2022年12月31日土曜日

◆2023年 新年詠 大募集

2023年 新年詠 大募集


新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールを添えてください。

※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2023年11日(日)0:00~17日(土)0:00

※年の明ける前に投句するのはナシで、お願いします。

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html

2022年12月30日金曜日

●金曜日の川柳〔久保田紺〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



アフロでもポニーテールでもこわい  久保田紺

「こわい」が多義的、つまり、どんな意味で「こわい」かに幅があることをまず前提として、この句で言っているのは、どんな人なのだろう、と、思いを巡らせてみる。

例えば私。ポニーテールだと、きっと絶対に、こわい。だが、アフロは意外に似合ったりすると思う。あるいは、さっきまでNetflixで観ていたドラマのヒロイン。どちらも似合いそう。かつ、こわくない。サッカーワールドカップでMVPの栄誉に輝いたメッシ選手も同様。一方、このあいだYouTubeで観たサックス奏者は、ポニーテールだと、こわい。アヴァンギャルドでフリーダムな旋律と相まって、すいぶんとこわい。けれども、アフロはきっちりとサマになる。こわくない。

こう考えていくと、この句にあてはまる人物像は、わりあい希少かもしれない。だが、半面、ごそっと大量に例が見つかる気もする。

みなさんもどうぞ、いろんな人を思い浮かべて、ポニーテールとアフロを載せてみてください。恋人に、夫に妻に、ご両親に、俳人なら主宰に。などなど。

こわいかこわくないかは別としても、彼らが闊歩する街角は、なかなかにファンキーじゃないですか。老若男女、ポニーテールとアフロしかいない街角。想像するだけで愉快に暮らせそうです。

なお、作者の久保田紺は2016年逝去。

掲句は久保田紺句集『大阪のかたち』(2015年5月/川柳カード)より。

2022年12月26日月曜日

●月曜日の一句〔恩田侑布子〕相子智恵



相子智恵






淡交をあの世この世に年暮るゝ  恩田侑布子

句集『はだかむし』(2022.11 角川書店)所収

各メディアでは今年のニュースを総集編で振り返る時期になってきて、せわしない年末に雪崩れ込みつつある。そんな今年最後の更新に、静かな年の暮の句を。

掲句、あっさりとした交際を、あの世の人とも、この世の人とも交わしている……そんな年の暮であるという。〈淡交〉の語は、荘子の「君子之交淡若水」による。君子の友との交わりは、水のように淡く、しかし友情はいつまでも変わることはない、といった意味だ。

ドロドロした煩わしさのない、一人ひとりの友との淡白なつながりは、細い絹糸のように静かな微光を放っている。読むと心が穏やかになるような句だ。

いいなあと思うのは、〈この世〉よりも先に〈あの世〉が出てくることである。〈あの世〉の人とは、かつてうっすらと交わった故人でもあるだろうし、また、会ったこともない歴史上の人物でもあるのかもしれない。書物の中で出あえば、それも自分にとっては淡交の友のひとりになろう。あるいは淡交の相手は人間ですら、なくてもいい。

そんな淡い交わりの微かな糸がキラキラと、自分の中に満ちてきて、今年も暮れていくのである。

2022年12月25日日曜日

〔人名さん〕永六輔

〔人名さん〕
永六輔


永六輔的セーターのみどり色  津田このみ


句集『木星酒場』(2018年8月/邑書林)より

2022年12月24日土曜日

●Driving Home For Christmas

Driving Home For Christmas

2022年12月23日金曜日

●金曜日の川柳〔木村半文銭〕樋口由紀子



樋口由紀子






運命と一緒に下駄をぬいで行き

木村半文銭 (きむら・はんもんせん) 1889~1953

古い映画や少し以前のテレビドラマでは柳の下とか橋の上とかに下駄が揃えて置いてあって、自ら死を選んだことを意味するワンパターンの映像があった。下駄が揃えて置いてあるのはもうこの世を歩かないから必要ないということであり、自分がこの世を歩いてきたという証でもある。

古川柳以来の川柳の特質に客観性があった。下駄を通して社会への懐疑の視線と命を見据えている作者がいる。自殺者を生み出す社会を批判しつつ、そこには社会不安ととともに作者が抱えている孤独や苦痛や絶望もにじんでいる。今年も自ら命を絶った人が二万人以上もいる。私たちは今どんな社会に生きているのだろうか。来年こそは心穏やかに暮らせる年であってほしい。

2022年12月21日水曜日

西鶴ざんまい #36 浅沼璞


西鶴ざんまい #36
 
浅沼璞
 
 
大晦日其暁に成にけり     前句(裏九句目)
 姫に四つ身の似よふ染衣
   付句
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

【付句】月の座だが、裏五句目に引きあげられているので、ここは雑。
姫(ひめ)=女の子。四つ身(よつみ)=子供着。自註にあるように小児の着物は「一つ身」なので、その四倍の布で裁つ。似よふ=現在も残る「似合ふ」の訛り。染衣(そめぎぬ)=染めた着物。自註によると正月小袖。


【句意】娘にも四つ身の染め色の晴れ着が似合うようになったなぁ。

【付け・転じ】掛払いをすませる「大晦日」を、人々が数え年を重ねる、その直前の晩と取り成した。

【自註】人の親の子に迷はざるはなし。それぞれそれ程の正月小袖、色を好みてことしまでは壱つ身なりしが、はや四つ身仕立(したて)にして、大年(おほどし)の夜きせそめて、春を見る心の嬉しくはやり、我と帯をせし事、年が薬ぞかし。
参考1〈人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな〉(『後撰集』十五・雑一)。参考2〈帯も手づから前に結びて、うしろにまはし〉(『好色一代男』巻一ノ一)。

【意訳】人の親として子に翻弄されない者はいない。それぞれ分相応の正月小袖を好みの色に染め、今年までは一つ身の小児用であったが、早くも四つ身の子供着を仕立て、大晦日の夜に初の試着。娘は新春を控えて興奮状態で、みずから帯をするほど。「年が薬」という諺どおり、年月が成長を促してくれる。

【三工程】
大晦日其暁に成にけり(前句)

みなみな齢重ねゆくなり  〔見込〕
  ↓
育ちゆく子は親の楽しみ  〔趣向〕
  ↓
姫に四つ身の似よふ染衣  〔句作〕

前句を、みんなが数え年を重ねる直前の大晦日とみて〔見込〕、〈どのような楽しみがあるのか〉と問いかけながら、愛娘の成長と思い定め〔趣向〕、「四つ身の晴れ着が似合うほど育った」という題材・表現を選んだ〔句作〕。

【先行研究】「定本西鶴全集」「新編日本古典文学全集」いずれも雑の句としている。
 

前句が「大晦日」で冬なら、ここも冬になるんじゃないですか。
 
「そない言うたかて季語がないやろ」
 
また確信犯というわけですか。
 
「冬は一句で捨ててもええし、花の座までちと間もあるし……」
 
なるほど、句意よりもエクリチュールで季をコントロールしてるんですね。
 
「ヱンドロール? まだまだ揚句は先やで」
 

2022年12月19日月曜日

●月曜日の一句〔小山玄紀〕相子智恵



相子智恵






旅せむと胸の柱をばらしておく  小山玄紀

句集『ぼうぶら』(2022.11 ふらんす堂)所収

一読で、心に広々とした風が吹くような気がした。
〈胸の柱〉--それは例えば「胸のつかえ」のような煩わしいものなのかもしれない。しかし同時に柱とは、それがなければ建物を立てることはできない重要なものだから、普段は自分の心をしっかりと立てておくために必要な、まさに「心の支え」のことでもあるのだろう。

そういえば神を数えるのにも「柱」という語が用いられるし、現代でいえば、チームのまとめ役のことを「精神的支柱」と言ったり、漫画の『鬼滅の刃』の鬼滅隊を支える人たちが「柱」と呼ばれていたりもする。「柱」とは、神聖さと引き換えに、なんという重苦さを背負わされているのだろう。

そうした〈胸の柱〉をばらして取っ払ってしまって、広々とした心で、これから旅に出るのである。心の中に軽やかな風が吹きわたる。

気持ちのよい句ではあるが、〈胸の柱〉を前提にしているところに作者の憂いや責任感の強さを感じなくもない。それは私たち社会人が少なからず感じている憂いや責任だ。だからこそ〈ばらしておく〉にも深く共感するのである。

これから旅支度をする時には思い出す句になりそうだ。連なるように「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」という芭蕉の病中吟をふと思い出したのは、今が冬だからだろう。掲句は無季。春の旅、夏の旅、秋の旅の前に思い出したら、私の心の中に吹きわたる風の匂いもきっと変わる。それもまた楽しみである。

