2017年6月26日月曜日

●月曜日の一句〔松井眞資〕相子智恵



相子智恵






時の日や宙に停まる観覧車  松井眞資

句集『カラスの放心』(文學の森 2017.06)所収

そういえば「時の記念日」というものがあったな……と、掲句を読んで思い出したくらい、私の中では認識が薄くなっていた日であり季語だった。どういう句があるのだったかと歳時記の例句も見てみたが、特に人口に膾炙した句も見られず、象徴性が湧きにくいのだろうと思う。

掲句、営業終了後の観覧車だろうか。観覧車は宙ぶらりんのまま、次の営業開始時刻まで止まっている。ただただ風に吹かれるのみの、その寂寞とした時間に、そういえば時の日が過ぎようとしているという静かな感慨が重なる。

観覧車は風の中で回り、止まることを、いつか取り壊されるその日まで繰り返す。次々と乗せては吐き出す人々は観覧車の中に留まることはなく、来ては去ってゆくのみだ。まるで『方丈記』の冒頭のような無常を、静かに、正確に時が刻んでゆく。〈時の日〉という季語が活かされた句だと思った。

2017年6月24日土曜日

●さざなみ

さざなみ

藻の上をさざ波はしる障子かな  岸本尚毅

新涼のさざなみに似し手紙あり  峯尾文世

漣のさみしくなりし日傘かな  岡本眸

羽子落ちて木場の漣あそびをり  石田波郷

さざ波のたちて仔猫の通りすぐ  小林すみれ〔*〕

桜餅今日さざ波の美しく  大木あまり

〔*〕『椋』第76号(2017年6月)より

2017年6月23日金曜日

●金曜日の川柳〔高瀬霜石〕樋口由紀子



樋口由紀子






リア王もオセロもマクベスも 馬鹿だ

高瀬霜石(たかせ・そうせき)1949~

リア王もオセロもマクベスもシェークスピアの四大悲劇。悲惨な結末を迎えるのだから、確かに馬鹿だと言える。そうならないようになんとかすればよかった。が、何故「馬鹿だ」なんて身も蓋もない言い方をするのかと思った。

「馬鹿」という言葉は一見、単純で狭い一つの意味をしか持ち合わせてないと思ってしまいがちだが、存外、そうではなくて、広範囲にありとあらゆる感情が入り乱れている言葉である。「馬鹿だ」とあらためて言うことに意味があり、それによっての全体を照射する。愛情表現であり、アプローチの仕方なのだろう。

五四五三、計十七音で、川柳であると辛うじて保証している。この十七音がつぶやきで終わらない、なにがしかの意味をもたらす装置である。人名なので仕方がないと言えるのだが、強引な句跨りにも独自の捻じれがあり、それによってアイロニーとペーソスを生み出しているように感じる。『川柳作家全集 高瀬霜石』(2010年刊)所収。

2017年6月21日水曜日

●水曜日の一句〔長谷川晃〕関悦史


関悦史









オフェーリアの眼に笑ひあり万愚節  長谷川晃


オフェーリアはシェイクスピアの「ハムレット」で恋人ハムレットに捨てられ、父を殺され、身を投げて死ぬ悲運の女性。絵画の題材としてもよく取り上げられているが、最もよく知られているのはジョン・エヴァレット・ミレー(バルビゾン派のミレーとは別人)による水死体の油彩画ではないか。

特にその絵に限定して鑑賞しなければならない句ではないので、ひとまずそのイメージは振り払うとしても、生前の「笑ひ」ではなく、身投げした水死体と取らなければこの「笑ひ」の戦慄は生きてこない。

シェイクスピアの四大悲劇はみなそうだが、「ハムレット」そのものが、さして長い話ではないにもかかわらず混沌を含んでいて、先王の幽霊の登場する序盤から、ドミノ倒し的に登場人物がバタバタ死んでいく終盤まで、人のなかにありながら人のスケールを超えた力といったものが横溢している。

この「笑ひ」はその渦中で身を滅ぼしたオフェーリアの恐怖や諦念、侮蔑など、さまざまな感情が凍りついたような笑いである。

そこに季語「万愚節」が取り合わせられると、この悲劇をすべて嘘だといってほしいといった情緒纏綿たる悲しい「笑ひ」にも見えるが、一方、オフェーリアの人生そのものが一場の嘘という扱いにされてしまっているようにも見える。

いやしかし、そもそもオフェーリアは虚構の登場人物なので、本当の意味での人生というものはない。

「オフェーリアの眼に笑ひあり」という断定自体が嘘なのではないかということも考えられるが、これは真偽が確定できる命題ではない(虚構の話だからというのもさておき、劇中ではオフェーリアの死は「死んだ」という報せだけで済まされてしまい、直接描かれてはいなかったのではなかったか)。

一見、空想と理屈で付けられただけに見える「万愚節」だが、この句の、若い悲運の女性の水死体のイメージは、嘘-本当、虚構-現実という軸を混乱させ、いかなる物語に収まればよいのかを曖昧にたゆたわせたまま、「万愚節」という碇によって一句につなぎとめられている。その曖昧なたゆたいを体現しているのが「笑ひ」なのだ。


句集『蝶を追ふ』(2017.5 邑書林)所収。

2017年6月20日火曜日

〔ためしがき〕 uninstall.exe 福田若之

〔ためしがき〕
uninstall.exe

福田若之


世のなかには、さまざまなイデオロギーがある。資本主義、民主主義、社会主義、共産主義、植民地主義、無政府主義、全体主義、テロリズム、形式主義、写実主義、象徴主義、構造主義、ポスト構造主義、モダニズム、ポストモダニズム、構造主義、経験主義、イスラム原理主義、キリスト教原理主義、マルクス主義、フロイト主義、人種差別主義、フェミニズム……まだいくらでもあるけれど、もう充分だろう。ときに重なりあい、ときに対立しあいながら働くこうしたイデオロギーは、しばしば、「物語」という言葉を使って語られてきた。

だが、ここでは次のように言ってみよう。イデオロギーはプログラムである。 プログラムという語は、ギリシャ語のπρόγραμμαを語源としている。それは、「公に書かれたもの」を意味していた。これはまた、「前もって書かれたもの」をも意味するだろう。ところで、イデオロギーとは、公的な法として自らが共有されることを要請するものであり、ハードウェアとしての僕たちを何らかの運動へと駆りたてるソフトウェアであり、何かが書かれるときにその前提として働こうとするものであり、出来事の展開をひとつの工程に従わせようとする式次第であるはずだ。だから、こうした意味で、イデオロギーとはプログラムの一種だといえる。

ここで僕は、 そうしたイデオロギーの一切を空き缶のように蹴っ飛ばして、早々にそこからの逃走をくわだててみせたりするつもりはない。そんなことはこれまでにもさんざん繰り返されてきたことなのだし、僕たちは、そんな物語を、もう、前もって繰り返し聞かされてきた。

プログラムはインストールされる。僕たちは、言葉を読みとり、あるいは聞きとるなかで、さまざまなイデオロギーを身のうちにとりこむ。必要なことがあるとすれば、それは逃走ではない。アンインストールの手順を用意することだ。もちろん、それはただちに必要とは限らない。もしかしたら、ハードウェアが壊れるまで使わずにすませることもあるかもしれない。それでも、アンインストールの可能性は、ひとつのプログラムがもはや不要とされるときのために、つねにあらかじめ担保されていなければならない。たとえば、「遺産」という語がなんらかの権威をまとって響くときに、特定のイデオロギーがこの語と結びつくことに問題があるとすれば、それは、このアンインストールの可能性が担保されていないという点にある。「遺産」という語は、それが権威をまとったときには、それを放棄すること自体を悪として意味づけるからだ。

話が逸れた。つねにあらかじめ、用意された手順。そう、アンインストーラもまた、それ自体が一個のプログラムにほかならない。そして、アンインストールの手順を用意するというのは、事実上、アンインストーラをプログラミングすることにほかならない。

アンインストーラを書くうえで注意しなければならないのは、 ひとつのプログラムがもはや不要とされるときというのは、必ずしも、そのプログラムの目的が果たされたときであるとは限らないということだ。僕たちは、インストールしたプログラムを結局は一度も起動させないままアンインストールすることもあるし、起動させてみて駄目だなと思ってプログラムを強制停止させてアンインストールすることもあるし、そうかと思えば、さしあたりこのプログラムが役に立つことはもうないだろうと判断しながらも、なんだかんだアンインストールせずにそのままにしておくこともある。だから、アンインストーラは、そうしたさまざまな場合に対応している必要がある。

ちなみに、アンインストーラのアンインストーラはといえば、際限なくアンインストーラが必要になるという事態を避けるために、通常、そのアンインストーラ自体に内包されている。アンインストーラが機能を果たしたあとで、アンインストーラが残らないのはそのためだ。それは、たとえば、ミシェル・フーコーが「書物そのものは、その効果のうちに、その効果によって消滅すべきなのです」と語ったような仕組みが必要とされるということだろうか。だが、アンインストーラのそうした仕組みについて、僕はまだよく知らない。だから、これはほんのためしがきでしかない。

けれど、ひとはアンインストーラを書くことができる。これまでにも、何度だって書いてきたはずだ。アンインストーラのプログラミングのやり方は、きっと、僕たちにプログラムされているはずだ。仮に、それもまたひとつのイデオロギーとしてでしかないとしても。

2017/6/11

2017年6月19日月曜日

●月曜日の一句〔横沢哲彦〕相子智恵



相子智恵






梅雨鯰利口な奴が増えてゐる  横沢哲彦

句集『五郎助』(邑書林 2017.06)

ここで言う「利口」とはどんな意味を持つのだろうか。〈利口な奴〉と「奴」が付くくらいだから、もちろん褒めてはいない。〈増えてゐる〉だから、裏側に「ある時点よりも」「近頃は」という時間が見えてくる。

その世界観は、取り合わせの〈梅雨鯰〉に託されている。梅雨鯰は鯰の傍題で、梅雨の頃に産卵のために水田などに姿を見せることからこう呼ばれる。

鯰の泥臭く、ゆっくりとしたイメージ、髭の生えたとぼけたような顔が思い出されることで、それと対比されるように「利口な奴」が指すイメージは、「都会的でスマートに生きる(計算高い)シュッとした奴」のように私には思われた。

利口な奴が増えたことへの皮肉の句なのだろうが、しかし、ふと鯰のパクパクとしたチャーミングな口を想像しながら「利口な奴が増えてゐる」と読んでみる。

すると皮肉だけではなく、「利口に行き過ぎだよ。少しは泥臭く、ゆっくり、ぼんやり行こうや」と鯰に言われているようにも思えてきて、肩の力も抜けていく。

鯰の取り合わせが、この句がきつくなり過ぎないチャーミングさを加えているのだ。

2017年6月16日金曜日

●金曜日の川柳〔石田柊馬〕樋口由紀子



樋口由紀子






妖精は酢豚に似ている絶対似ている

石田柊馬 (いしだ・とうま) 1941~

えっ、「酢豚に似ている」って。「妖精と酢豚」、どこも似ていないと誰もが思う。それを「絶対似ている」とまるで子どもの言いぐさのように、駄目だしする。妖精のイメージが一気に壊れる。読み手を引き込む確信犯である。

肝心なことに気づいた。妖精を見たことがない。絵かなにかでそれらしきものは見たことはあるが、架空の、想像のものである。だから、それがホンモノかどうかも疑わしい。酢豚には似ているはずがないと思いながらも、なにやら似ているような気もしてくるからくやしい。決まりきっているものへの嫌味である。

「絶対」がクセモノ。「絶対嘘はつかない」「絶対忘れない」は嘘をついてしまうから、忘れてしまうから、「絶対」をつける。そのような「絶対」に限りなく近いように思う。「絶対」はそう簡単に使いこなせる言葉ではない。たぶん、このようなヘンな川柳はいままでなかっただろう。どうでもいいことを真剣に言いたてているふりをして、現実とはどこか違うものを川柳に仕立てあげている。あくの強い語りに上手さがある。『セレクション柳人 石田柊馬』(2005年刊 邑書林)所収。

2017年6月14日水曜日

●水曜日の一句〔北大路翼〕関悦史


関悦史









柿ピーのわづかなる差異明易し  北大路翼


普段気にもとめない柿ピーの形状のわずかな違いに目が止まること、そしてそれをわざわざ客観写生風に五七五にしてみせることが持つ俳諧味が、さしあたりこの句の特徴のように見えるが、それだけではない。すぐに食われてしまうこともなく、その外観に目を止められた柿ピーは、実用性を離れた美術物件のような存在感をあらわにしつつ、その表面に「明易」の微光をまとい始めるのである。

