2017年5月23日火曜日

〔ためしがき〕 滑って転んじゃった話 福田若之

〔ためしがき〕
滑って転んじゃった話

福田若之


「有馬朗人氏に反対する」について書くなら、要するに、公衆の前で滑って転んじゃった、ということなのだろう。ほんとうに、それだけの話だ(だっせーっ)。

ただ、何がどう滑って転んじゃったのかということについては、他のひとたちの話を見聞きしていると、どうも見方が違っているようなので、ちょっと書いておくことにした。

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僕が、何をとちったと自分で思っているのかというと、政治的な意見表明をうまくできなかったということではなく、むしろその逆で、柳本々々さんが「個人の感想」と呼ぶものの側に踏みとどまることができなかったということだ。

要するに、一歩踏みとどまるつもりだったはずのところで、変に足を踏み出してしまったものだから、おっ、おっと、おっとっと、と、滑って転んじゃったわけだ。これは、ほんとうに、それだけの話でしかないと僕は思う。

そう、僕が書かずにはいられなかったもの、書いておきたかったものは、出来事や状況に対する僕の「個人の感想」であって、政治的な意見や立場ではなかった(ただし、ここで言う「感想」は、決して、傍観者のものではありえないことに注意してほしい。逆に、政治的な意見や立場は、必ずしもそうではない)。その意味では、「有馬朗人氏に反対する」という題目を掲げてしまったときに、僕のしくじりは決定的なものになってしまったといえる。

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だから、小津夜景さんは「福田若之「有馬朗人に反対する 俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐって」について思ったこと。」(夜景さんのブログ記事のタイトルでは、このとおり、「有馬朗人氏」の「氏」が抜けて呼び捨てになっている)に、僕の文章について「あまりに等身大の〈僕〉が好んで演出されている」と書いているけれど、むしろ、僕のしたかったことは、はじめからそっちにあったと言っていい。「個人の感想」が書きたくて書いていたのだから、それは、「演出」というよりも、むしろ、自然にそうなっていたわけだ。

夜景さんは、僕の書いたものの最後の一文について、「周囲に対して有害な、ひどい学級会臭がある。去勢の匂い、と言ってもいい」とも書いている。これもまったくそのとおりで、「学級会臭」というのが何なのかというと、おそらく、それはきっと幼い政治の臭い、失敗を決定づけられた政治の萌芽の臭いだ。それは、「個人の感想」がそれとしてありつづけることができずに、去勢されてしまった匂いでもあるだろう。

だから、僕もまた、夜景さんのように、「……について思ったこと。」 と題して切り出しておけばよかったのかもしれない。どうして「個人の感想」の側に踏みとどまれなかったのか、それは「不安」のせいだったと思う。今回についていえば、なんだかとんでもないことが公共性をまとった俳句の定義になろうとしていて、でも、それについて誰も大きなアクションを起こしそうには見えない、というこの出来事と状況とに対する「不安」だ。「不安」が祟ると、「個人の感想」は中途半端に政治的になってしまう。 こころぼそいと、「個人の感想」は群れようとしてしまう(だから、個々人の感想のそれぞれが充分な大きさを獲得することなく発散されてしまっているように見えることについて批判的に書いたのも、協会を抜けるというアクションを起こしていた四ッ谷龍さんについては追記して、そもそも協会に入っていない西原天気さんについては何ら追記しなかったのも、結局は、ひとえに僕個人のこの「不安」に関わってのことだったと今にして思う。そりゃ、たしかに「大笑い」だ)。それは、あるいは「自然詩」としての「俳句」という定義づけに公共性を与えようとする有馬さんのこころにも、実のところ、かなり似たものかもしれない。

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ついでに書いてしまうと、僕は「俳句を無形文化遺産にすること」についての話がしたかったわけではなかった。書きたかったのは、むしろ、「俳句を、ある公共性のもとで、「五・七・五の有季定型」を「基本」とする「自然詩」とみなしていこうとする動き」についての「個人の感想」だった。この状況下では、両者が決して無関係ではありえないことがややこしいのだけれども。

ちなみに、有馬さんは、たしかに、他の機会に、俳句の題材が「人間だけ」の場合もある、という趣旨のことを発言している。でも、そこで「人間」と呼ばれているのは、あくまでも「自然」との「共生」を前提ないしは目的化された「人間」なので、結局はぜんぶ「自然詩」に回収されてしまう。有馬さんは「俳句」とは「自然詩」であるということにいっさいの例外を認めていない、と僕が指摘したのは、そういう意味でのことだ。

そして、現状において僕が危惧するのは、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会をその発信源とした、上述の定義の蔓延だ。

たとえば、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会には、設立の段階ですでに松山市が加盟している。そしたら、たとえば、松山市が共催している俳句甲子園は、きっと、これからすこしずつ「五・七・五の有季定型」を「基本」とする「自然詩」の大会になっていくのだろう。無季の句が含まれる作品には新人賞を与えないという俳人協会の方針も、この動きによって、いっそう覆しにくくなったんじゃないだろうか(だって、そこで簡単に有季も無季も関係ないってことにしちゃったら、組織の見解として矛盾をきたすことになるから)。