2022年12月16日金曜日

●金曜日の川柳〔湊圭伍〕樋口由紀子



樋口由紀子






反米で反共で反あいすくりん

湊圭伍 (みなと・けいご) 1973~

「反米」「反共」とはよく聞く政治的な用語である。しかし、「反あいすくりん」は聞いたことがない。「アイスクリン」とはアイスクリームの過去の呼称で、牛乳の代用品として、鶏卵や脱脂粉乳の使った、アイスクリーム風の安価な冷菓のことである。それを「あいすくりん」とわざわざひらがな表記にしているところにわざとらしさがあり、なんらかの意図が含まれている。

「反米」「反共」の流れで、あるいはふしまわしで、綾で飾って、「反あいすくりん」を持ち出してくる。悪意のある、おちょくりを感じる。「反米」「反共」をしらじらしく浮き上がらせている「反あいすくりん」に芸がある。

2022年12月12日月曜日

●月曜日の一句〔斉藤志歩〕相子智恵



相子智恵






再会や着ぶくれの背を打てば音  斉藤志歩

句集『水と茶』(2022.11 左右社)所収

〈着ぶくれ〉の質感が確かだなあ、と思う。薄着の時の、肩甲骨を感じるような硬い音ではなくて、ダウンコートのような服の厚みがもたらす、厚みのあるボフボフとした音。もしかしたらハグをして背を打ったのかもしれない。すると体全体の触覚と聴覚で〈着ぶくれ〉が感じられてくるのだ。斉藤氏の句はどれも一見すっと分かるのだが、実はその奥に、質感の多重性が感じられてくる句が多くて面白いと思った。他の冬の句を挙げてみよう。

足の間に鞄は厚し年の暮

置き場所がなくて足の間に置いた鞄。電車やカフェなどで、こういうことはよくある。ふくらはぎで改めて感じている厚みだ。これも触覚と視覚の両方で厚みを感じている。慌ただしい年の瀬がよく合う。

この宿のシャンプーよろし雪あかるし

冬雲や焼肉を締めくくるガム

どちらの句も些細なことを詠んでいるのだけれど、「ただごと」と読み飛ばしてしまってはもったいないよさがある。それが一瞬の中にある質感の多重性による「五感に訴える豊かさ」だ。

シャンプーの香りの嗅覚と髪の手触りの触覚に、雪明りの視覚。焼肉の最後のミントガムで口中はすっきりしつつも、体には焼肉の匂いが染みついていて油臭い。この味覚と嗅覚の奇妙な統一感のなさ。それを象徴するような、どんよりとした冬雲。これも味覚と嗅覚と視覚が一気に甦る。

解説で岸本尚毅氏が「手の甲にカーテン支ふ冬の月」の句に対して、〈この作品が読者にもたらす作用は、「伝達」というより、「再生」に近い〉と喝破したのは、この作者の句がもつよさを見事に言い当てている。句を頭の中に再生した時に、のっぺりしていなくて(それならば報告の域を出ないだろう)、VRの世界のように全身で体験できるのである。

2022年12月9日金曜日

●金曜日の川柳〔後藤閑人〕樋口由紀子



樋口由紀子






身の程は五尺十三貫五百

後藤閑人 (ごとう・かんじん) 1913~1980

「身の程」というのは自分の身分、地位、能力などをいうのであって、身体の大きさをいうのではない。五尺は151.5センチ、十三貫五百は50.6キロ。現代ではもちろん、この当時の男の人にしてもかなり小柄である。作者のことだろう。

自分はこれぐらいの人間だと自嘲ではなく自恃だろう。自分というものをよく知っている。私の父も男性としては小柄な方だった。だからというわけではないが、勤勉家で負けず嫌いだった。無理をしているなあと子ども心に思っていたこともあった。この句を見つけて、久しぶりに父を思い出した。

2022年12月7日水曜日

西鶴ざんまい #35 浅沼璞


西鶴ざんまい #35
 
浅沼璞
 
 
高野へあげる銀は先づ待て  前句(裏八句目)
 大晦日其暁に成にけり
    付句(裏九句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

【付句】大晦日(おほつごもり)で冬。其暁(そのあかつき)で釈教(弥勒が出世する暁)。其暁―高野山(類船集)。前句との折合を配慮しての「けり留め」(番外編11、参照)。

【句意】無事に大晦日も過ぎ、弥勒の其暁ならぬ元旦の暁になったなぁ。
参考〈一夜明れば、豊かなる春とぞ成ける〉(『世間胸算用』巻一ノ一)。

【付け・転じ】寄進の「銀は先づ待て」という前句の諫言を、大晦日の掛払い(大払い)を控えてのものと見なした。

【自註】商人の渡世いそがはしく、町人の家々は天秤・十露盤の音高く、大帳に付込(つけこみ)、一年中の算用づめとてかしかまし。殊更、夜の明る迄かけまはる事あり。其暁と句作せしは、高野山への付寄(つけよせ)也。

【意訳】商人の大晦日は忙しく、町の家々は天秤・算盤の音も高く、大福帳に収入を記し、一年の総決算とてやかましい。殊に夜の明けるまで集金(掛乞い)に駆け回るケースも多い。「其暁」と句作したのは、「高野山」の縁語として付けたのである。

【三工程】
高野へあげる銀は先づ待て(前句)

大晦日勘定済ますのが先ぞ    〔見込〕
  ↓
大晦日みそ屋こめ屋も済ませたり 〔趣向〕
  ↓
大晦日其暁に成にけり      〔句作〕

前句を、大節季の支払いを控えての諫言とみて〔見込〕、〈どのような借金があるのか〉と問いかけながら、味噌屋・米屋の支払いを済ませたと思い定め〔趣向〕、「弥勒の其暁よろしく無事一夜が明けた」という題材・表現を選んだ〔句作〕。

【先行研究】「新編日本古典文学全集」では〈遣句ふうの付け〉と評されている。
 

「なに言うてんねん。遣句ふう、と見せかけての〈抜け〉やで」
 
確信犯というわけですね。
 
「わしは犯人ちがうで」
 
えーと、犯人と見せかけての〈抜け〉ですか。
 
知らんがな。
 

[註]
この付句と自註には『徒然草』の影響がみらる。詳細は佐伯友紀子氏の「「西鶴独吟百韻自註絵巻」における『徒然草』享受の再検討」(「表現技術研究」四号、二〇〇八年三月、広島大学)に譲る。


2022年12月5日月曜日

●月曜日の一句〔小川軽舟〕相子智恵



相子智恵






便箋はインクに目覚め冬の山  小川軽舟

句集『無辺』(2022.10 ふらんす堂)所収

まっさらな便箋に万年筆がインクを落としていく……つまり、文字が書かれていく。一枚の白い紙だった便箋は、万年筆のインクの滲みや掠れによって、一文字ずつ、文字が書かれたところから静かに眠りから覚めていく。何と美しい想像だろうか。便箋とインクの色は何色だろう。私は便箋は白、インクは藍色を思った。

取り合わせは〈冬の山〉。うっすらと雪が積もっているのかもしれない。山の静謐さが便箋と響きあう。今は静かな冬山はしかし、「山眠る」という季語の通りに、山に棲む生き物たちを静かに眠らせ、自らも眠りながら「生きて」いる。

便箋がインクに目覚めていったように、この冬山も春が来ればひとつずつ、木々や草花、虫や動物たちの命を目覚めさせていくのだ。

静謐な冬を、そしてその後には春の息吹が確かに巡ってくることを、無生物である紙とペン、冬山という生命を感じさせつつ眠るもの。このふたつの景のあわいで表現した、美しい一句である。

2022年12月2日金曜日

●金曜日の川柳〔中内火星〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ボクがダメになるまでの短い歴史  中内火星

たまに耳にする「人に歴史あり」というフレーズはテレビ番組名が発祥だそうで、この言い方にむず痒くなるのは、その歴史の「結果」として、りっぱな人間像が大仰に提示されることが前提となっているからだろう。たしかに人にはみなその人の歴史があるのだが(歴史皆無なら、むしろ神話的で凄い、のだけれど)、誰もが他人様に誇れるような歴史と現在というわけにはいかない。

その点、この句は、〈ダメになる〉というのだから節操がある(ダメになる前はダメじゃなかったわけか、という意地悪はさておき)。

だいたいにして、〈ボク〉とカタカナ書きの自称の時点で、この人、かなりダメだし。

(念のために言っておくと、私が言っている「ダメ」には、かなりの愛情と好感がこもっている)

でもって、〈短い歴史〉だ。それなりに長い、というのではない。またたくまにダメになっちゃったわけで、この人、作中主体だか作者だか、まあ、なんというか、もう、かなりダメです。

『What's』第3号(2022年10月25日)より。

2022年12月1日木曜日

◆週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


小誌『週刊俳句』がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

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【記事例】 

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句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。

同人誌・結社誌からの転載

刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 ※俳句作品を除く


そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2022年11月30日水曜日

〔俳誌拝読〕『ユプシロン』第5号(2022年11月1日)

〔俳誌拝読〕
『ユプシロン』第5号(2022年11月1日)