これが早朝から柿ピーで朝食を済ませてしまっている景のはずもなく、朝の支度の気忙しさが微塵も見当たらない、放心を思わせる視線を受ける柿ピーは、前夜からの酒のつまみとしてその辺にあったものとでも見たほうがよい。柿ピーを目で彫り出すようなナンセンスに近い凝視は、暮らしのなかの倦怠の一場面をもその背後に浮き立たせることになるのだ。

すぐにはものを食う気にもならぬ二日酔いじみた消尽ぶりによって、いささか殺伐たる生活空間を思わせる句ではあるが、さしたる値段でもない柿ピーを、朝の微光のなかのオブジェに変容させてしまう「差異」という把握にユーモアがある。

そして、そのユーモアや倦怠が持つ灰汁すらも「明易し」がきれいに拭い去り、生活実感、というよりも、荒みに近い身の重みを殺さぬまま、一句を清浄なものへとまとめ上げるのである。安手な句材が静物画に化けた違和感の味わいは、同時代日本の、ある種の具象画表現に通じるところもある。


句集『時の瘡蓋』(2017.5 ふらんす堂)所収。

2017年6月13日火曜日

〔ためしがき〕 ひとはふつう裸でトランプを切らない 福田若之

〔ためしがき〕
ひとはふつう裸でトランプを切らない

福田若之


死も選べるだがトランプを切る裸   田島健一

ひとはふつう裸でトランプを切らない。それに、「死も選べるだがトランプを切る」なんてどこかのスパイ映画のヒーローみたいなことを、ふつう裸では考えない。だから、これは狂気か異常か極限なのだ。いや、狂気も異常も極限なのだから、極限なのだ。この裸の極限的なありさまは、この句を語るうえで、もっと注目されてよいはずだ。

『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017年)については、すでに二度書いた。けれど、そのたびに、僕はこの句集のもっとも魅力的に感じる要素のことを、書きそこなってきたように思う。なによりも、僕は次の一句に触れずに来たのだから。

鶴が見たいぞ泥になるまで人間は   同

この句集において、僕がもっとも好ましく思うのは、結局、おそらく同時代的には高野ムツオや北大路翼などの句と呼応しあうものであり、系譜的には加藤楸邨に連なるものであるのだろう、この泥臭さなのだ。それは、きっと先に挙げた句における裸の極限的なありさまとも関わっている。

そうだ。人間は、泥になってしまったら、行くところまで行ってしまっている。だから、泥というのは、裸とおなじく、狂気で、異常で、要するに極限的なありさまなのだ。

けれど、いま、僕がこうして『ただならぬぽ』についてやっと僕の核心を書きはじめたのは、決して、この二句の結びつきに起因してのことではない。

きのう、八王子駅で横浜線の出発を座席に腰かけて待ちながら、ふいに思い出してしまったのだ。夏目漱石の肖像が印刷された古い千円札の裏には、二羽の鶴が印刷されていたということを。

狂気だの異常だのと書いておいていきなりだが、引用した鶴の句は、以前から、労働にかかわる句だと考えていた。僕のそうした考えは、おそらく、書き手自身の次の発言に由来している。
僕は、以前自分が仕事に深くとらわれている時期があって、「鶴が見たいぞ泥になるまで人間は」っていう句を作った。
(「座談会II」、『オルガン』2号、53頁)
僕には、仕事をめぐって人間が泥になるということは、労働に、それも過剰な労働にかかわっているように思われてならない。だが、それにしても、「鶴が見たいぞ」がわからない。わからなかったのだ。労働の果てに見出される鶴、それはいったい何だというのか。

金銭、というのは、もちろん安易な答えである。そうなれば、泥というのも、ついには泥棒のことを意味することになってしまうだろう。人間は千円のためについには罪を犯してしまうだろう。けれど、そうではない。金銭には鶴を見出すことはできない。金銭がたんに金銭にすぎないかぎり、そこにひとが見出すことができるのは、ただ数字だけだ。

だが、そこにはたしかに、鶴が印刷されていたのだ。しかも二羽も。

思うに、ひとが紙幣の図柄のモチーフなどを気にしはじめるのは、それがそのひとにとって、もはやたんに紙幣ではなく、一枚の絵になってしまったときではないだろうか。ならば、引用した句は次のように読み替えることが可能になる。すなわち、人間が過剰な労働に極限的なありさまになるまで身を捧げるのは、金銭がもはや金銭でなくなるのを見たいからなのだ、と。これはさらに次のことを示唆している。人間が泥になってしまわないかぎり、金銭が鶴になることはない、ということだ。人間が人間でいるうちは、結局、金銭は金銭であるにとどまるのである。すくなくとも、この読みにおいては。

ところで、鶴を見るとはどういうことだろう。見ることについて、田島健一は『オルガン』7号の座談会で次の発言をしている。
田島 前に若ちゃんが「見るってことは書くことなんだ」と言っていて、それと関わってくるのかなと。書かないとならない感じが俳句にはある。
(「オルガン連句興行&座談会 「沼を背に」の巻」、『オルガン』7号、46頁)
けれど、弱った。僕はそんなことを言った覚えはないのだ。うっかりそんなことを言ったことがあっただろうか。言ったよ! と強く言われれば、そうかもしれないと思うくらいには、自信がない。けれど、すくなくとも、2016年9月10日に開かれたこの座談会のおよそふた月前にこの「ウラハイ」に掲載されたためしがきでは、僕はむしろそれと逆のことを言っていたはずだ。引用しよう。
僕にとって、「写生」は、見ることの一形態であるよりも、むしろ、描くこと、書くことの一形態なのである。
福田若之「視聴することと写生すること」
だから、僕にとって、見ることと書くことは、「写生」を通じてかかわっている。けれど、それはまったく別のふたつのこととして、たがいにかかわっているのだ。けれど、僕のことはまあいい。ここで大事なのは、どうやら田島健一にとっては、そうではないらしいということだ。ならば、鶴と書くことが、すなわち鶴を見ることなのだろうか。

もちろん、書き手がどうやってこの句を書いたのかを僕は知らない。だが、仮に、句を書くときに二音の空白を鶴という言葉で埋めることを想像してみよう。そのとき、鶴はその二音の価値のために支払われているということができる。たとえば一万七千円の支払いのとき、一万円札と五千円札を一枚ずつ出したあと、その埋め合わせのためにもう二千円を差し出すのは、その二枚に、余った二千円分の価値があるからだ。それと同じように、鶴は二音ぶんの代金として支払われるのである。

では、そのようにして支払われた鶴は、金銭的であるにとどまるだろうか。そうではない。埋めあわせとして持ち出された鶴は、鶴であるがゆえに、もはや抽象的な二音の価値以上のものを持っている。鶴と書かれてあれば、もはや、それをたんなる二音の埋め合わせとして見ることはできない。そこで、鶴は、鶴として見られるのだ。だから、そのようにして、書くことは見ることにかかわっている。それを、田島健一ならば、「書くことは見ることである」と書くだろう。

もちろん、これは僕がかつて千円札の裏に二羽の鶴の絵が印刷されていたことをふいに思い出してしまったことを契機とした、まったく恣意的な読みのひとつにすぎない。きっと、もっと自在に、この句を読み替えていくことはできるだろう。けれど、僕はこの思い出しの衝撃をまだ忘れることができないから、たぶん、しばらくはこのまま同じように読みつづけるだろう。
 
それにしても、トランプは紙幣に似ている。ひとは、実にしばしば、 トランプを数と記号に還元してしまう。けれど、そのとき、ひとはジャックがどんな表情をしているかすっかり忘れてしまう。そもそもジャックの表情など誰も見てはいないのだ。人間は、誰も。だから、トランプを切りながら、それをもはやただのトランプではないものにしていくためには、ひとは裸でトランプを切らなければならない。死ぬのではなく、切りつづけなければならない。

2017/6/4

2017年6月12日月曜日

●月曜日の一句〔高畑浩平〕相子智恵



相子智恵






大空へ早苗つぎつぎ投げ込めり  高畑浩平

句集『高畑浩平句集』(ふらんす堂 2017.05)

一読、気持ちのよい句だ。

田植えをする田に、苗の束を投げ込んで配る「苗打ち」の風景である。苗を下方の田んぼへ投げ込むのではなく、上方の〈青空へ〉としているので、できるだけ遠くへ投げようとしている様子が伝わってくる。また、空の青に放物線を描く早苗の緑の二色だけに焦点が絞られて、色彩も鮮やかだ。

勢いのよい〈つぎつぎ投げ込めり〉によって、田植えがはかどっている様子や、青空の下で田植えの人々の心が浮き立つ感じまで想像されてくる。

一つの物や動作に絞って描写することで、読者に周囲を想像させる、俳句という詩型の持ち味を最大限に生かしているような、印象明瞭な一句。

2017年6月10日土曜日

●パスタ

パスタ

遅日このパスタ天使の男性器  佐山哲郎

湯の中にパスタのひらく花曇  森賀まり

蠟製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ  関悦史




2017年6月9日金曜日

●金曜日の川柳〔堀豊次〕樋口由紀子



樋口由紀子






石けん箱と詩人銭湯の隅にいる

堀豊次 (ほり・とよじ) 1913~2007

「石けん箱」と「詩人」に似ているところなどなにもないと思っていた。二物をぶつけての詩的飛躍でもない。掲句を読んで、ああそういうことなのかと気づいた。ちょっとした、一風変わった、が、たしかにと思う共通項を現実の場面で見つけた。「詩人」を「石けん箱」と一緒にユニークに再生した。

湯のいきおいに流されて銭湯の隅に転がる石けん箱。たしかにあるある。誰とでも気安く打ち解けられず、すぐに世間話の輪に入れず、銭湯の隅でだまって湯につかっている詩人。たしかに居そうである。詩人とはどういう人なのかはなかなか言えないが、詩人の実在感と一面をうまく言い当てている。作者自身のことのような気がする。〈少年の捜すものつぎつぎ消えてゆく〉〈肉箸にはさみその時敵はなし〉〈眠っている妻に埴輪の口がある〉<妻と見し映画は五指に みたざるか〉

2017年6月8日木曜日

●ロンドン

ロンドン

ロンドンに着きは着きたれ夜半の夏  久保田万太郎

霧黄なる市に動くや影法師  夏目漱石

「しばれる」と訳す倫敦塔真裏  櫂未知子


2017年6月7日水曜日

●水曜日の一句〔高石直幸〕関悦史


関悦史









無量大数越えて矜羯羅去年今年  高石直幸


「無量大数」まではまだ耳に馴染みがあるが、「矜羯羅(こんがら)」もここでは不動明王の従者の矜羯羅童子ではなく、数の単位を指すらしい。「越えて」の一語があるおかげで、知らなくともこれが数にかかわるらしいと見当はつく。ネットで何ヶ所か検索してみると華厳経が出典で、正確な数値にはさほどの意味もないだろうが、10の112乗になるという。人のとうてい把握しきれない数であり、カントのいう数学的無限による「崇高」に達している。

「去年今年」と抽象的巨大さとの句といえば高浜虚子の《去年今年貫く棒の如きもの》が浮かぶ。この「矜羯羅」の句もそのヴァリエーションと取れるが、虚子の句においては抽象的な巨大さを持つ流れが人に接し、人が触知できる一部分のみに限定されて捉えられ、その前後は茫々たる遠さのなかに霞んでいるのにくらべ、「矜羯羅」の方は相当な遠距離まで認識だけはされている。虚子の句が、果てのしれない長さをもつ大蛇の胴体に不意に触れたかのような感触を帯びているのに対し、こちらは星空を見上げつつ、自分の存在の微小さを開放感とともに味わっているような趣きがあるのだ。

ただしその数量的無限も「矜羯羅」なる宗教味を帯びた語が用いられると、ただの抽象ではなく、あるキャラクター性を帯びてくる。この言葉は元のサンスクリット語では召使、奴僕を意味するらしいので、そこまで読み込んでしまった場合、この句の語り手にも、法理にしたがう順良さがまつわることにもなってくる。

しかしそこまではあえて踏み込まず、国宝級の伽藍の類を一観光客の目で見て悠久の時の流れに思いをはせているといったようなごく卑近な感懐を、年の変わり目と巨大な数の単位から引き出したというくらいの軽い受け止め方にとどめたほうが、「無量大数」も「矜羯羅」もかえって利く気がする。


