2025年5月12日月曜日

●月曜日の一句〔涼野海音〕相子智恵



相子智恵






金魚田の隅の波立つ夜明けかな  涼野海音

句集『虹』(2025.1 ふらんす堂)所収

印象鮮やかな句である。金魚田は、金魚の養殖に使われる池や田だが、現在のそれは、専用の養殖池であろう。

金魚も夜は静かに休息する。まぶたはないが、眠っているのである。掲句からは、隅の方に固まって休んでいたことが想像されてくる。そんな金魚たちは、夏の早い夜明けに起きだし、金魚田は隅の方から静かに波立ってくるのだ。

〈隅の波立つ〉の描写が、金魚の集まる習性をよく捉えていて見事である。そして、金魚の赤色(赤い金魚が想像される)と、夏の夜明けの茜色の対比が想像されてきて、繊細な美しい色の情景が、まぶたの裏に静かに浮かんでくるのである。

 

2025年5月7日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇26 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇26
 
浅沼璞
 
 
これはもう四半世紀ほど前の話ですが、「式目にうるさい連句で、自身の内面を表現することはできるのか」という難問について一筆したためたことがあります。
 
それは後に拙著『中層連句宣言』(2000年)に収録した架空連句の留書で、自身の体験をもとにした内面表出の可能性について言及しました。
 
以降、長らくふれてこなかったこの難題を、当「西鶴ざんまい」で『独吟百韻自註絵巻』を読み解くうちに再び考えることになろうとは……。

 
それはここのところ註解を加えてきた次の付合群を契機としています。

  吉野帋さくら細工に栬させ
   鹿に連泣きすかす抱守
  面影や位牌に残る夜半の月
   廻国に見る芦の屋の里   (三ノ折・表7~10句目)

周知のように、西鶴は若いころに幼馴染の愛妻を、晩年に盲目の愛娘を共に病気で亡くしています。晩年に巻かれた独吟のこの一連には、そんな西鶴の悪戦苦闘が託されているのでは、と思い始めた矢先、たまたま檜谷昭彦氏のかつての解釈(1986年)に出会いました。まったく目から鱗の出会いでした。
 
以下、西鶴自註の番外編として抜粋します。

《…吉野を点出させ、鹿の妻恋う声から抱守りを出し、亡妻の面影を月の座で描き、廻国行脚の旅人を詠む。いま西鶴の自註を無視して連俳それ自体を自由に読むとき、私は西鶴における熊野行が、亡妻および亡女との蜜月の旅におもえてならない。》「西鶴晩年の動向」『西鶴論の周辺』(三弥井書店)

そして辞世の発句へと話は発展します。

《西鶴が熊野へ旅し独吟百韻を詠んだのは事実だし、その後かどうかはこれも不明だが、辞世の句、
  浮世の月見過しにけり末二年
が生前すでに用意されていたのも事実としてよいだろう。(中略)キイワード「見過し」の意味内容は、はたしてなんだったのだろうか。たとえばこの語の伝える読者への発信を、現行の古語辞典が示す意味に限ってよいのかどうか。私はこの「月見過しにけり」の一句に、(中略)晩年の悪戦苦闘と孤独な生活に耐えた作家の、「末二年」間の索漠たる精神構造を見るのであり、結句、俳諧に回帰するほかなかった詩心と、西鶴の、いわゆる〈無念〉のおもいを読もうと考えている》


これまた周知のように、「人生五十年、それすら過分なのに、二年も長生きしてしまった」というような前書がこの辞世には付されていますが、その自虐の裏側を覗きこむような結語を檜谷氏は記しているのです。言うまでもなくこの結語は先の独吟連句の一連を契機としてなされたものです。ここに冒頭に掲げた難題の答えを見るのは愚生だけでしょうか。

2025年5月2日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



桜田門外の変な日であった  川合大祐

江戸幕府大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」は、安政7年(1860年)3月3日。この日は新暦に直すと3月24日。大雪だったのは知らなかった。現在の東京でも、桜の頃に雪が降るのはめずらしくないが、意外。

この日は、「変な日であった」のかもしれない。

井伊直弼がこのとき満44歳だったことも意外。昔の人の人生と今の人生を比べるのは意味がないほど、昔の人は短命で業績が凝縮している。モーツァルトは35歳で死ぬまでに膨大な曲を残したし、正岡子規も享年35歳とは思えないほど大量の仕事を成し遂げた。で、井伊直弼は40代で政府のトップ。「大老」とは老人のことではないのだと、無知をさらしてしまう。

ついでに意外、というか、またもや私自身の無知無学に起因するたぐいの話だが、襲撃にピストルが用いられ、籠の中の標的に銃弾が命中したともいう。意外。チャンバラ時代劇の殺陣しかアタマになかった。

と、まあ、例によって安直にネット検索で、この歴史的な出来事について調べ、なんやかやと興味を向けている。今日は、私にとって、ずいぶんと「変な日」にちがいない。

掲句は川合大祐川柳句集『スロー・リバー』(2016年8月/あざみエージェント)より。

2025年4月25日金曜日

●金曜日の川柳〔しまもと菜浮〕樋口由紀子



樋口由紀子





船底に乱反射して月の群れ

しまもと菜浮(しまもと・らいふ)

暗闇の波間に、黒い船体に、ときおり波が打ち寄せ、月が映る。実際に見たのを言葉にした写生句か、あるいは映画などで観たのを記憶をしているのかもしれない。その月は眩しいほどに美しく、この世のものとは思えないほど輝いている。

「月」に「群れ」の一語をつなぐことによって、「月」につきまとう崇高さが抜けて、俗臭をまとい、一気に身近に迫ってくる。映像として虚構性をまとわせながら、視覚的なリアリティを持って、奇想化する。「月の群れ」のなかに交じって乱反射している作者の姿も思い浮かんでくる。『のんびりあん』(俳句短歌We社 2024年刊)所収。

2025年4月21日月曜日

●月曜日の一句〔彌榮浩樹〕相子智恵



相子智恵






舌の上に黄金週間の飴が  彌榮浩樹

句集『銃爪蜂蜜 トリガー・ハニー』(2025.3 ふらんす堂)所収

気づいたら、来週からもうゴールデンウィークであった。
掲句、「舌の上に飴が」は些事中の些事であり、「舌の上に飴があるのは当たり前じゃん」の一言で鑑賞が終わってしまうくらい、ある意味、清々しいほどの「驚きのなさ」である。

そこに唐突に割り込んだ〈黄金週間の〉。この季語が、一句にぬけぬけとした面白味を与えている。何でもない飴が、光り輝く宝物のように思えるではないか。しかも「黄金週間」という張りぼてのような薄っぺらなネーミングが、妙に「舌の上の飴」という庶民的な些事と合っているのだ。

〈飴が〉の言いさしも効果的だ。気づいたら黄金週間に突入していて、でも自分は変わらず飴を舐めるような日常。

そんな時、わざと恭しい感じで「(おお、我が)舌の上に黄金週間の飴が」と言ってみた…その輝かしい虚しさ。自嘲的な雰囲気があるところが面白い。