2017年4月28日金曜日

●金曜日の川柳〔西田雅子〕樋口由紀子



樋口由紀子






鳥籠から逃してあげるわたしの手

西田雅子(にしだ・まさこ)

鳥籠にいるのは鳥である。だから逃してあげるのは鳥のはずである。しかし、「わたしの手」。「鳥籠」は生活全般の比喩で、そこから「わたしの手」、私の一部分を、自由にさせてあげるという意味だろうか。

狭い鳥籠の中を不自由に飛び回る鳥を見ていたら、鳥を鳥籠から逃がしてあげたくなった。手をそっと鳥籠に入れて、鳥を捕まえて、鳥を外に出す。そのときにわたしの手に目がとまった。わたしの手もいろいろと我慢している。鳥と一緒にここではないどこかへ逃がしてあげようと思ったのではないだろうか。そういえば、鳥と手、なんとなくかたちや動きが似ている。

〈バスを待つ秋は遅れているらしく〉〈夕焼けにいちばん近い町に住む〉〈運ばれて十一月の岸に着く〉〈ひとりずつ鏡の中をゆくゲーム〉『ペルソナの塔』(あざみエージェント 2014年刊)所収。

2017年4月25日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉6 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉6

福田若之


遠いむかしに自分なりにけりを付けたはずのことがらが、いまだに僕をえぐり、むしばみつづけているこの感じ。僕は痛々しく生き、痛々しく死ぬだろう。

  ●

あるひとがもし本当に自らの作品の「不滅」だけをひたすらに志すなら、そのひとは、たとえば俳句を書くことなどやめて、いますぐ電波の抑揚によって自らを表現し、宇宙へ向けてそれを発信するほうがよいと僕は思う。たかだか地球が滅んだくらいで失われる作品の「不滅」なんて、そんなものは欺瞞でしかない。

  ●

書かれたものが消え去るということ、それを諦念によって受け入れるだけなら、書くことはニヒリスティックでしかない。消え去るけれども書く、という逆接の虚しさ。そうではなく、書かれたものが消え去るということについての絶対的な肯定から出発して書くこと。すなわち、消え去るからこそ、消え去るためにこそ書く、ということ。真に書くとはそういうことだと僕は信じる。

2017/3/20

2017年4月24日月曜日

●月曜日の一句〔小川軽舟〕相子智恵



相子智恵






耳遠き父を木の芽の囃すなり  小川軽舟

「俳句」5月号(角川学芸出版 2017.04)

加齢によって耳が遠くなることは、ハンディキャップでありネガティブな要素ではあるのだが、〈木の芽の囃すなり〉の、父と木の芽の交流にはファンタジーな味わいがあって、お伽噺の一場面のように感じられてくる。結果として、一句は明るい印象に着地している。
木の芽が囃すというのは、聴覚ではなく視覚に訴える。だから父の現実として無理なく読めつつ、「囃す」という擬人化によって一気に詩の世界、童話的世界に誘われるのだ。
花咲か爺ではないけれど、お爺さんと木の精霊は不思議に似合う。現実に執着せず次第に童話的世界に踏み入れていく老人としての父と、それを肯定しているであろう子の関係もまた、静かに明るい。

2017年4月21日金曜日

●金曜日の川柳〔炭蔵正廣〕樋口由紀子



樋口由紀子






おかしいおかしいと行くゆるいカーブ

炭蔵正廣

私はかなりの方向音痴で、よく道に迷う。目的地に着けないこともたびたびある。もともと方向に自信がないので、途中でおかしいと思っても、それでどうすれがいいのか、その修正の方法がわからない。こっちは北だから、こう行けばいいとかがさっぱり見当がつかない。だから、おかしいと気づいてもただ前を行くしかない。

「ゆるいカーブ」が上手いと思った。カーブだからいままでの道は徐々の見えなくなる。急に見えなくなると一気に不安になるが、まだ振りかえることができる。しかし、すぐに見えなくなる。人生もそうかもしれない。おかしいとおかしいと思っても、そこを進むしかない。なんとかなると信じるしかない。でもおかしいというのはうすうす気づいている。〈画面から消したいカオがふたつある〉〈おそらくは開けたら笑う玉手箱〉〈散らかった数字の中に誕生日〉 「天守閣」(2016年刊)収録。

2017年4月19日水曜日

●水曜日の一句〔関根千方〕関悦史


関悦史









けさ秋や塵取にとる金亀子  関根千方


季重なりの句だが「今朝の秋」が主、「金亀子」が従とはっきり序列がある。単にピントをぼけさせないよう整理がゆきとどいているというよりは、夏のものであるコガネムシが立秋の朝を引き立てるためのダシとして利いているというべきだろう。上五に季語を置いて「や」で切り、下五を五音の名詞で止めるという有季定型句のお手本のような作りも内容に合っている。塵取に落とされた瞬間、コガネムシのかたさが立てる軽い音が、夏から秋へと移行する朝の空気の質感を際立たせ、感覚的な清新さをもたらす。

そうしたことどもの四角四面さが自足に直結し、却って狭苦しさや苛立たしさを引き起こしてもおかしくはないはずなのだが、この句にはどこかいい意味での隙間があり、季語の美しさばかりで一句が満たされきっているというわけではなさそうだ。

音や質感がもたらす即物性が、CGじみた美しい季語の世界の完結感を、外の実在物の世界へと開かせているということもあろうが、「金亀子」が虚子の《金亀子擲つ闇の深さかな》を思い起こさせ、秋朝の空気のなか、塵取に落ちる「金亀子」の体内に「闇の深さ」への通路を感じさせているということもある。しかしそうした間テクスト性による膨らみもまた、日本の古典文学における模範のような四角四面さへと繋がってしまうものではある。

この何から何まで模範的でしかないような作りの句が、それでも成り立っているのは、結局作者の受動性、あるいは出来事と感動の時差によるものなのではないか。塵取にとられた金亀子が立てるかすかな物音は、重く鬱陶しい感動を引き起こしたりすることなく、作者が何を物語るひまもないうちに、俳句の技法が自走するようにして一句に仕上がってしまうのである。この句に描かれた全ては、作者や読者の人格的統合性を斬るように瞬時にとおり過ぎる。そここそが快感なのだ。手練れの俳人であれば、その快感を過不足ない五七五に反射的にまとめ得る。この句の模範ぶりはその結果としてあらわれたものなのだ。


句集『白桃』(2017.3 ふらんす堂)所収。

2017年4月18日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉5 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉5

福田若之


俳句文学館で資料に当たっていたら、偶然、こんな一節を見つけた。
躍進する明治の息吹きが新聞「日本」「小日本」を、後には雑誌「ホトトギス」を生む事により、全日本の俳人は新しい靱帯によつて結ばれた。因習や伝承を乗り越えて、「郵便」と「活字」は普ねく広く俳人をして自己を飛躍せしめる時に遭遇せしめた。
(小田武雄「正岡子規研究(三)」、『天の川』、通巻第270号、1942年9月、22頁。引用の際、漢字はすべて新字に改めた)。
「郵便」と「活字」の婚姻――若いふたりの結婚は誰もがうらやむものだったろう。年月を経て、ふたりは誰もがうらやむ素敵な老夫婦となった。新聞と雑誌は、このふたりのあいだに生まれた子どもたちだったのだ。そして、「郵便」と「活字」の挙式を彩った俳人たちの飛躍。想像してみてほしい、俳人たちが無数の郵便物となって因習や伝承の向こう側へ物理的に飛躍していく姿を。

  ●

「プレーンテキスト」はほんとうにテキストだろうか。それが触れ得ないものであることは明らかだ。てざわり(texture)のないテキスト(text)、幽霊の着ている服――幽霊も服も半透明なのに、幽霊はどうしてあの服で裸を隠せるのだろう――僕はどうしても信じることができない。

  ●

筆跡だけが、言語がまるまる失われてもなお、生きながらえる。テキストに書き手がいたことの証として最後に残るのは、思想でも固有名でもない。筆跡だ。そして、筆跡にはてざわりがある。

  ●

僕は、まちがっても、不滅の筆跡などというものがありうると信じているわけではない。むしろ、筆跡はもっともはかないもののひとつだ。だからこそ、僕は筆跡のことを信じている。

  ●

僕のテキストの表面で、かまきりが他のかまきりのほかに何を食べることができるのか、どうやって生きているのか僕は知らなかった。おそらく、あれは人を食っているんだ。この仮説が正しければ、僕が句に書くかまきりは、自らをとりまくものによく擬態し、そうやって騙した相手を自らの餌にしているということになる。こんなふうに書けば、かまきりは、僕たちが普段「かまきり」と書いてあればその虫を意味するものと思い込んでやまないあの虫を、いよいよほんとうに意味しているかのようだ。

  ●

言葉が植物であるとすれば、意味とは光合成のことだろう(葉緑体ではなく)。まなざしに照らしだされたページのうえでだけ、言葉は意味する。そして、植物が光合成を持っているわけではないのと同じように、言葉は意味を持っているのではなく、意味するのだ。

  ●


2017/3/12

2017年4月17日月曜日

●ビール

ビール

生ビール輝きながら来たりけり  柏柳明子

飲み干せるビールの泡の口笑ふ  星野立子

心昏し昼のビールに卓濡らし   大野林火

浚渫船見てゐる昼のビールかな  依光陽子

浅草の暮れかかりたるビールかな  石田郷子

福引のみづひきかけしビールかな  久保田万太郎


2017年4月15日土曜日

●週俳創刊10周年オフ会は明日4月16日(日)

週俳創刊10周年オフ会は明日4月16日(日)

場所は小石川後楽園・涵徳亭。いろいろなイベントを用意しております。

事前のお申し込みがなくとも、気が向いたらお出かけください。

【昼の部 13:00~17:00】
興行  ≫見る
※全員参加型の楽しい催し。

4つの句会を同時開催

【夜の部 17:30~20:30】
懇親会  ≫見る



2017年4月14日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子






花びらは馬のかたちで着地する

月波与生 (つきなみ・よじょう)

今年の桜は開花からあっという間に満開になって、もう散り始めている。「花びら」が「馬のかたち」とはびっくりした。いろいろな花びらのかたちを聞いたことがあるが、「馬のかたち」は初耳である。馬のかたちで準備していた花びらなら着地した途端に颯爽と駆けだしていきそうである。

いろいろと想像してみた。花びらは桜本体から離れるときにやっと自己主張して、自らの意志で馬のかたちを選択したのではないだろうか。咲いているときは毎日が平穏で退屈だったから、自由に颯爽と駆け抜ける馬に憧れていたのだ。だから、馬のかたちになった。花びらは着地して、ここではないどこかへ走り出す。新たな旅立ちである。〈ライオンになる日に丸を付けてみる〉〈あせらない今日はきりんを眺める日〉 「杜人」250号(2016年刊)収録。

