2019年3月30日土曜日

●土曜日の読書〔虚構の肌ざわり〕小津夜景




小津夜景







虚構の肌ざわり


いまの暮らしは、まあそこそこ気楽だ。理由は人に干渉されないから。むかしはそうはいかなかった。勉強をすれば男子に「女のくせにヘーゲル左派なんか」と言われ、仕事をすれば客に「こんなところでしか働けへん女は惨めやな」とさげすまれ(少しハードなお仕事だっだのだ)、飲みに行けば隣にすわっただけの知らない会社員に「お嬢さんぶってないでもっと苦労せなあかん」と説教されるといったぐあい。で、こうした干渉を、この国ではいちども受けたことがない。

もっとも、相手を低くみる意図の発言をする人にはひとりだけ出くわした。あるとき、机に向かって仕事をしていたら、隣の部屋の男性がやってきて、こう言ったのだ。

「ねえ知ってる? いま世界で使用されている偉大なイデー(理念)は、ほとんどがフランスの発明なんだよ」

あらまあ。いきなりやってきて、なんなのかと思ったら。そこで真面目な顔をして、

「はい。フランスは『人権』をはじめとして、すごいイデーをいっぱい『発明』しました。いっこも『実現』はしていませんが」

と返してみた。すると男性は、腹を立てたようすもなく、うなずきながらこう言った。

「だいじょうぶ。問題ないよ。だって僕たちはみな錯覚の中に生きてるんだから!」

なんじゃそりゃ。ポジティヴシンキング肥大症? わたしは予想をはるかに超えた彼の自己肯定に度胆を抜かれた。そして、ううむ、お国柄が違うというのはこういうことなのか……と、その自慢の肌ざわりにちょっとだけ感じ入った。

思えばフランスは、少なくともシラクの時代までは、舌先三寸のイデーを切り札に世界のイニシアティブをとってきた。そしてそれは、経済で対抗すればアメリカの足元にも及ばないこの国にとって、大国であるための戦略として絶対的に正しい。イデーとはフランス流の虚構であり、当然ながら日本流の虚構とはぜんぜんタチがちがう。そしてまた、錯覚だと愛国者みずから自認するそのイデーが、実は建前としてそれなりに機能していて、わたしの暮らしのかつてなかった自主独立を保証していることは少しも否定できないのだ。

現実における虚構ではなく、文学上の虚構もずいぶん肌ざわりが違う。たとえばジャック・ルーボー誘拐されたオルタンス』(創元推理文庫)は、脱線につぐ脱線とそれらを回収する数学的法則性とがみごとな綾をなした(おまけに猫も名演技をする)極上のメタ・ミステリーなのだけれど、この虚構による虚構のための本格虚構遊戯小説が、きわめて優雅でおっとりしている。ふつう本格虚構遊戯というのは、これでもかの意匠のてんこもりであるがゆえに、おっとりしてなんか見えないものだ。また優雅に見せようとして、逆に自意識のアクを強めるだけのこともしょっちゅう。
シュークリームは
モラヴィア・ボヘミア地方では
社会主義に染まるけど
ウクライナでは
磁器のせいで
頁岩(けつがん)色になるんだよ
梨のタルトは
遊牧民のテント村では
ヤギの糞に染まるけど
ブリスベンでは
プロパンのせいで
レンガ色になるんだよ
サツマイモのタルト
カルパティア山脈では
血みどろに染まるけど
カブルグでは
恋のせいで
卵白色になるんだよ
鼻歌っぽく、さっぱりして、なにより作者が楽しそう。そして、こうしたことがわたしには、作家個人の資質(ところでジャック・ルーボーとは何者なのか。それについては以前この記事の後半で詳しく語ったので割愛)以前に、他人に干渉しないではいられない暇人のえじきとならず、そしてまた自分も他人に干渉せずに、自主独立をはぐくんできたことの果実のようにいまでは感じられるのだった。


2019年3月29日金曜日

●金曜日の川柳〔楢崎進弘〕樋口由紀子



樋口由紀子






ああ父のタオル掛けにはタオルがない

楢崎進弘 (ならざき・のぶひろ) 1942~

手や顔を洗って、タオルで拭こうとするときにタオルが見当たらない。「父の」だから、他の家族、たとえば妻や娘のタオルはタオル掛けにちゃんとあって、自分のだけがない。妻や娘のタオルは使わずに、濡れた手や顔のまま、滴をぽとぽとと落しながら、タオルを取りに行かなければならないのは悲惨である。たしかに「ああ」と言いたくなる。

タオルがないぐらいでおおげさで、しょうもないことにこだわっているのが、どうも見捨てられない。「ああ父の」の上五の言葉がうまく演技していて、タオルがない一瞬を鮮やかに拾い上げ、ライブ感が引き出しているからだろう。自己戯画化し、事実と感情を上手に残した。〈イカ焼きの烏賊にも見放されてしまう〉〈蛇はこんなに長い生き物だったのか〉〈竹輪の穴だったら通り抜けられます〉 「ふらすこてん」(57号 2018年刊)収録。

2019年3月27日水曜日

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2019年3月25日月曜日

●月曜日の一句〔茨木和生〕相子智恵



相子智恵






野に遊ばむ命生き切りたる妻と  茨木和生

句集『潤』(邑書林 2018.10)所収

以前、万葉学者の先生から、やまとことばの「い」には「生く」や「息」のように生きる力や「忌む」などの厳かな意味があり、「ち」は「血」「乳」「大蛇(おろち)」など不思議な霊力を表していて、「い」の「ち」である「命(いのち)」とは、個人に属して個人と共に終わるのではなく、それとは別にあって個々の生命を生かす不思議な力だ、という話を聞いたことがある(うろ覚えだが……)。

〈命生き切りたる〉を読んだ時、だから私はそこに壮絶な感じではなく、むしろ「い」の音の連なりに豊かなものを感じた。それは「生き切った」と言う時の、悔いのない充実したイメージからも、呼び出されてくる。

それが「野遊び」という季語のもつ再生のイメージと重なったことで、掲句は妻を亡くした悲しみの重さは十分にありつつも、どこかすーっと瑞々しい。

〈野に遊ばむ〉と言われた妻は、暖かくなった春の日差しの中で、身軽な魂となって「そうだね」と嬉しく答えただろうな、と思われてくるのだ。

2019年3月23日土曜日

●土曜日の読書〔母語の外で俳句を書くこと〕小津夜景




小津夜景







母語の外で俳句を書くこと


人と話す機会があるたびに、「フランスで暮らすことが俳句にどういった影響を与えていますか」と質問される。

話が「フランス」という限定ならば何も思いつかない。私はこの国に興味を持ったことがないのだ。

けれども「知らない言葉の中で」という文脈ならば、どうだろう。

たとえば日本にいると、外部との言語的関係を断って自分の考えに没頭しようとしても、ふとした瞬間に、周囲の文字や音声が体の中に流れ込むのは避けがたい。ところが現在の生活は、意識のチューニングをゆるめさえすれば、すべての言葉が落書きと雑音として脳で処理されるため、自分の声だけを純粋に聴きつづけることが可能だーーこれは度がすぎると足元に穴があくけれど。

あと、そもそも私はフランス語ができない。そのため意識のチューニングを文字や音声に合わせたところで、その意味がはっきりとはわからない。とはいえ長く暮らしていれば、さすがにほんの少しはわかってしまう。この「ほんの少しわかる」というのが悲喜劇で、私はかれこれ20年近くも、いままさに言葉の意味が立ち現れんとする生成まっただ中の海をゆらゆらと漂っている状態なのだった。

もうひとつ、フランス語がわからないのに加えて、日本語もどんどん忘れてゆくといった事態がある。自分の母語が脈絡のない落書きじみた、カタコトのうわごとに変質してゆくのである。ここ数年は俳句と出会ったおかげで、こうやって文章を書くたびに、ほっとするというか、正気を保つ薬になるのだけれど、実のところ健忘症状は重く、なにかの病気の兆候かもしれないと日々恐ろしい。

