

 
まずは『西鶴『誹諧独吟一日千句』研究と註解』(文学通信)。
 
幼馴染の愛妻を若くして亡くした西鶴が、その追善のために上梓した『誹諧独吟一日千句』。「矢数俳諧」の先蹤として評価されるその俳諧集を、研究編と註解編の二部構成で第五百韻まで読み解いた貴重な一冊です。
 
まず研究編では芭蕉『冬の日』歌仙との比較論が目をひきます。
 
〈漢詩文を取り入れた「虚栗調」を模索した時期の芭蕉が、遣り句で多用される西鶴の「小説的」心付けやそれに類似した談林の付合技法を、「疎句誹諧」に転化したとは考えられないだろうか〉という問題提起のあと、〈ただし、「無心所着」を排する芭蕉は、西鶴のように、一句に複数のコンテクストを取合わせることをしなかった〉と分析し、返す刀でこう述べます。
 
〈「無心所着の大笑い」に収斂する西鶴の小説的俳諧は、『冬の日』より多彩だが、虚構のコンテクストに美意識を追求した『冬の日』の詩性を持つことはなかった〉と。
 
かつて廣末保先生や乾裕幸氏が試み、今はあまり顧みられなくなってしまった芭蕉VS西鶴の相対的な視点がここに継承されているといっていいでしょう。

註解編では【句意】【注】【付合】【鑑賞】という立項のもと、たんねんに作品がたどられ、ときに〈複数のコンテクスト〉が浮かびあがります。


 
つぎに『好色一代男』(光文社)。
 
これは「古典新訳文庫」の一冊で、日ごろ西鶴自註の意訳に苦しんでいる身には刺激的なテキストと言えます。
 
「訳者あとがき」で著者は忌憚なく、こう吐露しています。
 
〈そもそも、「曲流文」といわれる、主述が呼応しない文章や、地の文と会話文とが不分明な『好色一代男』の叙述を、現代語訳になおすことは至難で、原文のもつ「味」をどれだけ現代文に移せるかが、私の課題だった〉
 
かつて同じく現代語訳に挑んだ吉行淳之介氏も、〈西鶴の文体は俳諧連歌のものだから、これを生かすと混乱するばかりなので、私自身の文体を多少修正したものにこの作品を引摺りこむほか手口はなかった〉(中公文庫「あとがき」)と吐露しており、通底するところがありそうです。
 
中嶋訳と吉行訳、読み比べてみるのも一興かもしれません。
 
なお通時的かつ共時的な「解説」も併載されているのですが、『伊勢物語』「芥川」をパロッた『一代男』巻四について―― 〈この話を初めて読んだ学生のとき、アメリカ映画「俺たちに明日はない」の銀行強盗ボニーとクラウドを連想した。(中略)強盗の恋愛、すてきではないか〉とあり、共感を禁じ得ませんでした。
 
そのほか本書にはクイズ形式の付録もあり、読者を飽きさせない構成となっています。

2023年5月15日月曜日

●月曜日の一句〔千葉皓史〕相子智恵



相子智恵






押入れが中から閉まる青嵐  千葉皓史

句集『家族』(2023.4 ふらんす堂)所収

押入れは収納のための空間だから、普通、内側から閉まることはない。それゆえ、子どもの遊びなのだろうということがわかる。懐かしさのある句だ。

取り合わせの青嵐がいい。青葉が力強い風に吹かれる音が響いてきて、ざわざわ、わくわくとした、子どもの冒険心まで感じられてくる。そして、押入れの中という暗い内側と、緑ゆたかな外側とがつながりあって、不思議なスケール感が生まれている。この季語によって、句が一気に広がってゆく。

他に、同じ初夏の句で、〈投げ入れて壺の中まで花卯木〉という句もある。花卯木のうわっと咲く白さが、生けられた壺の中の暗い空間にも、びっしりと咲きわたっている。ここでも暗い内側と明るい外側とがつながりあう。〈投げ入れて〉の無造作で動的な言葉によって、壺の中が今まさに明るくなったように感じられ、生け花なのに生命力があるのだ。

  春潮を汲んでふるふるバケツかな

  濤音のどすんとありし雛かな

  末枯や蜂のもつるる鉋屑

  蜻蛉の搏つたるわれの暮れかかり

このように、どの句も丁寧に書かれていながら、小さくまとまってはいない。一句一句が遥かなるもの、大いなるものとつながっている。こうした句を読んでいくと、五七五という小さな詩が、とんでもなく大きな器であることを確信するのである。

2023年5月12日金曜日

●金曜日の川柳〔川上三太郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






河童月へ肢より長い手で踊り

川上三太郎 (かわかみ・さんたろう) 1891~1968

「河童」はなにものなのか、その実体は不明の、架空の動物である。三太郎は河童を存在するものとしてまず立ち現わせ、加えて「肢より長い手で踊り」と設定した。その発想に驚く。それによって、呪詛的で生々しくてリアルで、それでいて謎で、想像を超えた臨場感をもたらし、その様子が目を瞑れば見えてきそうな気をさせる。