2017年4月12日水曜日

●水曜日の一句〔岡田耕治〕関悦史


関悦史









初時雨倉庫の中に椅子を置き  岡田耕治


この句、「倉庫の中に椅子を入れ」ではない。「~置き」である。椅子をしまって去ってしまったわけではない。置いた椅子には自然と腰をおろすことになるだろう。自室や勤務先の椅子ではない、普段はそこでくつろぐことはおそらくないであろう倉庫でのひと時である。

子供のときには家のなかのあちこちに、こうした普段とは違う使い道を発見し、狭いところにも猫のように入り込んでゆくものだ。そこには狭いところに身を隠す安心感と、見慣れたところから不意に引きだされる意外な視野の新鮮さの両方がある。

しかしながら、この句中の人物はおそらくもう子供ではない。季語は「初時雨」である。その年最初の時雨であり、季節は冬に入っている。ここからおのずと、ある程度年齢のいった人物像の落ち着きも浮かんでくる。

倉庫から眺める時雨は、幼時のような心の弾みの影を引きながらも、安息感をもって人を憩わせる。さしあたり、椅子と屋根さえあれば、世界はどこであれ母胎としての貌を見せるのかもしれない。そしてそうした変容の可能性は、何の変哲もない倉庫にもひそんでいるのである。


句集『日脚』(2017.3 邑書林)所収。

2017年4月11日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉4 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉4

福田若之


僕は夢のなかで俳句を書いたことは一度もない。僕の頭のなかだけで終わった言葉が俳句であったことは一度もない。

  ●

僕は夢のそとで俳句を書いたことは一度もない。夢がなければ、僕は俳句を書くことはできない。

  ●

僕は俳句を書いたことがある。少なくとも僕はそう信じている。

  ●

夢うつつ。それは、海岸の名だ。

2017/3/11

2017年4月10日月曜日

●月曜日の一句〔岩津必枝〕相子智恵



相子智恵






向き変へて日あたる方へ花筏  岩津必枝

句集『十日戎』(文學の森 2017.03)

水の流れの穏やかな場所にできる花筏。風が吹いたのだろうか。大きな一枚の布のようにも見える花筏が、ゆっくりと向きを変えて日向の方へ動いていった。日陰から日当たる方へ、見えている花の色もゆっくりと、濃い色から明るい色へ変化する。ただそれだけの風景である。

「ひあたるほうへはないかだ」の「H」「A」の音の多さによって、読んでいるうちに息が抜けていき、何とものんびりした気分になる。あっという間に散ってしまう桜の時間の中で、花筏だけをぼんやり眺めているゆっくりとした時間は幸せだ。そんなぼーっとした幸せを、この句を読んで追体験した。

2017年4月8日土曜日

●週俳創刊10周年オフ会は4月16日(日)

週俳創刊10周年オフ会は4月16日(日)

場所は小石川後楽園・涵徳亭。いろいろなイベントを用意しております。

懇親会  ≫見る
※おおまかな人数を把握したいと存じます。確定でなくてもお申込みくだされば幸甚。

興行  ≫見る
※全員参加型の楽しい催しになりそうです。

句会場を週俳が貸し出します ≫見る
※あと1室、洋室が空いてございます。ぜひご検討ください。


2017年4月7日金曜日

●金曜日の川柳〔渡辺隆夫〕樋口由紀子



樋口由紀子






妻一度盗られ自転車二度盗らる

渡辺隆夫 (わたなべ・たかお) 1937~2017

妻を盗られるという重大事件をヒートアップせずにあっさりと書く。もちろん、意義なども申し上げない。たんたんと自転車と同等のように書く。二度も盗られてしまった自転車の方が大事なようにも読めてしまう。このように書かれる妻も妻を盗られた夫も形無しである。穿ちだろうが、人の価値がますます軽くなっていく世相への批判性を、真正面から声高叫ばずに軽くいなすように書いているような気がする。

渡辺隆夫が亡くなった。彼が川柳界に残した宿題は大きい。彼の第一句集『宅配の馬』は平穏無事に過ごしていた多くの川柳人の度胆を抜いた。あとがきで書いた「川柳という作業は、自家製の爆弾作りの類」の公約通りに多くの自家製爆弾を堂々と発表し続けた。〈天皇家に差し出す良質の生殖器〉〈宅配の馬一頭をどこから食う〉〈八月を泣きたい人は泣いてください〉〈君が代にうどんはのびてしまいまする〉〈はらわたのどのあたりからくそとよぶか〉 『宅配の馬』(近代文藝社刊 1994年)所収。

2017年4月4日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉3 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉3

福田若之


たとえば震災に対して、題詠的な態度で向き合うことがしばしば批判されてきた。けれど、ほんとうの問題は、俳句の書き手たちが、ひとつひとつの題を、そのつど自らにとって重大な事件として受け取ることを知らないできたことなのかもしれないと思う。

  ●

遊びとしての俳句が狭められていくことがあるとすれば、それは俳句が貧しくなっていくことだろう。題詠が気軽な遊びとして今日なおありつづけていることは、俳句にとっての強い支えであるはずだ。

  ●

二つの相反する考えが、想像される他者の考えとしてではなく、僕自身の考えとしてあるということ。波打ち際を裸足で歩くようにして、あせらないでいきたい。

  ●

語を定義して議論を演繹的に展開していくというのは、言葉の紡ぎ方のひとつでしかない。むしろ、語義というのは、そのつど感性的に獲得される言葉の差異と反復のなかで、次第にその姿をはっきりとさせ、はっきりしたように思えたその姿がまた次第に移ろっていくというのが自然なのではないか。一つの語を中心に据えた絶対空間ではなく、複数の文が交わりあいながら絶えず互いの意味を変質させあう相対空間に生きること。そのときには、定義を述べる一文さえも、編みこまれた糸のうちの一本にすぎない。

2017/3/10

2017年4月3日月曜日

●月曜日の一句〔櫛部天思〕相子智恵



相子智恵






相愛といふ距離にして雛あり  櫛部天思

句集『天心』(2016.9 角川文化振興財団)より

「なるほど、雛人形の距離は相愛の者同士の距離感か」と言われてみればそういう気もしてくる面白さがある。

宮中の婚礼の場面が表現されている雛壇飾りだが、その形式の中で、男雛と女雛はつかず離れずの距離で座っている。そこに「相愛の距離」という見方が持ち込まれることで、つかず離れずという距離の中に、互いへの信頼感や安定した関係といった内面が見いだされ、雛人形に命が吹き込まれていく。

この距離は作者自身が思う相愛の距離であり、いたって個人的なものだが、そこに警句のような普遍性を感じる。「あり」の断定が効いているからであろう。

2017年4月1日土曜日

〔人名さん〕坂田三吉

〔人名さん〕
坂田三吉

坂田三吉そつなく亀を鳴かせけり  嵯峨根鈴子

嵯峨根鈴子句集『ラストシーン』(2016年4月/邑書林)所収。



2017年3月31日金曜日

●金曜日の川柳〔番野多賀子〕樋口由紀子



樋口由紀子






どの窓からも馬が覗いている日暮

番野多賀子 (ばんの・たかこ)

「どの窓」だから数頭の馬がそれぞれの窓から顔を出している。「日暮」だから馬は夕焼けを見ているのだろうか。それともただ窓の外を眺めているだけなのか。その景が作者の目に留まった。馬はどうしてと思うぐらい物悲しい目をしている。その目でじっと外を見ている。申し合わせたように、黙って見ている。そして、もうすぐ日が暮れて夜になる。

この馬たちには馬小屋に飼われていて、山々を駆け回わる自由はない。覗くといる行為は一体何を意味しているのか。無音の風景に作者は馬のものがなしさ、不安のようなもの、しいてはこの世の、人生のあやふやさを感じたのだろうか。作者の心象風景かもしれない。その静かな景は気高くてせつない。

2017年3月29日水曜日

●水曜日の一句〔増田まさみ〕関悦史


関悦史









ことだまを二階へはこぶ蝸牛  増田まさみ


「二階」は客間、居間、台所のような、人の出入りや生活の喧噪からは切り離された場所である。そこへ「ことだま」を運ぶ「蝸牛」という奇妙なものが向かってゆく。こうなると家の中のつねのこととは思えなくなる。

ひらがな書きされた「ことだま」は言霊であると同時に、コトリと音を立てて置かれることもできそうな、石の玉のような実体感をかすかに帯びたものともなり、それが蝸牛に運ばれるのである。

蝸牛ははたして自分がそんなものを運んでいることを知っているのか。それとも実体と非実体のはざまにあるのをいいことに、「ことだま」は蝸牛にそれと知られることもないまま、憑りついて運んでもらっているのか。あるいは蝸牛にとってこの「ことだま」は自なのか他なのか。この実体と非実体のはざまならではの曖昧さは、渦巻き状の殻の軽い硬さと、中味の不定形にも近い重い柔らかさとが綯い交ぜになった、蝸牛の形状に見合っている。

蝸牛の遅々とした歩みに分子ひとつひとつが確認され味わわれるようにして、家は二階へいたる一筋の道を分泌していく。進めば進むほどに、上れば上るほどに無限感が湧いて出てくるようでもあり、この句は不思議な明るみを形成している。この「ことだま」が担った霊力に、悪しきものという感じはない。このような微小でひそかな霊的交通の場ともなりうるものとして、家はわれわれを住まわせる。


句集『遊絲』(2017.2 霧工房)所収。

2017年3月28日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉2 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉2

福田若之


僕は、寒いと感じるのであって、「寒さ」というものを感じるのではない。「プレーンテキスト」という概念を僕が容易に認めることができないというのは、つまりはそういうことだ。

  ●

僕がどう感じるかとは無関係に、俳句形式が、あるいは日本語が、僕に対して「寒さ」と書くことを要請するという出来事は、これまでたしかに起こってきたし、これからも起こり続けるだろう。いつになったら、僕は、ただ僕自身の感性のみにしたがって、言葉を書くことができるようになるだろう。理屈では無理だと分かっている。でも、僕はそう感じないし、感じないでいつづけたい。

  ●

オーストラリアガマグチヨタカの顔はピグモンに似ていた。あたらしい思い出と古い思い出が、よく似た顔をしている。

  ●

理科の授業で、スロープを転がる玉の速度を測る実験をしたとき、先生は理論の正しさを教えようとしていた。けれど、僕は理論の不正確さを学んだ。

  ●

僕が自分の句について書くのは、その句を、あなたに、僕と同じように読んでほしいからではない。そのときの僕の問いは、あなたにどう読ませるのか、ではなく、いかにしてともに読むのか、だ。

2017/3/9

2017年3月27日月曜日

●月曜日の一句〔ふけとしこ〕相子智恵



相子智恵






言い忘れしことばのやうに幹に花  ふけとしこ

俳句とエッセー『ヨットと横顔』(2017.2 創風社出版)より

桜の太い幹に直接、二、三輪の花が咲いているのはよく見かける。いわゆる「胴吹き桜」だ。幹から花が咲くのは古木に多いという。通常なら枝の然るべき場所から咲く花が、幹から直接吹き出している様は、見るたびに不思議な感じがする。