句集『素数』(2017.5 文學の森)所収。

2017年6月6日火曜日

〔ためしがき〕 偏見 福田若之

〔ためしがき〕
偏見

福田若之


ツイッターをどう思うかについて正直に書くなら、僕は、システムとして、リツイートも「いいね」もフォローもミュートもブロックも好きになれない。そして、なにより、そこに書かれた言葉のいっさいを《つぶやき》に還元してしまう、名称の神話作用(と考えていいと思う)が、好きになれない。だから、僕に、そうしたことから来るツイッターに対しての偏見があるのではないかと訊かれたら、おそらくあるだろう、と答えざるをえない。

たぶん、僕は「おしゃべり」にほとんど肯定的な価値を見出すことができないでいるのだ。ただし、「おしゃべり」という語の選択は的確ではないかもしれない。僕がここでひとまず「おしゃべり」という語に意味させたいと考えているのは、誰かに聞かれることを欲望しておきながら、それにもかかわらず、もし聞き手が誰ひとりとしてその言葉とまともにかかわりあいにならなかったとしても一向に差し支えない、そうした発話のことだ(逆に考えれば、僕は、他のひとに読まれることをもはや欲望しないもの、かつ/または、もし読み手が現れるならばそのときにはまともにかかわりあいになってもらわないと差し支えのあるものを、書きたいのだろう)。ツイッターというのは、僕には、基本的に「おしゃべり」のために用意された場に思えてならないのである。システムやそこでの用語がまさしく「おしゃべり」に最適化されているように見えるのだ。

けれど、認めよう。これは、おそらく、僕のごく個人的な偏見にほかならない。

2017/5/28

2017年6月5日月曜日

●月曜日の一句〔長谷川耿人〕相子智恵



相子智恵






苦潮のゆらりと魚になき瞼  長谷川耿人

句集『鳥の領域』(本阿弥書店 2017.06)

海中の微生物の大繁殖によって海水が異常な変質を起こし、極端に酸素が少ない層が生まれる苦潮。養殖魚の大量死など、漁業にも大きな被害がある。

そんな苦潮がゆらり、じわりと魚に近づいているのだろうか。そういえば魚には瞼がないと気づく。苦しくても閉じられない目で、その潮を魚はどう見ているのだろう。

「苦潮のゆらりと/魚になき瞼」のスラッシュの前後で、視点が転換するのが印象的だ。苦潮がゆらりと近づく危機感と、瞼がない魚の目のクローズアップが、不気味に、悲しくぶつかり合う。

2017年6月3日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年6月2日金曜日

●金曜日の川柳〔森田栄一〕樋口由紀子



樋口由紀子






遥かな空に木があり補聴器を吊るす

森田栄一 (もりた・えいいち) 1925~2006

空を見上げたら、空は高く広く澄みわたり、どこまでも自由で、木ものびのびと茂っている。「吊ってある」のではなく、「吊るす」だから、自分の意思で吊ったのだろう。「遥かな」だから空想かもしれない。補聴器を一刻外してみたくなった。補聴器には感謝している。おかげで日常生活を支障なく過ごすことができる。だから、日頃の感謝を込めて、補聴器も耳も自由にして、風に揺れる。しばし、私も現実から解放する。それほど解放感のある気候だったのだ。

空があり、木があり、そこに補聴器、一枚の絵画を見ているようだ。補聴器は異質だが、それだから個性的である。作者は絵画も玄人はだしだったから、余計にそう思ったのかもしれない。〈パンで消す真っ黒に消す 自画像〉〈ダダ発の宇宙行きの鈍行列車〉〈鳥の骨格多くの言葉知っている〉〈穴が掘れたらマニュアル通り死ねるかな〉

2017年6月1日木曜日

●電波

電波

電波の日田はひろびろと田植すむ  田川飛旅子

ブタクサに宇宙の電波飛来せり  桑原三郎

汗ばむや電波暗夜をとびみだれ  和田悟朗

木犀が強き電波を浴びてゐる  攝津幸彦

ジーンズの乾く音する電波の日  吉永興子〔*1〕

家中にあくびが移る電波の日  上田貴美子〔*2〕

空中に無数の電波飛び交いて脳の快楽限りもあらぬ  藤原龍一郎


〔*1〕吉永興子句集『パンパスグラス』(2015年12月/角川書店)
〔*2〕上田貴美子句集『暦還り』(2016年4月/角川書店)

2017年5月31日水曜日

●水曜日の一句〔安井浩司〕関悦史


関悦史









燃え果てるまで藁人形に籠るひと  安井浩司


藁人形といえば丑の刻参りに用いられる、他人を呪殺するためのそれがまず思い浮かぶが、副葬品や厄除けとして使われるものもある。

ちなみに作者、安井浩司が住む秋田には「鹿島様」と呼ばれる巨大な藁人形があり、これは村の中の悪疫を負わせて河や海に流したり、地域によっては燃やすところもあるらしい。この句のように、中に人が籠れるとなればかなりの大きさで、五寸釘を打ちつける呪具としての藁人形よりは、「鹿島様」のようなものを思い浮かべたほうが適当か。

しかしこの句はもちろん実際の行事をそのまま詠んだものではないのだし、発想のもとにそうした風習があったということを確認することさえ不要とも考えられる。この句で藁人形に籠っている人は、民俗的慣習として、共同体の了解のもとに籠っているというよりは、荒々しいまでに静謐で孤独な単独者ぶりをあらわにして、燃え盛る藁人形に自発的に籠っているように見えるからだ。

ただの人ではなく、燃やされ、追い払われる悪疫そのものを「ひと」と感じたとも取れる。その「ひと」の存在を感じとってしまった語り手も、やや追い払われる側に引き寄せられ気味のようだ。語り手は火を止めるでもなく、あるいは逆に積極的に火の手をかきたてて「ひと」を追い払うでもなく、ただ凝然とその焼失に立ち合うのみである。感情としては、悲しみとも満足ともつかないものが一句を満たす。

おそらくその感情は、句を構成する言葉を手探りで探りあて、組み上げていった結果としてあらわれたものであり、初めからそういうものを描き出すべく書かれた句では、これはない。燃え果てるまで藁人形に籠るひととは、そのようにして句の成立とともに見出された「ひと」であり、その「ひと」は藁人形のなかだけではなく、句を作っては送り出す工程そのもののなかにも籠っている。その意味でこの句は、句作という行為自体を詠んだパフォーマティヴな句でもあり、批評性に富んだ句といえるのだが、それにしてもそうしてここに現れた自己犠牲じみた「ひと」の形象の、なんと深く情動的であることか。


句集『烏律律』(2017.6 沖積舎)所収。

2017年5月30日火曜日

〔ためしがき〕 隠棲のレッスン 福田若之

〔ためしがき〕
隠棲のレッスン

福田若之


たとえば、ほんの一日二日、メールを返すのをやめてみる。そうするだけで、ずいぶんと気が楽になり、どんなメールにも返信が書ける気がしてくる。

レッスンとしての隠棲は、別に必ずしも全面的なことではなく、また、長期的なことでもない。ある場からすっといなくなってみることが、精神的な安定のために必要になることがある。

場というのは必ずしも地理的なことだけではなく、話題の磁場のようなものの場合もある。すこし考えごとのあるとき、けれど、ずっと悩んでいては気が滅入ってしまうとき――要するに、自分の歩調の確認が必要になるとき――、僕はそうした磁場から離れた疑似的な隠棲の状態に入る。

疲れたときは、ぐーすか眠ることだ。隠棲のレッスンは、睡眠による体調管理に似ている。

重要なのは、気が重くならない範囲で、隠棲を自分でしっかりと管理することだ。 そうしないと、隠棲は怠惰に変わってしまう。これは、おそらく、長期的で全面的な、要するに本格的な隠棲についてもいえることだろう。たとえば、大作を書くための隠棲は、ただ引きこもって時間をつくるだけでは、とてもその目的を達成することはできないだろう。隠棲が成果をあげるためには、そこでひとつの身体がたえず生き生きとしているのでなければならない。要するに、隠棲もまたある種の活動なのであって、しかも、実のところ、かなりの活動なのだ。

だから、隠棲のレッスンのさなかにあっても、いまの僕には、ためしがきを欠かすことはできない。

2017/5/28

2017年5月29日月曜日

●月曜日の一句〔長谷川晃〕相子智恵



相子智恵






玉葱の薄皮ほどの今朝の夢  長谷川 晃

句集『蝶を追ふ』(2017.05 邑書林)より

玉葱が夏の季語であることで、この句の背景が夏の朝であるとの連想が働く。夏の夜明けは早い。目が覚めて、まだ眠れるな…と二度寝した時に見た夢が〈今朝の夢〉だと想像される。

〈玉葱の薄皮ほどの〉によって、その短さ、儚さが質感として伝わってくる。薄いヴェールのような夢だ。夢の内容は思い出せないけれど、何か夢を見ていたことだけは覚えている……後にはそんな感覚しか残らないくらいのぼんやりとした夢なのだろう。

〈玉葱の薄皮ほどの〉が〈今朝の夢〉につながることの意外性と、それがすっと詩になったときの静かな快さ。

儚く寂しい、けれどもほの明るい朝の夢である。

2017年5月28日日曜日

●新幹線

新幹線

新幹線待つ春愁のカツカレー  吉田汀史

頬かぶり新幹線にて解きにけり  和田耕三郎

みかん置く新幹線の小さき卓  齋藤朝比古〔*〕


〔*〕『豆の木』第21号(2017年5月5日)より。

2017年5月26日金曜日

●金曜日の川柳〔柏原幻四郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






人を焼く炉に番号が打ってある

柏原幻四郎 (かしはら・げんしろう) 1933~2013

言われてみて、はっとした。確かに火葬場の炉には生前の名前ではなく、番号が表示されている。何番のところに来てくださいと係りの人は言う。「炉に番号が打ってある」というだけで、とやかくは言ってないが、人と番号の見えなかった関係性を気付かせる。物を入れるコインロッカーのようである。しかし、そこには死んだとはいえ、人がいる。

柏原はよみうり時事川柳の選者で、「川柳瓦版の会」の代表であった。共通番号(マイナンバー)制度を政府は導入した。国民一人一人に12桁の番号が与えられ、ついに生きているうちにも番号が付けられてしまった。行政の効率化、国民の利便性の向上のためだというが、人はますます管理され、モノ扱いされる。共謀罪法案が衆議院を通過した。このような現状を柏原ならどう詠むだろうか、私も声をあげなくてはと思う。〈われもまた中流なれば貧しきよ〉〈人の世の重い電話が不意に鳴る〉〈霊柩車の屋根に此の世の雨が降る〉〈銭の音 人はやさしい顔にする〉

2017年5月24日水曜日

●水曜日の一句〔山口昭男〕関悦史


関悦史









一本の線より破れゆく熟柿  山口昭男


エロティックなようでもあり、不穏なようでもあり、何かが開示される啓示的瞬間のようでもある。

熟柿といえば〈いちまいの皮の包める熟柿かな 野見山朱鳥〉のように、破れやすさをはらみつつも、全き姿のままに描かれる句が多い気がする。食べられたり鳥につつかれたりしている場面を詠んだ句をべつにすれば、みずから破れていく局面を掬った熟柿の句というのは、案外少ないのではないか。

その破れも、この句では一本の「罅」や「裂け目」ではなく、一本の「線」からはじまり、広がってゆく。三次元の具体物に走る裂け目というよりは、それを絵に描くときの二次元的に抽象化の度合いを上げた認識法が、具体物たる熟柿にじかに貼りついているのである。その抽象化がはさまっているからこそ、逆に「熟柿」の物体としての存在感が際立ってくる。

物と認識のはざまを高速で揺れ動きながら、熟れきったゆえに自壊してゆく熟柿は、現前と絵画的な再表象の境目で引き裂かれてゆきながら、そのこと自体を深く愉しんでいるようで、在ること自体の恐怖と快楽が、あまり観念化されることなく、静かに、しかし激しく句に書きとめられている。


句集『木簡』(2017.5 青磁社)所収。

2017年5月23日火曜日

〔ためしがき〕 滑って転んじゃった話 福田若之

〔ためしがき〕
滑って転んじゃった話

福田若之


「有馬朗人氏に反対する」について書くなら、要するに、公衆の前で滑って転んじゃった、ということなのだろう。ほんとうに、それだけの話だ(だっせーっ)。

ただ、何がどう滑って転んじゃったのかということについては、他のひとたちの話を見聞きしていると、どうも見方が違っているようなので、ちょっと書いておくことにした。

  ●

僕が、何をとちったと自分で思っているのかというと、政治的な意見表明をうまくできなかったということではなく、むしろその逆で、柳本々々さんが「個人の感想」と呼ぶものの側に踏みとどまることができなかったということだ。