「月」は異界への扉なのかもしれない。「肢より長い手」で踊る河童は魂の気高さがあり、自由で妖艶でこの上なく美しいのだろう。

河童起ちあがると青い雫する

河童群月斉唱、だがーだがしづかである

「河童満月七句」と題された中の一句で、昭和十年前後の作と言われている。

2023年5月3日水曜日

西鶴ざんまい #43 浅沼璞


西鶴ざんまい #43
 
浅沼璞
 
 
跡へもどれ氷の音に諏訪の海  打越
 筬なぐるまの波の寄糸    前句
四十暮の身過に玉藻苅ほして  付句(二オ3句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、表3句目。 夏=玉藻苅る(『毛吹草』連歌四季之詞)
四十暮(しじふくれ)=四十くらがり。四十歳にて眼力衰ふるを云。[俚諺集覧・中より] 人生五十年の時代、四十歳は初老。現在なら六十歳くらいか。
身過(みすぎ)=生活の手立て。

【句意】視力の衰えはじめた初老女性が(男と同じく)生活のために海藻を刈り、それを干している。

【付け・転じ】打越・前句=湖→波と水辺の言葉を続けつつ、波の動きを機織り作業に見立てる。前句・付句=糸四十本を一紀(ひとよみ)とする筬から四十暮へと連想をひろげ、機織り仕事から藻を干す労働へと続ける。水辺の三句がらみか。

【自註】隨縁真如(ずいえんしんによ)*の波立たぬ日もなく、世をわたる貧家の手業(てわざ)、何におろかはなかりし。四十にちかき女を「四十暮の人ぞ」と俗に申しなせり。いづれ、姿はむかしの残りても、脇㒵(わきがほ)に波の皺うちよりて見ぐるし。殊更、浦里のならひ迚(とて)、男のすなる*事までも鎌取りまはして。
*隨縁真如の波云々=謡曲『江口』のサンプリング。*男のすなる=『土佐日記』のサンプリング。[定本全集より]

【意訳】因縁によって真理の大海に波がたたない日はなく、世を渡る貧家の手仕事とて、何の手ぬかりもない。(そうした中)四十歳近い女性を「四十暮の人」と世間では呼んでいる。凡そその姿には若い時分の名残があっても、横顔には波のような小皺がよって(自分でも)見苦しい。ことに浦里では、習慣として男のする仕事までも鎌をとってする。

【三工程】
(前句)筬なぐるまの波の寄糸
 
 四十暮の女の身過せはしなく 〔見込〕
  ↓
 四十暮の身過は浦里とて同じ 〔趣向〕
  ↓
 四十暮の身過に玉藻苅ほして 〔句作〕

前句を、筬(四十本)の連想から四十女の手仕事とみなし〔見込〕、ほかにどのような仕事があるかと問いながら、藻―よる浪(類船集)の縁語によって再び水辺に場を定め〔趣向〕、男仕事までする初老女性の句を仕立てた〔句作〕。


 
「水辺の三句がらみ言うけどな、湖畔から浦里へ転じてるやろ」
 
はい、一句としても四十暮の俗語と玉藻の雅語と、取合せの落差が効いてます。ただここは、あえて機織りとベタ付けにして水辺から離れた方がよくないですか。
 
「ほな、それで付けてみいな」
 
えー、夏ですから帷子(かたびら)を詠みこんで、〈四十暮の身過に帷子をこさへ〉とか。
 
「それも一つの手やろうけど、ここは〈男のすなる事まで〉四十女がするからおもろいんやで。帷子の布をこさえるんは女仕事と知れてるやろ」
 

2023年5月1日月曜日

●月曜日の一句〔西村麒麟〕相子智恵



相子智恵






白椿あなたあなたと話しかけ  西村麒麟

「麒麟」2023年春 創刊号 主宰作品「白椿」(2023.4 麒麟俳句会)所収

〈あなた〉という呼称は、ドラマなどで妻から夫に話しかけたりする時に使われることもあるけれど、それはわかりやすい「物語の会話形式(ステレオタイプ)」であって、現実の世界では年配の方以外、家族の会話の中ではほとんど使われていない呼称だろう。

今、〈あなた〉という少しかしこまったクラシカルな呼び方がリアルに使われている場面というのは、例えば先生が学生や生徒を、あるいは上司が部下を……といった年長者(しかも年配の)からの呼びかけではないかと想像される。掲句はそんな場面として自然に読むことができるのである。

しかも〈あなたあなた〉と重ねているところに、一種の性急さがあり、この人が好奇心旺盛な学者のように思われてくる。〈あなた〉と呼ばれた年下の者に伝えたいことや質問したいことがたくさんあるのだ。しかもただの呼びかけではなく〈話しかけ〉だから、語り合いたくてたまらないのである。

〈あなた〉と話しかけられた年下の方もそれを嬉しく、尊敬の念をもって聞いているであろうことが、季語の〈白椿〉から分かる。また、重厚感や華やかさと清潔な白さが同居する白椿の花は、〈あなた〉と話しかけている年長者の重厚感と清潔さにも結びつき、季語からも人物像が想像されてくるのだ。

俳句の短さの中でリフレインは難しい手法だが、掲句はリフレインがなければここまで読み込むことはできない。一見ゆるりとした平易な句に見えて、よく想像させるように練られた一句である。西村の句にはそういう作品が多く、強い印象を残す。