2022年9月30日金曜日

●金曜日の川柳〔石部明〕樋口由紀子



樋口由紀子






眼球の奈良が都であった頃

石部明 (いしべ・あきら) 1939~2012

独特の話のもっていき方である。しかも、「奈良が都であった頃」とはあまりにも昔の時代設定である。その頃に一体何があったのか。何を見たのだろうか。人は思い出したい過去も思い出したくない過去も持っている。甘美な出来事も愚かな行為も自分にとっては必要不可欠なことだったのだと思いたい。必然を得てすべてを昇華するために、あらためて言葉にして、遠い過去の物語にしたのだろう。

「眼球」は鋭敏で不気味そのもので、身体感覚に食い込んでくる、異界との通路である。今、「眼球」はありきたりのものしか見ようとしない。自分という存在がどんどん曖昧になっていく。シンボリックに自分の感覚を取り戻そうとしている。「MANO」(16号)収録。

2022年9月28日水曜日

西鶴ざんまい 番外編9 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇9
 
浅沼璞
 

西鶴ざんまい#32の若之氏の質問、こんかいは以下の部分について番外編として記してみます。

〈……発句に切れ字がないといけないという考えは古くからあるとして、付句に切れ字があってはいけないという考えは、もしかすると俳諧史においてわりと新しいものだったりするのでしょうか〉

仰せのとおり、古くから〈発句は切字と申すこと御入候はで叶はず候。その切字なく候へば平句に相聞えてあしく候〉(連歌至宝抄)とあります。

一方、付句の切字に関しては後年〈平句に切字を嫌ふ〉(芭蕉庵伝書)などといわれたようです。



しかし実作面をみると、談林俳諧は言わずもがな、蕉門とて平句の切字が散見されます。何故でしょう。
 
芭蕉の有名な口伝に、〈切字に用ふる時は四十八字皆切字なり。用ひざる時は一字も切字なし〉(去来抄)がありますが、これを逆に言えば、切字として〈用ひざる時は〉平句に切字あるもよし、ということでしょうか。



恰好の例が『冬の日』第三歌仙(名オ3句目)にあります。
 
  おかざきや矢矧(はぎ)の橋のながきかな 杜國
 
ご覧のとおり「や・かな」がダブル使用されています。
 
三河・岡崎の宿の、東海道一長いという矢矧川の橋を詠んでおり、「や」は軽い間投助詞として読めますが、「かな」はどうでしょうか。

後年、高桑蘭更はこの句をめぐって、〈平句の哉(かな)の長句にても短句にても一座一句はいだすことなり。長句の哉は発句の哉と差別有ていだすべきか〉(俳諧七部解初篇冬の日)と述べています。

いうまでもなく平句には長句/短句があります。とりわけ長句は発句と同じ音数律をもちます。
 
仮に一座一句「かな」の使用が許されるにしても発句の「かな」と区別すべきか、という問題提起でしょう。



ひるがえって発句と異なる音数律をもつ短句はどうだったのでしょう。
 
無条件で一座一句「かな」を使用できたのでしょうか。

じつは短句の「かな」をめぐっては、有名な貞門・談林論争で興味深いやり取りが残されているのですが、長くなりそうなので、次回にまわそうと思います。
 
「なんや後回しかいな」
 
後回しじゃなくて、トリですって。
 
「また、うまいこといいよる」

2022年9月26日月曜日

●月曜日の一句〔天沢退二郎〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




あまりにもペンギンゆえ右翼手(ライト)身じろがず  天沢退二郎

※ライトはルビ

ペンギンにも程度があって、例えば、ややペンギンな状態やら、そううにペンギンな度合いやら。掲句では、過度にペンギン。それゆえ、不動(比喩ではなく物理的に)の右翼手。

右翼手の視線の先には、投手の背中だろうか、左バッターの内角低めだろうか。前を見ているようで、もしかしたらあまり見ていないかもしれない。

ともかく、見慣れた景色のなかに、ペンギンを置いてみることを、私は、これから頻繁に、するかもしれない。そうすることで、驚異的な、あるいはちょっと機微のある景色が立ち現れるような気が、すごくするので。

掲句は句集『アマタイ句帳』(2022年7月/思潮社)所収。

2022年9月23日金曜日

●金曜日の川柳〔楢崎進弘〕樋口由紀子



樋口由紀子






犬が来て笠置シヅ子の真似をする

楢崎進弘 (ならざき・のぶひろ) 1942~

「笠置シヅ子」と言えば、すぐに「東京ブギブギ」や「買物ブギー」、当時としては派手な衣装や振り付けを思い浮かぶ。犬が作者のところに来て、ブギブギの踊りを披露してくれたのだろうか。作者が笠置シヅ子の真似と見えただけで、犬はたぶんそんなつもりはない。人を追っ払うために怖がらせようとしたのだ。ただその姿がなんともおかしく、なつかしく思い出したのだろう。

