2018年10月21日日曜日

2018年10月20日土曜日

●2018 「角川俳句賞」落選展作品募集のお知らせ

2018 「角川俳句賞」落選展作品募集のお知らせ


第64回角川俳句賞は、鈴木牛後さん「牛の朱夏」に決定いたしました。おめでとうございます!!

さて。

今年も『週刊俳句』では「落選展」を開催いたします。

第64回角川俳句賞に応募され、惜しくも受賞ならなかった50句作品を、この落選展にお寄せください。

応募作品の全てを『週刊俳句』誌上に掲載いたします。


(10月25日発売の「俳句」11月号誌上に掲載の作品は、発表を見合わせます)


送付〆切 2017年10月31日(水)

送り先

● 福田若之 kamome819@gmail.com
● 岡田由季 yokada575@gmail.com
● 村田 篠 shino.murata@gmail.com
● 上田信治 uedasuedas@gmail.com 
● 西原天気 tenki.saibara@gmail.com

電子メールの受付のみとさせていただきます。

書式:アタマの1字アキ等、インデントをとらず、句と句のあいだの行アキはナシでお願いいたします。

あわせて簡単なプロフィールを、お寄せ下さい。

ご不明の点があれば、上記メールアドレスまでお問い合わせください。

なにとぞ奮って御参加くださいますようお願い申し上げます。

2018年10月18日木曜日

●梨 西原天気



西原天気


西のほうで暮らしていたせいでしょう、梨といえば、きまって「二十世紀」、産地といえば鳥取県でした。

  前世紀の遺物の梨を食うてをり  三島ゆかり〔*〕

カシカシと果肉に歯が入るたび、果汁がほとばしる。みずみずしい品種です。

東京近郊に移り住んでからは、とんと「二十世紀」を見なくなりました。幼いときの反動はこの分野にもあらわれ、好みはしだいに、やわらかい梨へ、「二十世紀」とは対照的に食感がムニムニとした洋梨へ。

  洋梨喰ふ夜はひたひたと沖にあり  櫻井博道

  洋梨とタイプライター日が昇る  髙柳克弘

  洋梨はうまし芯までありがたう  加藤楸邨

ありがとう、梨。ありがとう、いろいろな梨。


〔*〕『鏡』第29号(2018年10月1日)

2018年10月16日火曜日

〔ためしがき〕 てんげり 福田若之

〔ためしがき〕
てんげり

福田若之

助動詞の「つ」+「けり」には二通りある。よく知られている「てけり」がひとつ。それとは別に「てんげり」というかたちがある。

俳句では、尾崎紅葉の《いと惜しむ手鞠縁より落ちてんげり》 や本井英の《墓主は切られてんげり法師蝉》といった句があるが、いまのところ、あまり見ないように思う。

まだまだ、開拓する余地があるかもしれない。

2018/10/10

2018年10月14日日曜日

〔週末俳句〕10月の入り江 木岡さい

〔週末俳句〕
10月の入り江

木岡さい


臀部をすくい二の腕を引っ張り岩に押し付けた。切りたった石灰石の崖を見上げる入り江で泳いでいた時だ。盛り上がる波の緩やかさに油断していた。身体は一瞬、波になされるがままになった。

子どもがいない10月の海岸。大人たちは、持参のパラソルの下で寛いだり、潜ったりしている。ガツガツとした岩場を行く、こんがりと日焼けした姿はどれも、映画 『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンに見えるのが不思議だ。夏の名残りがまだ腰を据える空気の層の奥に、マルセイユの高層ビルが小さくかすむ。

陸に上がると、海水と混じりあった血が左肘に広がった。荒い岩肌で切ったらしい。近くの男性が血に気づき、ティッシュを差し出した。白い野球帽にサングラス。ひとりで時々この海岸へ来るという。「ミストラルが吹かない日も、このあたりの波の流れは強いからね」と、サングラスをずらし微笑んだ。

