2018年6月22日金曜日

●金曜日の川柳〔柴田午朗 〕樋口由紀子



樋口由紀子






男か女くらいは分かる九十八歳

柴田午朗 (しばた・ごろう) 1906~2010

「わかる?」「できる?」などと老人に対して、わからないこと、できないことを前提として、尋ねてしまうことがある。九十八歳はどのようなのか。ひょっとしたら、自分だってその年齢まで生きているかもしれない。だから、つい聞いてしまう。それに対しての簡潔な回答のような川柳である。作者にとっても初めての経験で発見もあり戸惑いもある。確かにわからないことも徐々に増えてきているだろう。しかし、みんなが想像するほど、みんなのご期待に添えるほどの年寄りではないのだ。

大いなる皮肉をたっぷり含ませて、豊かなユーモアをもって言い切っている。老いの心情をちょっと斜めの角度から、今ここに存在し、この世を見ている「九十八歳」を表出している。〈鍼医者にほめてもらった九十三〉〈九十歳嘘がだんだんうまくなる〉〈お辞儀さえして居ればよい敬老日〉。「川柳大学」(88号 2003年刊)収録。

2018年6月21日木曜日

●個性

個性

個性も単なる蛞蝓の跡黄に乾く  原子公平

栗虫のその栗色に個性あり  如月真菜

白玉に個性がないと叱りけり  雪我狂我



2018年6月19日火曜日

〔ためしがき〕 爪 福田若之

〔ためしがき〕

福田若之

まずは、ジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像』。次の引用は、主人公であるスティーブン・ディーダラスの発言の途中からである。
藝術家の個性というのは、最初は叫びとか韻律とか気分なんで、それがやがて流動的で優しく輝く叙述になり、ついには洗練の極、存在しなくなり、いわば没個性的なものになる。劇的形式における審美的映像というのは、人間の想像力のなかで洗練され、人間の想像力からふたたび投影された生命なんだ。美の神秘というのは、宇宙創造のそれみたいにして成就される。藝術家は、宇宙創造の神と同じように、自分の細工物の内部か、後ろか、彼方か、それとも上にいて、姿は見えないし、洗練の極、存在をなくしているし、無関心になっているし、まあ、爪でも切っているんだな。
 ――爪も洗練させて、存在しなくしようってわけか、とリンチが言った。
(ジェイムズ・ジョイス『若い藝術家の肖像』、丸谷才一訳、集英社、2014年、400-401頁)
したがって、ここでスティーブンの思い描く究極の「藝術家」は、言ってみれば〈爪を切るひと〉だ。〈爪を切るひと〉は、存在をなくした、洗練の極たる没個性的なものとして語られている。
 
ところで、哲学者のジル・ドゥルーズは〈爪を切らないひと〉だった。ドゥルーズは、「口さがない批評家への手紙」のなかで、自分の爪が伸び放題になっていることについてのミシェル・クレソールの解釈をとりあげながら、この批評家に宛てて次のとおり述べている。
きみは手紙の最後のところで、私が着ている労働者の上着は(ちがうよ、あれは農夫の上着なんだから)、マリリン・モンローのプリーツ・ブラウスと同じだし、私の爪はグレタ・ガルボのサングラスと同じ意味を持つと書いている。そして皮肉と敵意に満ちた助言をならべたてている。きみが爪のことをしつこく蒸し返すから、ここでちょっと説明しておくとしようか。たとえば、すぐに思いつく解釈として、こんなものがあるだろう。私は母親に爪を切ってもらっていた、したがってこれはオイディプスと去勢に結びつく(グロテスクではあるけれども、これだって精神分析的解釈にはちがいない)。また、こんな指摘をすることもできるだろう。つまり私の指先を見ると、ふつうなら保護膜になるはずの指紋がない、だから指先が物にふれたとき、それも特に織物にさわったとき、私は神経の痛みで苦しむ、だから爪を伸ばして保護しなければならないのだ、とね(これは奇形学と自然淘汰説による解釈だ)。あるいはまた、ことの真相を語りたいなら、こんなふうに説明してくれてもかまわない。私が夢見ているのは不可視になることではなく、知覚されないようになることだ。そして私は爪をポケットに隠すことで夢の埋め合わせをしているのだ。だからまじまじと爪を見つめる人間ほど私にとって不愉快なものはない、とね(これは社会心理学的解釈だ)。さらにこんな説明も可能だろう。「爪をかじっちゃあ駄目だ。それはきみの爪なんだからね。爪の味が気に入っているのなら、他人の爪をかじればいい。それがきみの望みであり、きみにそれができればの話だけどね。」(ダリアン流の政治的解釈)。ところが、きみはいちばん野暮な解釈を選んでしまう。あいつは目立ちたいんだ、グレタ・ガルボの真似をしようというんだ――これがきみの主張だからね。でも、不思議なことに私の友人で爪のことを気にとめた者はひとりもいない。爪のことはごく当たり前だし、種子を運んでくるだけでべつに誰の話題にのぼるわけでもない風が、ひょんなことからそこに爪を残したようなものだ、誰もがそう思っているんだよ。
(ジル・ドゥルーズ「口さがない批評家への手紙」、ジル・ドゥルーズ『記号と事件――1972-1990年の対話』、宮林寛訳、河出書房新社、2007年、15-16頁)
したがって、少なくともドゥルーズ自身にとって、爪を切らないことはマリリン・モンローやグレタ・ガルボのようなスターになることとは何の関わりもない。それは、どちらかといえば、むしろ「知覚されないようになること」に関わるはずのこと――すくなくとも、あえて解釈するならばそう捉えたほうがずっとよいはずのこと――だとされている。

