2019年5月20日月曜日

●月曜日の一句〔藤本夕衣〕相子智恵



相子智恵







木の影のまじはらずあり衣更  藤本夕衣

句集『遠くの声』(ふらんす堂 2019.3)所収

自然の雑木林や森ならば、枝や葉、幹の影同士が交わるようにたくさん木が生えているだろうから、街路樹か公園の木だろうか。杉などの人口林かもしれない。規模の大きさはわからないが、いずれにしても人の手が入って整然と並べられた木たちを思う。

木の影が交わらないのは寂しくもあり、すっきりと涼しげでもある。それは、夏服に衣更した時の涼しさと、その反面、慣れるまでは半袖や丈の短いボトムに手足が守られずに、心細くて寂しい感じと遠くで響き合っている。

〈木の影のまじはらず〉と言われると、自然に木の枝が思い浮かぶし、〈衣更〉では人の手足が思われてくる。一見、意外な取り合わせでありながら両者はどこか似ていて、美しく響き合っているのである。

2019年5月19日日曜日

●恐龍

恐竜

恐竜のなかの夕焼け取り出しぬ  あざ蓉子

恐竜には致死量の憂愁だったか  松本恭子

ひこばゆる彼の恐龍の頬骨に  三輪小春〔*1〕

恐竜の振り向いている桜かな   大口元通〔*2〕

春の夜やからだを通過する恐竜  渋川京子〔*3〕

いまは最後の恐竜として永き春  高柳重信

このまま死ねば宵つぱりの恐竜で春の日  加藤郁乎


〔*1〕三輪小春句集『風の往路』(2014年3月)≫過去記事
〔*2〕大口元通句集『豊葦原』(2012年12月)≫過去記事
〔*3〕『面』第124号(2019年4月)

2019年5月17日金曜日

●金曜日の川柳〔梅村暦郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






なにもなき街 なにもなく風通る

梅村暦郎 (うめむら・れきろう) 1933~

連休の二日間を広島の世羅高原のコテージで過ごした。なにもないところで、なにもしないで、なにも考えずに、ただぼっーとしてした。なにもなく風も通り、新緑の中の風は心地よく、「風薫る」とはこういうことなのだと思った。

そのときふと掲句を思い出した。この風は心地よい、お気楽ではない。虚しく、冷たい風だろう。街にはいろいろなものがあふれている。なにもないことはない。ただ、作者が必要とするものがなにもない。しかも、街も作者を必要としていない。生きている意味を問うているように思う。「風」はそのときどきで、それぞれの位置で、表情を変えて、別物になる。そんなことを考えていると風がひんやりと通り抜けていった。

2019年5月11日土曜日

●土曜日の読書〔翻訳のキモチ〕小津夜景




小津夜景







翻訳のキモチ

翻訳には言葉を数学的に思考する面白さがある。

考えに没頭して現実を忘れ、試行錯誤のあげく一周してシンプルな式に辿りつく、その瞬間がたのしい。また一度くぐりぬけた試行錯誤を公式化して別の翻訳に応用できる場合もあり、昔の翻訳本を読んでいてそんな公式と出会ったときは、ううむその手があったかと感動する。
「秋浦歌」李白
白髪三千丈
縁愁似箇長
不知明鏡裏
何処得秋霜
わが黒髪もしら糸の
 千ひろ/\に又千ひろ、
うさやつらさのますかがみ
いづくよりかは置く霜の、
なんと〈千ひろ×3〉で三千丈だ。訳者は忍海和尚。三千丈という言葉をきちんと訳し移した例を知らなかった私は、この「数を分解する」といったエレガントな解答例を自前の公式集にいそいそと書き込みつつ、こう思う。そういえば16歳のことを二八(にはち)と言うよなあ、そこから自力で発見できる可能性はあったんだ、と。

