2016年8月25日木曜日

●夜空

夜空

クーラーのきいて夜空のやうな服  飯田 晴

品川過ぎ五月の酔いは夜空渡る  森田緑郎

桐一葉電柱きはやかに夜空  波多野爽波

びわすする夜空ちかぢかありにけり  星野麥丘人

梨むくや夜空は水をふゝみをり  小川軽舟

回線はつながりました 夜空です  なかはられいこ



2016年8月24日水曜日

●水曜日の一句〔矢田鏃〕関悦史


関悦史









活断層も母の病も春の劇  矢田 鏃


国家レベルでの大災害を引き起こしかねない「活断層」と、個人や家族レベルの不幸である「母の病」、一方はまだ地震という形で顕在化してはおらず、もう一方は既に発症してしまっているらしい。

この並び方、遠くのものは曖昧に、手近なものはくっきりとという遠近法的な描き方に合致してもいるようなのだが、よく見ると遠近法を成しているのはモチーフそのものの位置だけであって、描かれ方としては「活断層」も「母の病」も同じ密度、同じタッチで画面に貼り込まれているだけのようである。

「活断層も母の病も」という無造作な並列によって、両者がいったん一般論の地平に追いやられているからなのだが、このとんとんと無造作に進む語調が「春の劇」で止められると、なぜか不意に、却ってなまなましい不安の中に引き戻される。

芝居の書割じみた「活断層も母の病も」と一見歩調を揃えているかのような「劇」によって、一句全体が、災厄や強い緊張のさなかに特有の乖離感へと収束するからである。

国家レベルのことも個人レベルのことも「劇」と観ずる心境の背後に、作者が閲してきた人生の歳月が横たわっている。ただしそれだけならば一切は夢というひとつの常識的な感慨に過ぎない。

しかし「春の劇」という、造語性を含んだ疑似季語とでもいうべき言葉の圧縮が持つ暴力性は、季語「春昼」「春興」「春愁」などの内包物を、数多の記憶と情感が重なりあっては薄れていく人生そのもののが持つ虚実皮膜性へと押し広げつつ、華やかな虚構へとまとめあげていく。

そこに不安即救済という矛盾それ自体を自己から切り離して眺めているかのような、悪意ある安らぎが現われるのである。災厄そのものが演劇的華やぎに転ずるのだ。


句集『石鏃抄』(2016.7 霧工房)所収。

2016年8月23日火曜日

〔ためしがき〕 高屋窓秋『石の門』の一句についてのメモ 福田若之

〔ためしがき〕
高屋窓秋『石の門』の一句についてのメモ

福田若之


『高屋窓秋俳句集成』(沖積舎、2002年)に収められた句集『石の門』には、次の句が載っている――

園の冬鳥をつかんで死の如く 高屋窓秋

そして、次の句形も併載されている。

園の冬鳥をつかんで死のごとく 

どちらも110頁。

ところが、『高屋窓秋全句集』(ぬ書房、1976年)に収められた句集『石の門』には、次の句形がみられる――

孤児の冬鳥をつかんで死の如く

こちらは61頁。

『俳句集成』では、単著として出版された『石の門』(酩酊社、1953年)をそのまま底本としているが、『全句集』では、それをもとに再編集が施されていることが窓秋自身による「あとがき」にも明記されている(読み比べると句の並びが全然ちがうのが分かる)。

『俳句集成』のほうでも、この句のおさめられた連作には「孤児」の句が並んでいる。とはいえ、この連作が「園にて」と題されている以上、「園」が孤児の名前だったりすることは、残念ながら、ないだろう。この連作のうちで「園」という場所がはっきり書かれているのはこの一句だけ。窓秋は、この句で「園」と書いておかないと、「園にて」というタイトルの意味がわからなくなると考えたのかもしれない。

『全句集』のほうでは、この句は「荒地にて」という連作におさめられている。この連作では、「荒地」という言葉が何度も出て来るから、この句で「園」と書く必要はない。むしろ、「荒地にて」と書かれているのに「園」というのは不自然な気さえする。「園」は、冬でも手入れされていて、枯れてはいても荒れてはいないイメージがある。窓秋は、連作の構成を考えて句を書き改めたのだと推測される。

結果的に、《孤児の冬》の句は、「孤児」が「鳥をつかんで」いると読めるようになっている。僕はこちらのほうが好きだ。

2016/8/2

2016年8月22日月曜日

●月曜日の一句〔池田澄子〕相子智恵



相子智恵






机上に蛾白し小さし生きてなし  池田澄子

句集『思ってます』(2016.07 ふらんす堂)より

机上の蛾がクローズアップされていく。白くて小さくて…と生き物を描写していって、最後にそれは死んでいる、ということがわかる。しかも死んでいる、とは書かれていなくて〈生きてなし〉なのである。

「生きていて当然」と思える中七までが、下五でざっと裏返る。生きていそうな蛾が、しかし生きていないかった。死んでいると書かれるよりも〈生きてなし〉と書かれる方が喪失感が強いような気がする。

この句集には〈死んでいて月下や居なくなれぬ蛇〉という句もあるのだが、ここでは死んだまま穴に入ることもできず、どこにも居なくなれない蛇が出てくる。死んだら居なくなる、という常識的な概念は覆される。

「生きていない」と「死んでいる」の間には確かに違いがあるが、それぞれの句の中でその言葉の働きを見れば、これらの句には通底するものがあるように思う。死ぬことは居なくなれることではなく、逆に、生きているように見えて死んでいたりする。

その裏側には、私が生きていることと、彼らが生きていないこと(死んでいること)とはいつでも入れ替わる可能性があったのに、でも私は生きて彼らを見て俳句を書いていて、彼らは死んで見られる側にいるという不条理がある気がする。それを自分に引きつけるというか、引き受けて書いてしまうところに、作者の作家性を見る。

2016年8月21日日曜日

■本日の流しっぱなし:『オルガン』まるごとプロデュース記念

本日の流しっぱなし:
『オルガン』まるごとプロデュース記念

週刊俳句・第487号

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