要するに、一歩踏みとどまるつもりだったはずのところで、変に足を踏み出してしまったものだから、おっ、おっと、おっとっと、と、滑って転んじゃったわけだ。これは、ほんとうに、それだけの話でしかないと僕は思う。

そう、僕が書かずにはいられなかったもの、書いておきたかったものは、出来事や状況に対する僕の「個人の感想」であって、政治的な意見や立場ではなかった(ただし、ここで言う「感想」は、決して、傍観者のものではありえないことに注意してほしい。逆に、政治的な意見や立場は、必ずしもそうではない)。その意味では、「有馬朗人氏に反対する」という題目を掲げてしまったときに、僕のしくじりは決定的なものになってしまったといえる。

  ●

だから、小津夜景さんは「福田若之「有馬朗人に反対する 俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐって」について思ったこと。」(夜景さんのブログ記事のタイトルでは、このとおり、「有馬朗人氏」の「氏」が抜けて呼び捨てになっている)に、僕の文章について「あまりに等身大の〈僕〉が好んで演出されている」と書いているけれど、むしろ、僕のしたかったことは、はじめからそっちにあったと言っていい。「個人の感想」が書きたくて書いていたのだから、それは、「演出」というよりも、むしろ、自然にそうなっていたわけだ。

夜景さんは、僕の書いたものの最後の一文について、「周囲に対して有害な、ひどい学級会臭がある。去勢の匂い、と言ってもいい」とも書いている。これもまったくそのとおりで、「学級会臭」というのが何なのかというと、おそらく、それはきっと幼い政治の臭い、失敗を決定づけられた政治の萌芽の臭いだ。それは、「個人の感想」がそれとしてありつづけることができずに、去勢されてしまった匂いでもあるだろう。

だから、僕もまた、夜景さんのように、「……について思ったこと。」 と題して切り出しておけばよかったのかもしれない。どうして「個人の感想」の側に踏みとどまれなかったのか、それは「不安」のせいだったと思う。今回についていえば、なんだかとんでもないことが公共性をまとった俳句の定義になろうとしていて、でも、それについて誰も大きなアクションを起こしそうには見えない、というこの出来事と状況とに対する「不安」だ。「不安」が祟ると、「個人の感想」は中途半端に政治的になってしまう。 こころぼそいと、「個人の感想」は群れようとしてしまう(だから、個々人の感想のそれぞれが充分な大きさを獲得することなく発散されてしまっているように見えることについて批判的に書いたのも、協会を抜けるというアクションを起こしていた四ッ谷龍さんについては追記して、そもそも協会に入っていない西原天気さんについては何ら追記しなかったのも、結局は、ひとえに僕個人のこの「不安」に関わってのことだったと今にして思う。そりゃ、たしかに「大笑い」だ)。それは、あるいは「自然詩」としての「俳句」という定義づけに公共性を与えようとする有馬さんのこころにも、実のところ、かなり似たものかもしれない。

  ●

ついでに書いてしまうと、僕は「俳句を無形文化遺産にすること」についての話がしたかったわけではなかった。書きたかったのは、むしろ、「俳句を、ある公共性のもとで、「五・七・五の有季定型」を「基本」とする「自然詩」とみなしていこうとする動き」についての「個人の感想」だった。この状況下では、両者が決して無関係ではありえないことがややこしいのだけれども。

ちなみに、有馬さんは、たしかに、他の機会に、俳句の題材が「人間だけ」の場合もある、という趣旨のことを発言している。でも、そこで「人間」と呼ばれているのは、あくまでも「自然」との「共生」を前提ないしは目的化された「人間」なので、結局はぜんぶ「自然詩」に回収されてしまう。有馬さんは「俳句」とは「自然詩」であるということにいっさいの例外を認めていない、と僕が指摘したのは、そういう意味でのことだ。

そして、現状において僕が危惧するのは、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会をその発信源とした、上述の定義の蔓延だ。

たとえば、俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会には、設立の段階ですでに松山市が加盟している。そしたら、たとえば、松山市が共催している俳句甲子園は、きっと、これからすこしずつ「五・七・五の有季定型」を「基本」とする「自然詩」の大会になっていくのだろう。無季の句が含まれる作品には新人賞を与えないという俳人協会の方針も、この動きによって、いっそう覆しにくくなったんじゃないだろうか(だって、そこで簡単に有季も無季も関係ないってことにしちゃったら、組織の見解として矛盾をきたすことになるから)。

僕の見方では、そうした変化や膠着の果てに俳句が無形文化遺産になるかならないかは、予想されるさまざまな変化や膠着そのものに比べれば、現段階では、まだほとんど重要ではない。そして、もし今後、現状の方針のもとで俳句が無形文化遺産になることが現実味を帯びることがあるとしたら、それは、もはや、ユネスコの客観的な判断のもとでさえ、俳句が実質的に「五・七・五の有季定型」を「基本」とする「自然詩」であるということについて疑いの余地がなくなってしまったということなのだから、そのときには、もう、実際にそれが無形文化遺産に登録されるかどうかは問題ではないだろう。だから、僕の関心は、さしあたり、「無形文化遺産」という題目そのものよりは、むしろ、その前段階において生じることが予想されるもろもろの事態のほうにある。

  ●

とはいえ、夜景さんが僕の記事のコメント欄に書いた要約(「俳句の魅力がきちんと定義される(例えば「自己同一化をすり抜ける詩的容器」とか?)ならば無形文化遺産に登録してもよい」)は、夜景さんが引用している本文に照らしあわせても、ちょっと見過ごしてはおけないかたちで誤読されていると思うので、それについては、ここで説明しておく。

まず、僕が「定義」を問題にしているのは、「俳句の魅力」ではなく、「俳句」そのものだ。そして、「「俳句」という名は、意味しない」という一文は、「俳句」が「きちんと定義される[……]ならば」、という議論の前提自体がそもそも成立しえないということを言っている。「意味しない」のだから、「きちんと」した「定義」なんてものがそもそもありえない。

だから、僕としては、ここは、「俳句がきちんと定義されるなんてことはそもそもありえないのだから、すくなくとも登録のためになんらかの定義が必要とされる限りは、俳句を無形文化遺産にしていいわけがない。僕はそんなのはいやだ」と要約されることを書いたつもりだ。

  ●

それから、天気さんは僕の書いたものに「《名誉欲にまみれた老人・中年 vs 俳句をことをマジメに愛する》という構図の絵」を見てとろうとしているけれど、これはあまりにもプロレス化しすぎじゃないだろうか。天気さんは、ときどき、世界に対してこんなふうに明快なスペクタクルの構図を与えることで、世界をあまりにレッスルさせてしまうように思う。たしかに、それがとても愉快なこともある。けれど、有馬さんって、ほんとうに「名誉欲にまみれた老人」だろうか(いや、まあ、天気さんとしては、冗談のつもりなんでしょうけども)。むしろ、見境なしに夢を追っかけちゃってるだけで、善意のひとだと僕は信じていて、僕は、有馬さんのこと、そこだけはまるで疑ったことがない。その信頼なしには、僕は、おそらく、こんなふうに「有馬朗人氏に反対する」ことはできなかったとさえ思う。

たまたま、僕がいま別のところで読んでいるアンドレ・バザンの文章に、次の言葉がある。
現実を糾弾するからといって悪意をぶつける必要はないのだ。世界は非難される以前に「存在している」ことを、イタリア映画は忘れていないのである。それは愚かで、ボーマルシェ〔一七三二‐一七九九年。フランスの劇作家〕がメロドラマ〔原義は伴奏つきの通俗劇〕が流させる涙を称賛したのと同じぐらいナイーヴな態度かもしれない。だが、ぜひ私に聞かせてほしい。イタリア映画を見たあとでは、私たちはより良い気分にならないだろうか。世の中の仕組みを変えたい、それもできれば人々を説得することで――少なくとも説得可能な人々、つまり無分別や偏見、不幸のせいで、自分たちの同胞に害を与えてしまっていた人々を説得して――変えていきたいとは思わないだろうか。
(アンドレ・バザン「映画におけるリアリズムと解放時のイタリア派」、アンドレ・バザン『映画とは何か』、下巻、野崎歓ほか訳、岩波書店、2015年、84-85頁)
これは、数々のイタリア映画に対するバザンの「個人の感想」を含んだ言葉でもあったのだと思うのだけれど、とにかく、僕はバザンのいう説得みたいなものを、有馬さんに向けて書きたい、有馬さんの賛同者に向けて書きたいと思っていた。あなたがたを僕は決して悪人だとは思わない、けれど、僕にとってそれは苦しい、と。その説得の言葉が「個人の感想」だったならどんなにかすばらしいだろうと思って、書いてるうちに、滑って転んじゃったわけだ。

  ●

僕がなんでそんなに「個人の感想」にこだわるのかというと、結局、僕は、それが全体主義的なもの(忘れないでおきたいのは、それがしばしば善意の塊によって発生するということだ)の一切に対する反対物になりうると信じているからだ。それは、結局、まだ信じている。
イエスタディ・ワンスモアの思想の虜になり家族を捨てようとしたひろしはしんのすけから自分の靴の臭いをかがされて、はっとして正気にかえります。それは「イエスタディ・ワンスモア」の「20世紀の匂い」という大きな歴史の匂いに拮抗する、小さな個人の「靴の臭い」です。そこでひろしは気づくのです。ああ、どんなに普遍化された「匂い」も、「※個人の感想です」という小さな私の「臭い」に過ぎないのだと。
柳本々々「【短詩時評30回(※個人の感想です)】〈感想〉としての文学――兵頭全郎と斉藤斎藤」) 
だから、僕は、「臭い」の側に立って、有馬さんたちにどうか届くまで、「臭い」を嗅がせようとしたわけだ。まあ、滑って転んじゃったわけだけれど。

  ●

ここに、柳本さんの次の言葉を引用したら、僕はまた滑って転んじゃうことになるだろうか。
「まだ奥があるよ。でも続きはあなた自身で考えてね。あなたがいま立っているその場所であなた自身のもっているすべてでこれからのことを考えてみてね」。それが「※個人の感想です」なのです。
(同前)
うん、これで終わるのはやっぱりまずいだろうな。

  ●

もうすこし違うことを書いておこう。たとえば、ロラン・バルトの『記号の国』は、日本についてあるいは俳句についての、すぐれた「個人の感想」としても読むことができる本だと思うのだけれど、そこには、たとえばこんなふうなことが書いてあったりする。
〔……〕俳句(私は結局、あらゆる不連続な描線、私の読みへとおのずから立ち現れて来るような、日本の生活におけるあらゆる出来事を、このように呼ぶ) 〔……〕
(Roland Barthes, L'empire des signes, Genève, Skira, 1970, pp.112-113. 強調は原文ではイタリック体。日本語訳は引用者による)
じゃあ、僕はいったい何を「俳句」 と呼ぶんだろう。いったい、何をそう呼びたいんだろう。

とりあえずの答え――それは、おそらく、僕がいつか「発句」と呼びたいと思っているものでもあるのだろう()。これはもちろん、あくまでも個人的なとりあえずの答えにとどまるわけだけれども。

  ●

ちなみに、僕が今回の文章を読み返して個人的にいちばん恥ずかしかった失敗は、もとになったインタビュー記事の聞き手である森忠彦さんの名前をコピー&ペーストしたときに、うっかり「氏」をつけ忘れたことです(※個人の感想です)。

2017/5/19

2017年5月22日月曜日

●月曜日の一句〔竹岡江見〕相子智恵



相子智恵






月光をつめたく許し螢とぶ  竹岡江見

句集『先々』(邑書林 2017.04)

太陽の反射光である月光は無機的で冷たく、けれども溢れるほどに降り注いでいる。かたや螢の光はか弱く小さいが、生きている光として明滅している。月の光を降るままに許し、その中で、己が光を明滅させながら懸命に飛び、生きる小さな螢。これは求愛の光だろうか。

〈つめたく許し〉には小さな螢の強さや孤独のようなものが感じられる。一句の中に二つの光を描くのは難しいことだろうが、月光のつめたさと螢の放つ懸命の光の違いに、静かなあわれがある。さらに〈許し〉という踏み込みによって、作者の内面まで感じられてくる。