それとも、作者が犬が来たので、笠置シヅ子の真似をして、見せたのだろうか。理由は犬と同様に追っ払うために、怖がらせるためか。それとも犬を笑わせようとしたのか。その姿を想像するだけでおかしい。犬も人も時には思いもよらないチグハグな行動をする。「浮遊機械Ⅲ」(2022年刊)収録。

2022年9月22日木曜日

〔俳誌拝読〕『静かな場所』第29号

〔俳誌拝読〕
『静かな場所』第29号(2022年9月15日)



A5判・本文30頁。発行人:対中いずみ、編集・デザイン:藤本夕衣。招待作品、同人諸氏作品がそれぞれ15句。特集、森賀まり『しみづあたたかくふくむ』鑑賞に同人3氏のほか、依光陽子、西村麒麟が寄稿。特別寄稿に四ツ谷龍「田中裕明俳句における正字の使用について」。シリーズ/連載に、若林哲哉、柳元祐太が寄稿。

山吹に溜る夕日となりにけり  千葉皓史(招待作品)

くちなはを水に放てばほぐれけり  森賀まり

水底の岩揺らしゐる春の波  対中いずみ

水抜かれ池しろじろと花石榴  藤本夕衣

雪催むかしの本の匂ひして  満田春日

(西原天気・記)



2022年9月21日水曜日

〔俳誌拝読〕『なんぢや』第58号

〔俳誌拝読〕
『なんぢや』第58号(2022年9月10日)


A5判・本文24頁。招待席に俳句5句、同人諸氏の10句作品と短文を掲載。

うたたねのさざなみが来る酔芙蓉  三宅やよい(招待席)

金魚売る店どぢやうのひつそりと  榎本亨

今日も湖見てをられるか生身魂  えのもとゆみ

太宰忌の高くて小さきバーの椅子  遠藤千鶴羽

かはほりや一粒逃ぐる百草丸  太田うさぎ

あめんぼう風に戻されつつ進む  金山桜子

かぎりなく水の色なる扇風機  川嶋一美

雨粒に長き葉しなふ秋ついり  のの季林

(西原天気・記)



2022年9月20日火曜日

〔俳誌拝読〕『ASYL(アジール)』第2号

〔俳誌拝読〕
『ASYL(アジール)』第2号(2022年8月)



A5判・本文28頁。同人諸氏の10句作品と短文。

桑の実のひとつ恋しき午後の五時  五十嵐秀彦

サンダルの片方犬が掻つ払ひ  田島ハル

六月の半透明の広辞苑  Fよしと

ケサランパサラン夢まで雷の匂ひ  土井探花

寄居虫見失ふ六度目の転校  近藤由香子

チューリングテスト終へたり冷奴  彼方ひらく

峰雲や汽笛はベタ塗りの午後へ  村上海斗

ことだまを吐ききり水中花展く  青山酔鳴

どのベンチにも炎帝が坐りをり  安藤由起

(西原天気・記)



2022年9月19日月曜日

●月曜日の一句〔甲斐由紀子〕相子智恵



相子智恵







秋夕焼最晩年の父と見し  甲斐由紀子

句集『耳澄ます』(2022.7 ふらんす堂)所収

本句集は編年体で編まれており、後半は父の介護と看取りの句が大きな山場となっている。

  永眠の前の熟睡や水温む

  木の芽どき湯灌の膝のよく撓ふ

など、静かながら迫力に満ちた看取りの句は、掲句の次に巡り来る春の句の中にあった。つまり掲句は、父の最晩年を後から思い出して詠んだ回想の句ではない。「今が最晩年である」ということを、まさに今、父は生きながら、子は認識しながら、二人で見ている秋の夕焼なのである。そのことに私は凄味を感じた。

「最晩年」という言葉は、評伝のような書物に出てくる言葉である。ある人の死後、故人の人生を誰かが遡って語る時の言葉だ。しかし、介護をしていると明らかに「ただの晩年」ではなく、「最晩年だ」と感じるほどの衰弱に一定期間、向き合うことになる。その人の息に、食事に、排泄に、苦しみに神経をとがらせ、生きるための世話をしながらも、同時に死は近いのだという俯瞰した諦めと寂しさがある世界。

