2020年1月27日月曜日

●月曜日の一句〔大島雄作〕相子智恵



相子智恵







おそらくは下つ端ならむ風邪の神   大島雄作

句集『一滴』(青磁社 2019.12)所載

掲句、「八百万の神の中で〈風邪の神〉は〈下つ端〉なのだろう」とも読めるし、「自分が今引いている風邪は、〈風邪の神〉の中でも〈下つ端〉の神様が来て引き起こしているのだろう」とも読むことができる。前者の読みだと傍観者めいているが、後者だとより当事者っぽくなる。

総合すると、「八百万の神の中の〈下つ端〉の〈風邪の神〉の中でも、さらに〈下つ端〉の神様が自分の風邪を引かせている」というような感じがしてくるので面白い。やはり、自分が風邪を引いた当事者であってこその俳味なのだ。

今話題の、得体の知れぬ新型で強い〈風邪の神〉などではなく、「なんだか今日一日、風邪気味で調子が出ない……」という程度の軽い風邪。〈下つ端〉とはよく言ったもので、疎ましさと親しみやすさがないまぜになって、何とも愛嬌のある〈風邪の神〉である。

2020年1月24日金曜日

●金曜日の川柳〔中尾藻介〕樋口由紀子



樋口由紀子






好きだからする結婚はもう古い

中尾藻介 (なかお・もすけ) 1917~1998

子どものころ、自分たちの親は恋愛結婚なのかお見合い結婚なのか話題になったことがある。そういうことが気になる年頃であった。たぶん、半々だったような気がする。私の両親はお見合い結婚で、遠距離だったせいか、母などは結婚式の日に父に初めて会ったと聞いて、びっくりした。さすがに父は事前にこっそり見に行ったそうだが。

時代を反映した川柳である。「恋愛」というのがもてはやされていた時代だったのだろう。今だったら、「結婚」自体が「もう古い」と思われている節もある。恋愛結婚に憧れている人たちをチクリと皮肉り、先を見通している。風潮に流されない見つけをするのも川柳眼である。当時の私は恋愛結婚の両親を持つ友をなんとなく羨ましいと思っていたのだから、思い切り世相のど真ん中にいて、川柳眼などはまったくなかった。

2020年1月23日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴〕浅沼璞


浅沼璞








俳言で申すや慮外御代の春   西鶴
『歳旦発句集』(延宝二年・1674)

「御代の春」で徳川の世を寿いだ歳旦吟。



俳言(はいごん)というと俗語をすぐに思い浮かべるが、ここでは漢語をさす。雅語・歌語ではない俳言。

具体的には慮外(りよぐわい)という漢語をさしている。「慮外」は無礼という意味。



「や」は「は」「も」等に代替可能な助詞的用法であろう。だから句は中七で軽く切れる。

ご無礼ながら俳言でお祝い申す、というのである。


生玉万句興行ののち、西山宗因の「西」を頂き、鶴永を「西鶴」と改号したころの作。

「慮外」と憚りながら、新町あたりを闊歩する若き談林の雄姿を髣髴とさせよう。

2020年1月20日月曜日

●月曜日の一句〔宮田應孝〕相子智恵



相子智恵







名古屋晴関ヶ原雪京都晴   宮田應孝

句集『空の涯』(ふらんす堂 2019.11)所載

地名と天候だけでできていて、面白い。東海道新幹線の車窓の景色を思った。名古屋駅付近では晴れていたが、関ヶ原、米原のあたりでは雪が降っており、そして京都に着けば、また晴れているのである。自動車の旅でもよいのだろうが、このスピード感のある調子のよい味わいは、やはり新幹線の速さだろう。確かに関ヶ原のあたりは雪のことが多い。

〈関ヶ原〉の地名が効いている。土地の雪深さはもちろんのこと、戦国時代最後の戦い「関ヶ原の戦い」が思われ、雪の荒々しさ、激しさを想像させるのだ。

そして、この雪の匂いと湿り気を保ったまま〈京都晴〉まで読み進むと、今度はしんしんと底冷えのする、雪晴れの京都が心に浮かぶ。〈名古屋晴〉と〈京都晴〉では、その晴れ方も空の色も違う。私には、名古屋には雪がなく、京都では雪が積もっているように感じられた。