2017年5月20日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年5月19日金曜日

●金曜日の川柳〔墨作二郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






鶴を折るひとりひとりを処刑する

墨作二郎(すみ・さくじろう)1926~2016

〈鶴を折る/ひとりひとりを処刑する〉〈鶴を折るひとり/ひとりを処刑する〉、どこで切るかによって解釈が違ってくる。私は前者を採用する。

あたりまえだが、折り紙は手が創り出すものである。鶴を折るのは千羽鶴に代表されるように、病気回復や成就祈願のことが多い。願いや祈りをこめて、角々を合わせて、きちんと折る。山折り谷折りが効いているほど鶴は見事なかたちに仕上がる。「ひとりひとりを」に指先に力をいれて、丁寧の折る動作を感じる。その手の力の入れ方に災いを処刑し、しいては災いの元凶となった人たちのひとりひとりへ怒りがこめられているような気がする。

墨作二郎が昨年末に亡くなった。墨作二郎の存在は大きく、彼が居てくれたから、彼が立っていたから、書くことができた川柳がたくさん生まれた。川柳を牽引してくれていた人たちが次々と居なくなる。〈飴玉が転ぶとすれば環濠都市〉〈星やがて見事な蛇の皮となる〉〈指人形吊るす月下の靴の紐〉〈ばざあるの らくがきの汽車北を指す〉〈蝉は樹を離れて海を見に行った〉。

2017年5月18日木曜日

●化石

化石

冬晴の化石生臭くはないか  和泉香津子

もう鳴かぬ亀の化石を飾りけり  日原 傅

パラソルの熱つ骨脇に化石館  八木三日女

木の化石木の葉の化石冬あたたか  茨木和生


2017年5月17日水曜日

●砂丘

砂丘

女の素足紅らむまでに砂丘ゆく  岸田稚魚

砂丘なすわが蔵書なり飯の汗  守谷茂泰

昼の虫砂丘の底に鳴きゐたる  有働 亨

砂丘ひろがる女の黒き手袋より  有馬朗人

春の月高き砂丘を離れたり  望月 周〔*〕

うぐひすや砂丘昨日の砂ならず  津田清子


〔*〕『俳コレ』(2011年12月/邑書林)より。



2017年5月16日火曜日

〔ためしがき〕 第二句集の計画 福田若之

〔ためしがき〕
第二句集の計画

福田若之


現在進行中の第一句集については、いまここに書くわけにいかない。けれど、すでに思い描いている第二句集の計画については、ためしにここに書いてみてもいいだろう。

  ●

とはいえ、実現するかどうかはわからない。そもそも、載せる句にしたって、まだどんなものになるかわからない。句は、第一句集が校了してから書く。そうでないと、第一句集に載せたくなってしまうだろうから。

  ●

計画しているのは、二つ折りにされた二枚の紙を重ね合わせて、折り目のところを上下二本のホチキスで留めるだけの、小さな本だ。

  ●

句集の名はすでに決まっている。『二つ折りにされた二枚の紙と二つの留め金からなる一冊の蝶』。鳥でないのはその翅が四枚だからで、蛾でないのは休むときに翅を閉じるからだ。

  ●

構成もほぼ決まっている。表紙には、「第二句集」という文言とともに、句集名、著者名と出版者名を印刷する。表紙をひらいて、最初の見開きの右(表紙裏)は印刷なし、左が扉で、ここには句集名、著者名と出版社名を印刷するか、あるいは、句集名のみを印刷する。扉をめくった見開きの左右に一句ずつ。さらにめくると見開きの右に奥付、左(裏表紙裏)は印刷なし、そして裏表紙。

  ●

上述のとおり、収録句数はたった二句。ノンブルも、句のページだけをカウントして振ろうと思う。総ページ数は、二ページということになる。

  ●

印刷する二句は、いずれも「鱗粉」の句がよいだろう。蝶の翅を彩る黒い鱗粉。これぞという「鱗粉」の二句を仕上げること。それも、できるだけ、たとえば虚子の〈虹消えて音楽は尚続きをり〉と〈虹消えて小説は尚続きをり〉のような、対になる二句が望ましい。

  ●

計画は、「句集」というものの最小形態を実現したいというコンセプチュアルな欲求に端を発している。そこから、句集というものの最小形態にかかわる《二》ということにこだわってみたいという気持ちが出てきた。「第二句集」は、その絶好のチャンスにほかならない。

  ●

《二》へのこだわりによって、この第二句集の計画は、実行されないまま「お蔵入り」になった「植樹計画」と明確に対をなしている。小説を準備しながら、ロラン・バルトは次のように語っていた――「ところで、全体的な〈書物〉とは別のもう一方の極には、短い書物の、濃密で純粋で本質的な書物の可能性がある[……] 」(Roland Barthes, La préparation du roman : Cours au Collège de France 1978-79 et 1979-80, Paris, Seuil, 2015, p.342)。「植樹計画」は、一句から無限性を志向し、それによって植物であろうとするものだった。『二つ折りにされた二枚の紙と二つの留め金からなる一冊の蝶』は、二句という有限性、二枚の紙と二つの留め金という有限性をその身に引き受け、それによって動物であろうとするだろう。

  ●
 
あるひとから、第一句集は俳人としての名刺代わりになるものだ、という話を聞いたことがある。けれど、おもに金銭的な問題から、僕は、これから会うまだ数の知れない人たちにつぎつぎ渡していくほどには、第一句集を自分の手元に置くことはできそうにない。だから、この第二句集を名刺代わりにすることにした。というか、名刺にすることにした。
 
それには、奥付のページに著者名だけでなく、住所、郵便番号、電話番号、メールアドレス、参加している同人誌などを、プロフィールとして記載すればいいだけだ。一般的な名刺入れに収まるような、小さな句集。こうして、純粋に原理的な欲求が、思いがけず、世俗的な有用性に合致することになる。
 
句についてはともかく、この著者プロフィールについては、転居やあらたに別の雑誌に参加するなどした場合、改定する必要がでてくるだろう。名刺として人に渡すのだから、必要に応じて増刷する必要が出てくるだろう。そうした改版や増刷についても、最小限の情報は奥付に掲載しなければならないことになるだろう。
 
  ●
 
フレキシブルな増刷・改版の必要があるから、必然的に、私家版にせざるをえないだろう。そして、名刺として渡そうというのだから、当然、非売品ということになるだろう。ISBNの取得は不要だろう(というか、申請したところで取得できるか、ちょっと疑わしい)。
 
  ●
 
紙もある程度の固さが必要になる。あまり柔らかすぎると、名刺としての保管がうまくいかないだろう。しかし、分厚すぎるとおそらく普通の名刺と同じようには保管できない場合が出てくるので、固いだけでなく、ある程度薄い紙でなければならない。
 
  ●
 
正直、最初に構成を思いついたときには、まったくの思いつきにすぎなかったのだけれど、こう書いてみて、思っていたよりも自分が本気になっていることに、ちょっとおどろいている。

2017/5/12

2017年5月15日月曜日

●月曜日の一句〔金子敦〕相子智恵



相子智恵






ひとすぢの藁の突つ立つ夏帽子  金子 敦

句集『音符』(ふらんす堂 2017.05)

ひと昔前までは素朴な農作業用、あるいは海辺で被るだけという感じだった麦藁帽子も、最近ではおしゃれな夏のファッションとして、街中で普段から被る人が多い。

そういえば、麦藁帽子ほど「素材」をリアルに感じる衣料品・装飾品というものもないな、と改めて思った。掲句、麦藁帽子の麦藁が一本、ぴょこんと立ち上がっている。元はきちんと編みこまれていたのだろうが、使っているうちに藁が一本出てきたのだ。〈突つ立つ〉の力強さには、帽子にまとまり切れない素材の主張が見えてきて、藁の「生きている(た)感じ」にハッとさせられる。

既製品の中にある、むき出しの野生。その力強さが〈突つ立つ〉に凝縮されている。淡々とした描写の中に、写生の力を感じさせる句だ。

2017年5月12日金曜日

●金曜日の川柳〔西秋忠兵衛〕樋口由紀子



樋口由紀子






母の箸から金時豆がころがった

西秋忠兵衛 (にしあき・ちゅうべえ) 1928~

母が金時豆を落した。が、「金時豆がころがった」と書く。今、そういうことがあったのではなく、過って、そういうことがあったことを思い出しているのだろう。それはずいぶん昔の出来事。ふいにそのことを思い出したのか、あるいは何度も反芻しつづけているのか。その頃からお母さんの老いが顕著になってきたのかもしれない。そして、作者もその年齢に近づいてきた。自分が今どこにいるのか、自分の位置に気づく。そして、母を思い出す。

「金時豆」はお母さんの好物でよく食べていたのだろう。丸くて甘くてやさしい味がする。「金時豆」の字面も「きんときまめ」という響きもいい。手ざわりと温もりがある。〈足をとめたのは五月が笑ったから〉〈千円がぬくい コロッケがうまい〉〈トンネルに宇野重吉が佇っている〉 「スパナーの詩」(1994年刊)収録。

2017年5月10日水曜日

●水曜日の一句〔山中正巳〕関悦史


関悦史









夢精てふ言葉は美しき桃の花  山中正巳


夢精という現象が、ではない。言葉「は」である。

この語が何を指すかを知らなかったとして、その内容を想像し、夢の精と取った場合、たしかにファンタジー的な美しさを持った言葉と捉え得るだろう。

ただしこの句は、ひるがえってその実態の汚さを皮肉に笑うことが主眼といった作りにはなっていない。「桃の花」が情調を決めており、その桃色が句の方向を夢精自体から逸らし、くつろげさせ、夢精ひいては生そのものまでをも桃源郷的な華やかな明るさに染め上げていくからである。

実態としての夢精の情けなさ、汚さも、そのなかに巻き込まれ、肯定されていく。遠く離れて見れば、すべてが美しく見える。その遠さを組織しているのが季語の「桃の花」と「言葉は」という迂回路なのであり、この句は言葉と実態のずれに興じて事足れりとしている句ではないのだ。

かくして軽い皮肉さや余裕の向こうに、若い身体が桃の花そのもののように浮かび上がる。修辞や詩形式を扱うとはそもそも間接的なわざで、その間接性、倒錯性を介してこそ浮かび上がってくる穏やかな肯定が一句を満たしている。


句集『静かな時間』(2017.4 ふらんす堂)所収。

2017年5月9日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉8 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉8

福田若之


深夜、ふいに、子守歌の詩学というものを夢想する。それを聴くものが、もはやそれを聴かなくなるために歌われる詩について、ひとは何を語りうるのだろう。

  ●

回文が教えてくれるのは、こういうことだ。すなわち、僕たちが来た道を引き返そうとするとき、僕たちはそれでも先に進んでいるのだし、けっして元のところにもどることはないだろうということ。

2017/4/11

2017年5月8日月曜日

●月曜日の一句〔菊地寿美子〕相子智恵



相子智恵






朴の花とは天に向き咲くことよ  菊地寿美子

句集『朴の花』(角川文化振興財団 2017.04)

当たり前のことを当たり前に詠んだ句のようでありながら、「空に向き」ではなく〈天に向き〉であることが、この句の情感を高めていて、しみじみとする。空ではなく天であることで、神々の住む場所、また天国という死後の世界とのつながりが感じられてくるからだ。

朴の木は高くてなかなか花を上から見ることはできないが、それだけに天のためだけに咲いている花のようにも思われる。花の大きさ、白さ、杯のような形も、天へ捧げられる供物のような、人々の天に対する思いのようにも感じられる。

〈天に向き咲くことよ〉の詠嘆によって、そのような情感は高められている。この詠嘆によって、ただの写生ではなくその奥の精神性が感じられてくる。

2017年5月4日木曜日

●文学フリマ東京(5月7日)週刊俳句ブース;出品予定リスト

文学フリマ東京(5月7日)週刊俳句ブース;出品予定リスト

・開催日 2017年5月7日(日)

・開催時間 11:00~17:00予定
・会場 東京流通センター 第二展示場

・アクセス 東京モノレール「流通センター駅」徒歩1分

【話題の句集・評論】
岡村知昭『然るべく』
小津夜景『フラワーズ・カンフー』(サイン本)
田島健一『ただならぬぽ』
中村安伸『虎の夜食』
関悦史『花咲く機械状独身者たちの活造り』『俳句という他界』

【文フリ向け緊急刊行】
手のひらサイズ俳誌『蒸しプリン会議』(太田うさぎ、岡野泰輔、荻原裕幸、小津夜景、西原天気、鴇田智哉)