俳句というごく短い詩型によって引き出されたであろう「最晩年」という直截的な言葉は、そのすべてを物語っているのではなかろうか。背景を知らずに読めば回想の句として読めるが、私が感じたのは、そういう今を生きつつ詠んだ句としての凄味なのである。

それだけではない。父の死後にこの句を読めば、あの日父と見た秋夕焼を静かに、心安らかに思い出すことができる。この句はいわば「美しき回想の先取り」でもあり、未来の自分を慰撫してほしいという祈りをもまた、作者は込めたのではないだろうか。そしてそれはきっと一緒に夕焼を見ている父もまた、子のことを思えば同じ祈りをもったことであろう。

一句を取り出してみてもしみじみとするが、句集の中で読むことで、句の中に流れる時間性の不思議さや祈りが感じられてくる一句である。

2022年9月16日金曜日

●金曜日の川柳〔鈴木節子〕樋口由紀子



樋口由紀子






三〇〇〇錠は胃に入れてます一年で

鈴木節子 (すずき・せつこ) 1935~

またまた、大袈裟な、盛りすぎ、と思って、念のために計算してみた。3000÷365=8.219……。一日の朝昼晩の服用なら8錠は充分あり得る。そんな人は大勢いるだろう。生活の中であたりまえだと思っていたことを、こうやって切り取られると、ただごとがただごとではないみたいでハッとする。

真面目にまるで義務のように「胃に入れてます」の表現も楽しい。8錠ぐらいでは日常に埋もれるのに、3000錠となると非日常に域に達するような気がする。しかし、それは無事でいるための、日常そのものなのである。生きていくということはこういうことなのだ。今の私たちの生活の本質を突いている。「触光」(74号 2022年刊)収録。

2022年9月15日木曜日

〔俳誌拝読〕『トイ』第8号(2022年9月15日)

〔俳誌拝読〕
『トイ』第8号(2022年9月15日)

A5判・本文20頁。編集発行人:干場達矢。同人諸氏の12句作品と短文(一句逍遥)。

次々と屋根を濡らして夕立来る  仁平勝

蓮ぽっとひらき送電線きれい  池田澄子

一歳から百歳までのソーダ水  樋口由紀子

喜劇たけなは冷房が効きすぎてゐる  干場達矢

重さうな水の嵩なり熱帯魚  青木空知

(西原天気・記)



2022年9月14日水曜日

西鶴ざんまい 番外編8 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇8
 
浅沼璞
 

先月、猛暑のなか久々に関西へ出向き、京都と大津を散策しました。



まずは東本願寺。参拝接待所からギャラリーを巡り、高廊下を渡って御影堂へ。そこでご法話を30分ほど聴聞しました。

真宗寺院と言えば、旧暦・節分の夜、平太郎殿(聖人の弟子真仏上人)に材を得た法話が行われたといいます。

西鶴の『世間胸算用』にも「平太郎殿」という一篇があり、ちょうど節分と大晦日が重なった年の話で、みな忙しく、参詣人は三人のみ。賽銭も少ないので住職は法話を切りあげようとするのですが、逆に参詣人が己の苦労話を次々に語る、というドタバタ喜劇です。



さて現在も節分のご法話が「平太郎殿」なのかは知りませんが、今回は『往生要集』で知られる源信僧都に始まり、かのスーパーボランティアからウクライナへという展開でした。

畳のお堂は天井も高く、風通しも良く、三十人ほどの聴聞者はソーシャルディスタンスも十分に、ゆったりとした時間を体感できました(足は思いっきり痺れましたが)。



さてその足で五分ほど歩き、渉成園 (枳殻邸)を訪ね、源融ゆかりの塔を眺めるも、あまりの猛暑に耐えきれず、近場のブライアン・イーノ展の会場ビルへと非難。
 
汗でびっしょりのマスクを替え、アンビエントなインスタレーションに涼をとりました。
 
薄暗い建物一棟、廊下はもちろんトイレにまで音楽が流れ、盆栽・盆石が置かれ、とある一室ではポートレートが刻々と変化し、イーノの禿頭=西鶴の如し、と合点しました。
 
〈ありきたりな日常を手放し、別の世界に身を委ねることで、自分の想像力を自由に発揮することができるのです〉――入場パンフにあったイーノのことばです。



翌日は大津。琵琶湖疎水を辿りながら三井寺へ。

西鶴の『日本永代蔵』に「怪我の冬神鳴」という一篇があり、そこに大津関寺町の流行らない医者が登場します。世間体から毎朝家を出るものの、往診先もなく、近所の神社の絵馬を眺めわび、三井寺・高観音からの近江八景にも飽き、影では絵馬医者と呼ばれる残念なエピソードです。