「言い忘れしことばのやうに」と言われてみれば、その二、三輪の花は、喉から出るのを忘れた言葉のような気がしてくるから面白い。言い忘れたとはいえ、その言葉は無かったことにはならず、体内でポッと花開いていて「あ、あれ言い忘れたな」と気づくのだ。

胴吹き桜が幹をそこだけ明るく灯すように、言い忘れた言葉は心の一部分をわずかに照らす。この言い忘れた言葉は、きっと(忘れたことも含めて)明るい。

2017年3月25日土曜日

●西原天気 るびふる

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 るびふる    西原天気

てのひらにけむりのごとく菫〔ヴィオレッテ〕
春ゆふべ地図を灯して俺の車〔カー〕
春雨や灯のほとはしる土瀝青〔アスファルト〕
春の夜の洋琴〔ピアノ〕のごとき庭只海〔にはたづみ〕
手術〔しりつ〕してもらひに紫雲英田〔げんげだ〕のまひる
なかぞらに練り物〔パテ〕支〔か〕ふ囀りの穹窿〔ドーム〕
雪花石膏〔アラバスター〕まだ見ぬ夜の数かぞふ
翻車魚〔まんばう〕のゆつくりよぎる恋愛〔ローマンス〕
莫大小〔メリヤス〕にくるまれて海おもふなり
くちびるがルビ振る花の夜の遊び

2017年3月24日金曜日

●金曜日の川柳〔嶋澤喜八郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






ついて来たはずのキリンが見当たらぬ

嶋澤喜八郎 (しまざわ・きはちろう) 1937~

「ふらすこてん」12月句会の兼題「消す」の入選句である。キリンがいなくなった。それもついて来たはずのキリンだという。キリンがついてくる? そもそもキリンは犬などのようについて来ないし、連れて歩く動物でもない。それにあの大きさと長い首。もし、ついて来ていたらわかるはずである。それが見当たらないなんて、どういうことなのかと突っ込みを入れたくなるが、それは野暮である。

句のどこにも力が入っていなくて、何を言っているのかよくわからないがしっかりとあと味を残す。なんともすっとぼけた味を醸し出している。時々はうしろを振り返ってみようかと思う。ひょっとしてキリンがついて来ているかもしれない。「ふらすこてん」(第49号2017年刊)収録。

2017年3月23日木曜日

●季語

季語

汝に春の季語貼つてゆく泣き止むまで  中山奈々〔*〕

鮒ずしや食はず嫌ひの季語いくつ  鷹羽狩行

蛇笏忌や子に覚えさす空の季語  上田日差子

心地よき季語の数なり二百ほど  筑紫磐井


〔*〕『セレネップ』第11号(2017年3月20日)

2017年3月22日水曜日

●水曜日の一句〔堀田季何〕関悦史


関悦史









階段の裏側のぼる夢はじめ  堀田季何


夢にあらわれる建築はいま現在住んでいるところよりも、幼時になじんだところのほうが多いらしい。場所の記憶も、自己そのものの一部ということか。

なかでも階段は途中性と幻惑感の強い場だが、この句ではそのさらに「裏側」をのぼっている。遠近法を欠いた夢のなかの空間ならではの魅惑を引きだす混沌ぶりといえる(それにしても「のぼる」とはこの場合、通常な上下軸からみて上にあたるのか、下にあたるのか)。

「夢はじめ」は初夢のことだが、句中に置いたときの効果が「初夢」とはまるでちがう。「初夢」では動きが止まり、ほとんど報告句と化してしまうのである。「夢はじめ」という始動をあらわす単語なればこその湧出感や流動性のようなものがこの句にはある。そしてそのゆるやかな動きは夢のなかにはとどまらない。新年に発し、そのまま現実の一年をも規定してしまうのだ。

階段の裏側をのぼりはじめてしまう新年とは、このとき、夢と現実の関係自体が入り乱れはじめる新年にほかならない。「階段の裏側」という場は夢と現実とが融通無碍に入れ替わる事態そのものである。そこを「のぼる」とは、記憶、無意識、自己の暗部を撹拌し、汲みあげつつの詩的昇華がこれから果たされるということにもつながってゆくのだろう。性的放縦の気配もひそんでいる。


「GANYMEDE」vol.69(2017年4月)掲載。

2017年3月21日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉1 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉1

福田若之


ためしがきというのは、寄せては返すといった体のものであるように思う。

  ●

砂漠の詩を読むたびに感じる、それを書くことへの強いあこがれ。けれど、僕は草のない詩には住まうことができないだろう。

  ●

「私性」というとき、「性」という接尾辞は、一般化によって個別の「私」を殺す。僕は僕の「私性」によって僕であるわけではない

  ●

俳句の総合誌は売るために「詠い方」の特集を組む。「書きぶり」の特集では売れないだろうか。

  ●

僕がTwitterのアカウントを持たないでいる理由のひとつは、僕の書くものを、あくまでも書かれたものとして読んでもらいたいと思うからだ。どんなに短いものであっても、僕は文字を「つぶやく」のではない。

2017/3/6

2017年3月20日月曜日

●月曜日の一句〔武藤紀子〕相子智恵



相子智恵






雪嶺といふ春深き響かな  武藤紀子

句集『冬干潟』(2017.2 角川書店)より

「雪嶺」は「冬の山」の傍題で、季重なりの句ということになる。

〈春深き響かな〉という言葉にじっと佇むうちに、里に雪のない春や秋は、雪をいただく高い山の美しさが実は際立つと思った。中でも春の陽光に照らされた雪嶺の白さは明るく美しい。

掲句には映像的な美しさもあるが、もっと想像されてくるのは〈春深き響かな〉による雪嶺の雪解の水音である。「春深き」という時期であるから、里に近い山裾から中腹にかけての雪解は既に終わり、頂上付近の雪解が本格化している頃だろう。雪嶺の厳しさが、ゆるゆるとほどけてゆく響き。実際には聞こえなくとも心の中にイメージされてくる。

冬の雪嶺の何者も寄せつけない厳しい白さが、「春深き響」によってふわりと光りながらほどけてゆく柔らかな白さに変化している。「かな」という包み込むような切字も効いている。効果的な季重なりによって、厳しい寒さが本格的にほどける山国の晩春の情景が見えてきた。

2017年3月17日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ 〕樋口由紀子



樋口由紀子






「と」にするか南瓜炊けたか「を」にするか

なかはられいこ (1955~)

川柳を書いていると助詞をどうするかで悩むことが多々ある。助詞で句柄ががらりと変わり、句の意味内容の方向も違ってくる。助詞一つで良くも悪くもなるのを誰もがまのあたりにしている。実生活でも似たようなことがありそうで、思い当たる。

「南瓜炊けたか」だが、そのリズムのよさですぐに思いついたのは「テッペンカケタカ」というホトトギスの鳴き声だった。南瓜が炊ける間にどちらにするか決めるのか、などいろいろ考えたが、最終的には意味内容はスルーして、「さてさて」というお囃子のように読んだ。どうするかを悩ましい事が、映えるように、引きたてるように、投入されたのではないだろうか。あるいは暗号のような気もする。

「南瓜炊けたか」を何食わぬ顔でぽんと置き、効果を引き出す。なかはらはオリジナリティーのある新しい書き方を見せてくれる。〈代案は雪で修正案も雪〉〈東京のキョでいっせいに裏返る〉〈今日のまぶたにいいことをしてあげる〉 「川柳ねじまき」#3(2017年刊)収録。

2017年3月15日水曜日

●水曜日の一句〔武藤紀子〕関悦史


関悦史









密に描けば抽象となる蝸牛  武藤紀子


ある物を見つめつづけているだけでも、次第にゲシュタルト崩壊が起こり、何を見ているのやら判然としなくなるということはある。「密に描く」とはその過程を眼だけではなく、手の運動の軌跡へと変換しつづけていくことで、変換の過程自体を物件化していく作業にほかならない。

密に描かれた対象物は、じかに接するのと違い、全域に均等な圧力を持ったイメージとして見る者の前に立ちはだかる。いわば見る者は、ここでは描く手の動きの痕跡をひとつのこらずたどりかえすことを強いられ、ひとつひとつの線やタッチを対象物の形態と照らしあわせて読むことを強いられるのだ。

そのような分解と再統合への圧力をふくんだ画面は、対象物にもともと潜在していた「抽象」性を展開して見せただけとも考えられるが、しかしいくら細密に描かれたところで、それがそのまま抽象と化すということは、大概の動植物では無理である。まず形態的なまとまりとして認知されてしまうはずだ。

その点、もともとが幾何学的な形態と複雑微妙な色調変化の細部を持つ巻貝ならばたしかに抽象となりおおせることは簡単ではある。しかし螺旋形の貝殻がそのまま「抽象」となったところで、そこにはさしたる飛躍は生じない。貝殻だけではなく、不定形にちかい蝸牛の軟体が必要とされるのだ。

貝殻から軟体が出てきて歩きだすように、蝸牛はつねになまなましい具体から、いつの間にか抽象へと変じることができる潜勢力を持っている。この句はそのようなものとして蝸牛を異化し、捉えている。そしてそのことは蝸牛を、その形態への考察を梃子にリアルに感じさせるというだけにはとどまらない。具体即抽象という大きな変容の、蝶番の位置を蝸牛が占めることになるのだ。この世のすべての具体物が抽象に化しおおせる特異点として、蝸牛が緻密にうごめきつづけることになるのである。

博物学的図像に見入る行為にひそむ羽化登仙にも似た愉楽、それ自体を抽出した一句といえようか。


句集『冬干潟』(2017.2 角川書店)所収。

2017年3月14日火曜日

〔ためしがき〕 曼珠沙華 福田若之

〔ためしがき〕
曼珠沙華

福田若之


牧野富太郎『植物知識』(1949年に逓信省から刊行された『四季の花と果実』(「教養の書」シリーズ)が講談社学術文庫に収められるにあたって改題されたもの)の「ヒガンバナ」の章には次の記述がある。
本種はわが邦いたるところに群生していて、真赤な花がたくさんに咲くのでことのほか著しく、だれでもよく知っている。毒草であるからだれもこれを愛植している人はなく、いつまでも野の花であるばかりでなく、あのような美花を開くにもかかわらず、いつも人に忌み嫌われる傾向を持っている。
そうだったのだろうか。今日では、たとえば埼玉の高麗の巾着田などが、彼岸花といいまた曼珠沙華というこの花の、名所として知られている。ひとびとが曼珠沙華を愛でるためにわざわざひとつのところへ出向くなどといったことは、もしかすると、歴史的にみて最近の出来事なのかもしれない。

