2017年6月23日金曜日

●金曜日の川柳〔高瀬霜石〕樋口由紀子



樋口由紀子






リア王もオセロもマクベスも 馬鹿だ

高瀬霜石(たかせ・そうせき)1949~

リア王もオセロもマクベスもシェークスピアの四大悲劇。悲惨な結末を迎えるのだから、確かに馬鹿だと言える。そうならないようになんとかすればよかった。が、何故「馬鹿だ」なんて身も蓋もない言い方をするのかと思った。

「馬鹿」という言葉は一見、単純で狭い一つの意味をしか持ち合わせてないと思ってしまいがちだが、存外、そうではなくて、広範囲にありとあらゆる感情が入り乱れている言葉である。「馬鹿だ」とあらためて言うことに意味があり、それによっての全体を照射する。愛情表現であり、アプローチの仕方なのだろう。

五四五三、計十七音で、川柳であると辛うじて保証している。この十七音がつぶやきで終わらない、なにがしかの意味をもたらす装置である。人名なので仕方がないと言えるのだが、強引な句跨りにも独自の捻じれがあり、それによってアイロニーとペーソスを生み出しているように感じる。『川柳作家全集 高瀬霜石』(2010年刊)所収。

2017年6月21日水曜日

●水曜日の一句〔長谷川晃〕関悦史


関悦史









オフェーリアの眼に笑ひあり万愚節  長谷川晃


オフェーリアはシェイクスピアの「ハムレット」で恋人ハムレットに捨てられ、父を殺され、身を投げて死ぬ悲運の女性。絵画の題材としてもよく取り上げられているが、最もよく知られているのはジョン・エヴァレット・ミレー(バルビゾン派のミレーとは別人)による水死体の油彩画ではないか。

特にその絵に限定して鑑賞しなければならない句ではないので、ひとまずそのイメージは振り払うとしても、生前の「笑ひ」ではなく、身投げした水死体と取らなければこの「笑ひ」の戦慄は生きてこない。

シェイクスピアの四大悲劇はみなそうだが、「ハムレット」そのものが、さして長い話ではないにもかかわらず混沌を含んでいて、先王の幽霊の登場する序盤から、ドミノ倒し的に登場人物がバタバタ死んでいく終盤まで、人のなかにありながら人のスケールを超えた力といったものが横溢している。

この「笑ひ」はその渦中で身を滅ぼしたオフェーリアの恐怖や諦念、侮蔑など、さまざまな感情が凍りついたような笑いである。

そこに季語「万愚節」が取り合わせられると、この悲劇をすべて嘘だといってほしいといった情緒纏綿たる悲しい「笑ひ」にも見えるが、一方、オフェーリアの人生そのものが一場の嘘という扱いにされてしまっているようにも見える。

いやしかし、そもそもオフェーリアは虚構の登場人物なので、本当の意味での人生というものはない。

「オフェーリアの眼に笑ひあり」という断定自体が嘘なのではないかということも考えられるが、これは真偽が確定できる命題ではない(虚構の話だからというのもさておき、劇中ではオフェーリアの死は「死んだ」という報せだけで済まされてしまい、直接描かれてはいなかったのではなかったか)。

一見、空想と理屈で付けられただけに見える「万愚節」だが、この句の、若い悲運の女性の水死体のイメージは、嘘-本当、虚構-現実という軸を混乱させ、いかなる物語に収まればよいのかを曖昧にたゆたわせたまま、「万愚節」という碇によって一句につなぎとめられている。その曖昧なたゆたいを体現しているのが「笑ひ」なのだ。


句集『蝶を追ふ』(2017.5 邑書林)所収。

2017年6月20日火曜日

〔ためしがき〕 uninstall.exe 福田若之

〔ためしがき〕
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福田若之


世のなかには、さまざまなイデオロギーがある。資本主義、民主主義、社会主義、共産主義、植民地主義、無政府主義、全体主義、テロリズム、形式主義、写実主義、象徴主義、構造主義、ポスト構造主義、モダニズム、ポストモダニズム、構造主義、経験主義、イスラム原理主義、キリスト教原理主義、マルクス主義、フロイト主義、人種差別主義、フェミニズム……まだいくらでもあるけれど、もう充分だろう。ときに重なりあい、ときに対立しあいながら働くこうしたイデオロギーは、しばしば、「物語」という言葉を使って語られてきた。

だが、ここでは次のように言ってみよう。イデオロギーはプログラムである。 プログラムという語は、ギリシャ語のπρόγραμμαを語源としている。それは、「公に書かれたもの」を意味していた。これはまた、「前もって書かれたもの」をも意味するだろう。ところで、イデオロギーとは、公的な法として自らが共有されることを要請するものであり、ハードウェアとしての僕たちを何らかの運動へと駆りたてるソフトウェアであり、何かが書かれるときにその前提として働こうとするものであり、出来事の展開をひとつの工程に従わせようとする式次第であるはずだ。だから、こうした意味で、イデオロギーとはプログラムの一種だといえる。

ここで僕は、 そうしたイデオロギーの一切を空き缶のように蹴っ飛ばして、早々にそこからの逃走をくわだててみせたりするつもりはない。そんなことはこれまでにもさんざん繰り返されてきたことなのだし、僕たちは、そんな物語を、もう、前もって繰り返し聞かされてきた。

