2020年11月30日月曜日

●月曜日の一句〔鴇田智哉〕相子智恵



相子智恵







凩にほつそりと傘ひねらるる  鴇田智哉

句集『エレメンツ』(2020.11 素粒社)所載

凩で雨は降っていないから、傘は閉じられて巻かれている、あるいは今巻いているのだろう。凩の前には時雨が来ていたのかもしれない。

傘が、巻かれていないふんわりした状態から、ひねられながら〈ほつそりと〉と巻かれてゆく。あるいは「ほつそりとした傘」と読めば、華奢な女性物の傘の形容のようにも思える。〈傘ひねらるる〉は、傘が今まさにひねられながら巻かれている様子にも、あるいはほっそりとした手首が(巻く傘に添って)ひねられていく様子に着目したようにも思える。

あるいはどこにも「巻かれる」とは書かれていないのだから、傘が〈ひねらるる〉とは、上記の読みとは全く違うことなのかもしれない。例えば凩が吹き込む玄関の傘立てに立てられた、ほっそりとした傘の、ぐりんとひねられた柄の部分に着目したのかもしれない。よく考えてみればこの句にはどこにも人が登場していない。人の気配はあるけれど。

このように想像は幾重にもできて、それらの断片が風景を心の中に構築してゆく。鴇田氏の句を読んでいると、キュビズムみたいだなと思うことがあって、様々な角度、視点から風景を(描かれた対象物から描く自分を見返す視点も含めつつ)描いていくのだけれど、そこからぽっかりと不在なような、あるいは見えない何かがみっちりと充填されているような、不思議な構造物が出来上がる。

それは一人ひとり違う構造物になるはずだから、こうして鑑賞するのはちょっと難しい。けれども、凩とほっそりとひねられた傘からはある種の空気が醸し出されていて、頭の中に明確な風景は浮かばないのに、風景のもつ「手触り」のようなものが感じられてくる。その手触りは確かに風景句の手触りであって、言葉だけで創造された句のもつ手触りではない。それがとても心地よい不思議さなのである。

 

2020年11月27日金曜日

●金曜日の川柳〔蟹口和枝〕樋口由紀子



樋口由紀子






この世からフッとなくなる京都駅

蟹口和枝 (かにぐち・かずえ) 1959~

アッという間にコロナの世の中になった。何が起こるがわからない。京都駅もフッとなくかもしれない。あり得ないことをさもあり得るように言挙げしている。しかし、ひょっとしたら、そんなことがあるかもしれないとフッと思わせる。

京都駅は建造物だから、「フッとなくなる」の代物ではない。フッとなくなるなんて、まるで人間のようである。かと言って、京都駅に感情移入しているというのでもなさそうである。説明不可能な、何の根拠もない感覚を一句にしている。共感とか伝達とは別バージョンの、放り投げただけのような無責任さがこの句の魅力である。「うみの会」。

2020年11月25日水曜日

【俳誌拝読】『俳誌五七五』第6号(2020年10月20日)

【俳誌拝読】
『俳誌五七五』第6号(2020年10月20日)


B5判変型・本文40頁。編集発行人:高橋修宏。5氏5作品(各15句)と8本のエッセイを収める。

根こそぎの影を背負いてゆく揚羽  三枝桂子

白旗の振られて涼し前線は  佐藤りえ

時計草萎れダリの義眼(いれめ)が曇る  井口時男

鈍いろの日没ありき胡桃割り  増田まさみ

奇魂(くすだま)のはみ出る熊のぬいぐるみ  高橋修宏

エッセイの執筆者は、打田峨者ん、佐藤りえ、増田まさみ、井口時男、松下カロ、今泉康弘、高橋修宏、星野太の各氏(掲載順)。

(西原天気・記)



2020年11月23日月曜日

●月曜日の一句〔竹村翠苑〕相子智恵



相子智恵







虎挟みの狸殺して流したり  竹村翠苑

句集『豊かなる人生』(2020.10 朔出版)所載

〈虎挟み〉は罠。罠にかかった狸を殺して川に流したという、実に即物的な句である。作者は98歳にして、長野県の大町で現役で農事を営む。畑を荒らされないように、狸を殺さなければならないのだ。

南信州の私の祖父も農を営んでいた。家はテレビの「ポツンと一軒家」みたいな山の中にあって、祖父は冬には猟友会として山で猟をした。庭で兎の毛を毟って食べさせてくれた兎汁は、その一部始終が子供心に衝撃的で、ほとんど泣きながら食べた。

祖父の通夜の日、久々に祖父の畑を歩いていたら、隅に鉄屑で檻が作ってあって、中に烏賊の内臓が棒切れに刺して置いてあった。あまりにも唐突なその光景に、家を守る伯父に聞くと、畑を荒らす狸を捕まえるための即席の狸罠だという。狸が烏賊のワタを食べるのかしらと思ったが、祖父を出棺する翌朝、無事にかかったと聞いた。狸は見なかったが、殺したのだろう。

掲句にそんな祖父の畑を思い出した。〈鍬の先はね返したり旱畑〉〈踏み潰す土竜一匹秋暑し〉など土の匂いを感じる句群は、今の時代、もはや貴重なものとなっている。

 

2020年11月22日日曜日

【俳誌拝読】 『ユプシロン』第3号(2020年11月1日)

 【俳誌拝読】
『ユプシロン』第3号(2020年11月1日)


A5判・本文28頁。4氏それぞれ50句を発表。以下に1句ずつ。

蟋蟀や夜空を黒で塗りつぶし  仲田陽子

椅子の背のすらりと伸びる夏燕  中田美子

胡桃から胡桃以外の音がする  岡田由季

白菜の断面ふたつ天へ向く  小林かんな


(西原天気・記)