こうしたことが僕にとって気になるのは、僕が俳句をつづけるそもそものきっかけになった一句が曼珠沙華の句だからだ。その句のことは、いまでもはっきり覚えている。

曼珠沙華車内広告に咲き誇る

中学二年のとき、僕らの学年の国語を教えてくれていた先生が亡くなった。その葬儀の帰りに乗った西武線の中吊り広告に、満開になった一輪の曼珠沙華の大写しにされた写真が使われていた。ちょうど授業の課題で句を用意するように言われていたということはもちろんあったけれど、亡くなった先生に贈る気持ちで書いたのだった。

もちろん、弔意は直接句に書き込まれているわけではない。ただ、そのときの僕には、一句を書くということが、それ自体、僕に言葉の面白さを教えてくれた先生に対する弔いだったというのは、一句がどう読まれるかとは全く別のこととして、間違いのないことだ。そして、この句に書いた「車内広告」というのが、まさしく、先に言及した巾着田の曼珠沙華の花期が到来しつつあるのを知らせる広告だったのである。

だから、僕にとって、句を書くことは、そのはじまりの因果において、曼珠沙華がひとびとによって花として深く愛でられていたことに支えられているのだ。あの広告がなければ僕はそのときあの句を書きえなかったというだけではない。たとえば、僕があの曼珠沙華を「咲き誇る」という言葉で叙述しえたのも、おそらくはすでに曼珠沙華が花として愛でられてきた、その過去に支えられてのことだったはずだ(たとえその過去というのが、さほど分厚いものではなかったのだとしても)。

けれど、「車内広告に」というこの無粋な中八は、なによりその無粋さによって、曼珠沙華が花として愛でられるという出来事を、「それは‐かつて‐あった」という仕方での過去に、つまりは、写真的な過去に置き去る言葉として働いているように思う。 

句を書くというのは、弔いに弔いを重ねることなのではないかと、ときに思うことがある。過去をそのつど繰り返し弔うこと、それは、ちょうど写真の写真を撮るのに似て、かつての弔いの言葉をいまふたたび言葉によって弔うことを意味する。このとき、僕たちが手で触れることのできるこの表面において、奥行きがそのまま過去の痕跡となる。それは、天文学的な規模において、より過去からの光がすなわちより遠くからの光であることとも似ている。ところで、単に相対的なものであるにとどまる通常の旅に対して、絶対的な旅というものがもしあるとすれば、それはあの光の旅にほかならないはずだ。弔いに弔いを重ねるとき、ひとは、つねにすでに、言葉の表面に生じた奥行きのこちら側にいる。 奥行きから来る光の先端にいる。ひとは、そんなふうにして、光とともに旅することができるのだ。弔いに弔いを重ねることは、絶対的な旅であるだろう。

2017/2/22

2017年3月13日月曜日

●月曜日の一句〔高野ムツオ〕相子智恵



相子智恵






原子炉へ陰剥出しに野襤褸菊  高野ムツオ

句集『片翅』(2016.10 邑書林)より

野襤褸菊は、道端などにみられる繁殖力の強い帰化植物。明治初期にヨーロッパから入ってきたという。いわゆる雑草だ。ギザギザとした葉を持ち、小さな黄色い花をたくさん咲かせ、野性の逞しさを見た目からも感じさせる。

原子炉周辺の誰も入れない土地に種を落とし、咲いたのだろうか。〈陰剥出しに〉は解釈にやや難しいところがあるが、野襤褸菊の全体にギザギザとした、小さいけれども荒々しい陰が、原子炉の方にあられもなく伸びている風景を想像した。この原子炉は、大震災の事故の原子炉であろう。大きく人工的な原子炉に対して、小さな野襤褸菊。野襤褸菊の方がはるかに小さいとはいえ、その逞しさは可憐さとは無縁である。

誰も本当のところは見えていない壊れた原子炉。人工的で制御されていたはずの原子炉の内部が、統制されていない野生化した帰化植物に近いもののように思われてくる。人の近寄れない場所で、統制されていない野生同士が、静かに剥出しにその陰を曝し合っている。

2017年3月10日金曜日

●金曜日の川柳〔時実新子〕樋口由紀子



樋口由紀子






何だ何だと大きな月が昇りくる

時実新子 (ときざね・しんこ) 1929~2007

2007年3月10日に時実新子は亡くなった。今日でちょうど10年になる。「何だ何だ」の話し言葉にまず惹きつけられる。しかもそうやって出てきたのは「月」。予想もつかない登場の仕方だ。世事に興味をもって、どんな顔で月が出てきたのかと想像するだけでも楽しくなる。おおらかでスケールが大きく、リズム感もある。「月」の把握がなんとも斬新である。

新子の「月」は多くの人が思っている「月」とはかなり違う。文芸の世界で月は厳かで幽玄な存在。こんなふうにぐっとユーモラスにとらえた句はそうなかった。優美とはほど遠く、好奇心旺盛、月のくせに人間味があり、なにやらおかしい。また、月に対して「ほっといて、こっちのことはこっち」と開き直っているようにも読める。ここに川柳の持っている自由さがあるように思う。『月の子』(たいまつ社 1978年刊)所収。

2017年3月8日水曜日

●水曜日の一句〔石原日月〕関悦史


関悦史









流灯の介護ベッドに流れ着く  石原日月


介護ベッドはいうまでもなくまだ存命中の者を世話するために使う。そこに死者の魂を弔うための流灯が流れ着くというのが衝撃的である。

介護している側から見ての句と思われるが、介護の果てには当然死別がある。それは誰にでもわかっているはずなのだが、時間的順序も空間的制約もとびこえて闖入する流灯は、頭では理解しているつもりでも、腹から得心がいっているわけではない現実を、いきなりつきつけてくるのである。

句集は母の看取りの句を中心に構成されており、病母に心情的に寄りそい、気づかう句が多いなかでこの句は異色。リアリズムを超えて暗い非在の川がベッドのわきにあらわれ、流灯が寄りつくさまは意外に視覚的に鮮明だが、しかしこの介護ベッドにはすでに人の気配が感じられない。介護ベッドに寝ている者は、じきいなくなってしまう。それを悲しむというよりも、単なる法理のようなかたちでこの句はあらわしており、景の情緒性がそのまま痛快なまでの非情さにもつながっている。一種の救いが、予知夢のようなかたちで現在につきささってきた句といえる。

なお作者、石原日月の前著までの筆名は石原明。


句集『翔ぶ母』(2017.3 ふらんす堂)所収。

2017年3月7日火曜日

〔ためしがき〕 紙と鉛筆 福田若之

〔ためしがき〕
紙と鉛筆

福田若之

ベルクソン『物質と記憶』は、記憶と世界とのかかわりを、次に示す逆円錐SABと平面Pの表象を使って説明している。

もし円錐SABによって私の記憶のうちに蓄えられた思い出の総体を表象するならば、底面ABは、過去のうちに据えられていて、動かないままである。そのことは、あらゆる瞬間に私の現在をあらわす頂点Sがたえず進んでいること、そしてさらに世界についての私が有する現勢的な表象の可動平面Pにたえず接していることと対照をなしている。Sには身体のイマージュが結集する、そして、平面Pの一部をなしながら、このイマージュは平面を構成するすべてのイマージュからの働きかけをただひたすら受け取りまた送り返す。
平面Pと円錐SABの図像は、まるで紙と鉛筆のようだ。もちろん、Pはもちろんplan(平面)のPであって、papier(紙)のPではない。それに、両者の運動はずいぶん異なっている(上方に書かれた底面ABが過去のうちに据えられていて、動かないのだとすれば、現在にあたる平面Pと頂点Sは、動かない底面ABを図の上方に置き去りにしながら進んでいく先は、図の下方であるはずだ。平面Pを円錐SABが横滑りしていくわけではない)。

しかし、この円錐SABと平面Pの図像を介して、記憶と現在のかかわりを紙と鉛筆のかかわりに重ね合わせることは、僕にとっては、いくらか魅力的に思われる(これは、もちろん、ベルクソンによる既存のイマージュを、僕の想像力によって、恣意的にひずませることにほかならないのだけれど)。現在の僕の身体のイマージュは、ものを書くとき、その文字をなしつつある鉛筆の先に結集しているのではないか。関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』には、「《悪夢で目覚める。友達が死刑を宣告されて、その死刑の方法が(……)》/谷雄介のツイート」という前書きを付された《生きながら鉛筆にされ秋気澄む》という句があるが、ある意味では、何者かによって死刑を執行されるまでもなく、僕は生きながら鉛筆なのではないか。そして、なんらかの紙に書くということは、すなわち、その紙を含んだ世界への刻印なのではないか。僕が鉛筆によって書き込むのは、僕や鉛筆とは切り離されて存在する紙の上にというよりは、むしろ、僕や鉛筆を含みこんだ世界そのものにではないか。

次に示す句は、世界を構成するイマージュからの働きかけを受け取り、送り返すことが想起にかかわるありさまに、かつまた、そのことが書くことにかかわるありさまに触れている。

えぞ菊に平仮名を憶ひ出さうとする  三橋鷹女

「えぞ菊に」であって、「えぞ菊や」ではない。えぞ菊のイマージュは、平仮名を憶い出そうとするそのひと(『向日葵』においてこの句を含む五句に付された前書きからすれば、それは「流浪の女K子」であろう)の身体に働きかけている。そして、そこで憶い出されようとしているものが文字である以上、そののちにこの世界に送り返されようとしているのは、この世界への働きかけとしての書くことであるだろう。

(いや、この書き方ではだめだ。これでは、あたかも、僕がベルクソンの図に見出した紙と鉛筆のまぼろしがたまたま鷹女のこの句にもかかわっているということにすぎないかのようだ。しかし、むしろ、そもそも僕がベルクソンの図に紙と鉛筆のまぼろしを見たことそれ自体が、鷹女のこの句にかかわっていたはずだ。鷹女のこの句なしには、僕がベルクソンの図に紙と鉛筆のまぼろしを見ることはついになかっただろうと思う。そうであるなら、僕はそれを言葉の展開において示さなければならなかったはずだ)。

2017/2/10

2017年3月6日月曜日

●月曜日の一句〔石原日月〕相子智恵



相子智恵






紅梅や死化粧薄き棺を閉づ  石原日月

句集『翔ぶ母』(2017.03 ふらんす堂)より

〈死化粧薄き〉によって、納棺された人は女性だということが想像される。その化粧の薄さの中に、哀しみが静かに表現されている。

納棺の句では〈ある程の菊投げ入れよ棺の中 夏目漱石〉という句が有名だが、漱石の号泣が聞こえてきそうな句に比べて、掲句の〈棺を閉づ〉の哀しみは何と静かなことだろう。

棺を閉じることで読者の頭の中に生じる一瞬の暗転の後に、再び浮かんでくる紅梅の美しさにハッとする。紅梅に死化粧の口紅が残像となって重なる。

白梅ではなく紅梅であるところに華があり、故人の美しさが思われた。紅梅の色や香りに、伝えきれない感謝の思いが灯り、広がっていくようでもある。

2017年3月5日日曜日

●『週刊俳句』創刊10周年記念懇親会のお知らせ

『週刊俳句』
創刊10周年記念 懇親会のお知らせ


『週刊俳句』は来る4月をもちまして10周年を迎えます。これもひとえに皆様のご支援の賜物と深く感謝申し上げます。つきましては、下記により宴席を設けました。ご多用中とは存じますが、万障お繰り合わせの上ご参席賜わりますようご案内申し上げます。