A5判・本文28ページ。同人4氏の俳句作品各50句を掲載。散文etcはなく、小句集の集合のようなおもむき。

三月やノコギリ屋根を雨流れ  岡田由季

雨のカンナ映画の中に人を封じ  小林かんな

文鳥に冬晴れの窓ありにけり  仲田陽子

冬銀河イヤホンで聴く弦の音  中田美子

(西原天気・記)






2022年11月28日月曜日

●月曜日の一句〔生駒大祐〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




立木みな枯れて油のごとき天  生駒大祐

見上げた空が油のようなのだから、晴れているはずはなく、雨でもない、曇っているのだろう。地上の木々がすべて枯れ、さむざむとした景のなかに、ひとり読者としていると、頭上・天上の油が油膜に思えてきて、すると、ここが水の中のような気になってきた。つまり、句集名にある「水界」。

この句があるから、この本は『水界園丁』なのだと、誰も(作者も読者も)思わないだろうけど、私は思っている。

きょう2022年11月28日の空も、ちょうどこの句の感じ。

加うるに、空ではなく「天」という叙述が、上記の感興を生起せしむるにふさわしく、また、この句の何か、おそらく口調・口吻・語りぶり、つまりは響きがもたらす、水中の無音のようなおもむき。

『水界園丁』(2019年6月/港の人)所収。

2022年11月25日金曜日

●金曜日の川柳〔井上一筒〕樋口由紀子



樋口由紀子






動輪が轢いたんか瑪瑙の鰈

井上一筒 (いのうえ・いーとん) 1939~

視覚的な把握、直観的な認識で瞬間的に見た景を一句にしているように見せかけているが、たぶん、実際に見たものではないだろう。ほぼありえない日常のひとこまの、奇妙な着想である。

「轢いたんか」と問いかけているのか、確かめているのか。軽妙な言いまわしで間をつくる。「瑪瑙の鰈」はどこかにあるものだろうけれども、見たことはない。ましてや動輪が轢くなどいうことはまず考えつかない。容易にイメージできない架空の出来事を対象化して、「瑪瑙の鰈」の存在を思いもよらない形で色濃く打ち出している。

2022年11月23日水曜日

西鶴ざんまい #34 浅沼璞


西鶴ざんまい #34
 
浅沼璞
 

前回提示した「三工程」を更新しつつ、新たなフォーマットを考えてみました。

これまで「付け・転じ」を分けて解説してきましたが、以後は同時に考えてみたいと思います(若之氏のコメントは随意【若之氏】の項目で紹介していきます)。
 
 
 宮古の絵馬きのふ見残す   打越(裏六句目)
心持ち医者にも問はず髪剃りて 前句(裏七句目)
 高野へあげる銀は先づ待て  付句(裏八句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

【付句】雑。「高野」は高野山の意で、釈教。「銀」は上方使いの銀貨のことで「かね」。

【句意】高野山へ寄進する銀は一先ず見合わせろ。

【付け・転じ】打越・前句では病人のおめかしだった「髪剃りて」を、信心のための剃髪と取り成した。

【自註】万事は是までと病中に覚悟して、日ごろ親しきかたへそれぞれの形見分け。程なう分別(ふんべつ)替りて皆我物(わがもの)になしける。是、世の常なり。いづれか欲といふ事、捨てがたし。ありがたき長老顔(ちやうらうがほ)にも爰(こゝ)ははなれず。いはんや、民百姓の心入れ、あさまし。

【自註意訳】人生もここまでと病中に覚り、日頃親しい人に遺産分割を。と思ったもののすぐに考えが替わって全て自分のものにしてしまう。これは世の中に、ありありのパターンである。どのみち欲というものは捨て難い。あり難い住職面をしていても欲心は離れない。まして一般人の本心はあさましい限りだ。

【三工程】
心持ち医者にも問はず髪剃りて(前句)

形見分けなど思うてをりぬ  〔見込〕
  ↓
寺への寄進さらに思へる   〔趣向〕
  ↓
高野へあげる銀は先づ待て  〔句作〕

前句の、医者にも問わず剃髪した人物が〈形見分け〉を考えているとみて〔見込〕、〈そんな人物が更に何を思いつくか〉と問いかけながら、〈寺への寄進〉と思い定め〔趣向〕、〈高野山への寄進を思いついた病人を諫める隠居老人のせりふ〉という題材・表現を選んだ〔句作〕。
 
 
「なんやすっきりし過ぎて物言いしにくいなぁ」

いやいや、それでも物申すのが鶴翁かと。

「ま、そやけどな……」
 

2022年11月21日月曜日

●月曜日の一句〔天沢退二郎〕相子智恵



相子智恵






本文秋のまま註に雪降るらし  天沢退二郎

句集『アマタイ句帳』(2022.7 思潮社)所収

美しい句だなあ、と思う。「暦の上では冬」という言い方をよくするが、秋と冬の季節の「つながりつつずれる」感じが見事に描かれていて、書物の中の虚の景なのに、晩秋から冬にかけての冷たい空気の実感がたっぷりと呼び込まれてくる句だ。

この一句だけ抜き出すと名句だと思う。ところが掲句は連作のうちの一句で、連作を(もっと言えば句集すべてを)読むと大変面白いのである。

連作のタイトルは「本文と註(冬の章)」。他に「本文と註(春の章)」「本文と註(春から初夏)」「本文と註(夏の章)」「本文と註(秋・終章)」と断続的に掲載されている。

「本文と註(冬の章)」の12句から他にも何句か引いてみよう。

  註淫すれば本文を冬去らず

  本文寒し地下納骨堂【クリプト】に註を彫る

  冬の本行間に註のこだまして

  註註註註註註と冬の風

  註註とタコのうるさい冬の本

これだけ読んだだけでも、どうにも自由で可笑しくて、そして凄味のある句集である。天沢退二郎は詩人。仏文学者でもあり、宮沢賢治の研究者として全集の編集・校訂でも知られる。

2022年11月18日金曜日

●金曜日の川柳〔尾藤三柳〕樋口由紀子



樋口由紀子






こぶしひらいても何もないかもしれぬ

尾藤三柳 (びとう・さんりゅう) 1929~2016

こぶしの中は目で見えない。あると信じているものが開いてみたらなくなっているかもしれない。あるいははじめから何もなかったのに、さもあるかように見せかけていたのかもしれない。ぎゅっとこぶしが握られていたら、その中には摑まえた蝶とか、大事なものとかきらきらしたものとか、なにかあるのかとつい思ってしまう。

そのつい思ってしまうことを、まずは「何もない」ときっぱり否定し、次に「かもしれぬ」と否定を揺るがせるかのような思わせぶりな表現をする。「ないかもしれぬ」というのは都合のいい便利な言葉である。もう一つの「何かある」をありありと呼び起こす。「ないかもしれぬ」には「あるかもしれぬ」がぴったりと貼り付いている。「こぶし」のなかは開けてみなければ、どうなっているのか本人もわからない。

2022年11月14日月曜日

●月曜日の一句〔鈴木光影〕相子智恵



相子智恵






根元よりスカイツリーの枯れてゐし  鈴木光影

句集『青水草』(2022.5 コールサック社)所収

「東京スカイツリー」の名前が決まった時、名前に「タワー」がつかないことに新しさを感じた。気づけば開業から10年が経つようだが、個人的にはまだ10年か、というくらい風景に馴染んだような気もしている。

直訳すれば「空の木」。掲句は、この「木」というところから冬の季語「枯木」が導かれて〈枯れてゐし〉が呼び出されているのだろう。ただ〈根元より〉とあるから、生きていることを前提とした冬の季語の枯木ではなく、枯死しているという感じを含んでいると思われる。塔の見立ての句としてなるほど、と思う。

そもそもが無機質なものの描写に、有機的な息吹を与え、さらにそれを枯れさせるという、いくつかの屈折をもたせた句だが、そこがかえって不思議と「(疑似的に)生きている印象」を強めていると思うのは私だけだろうか。

あのスカイツリーの色のなさ(電飾で様々な色がつくようにできている)がもつ、無機質なのに何かに擬態するように光が変化していく姿とも、妙に通っている気がする。

2022年11月12日土曜日

●週刊俳句の使い方

週刊俳句の使い方


古い資料ですが、きほんここから変わっていません。

画像をクリックすると大きくなります

2022年11月11日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子






羽根生えるまでははんぺんらしくする

月波与生 (つきなみ・よじょう) 1961~

関西人なので「はんぺん」にあまりなじみがない。今ではこちらのスーパーでも店頭に並んでいるが、買おうとは思わない。おでんに入れたはんぺんは他の練り物を圧倒するほどの、そのあまりの場所取りの、膨れ上がり方にどうしても慣れない。

その割に味はいたって淡白でふにゃとしている。
まさかいずれ羽根が生えてくるなどとは想像もしなかった。いずれはこの世から飛び立っていくつもりなのだろうか。正体をみせないはんぺんだがこんな一面があったのか。生きづらいのかもしれない。それまでは飛び立とうなどとは考えてもいないふりをして、はんぺんらしくするとは、なんと健気なんだろう。そして、なんと不気味なのだろう。「Picnic」(No.7 2022年刊)収録。