エクソフォニー(母語の外に出た状態一般)下における実存や言葉とのかかわりについてさまざまな文章を収めた多和田葉子カタコトのうわごと』(青土社)にこんな一節があった。
日本語をまったくしゃべらないうちに、半年が過ぎてしまった。日本語がわたしの生活から離れていってしまった感じだ。手に触れる物にも、自分の気分にも、ぴったりする日本語が見つからないのだった。外国語であるドイツ語は、ぴったりしなくて当然だろうが、母国語が離れていってしまうのは、なんだか霧の中で文字が見えなくなっていくようで恐ろしかった。わたしは、言葉無しで、ものを感じ、考え、決心するようになってきた。
この「わたしは、言葉無しで、ものを感じ、考え、決心するようになってきた」という下りを読むと、ああ、自分もそうだと少し安心する。いや、多和田はずいぶんと変わった人だから油断はならないか。

そう、俳句への影響である。フランス語も日本語もおぼつかない暮らしの中で、私が気づいたのは、思考とは純化された言語のみに拠る働きではありえず、脈略の糸のこんがらがった落書きの層をたっぷりと含みつつその風景をかたちづくっているということだった。おそらく「考える」とは、気の遠くなるほど大きな「考えに至らない」潮のあわいを漂流し、傷を負い、おのれを見失った果てに未知の岸に打ち上げられるような冒険である。こうした発見は自分をすっかり変えてしまった。いまでは言語において、形式は反形式から分離できず、また反形式の痕跡をとどめない形式はないと思っている。

必死になって言葉に手を伸ばそうとする〈思考〉。いままさに生まれんとしてうごめく〈意味〉。反形式の海をくぐり抜けた痕跡をとどめる〈形式〉。こういったものをつくる道具として、俳句はなかなか悪くない。


2019年3月22日金曜日

●金曜日の川柳〔筒井祥文〕樋口由紀子



樋口由紀子






昼の月犬がくわえて行きました

筒井祥文 (つつい・しょうぶん) 1952~2019

月は夜のものだと思ってしまうが、昼にも月は出ている。場違いのようにうっすらとある。昼の月が出ているときに、あるいは自分自身が昼の月のようなときに、犬がなにかをさっとくわえて走り去っていった。それを見たときに瞬時にふと我に返ったのだろう。犬がくわえて行ったのは自己そのものだったのかもしれない。昼の月の下でなにかが暗示され、生の存在を実感したのだろうか。

筒井祥文が3月6日に亡くなった。ぽっかりと大きな穴が空いた。大切な、信頼できる川柳人をうしなった。古風で、品のある、センチメンタルを書ける川柳人がいなくなった。〈月に手をゆらりと置けば母が来る〉〈なぜだろうきれいなお湯を捨てている〉〈蟹を喰う男に耳が二つある〉 『セレクション柳人 筒井祥文集』(邑書林 2006年刊)所収。

2019年3月21日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞








死にやろとは思はず花や惜むらん 西鶴(前句)
 子共三人少年の春       同(付句)
『俳諧独吟一日千句』第二(延宝三年・1675)

もともと西鶴は裕福な商家の出と思われるが、商売の傍ら、俳諧師として人の作品を採点する点者(てんじゃ)をつとめていた。

それが34歳のとき、幼馴染みだった妻を亡くし(享年25)、その追善のために髪の毛を落として在俗の出家となった。

とはいえ盲目の娘をはじめ幼い子供が三人もいたから、仏道修行に入ったわけではなく、家督を手代に譲って隠居となり、愛妻への追慕と残された子供への慈しみを原動力に、法体の俳諧師として旺盛な創作活動をはじめた。

その手始めが掲出の愛妻追悼の独吟連句で、一日で千句も詠んだ。

それをかわきりに、一昼夜で千六百句、四千句、二万三千五百句と記録を塗りかえていったのは周知のとおりである。



さて掲句は前句が花の座、付句が挙句(揚句)。

「少年」は男子の意ではなく、子供(子共)が幼少であることをさす。

〈まさか妻が早死にするとは思わなかったが、妻とて花を惜しんでいるだろう。幼い子供たち三人にすれば母を惜しむ春になってしまった〉。

追悼にふさわしい付合だが、連歌における挙句の本意を考えると、悲しみの奥に救いの「春」が詠みこまれているような気がしてくる。



『俳文学大辞典』(角川書店)にあるように、挙句は〈一巻の成就を慶び、天下泰平を寿ぐ祝言の心を込めて、一座の興がさめないよう、速やかにあっさりと巻き納めるのを本意とする〉(東聖子氏)。

他の西鶴独吟の挙句も、その本意を大切にしている。

2019年3月20日水曜日

【俳誌拝読】『静かな場所』第22号(2019年3月15日)

【俳誌拝読】
『静かな場所』第22号(2019年3月15日)


B6判、本文20ページ。

招待作品より。

延長コード(白)につながれ能役者  中村安伸

同人作品より。

沖ばかりきらめく冬の通り雨  対中いずみ

林檎赤し何たづねても首傾げ  満田春日

蟋蟀の頭いびつなところある  森賀まり

野火止を細くつらぬく冬の水  和田 悠

(西原天気・記)




2019年3月18日月曜日

●月曜日の一句〔渡邉美保〕相子智恵



相子智恵






土に釘つきさす遊び桃の花  渡邉美保

句集『櫛買ひに』(俳句アトラス 2018.12)所収

〈土に釘つきさす遊び〉の主人公は子どもだろうか。偶然拾った釘を黙々と土に刺して遊んでいる、一人遊びの子どもの様子が思い浮かんだ。

幼い頃の遊びというのは大人から見ると訳がわからなくて、時に残酷だったりする。〈土に釘つきさす遊び〉もしかり。子どもにしてみれば、釘が「何かに刺さる」のが、ただただ楽しいのだろう。何かに見立てて遊んでいるのかもしれない。

釘をただ「刺す」ではなくて〈つきさす〉という言葉を選んだことによって、そこに残虐性が出てくる。しかしそれを「突き刺す」と漢字にせず平仮名に開くことで、今度は他愛無さやピュアな感じを、読者は受け取ることができる。句の内容にプラスして、言葉と表記の選び方がこの遊びの質感を決定づけている。

さらに〈桃の花〉が懐かしくて長閑だ。そういえば現代の都会の整備された公園では、釘を拾うことなどまず無いよな……と思う。昔の空き地や公園や庭に、錆びた釘が普通に落ちていた風景。そんなノスタルジーも、掲句からは感じられる。

2019年3月16日土曜日

●土曜日の読書〔じぶんのさいはて〕小津夜景




小津夜景







じぶんのさいはて


あまり本を読まずに生きてきた。

とくに30歳からの10年間は、1冊も新しい本を読まなかった。じゃあ20代のころはというと、これもからっきしで、大学時代も年に5冊読んだか読まないかくらい。

なぜこんなにも読まなかったのか。表向きの理由は体力がないからで、本音のところはセンスが悪く本をえらぶのが苦手だったからだ。あと、たいへん我が弱く人の言いなりになるのが好き、といった性格も原因している。そんなわけで自分は、人に勧められて読む、というのを最適の読書法としてきた。

こんな事情と関係していたかどうかは不明だけれど、子供のころはかなり本をもらった。ピークは14歳から15歳にかけてで、英語教師がカルヴィーノ『まっぷたつの子爵』『冬の夜ひとりの旅人が』をくれ、数学教師が『ポー詩集』、E・エンデ『鏡の中の鏡』をくれ、国語教師がリード『芸術の意味』、益田勝実『火山列島の思想』、フロム『愛するということ』をくれ、美術教師が中原佑介『ブランクーシ』をくれ、主治医がシュタイナー『アカシャ年代記』、ソシュール『一般言語学講義』をくれた。どう考えてももらいすぎである。しかも完読できたのは『ブランクーシ』一冊のみだったので、周囲からの本責めがすっかり怖くなってしまった。読めもしないのにこんなにもらってどうしよう。うーん。そうだ、本を交換したことにすれば少しは気が楽になるかも。そう思った私はエゴン・シーレの画集をお返しに配り、それでいくぶんほっとしたのだった。