【俳誌】
俳誌『オルガン』(生駒大祐、田島健一、鴇田智哉、福田若之、宮本佳世乃、宮﨑莉々香)バックナンバー+最新号

業界最小最軽量俳誌『はがきハイク』(笠井亞子+西原天気)バックナンバー数号セット

【週俳編集本】
金原まさ子『カルナヴァル』
『俳コレ』
『虚子に学ぶ俳句365日』(執筆陣:相子智恵 神野紗希 関悦史 高柳克弘 生駒大祐 上田信治)
『子規に学ぶ俳句365日』(執筆陣:相子智恵 上田信治 江渡華子 神野紗希 関悦史 高柳克弘 野口る理 村田篠 山田耕司

2017年5月3日水曜日

●水曜日の一句〔古田嘉彦〕関悦史


関悦史









三角部屋を寒いと言うのは誰か  古田嘉彦


「言った」ではなく「言う」なので、いま現在「寒い」と言う者は同室しているらしい。いや、ひょっとしたらこれから「言う」という未来の事象なのかもしれず、その場合、誰かが「寒いと言う」ことは、まだ起こっていないにもかかわらず確定していることのようなのだが、いずれと取っても奇異な閉塞感が漂う。

原因の一つは言うまでもなく「三角部屋」という奇態な空間であり、しかもそこは寒いらしいということだが、さらに奇妙なのは、そこに誰が誰か互いにわからなくなる程の人数が一緒にいるらしいことである。彼らの関係や、なぜそこにいるのかといった事情は一切わからない。いや、これにも全員がなかに閉じこもっているわけではなく、戸を開けて入った瞬間に「寒い」という言葉を発したと取れないこともない。

だが一句を読み下してみたときの印象として、彼らはずっと三角部屋に閉じこもっているように思える。寒いならば出てゆくか煖房をかけるかすればいいのだが、ここにはそういう選択肢はない。あるならば誰の発言かを詮索している間に然るべき行動を取るだろう。ここには行動の自由はない。さらに、厳密には、発言者が誰かを本当に詮索しているのかどうかも怪しい。この「寒いと言うのは誰か」はそんなことを言ってはならないという禁圧とも取れる。

心象を象徴的に詠んだ句というのが、一応の理解の仕方となるだろうが、「三角部屋」自体にイメージ・シンボル事典の類に載ることができそうな、積み重ねられてきた象徴の歴史といったものがあるとも思えない。ここにあるのは、或る偏波さ、尖鋭さを帯びつつ建築の隅に追いやられた部屋の形象と、そのなかで黙っていつまでとも知れぬ時間をおのおの耐え続ける複数の人たちという状況だけである。この遭難者の群れのような人影に、「三角部屋」という空間が具体性を与える。「三角部屋」から解放された時、彼ら自身もまた雲散霧消してしまうのかもしれない。ここでは拘束、膠着こそが存在に基盤を与えているのである。


句集『展翅板』(2017.3 邑書林)所収。

2017年5月2日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉7 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉7

福田若之


俳句における季について考えるうえで、暦というものが、すくなくとも近代以降、まぎれもなく国家的なものでありつづけていることは、もうすこし念頭におかれてもよいはずだ。有季の立場からも、無季の立場からも、その他の立場からも。

  ●

「風景――パリは、遊歩者にとっては本当に風景となる。あるいは、より厳密に言うならば、遊歩者にとってこの都市は弁証法的な両極に分かれる。この都市は、風景としてみずからを遊歩者に開き、部屋として遊歩者を包み込むのである」(ヴァルター・ベンヤミン「遊歩者の回帰」、『ベンヤミン・コレクション4――批評の瞬間』、浅井健二郎編訳、筑摩書房、2007年、369頁)。この一節に述べられていることは、おそらく、芭蕉が『おくのほそ道』の冒頭部に述べていること、ロラン・バルトが『記号の国』の最後の断章に述べていることと通じている。言ってみれば、移動式住居ならぬ居住式移動――だが、この言葉は正確ではないのだろう。期待されているのは、移ろうことと棲むことのあいだに主従関係を秩序付けることではないはずなのだから。

2017/3/22

2017年5月1日月曜日

●月曜日の一句〔関悦史〕相子智恵



相子智恵






挽肉のパックに「兵」の字や暮春  関悦史

句集『花咲く機械状独身者たちの活造り』(港の人 2017.02)

春も終わりに近づく、ちょうど今時分のスーパーでの買い物。ハンバーグや餃子でも作るのか、ゆったりとした気分で挽肉のパックに手を伸ばす。その平和な風景と地続きにある「兵」の文字のクローズアップによって、日常がいきなり暗転する。

実際には兵庫県とか、産地や加工地が書いてあったのかもしれない。けれどもその中の「兵」の文字だけが句の中で切り取られることは、やはり戦場で粉々に砕かれた兵士の肉体を思わずにいられないのである。

ここで実はひたひたと怖ろしく思われるのは〈挽肉のパックに「兵」の字や〉という中七までで、かなりぎょっとする展開を見せながら、〈暮春〉で、またすぐに駘蕩たる気分に戻ることかもしれない、とも思う。〈「兵」の字〉は、本物の兵ではなく、値札シールに書かれた「情報」だ。一瞬のうちに、兵士の肉体が飛び散るむごさは通過していってしまう。その「他人事(ひとごと)感」を突き付けられてしまうのである。私たちはテレビで日々紛争のニュースを見ながら、それでも一方では温かい晩御飯を食べる、それが日常化しているように。

〈スクール水着踏み戦争が上がり込む〉や、〈「プラチナ買います」てふ店舗被曝の雨に冷ゆ〉の原発事故の帰還困難区域の句。これらの〈スクール水着〉や〈プラチナ買います〉という現代的な薄っぺらい言葉(情報)も、それは記号的に何かを象徴するものでありながら、そのまま私たちの日常生活におけるリアルな皮膚感覚である。現代では肉体と情報は絡み合っていて、引き離せないところまで来ている。情報は肉体化し、肉体は情報化する。

この句集に収録された1402句という膨大な句を読みながら、作者は現代のシャーマンのようだと思う。情報が、彼の元に寄ってくる。それは肉体が寄ってくるのと、現代では不可分だ。情報の痛み(それは肉体の痛みでもある)たちは、それを感受してくれる彼の元にやってくる。忘れっぽく麻痺しやすい私たちの日常に、詩として降りてくるために。

肉体と情報が絡み合う現代のリアルを描ける得難い俳句作家を、私たちは得ているのだと改めて思う。現代における写生を実践する作家、ともいえるのかもしれない。

2017年4月28日金曜日

●金曜日の川柳〔西田雅子〕樋口由紀子



樋口由紀子






鳥籠から逃してあげるわたしの手

西田雅子(にしだ・まさこ)

鳥籠にいるのは鳥である。だから逃してあげるのは鳥のはずである。しかし、「わたしの手」。「鳥籠」は生活全般の比喩で、そこから「わたしの手」、私の一部分を、自由にさせてあげるという意味だろうか。

狭い鳥籠の中を不自由に飛び回る鳥を見ていたら、鳥を鳥籠から逃がしてあげたくなった。手をそっと鳥籠に入れて、鳥を捕まえて、鳥を外に出す。そのときにわたしの手に目がとまった。わたしの手もいろいろと我慢している。鳥と一緒にここではないどこかへ逃がしてあげようと思ったのではないだろうか。そういえば、鳥と手、なんとなくかたちや動きが似ている。

〈バスを待つ秋は遅れているらしく〉〈夕焼けにいちばん近い町に住む〉〈運ばれて十一月の岸に着く〉〈ひとりずつ鏡の中をゆくゲーム〉『ペルソナの塔』(あざみエージェント 2014年刊)所収。

2017年4月25日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉6 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉6

福田若之


遠いむかしに自分なりにけりを付けたはずのことがらが、いまだに僕をえぐり、むしばみつづけているこの感じ。僕は痛々しく生き、痛々しく死ぬだろう。

  ●

あるひとがもし本当に自らの作品の「不滅」だけをひたすらに志すなら、そのひとは、たとえば俳句を書くことなどやめて、いますぐ電波の抑揚によって自らを表現し、宇宙へ向けてそれを発信するほうがよいと僕は思う。たかだか地球が滅んだくらいで失われる作品の「不滅」なんて、そんなものは欺瞞でしかない。

  ●

書かれたものが消え去るということ、それを諦念によって受け入れるだけなら、書くことはニヒリスティックでしかない。消え去るけれども書く、という逆接の虚しさ。そうではなく、書かれたものが消え去るということについての絶対的な肯定から出発して書くこと。すなわち、消え去るからこそ、消え去るためにこそ書く、ということ。真に書くとはそういうことだと僕は信じる。

2017/3/20

2017年4月24日月曜日

●月曜日の一句〔小川軽舟〕相子智恵



相子智恵






耳遠き父を木の芽の囃すなり  小川軽舟

「俳句」5月号(角川学芸出版 2017.04)

加齢によって耳が遠くなることは、ハンディキャップでありネガティブな要素ではあるのだが、〈木の芽の囃すなり〉の、父と木の芽の交流にはファンタジーな味わいがあって、お伽噺の一場面のように感じられてくる。結果として、一句は明るい印象に着地している。

木の芽が囃すというのは、聴覚ではなく視覚に訴える。だから父の現実として無理なく読めつつ、「囃す」という擬人化によって一気に詩の世界、童話的世界に誘われるのだ。

花咲か爺ではないけれど、お爺さんと木の精霊は不思議に似合う。現実に執着せず次第に童話的世界に踏み入れていく老人としての父と、それを肯定しているであろう子の関係もまた、静かに明るい。

2017年4月21日金曜日

●金曜日の川柳〔炭蔵正廣〕樋口由紀子



樋口由紀子






おかしいおかしいと行くゆるいカーブ

炭蔵正廣

私はかなりの方向音痴で、よく道に迷う。目的地に着けないこともたびたびある。もともと方向に自信がないので、途中でおかしいと思っても、それでどうすれがいいのか、その修正の方法がわからない。こっちは北だから、こう行けばいいとかがさっぱり見当がつかない。だから、おかしいと気づいてもただ前を行くしかない。

「ゆるいカーブ」が上手いと思った。カーブだからいままでの道は徐々の見えなくなる。急に見えなくなると一気に不安になるが、まだ振りかえることができる。しかし、すぐに見えなくなる。人生もそうかもしれない。おかしいとおかしいと思っても、そこを進むしかない。なんとかなると信じるしかない。でもおかしいというのはうすうす気づいている。〈画面から消したいカオがふたつある〉〈おそらくは開けたら笑う玉手箱〉〈散らかった数字の中に誕生日〉 「天守閣」(2016年刊)収録。

2017年4月19日水曜日

●水曜日の一句〔関根千方〕関悦史


関悦史









けさ秋や塵取にとる金亀子  関根千方


季重なりの句だが「今朝の秋」が主、「金亀子」が従とはっきり序列がある。単にピントをぼけさせないよう整理がゆきとどいているというよりは、夏のものであるコガネムシが立秋の朝を引き立てるためのダシとして利いているというべきだろう。上五に季語を置いて「や」で切り、下五を五音の名詞で止めるという有季定型句のお手本のような作りも内容に合っている。塵取に落とされた瞬間、コガネムシのかたさが立てる軽い音が、夏から秋へと移行する朝の空気の質感を際立たせ、感覚的な清新さをもたらす。

そうしたことどもの四角四面さが自足に直結し、却って狭苦しさや苛立たしさを引き起こしてもおかしくはないはずなのだが、この句にはどこかいい意味での隙間があり、季語の美しさばかりで一句が満たされきっているというわけではなさそうだ。

音や質感がもたらす即物性が、CGじみた美しい季語の世界の完結感を、外の実在物の世界へと開かせているということもあろうが、「金亀子」が虚子の《金亀子擲つ闇の深さかな》を思い起こさせ、秋朝の空気のなか、塵取に落ちる「金亀子」の体内に「闇の深さ」への通路を感じさせているということもある。しかしそうした間テクスト性による膨らみもまた、日本の古典文学における模範のような四角四面さへと繋がってしまうものではある。

この何から何まで模範的でしかないような作りの句が、それでも成り立っているのは、結局作者の受動性、あるいは出来事と感動の時差によるものなのではないか。塵取にとられた金亀子が立てるかすかな物音は、重く鬱陶しい感動を引き起こしたりすることなく、作者が何を物語るひまもないうちに、俳句の技法が自走するようにして一句に仕上がってしまうのである。この句に描かれた全ては、作者や読者の人格的統合性を斬るように瞬時にとおり過ぎる。そここそが快感なのだ。手練れの俳人であれば、その快感を過不足ない五七五に反射的にまとめ得る。この句の模範ぶりはその結果としてあらわれたものなのだ。


句集『白桃』(2017.3 ふらんす堂)所収。

2017年4月18日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉5 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉5

