2016年3月30日水曜日

●水曜日の一句〔加藤知子〕関悦史


関悦史









海峡の白菜割って十二階  加藤知子


難しい単語は特になく、言葉もすんなりと配置されているのでわかった気になってしまうのだが、相当に飛躍の含まれた句ではある。

素朴実在論的リアリズムに寄った読み方をしてしまえば、上五「海峡の」で軽く切れ、海峡の見下ろせる高層住宅の十二階のキッチンで白菜を割っている図ということになろうか。あるいは海峡付近で取れた白菜を割っているとも取れる。

だが言葉の並びの上では「海峡の」は「白菜割って」に直結しており、あたかも白菜を割ることによって「海峡」が生成されるかのようなダイナミズムが堂々と隠れているのだ。そこへさらに「十二階」という思いがけない下五がつく。

断ち割られた白菜の縦長の断面から高層階へという連想は無理ではない。だが割られる白菜と海峡は「分離されている」という形姿によってすでに結びつけられているのである。それが今度はいきなり、白菜の重い水気を含むかのような音韻「ジュウニカイ」にも媒介されつつ、高層階とまで同時に結びつけらることとなるのだ。

見た目の上からの「連想」を強調すると「海峡/白菜」「白菜/十二階」がそれぞれ隠喩によって結びついているように見えてしまうし、じっさいそう読めなくもないのだが、一句は先にも示したように、リアリズム的な読み方もできてしまい、そちらでは、これらは隠喩ではなく換喩によって結びついている。つまりこの句は解釈が定められないのと同時に、修辞的な原理も不定なのである。

その両方の読解を容れつつ「海峡」から「十二階」まで何ごとも起きていないかのように一気にかけぬける一句は、「十二階のキッチンで白菜を割ったら海峡が現れた」、あるいは、「海峡的な相貌をまとった白菜を割ったら十二階が現れた」といったような、スケールと遠近のシュルレアリスティックな混乱を含み込んでおり、そのいずれと取るにしても、それだけの小さからぬ混沌が、たかだか「白菜を割る」という行為によって急速に組織されるさまは爽快といえるだろう。「白菜」にこれほどの混沌的出会いを引き寄せる通路が潜在していたとは。


句集『アダムとイヴの羽音』(2014.3 ジャプラン)所収。

2016年3月29日火曜日

〔ためしがき〕 うしなわれたクのことをおもう 福田若之

〔ためしがき〕
うしなわれたクのことをおもう

福田若之


脚立。キャタツ。キャタ、という響きを含んだ語は日本語ではとても珍しい。カタカナ語を除いたら、たぶん、脚立以外にはないと思う。カタカナ語では、たとえば、キャタピラー。

脚の唐音での読みがキャなのだという。キャクは、漢音。要するに、時代をくだるにつれてキャクからクの音がうしなわれたのは、中国語においてのことだったというわけだ。日本語において、たとえばキャクタツ→キャッタツ→キャタツといった変化があったわけではない。

けれど、キャタツは重箱読みだから、このキャタは純然たる中国語の響きではない。この不思議な響きは、中国語の音と日本語の音の結合の賜物というわけだ。

2015/3/1

2016年3月28日月曜日

●月曜日の一句〔小川軽舟〕相子智恵



相子智恵






梅咲いてユニクロで買ふもの軽し  小川軽舟

「俳句」2016.4月号 特別作品50句「春の人」(2016.03 角川文化振興財団)より

俳句に店名を詠み込んだ例は、私はそれほど見たことがない。パッと思い出すのは攝津幸彦の〈幾千代も散るは美し明日は三越〉だろうか。

それよりも掲句を読んでまず思い出したのは、俵万智の〈大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋〉という短歌であった。この短歌の入った『サラダ記念日』は1987年刊行。東急ハンズという「何でもある」「ちょっと変わった面白いものを求める」ワクワク感と、〈大きければ〉に買い物のハレの気分が加わって、80年代の豊かさ、バブルの空気とカルチャーがよく表れた歌だ。

