2014年11月29日土曜日

【みみず・ぶっくす04】果て近き秋 小津夜景

【みみず・ぶっくす04】果て近き秋 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 04】果て近き秋

つばさなき肺や膨らす秋の暮
梨をむく指に手紙のあふれたり
音も秋はかろき傷のやうに笑ふ
鹿の恋瞠るあらくれ坊主かな
酔郷や死にゆくものに荻の髷
逆巻くも絮は前科を身ごもらず
その昔絶えて鼓膜を航くことり
今を離れ此処に恋しき火を抱く
そよと笑む淵より龍を引き揚げて
存在の軽さと草を闘はす

2014年11月28日金曜日

●金曜日の川柳〔田中明治〕樋口由紀子



樋口由紀子






マネキンは手をあげたまま夜が来る

田中明治

明りの消えた商店街の店舗の前や裏に用済みになったマネキンが無造作に積まれているのを何度か見たことがある。店頭で綺麗に着飾っているマネキンは華やかで美しいが、役の終えたマネキンはなんとも侘しい。

そのほとんどのマネキンは手をあげている。洋服の着脱のためだろうが、動作の途中で無理やり止められたような、誰かに助けを求めているように見える。しかし、マネキンに足を止める人はほとんどいない。

夜が来て、あたりはさらに暗くなり、マネキンが手をあげて呼んでいるのも気づかれない。マネキンは手をあげたままでどこかに連れていかれるのだろうか。マネキンに自分自身を投影している。夜が来て作者とマネキンの距離はぐっと縮まる。

2014年11月26日水曜日

●水曜日の一句〔岡田一実〕関悦史



関悦史








入学試験四部屋に分かれゐて心臓  岡田一実

入学試験から心臓への連想、これは一応常識の範囲内である。緊張でどきどきしているのだろうと大体誰もが思うはずだ。

ところが「四部屋に分かれゐて」が曲者で、「入学試験」の会場のこととも「心臓」の四つの部屋、つまり右心房・右心室・左心房・左心室のこととも、どちらとも取れてしまう。

これで試験の緊張による動悸という当たり前の線は薄れ、句は奇妙な迷宮に入り込んでいく。

句を頭から読み下していけば、入学試験会場についた受験生が四部屋に分かれた会場のいずれかへと入っていくイメージが浮かぶのだが、そうすると最後に不意に「心臓」があらわれ、それが「四部屋に分かれゐて」へと遡及していって、心臓のなかに試験会場があるようなシュルレアリスティックな捩れが生じるのである。

いやそれでも常識的な読みを重視する人は、四部屋に分かれた試験会場へと進んでいくにつれ、次第に緊張が高まって、自分の心臓が意識されはじめたと取るのかもしれない。それはそれであり得ない読み方ではないのだが(ほかに「入学試験」ではっきり切れ、「四部屋に分かれ」ている「心臓」という常識的な事柄と取り合わせられているという読み方も一応はあり得るが、これは「ゐて」のバネを殺してしまう。「四部屋に分かれゐる心臓」ではないのだ)。

「入学試験」は季語としては春である。この句を読む者がいま現在入学試験の最中であるということは通常あり得ないから、記憶または入学試験というものの漠然とした印象と、季語の秩序においては春であるというバイアスから句の世界を構成することになる。

するとそこから読者は、何やらなまあたたかい、建物とも臓器のなかともつかない、それでいて整然と分けられたことによる妙な清潔感の漂う時空をさまようことになるのである。最近たまたま精神分析学者・立木康介の『露出せよ、と現代文明は言う』本で《身体のない存在に無意識はない》という文言を目にしたが、その辺の機微に期せずして触れている句のような気もする。


句集『境界 -border- 』(2014.11 マルコボ.コム)所収。

2014年11月24日月曜日

●月曜日の一句〔鴇田智哉〕相子智恵



相子智恵







ひだまりを手袋がすり抜けてゆく  鴇田智哉

句集『凧と円柱』(2014.9 ふらんす堂)より

写生句である。けれども俳句として立ちあがった言葉からは、作者が描いた風景を読者が自分の経験に照らして脳裏に再現することはできない。現実であるのに抽象的で不思議な世界が開けているからだ。それでも、写生の質感、感覚は十分に残っている。いわゆる写生句とは違う、不可逆的な「超写生」とでも言いたくなる句だ。