2020年11月16日月曜日

●月曜日の一句〔秦夕美〕相子智恵



相子智恵







見ず聞かず信ず来世の雪の椅子   秦 夕美

句集『さよならさんかく』(2020.9 ふらんす堂)所載

「見ざる、聞かざる、言わざる」という言葉がある。そんな調子で掲句をトントントンと読んでいくと、〈見ず聞かず信ず〉は、「見ない、聞かない、信じる」と、〈信ず〉だけが否定ではないところに、深く感じ入る。〈来世〉は見たこともないし、聞いたこともないけれど(そしてそれは、生きている者としては当たり前のことだけれども)、その存在を信じる、というのである。

その信じるものがただ〈来世〉だけでは一句が観念に過ぎなくなるのだが、〈来世の雪の椅子〉という具体的な物が見えてくるところで、一気に心を持っていかれる。真っ白で冷たい雪の椅子に、冷え冷えと座わる。そんな来世はたいそう美しい。
〈来世〉は仏教の言葉でありながら、ここでは(行ったことはないけれど)北欧のアイスホテルが想像されてきたりして、洋の東西を問わない自在な美意識もまた、この作者らしいと思うのである。

 

2020年11月13日金曜日

●金曜日の川柳〔村上てる〕樋口由紀子



樋口由紀子






歩くのがあきて今度は平泳ぎ

村上てる (むらかみ・てる)

健康とダイエットのためにウオーキングをしていたのだろう。しかし、代わり映えしない景色に、退屈で飽き、目線を変えようと、次はスイミングを始めた。ランニングではなく歩くだったから、今度もクロールでなく、平泳ぎ。バランスが取れている。なんとしてもという必死さがなく、がんばろうという意気込みも希薄である。他の泳法でがんばっている人たちを横目に、水に顔をつけないでのんびりと泳いでいる作者の姿が目に見えそうである。

今を生きている感があり、特別なことがなにもない、ごくふつうの生活そのもの、そのままの手触り感がいい。平泳ぎにあきるのも時間の問題のような気がする。〈平泳ぎにあきて歩くのに戻る〉の句を何か月後かに見られるような気がする。「おかじょうき」(2020年刊)収録。

2020年11月9日月曜日

●月曜日の一句〔南うみを〕相子智恵



相子智恵







冬ざくら音なく沖のたかぶれる   南うみを

句集『凡海』(2020.9 ふらんす堂)所載

冬が立った。これから冬の句を楽しもうと思う。

掲句、美しい句だ。〈冬桜〉は冬に咲く種類の桜で、山桜と富士桜の雑種といわれる。海辺の近景に〈冬桜〉、遠く沖に目をやれば白波が立っているのだろう。沖の波が高ぶっているのがわかる。きっとその波は、やがて浜にも寄せることになるのだろうが、沖だから今はその高い波音は聞こえず、〈音なく〉も納得である。

もちろん浜に寄せている波の音の方は、海からの距離にもよるが微かにでも聞こえているはずで、それは沖ほどにはまだ荒れてはいないのだろう。ここでは〈音なく〉と沖の波の無音を選び取ったことで、読者には静寂が訪れる。

冬桜の白色と、沖の高ぶる白波の色が響きあって美しい。平仮名を効果的に使ってゆったりと静かに読ませながら、それでいてK音の繰り返しに静かな緊張感がある。平穏と不穏のあわいに冬の海らしさを感じる見事な風景句だと思う。

句集名の『凡海』は「おおしあま」と読む。作者が住む若狭の海の古名であるということだ。

 

2020年11月8日日曜日

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2020年11月6日金曜日

●金曜日の川柳〔小林康浩〕樋口由紀子



樋口由紀子






バス二回乗り継いでから深緑

小林康浩 (こばやし・やすひろ) 1957~

最初は新緑が美しいと評判のところに行くのにはバスを二回乗り継いで行かねばならないのかと思った。不便で、人も少なく、開発されていないから、山や森の緑は守られている。そこでやっと新緑を愛でることができる。新緑を見るのもごくろうなことである。

しかし、よく見ると「深緑」だった。濃いふかみどりである。そして、「乗り継いでから」とある。「濃いふかみどり」は人生の行きついたところだろうか。「バス」は仕事かもしれない。二回転職をして、バスでガタガタ道を揺られるように、慣れない仕事をどうにかこなしてきた。そして、「深緑」に巡り合えた。そうしなければ出会うことも気づくこともがなかった。深緑に出会えたから、バス二回乗り継いだことを感慨深く、あらためて振り返っているのだろう。『どぎまぎ』(2020年刊)所収。

2020年11月2日月曜日

●月曜日の一句〔小池康生〕相子智恵



相子智恵







林檎嚙む林檎のなかに倦みし音   小池康生

句集『奎星』(2020.10 飯塚書店)所載

例えば林檎と梨では噛んだ時の音が全く違う。梨は「シャリッ」としているけれど、林檎は「タリッ」という感じ。「カリッ」よりももう少し鈍くて実が詰まっている感じだ。梨よりは明らかに鈍い。その音を〈倦みし音〉とは、なるほど感覚の鋭い把握である。

特に少し萎びて弾力がなくなってきた頃の林檎(筆者の出身の長野県では、これを「林檎がぼける」と言った)も、まさに掲句のように〈倦みし音〉だと思う。梨ももちろん萎びると「シャリッ」とはしないのだけれど、それでもこの〈倦みし音〉は林檎特有のもののように思える。

音に対する感覚の鋭さだけではなく、これは作者の心の中とももちろん繋がっているのだろう。林檎を食べている時の物思いも、〈倦みし音〉には含まれているのである。