  記
日時:2017年416日()午後5:00開場 5:30開演-8:30
場所:小石川後楽園・涵徳亭
アクセス/地図はこちら  東京都文京区後楽1丁目6-6 
参加費:4000円 (学生2000円)
ご参加いただける方は、4月9日(日)までにメールにてお知らせください。
≫連絡先 http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/04/blog-post_6811.html

※早めに到着して小石川後楽園を散策(入園料:一般300円、65歳以上150円。9時~16時30分、閉園17時)もオススメプランです。

2017年3月3日金曜日

●金曜日の川柳〔速川美竹〕樋口由紀子



樋口由紀子






基礎知識大根おろしにして食べる

速川美竹(はやかわ・みたけ)1928~

大根がおいしい。最初から余談だが、コンビニのおでんで一番よく売れるのは大根らしい。が、その割に家庭で大根を煮るとそんなに喜ばれないのはなぜなのかといつも思う。

大根おろしは輪切りや短冊切りの料理とは違い、元のかたちがまったくなくなる。「基礎知識」をそこまでして食べるということは、おおざっぱではなく、あとかたもなくなるほどに十分に理解するということだろう。確かに大根おろしは食べやすく、消化によい。人はこのように生真面目に生きてきた。人間の持っている生真面目さを言い当てているのか、あるいは思い起こさせているのか。

「基礎知識」は昨年亡くなられた尾藤三柳氏の著書だという説もある。速川美竹は英文学者で『開けごま』(1990年刊 柳都川柳社)という英訳川柳書がある。

2017年3月1日水曜日

●水曜日の一句〔瀬山由里子〕関悦史


関悦史









兄に似た狐横切る花野風  瀬山由里子


この句のポイントは「花野風」の「風」にある。あえて改悪して《兄に似た狐横切る花野かな》としてみたときの句の沈滞ぶりと見比べればそれは明らかだ。

つまり「兄」と「狐」が似ているだけではなく、その二者は類似を介して「風」にまで通じているのである。季語としては「狐」(冬)と「花野」(秋)の季重なりということになるのだろうが、枯れていないのだから花野が主で秋か。その花野を風が吹き渡る。尋常の風ではなく、途端に妖異の世界が現れる。兄が狐とも、花野を吹き渡る風ともつかない存在となれば、そのような兄を持つ語り手自身も世の常の人ではない。

とはいうものの、この句の語り手自身は、妖異性や虚空性を身に帯びるとはいえ、「兄」とともにただちにあやかしに変じて走り去るわけではない。「兄」は「行く」のでも「来る」のでもなく、ただ遠心的に眼前を横切っていくだけだ。語り手と兄との間には、一抹通じあうものがありつつも大きな懸隔がある。「兄」に似た「狐」(「狐」の相貌を帯びた「兄」、あるいは「兄」であったかもしれない「狐」……)は、なかば既に花野の「風」にまで変じ、語り手のことを意識し得ているかどうかすら定かでない。

語り手にとっても「兄」は既に「風」のようなものだ。この世で深い縁あった者同士の最果ての相はこのようなものであるのかもしれず、一句の情感もそこにかかっている。ものさびしさが常の世を超えることで或る得心に至ってもいるのだが、その図(フィギュア)全てが儚さに解消され、同時に非人称的な華やぎの地(グラウンド)として揺らぐ「花野」が現れる。「花野」は生の感触を引き出す場として句のなかにあるのである。

なお、この句は句集ではなく、著者没後にまとめられたエッセイ集に収められた俳句「猫町」八句のうちから引いた。


『織と布そして猫とヴェネツィア』(2017.3 鬣の会)所収。

2017年2月28日火曜日

〔ためしがき〕 「法位に住す」 福田若之

〔ためしがき〕
「法位に住す」

福田若之


次に示すのは、道元『正法眼蔵』の「現成公案」のうちの一節である。
 たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とはならず。
 しかあるを生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。
 生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
僕は仏法については決して詳しくはないけれど、僕自身の読みを示すためにも、試みに現代語訳してみる。
 薪が灰となることは、決してもとにかえって薪となりうるはずはない。そうであるのを、灰はのち、薪はさきと見なしてはならない。知りなさい、薪は薪の法位に住まっていて、(薪のかぎりにおける)さきがありのちがあるということを。前後があるとはいっても、前後はその際で断たれている。灰は灰の法位にあって、(灰のかぎりにおける)のちがありさきがある。くだんの薪が、灰となったのちに、もう一度薪にならないのとおなじように、人が死んだのちには、決して生とはならない。
 そうであるのを「生の死になる」といわないのは、仏法のさだまったならわしなのだ、これゆえに「不生」という。死が生にならないのは、仏の教えの、さだまった、仏による伝えよう(法輪の、さだまった、仏による回しよう)なのである、これゆえに「不滅」という。
 生も一時のくらいなのだ、死も一時のくらいなのだ。たとえば冬と春とのように。冬が春となるとは思わず、春が夏となるとは言わないものである。
この一節は、俳句を書くものにとって、ただちに、俳句についてのいくつかの問いを喚起するように思われる。

第一に、「前後際断」ということと、俳句の「切れ」についての既存の教えとのかかわりについての問い。一句はその前後で切れているとするあの教えは、ここに説かれている「前後裁断」ということにつながることは明白であるように思われるのだが、だとすれば、はたしてそのつながりはいかなるものでありうるのか。

第二に、季節についての問い。たとえば、寺山修司が《かくれんぼ三つかぞえて冬となる》と書くとき、そこで言われているのは、いったい何が冬となることなのか。あるいは、英語などにおけるいわゆる形式主語を含んだ文を日本語訳する場合とおなじく、「何が」という問いかけ自体がそもそも不当なものであるのか。

これら二つの問いは、それぞれ、切れと有季という俳句にまつわる一般的なことがらに触れているという点で、重要なものに思える。だが、この一節がとりわけ僕の興味を惹くのは、人によっては俳句とさほど深いかかわりを持つものと思わないかもしれない、「住す」という語の特別な用法ゆえにである。

「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」。薪は、薪の法位に、住まっている、というのだ。「法位」というのは、すなわち、あるがままであること、真理、本質などを意味する言葉だという。だが、「法位に住して」という言い回し――『妙法蓮華経』の「方便品」にみられる「是法住法位」すなわち「是の法、法位に住す」と訓じられる一節に由来するとみられる、この言い回し――は、「法位」が「くらい」であると同時に「位置」であることに関わっていると考えられる。この「法位」という語は単純に「真理」や「本質」といった語に翻訳することはできないのだ。

もちろん、法位に住むとか住まないとかいうことは、まずもって、言い回しの問題である。だが、この一節においては、道元にとって、教えというものがすなわち法輪の回転に等しいということもまた示されているのではなかったか。そうでなくとも、教えるということは、言い回すということのひとつのありようにほかならないだろう。だから、道元のこの教えにおいて、言い回しというのは、それ自体、本質的な(あるいは、こう言い回してよければ、「法位的な」)なにかであるように思われてならないのだ。

僕がこの一節に思いをめぐらせてやまないのは、ついに概念的であるにもかかわらず、同時に、現に何かしらの場であるかのようにして想起される「法位」のありようが、言葉に住むことないし棲むことをめぐる問いと深くかかわりながら、なんらかの触媒作用によって、そうしたことがらについての僕自身の考えを変質させてくれそうだという期待、その可能性ゆえになのである。

この「薪は薪の法位に住して、さきありのちあり」という一文において言われているのは、「前後際断」ということでもあった。この「前後際断」ということは、いかなるかたちであれ、一句はその前後と切れているというふうな言い回しでしばしば教えられる、あの俳句の「切れ」に通じるものであるだろうということは、前述したとおりである。ならば、一句を書くことそれ自体によって生じる裂け目としての「切れ」の現象は、言葉のうちに住まうことと表裏一体のことがらなのではないか。そして、言葉はつねに言い回されつづけることによってしか言葉でありえず、すなわち、言葉はつねに回転し流転しつづけることによってのみ言葉でありつづけるのだとすれば、一句を書くということは、それにともなう「切れ」の現象によってこそ、旅を栖とするということたりうるのであり、それは、たとえば僕自身を含む種々の生き物が自転し公転する地球に住んでいるのと似たようにして、言葉に棲むということなのではないか(もしかすると、「宇宙船地球号」といういまや陳腐と化したあの隠喩も、舟の上に生涯を浮かべるということとのむすびつきようによっては、なんらかのかたちで息を吹き返しうるのかもしれない)。こうしたことは、もちろん、ただ一句を書くことを超えて、「切れ」をひとつの契機とした「転じ」の連続にほかならない俳諧の連歌、連句のありようにまで通じることに違いない。

ところで、これまで述べてきたような「切れ」は、区切り、仕切ることによる閾の発生にほかならない以上、書くことをただのなわばりづくりに還元する罠ともなりうるものだ。 たしかに、なわばりもまた棲むことを可能にする。しかしながら、そのとき、「切れ」とは領地の画定にほかならず、書くことは国境線を引くことにほかならないだろう。そのとき、僕らは定住することに甘んじて旅を失うに違いない。たしかに、俳句というものがもし植物的なものであるとすれば、それらの句はきっとそれらに固有の自生地を持つだろう。だが、そこであらたに立ち上がる問いは、この自生地にいかに繁殖しつづけるかではなく、この自生地からいかに出発するかなのだ。だからこそ、「切れ」を旅の可能性に転じるために、絶えざる回転運動が必要となる。

風に吹かれた草の種が、その綿毛をひろげ、散り散りになって宙に回りはじめる。まもなく、かまきりがそれを追い、あたらしい土地に向かうだろう。

次の一句を書くこと。

2017/2/7

2017年2月27日月曜日

●月曜日の一句〔田島健一〕相子智恵



相子智恵






晴れやみごとな狐にふれてきし祝日  田島健一

句集『ただならぬぽ』(2017.01 ふらんす堂)より

数年前に、この句の初出の瞬間(大きな句会だった)に立ち会えた時の感動はいまだに覚えていて、それは晴れた祝日のことだった。

晴れている、祝日であるということは詠めても、こんな俳句にはなかなか出会えるものではない。以来、祝日になると思い出す愛唱句となった。

〈西日暮里から稲妻見えている健康〉〈ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ〉〈白鳥定食いつまでも聲かがやくよ〉など、句中の「健康」や「ぽ」や「定食」など、それがあるから難解であり面白くもある言葉の意外性は、説明を拒みつつ強烈な印象を残す。

