2018年1月16日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド3 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド3

福田若之・編


千代子が縁伝ひに急ぎ足で遣つて来て、僕に一所に電話を掛けて呉れと頼んだ。僕には一所にかけるといふ意味が呑み込めなかつたが、すぐ立つて彼女と共に電話口へ行つた。
「もう呼び出してあるのよ。妾声が嗄れて、咽喉が痛くつて話ができないから貴方代理をして頂戴。聞く方は妾が聞くから」
 僕は相手の名前も分らない、又向ふの話の通じない電話を掛けるべく、前屈みになつて用意をした。千代子は既に受話器を耳に宛てゝゐた。それを通して彼女の頭へ送られる言葉は、独り彼女が占有する丈なので、僕はたゞ彼女の小声でいふ挨拶を大きくして訳も解らず先方へ取次ぐに過ぎなかつた。夫でも始の内は滑稽も構はず暇が掛るのも厭はず平気で遣つてゐたが、次第に僕の好奇心を挑発する様な返事や質問が千代子の口から出て来るので、僕は曲んだ儘、おい一寸それを御貸と声を掛けて左手を真直に千代子の方へ差し伸べた。千代子は笑ひながら否否をして見せた。僕は更に姿勢を正しくして、受話器を彼女の手から奪はうとした。彼女は決して夫を離さなかった。取らうとする取らせまいとする争が二人の間に起つた時、彼女は手早く電話を切った。さうして大きな声を揚げて笑い出した。……
(夏目漱石『彼岸過迄』、『定本漱石全集』、第7巻、岩波書店、2017年、232-233頁。ただし、ルビは煩雑になるため省略した)


取り違いも他の錯誤と同様、しばしば、自分に対して拒まざるをえず不首尾に終わりかねない欲望を充足するために用いられます。意図は、その際、幸運な偶然という仮面を被っています。たとえば、私の友人のひとりに実際にあったことですが、およそ意に反して汽車で近郊に人を訪ねて行かねばならないとき、乗り換えの駅で間違ってまた市内に戻る電車に乗ってしまう。あるいは旅行に出かけた際に、実は途中の駅で降りてそこにもっと長く滞在したいものだと思っていながら、何らかの用件のせいでそれが叶わないというとき、一定の接続の便を見過ごしたりうっかり乗り遅れたりして望みどおり中途滞在を余儀なくされる、といった場合などがそうです。あるいは、私の患者のひとりに起こったことですが、私は彼に、自分の恋人に電話することを禁じていました。ところがこの患者は私に電話しようと思って、「考えごとをしていて」、「間違って」交換手に誤った電話番号を告げ、その結果、思いがけず恋人と電話が繋がってしまったのです。
(ジークムント・フロイト『精神分析入門講義』、『フロイト全集』、第15巻、新宮一成ほか訳、岩波書店、2012年、84頁)



役所の公式媒体である書字でのコード化だと、意識といっしょにフィルターもしくは検閲をつねに介在させてしまわざるをえないから、無意識の振動は電話のような装置によってしか、これを伝えることができない。
(フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』、上巻、石光泰夫、石光輝子訳、筑摩書房、2006年、222頁。原文では「媒体」に「メディア」とルビ)


電話は人と人とをパーソナルに結びつけるメディアである。だから、通常の電話はつねに、特定の誰かから他の誰かへとかけられる。にもかかわらず、電話の通じた瞬間には、それが誰からかけられたのかも、誰が受話器をとったのかもわからない。電話が通じた瞬間、受話器の向こうの相手はつねに見知らぬ「他人」として現れる。「もしもし……」に始まる一連のやりとりは、さしあたって「他人」として現れた相手が誰であるのかを確定するための手続きなのである。
(吉見俊哉ほか『メディアとしての電話』、弘文堂、1992年、38頁)