またあるとき、気分が良かったので高校に行くと、国語教師に職員室に呼ばれ、イザベラ・バード日本奥地紀行』(東洋文庫)を「これあげる」と渡されたことがあった。

「わあ、かっこいい本。なにが書いてあるんですか?」
「タイトルそのまんま。この本の作者はとても身体が弱かったんです。それで、あなたの参考になるかもと思って持ってきました」

ありがとうございますと言って、先生の前で本をひらく。著者はヴィクトリア朝の女性旅行家らしい。そしてこの本は、明治初期に日本を訪れた著者が、通訳兼従者の日本人青年を連れ、東京から日光、新潟を経て東北地方を縦断し、ついにはアイヌの住む北海道までをつぶさに見て回った記録とのことだった。
一八七八年(明治十一年)四月に、以前にも健康回復の手段として効き目のあった外国旅行をすることを勧められたので、私は日本を訪れてみようと思った。それは、日本の気候がすばらしく良いという評判に魅かれたからではなく、日本には新奇な興味をいつまでも感じさせるものが特に多くて、健康になりたいと願う孤独な旅人の心を慰め、身体をいやすのに役立つものがきっとあるだろうと考えたからである。
この序文にもあるように、彼女は幼少期から病弱で、わざわざ北米で転地療養するほどだったのだが、それが元で旅することをおぼえ、オーストラリア、ニュージーランド、サンドイッチ諸島(ハワイ)、日本、マレー半島、カシミール、チベット、インド(パキスタン)、ペルシャ、朝鮮、中国、モロッコなど世界中を巡るようになった。なんてやりたい放題の人生! でもさ、そんなにお金があって体力がないなら、もう少し楽ちんな場所を旅したほうがよくない? 死ぬよ?

それで、次に高校に行った日に、先生のところへ出向いて、なんで彼女はあんな辺境ばかり旅してたんでしょうね、と呟いてみた。すると先生は、

「人生がいつどこで終わっても、自分自身の最果てで死んだと感じられるようにじゃないかな。流浪の果ての死というのも、かっこいいよね」

と真顔で言った。

「ふうん。ロマンチックですね」
「……ごめん。いま俺、てきとうに言った。いや、実は正直に言ったんだけど。忘れて」
「あはは。そうだ、今日はお土産があるんでした」

私はイザベラ・バードのお礼ですと言って、マチスの画集を鞄から出すと先生に差し出した。先生は一瞬ためらったのち、どうもありがとう、と言って画集を受け取った。


2019年3月12日火曜日

【リマスタリング】『俳コレ』レビュー 三島ゆかり

【リマスタリング】
『俳コレ』レビュー

三島ゆかり






『俳コレ』って、これ、非常に困ります。何か書こうにも、すでに各人についてもれなく小論という作者以外の評があって、これがなんだか、予想問題集の記述式問題の回答例みたいに、扱いに困ります。さらに巻末にはそうそうたる5名の方による合評座談会がついていて、各作家の相対的な位置づけのようなことまで語られているのです。作品を読む前に目を通さないことはできるのですが、ブログに何か書こうとしたときに6重のバイアスの網目であるそれらに触れなかったら「おんなじこと言ってら」「くすくすくす」とか言われかねない…。

が、ここは清志郎ばりに「♪情報を無~視~」と行くことにします。

【追記】改めて聴き返したら「♪情報を無~視~」の一節は坂本冬美が歌っていました。謹んでお詫びするようなことではないのですが…。


三物衝撃のテンプレート

対岸をきのふと思ふ冬桜 山田露結

たまたま『静かな水』の勉強会で、「深井戸を柱とおもふ朧かな 正木ゆう子」という句が引き合いに出され、そんなものは「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」ですでにできあがっているパターンではないか、みたいな否定的な論調で終わってしまったのだけれども、これは天狗俳諧の摂津幸彦が未来に遺した三物衝撃のテンプレートなのかも知れません。一物仕立てとか二物衝撃とかはよく言われるところですが、「目には青葉山ほととぎす初鰹 山口素堂」となると、「いや、あれは…」と口を濁すようでは俳人たるもの、情けないではありませんか。

掲句、今もありありと見えるものを過去のものとして訣別しようとしている、未練の残る孤愁を冬桜に感じます。

さて、そもそも山田露結さんと私との縁というのは、俳句自動生成ロボットに他ならないので、酔狂に「三物くん」というのを作ってみました。句型としては「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」と、(誰もそんなことは言わないけど)これも三物衝撃クラシックである「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」をもとに下五が5音の名詞も仕込んであります。

エクリチュールの快感

くちなはとなりとぐろより抜け出づる 山田露結

この旧仮名遣いで書かれた句、初見でうまく読めましたでしょうか。私など「となり」なんて言葉が目に飛び込んだりして、かなり訳が分からない状態になるのですが、この訳の分からなさこそ、この句の味わいなのだと感じます。なんだか分からないものが動き始めたら実は蛇だったという、そのなんだか分からない感じが、書かれた文字の塩梅によって伝わってきます。

われの目に抱く吾子の目に遠花火 同

これは分配の法則で同類項をまとめたものではありません。

 (「われの目に」+「抱く吾子の目に」)×遠花火

ではなく、マトリョーシカのように対象が絞られているのです。強いて数式っぽく記述するなら、

 われの目に(抱く吾子の目に「遠花火」)

なのです。書かれた文字の塩梅をそのまま追って行くことによって感じられる我が子へのまなざし。それを実現する技巧。俳句の快感って、こんなところにもあるのだなあと、改めて感じます。

一人称の彷徨

ぼんやりと妻子ある身や夏の月 山田露結

「妻子ある身」などという紋切型は、犯罪や仕事上の失敗で用いられることはまずなく、色恋沙汰と相場は決まっているのであります。この「ぼんやりと」から思い出されるのは、小田和正のハイノート。そう、

今なんていったの?
他のこと考えて君のこと
ぼんやり見てた
(小田和正『yes・no』より)

なのです。「君を抱いていいの 好きになってもいいの」と続く「ぼんやり」。「夏の月」がなんとも悩ましいです。

昼を来てたがひの汗をゆるしけり 同

どこにもそうだとは書いていないのに、ただならぬ関係を感じます。

俳句の主語は、明示していなければ一人称だという暗黙の約束があるわけですが、ではその一人称は事実なのかというと、人間探求派の時代ならいざ知らず、昨今は自在に虚実のあわいを彷徨しているのです。「妻となり母となりたる水着かな」「われの目に抱く吾子の目に遠花火」といったピースフルな句と並んで、ただならぬ句が混入する作品世界。実に楽しいではないですか。

異次元の並置

声となりほどなく鶴となりにけり 山田露結

写生的な観点から言えば、例えば雪原に鶴がいるのだけれど保護色のため初めは分からず、声を聴いたのち初めて姿を認識したという情景を的確に捉えた句、ということになりましょう。が、実景はさておきテキストとしてこの句を眺めた場合、抽象的な属性と全体の、次元を無視した並置こそが読者に対し何かしらを喚起するのだと感じます。

クロールの夫と水にすれ違ふ 正木ゆう子

こちらの場合、人物と物体の並置ということになりますが、大ざっぱにいえば、やはり次元の異なるものの並置の面白さを感じます。

閂に蝶の湿りのありにけり 山田露結

この句の場合、閂の湿り気と蝶の湿り気は同じだと言っているわけだから、次元の異なるものの並置とは違うかも知れません。しかしながら、湿り気を表す尺度として、蝶というのはそうとう変なものです。そういう意味では、次元の異なるものの並置と同じくらい意表をついて成功しています。実際のところ、雨露にさらされた閂のもつ、決して濡れているわけではないけれどもひんやりとした、あの触感というのは、「蝶の湿り」と断定されたとき大いに腑に落ちるものがあります。