どこからその言葉は流れ着いたのか…という言葉同士が不思議な一句になるので、作者の実験工房の裏側を見たような気がして、冒頭の日のことが印象に残っているのだ。もちろんその日の現実という裏側を見たからといって、句の謎はさらに深まるばかりで、何にも分からない。なんとも美しく、晴れがましく、いかがわしく、楽しい、謎に満ちた句なのである。

日本の祝日というもの自体のわからなさ(由来と名前の乖離など)もあって、その分からなさが狐につままれたような気分と合う。しかし〈みごとな狐にふれてきし〉は逆に、狐を積極的につまみにいくような、自ら化かされにいくような感じであるのが面白い。快晴の日の光に反射して銀色に輝く狐の毛並みの美しさと、「ハレとケ」のハレの気分。ここに書かれた言葉のすべてが、美形の詐欺師の見事な嘘であるかのように、まばゆく輝いている。

2017年2月25日土曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年2月24日金曜日

●金曜日の川柳〔筒井祥文〕樋口由紀子



樋口由紀子






こんな手をしてると猫が見せに来る

筒井祥文 (つつい・しょうぶん) 1952~

猫がひょいと人の手に猫の手(正確には前足)をのせる動作をすることがある。猫好きにはたまらない仕草であるらしい。その所作を猫がこんな手をしているんですと見せに来ているという。いやいや、そうではない。もちろん作者だって見せに来ているのではないことはわかっている。が、人間側からの勝手な見方をおもしろく川柳に仕立てる。見つけの上手さがあり、あそびごころがある。

最近話題の『猫俳句パラダイス』(倉阪鬼一郎編 幻冬舎新書)にも取り上げられていて、帯にも載っている。「こういった奇想をさらりと表現できるのも現代川柳の持ち味です」と倉阪さんが書いている。『セレクション柳人 筒井祥文集』(2006年刊 邑書林)所収。

2017年2月22日水曜日

●水曜日の一句〔伊丹三樹彦〕関悦史


関悦史









机上春塵 稿債 積読(つんどく) 嵩成すまま  伊丹三樹彦


書き終わっていない原稿、読み終わっていない本が机に積み上がり、そこに塵までが積もる。

片付かないものばかりが山積みとなった鬱陶しい日常以外の何ものでもなく、特に詩趣も諧謔もない光景のはずなのだが、句を読み下してみると、どこかうきうきしているような気分も感じられる。

「稿債」は俳句でときどき見かけるが、辞書には収録されていない言葉らしい。こういう少々なじみのうすい単語が「机上春塵 稿債」と硬い語感の並びをかたちづくると漢詩か何かのような韻律を生み、情報量も圧縮されて増えるので、妙な張りが出てくるのである。そしてそれは作者当人の心の張りもうかがわせる。

果物などと違って静物画の画題にはなりそうにない、また描きようによってはいくらでも殺伐たるものになる素材だが、この机、未完成原稿、読みさしの本は全て、脳の活動を外在化させている物件といえ、自分の内と外の両側にまたがっている。どれも活動中の知能と関わりあいつつ、具体物として「嵩」を成しているのだ。いわゆるアニミズムとは別の経路かもしれないが、その意味でこれらは、作者と連続した生気を帯びていて何の不思議もない物件なのである。

しかし「春塵」はそれらをうっすらと覆い、その物件性を際立たせる。大げさにいえば自分の知的活動からの自己疎外である。時間は過ぎていく。春塵は積もる。古びつつ次第に縁遠くなり、忘れられてもゆくおのれの知的活動の痕跡たち。その静かな時間と物の暴流のなかで、それに反発しつつ、句をなす心は華やぐ。そして「春」の塵は、その片付かぬ途中性の一切をおだやかに肯定する。


句集『当為』(2016.4 沖積舎)所収。

2017年2月21日火曜日

〔ためしがき〕 亀の声、蛇の肺 福田若之

〔ためしがき〕
亀の声、蛇の肺

福田若之


亀には声帯がない。けれど、たとえば、ウェブマガジン「スピカ」に掲載された折勝家鴨「あから始まるあいうえお」の2016年12月27日分のショートエッセイにも記されているように、亀は鳴くことがあるそうだ。

声帯がないのに「鳴く」というのはおかしいという向きもあるかもしれない。しかし、それを言うなら、蟬や鈴虫だって声帯はないけど、日本語ではそれらが音を出すことを「鳴く」と表現してさしつかえない。そうした意味では、亀についても「鳴く」と言ってよいはずだ。

キューと亀鳴いたる事実誰に告げむ》という三橋敏雄の句は、したがって、たしかに「事実」を前にした戸惑いとして成立しうる。

ただし、藤原為家が《川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば亀のなくなる》と詠んでいるのはやはり虚飾があるのだろう(「亀鳴く」を春の季語とみなす場合、一般に、この歌がその典拠とされている)。亀はたしかに鳴くことがあるのだが、決まった鳴き声があるわけではないようなのだ。だから、この歌のように音を聞いただけで鳴いているのが亀かどうかを判断することは、まず不可能だと思われる。

だから、話は非常にややこしい。亀はたしかに鳴く。けれど、「亀鳴く」という言葉がもつ季語としての風情は、むしろ、亀が鳴いたわけではない音を亀が鳴いたのだと聞きならわすことにある。「亀鳴く」が春の季感を持ちうるのは、「亀鳴く」という言葉を春の季語として認識している人間が、なにか些細な物音について、春だからもしかすると亀が鳴いているのかもしれないなどと冗談半分に思いながら「亀鳴く」と書いてみる、そのこころによってであろう。

それにしても、亀の鳴き声について調べていたら、蛇の肺は左右非対称で右だけがすごく長い、ということまでついでに知ってしまった。誰に告げよう。


2017/1/26

2017年2月19日日曜日

◆『週刊俳句』10周年記念オフ会のお知らせ〔第1弾〕

『週刊俳句』10周年記念
オフ会のお知らせ〔第1弾〕

小誌『週刊俳句』はこの4月、10周年を迎えます。そこで、皆様とともに記念祝賀の集まりを楽しみたいと考えました。

日時:2017年416日(日) 12:30~20:30
※昼はイベント、夜は懇親会。詳細は追ってお知らせいたします。
まずは、この日、スケジュールをあけておいていただけますでしょうか。

場所:東京・小石川後楽園 涵徳亭
東京都文京区後楽1-6-6
〔アクセス〕都営地下鉄大江戸線「飯田橋」(E06)C3出口下車 徒歩3分
JR総武線「飯田橋」東口下車 徒歩8分
東京メトロ東西線・有楽町線・南北線「飯田橋」(T06・Y13・N10)A1出口下車 徒歩8分
東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」(M22・N11)中央口下車 徒歩8分

2017年2月17日金曜日

●金曜日の川柳〔草地豊子〕樋口由紀子



樋口由紀子






乳のある方が表でございます

草地豊子 (くさち・とよこ) 1945~

一読して大笑いしてしまった。確かに「乳のある方が」おもてであり、まえである。まちがったことはなにも言っていない。でも、もっと他の言い方があるでしょう、よりにもよって「乳」なんて言葉を平気で使うなんて、ここまでよく言うわと感心した。でも、どんな問いをかけられたのだろうか。

「こんな恥ずかしい句はよう書かんわ」と作者に告げると、「恥ずかしがっているうちはいい川柳は書けへんわ」と笑って言われてしまった。私はまだまだ修行が足りず、どこかで恥ずかしがっていて、ええかっこして川柳を書いていると痛感させられる。インパクト抜群の川柳で、何度読んでも降参するしかない。〈文化の日「乳」という題ひねっている〉〈用もない乳が未だにぶら下がる〉 「杜人」(2016年冬号)収録。

2017年2月16日木曜日

●地下鉄

地下鉄




地下鉄にかすかな峠ありて夏至  正木ゆう子

地下鉄を出るより三社祭かな  倉田春名

秋の蚊の声や地下鉄馬喰町  大串 章

地下鉄に下駄の音して志ん生忌  矢野誠一

地下鉄によく乗る日なり一の酉  松本てふこ〔*〕

地下鉄に息つぎありぬ冬銀河  小嶋洋子


〔*〕『俳コレ』(2012年1月/邑書林)より。

2017年2月15日水曜日

●水曜日の一句〔田島健一〕関悦史


関悦史









夕立を来る蓬髪の使者は息子  田島健一


幻想的な作風で知られる小説家の森内俊雄に『使者』という中篇があって、そちらも息子が他界性を帯びたキャラクターとなっていた。本が手元にないのでうろおぼえで書くが、しかも出だしは、帰ってくる息子を主人公が風呂場で待つシーンだったはずである。つまり使者=息子の帰還と、それを待ち受ける視点人物との間に、どちらも水が介在している。

ここに何か普遍的な想像力のパターンのようなものが介在しているのかは判然としないが、七つまでは神のうちという子供観は昔からある。新しい命がどこからやってくるのかはわからないし、乳幼児死亡率の高かった時代であれば、なおのこと幼子はこの世に定着している存在とは見えなかっただろう。「水にする」といえば堕胎を指すということもある。子=水=他界的な使者という観念連合自体は無理のないものだ。

無理がないということはそれだけでは句になりにくいということでもあって、この句の場合、そこにずらしをかけているのは「夕立」「来る」「蓬髪」の三語となる。

「夕立」は静かに湛えられた水ではなく、空間と視界を激しくかき乱す水である。ここでは視界全体が他界と地続きになっている。「蓬髪」も尋常の形容ではない。「夕立」と合わさると単に「神のうち」というよりは、鬼神に近いワイルドな(しかもおそらく性的魅力すらある)何かと見えてくる。その中での「来る」は、受胎告知か何かのような重みを持つ。そして、それを受けられる視点人物も、息子と同じ他界性をいささかは分有する資格のある者ということに、突然なるのだ。

分解していくとこのようなことになるが、語順から見れば「夕立を来る蓬髪の使者」というひとまとまりの異様な認知がまずあり、それが「息子」であったという急展開が視点人物をもいきなりこの世から浮き上がらせてしまうわけで、重みのある言葉の組み合わせが、かえって重力を剥奪してしまう辺りがこの句特有のダイナミックな愉悦を成している。

「は」はメタレベルからの定義付けとなるので、理屈っぽくなりがちな助詞なのだが、それも逆手に取られた格好で不思議な衝撃の演出に役立てられている。


句集『ただならぬぽ』(2017.1 ふらんす堂)所収。

2017年2月14日火曜日

〔ためしがき〕 「俳句入門書」について 福田若之

〔ためしがき〕
「俳句入門書」について

福田若之


「俳句入門書」を、額面通りに読むなら、たぶんそれはさほど面白くもないし、さほど役にも立たない(少なくとも僕にとっては)。

だが、俳句の作り手の思想なり思考なりのあらわれとして読めば、あれらの書物にも、面白み(すくなくとも、面白みの契機)はある。たとえば、虚子の『俳句の作りよう』は、写生による俳句を、あたかも感覚器官・感覚神経と中枢神経のみからなるシステムにおいて生成可能なものであるかのように語っている。これを、たとえばアレクサンドル・ベリャーエフのSF小説である『ドウエル教授の首』などを念頭に置きながら読むということは、僕にとっては、ただ虚子の俳句だけを読むこととは全く異質の、面白い読書体験だった。

