2019年11月18日月曜日

●月曜日の一句〔関根道豊〕相子智恵



相子智恵







冬茜コスト・カッターの終焉  関根道豊

句集『地球の花』(角川書店 2019.8)所載

〈コスト・カッター〉はコスト(費用)を削減する人。バッサバッサとコストをカットしてきた人が、あっという間に暮れてしまう冬夕焼の中で、自らもカットされてしまったのだろう。〈終焉〉を迎えている。これを例えばカルロス・ゴーン氏の末路のように読んでしまえば単なる時事に過ぎないのだが、そう読んでしまっては面白くないだろう。

〈コスト・カッターの終焉〉という言葉は、なかなかに過剰である。そのまま「週刊ダイヤモンド」や「東洋経済」など、経済系の週刊誌のキャッチコピーになりそうだ。〈冬茜〉と〈終焉〉も「終わる」という意味で付き過ぎなのだけれど、この二重三重の過剰さが、何だか「劇画タッチ」で、妙な味わいを醸し出している。

そういえば「コスト削減」という錦の御旗の前では、いつだって私たちは無力だ。バッサバッサとカットされ、やがて全員がカットされる。そう、最後の〈コスト・カッター〉すらも。生きているだけで費用がかかるのだから。「コストの亡霊」が勝ち、そして誰もいなくなった未来。そんな痛烈な現代批評の句と読んでみたい。

2019年11月15日金曜日

●金曜日の川柳〔鈴木節子〕樋口由紀子



樋口由紀子






プラゴミののたりのたりと春の海

鈴木節子 (すずき・せつこ) 1935~

あきらかに与謝蕪村の名句〈春の海終日のたりのたりかな〉のマネである。蕪村の句はおおらかで、ゆったりと、なんともいえぬ春の風情を感じさせる。しかし、プラスチックゴミが「のたりのたり」と春の日差しを受けて、海に浮いていたのでは、春の海の詩情などぶっ飛ばし、身も蓋もなくなる。

海に流れ出るプラスチックゴミ問題は深刻で、死んだ魚のおなかから大量のプラゴミが出て来た映像は衝撃的だった。プラゴミはいずれは魚の総重量数を上回るとの試算もある。「のたりのたり」などと悠長なことを言っている猶予はない。「のたりのたり」の言葉を逆手に取って、薄気味悪くし、現実を突きつけている。「触光」(61号 2019年刊)収録。

2019年11月14日木曜日

●木曜日の談林〔高政〕浅沼璞


浅沼璞








木食やこずゑの秋になりにけり   高政
『洛陽集』(延宝八・1680年)

ひきつづき高政の発句。



木食(もくじき)は米穀を断ち、木の実を主食とする修行僧のこと。
梢の秋は、梢の「すゑ」に秋の末をかけていう陰暦九月のこと。

「木食上人にはうれしい、梢に木の実が熟す季節になった」というような意を含んでいよう。



前回の奇抜な「見立て」と比べるとだいぶ大人しめの感じだが、それもそのはず、談林末期のトレンドな俳体として、芭蕉の〈枯枝に烏とまりたりや秋の暮〉(初出句形)と同格に扱われた句であった(『ほのぼの立』延宝九・1681年)。
このあと宗因没(天和二・1682年)を契機に、高政が鳴りをひそめた件は前回もふれたけれど、西鶴のみならず、芭蕉の存在も高政にとっては脅威であったかもしれない。



ところでこの句に先行して
実はふらり梢の秋になりにけり  信徳(後撰犬筑波集)
という類句があり、「木食や」は信徳の推敲句という説もある(荻野清氏説)。

しかし掲出のように『洛陽集』『ほのぼの立』では高政の作として扱われているし、真蹟短冊も認められているので、ほぼ高政作で間違いないだろう(信徳を真似たかどうかは別問題として)。



ここから連想されるのは、おなじダブル切字の作品、
降る雪や明治は遠くなりにけり  草田男
である。

先行作に〈獺祭忌明治は遠くなりにけり〉(志賀芥子)があり、物議をかもしたエピソードは有名である。



俳諧において類句・類想は当たり前のことであるが、「降る雪や」と似たケースが談林末期にもあったことは記憶しておいていい。

2019年11月13日水曜日

●焼鳥

焼鳥

焼鳥や恋や記憶と古りにけり  石塚友二

焼鳥の我は我はと淋しかり  佐藤文香

串を離れて焼き鳥の静かなり  野口る理

秋めくや焼鳥を食ふひとの恋 石田波郷


2019年11月11日月曜日

●月曜日の一句〔長岡悦子〕相子智恵



相子智恵







凩やぽんと明るく伊勢うどん  長岡悦子

句集『喝采の膝』(金雀枝舎 2019.9)所載

冷たく乾いた凩とうどんの取り合わせと、〈ぽんと明るく〉の佇まいがかわいらしくて一読で気に入った句。しかしながら、実は伊勢うどんを見たことも食べたこともなくて(蕎麦圏育ちなもので……)想像もつかなかったので調べてみた。

写真を見ると、太く柔らかい(らしい)麺と少しの青ネギだけがシンプルに丼の中にこんもりと盛られていた。たまり醤油を使っているという真っ黒なつゆはとても少なくて、丼の端の方にほんの少し見えるだけだ。けれどもその端っこの黒さが麺のつるんとした白さを際立たせていて、暗闇を照らす裸電球のように、麺の明るさが増している気がする。うん、まさに〈ぽんと明るく〉の風情である。

寒い凩の中をやってきて、立ち食いうどん屋で「ぽん」と伊勢うどんが出てきたら、それだけで気持ちが明るくなるし温まりそうだ。〈ぽん〉と〈うどん〉のリズムも楽しい。
掲句は、私のように伊勢うどんを知らなくても妙に心に残る。「凩」と「うどん」だけでできていて、「凩の中のうどん屋」のように文脈は想像できるのだけれど、それでいて文脈が決して前に出てこない。素材だけを即物的に並べた景がもつ、説明のいらない乾いた面白さがある。