同じ手紙のなかで、ドゥルーズはもう一度「爪」に言及している。次の一節だ。
ところが、みずからの名において語るというのは、とても不思議なことなんだ。なぜなら、自分は一個の自我だ、人格だ、主体だ、そう思い込んだところで、けっしてみずからの名において語ることにはならないからだ。ひとりの個人が真の固有名を獲得するのは、けわしい脱人格化の修練を終えて、個人をつきぬけるさまざまな多様体と、個人をくまなく横断する強度群に向けて自分をひらいたときにかぎられるからだ。そうした強度の多様体を瞬間的に把握したところにあらわれる名前は、哲学史がおこなう脱人格化の対極にある。それは愛による脱人格化であって、服従による脱人格化ではない。私たちは自分の知らないことの基底について語り、わが身の後進性について語るようになる。そのとき、私たちは、解き放たれた特異性の集合になりおおせている。姓、名、爪、物、動物、ささやかな〈事件〉など、さまざまな特異性の集合にね。つまりスターとは正反対のものになるということだ。
(同前、18-19頁)
ドゥルーズにとって、爪とはひとつの特異性である。ただし、ドゥルーズのいう特異性は「目立つ」ということとは何の関わりもない。〈爪を切らないひと〉は、スターとは正反対の、愛によって脱人格化された何者かとして、みずからの名において語る。〈爪を切るひと〉と〈爪を切らないひと〉とが重なり合う。彼らはともに、それぞれの仕方で、種子を運ぶ気ままな風になってみせる。

2017/6/17

2018年6月18日月曜日

●月曜日の一句〔伊藤敬子〕相子智恵



相子智恵






香の強き茅の輪を遠く来てくぐる  伊藤敬子

句集『年魚市潟』(角川学芸出版 2018.5)所収

遠くを歩いていたところ、強い香りによって茅の輪に気づき、遠くから香りに誘われるようにしてくぐったということだろうか。立派な茅の輪が想像されてくる。

これが「遠く来て香の強き茅の輪をくぐる」というような語順であれば普通なのだが、〈香の強き〉よりも〈遠く来て〉が後であることによって、ふっと不思議な感じが生まれている。強い香りの茅の輪に誘われてくぐったのは自分であろうが、遠くの異界からやってきた誰かのような感じもしてくるのだ。

くぐることで穢れを祓う茅の輪だからこそ、この何気ない語順が生む不思議さが生きているように思う。

2018年6月17日日曜日

〔週末俳句〕今更のスマホ・デビュー 仲寒蟬

〔週末俳句〕
今更のスマホ・デビュー

仲 寒蟬


今年のゴールデン・ウィークにスマホ・デビューを果たした。今更の、である。電話とメールだけならガラ携で充分と考えてこれまでやって来た。インターネットはiPadで見られるし、FBには余りのめり込みたくないから家でPCを前にしてしかやらないと決めていた。だからスマホにする理由は何一つないと。

それが急に変節したのは次男の結婚式の写真を撮るのにスマホの画像の方が美しいだろうと判断したからだった。ところが使い始めてみると、嵩張るiPadを持ち歩かなくてもインターネットは参照できるわ、グーグル・マップで吟行中の移動もスムーズにできるわでいいことづくめ。

一番重宝したのはラインである。若い人からすればそれこそ何を今更、であろうが。週末は学会に出かけることの多い筆者、先週は札幌で開催された第20回日本医療マネジメント学会に出席した。スタッフ4名と総勢5名での参加。各自発表があり、別の会場で好きな演題を聴く。場合によっては学会場を抜け出してお茶したり観光もする。そんな時にその場限りのライン・グループを作っておくと「今この会場で面白いプログラムやってるよ」とか「ここのケーキ美味しい」「昼食どうする?」とかの連絡がすぐに取れて便利なことこの上ない。

面白かったのは学会の最中にとある俳人友達から俳句が送られてきたこと。こちらも普段なら平日にヒマしてることはめったにないが、そこは学会中なのでこれ幸いと応じていると連句を仕掛けてきた。筆者が戯れに送った一句に脇句を付けてきたのだ。ほほー、と感心していると第三をつけろと言う。こちらは連句のルールなどろくに知らないし、依田明倫さんが元気な頃に佐久で牙城たちと歌仙を巻いたのが唯一の経験。それでも「次は月の句をお願いします」「地名はもういくつか出てきたからダメ」とかいろいろ指南されながら、何とか学会中に半歌仙に仕立て上げた。

これ、俳句でも利用できるかなあ。誰から送られてきたか分かるので直接句会という訳にはいくまいが、ネット句会みたく誰かがホスト役になれば可能かも。大勢ではなく、それこそ4-5名で旅行した時に旅先でササっと句会できるかもしれない。しかし、とも思う。やはり同じ風景を見て句会するなら膝突き合わせて、短冊にペンで俳句を書いて清記して・・・という句会本来のあり方の方がいい。スマホなんて持っていても所詮はアナログ世代なのだ。