写生という手品

うすらひの水となるまで濡れてをり 齋藤朝比古

こんな句に出会うと、昔ながらの「写生」「発見」というキーワードが今でも使える不可思議、世の中にまだ詠まれていないものがあったのだという驚きを覚えます。理屈と言えば理屈ですが、水そのものは決して濡れているわけではないのであり、「春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂」への異議申し立てとして、セットで語り継がれて行くような気がします。

囀や日影と日向隣り合ふ 同

「日影と日向隣り合ふ」と言われてみればその通りなのですが、当たり前すぎて誰もそんなふうには詠めなかったはずです。「囀や」に何かしら人智を超越したものを感じます。

ふらここの影がふらここより迅し 同

最初これはうそだと思いました。円弧を描くふらここの方が平面上を直線運動する影より大きく移動するのだから、本当はふらここの方が速いのでは、と。大きく移動する分、ほんものは明らかに遠回りして感じられ、その分遅く見えるだけでは、と。でもよくよく考えてみると、本当に影の方が速い場合があるのですね。

簡単のため、ふらここの軌道を半円とし、ふらここが一番下がったとき地面に接し、太陽は左上45度の無限遠点にあり、ふらここが左から右に進み、半径rとします。

最初に思ったのは、影は2rしか進まず、ふらここは2πr/2進むのだから、どう考えたってふらここの方が速いではないか、ということでした。が、よく考えると、起点からふらここの軌道が太陽光線と接する左下45度の位置まで、影は逆に左へ進みます。ふらここが左下45度を過ぎると影は右に進むようになります。そして、影は最下点から2r右に進みます。影が最下点から2r右に進む間、ふらここは半円のさらに半分を進むので2πr/4=πr/2移動します。2>π/2なので、影の方が速いのです。

そのことに思い至ってから、この句のフォントサイズが大きく見えます。

装置性能の鑑賞

ロッテリアマツモトキヨシ水打てり 齋藤朝比古

白菜を抱へ両国橋渡る 同

一見なんでもない句をあえて選びました。最近google earthという怖ろしいものがあって、パソコン上で道路に沿って風景写真が四方八方連なって展開されて行きます。自動車に設置された何台ものカメラによって撮影されたものを合成しているようですが、齋藤朝比古さんというのは、それに似て、どんなただごとの風景でもたちまちにして稠密な句群に置き換えてしまうすごさがあります。この人の場合、書かれた作品を云々するよりも、もしかしたら、刻々と俳句に置き換えて行く装置として、その性能を味わうのが正しい受け止め方なのかも知れません。

些末の快楽/擬態語の快楽

サングラス砂を払ひて砂に置く 齋藤朝比古

足の指開きて進む西瓜割 同

優れた写生俳句の詠み手は、またどうでもいいことを実に細かく見ています。こういう句の「あるある」感、「やられた」感は格別のものです。

さて、真に優れた本格派剛速球投手が何種類も変化球を必要としないように、齋藤朝比古の句風にもバリエーションらしきものはあまりありません。そんな中でチェンジアップとしてたまに投じられるのが、ほとんどアンバランスと言ってよいチープな擬態語の使用です(『俳コレ』では選者の趣味なのか、目が慣れるくらいの配球となっていますが…)。

錠剤をぺちと押し出し春灯 同

ロボットのういんがしやんと花は葉に 同

そんな中では

砲丸の落ちてどすりと冬深む 同

が、語順の確かさとあいまって、胸を打ちます。

うつくしい日本のうさぎ

太田うさぎの句はもはや郷愁の中にしか実在しないのではないかと思わせるうつくしすぎる句群と、妙にしどけない句群と、胸を打つ家族のアルバムとしての句群と、ひょうきんで変な句群が、渾然一体となって入り交じっていて、どこから語り始めていいのかそうとう困るわけですが、ひとまず「うつくしい日本のうさぎ」。「うつくしい」がどっちにかかるかって、そりゃあもう、断然うさぎです。

梁打や遠嶺は雲と混ぢりあひ 太田うさぎ

近景の梁を打つ男や水のきらめきなどの一切を「梁打」という言葉の裏に隠し、雄大な遠景を詠い上げたこの句は、もはや古格のようなものが感じられ、例えば山本健吉の名著『現代俳句』に載っていたとしても、まったく不思議はありません。

老鶯の整へてゆく水景色 同

「老鶯」の音の世界にフォーカスを当てるために、風景の具体的な一切を裏に隠して「水景色」と置き、それを「整へてゆく」とした措辞の確かさが実にあざやかです。

とはいえ、このような花鳥諷詠俳人としての底力をちら見せするにとどまり、さまざまな側面にまぎれてゆくあたりのゴージャスさにこそ、太田うさぎの真骨頂があるのです。

しどけないうさぎ

作中人物としての一人称がそうなのか、作者ご本人そのものがそうなのか、ときどきどきどきしてしまう句が混じるのも、うさぎワールドの魅力です。

スカートのちよつとずれてる昼寝覚 太田うさぎ

百年の恋が一瞬で覚めたところにこのひとの魔力は始まり、世の男性は千年の恋を思い知るのです。

こういう句で「ずれてる」という口語短縮形を用いるのは、「路地を飛び出して西瓜の匂ひの子」での破調の使用とともに、句の世界と形式の一致への周到な心遣いによるものであることは見逃せません。

歳月の流れてゐたる裸かな 同

「さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉」の裸バージョンとも言える句ですが、ちょっとやそっとの衰え(堪忍!)などものともしないタフさがあります。beauty is only skin deepと言ったのはどなたでありましたでしょうか。こんな句がしれっと詠めるところが、まさにうさぎワールドなのです。

節分や男のつどふ奥の小間 同

すでに多くの人が触れている「なまはげのふぐりの揺れてゐるならむ」ではなく、こちらの句について述べたいです。鬼役の人たちが集まっているのでしょうか。それを「男」のつどふ、と詠んだことによって魔性の深い闇がくろぐろと小間にみちみちて行きます。折しも節分。

家族アルバムのうさぎ

父既に海水パンツ穿く朝餉 太田うさぎ

ぐんぐんと母のクリームソーダ減る 同

苧殻焚くちかごろ母の声に似て 同

銀杏を拾へば父とゐるやうな 同

このあたり、人物が景物を思い起こさせたり、景物が人物を思い起こさせたりするのを、こまやかな感情の起伏とともに自在に句に仕立てている感があります。

なきがらや睫やさしく枯れわたり 太田うさぎ

「睫やさしく枯れわたり」が胸を打ちます。俳人には俳人にしかできない家族のアルバムがあるのだと感じます。

酒豪たるうさぎ

祭礼の人の行き来を昼の酒 太田うさぎ

風ぬるく夜のはじまるラム・コーク 同

どぶろくや眼鏡のつるの片光り 同

猿酒ひと美しく見えてきし 同

白昼から古今東西多種多様のお酒を召し上がります。「猿酒」は空想的な季題とされますが、ひとたびうさぎさんの手にかかるとお構いなし。

ひとりとは白湯の寧けさ梅見月 同

そんな酒豪ならではの句でありましょう。

〔編註〕寧けさ=やすけさ

変なうさぎ

西日いまもつとも受けてホッチキス 太田うさぎ

昨今はてこの原理を巧妙に取り込み、より小型化され、より小さな力で綴じることができるように進化したホッチキスですが、ここで詠まれているのは昔ながらのぎんぎらぎんのホッチキスでしょう。まったく本来の機能に関係なくドラマチックに詠まれたホッチキスは、オフィスの天井にその反射光をなみなみと及ぼしていることでしょう。こんななんでもないものを、こんなに高らかに詠んでしまううさぎさんの変さを思わずにはいられません。