男性と30分ほど話し、読みかけの本を開いた。変哲もない日。みんな裸ということ以外は。




2018年10月12日金曜日

●蠟燭

蠟燭

蠟燭と冷たき石の照らし合ふ  岡田一実〔*〕

蠟燭のにほふ雛の雨夜かな  加舎白雄

蠟燭の焔の瑠璃や夏の暮  山西雅子

鶴眠るころか蠟燭より泪  鳥居真里子


〔*〕岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』(2018年8月30日/ 青磁社)

2018年10月9日火曜日

〔ためしがき〕 音韻論の西へ 福田若之

〔ためしがき〕
音韻論の西へ

福田若之


詩における反復の重視がいかに効果的であるとはいえ、音の織物はたんに数量面での工夫に尽きるわけではけっしてない。一回だけ、ただし主要な語や適切な位置に、対照的な背景をもってあらわれる音素が、きわだって重要になることもある。
(ロマン・ヤコブソン「言語学と詩学」、桑野隆訳、ロマン・ヤコブソン『ヤコブソン・セレクション』、桑野隆、朝妻恵理子編訳、平凡社、2015年、225頁。)

個別の句についての音韻論的な分析はいまや巷にあふれかえっているが(それらはかならずしも文献ではなく、むしろ句会などにおいてなされている)、それらは、しばしば、こうした視点を欠いているように思われることがある。

たとえば、《みづうみのみなとのなつのみじかけれ》の音韻について語る者は、おそらく誰でも「み」の頭韻のことを言う。続けようとすれば、さらにn音やt音に話題を移すことになるだろう。そのとき興味深く思われてくるのは、数のことだけで言えば、印象的なm音よりもn音のほうがずっと多いということだろう。なにしろ、「の」だけでも「み」に肩を並べるのだ。しかし、さらにその先には、一句を断つために表れたかに思えるr音と、それを導入するためのものとも思えるk音の唐突な出現といったことを、やはり念頭に置く必要があるはずだ。そこには、裕明自身の意図がはたらいたというよりも、むしろ、そもそも彼の書く日本語がそのようにできていた、とでもいうような趣がある。

俳句における反復に対して音韻論的な観点から捉えることが充分に浸透している今日となっては、もはや、誰にでも分かる頭韻や脚韻を指摘することはたんなる前提の確認にすぎなくなってしまっている。喩えるなら、それは音韻論の東海岸にすぎない。もっとも厳密な意味での音韻論に徹しようとすれば、おそらく、最終的にはいっさいの統計的な測定を捨てて、また、文字による助けを捨てて、鍛えあげられた耳だけを頼りにするような立場に身を置かざるをえないだろう。だが、俳句についてそのように語ることは、すくなくとも今日、ほとんど不可能なことに思われる。だが、それゆえに、そこには夢があるのかもしれない。

2018/9/25

2018年10月8日月曜日

●月曜日の一句〔津田このみ〕相子智恵



相子智恵






病棟の床の矢印行けば霧  津田このみ

句集『木星酒場』(邑書林 2018.8)所収

駅やスーパー、銀行のATM、公衆トイレでも、そういえば床に矢印のシールが貼ってあることは多くて、気づけばその通りに歩いたり、「ここで待て」のシールがあれば、そこで立ち止まったりする自分がいる。すっかり無意識に思考停止のまま、矢印の床シールの思い通りに動かされているものだなあ、と思う。

掲句、どきりとした。そういえば大きな病院の廊下にも矢印があった。床の矢印通りに歩いていったら、霧であったという。もうそこには矢印はなくて、自分の次の行動を指示してくれるものはない。「五里霧中」という言葉もあるように、霧は不安を連想させる。病棟であるから、やはり病気の不安を思う。

一方で、最後に「霧」でストンと軽やかなオチが付いてたような掲句の構造からは、絶妙な軽さが生まれていて、その諧謔味に救いがある。

矢印の一寸先は暗く黒い闇ではなくて、白い霧。その中に入れば体が浮遊するような真っ白な世界。何も見えなくて不安であるが、どこへ行くのも自由なのである。

2018年10月7日日曜日

〔週末俳句〕入場無料 西原天気

〔週末俳句〕
入場無料

西原天気


入場無料なのに見応え充分・内容充実の博物館・記念館は、都内にいくつもあるらしく、四谷三丁目の消防博物館もまさにそうでした(東京近郊に暮らしていながら、なおかつここはクルマでしょちゅう通るのに、入ったのは初めて)。