僕の見方では、そうした変化や膠着の果てに俳句が無形文化遺産になるかならないかは、予想されるさまざまな変化や膠着そのものに比べれば、現段階では、まだほとんど重要ではない。そして、もし今後、現状の方針のもとで俳句が無形文化遺産になることが現実味を帯びることがあるとしたら、それは、もはや、ユネスコの客観的な判断のもとでさえ、俳句が実質的に「五・七・五の有季定型」を「基本」とする「自然詩」であるということについて疑いの余地がなくなってしまったということなのだから、そのときには、もう、実際にそれが無形文化遺産に登録されるかどうかは問題ではないだろう。だから、僕の関心は、さしあたり、「無形文化遺産」という題目そのものよりは、むしろ、その前段階において生じることが予想されるもろもろの事態のほうにある。

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とはいえ、夜景さんが僕の記事のコメント欄に書いた要約(「俳句の魅力がきちんと定義される(例えば「自己同一化をすり抜ける詩的容器」とか?)ならば無形文化遺産に登録してもよい」)は、夜景さんが引用している本文に照らしあわせても、ちょっと見過ごしてはおけないかたちで誤読されていると思うので、それについては、ここで説明しておく。

まず、僕が「定義」を問題にしているのは、「俳句の魅力」ではなく、「俳句」そのものだ。そして、「「俳句」という名は、意味しない」という一文は、「俳句」が「きちんと定義される[……]ならば」、という議論の前提自体がそもそも成立しえないということを言っている。「意味しない」のだから、「きちんと」した「定義」なんてものがそもそもありえない。

だから、僕としては、ここは、「俳句がきちんと定義されるなんてことはそもそもありえないのだから、すくなくとも登録のためになんらかの定義が必要とされる限りは、俳句を無形文化遺産にしていいわけがない。僕はそんなのはいやだ」と要約されることを書いたつもりだ。

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それから、天気さんは僕の書いたものに「《名誉欲にまみれた老人・中年 vs 俳句をことをマジメに愛する》という構図の絵」を見てとろうとしているけれど、これはあまりにもプロレス化しすぎじゃないだろうか。天気さんは、ときどき、世界に対してこんなふうに明快なスペクタクルの構図を与えることで、世界をあまりにレッスルさせてしまうように思う。たしかに、それがとても愉快なこともある。けれど、有馬さんって、ほんとうに「名誉欲にまみれた老人」だろうか(いや、まあ、天気さんとしては、冗談のつもりなんでしょうけども)。むしろ、見境なしに夢を追っかけちゃってるだけで、善意のひとだと僕は信じていて、僕は、有馬さんのこと、そこだけはまるで疑ったことがない。その信頼なしには、僕は、おそらく、こんなふうに「有馬朗人氏に反対する」ことはできなかったとさえ思う。

たまたま、僕がいま別のところで読んでいるアンドレ・バザンの文章に、次の言葉がある。
現実を糾弾するからといって悪意をぶつける必要はないのだ。世界は非難される以前に「存在している」ことを、イタリア映画は忘れていないのである。それは愚かで、ボーマルシェ〔一七三二‐一七九九年。フランスの劇作家〕がメロドラマ〔原義は伴奏つきの通俗劇〕が流させる涙を称賛したのと同じぐらいナイーヴな態度かもしれない。だが、ぜひ私に聞かせてほしい。イタリア映画を見たあとでは、私たちはより良い気分にならないだろうか。世の中の仕組みを変えたい、それもできれば人々を説得することで――少なくとも説得可能な人々、つまり無分別や偏見、不幸のせいで、自分たちの同胞に害を与えてしまっていた人々を説得して――変えていきたいとは思わないだろうか。
(アンドレ・バザン「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」、アンドレ・バザン『映画とは何か』、下巻、野崎歓ほか訳、岩波書店、2015年、84-85頁)
これは、数々のイタリア映画に対するバザンの「個人の感想」を含んだ言葉でもあったのだと思うのだけれど、とにかく、僕はバザンのいう説得みたいなものを、有馬さんに向けて書きたい、有馬さんの賛同者に向けて書きたいと思っていた。あなたがたを僕は決して悪人だとは思わない、けれど、僕にとってそれは苦しい、と。その説得の言葉が「個人の感想」だったならどんなにかすばらしいだろうと思って、書いてるうちに、滑って転んじゃったわけだ。