鯛釣草ここは蓬莱一丁目 同

検索すると横浜市中区、和歌山県新宮市、福島県福島市などに蓬莱一丁目は実在します。季語が先なのか地名が先なのか分かりませんが、中国伝来の植物に、これまた中国伝来の霊験あらたかなようでいてなんとなくぱっとしない地名を取り合わせて一句をものにしてしまう変なすごさが圧倒的です。「ここは」がなんとも言えずよく、今まではなんでもなかった「蓬莱一丁目」に突然ドラマが立ち上がる感があります。

渋川京子の光と闇

渋川京子さんについては『レモンの種』(ふらんす堂)を上梓された際に書かせて頂いたので、そのときに触れなかった句を今回は取り上げます。

夏夕べ鏡みずから漆黒に 渋川京子

ちょっと前までは、よほど暗くなるまで電気なんかつけなかったものです。虚なのか実なのかというと虚の書き方をしているわけですが、郷愁の中の夏夕べの光の具合をとらえて過不足ありません。

月光に聡き兄から消されけり 同

これも同様に光を題材とした虚の句。「聡き兄から消されけり」のs音、k音が実に繊細で怖ろしいではありませんか。

空蝉の好きな人なり

空蝉の目と目離れて吹かれおり 渋川京子

空蝉に好きな場所あり呼ばれおり 同

渋川京子さんはぎょっとするほど、空蝉の好きな人なのです。あるとき喫茶店でやっている句会に、「みんなに見せようと思って」と、空蝉を箱に入れて十ばかり持っていらしたことがあります。居合わせた俳人一人一人に一個ずつ空蝉を配り、「この、目が透き通ったあたりが可愛いでしょう。まるで生きているみたい」などとおっしゃるのです。で、最後は「こんなもの渡されてもお困りでしょうから」と、回収してまた丁寧に箱に入れ、持って帰られたのでした。掲句はそんな渋川京子さんの一面を伺わせる句です。

二句目は蝉の習性として脱皮にふさわしい場所があるのでしょう。それを「呼ばれおり」ととらえる感性が、じつにキュートです。

俳句というフラワーアレンジメント

刈萱を投げ入れ壺をくつろがす 渋川京子

活ける草花によって、壺も緊張を強いられたり、そうでなかったりするのでしょう。壺が単なる器ではなく、草花と呼応して生命を得る配合の機微を思います。「投げ入れ」と「くつろがす」の把握が絶妙です。

逝く人に本名ありぬ青木の実 渋川京子

してみると、ある種の二物衝撃はフラワーアレンジメントそのものなのです。「センセイ」と呼んでいた人が松本春綱という本名を持っていたことを思い知らされるような、そんな場面は、お互いを俳号で呼び合う私たち俳人仲間のあいだでもたまにあることです。「青木の実」のくっきりとした斡旋がじつに見事です。

ためしに壺に活けてみる

句集を読んでいると、ある句が自分の知っている別の人の句と自分の中で吊り橋が落ちるように激しく共振し出すことがあります。そんな句たちを同じ壺に活けてみるのも楽しいかも知れません。

腹筋をたっぷりつかい山眠る 渋川京子

山眠る等高線を緩めつつ 広渡敬雄

いずれも「山眠る」の句としては、かなりトリッキーなものでしょう。京子句、腹式呼吸して眠る山を思うと、人間の営みなどほんの地表のささいなものなのでしょう。敬雄句、そもそも地図上の概念であって実在しない等高線をコルセットのように捉えた見立てが実に可笑しいです。

梅咲いて身にゆきわたる白湯の味 渋川京子

ひとりとは白湯の寧けさ梅見月 太田うさぎ

つい先日、うさぎ句について「酒豪ならではの句でありましょう」と書いたばかりなのですが、渋川京子さんにも白湯の句があって、奇妙な暗合に驚いています。白湯の味を梅の花と配合させた京子句、「ひとりとは白湯の寧けさ」だという感慨を梅の時期と配合させたうさぎ句、どちらも五臓六腑にしみわたります。

枇杷の花谺しそうな棺えらぶ 渋川京子

行春やピアノに似たる霊柩車 渡邊白泉

磨き上げられた棺は、言われてみれば確かに谺しそうです。また黒光りする霊柩車は確かにその色艶の具合においてピアノのようです。音や楽器の比喩は、いささか不謹慎といえば不謹慎ですが、俳人たるもの、そう感じてしまうのを禁じ得るものではありません。京子句、ここではまったく谺しそうもない、もっさりとした枇杷の花を配合していて、じつに渋いです。

すり替えられた無意味

夕焼けやウイルスを美しく飼い 岡村知昭

例えば「文鳥」でも「蘭鋳」でもいいのですが、ほんとうに美しくて飼えるものでも成立する句型を整えておいて、あえてそうでないものをそこに置くことによって出現する意外性、倒錯こそが、岡村知昭ワールドなのでしょう。奇しくも発句は「ウイルス」。罪悪感のない天才少年たちのように、作者はその愉快にうちふるえていることでしょう。

おとうとを白旗にして夏野ゆく 同

例えば「おとうとを先頭にして」だったら、まったく当たり前でノスタルジックなスナップなわけですが、この人は「おとうとを白旗にして」と書かざるを得ないのです。おそらく、ただ「その方が面白いから」。いったい何に降伏したというのか、生きながらに白旗として宙づりにされたおとうとのように、すべての意味が宙づりにされています。

由緒正しき固有名詞

きりぎりす走れ六波羅蜜寺まで  岡村知昭

崇徳院詣でのカラスアゲハかな 同

祇園こそ偽シベリアを耐えにけり 同

六波羅蜜寺は、祇園にほど近い京阪電車清水五条駅下車徒歩7分、明治天皇が崇徳院の御霊を祀った白峯神宮は烏丸線今出川駅下車徒歩8分とあります。ずっしりと歴史の染み込んだ固有名詞を駆使し、作者は変な句に仕立てます。

なぜ六波羅蜜寺まできりぎりすが走らねばならないのか。なぜ崇徳院詣でのカラスアゲハなのか。たぶん作者として提示するひとつの読み方は何もなく、読者の知る限りの歴史の中で、虚実まぜこぜに意味が隠密のように走り出し、怨霊のように跋扈するのを待っているのです。そんな中、おそらく造語なのでしょう、「偽シベリア」という見たことも聞いたこともない語が目を引きます。まったく人々が知らなかった歴史に祇園が耐えていたのだという、壮大な大嘘がじつに楽しいです。

やや思ふ青鞋のこと閒石のこと

水売りの言葉によれば立夏かな 岡村知昭

「水売」というのは、広辞苑によれば「江戸時代、夏、冷水に白玉と砂糖を入れ、町中を売り歩いた商人」とあります。たぶん、この人たちの立夏はまさに仕事がかき入れ時になる頃なのでしょう。

ところでこの句、「この国の言葉によりて花ぐもり 阿部青鞋」の遠い影があるような気がします。

れんこんのなおも企む日暮かな 同

そう思い出すと、この句も「れんこんの穴もたしかに嚙んで食べ 阿部青鞋」の遠い遠い影があるような気がしてきました。からっぽの分際で、れんこんの穴が悪代官のように企んでいるのです。ついでにいうと、「日暮かな」だけなのに「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」のほのかな影もあるような気がしてきました。阿部青鞋も橋閒石も、意味と無意味のはざまで重大な足跡を残した俳人なので、読者の方で呼び込んでしまうのかも知れません。

秋風も叙情詩もいや三宮 同

閒石といえば、「詩も川も臍も胡瓜も曲りけり 橋閒石」という句があり、詩を含む「も」の連鎖に、やはり影を感じます。三宮といえば、この句ができた頃、復興は進んでいたのでしょうか。