福田若之


俳句文学館で資料に当たっていたら、偶然、こんな一節を見つけた。
躍進する明治の息吹きが新聞「日本」「小日本」を、後には雑誌「ホトトギス」を生む事により、全日本の俳人は新しい靱帯によつて結ばれた。因習や伝承を乗り越えて、「郵便」と「活字」は普ねく広く俳人をして自己を飛躍せしめる時に遭遇せしめた。
(小田武雄「正岡子規研究(三)」、『天の川』、通巻第270号、1942年9月、22頁。引用の際、漢字はすべて新字に改めた)。
「郵便」と「活字」の婚姻――若いふたりの結婚は誰もがうらやむものだったろう。年月を経て、ふたりは誰もがうらやむ素敵な老夫婦となった。新聞と雑誌は、このふたりのあいだに生まれた子どもたちだったのだ。そして、「郵便」と「活字」の挙式を彩った俳人たちの飛躍。想像してみてほしい、俳人たちが無数の郵便物となって因習や伝承の向こう側へ物理的に飛躍していく姿を。

  ●

「プレーンテキスト」はほんとうにテキストだろうか。それが触れ得ないものであることは明らかだ。てざわり(texture)のないテキスト(text)、幽霊の着ている服――幽霊も服も半透明なのに、幽霊はどうしてあの服で裸を隠せるのだろう――僕はどうしても信じることができない。

  ●

筆跡だけが、言語がまるまる失われてもなお、生きながらえる。テキストに書き手がいたことの証として最後に残るのは、思想でも固有名でもない。筆跡だ。そして、筆跡にはてざわりがある。

  ●

僕は、まちがっても、不滅の筆跡などというものがありうると信じているわけではない。むしろ、筆跡はもっともはかないもののひとつだ。だからこそ、僕は筆跡のことを信じている。

  ●

僕のテキストの表面で、かまきりが他のかまきりのほかに何を食べることができるのか、どうやって生きているのか僕は知らなかった。おそらく、あれは人を食っているんだ。この仮説が正しければ、僕が句に書くかまきりは、自らをとりまくものによく擬態し、そうやって騙した相手を自らの餌にしているということになる。こんなふうに書けば、かまきりは、僕たちが普段「かまきり」と書いてあればその虫を意味するものと思い込んでやまないあの虫を、いよいよほんとうに意味しているかのようだ。

  ●

言葉が植物であるとすれば、意味とは光合成のことだろう(葉緑体ではなく)。まなざしに照らしだされたページのうえでだけ、言葉は意味する。そして、植物が光合成を持っているわけではないのと同じように、言葉は意味を持っているのではなく、意味するのだ。

  ●


2017/3/12

2017年4月17日月曜日

●ビール

ビール

生ビール輝きながら来たりけり  柏柳明子

飲み干せるビールの泡の口笑ふ  星野立子

心昏し昼のビールに卓濡らし   大野林火

浚渫船見てゐる昼のビールかな  依光陽子

浅草の暮れかかりたるビールかな  石田郷子

福引のみづひきかけしビールかな  久保田万太郎


2017年4月15日土曜日

●週俳創刊10周年オフ会は明日4月16日(日)

週俳創刊10周年オフ会は明日4月16日(日)

場所は小石川後楽園・涵徳亭。いろいろなイベントを用意しております。

事前のお申し込みがなくとも、気が向いたらお出かけください。

【昼の部 13:00~17:00】
興行  ≫見る
※全員参加型の楽しい催し。

4つの句会を同時開催

【夜の部 17:30~20:30】
懇親会  ≫見る



2017年4月14日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子






花びらは馬のかたちで着地する

月波与生 (つきなみ・よじょう)

今年の桜は開花からあっという間に満開になって、もう散り始めている。「花びら」が「馬のかたち」とはびっくりした。いろいろな花びらのかたちを聞いたことがあるが、「馬のかたち」は初耳である。馬のかたちで準備していた花びらなら着地した途端に颯爽と駆けだしていきそうである。

いろいろと想像してみた。花びらは桜本体から離れるときにやっと自己主張して、自らの意志で馬のかたちを選択したのではないだろうか。咲いているときは毎日が平穏で退屈だったから、自由に颯爽と駆け抜ける馬に憧れていたのだ。だから、馬のかたちになった。花びらは着地して、ここではないどこかへ走り出す。新たな旅立ちである。〈ライオンになる日に丸を付けてみる〉〈あせらない今日はきりんを眺める日〉 「杜人」250号(2016年刊)収録。

2017年4月12日水曜日

●水曜日の一句〔岡田耕治〕関悦史


関悦史









初時雨倉庫の中に椅子を置き  岡田耕治


この句、「倉庫の中に椅子を入れ」ではない。「~置き」である。椅子をしまって去ってしまったわけではない。置いた椅子には自然と腰をおろすことになるだろう。自室や勤務先の椅子ではない、普段はそこでくつろぐことはおそらくないであろう倉庫でのひと時である。

子供のときには家のなかのあちこちに、こうした普段とは違う使い道を発見し、狭いところにも猫のように入り込んでゆくものだ。そこには狭いところに身を隠す安心感と、見慣れたところから不意に引きだされる意外な視野の新鮮さの両方がある。

しかしながら、この句中の人物はおそらくもう子供ではない。季語は「初時雨」である。その年最初の時雨であり、季節は冬に入っている。ここからおのずと、ある程度年齢のいった人物像の落ち着きも浮かんでくる。

倉庫から眺める時雨は、幼時のような心の弾みの影を引きながらも、安息感をもって人を憩わせる。さしあたり、椅子と屋根さえあれば、世界はどこであれ母胎としての貌を見せるのかもしれない。そしてそうした変容の可能性は、何の変哲もない倉庫にもひそんでいるのである。


句集『日脚』(2017.3 邑書林)所収。

2017年4月11日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉4 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉4

福田若之


僕は夢のなかで俳句を書いたことは一度もない。僕の頭のなかだけで終わった言葉が俳句であったことは一度もない。

  ●

僕は夢のそとで俳句を書いたことは一度もない。夢がなければ、僕は俳句を書くことはできない。

  ●

僕は俳句を書いたことがある。少なくとも僕はそう信じている。

  ●

夢うつつ。それは、海岸の名だ。

2017/3/11

2017年4月10日月曜日

●月曜日の一句〔岩津必枝〕相子智恵



相子智恵






向き変へて日あたる方へ花筏  岩津必枝

句集『十日戎』(文學の森 2017.03)

水の流れの穏やかな場所にできる花筏。風が吹いたのだろうか。大きな一枚の布のようにも見える花筏が、ゆっくりと向きを変えて日向の方へ動いていった。日陰から日当たる方へ、見えている花の色もゆっくりと、濃い色から明るい色へ変化する。ただそれだけの風景である。

「ひあたるほうへはないかだ」の「H」「A」の音の多さによって、読んでいるうちに息が抜けていき、何とものんびりした気分になる。あっという間に散ってしまう桜の時間の中で、花筏だけをぼんやり眺めているゆっくりとした時間は幸せだ。そんなぼーっとした幸せを、この句を読んで追体験した。

2017年4月8日土曜日

●週俳創刊10周年オフ会は4月16日(日)

週俳創刊10周年オフ会は4月16日(日)

場所は小石川後楽園・涵徳亭。いろいろなイベントを用意しております。

懇親会  ≫見る
※おおまかな人数を把握したいと存じます。確定でなくてもお申込みくだされば幸甚。

興行  ≫見る
※全員参加型の楽しい催しになりそうです。

句会場を週俳が貸し出します ≫見る
※あと1室、洋室が空いてございます。ぜひご検討ください。


2017年4月7日金曜日

●金曜日の川柳〔渡辺隆夫〕樋口由紀子



樋口由紀子






妻一度盗られ自転車二度盗らる

渡辺隆夫 (わたなべ・たかお) 1937~2017

妻を盗られるという重大事件をヒートアップせずにあっさりと書く。もちろん、意義なども申し上げない。たんたんと自転車と同等のように書く。二度も盗られてしまった自転車の方が大事なようにも読めてしまう。このように書かれる妻も妻を盗られた夫も形無しである。穿ちだろうが、人の価値がますます軽くなっていく世相への批判性を、真正面から声高叫ばずに軽くいなすように書いているような気がする。

渡辺隆夫が亡くなった。彼が川柳界に残した宿題は大きい。彼の第一句集『宅配の馬』は平穏無事に過ごしていた多くの川柳人の度胆を抜いた。あとがきで書いた「川柳という作業は、自家製の爆弾作りの類」の公約通りに多くの自家製爆弾を堂々と発表し続けた。〈天皇家に差し出す良質の生殖器〉〈宅配の馬一頭をどこから食う〉〈八月を泣きたい人は泣いてください〉〈君が代にうどんはのびてしまいまする〉〈はらわたのどのあたりからくそとよぶか〉 『宅配の馬』(近代文藝社刊 1994年)所収。

2017年4月4日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉3 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉3

福田若之


たとえば震災に対して、題詠的な態度で向き合うことがしばしば批判されてきた。けれど、ほんとうの問題は、俳句の書き手たちが、ひとつひとつの題を、そのつど自らにとって重大な事件として受け取ることを知らないできたことなのかもしれないと思う。

  ●

遊びとしての俳句が狭められていくことがあるとすれば、それは俳句が貧しくなっていくことだろう。題詠が気軽な遊びとして今日なおありつづけていることは、俳句にとっての強い支えであるはずだ。

  ●

二つの相反する考えが、想像される他者の考えとしてではなく、僕自身の考えとしてあるということ。波打ち際を裸足で歩くようにして、あせらないでいきたい。

  ●

語を定義して議論を演繹的に展開していくというのは、言葉の紡ぎ方のひとつでしかない。むしろ、語義というのは、そのつど感性的に獲得される言葉の差異と反復のなかで、次第にその姿をはっきりとさせ、はっきりしたように思えたその姿がまた次第に移ろっていくというのが自然なのではないか。一つの語を中心に据えた絶対空間ではなく、複数の文が交わりあいながら絶えず互いの意味を変質させあう相対空間に生きること。そのときには、定義を述べる一文さえも、編みこまれた糸のうちの一本にすぎない。

2017/3/10

2017年4月3日月曜日

●月曜日の一句〔櫛部天思〕相子智恵



相子智恵






相愛といふ距離にして雛あり  櫛部天思

句集『天心』(2016.9 角川文化振興財団)より

「なるほど、雛人形の距離は相愛の者同士の距離感か」と言われてみればそういう気もしてくる面白さがある。

宮中の婚礼の場面が表現されている雛壇飾りだが、その形式の中で、男雛と女雛はつかず離れずの距離で座っている。そこに「相愛の距離」という見方が持ち込まれることで、つかず離れずという距離の中に、互いへの信頼感や安定した関係といった内面が見いだされ、雛人形に命が吹き込まれていく。

この距離は作者自身が思う相愛の距離であり、いたって個人的なものだが、そこに警句のような普遍性を感じる。「あり」の断定が効いているからであろう。

2017年4月1日土曜日

〔人名さん〕坂田三吉

〔人名さん〕
坂田三吉

坂田三吉そつなく亀を鳴かせけり  嵯峨根鈴子

嵯峨根鈴子句集『ラストシーン』(2016年4月/邑書林)所収。



2017年3月31日金曜日

●金曜日の川柳〔番野多賀子〕樋口由紀子



樋口由紀子






どの窓からも馬が覗いている日暮

番野多賀子 (ばんの・たかこ)

「どの窓」だから数頭の馬がそれぞれの窓から顔を出している。「日暮」だから馬は夕焼けを見ているのだろうか。それともただ窓の外を眺めているだけなのか。その景が作者の目に留まった。馬はどうしてと思うぐらい物悲しい目をしている。その目でじっと外を見ている。申し合わせたように、黙って見ている。そして、もうすぐ日が暮れて夜になる。

この馬たちには馬小屋に飼われていて、山々を駆け回わる自由はない。覗くといる行為は一体何を意味しているのか。無音の風景に作者は馬のものがなしさ、不安のようなもの、しいてはこの世の、人生のあやふやさを感じたのだろうか。作者の心象風景かもしれない。その静かな景は気高くてせつない。

2017年3月29日水曜日

●水曜日の一句〔増田まさみ〕関悦史


関悦史









ことだまを二階へはこぶ蝸牛  増田まさみ


「二階」は客間、居間、台所のような、人の出入りや生活の喧噪からは切り離された場所である。そこへ「ことだま」を運ぶ「蝸牛」という奇妙なものが向かってゆく。こうなると家の中のつねのこととは思えなくなる。

