2019年9月21日土曜日

●土曜日の読書〔月をつくる〕小津夜景



小津夜景








月をつくる

中秋だけど、とくになんてこともない。と思っていたら、夫がライ麦の餅をつくってくれるという。

ラッキー。ラッキー。そうやって浮かれて長椅子でごろごろしていたら、台所から焼きパンのような匂いがただよってきた。

あれ? これ焼きパン? もしかしてあの人、お餅のつくりかたを知らない? そんな疑いが脳裏をよぎった。が、下手に口出しすると機嫌をそこねて何にも食べられないかもしれない。ここはじっと黙って待つしかないだろう。

作業開始から約一時間後、ついに餅がテーブルに運ばれた。全粒粉でこしらえた凹凸のある餅が、薄い月餅のかたちに8個かさねられ、朱色の花形盆に盛り付けてある。ひなびた情緒がいかにも十五夜風だ。こっそり胸を撫でおろして、いただきますとひとつ齧る。ふつうのお餅よりも軽い噛みごたえで、ブルターニュの甘い塩の味が口中にじわりと湧き出てきた。おいしい。

「おいしいよ。ありがとう」
「どういたしまして」
「フライパンで焙った? 表面がふっくら割れてる」
「焼き目つけてみた。いいでしょ」
「うん。十五夜のお月さまっぽくはないけどね」
「なんで。クレーターじゃん。リアルじゃん。リアリティ出したんだよ」

なるほどリアルか。そういわれると、たしかに餅の焼き目が月のクレーターに見えそうな気分になってきた。あくまで気分だが。しかし、ということは、この餅の珍妙な色合いもあえてのしわざなのか。

「あのさ。この鹿皮みたいな色は」
「鹿皮って何? これは月の色でしょ」

やはりわざとだったのだ。ふと大昔の洞穴に残っている原始人の絵を思い出す。あれは本当にリアルでおどろいてしまうが、いまわたしの手の中にある月も、きっとものをよく見る人の月なのだろう。夫は星が好きで、よく天体を観察しているから。
鹿を写生してかいたが鹿にみえるだろうか。太閤さんがある歌会に出て、「奥山にもみぢふみわけ鳴く蛍」とかいたら、細川幽斎が「しかとは見えぬ杣(そま)のともしび」と附けた。
この画も鹿と見てほしい。
私は動物園で写生してきた。「あなたは奈良で毎月ゆくのに動物園などに行かなくてもよいでしょう」と云われた。奈良公園の鹿は紙を見ると食べに来る。スケッチブックなど見たら、そばへよってきて写生どころではない。檻の中にいる鹿の方がよい。(中川一政『画にもかけない』講談社文芸文庫)

「今夜、何時に月を見に行く?」
「あ。プーアル茶入れてたの忘れてた」

そう言うと、夫は立ち上がり、台所へ戻った。手をついたとき、テーブルの上の桔梗がゆれた。わたしは具象と抽象を兼ね備えたリアルな月を、また一口嚙んだ。




2019年9月19日木曜日

●木曜日の談林〔宗因〕浅沼璞



浅沼璞








 跡しら浪となりし幽霊      宗因(前句)
世の中は何にたとへんなむあみだ   仝(付句)
『宗因千句』(寛文13年・1673)

前句は謡曲取りで、〈怨霊は、又引く汐に、揺られ流れて、跡白波とぞなりにける〉という『船弁慶』からのサンプリング。

「見るべき程の事は見つ」と壇ノ浦で入水した勇将・平知盛の霊を描き、〈白波〉と「知らない」が掛詞になっているのは謡曲ゆずり。

「白波がたち、行方の知れなくなった知盛の幽霊よ」といった感じ。



付句は、〈世の中を何にたとへん朝ぼらけ漕ぎゆく舟のあとの白波〉(拾遺集・沙弥満誓)の本歌取り。

前句〈跡しら浪〉→付句〈世の中は何にたとへん〉
前句〈幽霊〉→付句〈なむあみだ〉
という二つの連想経路をカットアップ、そのイメージギャップで笑いを誘発する。

「世の中を何にたとえたらいいだろう……南無阿弥陀仏」といった感じ。

(本歌の、出家・満誓に対する念仏への連想もあろう)



この付合を集英社版「古典俳文学体系3」で初めて読んだとき、すぐに次の句を思いだした。
明易や花鳥諷詠南無阿弥陀      虚子
いわゆる「句日記」――昭和29年7月19日、千葉県・神野寺での連泊稽古会で詠まれた作。

早朝の勤行への挨拶だろうが、句の仕立てはサンプリング&カットアップの宗因流といっていい。

これは仁平勝氏が『虚子の近代』(弘栄堂書店、1989年)で指摘済みだけれど、収録句に日付を記すという「句日記」の形式を〈連句に代わるフォルム〉として捉えかえすことだってできるのだ。

子規に松永貞徳のような勤勉さを感じる一方、虚子に宗因的な奔放さを感じてしまうのは、きわめて俳諧的なのかもしれない。

2019年9月16日月曜日

●月曜日の一句〔仙田洋子〕相子智恵



相子智恵







そのあとは煮込んでしまふ茄子の馬  仙田洋子

句集『はばたき』(KADOKAWA 2019.8)所載

一読、笑ってしまう。お盆の時に苧殻の脚をつけて作った茄子の馬。祖霊を迎え、送るための精霊馬だが、お盆が終わったあとは捨てるのももったいないので煮込んでしまった。

茄子は少し萎びているだろうから、天ぷらのように素材の味や形そのものを生かす料理には向かない。しかし、くたくたに〈煮込んでしま〉えば、少々萎びていようが苧殻の穴が開いていようが関係なく、おいしくいただけるのである。ラタトゥイユのように細かく切ってトマトで煮込むのもおいしいだろう。

〈煮込んでしまふ〉に諧謔と若干の罪悪感が滲んでいるが、一度は魂をのせたお供え物を食材に引き戻すのは、ドライなように見えて案外、ただ捨ててしまうよりも祖霊を身近に感じる温かい行為のように、私には思えた。

生死が近くあるお盆にあって、祖霊が乗った茄子の馬を食べることは、死者から命がつながって自分が今生きていることの肯定のように思える。神人供食の「直会(なおらい)」に近い意味を、死者と生者との間にも感じて、何だか元気が出るのである。

2019年9月14日土曜日

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2019年9月13日金曜日

●金曜日の川柳〔荻原久美子〕樋口由紀子



樋口由紀子






寂しさに午前と午後のありにけり

荻原久美子 (おぎわら・くみこ)

今話題の高山れおなさんの『切字と切れ』は読み応えがあった。川柳では切字の「や」「かな」「けり」はあまり使わないが、川柳にも切れのある句はある。掲句は切字の「けり」を使っている。「けり」を使っているので、切れているのだろうか。それよりはぽんと投げ出したような雰囲気がある。それも切字効果なのだろうか。

「寂しさ」という理由があってないようなものに「午前と午後」という、これもわかるようでわからない輪郭を与え、「ありにけり」と、さらっと退場する。余分な動詞を斡旋してないので、余計な説明はなく、意味に引っ張られることがなく、一句が終結する。後には言葉だけが残り、余韻をもたらしている。「ありにけり」を流通させ、認証させたことはマジックである。『ジュラルミンラビア』(1991年刊)所収。