現実界への風刺として機能しない無意味

かごめかごめが官邸で泣いている 岡村知昭

帝国のあんなにあって猫泳ぐ 同

警官のままの兎の濡れている 同

淋しくて国民になるバナナかな 同

梔子の花いきなりの遺憾の意 同

出征と言わないでおく冬三日月 同

現実界への風刺としては機能しないくらい無意味なこれらの語彙は、変なたとえですが『ひょっこりひょうたん島』にガバスという通貨があったみたいに、岡村知昭ワールドの重要な機能としての、国家や政府や軍隊や警察なのでしょう。それにしても、なんと頼りない国家や政府や軍隊や警察であることよ。

林立する瓶

きさらぎがこわい牛乳瓶の立つ 岡村知昭

口語だめペットボトルの直立し 同

ほんものの雪を見ている麦酒瓶 同

あんだるしあ空瓶はこわれているか 同

これを男性器の象徴などと読み出すと、がらがらと音を立てて瓶がぜんぶ割れてしまう岡村知昭ワールドなのです。すべて書いてあるとおり、牛乳瓶でありペットボトルであり麦酒瓶であり空瓶なのです。

一句目、パックではありません。中身の見える牛乳瓶です(空なのかも知れないけど)。そういえば子どもの頃、給食のあと「牛乳が飲めるまで遊んじゃ駄目」とか先生に怒られている同級生がいたものです。おそろしい白い牛乳。真冬の冷たい牛乳。「牛乳がこわい」ではないので、きさらぎにまつわる何かしら牛乳のような理不尽があるのでしょう。

二句目、これ、岡村知昭ワールドのへなへなな国の憲法みたいでいいです。

三句目、ほんものの雪でないものが何かあるのでしょう。ちなみに検索してみると、日本の冬季限定ビールの発売は1988年、初期の頃は缶と瓶の並行販売だった由。私は、雪の結晶のデザインのラベルを思い浮かべました。

四句目、「あんだるしあ」とわざわざ平仮名で表記しているのは、貨物船かなにかなのでしょうか。当然こわれていることを期待した書き方が、なんとも岡村知昭ワールドです。

間違ってできちゃった俳句

大みそか回送電車明るくて 岡村知昭

菜の花の岬ばんそうこう剥がす 同

みどりごの固さの氷菓舐めにけり 同

そんな岡村知昭ワールドに、間違ってできちゃったみたいに普通の俳句が置かれているのです。一句目、寒い中、終夜運転の電車を待っていると回送の分際でこうこうと明かりをつけた電車が通り過ぎる、この世に見放されたような寂寥感があります。二句目、これ、「岬」が余分なようでいて絶妙です。頭の中に「岬」と呼ばれる関節が立ち上がりませんか。三句目、普通の俳句としてはいささか尋常でない比喩が、岡村知昭ワールドとの圧力調整のための小部屋としての効果をあげています。

初買ひあまた

ブックオフの半額セールで谷口ジローを多々。『坊ちゃん』の時代シリーズ、文庫では字が小さすぎて、もはや目許不如意につきこのたび大判に買換。『『坊ちゃん』の時代』『秋の舞姫』『かの蒼空に』『明治流星雨』『不機嫌亭漱石』。他に『センセイの鞄』①②、『地球氷解事紀』上下。

よほどのコレクターがお亡くなりになったのか、ほとんどコンプリートなのではないかと思われるくらい谷口ジローが出ていたのですが、いかに半額セールとはいえ手許不如意につき、このへんで。

さて、『センセイの鞄』②の巻末に川上弘美さんと谷口ジローさんの対談があって、川上さんがこんなことを言っています。
コミックスの一巻が出た時に、帯の文章として「こういう話だったんだ! はじめて知った」って書いたんですけど、本当にその通りで、自分が書かなかった動作や隙間や背景が、そこにあらわれていた。同じ中身なのに、新しいものを見せてもらった喜びがあって、本当にお願いしてよかったです。
これは原作と作画の関係について語っているわけですが、俳句と選とか、俳句と評の関係というのも、俳句というものが本来あまりにもすかすかなので、作者が「こういう句だったんだ! はじめて知った」と感じるようなことが、ままあるのだろうなあ、と暮れから読んでいる『俳コレ』と重ね合わせて思うのでした。

何かの間違いで音楽を演奏する不思議

ピアニスト首深く曲げ静かなふきあげ 岡野泰輔

ビル・エヴァンスの沈潜するバラードを思います。季語なのかエモーションのほとばしりなのかを限定しないように注意深く語を選んだであろう、破調の「ふきあげ」がじつによいです。

秋の夜の指揮者の頭ずーっと観る 同

前句もそうなのですが、人間のかたちをした人が何かの間違いで音楽を演奏する能力を持っている不思議を、この句も濃厚に感じさせます。

蔦かずら引けば声出るピアニスト 同

そんな演奏家を山に連れ出し、「弾けば音出る」ではなく「引けば声出る」としてしまったわけですが、根底には演奏家であることへの不思議が鳴り響いていることでしょう。

音楽で食べようなんて思うな蚊 同

「思うなかれ」であればなんとも照れくさくもある説教になってしまうのですが、この突然の切断。まるで『アビーロード』のA面の終わりではないです蚊。

とても蛇

『アビーロード』のA面の終わりといえば、She's so heavyですが、じっさいのところ、岡野泰輔さんの蛇の句はきらきらしています。

いちばんのきれいなときを蛇でいる 岡野泰輔

蛇だって発情期には婚姻色に彩られるのでありましょうが、そういうことではなくて、ひとつの生命体の輪廻の中で、いちばんのきれいなときが蛇って、そうとうかなしい性です。ほとんどひらがなの中に一文字だけ「蛇」が漢字という、表記への配慮がこの句を確かなものにしています。

左手は他人のはじまり蛇穴を 同

「左手は他人のはじまり」と不如意を嘆くようでいて、この季語の斡旋はなにかしら淫靡な悦びのはじまりのようにも思われます。

脱ぐ

セーターの脱いだかたちがすでに負け 岡野泰輔

「かたち」がなんとも可笑しいです。脱いだセーターにふくらみやくびれがそのまま匂い立つように保存されていないと、この人は許せないのです。こんな人に負けだと言われるのは、ちょっとくやしい気がします。

さくら鯛脱いでしまえばそれほどでも 同

失礼な句です。きっと脱ぐ前は「さくら色したきみが欲しいよ~」と歌っていたのです。

目の前の水着は水を脱ぐところ 同

水を上がってからが水着の本領で、舐めるような視線にさらされるのだとしたら、まさに「水を脱ぐ」であって、脱ぐことに他ならないのです。これはすばらしい句です。

あなた、だいぶ俳句に冒されてますな

戌年の用意二人で川へ行く 岡野泰輔

戌年という干支が絶妙に可笑しいです。いったい川で何をするというのか。

花冷えや脳の写真のはずかしく 同

ただの写真ではありますが、脳だけに人に知られたくない思いが写っているようで、はずかしいのでありましょう。「花冷え」がこれまた絶妙によいです。先生に「あなた、だいぶ俳句に冒されてますな」とか言われそう。

世の中に三月十日静かに来る 同

三月十日といえば、奉天陥落を祝した陸軍記念日を暗転させる東京大空襲の日だったわけですが、いまや三月十一日の前日に過ぎない状況になってしまいました。これから来る三月十日は、どんな日なのか。あの震災以降に作られた句なのか定かではないのですが、印象深い句です。

ささやかな幸せ

襟巻となりて獣のまた集ふ 野口る理

虚子の「襟巻の狐の顔は別に在り」の「うまいこと言った」感が苦手な私としては、「また集ふ」と言いとめた、さらりとしたユーモアがとても好きです。ささやかな幸せはささやかな幸せとして謳歌したいものです。

初夢の途中で眠くなりにけり 同

まるでそれまで寝ていなかったような、この嘘っぽさ、すごくいいです。

佐保姫や映画館てふ簡易夜 同

「簡易夜」、辞書を引いても検索しても見あたりません。「簡易宿」を誰かが清記ミスして、それを一同面白がったので決定稿にしてしまったのでしょうか。簡易夜である映画館の外では、折しも佐保姫が春の光をまき散らしているのです。