忍海和尚の訳は、大庭柯公其日の話』(春陽堂。なお中公文庫『江戸団扇』はこの改題復刻版)で見つけた。柯公といえばなんどもロシアで逮捕投獄され、日本社会主義同盟の創立にかかわったエスペランティストで、1924年にロシアで死亡したのだけれど、近年これは粛清されたと考えられているようだ。
近ごろ帝国ホテルでは、日本風に翻訳したメニューを時々出す。それにはアスパラガスを「新うど」としてある。中央亭の方では、それが支那風の翻訳だ。露国式ザクースカの事を「前菜」、スープが「濃嚢(のうかう)」に「淡嚢(たんかう)」、アイスクリームが「乳酪冷菓」と云たやうな塩梅だ。翻訳といふことも広い意味で云ふと文字の翻訳から、意義の翻案までを含んでよからう。例の発明翻案の天才平賀源内が、或時厚紙を三角の袋にして、その中へ糊を入れて、一方に小さな穴をあけて、押し出して使ふ万年糊を想い着き、それに「オストデール」といふ名を着けて、売り出させた。荷蘭(オランダ)ものゝ渡来、西洋ものの流行り始めたアノ頃としては、好個の翻案である。誰が云ひ出したことか、袴のことを「スワルトバートル」などゝ洒落たのも、此辺からの重訳であらう。
柯公がエスペランティストになったのはインターナショナルとの絡みよりも、むしろ生来の言葉好きが関係している。発明翻案というのも、デタラメにでっち上げるのではなく、オランダ風とか、漢語風とか、ちゃんと音を意識してつくると足腰が強くなりそうな遊びだ。漢語風で私が思い出すのは、山内容堂がジャノメ傘を「蛇眼傘(じゃがんさん)」と翻案したことで、これはとても風流。いっぽう柯公の本では、乃木大将が日露戦争の激戦区である203高地のことを「爾霊山(にれいさん)」とした例が挙がっていた。
「爾霊山」乃木希典
爾靈山嶮豈攀難
男子功名期克艱
銕血覆山山形改
萬人齊仰爾靈山
203高地は険しいが、なぜ登れないことがあろう。
男子たるもの功名のためには困難に打ち克つのだ。
兵器と鮮血とが山を覆い、その形を変えるほどの戦。
人々皆は仰ぎみる。爾(汝)らの霊の山を。
203高地=爾霊山=汝の霊の山か。たしかに「余程文字の素養があつたことが分る」と書かれるだけのことはある。翻案という所作は、外国語翻訳という枠を超えて、言葉の素養として深い広がりを持っているのだなあ。

広がりついでに書けば、実は号(ペンネーム)という所作にも翻案の精神は働いている。この話はまた今度書きたいのだけれど、さしあたり大庭柯公という号にのみ言及すると、これは「大馬鹿公」のもじりである。仏誤翻案風にいえば、さしずめマルキ・ド・クレタン、といったところですね。


2019年5月10日金曜日

●金曜日の川柳〔瀧村小奈生〕樋口由紀子



樋口由紀子






これからが躑躅やんかというときに

瀧村小奈生 (たきむら・こなお) 1962~

10連休の混雑をくぐり抜けながらあっちこっちに行った。花花が一斉に動き出したようで見事だった。藤に、こでまりに、ルピナスに、花水木に、などなどだが、今の季節の一番のお気に入りは躑躅だ。派手とは言えないが、あとでその華やかさに気づく。若い頃はそのよさがあまりわからなかったが、躑躅を見るとほっとする。

そんな躑躅が咲く、これからというときに、なにがあったのか。季節は一月ほど前のことだろうか。いやいやそんなことより、「なんやねん」とつい突っ込みをいれたくなる。「躑躅」の漢字の難しさだけを際立たせて、景がコトに、コトが景に、くるくると交互に回転する。目前に咲く躑躅とは違う、別の躑躅の世界を作り上げている。「川柳ねじまき#5」(2019年刊)収録。