それに比べて掲句は、現代のファストファッションの代表格であるユニクロ。価格は安く機能性が高く、判で押したように同じ商品が並ぶが、それなりに流行も押さえている。商品の重量としてはもちろん軽いものばかりではないのだが〈軽し〉が見事にユニクロでの買い物の気分を言いえていると思った。それはハレの気分ではなく、ケの気分。日常着の代表であるこの店名には、もはや買い物にハレを求めなくなった(経済的にも求めにくくなった)現代の気分があるのだ。

〈梅咲いて〉には、それに不満を持つわけでもなく、見栄も張らない「それなりの喜び」が現れている。80年代の〈大きければいよいよ豊かなる気分〉と正反対の、そのささやかさがまた、現代である。

2016年3月25日金曜日

●金曜日の川柳〔内藤悟郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






苺の赫さが妻の瞳にある

内藤悟郎 (ないとう・ごろう)

苺が美味しい。店頭に並べてあれば、その赤い色に魅かれてつい買ってしまう。妻と苺を食べていたのだろう。食べている苺と同じ色が妻の瞳にあることに気づいた。妻をいままでよく見ていなかったことに思いがいたったのだ。それは大切なものを見つけた瞬間でもある。どうってことない日常が、代わり映えがしない関係が動いた。

「赫」は赤を二つ並べた漢字。「あかあか」と赤の倍、艶のある色。単に思っただけなら「赤」だっただろうが、想像以上の新鮮な驚きであり、発見だったのだ。だから「赫」なのだろう。照れくさくて口にできないことも川柳は受け取ってくれる。

2016年3月24日木曜日

●温泉

温泉

かくし湯のぬる湯にひとり日脚のぶ  中村苑子

めがねなき眼へ春の湯がひかり  中山奈々〔*〕

春風に吹かれ心地や温泉の戻り  夏目漱石

温泉の神に燈をたてまつる裸かな  飯田蛇笏

温泉の宿や蜩鳴きて飯となる  高浜虚子

湯の町の橋ばかりなる蜻蛉かな  細川加賀

温泉こんこん元日まず裸になる  荻原井泉水


〔*〕『セレネップ』第7号(2016年3月20日)

2016年3月22日火曜日

〔ためしがき〕 かけがえのなさ 福田若之

〔ためしがき〕
かけがえのなさ

福田若之


かけがえのなさ:他のものではないということ。

かけがえのなさは、ありふれたものだ。たとえば、ひとは誰しもかけがえのない存在だ。あたかも、誰もが同じようにかけがえのない存在であるかのようだ。

けれど、それぞれのひとに備わっているかけがえのなさは、そのどれもが、まったくありふれたものではない。

たとえば、要素A、B、Cからなる集合において、それぞれの要素がかけがえのないものである場合。

Aのかけがえのなさは、BならびにCではないということである。Bのかけがえのなさは、AならびにCではないということである。Cのかけがえのなさは、AならびにBではないということである。それぞれの要素のかけがえのなさは、他のどの要素のかけがえのなさとも異なっている。

これは、集合の要素がどれだけ増えても変わらない。あるもののかけがえのなさは、他のどんなもののかけがえのなさでもないということだ。

∴かけがえのなさはありふれているが、ありふれたかけがえのなさというものはない。

こう書くと、あたかもかけがえのないもの同士を比べることには意味などないかのように思われるかもしれない。けれど、そうではない。むしろ、比べることが肯定されるのは、かけがえのなさによってのことだ。もしAがBだったら、もはやAをBと比べることはできないだろう。あるものをそれ自体と比べることはできない。AがBではなく、BがAではないからこそ、両者を比べることが肯定される。

けれど、おそらく、比べることと優劣をつけることとは、また別のことだ。

2016/2/25

2016年3月20日日曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

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※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

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句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

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そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。

2016年3月18日金曜日

●金曜日の川柳〔田中空壺〕樋口由紀子



樋口由紀子






蛸踊り顔から先にくたびれる

田中空壺 (たなか・くうこ) 1900~1982

八本を手足四本で見せるのだから手足の方が疲れると思うけれど顔が先にくたびれるという。顔は普段はそんなに動かさないからなのだろう。それは経験してわかることなのか、踊る人の顔も見てそう思ったのだろうか。川柳の見つけである。蛸踊りそのものを的確に捉えている。そして、なにより「くたびれる」に愛嬌があり、愛情がある。