浴衣脱げば脱ぎ過ぎたやうな気も 同

破調がとまどいの感じをよく伝えています。言われてみれば、確かに中間がないのです。実に面白い感覚です。

青春性の横溢

歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて 福田若之

僕のほかに腐るものもなく西日の部屋 同

君はセカイの外へ帰省し無色の街 同

青春性の横溢としかいいようがない、若々しい句群です。自意識の過剰や挫折(それすらも「あらゆる知」の反復でしかない)のまっただ中を当事者としてぐんぐん貫く、そんなかっこよさに溢れています。

そんな青春性を俳句として表現するにあたり福田若之は、もはや単純な棒の如きものには飽き足らず、分かち書き、句読点、記号などの技法を手当たり次第に駆使します。

くらげくらげ 触れ合って温かい。痛い。 同

伝説のロックンロール! カンナの、黄! 同

さくら、ひら  つながりのよわいぼくたち 同

もしかするとこの人は俳句というジャンルにはとどまらず、どこかへ行ってしまうのかも知れません。

どうでもいいようなことに目をつける着眼点

花束の茎薄暗き虚子忌かな 小野あらた

かき氷味無き場所に行き当たる 同

嚙むたびに鯛焼きの餡漏れ出しぬ 同

大きめの犬に嗅がれる遅日かな 同

人文字の隣と話す残暑かな 同

鷹去つて双眼鏡のがらんどう 同

この人は正統派でめちゃくちゃうまいのではないでしょうか。どうでもいいようなことに目をつける着眼点がじつにある種の俳句的なのです。食べ物の句がやたら多いのはちょっとどうかとも思いますが…。

2019年3月9日土曜日

●土曜日の読書〔釣りと同じように素晴らしいこと〕小津夜景




小津夜景







釣りと同じように素晴らしいこと


日曜日、朝市へゆくと、壊レタ目覚マシ時計売リマス、と書かれた小さな看板が立っていた。

看板の脇には、丸い椅子に腰かける男性が一人。その足元にはダンボールが一箱。目があったので、こんにちはとあいさつし、ダンボール箱をひょいとのぞくと、古びた目覚まし時計が2、30個、おもちゃみたいにごったがえしている。

「これ、全部壊れているんですか?」
「ええ。どれも50セントです。おひとついかがでしょう?」

目覚まし時計を3つ購入して家に戻る。さっそく時計の表面に消しゴムをかけて黒ずみを落とし、文字盤のふちを爪楊枝で念入りに掃除して、仕上げにアルコールで拭く。そしてテーブルの上に3つの時計と、日頃使っているブラウンの目覚まし時計を並べ、合計4つの時計の針のうごきを見比べる。だんだん針がずれてくる。ふむ。やっぱり壊れてるね。すっかり満足した私は台所でコーヒーを淹れ、お盆にカップとワッフルを載せて居間に戻った。4つの時計は完全にばらばらの時間を指していた。

口の端をカップに寄せて、ふと思う。4つの異なる時間に囲まれながらコーヒーを飲むというのは、一種の瞑想的リクリエーションかもしれない、と。この言い回しは私の造語ではない。故事伝承・随想・歌を織り交ぜつつ釣りの悦楽とその技術とを指南したアイザック・ウォルトン釣魚大全』(平凡社ライブラリーほか)の副題が「瞑想的人間のリクリエーション」というのだ。「釣りの聖書」と称されるこの本はのんびりとした時間の流れが持ち味で、釣師・猟師・鷹匠が自分の趣味を大いに自慢しあう第一章は、こんなにも素朴な語り口ではじまる。
 第一章 道楽三家
釣師 お二人とも、まずはお早よう。やっと追いついたところですよ。あまりにも快適な五月晴れの朝だもんで、お二人がウェアのほうへ歩いて行くのを見て、急いでこのトッテナム坂を登ってきたのですよ。
猟師 これはこれは。ちょうどいいとろへお見えになりました。わたしはホズデンの「わらぶき屋」で一杯朝酒をひっかけようと思っていたんです。それに、向うには友人達が待っているので、休まずに行こうとしていたのです。ところで、わたしと一緒にいるこの且那は、たったいま道連れになったばかりでどこまで行かれるのかも聞いてなかったくらいですょ。
鷹匠 お差しつかえなければテオボルドまでご一緒させていただいて、そこでお別れしようと思います。じつは毛変り時の鷹を預けてある友人の所へ寄り道して、一刻も早くその鷹の様子を観察したいのです。
釣師 しかし、せっかくの上天気に、こうして三人が道連れになったのもなにかの縁。わたしとしては自分の予定はさておいて、お二人と一緒に旅をすることを楽しみにしていますよ。
だがこうした遊興の香りは、『釣魚大全』が刊行された1653年において安息日のあらゆるリクリエーションが法律で禁じられていたことを思えば、ウォルトンの義憤の表れに違いない。彼はジェイムス1世の「遊戯教書」が国家的罪悪として糾弾され、焚書攻撃にあったのをその目で見ていたし、さらに釣魚は当時たいへん卑しい行為とされてもいた。こうした数々の社会的風潮に真っ向から対立しつつ、ウォルトンは探究心や根気、待つことの修練の果てにひろがる釣りの世界の醍醐味を、「瞑想的人間のリクリエーション」としてその文体込みで説こうとしたのである。

ところでこの「瞑想性」という観念は、ものを書くときにも大切な心がまえだ。いったい「瞑想性」とは何か? それは論理にも共感にも頼らずに、つまり読み手を覚醒させたり酩酊させたりする技から遠ざかって、ただみずからの行為に没頭・集中するといった「持続的直観」のことである。もちろんこれをより単純に「詩」と呼んだってかまわない。深いようでいて浅く、真剣でありながらたわいない境地。そういった情操を日々探求し、根気よく突きつめてゆくのは釣りと同じように素晴らしいことだろう——と、4つの異なる時間に囲まれながら思う日曜日なのであった。




2019年3月8日金曜日

●金曜日の川柳〔壺井半酔〕樋口由紀子



樋口由紀子






菓子箱に菓子は入っていましたか

壺井半酔(つぼい・はんすい)

菓子箱に菓子が入っているのはあたりまえで、そのための箱である。うっかりしていたとか、誰かが食べてしまったとかを言っているのではない。掲句は兼題「賄賂」で作られた川柳である。川柳は題詠吟が盛んな文芸でさまざま題が提出される。題をいかに取り扱うかを一工夫する。

「菓子箱」と「賄賂」ですぐに思いつくのが、「〇〇屋、お主も悪よのう」のいう時代劇である。悪代官が悪徳商人から小判の入った菓子箱を渡されるひとコマである。その場面を下敷きにしている。しかし、<菓子箱に小判が入っていましたか>ではない。「小判」ではそのまますぎて味がでない。「小判」と言わないで、〈菓子は入っていましたか〉ととぼけてみせる。その放り投げ方や位置取りが上手い。そのひねり技を川柳人は句会や大会で競い合う。

2019年3月6日水曜日

【俳誌拝読】『棒』第2号

【俳誌拝読】
『棒』第2号(2019年2月15日)


B6判、本文42ページ。編集発行:棒の会(代表青山丈)。

各氏俳句作品より。

芭蕉忌の茸を焼いてうす煙  青山丈

冬たんぽぽ採石場の休みの日  大崎紀夫

暦売り鳩の出さうな帽被り  中村幸子

蜻蛉つるむ壁に真っ赤な唐辛子  西池冬扇

火の島の濁り湯オリオン座が真上  平栗瑞枝

寺の波理うつつの冬をよく映す  水野晶子

鍵にある穴の淋しく成木責  柳生正名

短日の一方を指す風見鶏  好井由江

大根の一本抜かれたるか穴  大島英昭

杉並木抜け来て冬はまだ半ば  萩野明子

木枯しやお尻だけ浮く昼の河馬  蔵本芙美子

冬ぬくし焦げ跡残るドラム缶  生島春江



2019年3月5日火曜日

【俳誌拝読】『五七五』第2号

【俳誌拝読】
『五七五』第2号(2019年1月31日)