江戸火消しの史料展示やら明治期の消防機械化やら。なかでもミニチュアを点在させたパノラマに(なぜか)心惹かれました。



そこから程近い四谷於岩稲荷田宮神社と陽運寺も入場無料。日本一有名な幽霊、お岩さんゆかりの寺社。



この日、知り合いの吟行にくっついていったのですが、俳句は作りませんでした。火事は冬の季語だし、幽霊は夏の季語だし。※ここ、真に受けないでくださいね。為念。

句会も遠慮して、ひとり散歩を続けました。

散歩はおおぜいでなんだかんだ言いながらも愉しいし(今回の消防博物館などはとりわけ、そう)、ひとりも愉しい。

2018年10月6日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2018年10月5日金曜日

●金曜日の川柳〔井出節〕樋口由紀子



樋口由紀子






父はときどき菓子折りさげて芒野へ

井出節(いで・せつ)1944~2005

父親が菓子折りを持ってときどきどこかに出掛けることはありそうなことである。しかし、行き先が「芒野」とは、読み手の予想を裏切る。「芒野」は癒しの場として読むこともできそうだが、よからぬところのような気もする。

「ときどき」だから、今回だけではない。ときどきそうしなければならないものが父にはある。芒野に行かなければ遣り過ごせないものを抱えている。それが「父」というものだと父である作者は言っているように思う。菓子折りをさげる父、芒野へ行く父、そんな父の姿が見えてくる。〈一つめの桃は見送ることにする〉〈いかがせむいかがせむとて舞いにけり〉〈哄笑うために赤い鳥居によじ上る〉 『井出節川柳作品集』(2002年刊 川柳黎明舎)所収。

2018年10月4日木曜日

●木曜日の談林〔三輪一鉄、田代松意〕浅沼璞



浅沼璞








小鹿の角のさいの重六     一鉄
  汐ふきし鯨油火かき立てて    松意    
『談林十百韻(とつぴやくいん)』(延宝三年・1675)



宗因を奉じた江戸談林の連句集から、短句/長句の付合。

江戸時代の賭博は丁半博打。さい(サイコロ)を転がしてサイの目の奇数と偶数で勝負を決めた。重六(ちょうろく)とは六のぞろ目が出ること。それを確認するため油火をかきたてる賭博場の情景を詠んでいる。博打はご法度であったから灯りは弱くしてあるが、かつてその鯨が汐を吹いたように、今その鯨の油火がかきたてられているのだ。いわゆる談林的誇張。

博打に興じることを「鹿の角を揉む」というように、鹿の角をサイコロとし、また鯨油を灯火とした背景には、狩猟や捕鯨の産業化があった。つまり鯨や鹿を原材料として詠みこむ談林俳諧は、商品経済が発達した消費社会を下部構造としていた。

それにしても小鹿(をじか)の角と、汐をふいた鯨とを対で詠んだこの付合は、小と大、静と動、山と海といったイメージギャップを露わにしている。そこにも談林らしい視点がある。

この連句集を機に、江戸の一結社の呼称であった「談林」が、宗因流の汎称として世に知られるようになる。

2018年10月3日水曜日

●屋上

屋上

屋上は大きなひかり空澄めり  飯田 晴〔*〕

屋上に洗濯の妻空母海に  金子兜太

曙や屋上の駅永遠に  摂津幸彦

死をさそふ人工芝の屋上は  田川飛旅子

屋上に見し朝焼のながからず  加藤楸邨


〔*〕飯田晴句集『ゆめの変り目』(2018年9月/ふらんす堂)

2018年10月2日火曜日

〔ためしがき〕 洗面台に置かれた「俳句」 福田若之

〔ためしがき〕
洗面台に置かれた「俳句」

福田若之


たとえば、いま、たとえば、もしたまたま俳句に興味をもった中学生がGoogleに頼ったときにどんな情報に出会うことになるのか、と思って、ときたま、ただ「俳句」の一語だけで検索をかけてみたりすることがある(いま仮に中学生と書いたのは、ちょうどそのくらいの年齢のころに初めてのパソコンを与えられた僕自身の体験によることで、それ以上の意味はない)。