単純な仕立ての中に、深みと大きさ、スピード感があり、これも五七五の短い俳句ならではの表現だな、と思う。

2020年1月17日金曜日

●金曜日の川柳〔石部明〕樋口由紀子



樋口由紀子






それぞれに死者青葱をぶらさげて

石部明 (いしべ・あきら) 1939~2012

年末に堺利彦監修の『石部明の川柳と挑発』(新葉館出版)が出版された。満面の笑みの石部の写真が懐かしい。亡くなってもう七年が過ぎた。

彼はつねづね「川柳で大嘘を書いてみたい」と言っていた。掲句もその極みだろう。まずこの世で死者に会うことはない。まして、死者なんだから、青葱をぶらさげることもないはずである。しかし、この大嘘にまんまとのっかかってみようと思うものがある。彼の創りあげる死者たちは不気味でもなく、恐ろしくもない。ユーモアさえ漂わせ、どこかなつかしく親近感を覚える。彼らはどんな顔をして、青葱を持って、どこに行こうとしているのか。青葱は何を物語っているのか。そんな死者がすぐ近くにいるような気がする。『遊魔系』(2002年刊 詩遊社)所収。

2020年1月11日土曜日

●土曜日の読書〔抽象の下地〕小津夜景



小津夜景








抽象の下地

あなたは美術作品を見るとき、感動を理屈で説明したくなりますか?

わたしはいつも「すごーい」か「かわいい」ですんでしまう。わざわざ感動に理屈をかぶせる必要はないし、そもそも「すごい」という言葉で言い足りなさを感じたことがない。

とはいえ義理のある相手に求められれば、ある作品のおもしろさを、あえて理屈で説明することもある。わたしにとって義理のある相手といえばまずもって夫だが、この人はわりとむずかしい、わたしがじぶんの頭でかんがえたことのないような質問をたまにする。ヴァンスという村へバスで出かけ、マティスの最高傑作といわれるロザリオ礼拝堂を見学したときも、礼拝堂に入ってしばらくすると、

「この部屋って、なんか隠された意図とかあるの?」

とたずねてきた。ぜったいにそう来るだろうなと確信していたわたしは、アパートを出る前に目を通しておいた岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』のマティス論をぺろっとそのまま夫に喋った。

「かくかくしかじか、ということなの」
「へえ」
「でもね、いつも言うけど、いまわたしが喋ったことは話半分に聞いてね。とくに岡崎さんの書くものは知的興奮度が高い分、読者の頭を盲従的に、薄っぺらくしちゃう力も強い」
「うん。わかるよ」

で、いきなり話はとんで、今年の読み初めは、そんな岡崎乾二郎の「抽象の力──現実(concrete) 展開する、抽象芸術の系譜」(豊田市美術館)だった。これはキュビスム以降の芸術の展開を追いつつ、近代日本美術における抽象の起源と条件を同時にかんがえてゆく論考なのだけれど、おもしろいのは抽象の表現の下地にフレーベル、モンテッソーリ、シュタイナーといった近代教育家たちの考案した教育遊戯を置くところである。たとえば1876年にはすでに日本に導入されていたフレーベルの教育メソッドが、ロマン主義から象徴主義への思潮を汲みつつ到達した《生の合一思想》《球体法則》という一種の神秘思想の上に構築されていたことを解説する下り。
フレーベルの《恩物》の意義は、個々の積み木が静止しているときに現れている幾何形態そのものにあるわけではない。これを操作し、たとえば回転させるときに、まったく別の幾何的な秩序が出現することにこそある。その出現も理解もこの事物と身体行為の交流によってのみ可能になる。こどもたち、あるいは指導者は事物に代わって歌う。「ぐるぐるまわる、うれしいな/ぐるっと向きをかえて うれしいな/赤ちゃん あなたもうれしいな(《恩物》2の歌『フレーベル全集』玉川大学出版部 1989年)」(岡崎乾二郎「抽象の力──現実(concrete) 展開する、抽象芸術の系譜」)
こうした世界把握の訓練方法を近代の抽象美術論につなげることで、著者は抽象の意味を視覚表現や静止表現に限定されないようにうまく工夫する。