2022年11月10日木曜日

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イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。

同人誌・結社誌からの転載

刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 ※俳句作品を除く


そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2022年11月9日水曜日

西鶴ざんまい #33 浅沼璞


西鶴ざんまい #33
 
浅沼璞
 

さて久々に西鶴の自註絵巻を再開するにあたり、新たな試みをしようと思います。
 
 
というのも、これまで連句作品と自註との落差を埋める過程を、第一形態から最終形態へと辿ってきたわけですが、自註を頼りとしながらも、恣意的な側面がないわけではありせんでした。

そこで何がしかの客観的指標のようなものがないか、とずっと考えていたのですが、灯台下暗し。芭蕉研究の第一人者・佐藤勝明氏が予てより提唱されている「見込・趣向・句作」という三工程がそれに相応しいのではないかと、今さらながら思い至りました。[註1]
 
 
もともとこの三工程は、蕉門連句の多様すぎる評釈にあって、「何か客観的な基準のようなものはないか」という命題のもと、佐藤氏が模索・案出したものです。
 
しかも佐藤氏の独断というわけではなく、中村俊定・山下一海など先達の優れた業績をアウフヘーヴェンしており、客観性はじゅうぶん担保されています。
 
(最近では永田英理氏が捨女の恋歌仙・注解でこの方法を見事に援用。[註2]
 
付句作者の脳内活動を追うこの三工程を具体的に記すと――
 
前句への理解である「見込」、それに基づき付句では何を取り上げるかという「趣向」、実際に素材・表現を選んで整える「句作」ということになります。
 
さらに最近では「見込」から「趣向」を導く際に、一種の自問自答を想定しているようです。[註3]
 
 
ではこれを、西鶴ざんまい#31で想定した第一形態~最終形態に当てはめてみましょう。

心持ち医者にも問はず髪剃りて(前句)

形見分けなど一時のこと  〔見込〕
  ↓
仏ごころも一時のこと   〔趣向〕
  ↓
高野へあげる銀は先づ待て 〔句作〕

前句の、医者にも問わず剃髪した人物が、形見分け(遺産分割)を一時考えているとみて〔見込〕、〈そんな一時の思いは何によるのか〉と問いかけながら、仏への信心と思い定め〔趣向〕、「高野山へ寄進を思いついた病人を諫める隠居老人のせりふ」という題材・表現を選んだ〔句作〕わけです。
 
 
「なんや、わしの脳みそ、見すかされとるみたいで気色わるいな」

いや、鶴翁がそう仰るなら、さらにこの方法で自註絵巻を読み続けたいと思います。

「嗚呼、口は災いのなんとかや、呵々」
 
 
[註1]『続猿蓑五歌仙評釈』佐藤勝明・小林孔(ひつじ書房、2017.5)
[註2]「近世文芸 研究と評論」101号(2021.11)
[註3]日本文学芸術学部文芸学科「特別講座」(2022.10)
 

2022年11月7日月曜日

●月曜日の一句〔秦夕美〕相子智恵



相子智恵






正夢に赤のきはだつ寒さかな  秦 夕美

句集『金の輪』(2022.1 ふらんす堂)所収

冬が立った。今週から冬の句を楽しみたい。

掲句、正夢とは夢を見た後に現実に同じことが起きてはじめて、「ああ、あの夢は正夢だったのだな」と気づくものである。正夢だったかどうかは、覚醒した後に(多くはしばらく経ってから、何かの機会に)分かるものだ。

ところが掲句の〈正夢に赤のきはだつ〉は、助詞の「に」の効果もあって、どうも今まさに夢の中にいて、その場面を描いているように読める。まだ正夢かどうかも分からない時点で、正夢であるという確信があるのが不思議で、夢と現実の間があいまいなままに〈寒さかな〉に収れんしていく。

本句集の冬の句には他にも、

 その時は目をつむりませう玉子酒

という句もあって、この〈その時〉はどんな時なのかは明示されていないのだが、〈目をつむりませう〉で受けているから、どことなく死の匂いが感じられてくる。そして、取り合わせられた〈玉子酒〉は、風邪気味の時に回復のために飲む滋養強壮の飲み物であり、病中ではありつつも、生命力へ向かうベクトルがある。ベクトルが真逆のものが、一句に取り合わされた面白さがあるのだ。

この「生死のあわい」や「夢と現実のあわい」の曖昧さの中に遊べるのが、秦氏の句の面白いところだ。

2022年11月4日金曜日

●金曜日の川柳〔八上桐子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




向こうも夜で雨なのかしらヴェポラップ  八上桐子

掲句では「プ pu」だけど、製品名はヴェポラッブ(VapoRub)。vapor(蒸気)でrub(こする)みたいなネーミングなのだろう。外国語がカタカナ化するときに「プ pu」「ブ bu」の変容はよく起こる。

って、「鼻づまり、くしゃみ等のかぜに伴う諸症状を緩和する、体にぬるラブ・オン(塗布)タイプの鼻づまり改善薬」(メーカー説明)の正しい商品名を語っている場合ではなかった。

掲句。《向こう》という曖昧が示す距離を《夜》と《雨》がつなぐ。夜の色と質感、雨の湿度と質感が、愛すべき対象の胸に手のひらでひろげる(たしかヴェポラッブのテレビCMは赤ん坊だか幼児だかの胸に母親が手でこの薬を塗り込む様子だった)塗り薬のように、気持ちの表層にひろがっていく。

別の人・別の場所に思いをはせる、その瞬間の機微(たいせつさ・愉しさ・せつなさ・愛おしさ…)が読者の胸にじゅんわりとしみてくる句ですね。

八上桐子『hibi』(2018年1月/港の人)より。

2022年10月31日月曜日

●月曜日の一句〔志村斗萌子〕相子智恵



相子智恵






星飛んで結末変はる物語   志村斗萌子

句集『星飛んで』(2022.8 ふらんす堂)所収

物語とは終わりまで書かれたものを読むものだから、普通は結末が変わることはない。あらかじめ二通りの結末が用意されていたり、読み方で結末の解釈が変わる趣向の小説もあったり、もちろん未完の物語というものもあるにはあるのだが、掲句はそのような既存の物語を指しているのではなさそうだ(もちろんそのような解釈でもよいが)。

現在進行中の物語(それは人生と置き換えてもよいかもしれない)のただ中にありながら、結末(未来)からの視点で詠んだ句だと個人的には受け取りたい。〈星飛んで〉という季語の選択によって、そのような読みが浮かぶのである。

流星という不意に巡り合うものによって、物語(人生)の結末が思わぬ方向へと流れていった。そんな巡り合わせがいくつも起きて、後から振り返ってみれば、結末が予定とは大きく変わっていたと気づく。それを物語(人生)の途中で句に書きつけているのだから、何だか結末と今とをずっとワープし続けるような、不思議な多重性を味わうのである。

2022年10月28日金曜日

●金曜日の川柳〔米山明日歌〕樋口由紀子



樋口由紀子






ソファに葱 そう云う事だったのか

米山明日歌 (よねやま・あすか)

「そう云う事だったのか」と言われても、なんのことだかさっぱりわからない。帰宅したら、ソファに葱が置いてあった。野菜庫にしまうわけではなく、よりにもよって、ソファに置いてある。たった、それだけのことなのに、ただならぬものを感じて、微妙な違和感を醸し出す。

「ソファに葱」は似合わない。そして、「そう云う事だったのか」の納得感も得られない。ありそうでありえない、ありなさそうでありえる。それ以上のことはなにも言ってないからこその深読みの誘惑にかられる。目の前の状況をぐるりと転換させ、読み手に上手くコトを預けている。「おかじょうき」(2022年刊)収録。

2022年10月26日水曜日

西鶴ざんまい 番外編11 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇11
 
浅沼璞
 

前回みたように、談林の岡西惟中は、
  切れぬ「哉」=発句にならぬ「哉」=平句の「哉」
という相伝を披歴し、自作短句の「哉」の正当性を述べたてました。

そんな惟中ですが、第三の切字については厳しい目を向け、こう述べています。

〈第三を「哉」どめにし、「ぬ」どめにし、「也」「けり」などゝ留むる放埓あり。是俳諧の乱逆(げき)也〉(『俳諧破邪顕正返答』延宝8・1680年)

確かに第三は平句とは区別され、て・にて・もなし・らん等で留めるのが定法です。切れようが、切れまいが第三に切字は不可ということでしょうか。
 


これに対し、反論したのが同門の西鶴です。

   天満におゐて鳴鹿之助    貞因(脇)
  植木屋の下葉は萩の咲にけり  西鶴(第三)

この秋の付合を引き合いに、こう述べます。
 
〈是は「けり」どまりの第三のならひ、脇に腰の「て」さし合申候時は、自然にこの留め致しても苦しからず。此の作、宗祇連歌の第三にもあり[註]〉(『俳諧のならひ事』元禄2・1682年)