Wikipediaの記事をはじめ、現代俳句協会や伝統俳句協会の公式サイトや、お~いお茶新俳句大賞の結果、『プレバト!!』の宣伝記事、角川の『俳句』の公式サイト、青空文庫に収められた高浜虚子「俳句の作りよう」などなどが並ぶ(余談だが、俳人協会の公式サイトは上の二協会に比べるとずいぶん下のほうに出てくる。協会名に「俳句」が入っていないせいだろうか)。そのなかに、今朝、おもしろいものを見つけた。

LUSHというイギリス発のコスメブランドが発売している「俳句」"Ultrabland"というクレンジングの商品紹介ページである。だが、「古代ギリシャで愛用されていたコールドクリームのフォーミュラを再現した、とてもシンプルなクリームタイプのクレンジングです」と紹介されるこのメイク落としは、「アーモンドオイル、ローズウォーター、ミツロウ、ハチミツは、古来より世界中で愛され続けている自然由来の原材料。強い洗浄成分に頼るのではなく、必要な潤いを補いながらお肌をいたわります。メイクや毛穴の汚れをしっかり落とすクレンジングなのに、スキンケアまでできてしまう、一石二鳥のクリームです」というふうに続く説明を読んでみても、なぜ「俳句」と呼ばれることになったのか、まったく見当がつかない。

そこで、今度は「俳句Ultrabland 名前の由来」で検索をしてみる。すると、「ネーミングにもハマってしまう『LUSH』のコスメ」と題されたexcite.ニュースの記事が出てきた。LUSHの商品のネーミングについて、ラッシュジャパンの広報担当者への取材をもとに記したもののようだ。こんなことが書いてある。
広報の関本さんによると、ネーミングは、本国イギリスでつけられている、英語の響きの面白さを活かしてそのままカタカナ表記にしているものと、直訳したもの、またイメージから、日本語にふさわしい表現に意訳したものがあるそうだ。

そう、特に意訳がすごい。
中でも一番面白いのが、「俳句」という名の洗顔料。実は英語では「Ultrabrand(ウルトラブランド)」というのだそうで、なぜかというと、この商品は、ラッシュを10年前に立ち上げたスペシャリストたちが、そこからさらに15年も前に既に開発していたという、いわば代表的商品なのだった。だからこそ“ウルトラ”=“超”なのだ。そこで、日本ではその意味を重視して、昔から長く親しまれ続けている日本文化のひとつからとり、「俳句」と名付けたのだとか。
もちろん、日本において「昔から長く親しまれ続けている」「文化」にもいろいろなものがあるわけで、そのなかでとりわけ「俳句」の名が選ばれたことにどれほどの理由があるかはわからない。いずれにせよ、この国に暮らしている少なからぬ人々が、名前だけであれ「俳句」と呼ばれるものを家庭の洗面台に定期的に補充し、それによってメイクを落としているのだと想像することは、何か不思議な感情をかきたてることではある。LUSHの公式サイトには「メイクおとし『俳句』で健やかなお肌へ――美肌への近道」というページもある。そこでは、このクレンジングの使用法が次のとおり説明されている。
  1. 適量を手に取り、お肌になじませながら、顔の中心から外側に向けてクルクルとマッサージをして行きます。
  2. マッサージが終わったら、しっかり濡らしたコットンで優しく『俳句』をふき取っていきます。ホットタオルを使って、顔全体をスチームで包みながらふき取るのもおすすめです。気持ちまで心地良く温まるのを感じます。
  3. 次は、洗顔となりますが、しっかりメイクしていない日も「メイクおとし&洗顔」のステップはお忘れなく。お肌の大敵である、ほこりや余分な皮脂をその日のうちにしっかり落とすのが美肌作りのカギです。
  4. その後は、化粧水で潤いを与え、お気に入りの保湿クリームでお肌をお手入れしてください。
<時間がある時は> 小鼻を優しくじっくりマッサージして、ディープクレンジング。『俳句』が毛穴につまった黒ずみを徐々に溶かし出していきます。
適量の「俳句」を手に取ったり、それを肌になじませたりすること。しっかり濡らしたコットンで、顔の「俳句」を優しくふき取ること。「俳句」が毛穴につまった黒ずみを徐々に溶かし出していくということ。文芸としての俳句だけが「俳句」の名に値すると疑わないひとびとのほとんどは、おそらく、そんな日常を想像だにすることはない。たしかに、文芸としての俳句にとっては、そんな日常を想像してみることになど、ほとんど何の価値もないかもしれない。それでも、こうした想像は、僕にとって、しばしば大きな喜びを感じさせてくれるものなのだ。