それにしても蛸踊りを見る機会はほとんどなくなった。特別の思い出があるわけでもない蛸踊りだが、掲句を読んで妙になつかしくなった。実際に見たのはほんの数回だろうか。職場の宴会芸や祝い事の席でたまにあった。そのときはみんなお腹を抱えて笑った。

ほのぼのとした人間味が出ていて、川柳の持ち味を生かしている。時代的には川柳は一昔前の方が合っていたのかもしれない。〈太郎冠者まともに向くと何か言ひ〉〈両国のその夜の月が少し邪魔〉

2016年3月16日水曜日

●水曜日の一句〔岡田史乃〕関悦史


関悦史









うみうしやうみざうめんや春動く  岡田史乃


先日、Yahoo!知恵袋で「日本の俳人でウミウシやウミヘビを題材にして、1000以上の句を詠んでいる人がいますか?」なる質問を見かけてこの句を思い出した。

「うみうし」も「うみざうめん」も季語ではあるまいから、そんなにまとめて句にしている人もいないだろうし、この句集もこの手の題材が特別多いわけではない。

ウミゾウメンというのは、検索してみると海藻の一種らしい。ほかに梅雨の時期に見られるアメフラシの卵塊もウミゾウメンと呼ばれるという。前者は食べられるが、生育場所の写真を見るとミミズの群のようでもある。

ウミウシの方は触覚を振って歩くさまが牛に見立てられてこの名がついたらしく、種類も多くカラフルだが、どちらもグロテスクといえばグロテスクな生き物ではある。

季語「春動く」は「春めく」「春きざす」等と同じなので、ウミウシやウミゾウメンの派手さや柔らかさは似つかわしい。

ところでこの語り手は、ウミウシやウミゾウメンと「春動く」とのアナロジーにとどまっており、ことさら感情移入したり、アニミスティックに共生意識を持ったりはしていないようで、ごくあっさりした扱いだが、かといって突き放しているわけでもない。いわば博物誌的な視線を向けているのである。この距離感から、柔らかい生きた宝石・宝飾品とでもいうべきこれらの生物の生命感が、兆し始めた春の光を受けつつ、きらきらと立ちあがってくる。


句集『ピカソの壺』(2015.9 文學の森)所収。

2016年3月15日火曜日

〔ためしがき〕 失われたテクストがあなたを歌う 福田若之

〔ためしがき〕
失われたテクストがあなたを歌う

福田若之


失われたテクストがあなたを歌う

という一句が、頭の中に、まだ何の意味もないままに、現れる。六七五の字余りの韻律に、それはとりあえず乗っている。「失われたテクスト」とは具体的に何であって、「あなた」とは具体的に誰であるのか、「歌う」とは厳密に言ってどういうことなのか、そうしたことは、まだこれからのことだ。だから、僕はこの一句を散文のなかの一文とみなすことがまだできない。 ∴これは、すでにはじまっているけれど散文以前であるところのものなのだ:ある意味において、「ためしがき」であるということ。

ここには具象性はない。あの廊下や畳の上の団扇のようなものは、ここにはない。だから、これを俳句と呼んでいいのかどうか、僕にはよく分からない。

かといって、川柳というジャンルがこの一句を引き受けてくれるとも思われない。この一句には、それが川柳と呼ばれるために必要な何らかの資質が欠けているように思う。それに、川柳がそもそも前句付けに由来していることを思えば、あのジャンルの根底には、むしろ「失われたテクストあなた歌う」というような思想があるのではないだろうか。いや、結局のところ、川柳のことを僕はよく知らない。