〈手袋がすり抜けてゆく〉とあるが、手袋をした「人物」は、おそらくいたのだろう。手袋をじっと見つめたことで人物は消え去り、手袋だけが浮かび上がる。ほかに冬の句でいえば〈棒で字が書かれてゆきぬ冬の暮〉〈靴ふたつその上にたちあがる冬〉などという句もあって、手袋からも棒の先からも靴からも、主体の人間はふっと消えている。主体がその痕跡を残しながらも消えている「透明な句」が本句集にはいくつもあって、それが喪失感と不思議な安らかさをもたらしている。読んでいるうちに、心がひたひたと現実から遥か遠いところまで流され、いつのまにか淋しく、うす明るく、穏やかな場所に出ている。そんな稀有な読後感の句集である。

掲句は〈ひだまり〉が暖かくて、たとえばこの手袋が毛糸の手袋だとしたら、喪失感がありながらも優しい、やや屈折した童話のような手触りがある。

2014年11月22日土曜日

【みみず・ぶっくす03】蔦の手帖 小津夜景

【みみず・ぶっくす03】蔦の手帖 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 03】蔦の手帖

石ころと暮らして蔦の手帖かな
なんとなう忘れがたみぞ額に露
黄落の蕩いでこゑのあかるみぬ
戸は萩にわれは仮寝に酔うてをり
夜の桃と見れば乙女のされかうべ
指を折り数へよ噓に棲む鳥を
火を恋はばひらく薬香わがものに
ゆく秋の虹を義足に呉れないか
その日より霧のグラスとなりにけり
いさよひの紙にながるるのは雲か

2014年11月21日金曜日

●金曜日の川柳〔三浦蒼鬼〕樋口由紀子



樋口由紀子






梟になれるポイント貯めている

三浦蒼鬼 (みうら・そうき) 1956~

ポイント社会である。財布はポイント券のカードが溢れて、ぱんぱんに膨れ上がっている。ガソリンを買ってもパンを買っても、ネットで買い物をしても、なんでもかんでもポイントが付く世の中である。ポイントが貯まって、値引きしてもらったり、モノと交換してもらうと、得したような気になる。確かに得をしているのだが、ポイントに振り回されているようにも感じる。

「梟」は比喩としても読めるが、私は「梟」そのものとして読んだ。梟は止まり木でじっと見ていて、不思議な雰囲気があり、得体のしれなさがある。変身願望の一つとしてはありかもしれない。でも、ポイントを貯めてまで、しいてなりたいだろうか。現実的かもしれないが、私は夜出て、ノネズミなんか捕りたくない。がんばってポイントを貯めても梟だったら、パスして、もういいかなと思う。ポイント社会を揶揄しているとも読める。「おかじょうき」(2014年11月号)収録。

2014年11月19日水曜日

●水曜日の一句〔甲斐一敏〕関悦史



関悦史








うみみぞれれくいえむ聴く海鼠かな  甲斐一敏

「うみ」「みぞれ」「れくいえむ」と、しりとりからレクイエムが出てきて、それを海鼠が聴く図に転じる。

この海鼠はどこにいると取るべきか。

海から上げられ、室内で調理される寸前となると音楽が聞こえていても不自然ではなくなるが、レクイエムがやや意味でつきすぎとなる。一方、海の中で聴いていると取るとモチーフ全体があまり締まらない想像画となる。

別な解釈として、語り手(人間)が自分を海鼠に見立てているという取り方もあるが、これはこれでみぞれる海の存在感が消えてしまう。

この句はもともと「うみ」と「海鼠」が近く、「みぞれ」と「海鼠」が季重なり、「みぞれ」と「れくいえむ」も情調的に遠くないので、しりとりのわりには飛躍がなく、荘重なレクイエムを聴く海鼠というイメージの滑稽味に句の価値のかなりの部分がかかっている(言い換えれば、一句が意味性中心に構成されている)ので、なるべく即物性を回復させたい。やはり海鼠は室内にいるととるべきか。