で、その結果、すごく風通しがいい。

わたしは個人的に、影絵、風車、花火、噴水、あやとり、シャボン玉などモビール(動く彫刻)的要素のあるかたちに美しさや、かけがえのなさや、原初的な知的興奮を感じるたちなので、書かれていることがたいへん肌に合った。あ、あともういっこ、ゾフィー・トイベル=アルプのかわいい作品がいっぱい引用されているのもうれしかったな。


2020年1月10日金曜日

●金曜日の川柳〔荻原柳絮〕樋口由紀子



樋口由紀子






元日の日記欄外まで溢れ

荻原柳絮

なんとなく「日記」というものに憧れて、日記を書き始めたことがある。しばらくはそれなりに続いたが、ひと月もすると書くことがなくなってきた。起きた、食べた、遊んだ、寝た、の単調な繰り返しで、テレビドラマのように何かが起こったり、素敵な出会いがあるわけではなかった。

元旦は確かにいっぱい書くことがあった。食べるものもすることも、まわりもすべて、いつもとは別の非日常である。何よりも気持ちの持って行き方が普段とは格段に違っている。元日というものを日記を肴に捉えている。「日記」というもので元旦を語っている。

2020年1月9日木曜日

●木曜日の談林〔松意〕浅沼璞


浅沼璞








代はどれも五百八十なな七草   松意
『功用群鑑』(延宝八年・1680頃?)

やはり松意の発句で、食べ物つながり。


「五百八十なな」は「五百八十年七回り」の諺取り(世話取り)。

算式にすれば、
580年+干支の七回り(420年)=1000年
つまり目出度いことの長く続くように、との祝言である。


これに新春の「七草」を尻取的に言いかけたわけで、代は末永く、と七草を俎板にたたく感じだが、そのリズムがここちよい。

濁音続きのあとの「なな」「七」のリフレインが効いている。



この句意に反し、松意の活躍が短かったことは前回ふれたとおりである。

なんとも皮肉な談林の一コマ。

2020年1月6日月曜日

●月曜日の一句〔浅沼璞〕相子智恵



相子智恵







犬の子やかくれんぼする門の松   一茶
  尻尾のふえて揺るゝ初夢    

句集『塗中録』(左右社 2019.11)所載

俳人であり、連句人(レンキスト)である浅沼璞氏の初句集。故人の発句の「脇起し」(古人の句・夢想の句など、一座していない人の句を立句として、脇の句から作り始めること)の章から引いた。

一茶の発句は、門松のかげに隠れている犬の子。頭は隠れているのだけれど、尻尾は見えているのかもしれない。犬は〈かくれんぼ〉という遊びをしているつもりはもちろんないのだが、一茶らしい捉え方だ。かわいらしくて、新年のめでたさがある。

そこに璞氏の脇句〈尻尾のふえて揺るゝ初夢〉が付いて、めでたさの中に怪しさがほのと出てきた。〈尻尾のふえて揺るゝ〉は、猫又のように尻尾が増えた妖怪を思う。さらには、ちぎれんばかりに尾を振る犬のかわいさも想起させた。漫画の表現では、尾を振る速さを表すのに、尾を何本も増やして描くことがあるが、そんな表現を感じ取ったのだ。もしかしたら単純に子犬がたくさん増えたのかもしれないけれど。夢の中のことだから、こちらも自由に読んでみたい。

そもそも〈かくれんぼ〉からの〈初夢〉は、夢幻能を観ているようだ。また〈ふえて揺るゝ〉には、豊作や繁栄など新年の願いと重なるところがある。怪しいけれど、めでたい心が通じている。

一茶の発句の鑑賞で、私は「頭は隠れているのだけれど、尻尾は見えているのかもしれない」と書いたが、一茶の句からはその描写は見えてこない。これは脇句まで読んで生まれたイメージである。

付けながら転じていく連句。それを自由にイメージを広げて読むのは楽しいものである。

2020年1月5日日曜日

●餅花

餅花


餅花を真中に置き顔華やぐ  細見綾子

餅花のあればさはらずにはおかじ  辻桃子

餅花にをりふしひびく古風鈴  飯田龍太

餅花に立てば触れしよ旅の髪  野沢節子

氷るもの氷り餅花にぎやかに  宇佐美魚目

餅花の高々とある炬燵かな  高浜虚子

2020年1月1日水曜日

●2020年 新年詠 大募集

2020年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。

※プロフィールの表記・体裁は、既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2020年11日(水)0:00~14日(土) 12:00 正午

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html