2016/2/22

2016年3月14日月曜日

●月曜日の一句〔ふけとしこ〕相子智恵



相子智恵






貝殻に通貨たりし日春未だ  ふけとしこ

『俳句新空間』No.5「今日のニュース」(2016.02 豈の会)より

〈春未だ〉は、私の手持ちの歳時記には載っていなかったのだが、「春浅し」の派生季語だろうか。晩冬か早春の感じのある言葉である。

貝殻は調べてみると、アジア、アフリカ、オセアニア、アメリカなど、幅広い大陸と島々で、はるか昔に貨幣として使われていたようだ。特に宝貝が用いられたという。貝殻の冷たさと滑らかな光は、少しずつ日の光が強くなってきつつも、いまだ寒さの続く早春の頃の季節感と響きあう。

春浅く、まだ寒い海岸を歩いていると、すべすべと光る貝殻を見つけた。拾い上げたとたん、かつて貝殻が通貨だった日もあったのだと思い出す。昔の人も貝殻を拾ったであろう浜辺。海の向こうに目をやれば、沖には早春の淡い日の光が反射している…そんな光景が想像された。

一粒の貝殻から、時空が広がる一句である。

2016年3月12日土曜日

【みみず・ぶっくす 61】ヘヴンリー・タッチ 小津夜景

【みみず・ぶっくす 61】
ヘヴンリー・タッチ

小津夜景


 あまり言葉が好きではない。むしろ訝しんでいる。
 でもこれが言葉でなく文字となると話は別だ。文字から意味が現れたり消えたりする光景というのはなぜああも感動的なのか。なかでも意味のわからない文字の美しさ。そんな字面を見つめたり、なぞったり、小脇に挟んだりするあの快楽といったら! 
 十代の頃、而立書房という読み方不明の出版社から出ていたスリュサレヴァ『現代言語学とソシュール理論』という本を偶然ひらき、そのあまりのわからなさに瞬息で魂を奪われたことがある。もういちど端から端まで見返してみたがやはり何もわからず、それが日本語なのかどうかさえ謎のまま思わずふらふらと買い、犬が骨を掘り返しては埋めるみたいに本棚からその本を出してはしまう日々をそれから十年ほど過ごしていた。
 西洋の文字は形(フィギュール)で、砂のように粒だち、見つめているとサンド・ノイズが字面から聴こえてくる。コード進行を追う感覚でそのざらつきの微妙な変化を手さぐりで追ってゆくと、突如つかのまの「読みの中心」が構造化される奇跡と出くわす。あれがたまらない。
 片や日本の文字は線(リーニュ)で、波のように揺らめき、どこか一点を引っぱればするりとほどけて別の余波へと化けてしまう。そんな水面で、中心のない浮遊感に身をまかせているときの、自分自身までが解きほぐれるあの感覚もふしぎだ。
 中心のない浮遊感といえば「カインド・オブ・ブルー」。ビル・エヴァンスはこのアルバムを書道のような旋律と説明したが、夜しかり水しかり、ブルーという抽象概念にもかなり大切な恍惚への糸口が潜んでいそう。とはいえそれはまた別の話。


別人に布をかぶせる春まつり
早蕨にwhyの文字化けまばゆかり
ものはなのもつれを空に口走る
椿餅食べてほんのり伏字かな
北開くしかばねかんむりの家で
春の扉にくさび形文字を彫る
鳥影がぎやうにんべんとなる春壁
滑りだす虻は光のシンバルを
しやぼん玉ことばに触れて失明す
棲みわびし風を古巣として僕は

2016年3月11日金曜日

●金曜日の川柳〔山本翠公〕樋口由紀子



樋口由紀子






人間の評価に顔が邪魔になる

山本翠公 (やまもと・すいこう) 1917~

犯罪や汚職など世間を騒がす人の顔がテレビで映しだされたり、新聞などで見ると、なるほどこの人は悪いことをしそうだとか、反対に悪いことをする人には見えないのにと思ったりする。しっかり見た目で左右されている。

掲句は作者独自の物の見方を提示しているのではない。まして異議と唱えているのでも憤っているわけではない。もちろん切実な思いがあるのでもない。共有性のフレームを掬い取り、一句にしている。確かにそういうことがあり、「顔」とはそういうものである。なんとなくそうだと思っていることをダメ押ししている。わざわざと感じる人もいるかもしれないが、これも川柳の一つの使い方である。『火山系』所収。

