2017年2月19日日曜日

◆『週刊俳句』10周年記念オフ会のお知らせ〔第1弾〕

『週刊俳句』10周年記念
オフ会のお知らせ〔第1弾〕

小誌『週刊俳句』はこの4月、10周年を迎えます。そこで、皆様とともに記念祝賀の集まりを楽しみたいと考えました。

日時:2017年416日(日) 12:30~20:30
※昼はイベント、夜は懇親会。詳細は追ってお知らせいたします。
まずは、この日、スケジュールをあけておいていただけますでしょうか。

場所:東京・小石川後楽園 涵徳亭
東京都文京区後楽1-6-6
〔アクセス〕都営地下鉄大江戸線「飯田橋」(E06)C3出口下車 徒歩3分
JR総武線「飯田橋」東口下車 徒歩8分
東京メトロ東西線・有楽町線・南北線「飯田橋」(T06・Y13・N10)A1出口下車 徒歩8分
東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」(M22・N11)中央口下車 徒歩8分

2017年2月17日金曜日

●金曜日の川柳〔草地豊子〕樋口由紀子



樋口由紀子






乳のある方が表でございます

草地豊子 (くさち・とよこ) 1945~

一読して大笑いしてしまった。確かに「乳のある方が」おもてであり、まえである。まちがったことはなにも言っていない。でも、もっと他の言い方があるでしょう、よりにもよって「乳」なんて言葉を平気で使うなんて、ここまでよく言うわと感心した。でも、どんな問いをかけられたのだろうか。

「こんな恥ずかしい句はよう書かんわ」と作者に告げると、「恥ずかしがっているうちはいい川柳は書けへんわ」と笑って言われてしまった。私はまだまだ修行が足りず、どこかで恥ずかしがっていて、ええかっこして川柳を書いていると痛感させられる。インパクト抜群の川柳で、何度読んでも降参するしかない。〈文化の日「乳」という題ひねっている〉〈用もない乳が未だにぶら下がる〉 「杜人」(2016年冬号)収録。

2017年2月16日木曜日

●地下鉄

地下鉄




地下鉄にかすかな峠ありて夏至  正木ゆう子

地下鉄を出るより三社祭かな  倉田春名

秋の蚊の声や地下鉄馬喰町  大串 章

地下鉄に下駄の音して志ん生忌  矢野誠一

地下鉄によく乗る日なり一の酉  松本てふこ〔*〕

地下鉄に息つぎありぬ冬銀河  小嶋洋子


〔*〕『俳コレ』(2012年1月/邑書林)より。

2017年2月15日水曜日

●水曜日の一句〔田島健一〕関悦史


関悦史









夕立を来る蓬髪の使者は息子  田島健一


幻想的な作風で知られる小説家の森内俊雄に『使者』という中篇があって、そちらも息子が他界性を帯びたキャラクターとなっていた。本が手元にないのでうろおぼえで書くが、しかも出だしは、帰ってくる息子を主人公が風呂場で待つシーンだったはずである。つまり使者=息子の帰還と、それを待ち受ける視点人物との間に、どちらも水が介在している。

ここに何か普遍的な想像力のパターンのようなものが介在しているのかは判然としないが、七つまでは神のうちという子供観は昔からある。新しい命がどこからやってくるのかはわからないし、乳幼児死亡率の高かった時代であれば、なおのこと幼子はこの世に定着している存在とは見えなかっただろう。「水にする」といえば堕胎を指すということもある。子=水=他界的な使者という観念連合自体は無理のないものだ。

無理がないということはそれだけでは句になりにくいということでもあって、この句の場合、そこにずらしをかけているのは「夕立」「来る」「蓬髪」の三語となる。

「夕立」は静かに湛えられた水ではなく、空間と視界を激しくかき乱す水である。ここでは視界全体が他界と地続きになっている。「蓬髪」も尋常の形容ではない。「夕立」と合わさると単に「神のうち」というよりは、鬼神に近いワイルドな(しかもおそらく性的魅力すらある)何かと見えてくる。その中での「来る」は、受胎告知か何かのような重みを持つ。そして、それを受けられる視点人物も、息子と同じ他界性をいささかは分有する資格のある者ということに、突然なるのだ。

分解していくとこのようなことになるが、語順から見れば「夕立を来る蓬髪の使者」というひとまとまりの異様な認知がまずあり、それが「息子」であったという急展開が視点人物をもいきなりこの世から浮き上がらせてしまうわけで、重みのある言葉の組み合わせが、かえって重力を剥奪してしまう辺りがこの句特有のダイナミックな愉悦を成している。

「は」はメタレベルからの定義付けとなるので、理屈っぽくなりがちな助詞なのだが、それも逆手に取られた格好で不思議な衝撃の演出に役立てられている。


句集『ただならぬぽ』(2017.1 ふらんす堂)所収。

2017年2月14日火曜日

〔ためしがき〕 「俳句入門書」について 福田若之

〔ためしがき〕
「俳句入門書」について

福田若之


「俳句入門書」を、額面通りに読むなら、たぶんそれはさほど面白くもないし、さほど役にも立たない(少なくとも僕にとっては)。

だが、俳句の作り手の思想なり思考なりのあらわれとして読めば、あれらの書物にも、面白み(すくなくとも、面白みの契機)はある。たとえば、虚子の『俳句の作りよう』は、写生による俳句を、あたかも感覚器官・感覚神経と中枢神経のみからなるシステムにおいて生成可能なものであるかのように語っている。これを、たとえばアレクサンドル・ベリャーエフのSF小説である『ドウエル教授の首』などを念頭に置きながら読むということは、僕にとっては、ただ虚子の俳句だけを読むこととは全く異質の、面白い読書体験だった。

原石鼎の『俳句の考え方』も、秋元不死男の『俳句入門』も、彼らの思想や思考の過程、そして何より彼らの個人的な思い出などが書き込まれたものとして読めば、相応の豊かさをもっている。

要は読み次第だ。それ次第で、多くのさほど面白くもない「俳句入門書」は、面白い書物に化けうる。そして、その面白みは句集を読む面白みとはまったく別のものでありうる。

ちなみに、額面からして「俳句入門書」ではないように思われるものが「俳句入門書」として紹介されてしまっているという場合もある。たとえば、ひらのこぼ「俳句入門書100冊を読んで」の末尾に付された『俳句開眼100の名言』の目次の100冊には、句集である三橋鷹女『羊歯地獄』 や、エッセイ・書評などを中心に収めており「俳句入門書」的要素のほとんどみられない攝津幸彦の全文集である『俳句幻景』をはじめ、「俳句入門書」として読むほうが珍しいであろう多くの書物が含まれている(この際だから自分の考えをはっきり書いておくと、鷹女の『羊歯地獄』の自序というのは、「俳句入門書」的な短文などではさらさらなく、むしろ鷹女が「俳句入門書」を書くなどということとはついぞ無縁であったことを証しだてるもののはずだ)。

自分が面白いと感じられる本を探すのに必要なのは、「俳句入門書」というレッテルと向き合うことではなく、一冊一冊の書物と向き合うことだ。僕は、リンク先に掲げられた100冊のリストが「俳句入門書」を拒む読者にとっての「読むことなく敬遠すべき100冊」のリストとなってしまわないことを祈る。

2017/2/1