文中、腰の「て」については、定本西鶴全集(中央公論社)の注にこうあります。
 
〈脇句の七・七の腰に當る「天満におゐて」の「て」を指す。第三て留にすべきところ指合を避けてけりと留めた〉
 

 
ここでは「指合」といっていますが、連歌時代から折合(おりあい)といわれる慣習のことでしょう。
 
貞徳の『御傘』(慶安4・1651年)にも、「花をみんとて山に入るなり」のような腰に「て」のある短句には「て」留の長句を嫌うとあります。
 
後年、短句から長句への「折合」は許容されるようになっていったようですが、西鶴の時代はまだ嫌ったと思われます。

しかも西鶴は『御傘』のとおり、第三のみならず平句の付合でもこのパターンの「折合」を意識し、前句の腰に「て」のある際は「けり」留を厭いませんでした。
 


ここでやっと本題の『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)に戻れます。前句の腰に「て」があり、その付句が「けり」留となっている例を順に全てあげてみましょう。

高野へあげる銀は先づ待て 前句(裏八句目)
  大晦日其の暁に成にけり    付句(裏九句目)

  住替へて不破の関やの瓦葺 前句(二表七句目)
   小判拝める時も有けり   付句(二表八句目)

   野夫振り揚て鍬を持替へ  前句(三裏二句目)
  其道を右が伏見と慟キける  付句(三裏三句目)

このように長句・短句の「けり」がまずあり、(一座一句を意識したのでしょうか)最後は連体形「ける」となっています。
具体的な付合の解釈は本編にて行いますが、次回は、くしくも「大晦日其の暁に成にけり」からとなります。
 



「なんや、えらい上手く運び過ぎやないか」
いや、だからトリにしたんですって(笑)。
 
 
[注]定本全集本の注には〈宗祇連歌の第三〉について出所未考とある。
 

2022年10月24日月曜日

●月曜日の一句〔田口茉於〕相子智恵



相子智恵







子と歩く速さに秋の深まりぬ   田口茉於

句集『付箋』(2022.8 ふらんす堂)所収

まだ子どもが歩き始めの頃、しみじみと、「土が近い生活になったなあ」と思ったことがあった。野菜を育てるなどの暗喩ではなくて、文字通り「地面が近い」のである。棒切れを拾う、鳥の羽根を拾う、団栗を拾う……ことにつきあう。転んだら抱き起こす、膝の土を払う、靴を脱がせる、履かせる。地面に膝をついてスマホで動画を撮ったりもする。

掲句に、そんな土の近さを思い出した。この句は「子の歩く速さ」ではなく、あくまでも「子と歩く速さ」だ。走り回る子を悠々と描写していられるわけではなくて、その速度に自分も巻き込まれているのである。

ものすごくゆっくりな(ほとんど動かない)時もあれば、いきなり走り出すこともある。淡々とした大人のペースではない、予測のできない速度。きっと今日も予定通りに物事は何一つ進まず、一日が終わるのだ。その分、秋の深まりを濃く感じる時間が流れる。歩いている途中で、落葉や団栗もきっと拾ったことだろう。地面が近い生活の〈秋の深まりぬ〉に納得である。

2022年10月21日金曜日

●金曜日の川柳〔広瀬ちえみ〕樋口由紀子



樋口由紀子






触れなさい色の女王が通ります

広瀬ちえみ (ひろせ・ちえみ) 1950~

「色の女王」って、なんだろう。すべての色の頂点にあり、飛び抜けて綺麗なものなのだろうか。しかし、そのようなものは見えない。だから、触れることもできない。目に見えない、気づかないものを感知させようとしている。

「色の女王」はごく身近にあるものなのだろうか。自分を閉じていると目の前にあるものも見逃してしまう。あるいは実存しないものかもしれない。見えないものを見ようとする意志をもつことで日常が変化する。存在しているかどうかではなく、そう感じることで世界の見方も世界との関係性も大きく広がっていく。さて、あなたには見えますか、触れることはできますかと問われているような気がする。「杜人」(2017年刊)収録。

2022年10月17日月曜日

●月曜日の一句〔五十嵐箏曲〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




赤い羽根つけて推定Fカップ  五十嵐箏曲

「赤い羽根共同募金」は戦後すぐの1947年スタート。意外に歴史は古い。期間は10月1日から(都道府県で違いはあるが)半年間。意外に長くやってる。けれども、10月になると、テレビに映る政治家が揃って胸に赤い羽根を付けているので、10月がシーズンというかんじ。俳句でも10月の季語として扱われる。

掲句は、景として、一読明瞭。赤い羽根の背景となる衣裳について何を思うかは、読者によってさまざまにせよ。で、おおいに揺れていそうです、この着色された鳥の羽根。

豊穣を連想させるその胸は、「貧しい者」を救済せんとする募金にふさわしい。かもしれない。でも、それとはべつに、ちょっとシニカルで、たぶんに劣情(もちろんのこと素晴らしい感情です)的。言い換えれば、俳句的。きわめて俳句的な一句。

『アウトロー俳句 新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」』(2017年12月/河出書房新社)所収。

2022年10月14日金曜日

●金曜日の川柳〔加藤久子〕樋口由紀子



樋口由紀子






象をはんぶんこしませんか

加藤久子 (かとう・ひさこ) 1939~

最初に読んでときはぎょっとした。はんぶんこされるのは「象」である。生き物である。そんなことはできるわけがない。

ふと、この句は世界のあちこちで起こっている紛争や些細なことでいがみあっているこの世を解決する手段をいっているのではないかと思った。だから、「はんぶんこしませんか」とやさしく問いかけているのだ。この象は生身ではなく、絵に描いた象か、それとも象のかたちをしたパンかお菓子か、それらを含めて、象のようにおおらかでと力あるものを「はんぶんこしませんか」と提案している。全部取り込んで、独り占めはしない。そうすれば、みんなが平和に暮らしていける。字足らずで破調になっているところがよけいに強度を増し、胸に響いた。

2022年10月13日木曜日

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2022年10月12日水曜日

西鶴ざんまい 番外編10 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇10
 
浅沼璞
 

ひきつづき、平句の切字、こんかいは短句の「かな」をめぐる貞門・談林論争をみてみましょう。
 


まず談林の岡西惟中の独吟百韻における短句(名オ2句目)を引きます。

額(ひたひ)えぼしの楽助なるかな  『俳諧破邪顕正返答』(延宝8・1680年)
 
これに対し、〈平句の哉(かな)留は何事ぞや。慮外ものよ〉(誹諧猿黐)だの、〈かな止めも、ひら句には遠慮なし〉(俳諧破邪顕正返答之評判)だのといった批判が続出しました。
 
前者は貞門によるものですが、後者は談林の内ゲバ的批判です。
 
一座一句どころか全面禁止の言挙げが、貞門のみならず談林サイドからもなされていたわけです。
 


もちろん惟中とて黙ってはいません。〈なんとして師を取りて習はいではしられまい。大事なことなれども、これひとつ相伝しまするぞ〉(俳諧破邪顕正評判之返答)と皮肉たっぷりに反論します。

〈惣別「かな」とおもへども、きれぬ「哉」もあるぞ。〽花は紐(下紐)柳はまゆをひらく哉 といふ「かな」は、発句にならぬ「哉」也。これを、〽花は紐柳は眉のひらき哉 とすれば発句の「哉」也〉[注1]

きれぬ「哉」=発句にならぬ「哉」=平句の「哉」という等式が成り立つようです。

これは前回もらした愚説「切字として〈用ひざる時は〉平句に切字あるもよし」に通底する相伝といっていいでしょう。
 
例の芭蕉の〈切字に用ふる時は四十八字皆切字なり。用ひざる時は一字も切字なし〉(去来抄)というのも、案外こうした相伝をバックボーンとしていたのかもしれません。
 


ま、それはそれとして、惟中の言葉にもどりましょう。
 
「ひらく」の動詞を「ひらき」と連用形によって名詞化すると切れると惟中は言います。
 
そして〈うくすつぬふむゆるうの仮字(仮名)よりつゞきたる「かな」は、何時もきれませぬぞ〉と切れない例としてウ段の活用語尾を列挙します。
 
さらに「額えぼしの楽助なるかな」の自句にふれ、〈「なる哉」といふ「かな」、なるほど俳諧(連歌)に大事ないぞ〉と結語します。

動詞ウ段は終止形でもありますが、「なる」はラ変なので連体形と限定できるでしょう。
 
そこで活用語の連体形につく「かな」は切れないと拡大解釈してみると――前回の杜國の平句〈おかざきや矢矧の橋のながきかな〉は形容詞・連体形+「かな」で切れないということになります。[注2]
 