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僕がなんでそんなに「個人の感想」にこだわるのかというと、結局、僕は、それが全体主義的なもの(忘れないでおきたいのは、それがしばしば善意の塊によって発生するということだ)の一切に対する反対物になりうると信じているからだ。それは、結局、まだ信じている。
イエスタディ・ワンスモアの思想の虜になり家族を捨てようとしたひろしはしんのすけから自分の靴の臭いをかがされて、はっとして正気にかえります。それは「イエスタディ・ワンスモア」の「20世紀の匂い」という大きな歴史の匂いに拮抗する、小さな個人の「靴の臭い」です。そこでひろしは気づくのです。ああ、どんなに普遍化された「匂い」も、「※個人の感想です」という小さな私の「臭い」に過ぎないのだと。
柳本々々「【短詩時評30回(※個人の感想です)】〈感想〉としての文学――兵頭全郎と斉藤斎藤」) 
だから、僕は、「臭い」の側に立って、有馬さんたちにどうか届くまで、「臭い」を嗅がせようとしたわけだ。まあ、滑って転んじゃったわけだけれど。

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ここに、柳本さんの次の言葉を引用したら、僕はまた滑って転んじゃうことになるだろうか。
「まだ奥があるよ。でも続きはあなた自身で考えてね。あなたがいま立っているその場所であなた自身のもっているすべてでこれからのことを考えてみてね」。それが「※個人の感想です」なのです。
(同前)
うん、これで終わるのはやっぱりまずいだろうな。

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もうすこし違うことを書いておこう。たとえば、ロラン・バルトの『記号の国』は、日本についてあるいは俳句についての、すぐれた「個人の感想」としても読むことができる本だと思うのだけれど、そこには、たとえばこんなふうなことが書いてあったりする。
〔……〕俳句(私は結局、あらゆる不連続な描線、私の読みへとおのずから立ち現れて来るような、日本の生活におけるあらゆる出来事を、このように呼ぶ) 〔……〕
(Roland Barthes, L'empire des signes, Genève, Skira, 1970, pp.112-113. 強調は原文ではイタリック体。日本語訳は引用者による)
じゃあ、僕はいったい何を「俳句」 と呼ぶんだろう。いったい、何をそう呼びたいんだろう。

とりあえずの答え――それは、おそらく、僕がいつか「発句」と呼びたいと思っているものでもあるのだろう()。これはもちろん、あくまでも個人的なとりあえずの答えにとどまるわけだけれども。

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ちなみに、僕が今回の文章を読み返して個人的にいちばん恥ずかしかった失敗は、もとになったインタビュー記事の聞き手である森忠彦さんの名前をコピー&ペーストしたときに、うっかり「氏」をつけ忘れたことです(※個人の感想です)。

2017/5/19

2017年5月22日月曜日

●月曜日の一句〔竹岡江見〕相子智恵



相子智恵






月光をつめたく許し螢とぶ  竹岡江見

句集『先々』(邑書林 2017.04)

太陽の反射光である月光は無機的で冷たく、けれども溢れるほどに降り注いでいる。かたや螢の光はか弱く小さいが、生きている光として明滅している。月の光を降るままに許し、その中で、己が光を明滅させながら懸命に飛び、生きる小さな螢。これは求愛の光だろうか。

〈つめたく許し〉には小さな螢の強さや孤独のようなものが感じられる。一句の中に二つの光を描くのは難しいことだろうが、月光のつめたさと螢の放つ懸命の光の違いに、静かなあわれがある。さらに〈許し〉という踏み込みによって、作者の内面まで感じられてくる。

2017年5月20日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2017年5月19日金曜日

●金曜日の川柳〔墨作二郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






鶴を折るひとりひとりを処刑する

墨作二郎(すみ・さくじろう)1926~2016

〈鶴を折る/ひとりひとりを処刑する〉〈鶴を折るひとり/ひとりを処刑する〉、どこで切るかによって解釈が違ってくる。私は前者を採用する。

あたりまえだが、折り紙は手が創り出すものである。鶴を折るのは千羽鶴に代表されるように、病気回復や成就祈願のことが多い。願いや祈りをこめて、角々を合わせて、きちんと折る。山折り谷折りが効いているほど鶴は見事なかたちに仕上がる。「ひとりひとりを」に指先に力をいれて、丁寧の折る動作を感じる。その手の力の入れ方に災いを処刑し、しいては災いの元凶となった人たちのひとりひとりへ怒りがこめられているような気がする。

墨作二郎が昨年末に亡くなった。墨作二郎の存在は大きく、彼が居てくれたから、彼が立っていたから、書くことができた川柳がたくさん生まれた。川柳を牽引してくれていた人たちが次々と居なくなる。〈飴玉が転ぶとすれば環濠都市〉〈星やがて見事な蛇の皮となる〉〈指人形吊るす月下の靴の紐〉〈ばざあるの らくがきの汽車北を指す〉〈蝉は樹を離れて海を見に行った〉。

2017年5月18日木曜日

●化石

化石

冬晴の化石生臭くはないか  和泉香津子

もう鳴かぬ亀の化石を飾りけり  日原 傅

パラソルの熱つ骨脇に化石館  八木三日女

木の化石木の葉の化石冬あたたか  茨木和生