2020年8月28日金曜日

●金曜日の川柳〔時実新子〕樋口由紀子



樋口由紀子






たばこ屋から二軒目に鉈売っている

時実新子 (ときざね・しんこ) 1929~2007

商店街を歩くといろんな店が軒を連ねていて、ここに来れば、なんでも揃った。そんな商店街がめっきり少なくなったが、たばこ屋の先に道具屋があったりするはごくふつうの景で取り立てて言うほどのことではない。しかし、わざわざ言われることによってあらぬ事を想像してしまう。

鉈は子どもの頃に家にあった。薪割りに父が使っていた。鉈を一振りすると薪は気持ちいいほどの音をたてて、まっふたつに割れた。いつものように夫に頼まれてたばこを買いに来た。いままで気づかなかったが、たばこ屋のすぐ近くに鉈が売られている。今は夫のたばこを手に持っているが、この先、鉈を手にしなければならないことが私の人生に起こるかもしれない。サスペンスドラマである。『時実新子全句集』(1999年刊 大巧社)所収。

2020年8月24日月曜日

●月曜日の一句〔橋本石火〕相子智恵



相子智恵







秋風や地より浮き立つ木偶の脚   橋本石火

句集『犬の毛布』(2020.8 ふらんす堂)所載

この木偶は西洋のマリオネットか、人形浄瑠璃の人形だろうか。人間が操る木偶人形たちは、地面から浮いて立ち、歩く。人間の動きのようになめらかに動いて見せながら、木偶人形たちが自分の脚の力で地を蹴ることは決してない。

屋外での人形芝居の上演中、ふっと客席に〈秋風〉が通った。宙ぶらりんに立つ木偶の足元にも、〈秋風〉が吹き抜けてゆく。木偶人形の脚の心もとなさに、秋風がしみじみと寂しく響きあう。

ただ、宙に浮いて立つ脚には風に乗れるような軽やかさもあって、寂しさの中に、不思議とひとすじの爽やかさがあるのである。

2020年8月21日金曜日

●金曜日の川柳〔榊陽子〕樋口由紀子



樋口由紀子






くれぐれもお体紫陽花くださいね

榊陽子 (さかき・ようこ)

「くれぐれもお体ご自愛ください」のパロディだろう。「紫陽花」がヘンだ。「ごじあい」と「あじさい」と似ているから、冗談のふりをして、単にひっかけたのか。紫陽花の七変化とか、移ろいやすさのイメージとか、ことさら意味を詮索して、無理に読み解く必要はないと思う。意味のコードで読まない川柳だろう。

かといって、言葉を異化したのでもない。うっかりして、言い間違えたかのように見せかけて、ちょっと油断するとどこに行ってしまうかわからない、そんな言葉の自在さ快活さを楽しんでいる。言葉の軽さや嘘っぽさをあらわにし、言葉を穿っている。「うみの会」

2020年8月18日火曜日

●鈴



六月に生まれて鈴をよく拾ふ  生駒大祐〔*〕

霰降る大地に鈴の音満つごとく  柴田白葉女

枯園でなくした鈴よ永久に鈴  池田澄子

鈴に入る玉こそよけれ春のくれ  三橋敏雄

春駒の鴎を翔たす鈴の音  皆川盤水

鈴の家の鈴ちろと鳴り暮るゝ春  久米正雄



〔*〕生駒大祐句集『水界園丁』2019年7月/港の人

2020年8月10日月曜日

●月曜日の一句〔柏柳明子〕相子智恵



相子智恵







台風圏四角くたたむ明日の服   柏柳明子

句集『柔き棘』(2020.7 紅書房)所載

台風ではなく〈台風圏〉は、体感よりも情報寄りの季語である。天気予報がなかった時代には、気象衛星の画像で見るあの渦巻きの圏内に自分がいることなど思いもよらなかっただろう。〈台風圏〉によって自ずとあの円形が浮かび、それに続く〈四角く〉で、形の不調和から変な緊張感が生まれている。

しかし〈四角くたたむ明日の服〉だけを見れば、今はたとえ〈台風圏〉の中にあっても、この洋服を着て出かける明日はゆるぎないということが、当然のように信じられている。明日着ていく洋服をきれいに四角く畳むという、あまりにも日常的なふるまいが〈台風圏〉と取り合わされていることに、ちょっと心がざわつくのだ。

この「情報としての台風」と、淡々としたルーティーンの〈四角くたたむ明日の服〉の取り合わせは、なんだかとても現代的だと感じる。目の端でテレビの台風情報を眺めながら、洋服をきれいに四角くたたむ。それほど大型の台風ではないし、これからの台風の進行方向も、いつ温帯低気圧に変わるかも予測はできている。実際に窓を打つ強い雨風の音も聞こえてはいるけれど、現代の家は安全であることもわかっている。明日は普通にこの洋服を着て出かけられるだろう……そんな現代の、予測と共に訪れて去る台風。

けれども気候変動によって引き起こされる、これまでの常識では太刀打ちできないような昨今の自然災害を見ていれば、掲句のような感じ方も、近い未来にはできなくなるのかもしれない。掲句の日常の幸せと不吉さが同居するような書きぶりは、このように何重にも心をざわつかせるのである。

2020年8月3日月曜日

●月曜日の一句〔安里琉太〕相子智恵



相子智恵







遠泳の身をしほがれの樹と思ふ   安里琉太

句集『式日』(2020.2 左右社)所載

〈しほがれ〉は潮涸(汐涸)で潮が引くこと。潮干のことだ。〈しほがれの樹〉は汽水域に生えるマングローブのような植物を思った。普通の樹木なら塩害で枯れてしまうけれど、マングローブは潮が満ちれば水中に入り、掲句のように潮が引けば密密と絡み合う根を見せる。川と海のあわい、そして水と陸のあわいに生きる植物である。

〈遠泳の身〉は、今まさに沖遠くに泳いでいる身とも、遠泳を終えて陸に上がってきた身ともとれるけれど、〈しほがれの樹と思ふ〉だから、私は今まさに海から上がってきたところだと読みたい。

遠泳から戻り、海から陸に上がる時に感じる重力。気だるくて眠くて、体が地面に溶け込みそうになるような泳ぎの後の独特の疲れが、潮が引いた砂地に沈むマングローブの根と響きあう。水と陸のあわい、人と樹のあわいが滲みあって、泳ぎの後のじんわりとした気だるさが一句から立ち上ってくる。なんだか不思議に安らかで、ちょっと泣きたくなるような美しさがある句だ。

最後は〈と思ふ〉で作者が現れてくる。〈思ふ〉の一語にある、読者と景の間を一枚の膜で隔てるような、少しの遠さと含羞がこの句では活きているように思う。