ひらがな書きされた「ことだま」は言霊であると同時に、コトリと音を立てて置かれることもできそうな、石の玉のような実体感をかすかに帯びたものともなり、それが蝸牛に運ばれるのである。

蝸牛ははたして自分がそんなものを運んでいることを知っているのか。それとも実体と非実体のはざまにあるのをいいことに、「ことだま」は蝸牛にそれと知られることもないまま、憑りついて運んでもらっているのか。あるいは蝸牛にとってこの「ことだま」は自なのか他なのか。この実体と非実体のはざまならではの曖昧さは、渦巻き状の殻の軽い硬さと、中味の不定形にも近い重い柔らかさとが綯い交ぜになった、蝸牛の形状に見合っている。

蝸牛の遅々とした歩みに分子ひとつひとつが確認され味わわれるようにして、家は二階へいたる一筋の道を分泌していく。進めば進むほどに、上れば上るほどに無限感が湧いて出てくるようでもあり、この句は不思議な明るみを形成している。この「ことだま」が担った霊力に、悪しきものという感じはない。このような微小でひそかな霊的交通の場ともなりうるものとして、家はわれわれを住まわせる。


句集『遊絲』(2017.2 霧工房)所収。

2017年3月28日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉2 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉2

福田若之


僕は、寒いと感じるのであって、「寒さ」というものを感じるのではない。「プレーンテキスト」という概念を僕が容易に認めることができないというのは、つまりはそういうことだ。

  ●

僕がどう感じるかとは無関係に、俳句形式が、あるいは日本語が、僕に対して「寒さ」と書くことを要請するという出来事は、これまでたしかに起こってきたし、これからも起こり続けるだろう。いつになったら、僕は、ただ僕自身の感性のみにしたがって、言葉を書くことができるようになるだろう。理屈では無理だと分かっている。でも、僕はそう感じないし、感じないでいつづけたい。

  ●

オーストラリアガマグチヨタカの顔はピグモンに似ていた。あたらしい思い出と古い思い出が、よく似た顔をしている。

  ●

理科の授業で、スロープを転がる玉の速度を測る実験をしたとき、先生は理論の正しさを教えようとしていた。けれど、僕は理論の不正確さを学んだ。

  ●

僕が自分の句について書くのは、その句を、あなたに、僕と同じように読んでほしいからではない。そのときの僕の問いは、あなたにどう読ませるのか、ではなく、いかにしてともに読むのか、だ。

2017/3/9

2017年3月27日月曜日

●月曜日の一句〔ふけとしこ〕相子智恵



相子智恵






言い忘れしことばのやうに幹に花  ふけとしこ

俳句とエッセー『ヨットと横顔』(2017.2 創風社出版)より

桜の太い幹に直接、二、三輪の花が咲いているのはよく見かける。いわゆる「胴吹き桜」だ。幹から花が咲くのは古木に多いという。通常なら枝の然るべき場所から咲く花が、幹から直接吹き出している様は、見るたびに不思議な感じがする。

「言い忘れしことばのやうに」と言われてみれば、その二、三輪の花は、喉から出るのを忘れた言葉のような気がしてくるから面白い。言い忘れたとはいえ、その言葉は無かったことにはならず、体内でポッと花開いていて「あ、あれ言い忘れたな」と気づくのだ。

胴吹き桜が幹をそこだけ明るく灯すように、言い忘れた言葉は心の一部分をわずかに照らす。この言い忘れた言葉は、きっと(忘れたことも含めて)明るい。

2017年3月25日土曜日

●西原天気 るびふる

画像をクリックすると大きくなります


 るびふる    西原天気

てのひらにけむりのごとく菫〔ヴィオレッテ〕
春ゆふべ地図を灯して俺の車〔カー〕
春雨や灯のほとはしる土瀝青〔アスファルト〕
春の夜の洋琴〔ピアノ〕のごとき庭只海〔にはたづみ〕
手術〔しりつ〕してもらひに紫雲英田〔げんげだ〕のまひる
なかぞらに練り物〔パテ〕支〔か〕ふ囀りの穹窿〔ドーム〕
雪花石膏〔アラバスター〕まだ見ぬ夜の数かぞふ
翻車魚〔まんばう〕のゆつくりよぎる恋愛〔ローマンス〕
莫大小〔メリヤス〕にくるまれて海おもふなり
くちびるがルビ振る花の夜の遊び

2017年3月24日金曜日

●金曜日の川柳〔嶋澤喜八郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






ついて来たはずのキリンが見当たらぬ

嶋澤喜八郎 (しまざわ・きはちろう) 1937~

「ふらすこてん」12月句会の兼題「消す」の入選句である。キリンがいなくなった。それもついて来たはずのキリンだという。キリンがついてくる? そもそもキリンは犬などのようについて来ないし、連れて歩く動物でもない。それにあの大きさと長い首。もし、ついて来ていたらわかるはずである。それが見当たらないなんて、どういうことなのかと突っ込みを入れたくなるが、それは野暮である。

句のどこにも力が入っていなくて、何を言っているのかよくわからないがしっかりとあと味を残す。なんともすっとぼけた味を醸し出している。時々はうしろを振り返ってみようかと思う。ひょっとしてキリンがついて来ているかもしれない。「ふらすこてん」(第49号2017年刊)収録。

2017年3月23日木曜日

●季語

季語

汝に春の季語貼つてゆく泣き止むまで  中山奈々〔*〕

鮒ずしや食はず嫌ひの季語いくつ  鷹羽狩行

蛇笏忌や子に覚えさす空の季語  上田日差子

心地よき季語の数なり二百ほど  筑紫磐井


〔*〕『セレネップ』第11号(2017年3月20日)

2017年3月22日水曜日

●水曜日の一句〔堀田季何〕関悦史


関悦史









階段の裏側のぼる夢はじめ  堀田季何


夢にあらわれる建築はいま現在住んでいるところよりも、幼時になじんだところのほうが多いらしい。場所の記憶も、自己そのものの一部ということか。

なかでも階段は途中性と幻惑感の強い場だが、この句ではそのさらに「裏側」をのぼっている。遠近法を欠いた夢のなかの空間ならではの魅惑を引きだす混沌ぶりといえる(それにしても「のぼる」とはこの場合、通常な上下軸からみて上にあたるのか、下にあたるのか)。

「夢はじめ」は初夢のことだが、句中に置いたときの効果が「初夢」とはまるでちがう。「初夢」では動きが止まり、ほとんど報告句と化してしまうのである。「夢はじめ」という始動をあらわす単語なればこその湧出感や流動性のようなものがこの句にはある。そしてそのゆるやかな動きは夢のなかにはとどまらない。新年に発し、そのまま現実の一年をも規定してしまうのだ。

階段の裏側をのぼりはじめてしまう新年とは、このとき、夢と現実の関係自体が入り乱れはじめる新年にほかならない。「階段の裏側」という場は夢と現実とが融通無碍に入れ替わる事態そのものである。そこを「のぼる」とは、記憶、無意識、自己の暗部を撹拌し、汲みあげつつの詩的昇華がこれから果たされるということにもつながってゆくのだろう。性的放縦の気配もひそんでいる。


「GANYMEDE」vol.69(2017年4月)掲載。

2017年3月21日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉1 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉1

福田若之


ためしがきというのは、寄せては返すといった体のものであるように思う。

  ●

砂漠の詩を読むたびに感じる、それを書くことへの強いあこがれ。けれど、僕は草のない詩には住まうことができないだろう。

  ●

「私性」というとき、「性」という接尾辞は、一般化によって個別の「私」を殺す。僕は僕の「私性」によって僕であるわけではない

  ●

俳句の総合誌は売るために「詠い方」の特集を組む。「書きぶり」の特集では売れないだろうか。

  ●

僕がTwitterのアカウントを持たないでいる理由のひとつは、僕の書くものを、あくまでも書かれたものとして読んでもらいたいと思うからだ。どんなに短いものであっても、僕は文字を「つぶやく」のではない。

2017/3/6

2017年3月20日月曜日

●月曜日の一句〔武藤紀子〕相子智恵



相子智恵






雪嶺といふ春深き響かな  武藤紀子

句集『冬干潟』(2017.2 角川書店)より

「雪嶺」は「冬の山」の傍題で、季重なりの句ということになる。

〈春深き響かな〉という言葉にじっと佇むうちに、里に雪のない春や秋は、雪をいただく高い山の美しさが実は際立つと思った。中でも春の陽光に照らされた雪嶺の白さは明るく美しい。

掲句には映像的な美しさもあるが、もっと想像されてくるのは〈春深き響かな〉による雪嶺の雪解の水音である。「春深き」という時期であるから、里に近い山裾から中腹にかけての雪解は既に終わり、頂上付近の雪解が本格化している頃だろう。雪嶺の厳しさが、ゆるゆるとほどけてゆく響き。実際には聞こえなくとも心の中にイメージされてくる。

冬の雪嶺の何者も寄せつけない厳しい白さが、「春深き響」によってふわりと光りながらほどけてゆく柔らかな白さに変化している。「かな」という包み込むような切字も効いている。効果的な季重なりによって、厳しい寒さが本格的にほどける山国の晩春の情景が見えてきた。

2017年3月17日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ 〕樋口由紀子



樋口由紀子






「と」にするか南瓜炊けたか「を」にするか

なかはられいこ (1955~)

川柳を書いていると助詞をどうするかで悩むことが多々ある。助詞で句柄ががらりと変わり、句の意味内容の方向も違ってくる。助詞一つで良くも悪くもなるのを誰もがまのあたりにしている。実生活でも似たようなことがありそうで、思い当たる。

「南瓜炊けたか」だが、そのリズムのよさですぐに思いついたのは「テッペンカケタカ」というホトトギスの鳴き声だった。南瓜が炊ける間にどちらにするか決めるのか、などいろいろ考えたが、最終的には意味内容はスルーして、「さてさて」というお囃子のように読んだ。どうするかを悩ましい事が、映えるように、引きたてるように、投入されたのではないだろうか。あるいは暗号のような気もする。

「南瓜炊けたか」を何食わぬ顔でぽんと置き、効果を引き出す。なかはらはオリジナリティーのある新しい書き方を見せてくれる。〈代案は雪で修正案も雪〉〈東京のキョでいっせいに裏返る〉〈今日のまぶたにいいことをしてあげる〉 「川柳ねじまき」#3(2017年刊)収録。

2017年3月15日水曜日

●水曜日の一句〔武藤紀子〕関悦史


関悦史









密に描けば抽象となる蝸牛  武藤紀子


ある物を見つめつづけているだけでも、次第にゲシュタルト崩壊が起こり、何を見ているのやら判然としなくなるということはある。「密に描く」とはその過程を眼だけではなく、手の運動の軌跡へと変換しつづけていくことで、変換の過程自体を物件化していく作業にほかならない。

密に描かれた対象物は、じかに接するのと違い、全域に均等な圧力を持ったイメージとして見る者の前に立ちはだかる。いわば見る者は、ここでは描く手の動きの痕跡をひとつのこらずたどりかえすことを強いられ、ひとつひとつの線やタッチを対象物の形態と照らしあわせて読むことを強いられるのだ。

そのような分解と再統合への圧力をふくんだ画面は、対象物にもともと潜在していた「抽象」性を展開して見せただけとも考えられるが、しかしいくら細密に描かれたところで、それがそのまま抽象と化すということは、大概の動植物では無理である。まず形態的なまとまりとして認知されてしまうはずだ。

その点、もともとが幾何学的な形態と複雑微妙な色調変化の細部を持つ巻貝ならばたしかに抽象となりおおせることは簡単ではある。しかし螺旋形の貝殻がそのまま「抽象」となったところで、そこにはさしたる飛躍は生じない。貝殻だけではなく、不定形にちかい蝸牛の軟体が必要とされるのだ。

貝殻から軟体が出てきて歩きだすように、蝸牛はつねになまなましい具体から、いつの間にか抽象へと変じることができる潜勢力を持っている。この句はそのようなものとして蝸牛を異化し、捉えている。そしてそのことは蝸牛を、その形態への考察を梃子にリアルに感じさせるというだけにはとどまらない。具体即抽象という大きな変容の、蝶番の位置を蝸牛が占めることになるのだ。この世のすべての具体物が抽象に化しおおせる特異点として、蝸牛が緻密にうごめきつづけることになるのである。

博物学的図像に見入る行為にひそむ羽化登仙にも似た愉楽、それ自体を抽出した一句といえようか。


句集『冬干潟』(2017.2 角川書店)所収。