これはもう四半世紀ほど前の話ですが、「式目にうるさい連句で、自身の内面を表現することはできるのか」という難問について一筆したためたことがあります。
それは後に拙著『中層連句宣言』(2000年)に収録した架空連句の留書で、自身の体験をもとにした内面表出の可能性について言及しました。
以降、長らくふれてこなかったこの難題を、当「西鶴ざんまい」で『独吟百韻自註絵巻』を読み解くうちに再び考えることになろうとは……。
それはここのところ註解を加えてきた次の付合群を契機としています。
吉野帋さくら細工に栬させ
鹿に連泣きすかす抱守
面影や位牌に残る夜半の月
廻国に見る芦の屋の里 (三ノ折・表7~10句目)
周知のように、西鶴は若いころに幼馴染の愛妻を、晩年に盲目の愛娘を共に病気で亡くしています。晩年に巻かれた独吟のこの一連には、そんな西鶴の悪戦苦闘が託されているのでは、と思い始めた矢先、たまたま檜谷昭彦氏のかつての解釈(1986年)に出会いました。まったく目から鱗の出会いでした。
以下、西鶴自註の番外編として抜粋します。
《…吉野を点出させ、鹿の妻恋う声から抱守りを出し、亡妻の面影を月の座で描き、廻国行脚の旅人を詠む。いま西鶴の自註を無視して連俳それ自体を自由に読むとき、私は西鶴における熊野行が、亡妻および亡女との蜜月の旅におもえてならない。》「西鶴晩年の動向」『西鶴論の周辺』(三弥井書店)
そして辞世の発句へと話は発展します。
《西鶴が熊野へ旅し独吟百韻を詠んだのは事実だし、その後かどうかはこれも不明だが、辞世の句、
浮世の月見過しにけり末二年
が生前すでに用意されていたのも事実としてよいだろう。(中略)キイワード「見過し」の意味内容は、はたしてなんだったのだろうか。たとえばこの語の伝える読者への発信を、現行の古語辞典が示す意味に限ってよいのかどうか。私はこの「月見過しにけり」の一句に、(中略)晩年の悪戦苦闘と孤独な生活に耐えた作家の、「末二年」間の索漠たる精神構造を見るのであり、結句、俳諧に回帰するほかなかった詩心と、西鶴の、いわゆる〈無念〉のおもいを読もうと考えている》
これまた周知のように、「人生五十年、それすら過分なのに、二年も長生きしてしまった」というような前書がこの辞世には付されていますが、その自虐の裏側を覗きこむような結語を檜谷氏は記しているのです。言うまでもなくこの結語は先の独吟連句の一連を契機としてなされたものです。ここに冒頭に掲げた難題の答えを見るのは愚生だけでしょうか。