2016年3月9日水曜日

●水曜日の一句〔中山奈々〕関悦史


関悦史









茂吉忌や床の一部として過ごす  中山奈々


「床の一部として過ごす」とは体調不良か何かだろうか。「一部」とあるから、身体のサイズにもともと合わせられている「とこ」ではなく、「ゆか」と読むべきなのだろう。「畳」ではないので、その辺で安逸にごろ寝している雰囲気でもない。

安逸というよりは、どうしても放心や虚無感の色合いが濃い。「床の一部として過ごす」とは、体を横たえているということだけではなく、自己意識まで放散気味になっており、しかもそれを自覚している状態をあらわす。

上五に据えられたのは「茂吉忌」である。斎藤茂吉といえば、写実の向こうに国民的といってもよいような巨大なスケールの無意識を湛えた歌人である。

別に茂吉を激しく悼む気持ちから衰弱しているわけではあるまい。しかし、「茂吉忌や」と置かれることによって、単なる衰弱の姿が単なる衰弱の姿に終わらず、茂吉作品が湛える膨大な無意識空間との繋がりを得たとも見える。そしてその全てが、どうでもいいことと思われているようでもある。

「過ごす」は、自己意識を捨て去りきっていない。ただ漠然と茂吉忌と思い、床の一部になった自分がある。あり続ける。そのやりきれなさのような感覚への自足が捉えられている。


「しばかぶれ」第1集(2015.11)掲載。

2016年3月8日火曜日

〔ためしがき〕 「鷲掴む」の困難と可能性 福田若之

〔ためしがき〕
「鷲掴む」の困難と可能性

福田若之

寒蟬:
それと、表題になっている

勝独楽の立ちたるままを鷲掴む
ですが「鷲掴みにする」とは言うけれど「鷲掴む」という動詞はあるのか?「夕焼くる」という表現ですら、有名な俳人が何人も使っているにも拘らず認めないとおっしゃっている俳人もいる。況してや「鷲掴む」はダメでしょう。

信治:
鷲掴む も、たしかにまずいか。鷲づかみにする、とか、鷲づかみに掴む、という言い方ができるわけですからね。これは、選んで申し訳なかった。
仲寒蟬×上田信治、「【落選展2015を読む】 (1)「水のあを」から「梅日和」まで」
当然、そういう考え方もある。いや、角川俳句賞のことを念頭におくならば、そういう考え方こそがふさわしいとさえいえるかもしれない。けれど、そういう考え方ばかりでもないのではないか、と思う。

「有名な俳人が何人も使っているにも拘らず」というけれど、「夕焼くる」が、いま、「ダメ」なのは、まさしく、すでに「有名な俳人が何人も使っている」からなのではないだろうか。「夕焼くる」は、「夕焼け」の動詞化による既存の言語体系からの逸脱であることによってのみ、詩的でありえたし、また、それゆえにこそ、それがいわゆる「正しい日本語」ではないことなど誰もが気付いていたにもかかわらず、許容されえたのではなかったか。

思うに、「夕焼くる」が表現として許されるためには、それが「正しい日本語」でないがゆえの斬新さによって読み手をあっと言わせるか、そうでないのなら、もはや一般に普及して「正しい日本語」として辞書の厚みに加わってしまっていなければならないのだ。いま、「夕焼くる」は、「正しい日本語」として辞書に載ることを許されぬまま、特別な感興を催させることのない安易な紋切り型になりさがってしまっている。いま、それは、確かに、ただの「よくある間違い」になってしまっていて、それゆえに、もう、「ダメ」なのではないか。

けれど、こう考えてみると、むしろ、「鷲掴む」にはまだ可能性があるという気がしてくる。

すくなくとも、あえて「鷲掴む」を表題として掲げる作者が、「鷲掴み」が通常は動詞として活用されないことに無自覚だったとは、僕には思えない。

ただし、「鷲掴む」という表現を用いることの困難は、「夕焼くる」や「夏痩す」などと違って、容易に「鷲」が「掴む」の主語であるかのように読まれかねないという点にある。対談で問題にされている《勝独楽の立ちたるままを鷲掴む》(仮屋賢一)という句は、独楽を鷲が掴んでいるのだ、と解釈されてしまう危険を完全には回避できていない。ならば、主語を明示して「(主語)の鷲掴む」とすればどうかというと、その場合、今度は「鷲」が「掴む」の目的語であるかのように読まれかねない。もちろん、漢字をひらがなにひらいてしまえば、「づ」と「つ」の違いで識別できるようになるけれど、あえてそうしない手を考えるほうが面白い。