ラジオのような「熱い」(hot)メディアと電話のような「冷たい」(cool)メディア、映画のような熱いメディアとテレビのような冷たいメディア、これを区別する基本原理がある。熱いメディアとは単一の感覚を「高精細度」(high definition)で拡張するメディアのことである。「高精細度」とはデータを十分に満たされた状態のことだ。写真は視覚的に「高精細度」である。漫画が「低精細度」(low difinition)なのは、視覚情報があまり与えられていないからだ。電話が冷たいメディア、すなわち「低精細度」のメディアの一つであるのは、耳に与えられる情報量が乏しいからだ。さらに、話されることばが「低精細度」の冷たいメディアであるのは、与えられる情報量が少なく、聞き手がたくさん補わなければならないからだ。一方、熱いメディアは受容者によって補充ないしは補完されるところがあまりない。したがって、熱いメディアは受容者による参与性が低く、冷たいメディアは参与性あるいは補完性が高い。だからこそ、当然のことであるが、ラジオはたとえば電話のような冷たいメディアと違った効果を利用者に与える。
(マーシャル・マクルーハン『メディア論――人間の拡張の諸相』、栗原裕、河本仲聖訳、みすず書房、1987年、23頁)



あれは去年のある日の午前三時ごろ、あの長距離電話、どこからかけてきたものかわかりようもないが (彼の日記でもあれば別だけれど)、声は、はじめはひどいスラヴ訛りで、こちらはトランシルヴァニア領事館の二等書記官だが逃げた蝙蝠を探しているのだと言い、それがコミック調の黒人訛りに変化し、それから敵意をむき出しのメキシコ系愚連隊言葉になってオマンコだのオカマだのとわめいた。それからゲシュタポの将校に変わって、かんだかい声で、貴下はドイツに親族ありやなどと尋問し、最後はラジオのミステリー番組『ザ・シャドウ』の金持ち弁護士ラモント・クランストンの声に落ち着いたが、それはかつてマサトランへ行く途中、ずっと彼が使った声色だった。
(トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』、志村正雄訳、筑摩書房、2010年、10-11頁)
2017/12/24

2018年1月15日月曜日

●月曜日の一句〔西村睦子〕相子智恵



相子智恵






炉の焔見て問うほむら見て答う  西村睦子

句集『幻楽四重奏』(月浪書店 2017.12)所収

〈炉話〉の本質とはこういうものかもしれないな、と思う。

相手の顔を直接見ながら話すのではなく、お互いに囲炉裏の揺れる焔をぼんやり見ながら会話をしている。相手の顔を直接見ないからこそ、ふいに相手の深い部分について問うことができたり、それに答えることができるのだ。

焔を共に見つめることで、お互いに深いところまで問うことができて一体感が生まれている……と読むこともできるが、掲句は〈焔〉と〈ほむら〉と、同じ火を書き分けることで、見ているものも同じようで実は違うのだという感じを出していて、どこまでいってもこの二人は個と個である、という読みのほうがふさわしいように思う。

つまりこの問いは、相手に対する問いでありながら自問自答でもあるということで、深い会話とは案外こういうものだと思う。そしてそういう問いを交わし合えた後には、やはり相手への信頼は深まる。

個々の違いをそのままに、それでいて深い信頼が生まれる瞬間というのは、何だか俳句を書き、読む幸せに近い気もする。

2018年1月12日金曜日

●金曜日の川柳〔井上一筒〕樋口由紀子



樋口由紀子






吠えていたドーベルマンは捨てられた

井上一筒 (いのうえ・いいとん) 1939~

見事な木版画の年賀状の一句。おだやかで、可愛らしい犬の句がほとんどの年賀状の中で異彩を放っていた。ドーベルマンは「犬のサラブレッド」とも呼ばれ、非常に頭の良い犬である。また、飼い主に対しては非常に従順で、強い忠誠心と忍耐力を持っている。そのドーベルマンが吠えていたのだから、余程のことがあったのだろう。吠えていたのであって噛みついて怪我をさせたのではない。捨てられたのであって殺されたのでないことが救いである。そんなことを思った。ドーベルマンに犬の矜持を見たように思う。