句集全体としては、作者が先に興じ過ぎで文体に締まりがない句や、定型感覚の裏打ちのない字余り・字足らずの句が多かったのだが、この句はぴったり定型に収まり、「かな」止めで「海鼠」が打ち出されている分、「れくいえむ聴く」の滑稽が浮かず、みぞれる海と海鼠との大小(または遠近)の対比による実体感のなかに余裕を持って引き留められた句となり得ている。

せっかくしりとりになっているのだから「うみみぞれ」を単なる状況設定と読むのではなく、一度切り離し、「うみ」の波音、「みぞれ」の降る音、「れくいえむ」の三つを同時に海鼠が聴いていると取った方が、海鼠に集中する広大なもの複雑なものの度合いが増すのかもしれず、そうなればもはや海鼠がどこにいるかなど気にもならなくなるが、句中の「海鼠」はもっとちんまりとした風情に見えるし、そちらの味はそちらの味で捨てがたい。


句集『忘憂目録』(2014.11 ふらんす堂)所収。

2014年11月18日火曜日

【柳誌拝読】『Senryu So』第6号/終刊号(2014年秋)

【柳誌拝読】
『Senryu So』第6号/終刊号(2014年秋)

西原天気


同人3氏(石川街子、妹尾凛、八上桐子)の作品に、終刊号は柳本々々氏をゲストに迎えている。

A6判(105×148mm)、てのひらサイズ。


広げるとA3判。表裏ともにカラー。



返送されてき来た手紙から雪が舞う  石川街子

葬送のからだを包むシャボン玉  妹尾凛

一本のみじかい紐になる真昼  八上桐子

詩的成分の濃い句においては、現代川柳と俳句は、かなり近い感じになるという印象。

ゲスト作品からいくつか。

句読点煮込んだよるにすこし浮く  柳本々々

信号でめがねをはずすぬるい虹  同

ねえ、夢で、醤油借りたの俺ですか?  同

〈語のはたらき〉という点で刺激的な句群。

さらに八上桐子「からだから」の身体モチーフに惹かれた。湿るでも乾くでもない、不思議な質感。

ねむたげにオカリナの口欠けている  八上桐子

くちびるへ手鏡の海かたむける  同

瞳孔にひしめきあっている檸檬  同



柳本々々:顔パンチされる機関車トーマス 柳誌『Senryu So』から湊圭史の一句

2014年11月17日月曜日

●月曜日の一句〔森泉理文〕相子智恵



相子智恵







ストーブを部分解禁する朝  森泉理文

句集『春風』(2014.11 邑書林)より

天気予報で「明日の朝は今年一番の冷え込みになるでしょう」というセリフが聞こえはじめる頃、掲句はそんな初冬の句だろう。ことに冷え込みの強いある朝。でもこれからはもっと寒くなるのだから、その寒さに備えるためにも、ここは暖房を使わずにしのぐべきか、それとも使ってしまおうか……暖房を使い始める日に迷うのは、多くの人が経験のあるところだ。

そこで作者が取ったのはストーブの〈部分解禁〉である。一部屋だけ使おう、といったところだろうか。ストーブという些細なものに〈解禁〉という言葉を使ったり、朝をあしたと読ませるようなどこか大げさな物言いに俳味があり、くすりと笑わせられる。とうとう暖房を解禁するぞという、誰にでもない自分への宣言は滑稽でありながら、多くの人にとって「あるある感」があるのである。

2014年11月15日土曜日

【みみず・ぶっくす02】見物小屋の目覚めから 小津夜景

【みみず・ぶっくす02】見物小屋の目覚めから 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 02】見物小屋の目覚めから

見えぬ手が見ゆる手を愛す秋の山羊
ひんやりと生クリームの立ちにけり
うたかたと桃の古風なかくれんぼ
自閉症ぎみのきのこを抱きよせる
在りし日のブローティガンを芒かな
秋は帆も指したり名指しえぬものを
さるびやの火のあばらやはほねとなる
とびてゆかましよとびらよありがたう
棹さしてくらんくらんと月の酔ふ
かほのない水底なりし電話かな