いまのところ、僕に思いつく解決策はひとつだけ――「(主語)は(目的語)を鷲掴む」とし、後の部分の全体にかかっていく「は」の性質を生かして「鷲」が主語として読まれる危険を回避しながら、目的語を明示することによって「鷲」が目的語として読まれる危険も回避する、というもの。けれど、このかたちは非常に散文的で、うまくいくかどうかは主語と目的語の組み合わせにかかっている。順番を組み替えて「(目的語)を(主語)は鷲掴む」とすれば散文っぽさはいくらか減るものの、今度は目的語が宙に浮いてしまう感じがして、落ち着かないように思う。

2016/2/22

2016年3月7日月曜日

●月曜日の一句〔吉田林檎〕相子智恵



相子智恵






この文を今渡さばや風光る  吉田林檎

第3回星野立子新人賞受賞作「太古の空」(2015.05 私家版冊子)より

郵送する手紙ではない。相手に面と向かって、今この場で、この手紙を渡したいのだ。

そういえば、大人になると面と向かって手紙を渡したり、もらったりする機会はほとんどなくなる。だから掲句からは自然と、学生時代の、学校や通学路で渡す手紙が想像された。いつも同じ場所に通う相手だからできる手紙の渡し方だし、〈今渡さばや〉の「今、この時しかない!」と勇気を出す感じと、〈風光る〉というキラキラした明るい季語が、そんな青春の一場面を感じさせるのである。

しかし同時に、SNSやメール全盛の現代の学生にとっては、こういう手紙を手渡す場面自体があまりないことなのかもしれないとも思う。この句の構成も「手紙」ではなく〈文〉という言葉を使っていたり、〈渡さばや〉の古語も古風だったりして、青春性がありながら、どこかノスタルジックに作られている。

つまり、この句は青春を通ってきた大人の俳句なのである。それでも、いや、それだからこそ「キュン」とさせるものがあるなと、大人になってからの方が長くなりつつある私は、読んでいてそう思った。

2016年3月5日土曜日

【みみず・ぶっくす 60】愚直なさえずり 小津夜景

【みみず・ぶっくす 60】
愚直なさえずり

小津夜景


 誰の目を引くこともなく凡庸に繰り返される紋切り型の詩句。ひっそりと心ひかれつつ、そんな詩句を眺める。そうしているうちに、だんだんと紋切り型の詩句というものが、言葉ではどこにもゆけないこと、結局この場所に戻らざるを得ないことを確認するための、とても入念な戯れのような気がしてくる。
 ひとはあの場所を忘れないと思いつつかならずそれを忘れ、それゆえ繰り返しそれを思い出す。つまり「ほととぎすそのかみ山の旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ/式子内親王」と言いながら実際は「梅を見て梅をわすれてもう一度梅を見るまで忘れてをりぬ/小池純代」ということらしい。
 しかも思い出すのはかつて何かに恋していた記憶であり肝心のあの場所自体ではない。むしろあの場所はいっそう儚い。紀貫之が「影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞさびしき」と記したように。そんなさなか紋切り型の詩句に出くわすと、わたしにはそれが、もはやこの世界になにも期待していないことのとても愚直なさえずりに思えてくるのだ。
 いま季節は春でわたしはベランダに来る鳥たちの声を聞いている。聞きながら「花咲かば告げよと言ひし山守の来る音すなり馬に鞍置け/源頼政」と文字でつづり、それから、ついこの間まで私たちに可能な伝達手段で一番速かったのは馬だった、と想う。そうした時代、ひとはどんなにか鳥にあこがれただろう。鳥は空間はおろか時間さえ軽々と超えるそうだ。だがどちらへ向かって? それはたぶん、