今の三井寺は江戸の昔ほど眺望が開けていないと思われますが、それでも観音堂境内から見晴るかす近江八景はひろびろと気持ちの良いものでした。



そして陸路で近江八景のひとつ、唐崎へ。

芭蕉の発句でも知られる唐崎の松ですが、残念ながら夏枯れ状態。それでも湖面を渡る涼風がつかの間の秋を感じさせてくれました。
 
そこから石亀ひしめく義仲寺へ向ったのですが、蕉翁の話が続くので割愛します。
 
「そやな、そのほーがえーな」
 
はい、でもこれだけは言わせて下さい。三日目、イーノ展で再び涼をとってしまいました。
 
 

2022年9月13日火曜日

〔人名さん〕高田賢三

〔人名さん〕高田賢三

ケンゾーよ立待月を裁ちて逝け  津髙里永子

高田賢三(1939年 - 2020年)。

津髙里永子句集『寸法直し』2022年2月22日/東京四季出版



2022年9月12日月曜日

●月曜日の一句〔斉田仁〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




ぬばたまの闇に生まれて新走  斉田仁

句集『異熟』(2013年2月/西田書店)所収。

新走(あらばしり)は新米で醸造した酒、新酒のこと。

酒の歴史はとてつもなく古く、有史以前、1万年以上前から、人類は酒とともにあったらしい。枕詞「ぬばたま」の歴史はせいぜい千年と少しなので、酒にはぜんぜん追いつけない。というか、古色をまとった句のつくりは、酒を詠むのによく合っている。いかにも美味しそうだもの。

「生まれて」は絶妙で、真っ暗闇の酒樽の中でふつふつと発酵するさま(想像でしかないけれど)は、いかにも「生まれる」感じだ。蒸留酒では、この感じが出ない。

2022年9月11日日曜日

◆週俳の記事募集

◆週俳の記事募集


小誌「週刊俳句がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

【記事例】 

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。かならずしも号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。

同人誌・結社誌からの転載 刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2022年9月9日金曜日

●金曜日の川柳〔高須啞三味〕樋口由紀子



樋口由紀子






待ち呆け来たら殴ろうかと思い

高須啞三味 (たかす・あざみ) 1894~1965

なんて素直で不器用な人なんだろう。イライラ感が最高潮に達し、来ないのではないかという心配で「殴る」しか思い浮かばない。それほど来て欲しくて、会いたいのだ。自分で自分が制御できなく、自分の思いを他では表すことができない。「殴る」がせつない。

しかし、作者も「と思い」だから、そう思っているだけで、実際は今来たふりをするか、それぐらい待っても気にしない素振りをするのだろう、きっと。「待つ」「呆ける」「来る」「殴る」「思う」の動詞の連結だけで一句を仕上げている。

2022年9月5日月曜日

●月曜日の一句〔白石渕路〕相子智恵



相子智恵







水に置く流燈母を照らし出し  白石渕路

句集『蝶の家』(2017.9 朔出版)所収

灯籠流しは『図説 俳句大歳時記』の初版には〈精霊舟を流すことと送り火をたくことが結びついてできた行事のようである。もとは、やはり火の力で精霊を送り出そうとしたもので、西国の港町などには古くから名物と化して、いろいろの趣向がこらされた〉とある。考証には〈『世話尽』(明暦二)に「流し火」として七月に初出〉とはあるものの俳諧の例句はなく、〈流燈の唯白きこそあはれなれ 虚子〉は昭和5年。他の例句から見ても、私が想像したよりも新しい季語のようだ。

流燈の「火」が何を表しているのか(精霊そのものが宿ったものなのか)を知りたくて調べたのだけれど、送り火だとしたら、精霊の帰り道を照らす役割ということになるのだろう。

掲句、流燈が流れ出す前の、一瞬の滞留時間が描かれている。流燈に先導されてこれから母の元を去る精霊が、母との別れを惜しんでいる。そんな流燈に照らされた母を詠む作者の思いも、母と、そして精霊と一緒なのだろう。今はこの世にいない精霊を含めた家族の思いの重層性が、句に静かな厚みをもたらしている。

  流すべき流灯われの胸照らす  寺山修司

  流燈や一つにはかにさかのぼる  飯田蛇笏

修司は流燈を描きつつ自分自身を詠み、蛇笏は流燈そのものに意思(それは精霊の意思であろう)があるように詠んでいて、どちらもその作者らしい。渕路氏は流燈と母を詠み、家族としての自分の思いもそこに表れている。それぞれの向き合い方が、いずれも美しい。