2014年11月14日金曜日

●金曜日の川柳〔むさし〕樋口由紀子



樋口由紀子






夜へ夜へ転がってゆく僕のフタ

むさし (1949~)

川柳の前身は前句附けで、前句題による附句が独立してはじまった文芸である。現在もそれを受け継いでいて、事前に与えられた課題に基づいて競吟することが一般的である。句会で題のもとでは生き生きしていた句が題を外れて句集に纏めると一気に力が弱くなるとも言われる。むさしは「書く句のほとんどは題詠である」と言い切る。掲句の題は「夜」。

「夜」と「フタ」の組み合わせがポイント。「フタ」で言葉の味が出た。中身や器そのものに比べて、どうってことないと思っていた「フタ」の存在感は一気に上昇する。川柳の「見つけ」である。フタは軽くて油断するとすぐに転がる。それも転がっていくのは「僕のフタ」。フタのとれた僕はどうなるのだろう。フタを追いかけて、一緒に夜へ転がっていくのだろうか。

〈釘抜きが頭の中に落ちている〉〈足の裏たどって行けば鼻がある〉〈化けそこねまだ熊である下半身〉 むさし句集『亀裂』(東奥日報社 2014年刊)

2014年11月12日水曜日

●水曜日の一句〔森泉理文〕関悦史



関悦史








春光の畑に回す洗濯機  森泉理文

今でもたまに見かける屋外に設置された洗濯機だが、どちらかというと田舎の、それもあまり裕福そうではない家の風情である。「回す」がなければまず野外に捨てられた廃家電に見えてしまうはずだ。回っているので現役とわかるだけでなく、家のすぐそばに家庭菜園どころではないれっきとした畑が広がる土地柄であるらしいこともわかる。

「春光」という大まかな季語の付け方が奏功していて、畑の作物の何やかやを季語に持ってきたのでは得られない大画面の殴り書きのような力が出た。しかし粗暴ではなく、あえて乱暴にしてみたという作為もない。「素朴さ」について中野重治がどこかで「中身の詰まった感じ」といっていたと思うが、そうした素朴さがある。

その中身の詰まった感じをもたらしているのが「回る」ではない「回す」である。「回る」であればただ事・報告句となる。「春光」の「畑」での「回す」に、張りのある逞しい暮らしぶりが感じられる。逞しいとはいってもピカソの半裸姿やメキシコの現代壁画などよりは、単なる日用品としての厚手の土器のような手応えを感じさせる句である。


句集『春風』(2014.11 邑書林)所収。

2014年11月10日月曜日

●月曜日の一句〔岡本紗矢〕相子智恵



相子智恵







四十億年過ぎて我あり流氷と  岡本紗矢

句集『向日葵の午後』(2014.6 ふらんす堂)より

四十億年は、地球に生命が誕生してからの時間だ。その40億年が過ぎた果てに自分がいる。いま眺めている流氷とともに、ということだろう。

生命があるということは、水があるということ。流氷はそこで〈四十億年過ぎて我あり〉の世界と通底しているように思う。

さらに、この句を読んで生物の授業で習った「進化の系統樹」を思い出した。進化しつつ分化していった果ての、人類の我。同じく春になって大きな氷の塊が融け、分離、浮遊してきた流氷。分かれていつの間にか流れついた存在……一句からは、そんな寄る辺なさのようなものまで感じるのである。

2014年11月9日日曜日

【みみず・ぶっくす01】音楽と曲芸 小津夜景

【みみず・ぶっくす01】音楽と曲芸 小津夜景

小津夜景
【みみず・ぶっくす 01】音楽と曲芸

秋の音の古い金具となりにけり
龍淵に潜むテーブルクロスかな
花園にあかるい椅子のある暮らし
晴れた日は覗き穴より木々をみる
ガーゼには鶉を包む木の時間
ものろおぐ編む音楽のごときもの
こゑといふこゑのえのころ草となる
あらぬ日はひかりもふりてゆくものよ
空壜のあらはれ宵の底となり
靴音のきれいな月と隣りあふ