ドーベルマンは作者自身のことを詠んだのだろう。けれども、井上一筒は時事川柳の結社「川柳瓦版の会」の会長で、よみうり時事川柳(大阪本社版)の選者であるせいかもしれないが、今なお勾留され続けている森友学園の籠池氏のことが思い浮んだ。


2018年1月10日水曜日

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2018年1月9日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド2 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド2

福田若之・編


ミスタ・ブルームはがちゃりがちゃりと鳴り響く騒音から抜けだして、廊下を通り、階段の踊り場に出た。あっちまで電車に乗って出かけても、留守ってこともある。まず電話で聞くほうがいい。
(ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズI』、丸谷才一ほか訳、集英社、2003年、304頁)


ブルームの存在は「電話‐内‐存在」〔電話‐への‐存在〕(être-au-téléphone)なのだ。彼は多種多様な声ないし留守番電話につながれている。彼の現存在(être-là)は「電話‐内‐存在」であり、ハイデガーが現存在(Dasein)を死に向けられた存在として語ったのに倣えば、「電話‐に臨む‐存在」(être-pour-le téléphone)である。こんなことを言ったからといって、私は言葉を弄んでいるのではない。事実、ハイデガーのいう現存在もまた呼びかけられた存在なのだから。『存在と時間』がわれわれに語っているように、そしてまた、友人のサム・ウェーバーが私に気づかせてくれたように、ハイデガーのいう現存在はつねに、呼びかけ(l'Appel, der Ruf)、それも遠方から到来する呼びかけを通じてしか自分自身に達することがないのであって、かかる呼びかけは必ずしも言葉を経由するわけではなく、ある意味では何も語らない呼びかけなのである。
(ジャック・デリダ「ユリシーズ グラモフォンーージョイスが「然り」と言うのを聞くこと」、ジャック・デリダ『ユリシーズ グラモフォンーージョイスに寄せるふたこと』、合田正人、中真生訳、法政大学出版局、2001年、95-96頁)



電話のモバイル化とは、じつは技術的な過程ではない――それは文化的な過程である。問題はそういう機器を発明することではなく、われわれみんなにそれを採用させること、つまりそれが必要だと感じさせることなのだ。なぜなら、もちろん、モバイル化される必要がある対象というのは、ほかならぬわれわれなのだから。
(ジョージ・マイアソン『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』、武田ちあき訳、岩波書店、2004年、8頁。太字は原文では傍点)


世界っていう言葉がある。 私は中学の頃まで、世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって漠然と思っていた。
(新海誠監督『ほしのこえ』、2002年、日本)

2017/12/24

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上の四つの断片をメモしてから二週間近く経とうとしているが、さらにもうひとつの断片を、このページに引き写しておくことにしたい。この断片は、ここに書いておかないと、なぜそれを抜いてきたのか自分でも思い出せなくなってしまう気がするからだ。
河童もお產をする時には我々人間と同じことです。やはり醫者や產婆などの助けを借りてお產をするのです。けれどもお產をするとなると、父󠄁親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前󠄁はこの世界へ生まれて來るかどうか、よく考へた上で返󠄁事をしろ。」と大きな聲で尋󠄁ねるのです。
(芥川龍之介『河童』、『芥川龍之介全集』、第8巻、岩波書店、1978年、315頁。ただし、ルビは煩雑になるため省略した)
ところで、河童という名は、この作品において、声に出して呼ばれることが期待されている。というのも、冒頭に掲げられた『河童』という題に添えられるようにして、「どうかKappaと發音して下さい」という文言が置かれているのである(同前、306頁)。「發音して下さい」。それは、メルヴィルの『白鯨』の第一章の本文が、その語り手の「わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう」という言葉からはじめられていることにも、すこしだけ似ているかもしれない(ハーマン・メルヴィル『白鯨』、上巻、八木敏雄訳、岩波書店、2004年、55頁)。

2018/1/7