よって「や」を気にしなければ理論上は平句としてセーフ。
 
ちなみに名詞化すれば切れるというなら〈おかざきの矢矧の橋のながさかな〉とでもすれば発句になるということでしょうか。
 


ま、文法的な詮索はほどほどにして、「切れなければ平句に哉を使ってもよい」というような相伝があった(らしい)ことはここで注目しておくべきでしょう。

ところで同じ切字でも第三の「けり」に関しては厳しい見方を惟中はしており、それに絡んで同門の西鶴批判も辞さなかったようですが、長くなりそうなので――

「またまた後回しかいな」

だ、か、ら、トリですって。
 


[注1]引用は古典俳文学大系本。()内は浅沼註。「花の下紐」は花のつぼみのたとえ。
[注2]山田孝雄『俳諧文法概論』(1956年、宝文館)では連体形につく「かな」の用例として芭蕉〈こがらしの身は竹斎に似たる哉〉と併せて杜國〈おかざきや矢矧の橋のながきかな〉をあげている。ここでは発句/平句は区別されていない。
 

2022年10月10日月曜日

●月曜日の一句〔伍藤輝之〕相子智恵



相子智恵







よく見えて見えず木の実の落ちるかな   伍藤輝之
 
句集『BALTHAZAR』(2022.9 ふらんす堂)所収

木の実は見えていて、でも落ちるところは見えないのだろう。〈よく見えて見えず〉は一見、謎かけのように見えるのだが、ああ、そうだったなあと山育ちの私は思う。

澄んだ秋の日の樹木は一本一本がよく見えている。木の葉がはらはらと落ちるのを見ることはよくあったが、団栗のような小さな木の実が落ちる瞬間を捉えるのは、その速度のせいか案外難しくて、(単に子どもの頃は、木の実が落ちるまで長く一か所に留まってはいなかったからかもしれないが)突然、真後ろに団栗が落ちた音と気配に驚いたりした。掲句にはそんな実感がある。と、同時にやはり哲学的な句だと思う。

本書は遺句集である。あとがきには、作者が愛する映画「バルタザールどこへ行く」から題名を付けたと書かれ、〈今、(驢馬)バルタザールのように死んでいく自分が見えている。それが見えている自分も分かる〉とあった。辞世の三句も含み、遺句集として見事としか言いようがない出来だ。

見事過ぎるがゆえに映画のような演出を感じてしまうが、含まれている句に甘いところはなく、客観的に自身や社会を見ることができ、そして独自の美学をもって作品をつくり、厳しい基準で残せる人だったのだろう。ご子息による付記には、死後に発刊してほしいと頼まれた、とあった。

死んでいく自分が見えている。それが見えている自分も分かる〉。こういうことが書けてしまう作者だからこその掲句なのだな、とあとがきを読んで思った。

2022年10月3日月曜日

●月曜日の一句〔岸本尚毅〕相子智恵



相子智恵







風は歌雲は友なる墓洗ふ   岸本尚毅

句集『雲は友』(2022.8 ふらんす堂)所収

自選の15句が裏表紙に載っていて、すべてが雲の句なので驚いた。まさに『雲は友』なのである。これだけ雲の句が一集に収まっていることも面白い。少し挙げてみよう。

  胴体のやうに雲伸び日短

  埼玉は草餅うまし雲白し

どちらも人を食ったようなおかしみがあり、好きな句だ。

さて、掲句は本句集の表題句。不思議な句である。そもそも、〈風は歌〉で〈雲は友〉だというのは、墓石にとってのことなのだろうか。それとも墓を洗っている作中主体にとってのことなのだろうか。

私は最初、墓を主体にして読んだ。じっと動くことのない墓石にとっては、風が毎日違う歌を歌い、見上げれば毎日違う姿を見せる雲が友なのだろう。静と動。この墓は、都会の密集した墓地ではなく、農村の、稲田に囲まれた小さな墓地だといいなと思う。稲穂を風が渡り、雲がいろんな形を見せる。なんだか呑気で面白い。

次に墓を洗う人を主体として読んでみた。これもまたのどかな気分になる。いい墓参りの句だ。そして、まだ表れていない主体としては、この墓に埋葬された死者もその主体となり得るだろう。泉下の人にとっても風は歌で雲は友なのだ。

ここで、ちょっと昔に大ヒットした「千の風になって」という歌を思い出してしまった。あの歌は、「死者は墓にいるわけではなくて、千の風になってあなたを見守っているよ」という趣旨の歌だった。しかし、墓は動かず、風と雲は動き続ける……という掲句の方が、説教臭くなくていいなあ、と思う。

さて、本句集の中には他にも墓の句が案外多い。(ちなみに寺や涅槃会なども多い。好みの句材なのだろう)

  墓石や出合ふともなき蟻と蜘蛛

  柿潰れシヤツだらしなく墓に人

なかでもこの即物的な墓の句が面白い。(墓の句に面白いと言ってよいのかは分からないが……)

  明易や雲の一つに乗りて死者

という句がある。岸本氏の死者は、勝手に風に成り代わって満遍なく人々を見守ったりはしない。一つの小さな雲にのって楽しそうに移動していく。あとがきに、〈自分が老人に近づいた〉と書いていたが、こういう死生観というものが、いかにも岸本氏らしいのである。

  秋の雲子供の上を行く途中

そんな雲は、時々、子どもの上を通ったりもする。

2022年10月1日土曜日

〔人名さん〕アントニオ猪木

〔人名さん〕
アントニオ猪木(1943年2月20日-2022年10月1日)


口閉ぢてアントニオ猪木盆梅へ  関悦史

野口裕 〔新撰21の一句〕関悦史の一句「ダア!」

2022年9月30日金曜日

●金曜日の川柳〔石部明〕樋口由紀子



樋口由紀子






眼球の奈良が都であった頃

石部明 (いしべ・あきら) 1939~2012

独特の話のもっていき方である。しかも、「奈良が都であった頃」とはあまりにも昔の時代設定である。その頃に一体何があったのか。何を見たのだろうか。人は思い出したい過去も思い出したくない過去も持っている。甘美な出来事も愚かな行為も自分にとっては必要不可欠なことだったのだと思いたい。必然を得てすべてを昇華するために、あらためて言葉にして、遠い過去の物語にしたのだろう。

「眼球」は鋭敏で不気味そのもので、身体感覚に食い込んでくる、異界との通路である。今、「眼球」はありきたりのものしか見ようとしない。自分という存在がどんどん曖昧になっていく。シンボリックに自分の感覚を取り戻そうとしている。「MANO」(16号)収録。

2022年9月28日水曜日

西鶴ざんまい 番外編9 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇9
 
浅沼璞
 

西鶴ざんまい#32の若之氏の質問、こんかいは以下の部分について番外編として記してみます。

〈……発句に切れ字がないといけないという考えは古くからあるとして、付句に切れ字があってはいけないという考えは、もしかすると俳諧史においてわりと新しいものだったりするのでしょうか〉

仰せのとおり、古くから〈発句は切字と申すこと御入候はで叶はず候。その切字なく候へば平句に相聞えてあしく候〉(連歌至宝抄)とあります。

一方、付句の切字に関しては後年〈平句に切字を嫌ふ〉(芭蕉庵伝書)などといわれたようです。



しかし実作面をみると、談林俳諧は言わずもがな、蕉門とて平句の切字が散見されます。何故でしょう。
 
芭蕉の有名な口伝に、〈切字に用ふる時は四十八字皆切字なり。用ひざる時は一字も切字なし〉(去来抄)がありますが、これを逆に言えば、切字として〈用ひざる時は〉平句に切字あるもよし、ということでしょうか。



恰好の例が『冬の日』第三歌仙(名オ3句目)にあります。
 
  おかざきや矢矧(はぎ)の橋のながきかな 杜國
 
ご覧のとおり「や・かな」がダブル使用されています。
 
三河・岡崎の宿の、東海道一長いという矢矧川の橋を詠んでおり、「や」は軽い間投助詞として読めますが、「かな」はどうでしょうか。

後年、高桑蘭更はこの句をめぐって、〈平句の哉(かな)の長句にても短句にても一座一句はいだすことなり。長句の哉は発句の哉と差別有ていだすべきか〉(俳諧七部解初篇冬の日)と述べています。

いうまでもなく平句には長句/短句があります。とりわけ長句は発句と同じ音数律をもちます。
 
仮に一座一句「かな」の使用が許されるにしても発句の「かな」と区別すべきか、という問題提起でしょう。



ひるがえって発句と異なる音数律をもつ短句はどうだったのでしょう。
 
無条件で一座一句「かな」を使用できたのでしょうか。

じつは短句の「かな」をめぐっては、有名な貞門・談林論争で興味深いやり取りが残されているのですが、長くなりそうなので、次回にまわそうと思います。
 
「なんや後回しかいな」
 
後回しじゃなくて、トリですって。
 
「また、うまいこといいよる」

2022年9月26日月曜日

●月曜日の一句〔天沢退二郎〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




あまりにもペンギンゆえ右翼手(ライト)身じろがず  天沢退二郎

※ライトはルビ

ペンギンにも程度があって、例えば、ややペンギンな状態やら、そううにペンギンな度合いやら。掲句では、過度にペンギン。それゆえ、不動(比喩ではなく物理的に)の右翼手。