B5判変型、本文32ページ。編集発行人:高橋修宏。

論考4本、松下カロ「柿本多映をめぐる段落と結論のない短章」、江里昭彦「獄中への詩論」、高橋修宏「空無の強度 高橋睦郎の震災詠をめぐって」、星野太「俳句をめぐる四つの命題」)が充実。

以下、5氏の俳句作品より。

陽炎は冷たき舌をみせにけり  柿本多映

天涯に吃音の蝶ひるがえる  増田まさみ

静電気髪から髪へクリスマス  松下カロ

目礼すいずれ火を噴く山なれば  江里昭彦

涅槃とや座頭鯨の背の滑り  高橋修宏

(西原天気・記)



2019年3月4日月曜日

●月曜日の一句〔有住洋子〕相子智恵



相子智恵






蹼のうごき止まざる涅槃西風  有住洋子

句集『景色』(ふらんす堂 2018.10)所収

何の動物の蹼(みずかき)かはわからない。春の鴨や蛙だろうか。地上の私たちから見れば、水の上を造作もなくすーっとなめらかに滑っているように見える彼らだが、水の下にある蹼は絶え間なく、せわしなく動いている。彼らが進む後ろには、小さな水脈ができている。

そこに涅槃西風が吹いてくる。釈迦が入滅した陰暦2月15日頃に吹く〈涅槃西風〉。浄土からの風を思う。涅槃西風によって、静かな水はさらに、さざ波を立てているのかもしれない。

蹼の絶え間ない動きという「生」のイメージと、涅槃西風の「死」のイメージが水面にできたさざ波のように重なり合う。〈うごき止まざる〉蹼のある此岸から、〈涅槃西風〉の彼岸へ。そしてまた此岸へと流転する。水や風が流れ続けるように、何もかもがとどまらない。

じっと掲句を眺めているうちに、

  蹼のうごき止まざる/涅槃西風

と切れていたものが

  蹼のうごき/止まざる涅槃西風

にも感じられてきた。そこにはただ、〈止まざる〉生死の流転がある。

2019年3月2日土曜日

●土曜日の読書〔悲しき幽霊〕小津夜景




小津夜景







悲しき幽霊


前回、幽霊本について少し触れたが、幽霊本は運がよければ古本屋で手に入る分まだましだ。この世にはどうしても手に入らない本だってある。キルゴア・トラウト『サンキュー第一地方裁判所』然り、デレク・ハートフィールド『虹のまわりを一周半』然り。その昔、坂本龍一が『本本堂未刊行図書目録』(朝日出版社)という本を出していたけれど、ああいうのもまた生涯めぐりあうことのない幽霊のひしめく蟻塚だろう。

それから、本は手に入るものの作家が実在しないといったパターンもある。ジョージ・ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』(岩波文庫ほか)は、ひょんなことから莫大な遺産を手にした作者の友人ヘンリ・ライクロフトなる文士が、南イングランドの片田舎に隠栖し、四季を愛で、本を読み、思索に耽る日々を、四季を追って徒然なるままに綴った遺稿である……といった体裁の小説だ。

この本が独特なのは、小説の仮面をかぶりながらも、実際は100%ギッシング自身のエッセイ集だと誰もがわかるつくりになっていること。ではなにゆえヘンリ・ライクロフトなる友人文士が架構されたのかというと、隠栖とは無縁の自然主義的貧困生活(気になる方はググってください)を送っていたギッシングが、みずからの理想とする「知的生活とその意見」を立体的に描くために、それにふさわしい境遇の分身をあつらえたという経緯である。そんな舞台裏をシンプルに物語っているのが、この本の冒頭に刻まれた、ローマの詩人ホラティウスの諷刺詩からの引用《Hoc erat in votis(これは我が祈願の一なりき)》だ。

ところで一般に、この本の最大の魅力は、詩情に富んだ英国の四季をたっぷりと織り交ぜた美しい描写の数々や、本好きの理想といえる悠々自適な読書生活の愉快さにあると言われている。その評判を聞いた私は、いてもたってもいられず、いそいそと読んでみたのだけれど、残念なことに少しも好みではなかった。私の目には世間で言われる魅力よりも、他者への不寛容、社会に対する無知、会話を理解する能力の欠如など、平穏無事な生活のはざまにゆらめく根深い狭量の影がむしろ主調として映ったのだ。またこうした欠点が当時の価値観を考慮するに足りないことは、ギッシングに対する同時代人の評からも察せられてしまうのだった。

とはいえ読むからには楽しみたい。それで、気分と焦点とをちょっと変えて、じーっと眺め直していると、いくども読み返したくなる虚構の分身の日常と、人生に対する恨みを隠さない現実の作者との交錯が、この本の奇妙な味となっていることに気づいた。そしていつしか、私にとってヘンリ・ライクロフトは、作者の狷介な精神に閉じ込められ、隠遁の夢想を生き損ねた悲しき幽霊として、とてつもなく興味ぶかいものとなったのである。
咲いた花の名を一つ一つ思い当てたり、芽を吹いた梢が一夜のうちに緑で蔽われるのに驚いたり、自分は楽しかったその折々のことどもを思い出す。リンボクが雪のように白く輝き初めたのを、自分は見落さなかった。いつも咲く土手ぎわで、自分は初咲きの桜草を見当てた。またその茂みの中で、自分はアネモネを見つけた。キンポウゲで輝いている牧場やリュウキンカで照りはえた凹地を、自分は飽かずに長く眺めていた。ネコヤナギが銀色の毛皮の毬花を光らせ、金色の粉できらめいているのも見た。こんなありふれた物が、見れば見るほどいや増す讃嘆と驚異の念で、自分の心を打つのだ。それらは再び消え去ってしまった。夏に向う自分の心の中には、喜びに疑念が混じている。
死ぬ日まで自分は書物を読んでゆくのだ、——そして忘れてゆくのだ。ああ、それが一番困った点だ!  自分が種々の場合に得た知識を、すべて残らずものにしていたなら、自分は学者を名乗ることもできたであろう。確かに、長いあいだ耐えてきた心労や、興奮や、恐怖ほど、記憶力をそこなうものはない。自分は読んだものの中で、ほんの端くれを覚えているに過ぎない。それでも自分は、たゆまず、楽しんで、この先も読んで行くだろう。まさか将来の生活のために、学識を積むわけでもあるまい。実際、忘れることはもはや苦にならないのだ。自分には過ぎて行く一刻一刻の楽しみが得られる。人間として、それ以上、何を望むことができようか。
自然や読書にまつわる記述から、とても繊細で美しい箇所を引用してみた。ライクロフト=ギッシングは自然や書物を味わいながらも、決して飢えを癒すことの叶わない、時を惜しむもののまなざしを世界に対して投げかけつづけている。


2019年3月1日金曜日

●金曜日の川柳〔飯田良祐〕樋口由紀子



樋口由紀子






ほうれん草炒めがほしい餓鬼草紙

飯田良祐 (いいだ・りょうすけ) 1943~2006

餓鬼草紙は飢えと渇きに苦しむ亡者となった餓鬼の世界を描いた絵巻物である。彼はそれが観たくて、わざわざ行き、息を殺して観ていた。自分と同類のセンサーを全身の肌でひりひりと感知していたはずである。しかし、「ほうれん草炒めがほしい」ことだけをとりたてて、故意に書いている。

餓鬼の世界を観てもほうれん草炒めを食べたいと思う、そういう人間なのだと自分自身を確認するように眺めている。ほうれん草の御浸しではなく、脂ぎった炒め物の質感が微妙に伝わってくる。自分は一体何を考えているのかを表そうとしている。そして実際に彼はその後でほうれん草炒めを肴にして、ビールを飲んだだろう。決して深刻ぶらない非情な自分を保つために。『実朝の首』(2015年刊)所収。