原石鼎の『俳句の考え方』も、秋元不死男の『俳句入門』も、彼らの思想や思考の過程、そして何より彼らの個人的な思い出などが書き込まれたものとして読めば、相応の豊かさをもっている。

要は読み次第だ。それ次第で、多くのさほど面白くもない「俳句入門書」は、面白い書物に化けうる。そして、その面白みは句集を読む面白みとはまったく別のものでありうる。

ちなみに、額面からして「俳句入門書」ではないように思われるものが「俳句入門書」として紹介されてしまっているという場合もある。たとえば、ひらのこぼ「俳句入門書100冊を読んで」の末尾に付された『俳句開眼100の名言』の目次の100冊には、句集である三橋鷹女『羊歯地獄』 や、エッセイ・書評などを中心に収めており「俳句入門書」的要素のほとんどみられない攝津幸彦の全文集である『俳句幻景』をはじめ、「俳句入門書」として読むほうが珍しいであろう多くの書物が含まれている(この際だから自分の考えをはっきり書いておくと、鷹女の『羊歯地獄』の自序というのは、「俳句入門書」的な短文などではさらさらなく、むしろ鷹女が「俳句入門書」を書くなどということとはついぞ無縁であったことを証しだてるもののはずだ)。

自分が面白いと感じられる本を探すのに必要なのは、「俳句入門書」というレッテルと向き合うことではなく、一冊一冊の書物と向き合うことだ。僕は、リンク先に掲げられた100冊のリストが「俳句入門書」を拒む読者にとっての「読むことなく敬遠すべき100冊」のリストとなってしまわないことを祈る。

2017/2/1

2017年2月13日月曜日

●月曜日の一句〔宗田安正〕相子智恵



相子智恵






啓蟄の何も出て来ぬ日も来るとか  宗田安正

句集『巨人』(2016.11 沖積舎)より

土の中から冬眠していた虫が出てくる啓蟄。その啓蟄に、いつか何も出てこない日も来るとか…という。虫たちが死に絶えた後のことを指しているのだろう。「来るとか」と伝聞の形で書かれていて、主体が物語を語る立ち位置にいるような感じがある。この当事者でない立ち位置が、飄々とした味わいを生んでいて、諧謔とも諦念ともつかない感じが漂う。

この句の数句前には〈蛇穴を出づホモ・サピエンス滅びしかと〉という句もある。蛇が土中から出てきて、人類は滅びたのだろうかと。こちらもやはり語り手の位置は神の視点というか、神話的な趣がある。

滅びたのは地中のものらか、地上の人類か。作者が描く句世界はそのどちらでもあるのだろう。どちらも終末的な句なのに、なぜかほの明るい。

2017年2月12日日曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

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※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年2月11日土曜日

●日暮里/西日暮里

日暮里/西日暮里


日暮里へ師走の道のつゞきけり  久保田万太郎

西日暮里から稲妻見えている健康  田島健一


2017年2月10日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋白兎〕樋口由紀子



樋口由紀子






夢を彫るには異論のない空だ

高橋白兎 (たかはし・はくと)

二月の空が好きだ。きりりとした冬晴れであり、春が近いと思わせる明るさがある。その澄んだ空に絵を描きたいと思ったことはあったかもしれないが、「彫る」という発想はまったくなかった。空を平面的にしか見ておらず、立体的には捉えていなかったからだろう。

「彫る」と言われて、のっぺりとした平面を越えて、どこまでも高く青い空がなにやら立体的に思えてくる。それも「夢を彫る」。それも「異論のない空」。言葉のチョイスにセンスを感じる。それぞれの言葉が互いに呼応しあい、豊かな味わいがある。均質化された言い方ではなく、このように空の美しさを表現した川柳があった。第28回川柳塔きゃらぼく忘年句会報(平成4年刊)収録。

2017年2月9日木曜日

●夢殿

夢殿


夢殿のほとりの別れゆきのした  八木三日女

夢殿にさげて一穂の麦青し  大木あまり

夢殿やくらげの脚をくしけづる  小津夜景〔*〕

ほたるなす夢殿に椅子殿のアナスターズ  加藤郁乎

夢殿のくらさをおもふ穴惑  藺草慶子〔**

夢殿にもたれて冬の一日かな  松瀬青々


〔*小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』(2016年10月/ふらんす堂)
http://yakeiozu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_23.html

〔**『星の木』第17号(2017年2月3日)

2017年2月8日水曜日

●水曜日の一句〔鈴木多江子〕関悦史


関悦史









春眠のところどころに水溜り  鈴木多江子


この「水溜り」は春眠のなかで見る夢のようでもあり、逆に覚醒を指しているようでもある。眠りのなかにいるのか、それとも、ときどき目が覚めて外に出てしまっているのかは、何とも定めがたい。

「水溜り」をそうした喩としてではなく、もっと即物的に捉えることもできる。その場合、「ところどころに水溜り」は、在る。これは外界のことだ。個人の眠りのうちの夢や入眠幻覚ではない。そして、その外界がそっくり「春眠」と名指されることになる。世界は全て「春眠」のうちにあるのだ。「水溜り」の水もただの水ではなく、それ自体、意識を持った何ものかのように見えてくる。

そうした汎生命的な妖しげな生気を帯びつつも、水溜りはあくまで物としての水の重みを手放さず、地を這うように溜まり続ける。ここには「春眠」の漠然たる統合性からは、いささか食み出すものがある。水の側から見ても、水が果たして「春眠」の内にあるのか、外にあるのかは判然とせず、ささやかな違和を成しているのだ。句の語り手と「春眠」と「水溜り」は、互いに包摂しあうのか排除しあうのか、わからないまま奇妙にリアルなものであり続けるのである。

この奇妙なリアルさは「水溜り」の重さが身体感覚に直結していることによるのだろう。それは覚醒の瀬戸際でもある。その破れ目に接していることにより、かえって「春眠」の自足的な完結性と、そこにやすやすと入ってしまう、われわれの生の不思議さが感じられるのである。


句集『鳥船』(2016.9 ふらんす堂)所収。

2017年2月7日火曜日

〔ためしがき〕 障子 福田若之

〔ためしがき〕
障子

福田若之


冬の季語とされる建具の「障子」は一般にあかり障子のことだけれど、それとは別に、アルミサッシにはめこまれた硝子の部分も、「障子」というのだそうだ。

ほかに、お城の堀の底に土を盛った障害物を作ることがあって、それも「障子」という。こちらは、「堀障子」とも言われる。文字で書くとまるで人の名前のようだ。

「障子」の擬人化というのは寡聞にして知らないけれど、妖怪化は古くからある。目々連や影女あたりが、比較的よく知られているだろうか。いずれも鳥山石燕の創作らしい。

障子たん、受容ないのだろうか。めくるめく障子萌えの世界、なんて、いかにも「くうるじやぱん」な感じがするのだけれど。

2017/1/29

2017年2月6日月曜日

●月曜日の一句〔黒澤あき緒〕相子智恵



相子智恵






うつふんと止まる遅日の昇降機  黒澤あき緒

句集『5コース』(2017.01 邑書林)より

エレベーターが止まる時に、何とも形容しがたい音が鳴ることが確かにある。モーター音なのだろうか。エレベーターが通る四角い空間に、くぐもった音が反響する。「うっふん」と、言われてみればそんな感じだと思い、ニヤリとする。停止時に「うっふん」に合わせて体が上下する感じも思い出す。遅日という季語と「うっふん」という昇降機の取り合わせが長閑で楽しい。

〈脱水機げたげたと春遠からじ〉〈葉桜やテニスラリーのぺこぱこと〉〈ぶつくさと火中の生木一茶の忌〉〈菜の花やはたはた止まりスクーター〉など、同句集には物が出す音が魅力的に描かれた句が結構ある。まるで物たちが喋っているようだ。

脱水機の音は「ガタガタ」であってはいけないし、テニスラリーも「ぽこぽこ」ではいけない。一般的な擬音語ではない音に、そういえばそう聞こえるかも、というリアルさと諧謔が宿っている。

2017年2月3日金曜日

●金曜日の川柳〔清水美江〕樋口由紀子



樋口由紀子






噛んであるから鉛筆は君のもの

清水美江 (しみず・びこう) 1894~1978

歯型のついた鉛筆を子どものころはよく目にした。今はあまり見かけない。私自身も勉強がしたくないとき、問題が解けないとき、なんとなくいらいらしたときなどに鉛筆を噛んでいたようなおぼえがある。

君のものなんていくらでもある。よりにもよって「噛んである鉛筆」なのか思う。しかし、そこに着眼することに、そのひねくれ方というか、なにか違うなと思わせものがある。

清水美江は句会吟よりも雑詠(創作吟)に重きをおき、「雑詠こそが生命だよ」というのが口癖であったらしい。十四字作家としても活躍した。〈落暉くるくる先駆者は黒い天馬で〉〈この妻の肉が欲しいか鳥が啼く〉〈はちの句に果てなき道をただひとり〉。

2017年2月2日木曜日

【俳誌拝読】『奎』第0号(2016年12月12日)

【俳誌拝読】
『奎』第0号(2016年12月12日)


創刊準備号の位置付け。代表・小池康生、編集長・仮屋賢一、副編集長・野住朋可。本文28頁。



同人諸氏各一句。

取り返しつかぬところへ来し毛玉  小池康生

一切を零さず菊の立ちてをり  仮屋賢一

数え日の吹けば倒るる炎なり  野住朋可

水を飲む目白に目白埋まりをり  安岡麻佑

冬の蠅七人掛けに五人座す  高岡秀旭

曼荼羅の真中を食みし雲母蟲  玉貴らら

ばらばらに重なつてゆく牡蠣の殻  野名紅里

枝豆の飛び出してきて未だ夜  牧 萌子


ほか同人による吟行記、短歌探訪など。


(西原天気・記)

2017年2月1日水曜日

●水曜日の一句〔黒澤あき緒〕関悦史


関悦史









ガムシロップめらめら沈む晩夏かな  黒澤あき緒


日野草城の有名句に《ところてん煙のごとく沈みをり》がある。水気のなかへ沈む飲食物を火気の喩えであらわしている点は共通するが、「沈みをり」の静に対して「めらめら沈む」の動、「煙のごとく」の直喩に対して、「めらめら(と燃え上がるように)沈む」の暗喩と、随所に違いがある。何より「ところてん」と「ガムシロップ」では、固体か液体かが異なる。そして句全体の狙いとしても「ところてん」が一物の写生に徹しているのに対し、「ガムシロップ」は「晩夏かな」に開けていく。