右翼手の視線の先には、投手の背中だろうか、左バッターの内角低めだろうか。前を見ているようで、もしかしたらあまり見ていないかもしれない。

ともかく、見慣れた景色のなかに、ペンギンを置いてみることを、私は、これから頻繁に、するかもしれない。そうすることで、驚異的な、あるいはちょっと機微のある景色が立ち現れるような気が、すごくするので。

掲句は句集『アマタイ句帳』(2022年7月/思潮社)所収。

2022年9月23日金曜日

●金曜日の川柳〔楢崎進弘〕樋口由紀子



樋口由紀子






犬が来て笠置シヅ子の真似をする

楢崎進弘 (ならざき・のぶひろ) 1942~

「笠置シヅ子」と言えば、すぐに「東京ブギブギ」や「買物ブギー」、当時としては派手な衣装や振り付けを思い浮かぶ。犬が作者のところに来て、ブギブギの踊りを披露してくれたのだろうか。作者が笠置シヅ子の真似と見えただけで、犬はたぶんそんなつもりはない。人を追っ払うために怖がらせようとしたのだ。ただその姿がなんともおかしく、なつかしく思い出したのだろう。

それとも、作者が犬が来たので、笠置シヅ子の真似をして、見せたのだろうか。理由は犬と同様に追っ払うために、怖がらせるためか。それとも犬を笑わせようとしたのか。その姿を想像するだけでおかしい。犬も人も時には思いもよらないチグハグな行動をする。「浮遊機械Ⅲ」(2022年刊)収録。

2022年9月22日木曜日

〔俳誌拝読〕『静かな場所』第29号

〔俳誌拝読〕
『静かな場所』第29号(2022年9月15日)



A5判・本文30頁。発行人:対中いずみ、編集・デザイン:藤本夕衣。招待作品、同人諸氏作品がそれぞれ15句。特集、森賀まり『しみづあたたかくふくむ』鑑賞に同人3氏のほか、依光陽子、西村麒麟が寄稿。特別寄稿に四ツ谷龍「田中裕明俳句における正字の使用について」。シリーズ/連載に、若林哲哉、柳元祐太が寄稿。

山吹に溜る夕日となりにけり  千葉皓史(招待作品)

くちなはを水に放てばほぐれけり  森賀まり

水底の岩揺らしゐる春の波  対中いずみ

水抜かれ池しろじろと花石榴  藤本夕衣

雪催むかしの本の匂ひして  満田春日

(西原天気・記)



2022年9月21日水曜日

〔俳誌拝読〕『なんぢや』第58号

〔俳誌拝読〕
『なんぢや』第58号(2022年9月10日)


A5判・本文24頁。招待席に俳句5句、同人諸氏の10句作品と短文を掲載。

うたたねのさざなみが来る酔芙蓉  三宅やよい(招待席)

金魚売る店どぢやうのひつそりと  榎本亨

今日も湖見てをられるか生身魂  えのもとゆみ

太宰忌の高くて小さきバーの椅子  遠藤千鶴羽

かはほりや一粒逃ぐる百草丸  太田うさぎ

あめんぼう風に戻されつつ進む  金山桜子

かぎりなく水の色なる扇風機  川嶋一美

雨粒に長き葉しなふ秋ついり  のの季林

(西原天気・記)



2022年9月20日火曜日

〔俳誌拝読〕『ASYL(アジール)』第2号

〔俳誌拝読〕
『ASYL(アジール)』第2号(2022年8月)



A5判・本文28頁。同人諸氏の10句作品と短文。

桑の実のひとつ恋しき午後の五時  五十嵐秀彦

サンダルの片方犬が掻つ払ひ  田島ハル

六月の半透明の広辞苑  Fよしと

ケサランパサラン夢まで雷の匂ひ  土井探花

寄居虫見失ふ六度目の転校  近藤由香子

チューリングテスト終へたり冷奴  彼方ひらく

峰雲や汽笛はベタ塗りの午後へ  村上海斗

ことだまを吐ききり水中花展く  青山酔鳴

どのベンチにも炎帝が坐りをり  安藤由起

(西原天気・記)



2022年9月19日月曜日

●月曜日の一句〔甲斐由紀子〕相子智恵



相子智恵







秋夕焼最晩年の父と見し  甲斐由紀子

句集『耳澄ます』(2022.7 ふらんす堂)所収

本句集は編年体で編まれており、後半は父の介護と看取りの句が大きな山場となっている。

  永眠の前の熟睡や水温む

  木の芽どき湯灌の膝のよく撓ふ

など、静かながら迫力に満ちた看取りの句は、掲句の次に巡り来る春の句の中にあった。つまり掲句は、父の最晩年を後から思い出して詠んだ回想の句ではない。「今が最晩年である」ということを、まさに今、父は生きながら、子は認識しながら、二人で見ている秋の夕焼なのである。そのことに私は凄味を感じた。

「最晩年」という言葉は、評伝のような書物に出てくる言葉である。ある人の死後、故人の人生を誰かが遡って語る時の言葉だ。しかし、介護をしていると明らかに「ただの晩年」ではなく、「最晩年だ」と感じるほどの衰弱に一定期間、向き合うことになる。その人の息に、食事に、排泄に、苦しみに神経をとがらせ、生きるための世話をしながらも、同時に死は近いのだという俯瞰した諦めと寂しさがある世界。

俳句というごく短い詩型によって引き出されたであろう「最晩年」という直截的な言葉は、そのすべてを物語っているのではなかろうか。背景を知らずに読めば回想の句として読めるが、私が感じたのは、そういう今を生きつつ詠んだ句としての凄味なのである。

それだけではない。父の死後にこの句を読めば、あの日父と見た秋夕焼を静かに、心安らかに思い出すことができる。この句はいわば「美しき回想の先取り」でもあり、未来の自分を慰撫してほしいという祈りをもまた、作者は込めたのではないだろうか。そしてそれはきっと一緒に夕焼を見ている父もまた、子のことを思えば同じ祈りをもったことであろう。

一句を取り出してみてもしみじみとするが、句集の中で読むことで、句の中に流れる時間性の不思議さや祈りが感じられてくる一句である。

2022年9月16日金曜日

●金曜日の川柳〔鈴木節子〕樋口由紀子



樋口由紀子






三〇〇〇錠は胃に入れてます一年で

鈴木節子 (すずき・せつこ) 1935~

またまた、大袈裟な、盛りすぎ、と思って、念のために計算してみた。3000÷365=8.219……。一日の朝昼晩の服用なら8錠は充分あり得る。そんな人は大勢いるだろう。生活の中であたりまえだと思っていたことを、こうやって切り取られると、ただごとがただごとではないみたいでハッとする。

真面目にまるで義務のように「胃に入れてます」の表現も楽しい。8錠ぐらいでは日常に埋もれるのに、3000錠となると非日常に域に達するような気がする。しかし、それは無事でいるための、日常そのものなのである。生きていくということはこういうことなのだ。今の私たちの生活の本質を突いている。「触光」(74号 2022年刊)収録。

2022年9月15日木曜日

〔俳誌拝読〕『トイ』第8号(2022年9月15日)

〔俳誌拝読〕
『トイ』第8号(2022年9月15日)

A5判・本文20頁。編集発行人:干場達矢。同人諸氏の12句作品と短文(一句逍遥)。

次々と屋根を濡らして夕立来る  仁平勝

蓮ぽっとひらき送電線きれい  池田澄子

一歳から百歳までのソーダ水  樋口由紀子

喜劇たけなは冷房が効きすぎてゐる  干場達矢

重さうな水の嵩なり熱帯魚  青木空知

(西原天気・記)



2022年9月14日水曜日

西鶴ざんまい 番外編8 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇8
 
浅沼璞
 

先月、猛暑のなか久々に関西へ出向き、京都と大津を散策しました。



まずは東本願寺。参拝接待所からギャラリーを巡り、高廊下を渡って御影堂へ。そこでご法話を30分ほど聴聞しました。

真宗寺院と言えば、旧暦・節分の夜、平太郎殿(聖人の弟子真仏上人)に材を得た法話が行われたといいます。

西鶴の『世間胸算用』にも「平太郎殿」という一篇があり、ちょうど節分と大晦日が重なった年の話で、みな忙しく、参詣人は三人のみ。賽銭も少ないので住職は法話を切りあげようとするのですが、逆に参詣人が己の苦労話を次々に語る、というドタバタ喜劇です。



さて現在も節分のご法話が「平太郎殿」なのかは知りませんが、今回は『往生要集』で知られる源信僧都に始まり、かのスーパーボランティアからウクライナへという展開でした。