  どうしても見えぬ雲雀が鳴いてをり / 山口青邨

マドレーヌいただく春の臥所かな
なかんづく押入れ愛す雛あられ
沈黙の春やも硯きれいにす
回送を待つ桃の日の代書人
クレソンの束を空ごと贈られし
みつばちの羽音は時をふれまはる
力学の本閉ぢ風の吹く古巣
翅割つてわれは霾ることばかな
桃の下そぞろに詩句をそらんずる
青き踏む地上最後の音楽家

2016年3月4日金曜日

●金曜日の川柳〔いわさき楊子〕樋口由紀子



樋口由紀子






半島と湾のあいだで平謝り

いわさき楊子(いわさき・ようこ)1953~

なぜ平謝りなのかは説明されてない。平謝りは自分の非を全面に認め、平身低頭してあやまることであり、あまりかっこいいものではない。が、そのかっこいいものでないことを半島と湾のあいだでするという。なんとスケールが大きいのだろう。こんな平謝りははじめて見た。不意打ちをくわされたようだ。

だが、「半島と湾のあいだ」って、一体どこだ?半島は陸で湾は海。絵に描いてみたが、ない。半島か湾になる。ということは謝るつもりはないのか。それとも、現実には存在しないが、言葉で作った「あいだ」で謝るというのか。ありそうでないところでの平謝り、それもありかと思った。

〈信用できるのは脚の太い馬〉〈身の丈のあわぬ竹輪を買ってくる〉〈二番目の姉があさって来るという〉 『らしきものたち』(2015年刊)所収。

2016年3月2日水曜日

●水曜日の一句〔稲垣麦男〕関悦史


関悦史









抱擁し媾合し春の雲ゆく  稲垣麦男


媾合(こうごう)は性交のこと。吹き寄せられ、崩れあう雲の形が抱擁や媾合のさまに見えるというのは、普通の見立てであり、それが「春の雲」であるところも、またいかにも似つかわしいだろうという程度のことにとどまる。

この句に生気があるとしたら、語り手の視線や欲望を反映しているだけの「抱擁」でも「媾合」ではなく、最後の「ゆく」によるものである。これで初めて、作者や語り手の内面と直接にはかかわりのない、ゆったりとした自然の大きな動きが入ってくるのだ。

もっともこの句の場合、動作の主格が明示されているわけではないから、「抱擁」や「媾合」は雲以外の何ものかが、無人称のうちに溶け込みつつしていると考える余地もあって、そうした省略によるイメージの重層そのものが、ゆるやかで輝かしい春の大気の感覚を反映しているようでもある。


句集『海の音』(2015.12 文學の森)所収。

2016年3月1日火曜日

〔ためしがき〕 あたらしいということ 福田若之

〔ためしがき〕
あたらしいということ

福田若之

青くなり、やがて白んでいく明け方の空を眺めながら、「あたらしい」とは、単純に、この感じのことをいうのではないかと思う。

となると、あたらしさは毎日感じうるものなのであって、未曾有のことがらに対して抱かれる何らかの感じのことではないということになる。

日々繰りかえされるあかつきが、それにもかかわらず常にあたらしいのは、あかつきというものがかつてなかったからではない。それは、繰りかえされるあかつきのうちで、このあかつきはかつてないなにかであるということを感じるからだ。そして、それはこれからもない。二度とない。あかつきは、つねに、このあかつき、という感じを否応なしに抱かせる。そして、その感じを僕はあたらしさとして感じてきたのだった。

あたらしいとは、時間のなかでのかけがえのなさを感じさせることをいうのだろう。このかけがえのなさはあまりにもありふれているから、僕らの感覚は麻痺しがちだ。かけがえのないものはありふれているが、かけがえのなさを感じさせるものは多くない。あるいは、かけがえのないものはありふれているが、僕らがそのかけがえのなさを感じとることには困難がつきまとっている。だからこそ、言葉が、誰かに、あたらしいものとして届くためには、その困難がなんらかのかたちで乗り越えられなければならないのだろう。

2016/1/31