元より類句には当たらないのだが、草城の句との違いを拾うと、この句の特質が自然に浮き上がってくる。

アイスコーヒーかアイスティーに流し入れられたガムシロップが沈降していくさまは目を引くものだし、その重量感や抵抗感は、グラスのなかの冷たい天地に情念そのものの如く不規則な動きを繰り広げる。球体をひっくり返すとなかに雪が降るスノードームに似た、玩具的な誘目性と完結感があるのだ。「めらめら沈む」という上下が逆転したような表現は、そうした質感をよくとらえている。

下五「晩夏かな」は、どっしりとその一切を受けとめる。「めらめら沈む」がこの一夏を送りつつある憤怒にも似た何らかの感慨を担っているようにも見えるが、一句はそうした重苦しい情念性には何ら収束することなく、ただ「晩夏」を体現する「ガムシロップ」の透明な流動を起ちあがらせるのみ。

この句の涼しさは、必ずしも材料からだけ来ているわけではなく、「晩夏」を担いつつもすぐ飲み干されてしまうはずのたかだか「ガムシロップ」が、人間と無関係な物質の相を不意に見せたことから来ているのだ。


句集『5コース』(2017.1 邑書林)所収。

2017年1月31日火曜日

〔ためしがき〕 「どう抒情するのか」という問いにどう答えるか 福田若之

〔ためしがき〕
「どう抒情するのか」という問いにどう答えるか

福田若之


問い得るのは「どう抒情するのか」でしかないとしても、この問いに対して一般解を用意するならば、結局は、「そもそも抒情って何だ?」という問いに答えてしまうのと同じことになってしまうだろう。

「どう抒情するのか」に対する答えは、つねにそのつど、抒情の実践によって示すほかないように思う。「どう抒情するのか」に対する答えとなりうるのは、つねにそのつど、次の一句でしかない。

(もちろん、俳句は必ずしも「どう抒情するのか」という問いに答えなければならないものではないのだろう。その意味では、俳句は必ずしも抒情詩ではないのだろう。だが――)。

2017/1/26

2017年1月30日月曜日

●月曜日の一句〔中原道夫〕相子智恵



相子智恵






白魚の目のやり場なく集まれる  中原道夫

句集『一夜劇』(2016.10 ふらんす堂)より

小さな白魚がびっしりと集まっているということは、あの黒い点々の目玉もびっしりと集まっているということだ。哀れでもあり、じっと見ていると、そら怖ろしくなってくる大量の白魚。なるほど〈目のやり場なく〉である。

目のやり場がないのは作者であるが、最初から読んでいくと「白魚の目の」がまず飛び込んでくるので、どうしても魚の目が無意識のうちに浮かび上がる。それが哀れさや不気味さを増幅させて、〈目のやり場なく〉がさらに実感できるように思われた。

  白魚のさかなたること略しけり 中原道夫『蕩児』

は、作者の初期の代表句の一つ。見たままを描くいわゆる写生ではなく、言葉で描かれた白魚だ。そこから数十年を経て、白魚のびっしりと集まった様子を、これまた直接描写することなく〈目のやり場なく〉と見る者の主観を通じて描く。どちらも実物の白魚に直接触れないような、周りに薄いヴェールをかけたような言葉先行の描き方なのだが、それがいちばん白魚の本質を突いて、「見えて」くるように思われるのである。

2017年1月29日日曜日

●金閣

金閣


京寒し金閣薪にくべてなほ  中村安伸〔*〕

仏壇に似し金閣よ水を打つ  岩田由美

秋風か金閣の金掠め盗る  中原道夫


〔*〕中村安伸句集『虎の夜食』(2016年12月/邑書林

2017年1月27日金曜日

●金曜日の川柳〔徳田ひろ子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ヨーコさんはうちに帰ってしまわれた

徳田ひろ子 (とくだ・ひろこ) 1956~

私のまわりにもヨーコさんがたくさんいる。洋子さん陽子さん葉子さん、わりとポピュラーな名前である。「ヨーコさん」と表記。「ようこさん」と呼ばれているのを聞いているだけで漢字でどう書くかを知らないのだろう。でも「ようこさん」ではない。「ヨーコさん」や「帰ってしまわれた」の言い回しに作者の思いや距離をおしはかることができる。

なぜ帰ったかの理由も聞けるほどの間柄でもない。しかし、ヨーコさんが居なくなって心にすっぽり穴が開いたような気持ちになった。別に話さなくても彼女と同じ場に居るだけでよかったのだ。なにかあったのだろうかとも思った。さりげなく書かれた一句にいろいろと想像が膨らむ。掌編小説のような味わいもある。掲句は第19回杉野十佐一賞の兼題「消」の入選句。

〈私はこういう者ですと宙返り〉〈コスモスは怖いぞ泣いたふり死んだふり〉〈バケツから手が出て足が出てきた夏〉 『青』(2016年刊)所収。

2017年1月26日木曜日

●百年

百年


百年後のいま真白な電車がくる  小川双々子

祖母の陰百年経てば百日紅  高野ムツオ

風鈴を百年同じ釘に吊る  山崎祐子〔*〕

蟬の穴のぞき百年後の生家  鳥居真理子

柩へと百年ぶんの月あかり  櫂未知子


〔*〕山崎祐子『葉脈図』(2015年)

2017年1月25日水曜日

●水曜日の一句〔駒木根淳子〕関悦史


関悦史









永久に二時四十六分大霞  駒木根淳子


「二時四十六分」は東日本大震災の発生時刻をさす。

あの日、3月11日が来るたびに思い返すという句ではない。「永久に二時四十六分」とは、その時刻に以後ずっと釘づけにされ、過去になっていないということである。

もちろん生きて生活していれば時間は経つ。2011年3月11日午後2時46分は、時々刻々過去のものとなる。にもかかわらず、震災は記憶の彼方に薄れていくことはない。現在と、過去のその時が、ずっと並行して胸にささりつづけているのである。

この風化しない忌まわしい記憶は、ほぼそのままPTSD(心的外傷後ストレス障害)である。傷は何度でもフラッシュバックを起こし、つねに現在として立ち現れなおすのだ。両親をナチの強制収容所で失い、自身も収容されて終戦後の70年に自殺した、パウル・ツェランの詩における時間意識からもさほど遠くはない。

遠いとすれば「大霞」であろう。大霞がこの傷ましい時間意識を、「永久に」のフレーズと相俟って、空間に変容させてしまう。それは湿潤な日本の風土になかば胡麻化されることを受け入れつつ、傷を曖昧化していく過程である。

しかしこのショックを和らげる、日本の風土そのものを肉体化したかのような「大霞」は、そのまま、永久に別時空としてショックを保存する装置ともなっているようだ。その片付かなさを風土そのもののようにして抱え、眺め、共存していくしかないというのが、この句なのである。ひとごとのように眺めて歎じているわけではない。抱え込み、内部に違和として持ち続けざるを得ない内的体験としての大震災が、象徴性と生々しい身体性の両方にまたがる「大霞」でもって句に定着されているのである。忘却力にばかり富んだ湿潤な地震列島の宿命のような「大霞」である。

なお作者は福島県いわき市の実家を震災で失っている。


句集『夜の森』(2016.11 角川書店)所収。

2017年1月24日火曜日

〔ためしがき〕 新年詠の推敲 福田若之

〔ためしがき〕
新年詠の推敲

福田若之


今年の新年詠は

正月二日の論文に降る明治の雪

と書いた。けれど、論文提出後の今にして思えば、

正月二日の論文に降れ明治の雪

とするほうが、書きたかったことにより近い気がする。巧拙はどうあれ、後の方を採ろうと思う。

「べき」論を拒否して以来、僕は自分の俳句から命令形を遠ざけがちになったし、まれに命令形の表現をとりいれる場合にも、たとえば《隣人を愛せよ私有せよダリア》というふうに、イロニーになりがちだったと思う(この句の命令形は要するに《ボタンを押せば誰でもいい誰かが来るドリアをひとつ》と同種のイロニーではないだろうか)。けれど、もし命令形が「存在への希望」とでも言いうるようなある情動を表現する言葉となりうるなら、僕は、命令形をあらためて肯定的なかたちで自らの句に導入することができるかもしれない。「光あれ」は、光がいまだここに存在しない場合には、命令形ではあっても命令ではない。命じられるものが、いまだここに無いのだから。

2017/1/16

2017年1月23日月曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2017年1月21日土曜日

【人名さん】千昌夫

【人名さん】
千昌夫


千昌夫いない枯野の快晴よ  岡村知昭


参照画像

2017年1月20日金曜日

●金曜日の川柳〔西山金悦〕樋口由紀子



樋口由紀子






手術記念日鰯の味が舌にある

西山金悦 (にしやま・きんえつ) 1930~

手術して一年が経ったのだろう。一年前のこの日、それなりの覚悟をもって手術に臨んだ。おかげさまで手術は成功し、鰯の、その青魚の味がしっかりわかるようになるまで回復した。味がわかるという単純な事実は健康なときはあたりまえだったが、病気をしてはじめて、食物の味がわかることはもったいないくらい尊いことなのだとわかった。感慨の「手術記念日」、具体的な「鰯の味」の言葉が功を奏している。

六十歳に大きな手術を受けたときの作品であるらしい。生きていることのありがたさ、健康でいるよろこびが直に伝わってくる。私のまわりにも体調を崩している人がいる。年齢を重ねるとある程度病も受け入れざるを得なくなる。だから余計に健康のありがたみもわかる。この一年なによりも健康でありますように。『天道虫』(1993年刊)所収。

2017年1月19日木曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】句集の読み方 その7・本文 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その7・本文

西原天気


句集の本文とは、言うまでもなく、句。

並べ方は、大きく2通り。

A:編年体。

句をつくった順に並べる。昔ほど前のページに来るのが一般的(逆は、1冊くらいしか記憶にない)。

B:非・編年体。

作成年月日とは無関係に並べる。


なお、いずれも、季節の順に並べるのが一般的。


A 編年体〕にせずB 非・編年体〕にする理由は、大きく2つ。

C:ある種の意図、読まれたときの効果を狙う。

D:いつ作った句かわからない/忘れた。自句を整理していない。

あんがいDが多いと推測され(例:私)、A 編年体〕を採る俳人は、結社で真面目にやっている人が多いのは、数年間の結社誌を見れば、制作順は一目瞭然だから、か。

A 編年体〕は作者事情(読者にとっては、いつ作ったのかなんて知ったこっちゃない)、〔B 非・編年体〕はいちおう読者事情だが、Dの理由だと、大きなことは言えない。


経験的に、A 編年体〕だろうとB 非・編年体〕だろうと、句集全体の印象にそれほどの差は出ない。

句の順序は重要なようでいて、それで嵩増しされる価値は知れている。おもしろい(広義の「おもしろい」です。蛇足ながら)句が多い句集は、どう並んでいようがおもしろい(逆も同様)。

作者が苦労して並べるわりに、効果は限定的。

なので、これから句集をつくる人は、気楽に並べればいいです。

ただ、最初のあたりは気を使ってもいいかもしれません。数ページで読む気をなくすという並べ方は、つくる人としても残念だと思うので。