畳のお堂は天井も高く、風通しも良く、三十人ほどの聴聞者はソーシャルディスタンスも十分に、ゆったりとした時間を体感できました(足は思いっきり痺れましたが)。



さてその足で五分ほど歩き、渉成園 (枳殻邸)を訪ね、源融ゆかりの塔を眺めるも、あまりの猛暑に耐えきれず、近場のブライアン・イーノ展の会場ビルへと非難。
 
汗でびっしょりのマスクを替え、アンビエントなインスタレーションに涼をとりました。
 
薄暗い建物一棟、廊下はもちろんトイレにまで音楽が流れ、盆栽・盆石が置かれ、とある一室ではポートレートが刻々と変化し、イーノの禿頭=西鶴の如し、と合点しました。
 
〈ありきたりな日常を手放し、別の世界に身を委ねることで、自分の想像力を自由に発揮することができるのです〉――入場パンフにあったイーノのことばです。



翌日は大津。琵琶湖疎水を辿りながら三井寺へ。

西鶴の『日本永代蔵』に「怪我の冬神鳴」という一篇があり、そこに大津関寺町の流行らない医者が登場します。世間体から毎朝家を出るものの、往診先もなく、近所の神社の絵馬を眺めわび、三井寺・高観音からの近江八景にも飽き、影では絵馬医者と呼ばれる残念なエピソードです。

今の三井寺は江戸の昔ほど眺望が開けていないと思われますが、それでも観音堂境内から見晴るかす近江八景はひろびろと気持ちの良いものでした。



そして陸路で近江八景のひとつ、唐崎へ。

芭蕉の発句でも知られる唐崎の松ですが、残念ながら夏枯れ状態。それでも湖面を渡る涼風がつかの間の秋を感じさせてくれました。
 
そこから石亀ひしめく義仲寺へ向ったのですが、蕉翁の話が続くので割愛します。
 
「そやな、そのほーがえーな」
 
はい、でもこれだけは言わせて下さい。三日目、イーノ展で再び涼をとってしまいました。
 
 

2022年9月13日火曜日

〔人名さん〕高田賢三

〔人名さん〕高田賢三

ケンゾーよ立待月を裁ちて逝け  津髙里永子

高田賢三(1939年 - 2020年)。

津髙里永子句集『寸法直し』2022年2月22日/東京四季出版



2022年9月12日月曜日

●月曜日の一句〔斉田仁〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




ぬばたまの闇に生まれて新走  斉田仁

句集『異熟』(2013年2月/西田書店)所収。

新走(あらばしり)は新米で醸造した酒、新酒のこと。

酒の歴史はとてつもなく古く、有史以前、1万年以上前から、人類は酒とともにあったらしい。枕詞「ぬばたま」の歴史はせいぜい千年と少しなので、酒にはぜんぜん追いつけない。というか、古色をまとった句のつくりは、酒を詠むのによく合っている。いかにも美味しそうだもの。

「生まれて」は絶妙で、真っ暗闇の酒樽の中でふつふつと発酵するさま(想像でしかないけれど)は、いかにも「生まれる」感じだ。蒸留酒では、この感じが出ない。

2022年9月11日日曜日

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2022年9月9日金曜日

●金曜日の川柳〔高須啞三味〕樋口由紀子



樋口由紀子






待ち呆け来たら殴ろうかと思い

高須啞三味 (たかす・あざみ) 1894~1965

なんて素直で不器用な人なんだろう。イライラ感が最高潮に達し、来ないのではないかという心配で「殴る」しか思い浮かばない。それほど来て欲しくて、会いたいのだ。自分で自分が制御できなく、自分の思いを他では表すことができない。「殴る」がせつない。

しかし、作者も「と思い」だから、そう思っているだけで、実際は今来たふりをするか、それぐらい待っても気にしない素振りをするのだろう、きっと。「待つ」「呆ける」「来る」「殴る」「思う」の動詞の連結だけで一句を仕上げている。

2022年9月5日月曜日

●月曜日の一句〔白石渕路〕相子智恵



相子智恵







水に置く流燈母を照らし出し  白石渕路

句集『蝶の家』(2017.9 朔出版)所収

灯籠流しは『図説 俳句大歳時記』の初版には〈精霊舟を流すことと送り火をたくことが結びついてできた行事のようである。もとは、やはり火の力で精霊を送り出そうとしたもので、西国の港町などには古くから名物と化して、いろいろの趣向がこらされた〉とある。考証には〈『世話尽』(明暦二)に「流し火」として七月に初出〉とはあるものの俳諧の例句はなく、〈流燈の唯白きこそあはれなれ 虚子〉は昭和5年。他の例句から見ても、私が想像したよりも新しい季語のようだ。

流燈の「火」が何を表しているのか(精霊そのものが宿ったものなのか)を知りたくて調べたのだけれど、送り火だとしたら、精霊の帰り道を照らす役割ということになるのだろう。

掲句、流燈が流れ出す前の、一瞬の滞留時間が描かれている。流燈に先導されてこれから母の元を去る精霊が、母との別れを惜しんでいる。そんな流燈に照らされた母を詠む作者の思いも、母と、そして精霊と一緒なのだろう。今はこの世にいない精霊を含めた家族の思いの重層性が、句に静かな厚みをもたらしている。

  流すべき流灯われの胸照らす  寺山修司

  流燈や一つにはかにさかのぼる  飯田蛇笏

修司は流燈を描きつつ自分自身を詠み、蛇笏は流燈そのものに意思(それは精霊の意思であろう)があるように詠んでいて、どちらもその作者らしい。渕路氏は流燈と母を詠み、家族としての自分の思いもそこに表れている。それぞれの向き合い方が、いずれも美しい。

2022年8月31日水曜日

西鶴ざんまい #32 浅沼璞


西鶴ざんまい #32
 
浅沼璞
 

 宮古の絵馬きのふ見残す   打越(裏六句目)
心持ち医者にも問はず髪剃りて 前句(裏七句目)
 高野へあげる銀は先づ待て  付句(裏八句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「三句の放れ」を吟味すると――打越・前句では病人のおめかしだった「髪剃りて」を、前句・付句では出家のための剃髪と取り成しての転じと思われます。

これを「眼差し」の観点からみると――絵馬見たさに無断外出しようとする病人をあばく暴露本作家の「眼差し」から、剃髪して寄進しようとする病人を諫める隠居老人の眼差しへの転換とでもいえばよいでしょうか。浮世草子の町人物の世界です。



さて今回の若殿(若之氏)からのメールは、前句「髪剃りて」も付句「先づ待て」も同じ「て留」やろ、という前回の西鶴さん(?)の暴言に関するものでした(暴言を吐かせているのは愚生ですが)。

曰く
この短句、末尾「先づ待て」が命令形ですから、付句としてはけっこう強い切れが生じているようにも感じます。
 
いわゆる切れ字十八字にも命令形の語尾にあたるものがいくつか含まれていますが、このころはまだ、「命令形で切れる」という基準が文法的に明確に共有されておらず、実践における切れの判断は仮名そのものによるところが大きかったということでしょうか。たしかに、その見方でいくと、文中の西鶴さんが言っているようにこの句は「て留」ということになりますね。
 
あるいは、発句に切れ字がないといけないという考えは古くからあるとして、付句に切れ字があってはいけないという考えは、もしかすると俳諧史においてわりと新しいものだったりするのでしょうか。



答えになるかどうか心もとないですが、命令形の付句というと同時代では――
 
  くれ縁に銀土器(かはらけ)をうちくだき
    身細き太刀の反ることをみよ 
(『去来抄』「修行」1702~4年)

命令形の「よ留」は連歌にも多くて、有名な水無瀬三吟(1488年)だと――

   身のうき宿も名残こそあれ    宗長
  たらちねの遠からぬ跡になぐさめよ 肖柏

文法書を繙くと、命令形語尾の「よ」はもともと間投助詞だったとのよし。範囲を間投助詞まで広げれば、「よ留」いろいろありそうですよ。



「なんや、『て留』の話はどないしたんよ」

はい、鶴翁は矢数俳諧の頃、とっくに命令形の「て留」、やってまして。

  分別も又は出さうな所也
   是一番は負けにして打て 
(『西鶴大矢数』「第一」1680~1年)

「命令形だか体重計だかしらんけど、『て留』は『て留』やって」

あーっ、話がもどりますって。


 
[註]命令形のほか、や・かな・けり等の付句使用に関しても順次ふれていきます。
 

2022年8月29日月曜日

●月曜日の一句〔越智友亮〕相子智恵



相子智恵







街路樹に秋のひかりよ夏ではない  越智友亮

句集『ふつうの未来』(2022.6 左右社)所収

季節の移り変わりの中でも、「光」に変化を感じるのが晩夏から秋への移り変わりではないだろうか。きっと立秋を過ぎた八月後半の街路樹だろう。〈街路樹に秋のひかりよ〉までは普通の句なのに〈夏ではない〉とダメ押しされることで生まれる可笑しさがある。しかし、それがただの笑いや屁理屈に陥っているわけではなくて、このダメ押しに「切なさ」を感じてしまうのが掲句のグッとくるところだ。

〈夏ではない〉は「夏の光ではない」ということではない。「夏という季節が含む全て、ではない」ということである。夏の弾けるような楽しさの全てが失われてしまったことを街路樹の秋の光に突きつけられているのだ。

街路樹という「平日の街」を感じるところからもそれが分かる。休みや祭りはもう終わり。初秋の光には、「もう、夏ではない」と嘆くしかない切なさがある。