プログラムはインストールされる。僕たちは、言葉を読みとり、あるいは聞きとるなかで、さまざまなイデオロギーを身のうちにとりこむ。必要なことがあるとすれば、それは逃走ではない。アンインストールの手順を用意することだ。もちろん、それはただちに必要とは限らない。もしかしたら、ハードウェアが壊れるまで使わずにすませることもあるかもしれない。それでも、アンインストールの可能性は、ひとつのプログラムがもはや不要とされるときのために、つねにあらかじめ担保されていなければならない。たとえば、「遺産」という語がなんらかの権威をまとって響くときに、特定のイデオロギーがこの語と結びつくことに問題があるとすれば、それは、このアンインストールの可能性が担保されていないという点にある。「遺産」という語は、それが権威をまとったときには、それを放棄すること自体を悪として意味づけるからだ。

話が逸れた。つねにあらかじめ、用意された手順。そう、アンインストーラもまた、それ自体が一個のプログラムにほかならない。そして、アンインストールの手順を用意するというのは、事実上、アンインストーラをプログラミングすることにほかならない。

アンインストーラを書くうえで注意しなければならないのは、 ひとつのプログラムがもはや不要とされるときというのは、必ずしも、そのプログラムの目的が果たされたときであるとは限らないということだ。僕たちは、インストールしたプログラムを結局は一度も起動させないままアンインストールすることもあるし、起動させてみて駄目だなと思ってプログラムを強制停止させてアンインストールすることもあるし、そうかと思えば、さしあたりこのプログラムが役に立つことはもうないだろうと判断しながらも、なんだかんだアンインストールせずにそのままにしておくこともある。だから、アンインストーラは、そうしたさまざまな場合に対応している必要がある。

ちなみに、アンインストーラのアンインストーラはといえば、際限なくアンインストーラが必要になるという事態を避けるために、通常、そのアンインストーラ自体に内包されている。アンインストーラが機能を果たしたあとで、アンインストーラが残らないのはそのためだ。それは、たとえば、ミシェル・フーコーが「書物そのものは、その効果のうちに、その効果によって消滅すべきなのです」と語ったような仕組みが必要とされるということだろうか。だが、アンインストーラのそうした仕組みについて、僕はまだよく知らない。だから、これはほんのためしがきでしかない。

けれど、ひとはアンインストーラを書くことができる。これまでにも、何度だって書いてきたはずだ。アンインストーラのプログラミングのやり方は、きっと、僕たちにプログラムされているはずだ。仮に、それもまたひとつのイデオロギーとしてでしかないとしても。

2017/6/11

2017年6月19日月曜日

●月曜日の一句〔横沢哲彦〕相子智恵



相子智恵






梅雨鯰利口な奴が増えてゐる  横沢哲彦

句集『五郎助』(邑書林 2017.06)

ここで言う「利口」とはどんな意味を持つのだろうか。〈利口な奴〉と「奴」が付くくらいだから、もちろん褒めてはいない。〈増えてゐる〉だから、裏側に「ある時点よりも」「近頃は」という時間が見えてくる。

その世界観は、取り合わせの〈梅雨鯰〉に託されている。梅雨鯰は鯰の傍題で、梅雨の頃に産卵のために水田などに姿を見せることからこう呼ばれる。

鯰の泥臭く、ゆっくりとしたイメージ、髭の生えたとぼけたような顔が思い出されることで、それと対比されるように「利口な奴」が指すイメージは、「都会的でスマートに生きる(計算高い)シュッとした奴」のように私には思われた。

利口な奴が増えたことへの皮肉の句なのだろうが、しかし、ふと鯰のパクパクとしたチャーミングな口を想像しながら「利口な奴が増えてゐる」と読んでみる。

すると皮肉だけではなく、「利口に行き過ぎだよ。少しは泥臭く、ゆっくり、ぼんやり行こうや」と鯰に言われているようにも思えてきて、肩の力も抜けていく。

鯰の取り合わせが、この句がきつくなり過ぎないチャーミングさを加えているのだ。

2017年6月16日金曜日

●金曜日の川柳〔石田柊馬〕樋口由紀子



樋口由紀子






妖精は酢豚に似ている絶対似ている

石田柊馬 (いしだ・とうま) 1941~

えっ、「酢豚に似ている」って。「妖精と酢豚」、どこも似ていないと誰もが思う。それを「絶対似ている」とまるで子どもの言いぐさのように、駄目だしする。妖精のイメージが一気に壊れる。読み手を引き込む確信犯である。

肝心なことに気づいた。妖精を見たことがない。絵かなにかでそれらしきものは見たことはあるが、架空の、想像のものである。だから、それがホンモノかどうかも疑わしい。酢豚には似ているはずがないと思いながらも、なにやら似ているような気もしてくるからくやしい。決まりきっているものへの嫌味である。

「絶対」がクセモノ。「絶対嘘はつかない」「絶対忘れない」は嘘をついてしまうから、忘れてしまうから、「絶対」をつける。そのような「絶対」に限りなく近いように思う。「絶対」はそう簡単に使いこなせる言葉ではない。たぶん、このようなヘンな川柳はいままでなかっただろう。どうでもいいことを真剣に言いたてているふりをして、現実とはどこか違うものを川柳に仕立てあげている。あくの強い語りに上手さがある。『セレクション柳人 石田柊馬』(2005年刊 邑書林)所収。