2014年11月7日金曜日

●金曜日の川柳〔徳山泰子〕樋口由紀子



樋口由紀子






無理やりに割り込むおばちゃんがいて満月

徳山泰子 (とくやま・やすこ) 1948~

やっと前の席が空きそう。今日は仕事で疲れていたので立っているのがしんどい。前に座っている人が次の駅で降りてほしいとずっと願っていた。やっと座れる。がーん、おばちゃんが割り込んできた。わあっ~最悪。でも、しかたない。あきらめて、おばちゃんの頭越しに窓の外を見たら、満月。今日は満月だったのか。なんか、得をした気分。満月って、ほんとにかっこいい。

割り込んでくるおばちゃんがいるのもこの世、満月が見えるのもこの世。満月も現実だけれど、どこか現実離れしている。何事が起こっても、何事もなかったように、悠々として満月はある。生きていくには満月のようにはなかなかいかない。でも、満月を見ていると、心が落ち着く。おばちゃんも疲れていたのだ。そういえば、おばちゃんのお尻も満月もまんまる。さあ、早く家に帰ってお風呂に入ろう。「浪速の芭蕉祭」(2014年刊 鷽の会)収録。

2014年11月6日木曜日

2014年11月5日水曜日

●水曜日の一句〔大峯あきら〕関悦史



関悦史








大寺をとり巻く秋の草となる  大峯あきら

何が秋の草となったのか、主語が省略され、空白になっている。そこに正体の特定しがたい生気が入り込む。

単に少ししか生えていなかった草が、いつの間にか大寺をとり巻くほどに蔓延ったというのが現物に引きつけての常識的な解釈だろうが、「大寺をとり巻く秋の草」となったのは「私」かもしれないし、他の何かとも考えられる。「大寺」がはらむ連想範囲からすれば、「仏」や「仏性」や「死者」や「縁起」や「空」その他かもしれない。句の言葉はそのように組織されている。

重要なのはこの「秋の草」がそれらのいずれでもありうる潜勢力を持ちつつ、しかし何とも特定し得ないことであって、その何ともしれない空白が「大寺」の周囲を占めるほどの規模の生命体の群れとなり、「とり巻く」という円環性のしなやかな運動を完結させたことからくる充足感は、アルカイックスマイルを浮かべた仏像にでも対面しているかのような軽い不気味さを秘めており、それでいながら句は清澄に静まりかえっている。理が徹っていながら、その理が単純明快さのなかに揮発し、豊かに澄んだ妖気に転じおおせている句で、こういう作はこの作者の独擅場であろう。


句集『短夜』(2014.9 角川学芸出版)所収。

2014年11月4日火曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません(ただし引く句数は数句に絞ってください。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。

2014年11月3日月曜日

●月曜日の一句〔川本美佐子〕相子智恵



相子智恵







音の無き象の歩みや秋深し  川本美佐子

句集『水を買う』(2014.9 ふらんす堂)より

〈音の無き象の歩み〉と言われてハッとしたが、そういえば動物園で見た記憶をたどると、蹄のある馬などの動物とは違って、象はたしかに足音の記憶がない。世界一重くて大きな動物である象。その重い体を支える足音が無音であることに、しみじみとした切なさを感じる。

季語の「秋深し」によって、そのしみじみとした感じがさらに増しているのだろう。象の故郷である地域には秋と呼べるような季節はないだろうから、故郷から遠くなはれた日本の動物園で秋が深まっているのだ。囲われて飼われている象の上に広がる秋の空は、広くて高い。

大きな象のゆっくりとした静かな歩みと、秋の深まりという時の流れに、虚子の「年を以て巨人としたり歩み去る」という句をふと思い出したりもする。静かに心に染み入る、晩秋の一句である。

2014年11月2日日曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】 句集の読み方 その1・付箋 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その1・付箋

西原天気



句集を読むとき気に入った句などの上に付箋をするのはごく一般的です。SNSなどでその様子を拝見することもあるのですが、幅広の付箋がぐちゃっと重なっていたりして、「あ~あ、そうじゃないんだよなあ」と思うこと、多いですよ。

付箋は、こうありたいものです。


ソレ用にちっちゃい付箋を買っておかなくちゃあいけません。