たとえば、学校から帰ってきた子どもの手のひらの、どうやら油性ペンで書いたらしいほんの俳句ほどのメモ書き――いや、もしかするとそれは誰かにとっての「俳句」そのものだったかもしれない――を、ふつうの石鹸では落とすことができずに、母親が普段メイク落としに使っている「俳句」でもって拭い去るといったことが、もしかしたら、あるかもしれない。「俳句」が「俳句」によって心地よく消し去られるということ、「俳句」が「俳句」に溶けだしていくということ――もちろん、こうした想像は、いくつかのゆくりない輝きのほかに、いかなる根拠も持ち合わせてはいない。

それにしても、洗面台に置かれた「俳句」というイメージは、僕にとっては、何よりもまず次の句を思い起こさせるものだった。

初雪を見てから顔を洗ひけり 越智越人

一句は、越人の意図とは無関係に、いまに至るまで繰り返される何事かを指し示しつづけている。この句を知らずにいるひとたちさえもが、思いがけず、その出来事をなぞりうるだろう。そして、今日では、もしかすると、その洗面台に「俳句」が置かれているかもしれないのだ。それは、ほんとうにささやかなことではあるけれども、何かしら運命的なものを感じさせずにはいない偶然ではないだろうか。

2018/9/7

2018年9月28日金曜日

●金曜日の川柳〔玉利三重子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ご遺族といわれて遺族かと思い

玉利三重子 (たまり・みえこ) 1935~

「あっ、そうだった」「これはわたしのことだ」とはっとする。斎場に行くと「ご遺族さま控室」がある。係りの人に「ご遺族さま」と案内もされる。言われてみて、そうか「遺族」として参列しているのだと気づく。遺族として参列していても、遺族の実感がない場合がある。身内ならさすがにそうではないが、会ったこともない、顔も知らない遠い親戚の葬儀に出ることもあるからだ。

ふと感じる意識のずれと日常の違和の表明。なおかつ、かすかな問題意識を持って一句を成立させている。乾いた書きぶりで、人の心の微妙な綾を突いている。〈猫といる時間がとてもやわらかい〉〈町内のことに詳しい猫のひげ〉〈狂わずに生きて喜劇の中にいる〉

2018年9月25日火曜日

〔ためしがき〕 浮世絵、そのつや消しの美 福田若之

〔ためしがき〕
浮世絵、そのつや消しの美

福田若之


永井荷風が「浮世絵の鑑賞」という文章にこんなことを書いている。
浮世絵はその木板摺の紙質と顔料との結果によりて得たる特殊の色調と、その極めて狭少なる規模とによりて、寔に顕著なる特徴を有する美術たり。浮世絵は概して奉書または西之内に印刷せられ、その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし、試みにこれを活気ある油画の色と比較せば、一ツは赫々たる烈日の光を望むが如く、一ツは暗澹たる行燈の火影を見るの思ひあり。
「その色彩は皆褪めたる如く淡くして光沢なし」。その質感を「暗澹たる行燈の火影」に喩える荷風の言葉には、『陰翳礼讃』の谷崎潤一郎と通じ合うところがあり、そしてそれゆえに「夜の形式」の田中裕明とも通じ合うところがあろうと言わねばなるまいが、まずはその「光沢なし」という質感の直接な把握の言葉に着目したい。それは、ロラン・バルトの「つや消しmat」という言葉に通じているように思われる。この語は、たとえば、こんなふうに記される。
これらいくつかのアナムネーズは多かれ少なかれつや消しである(いたずらなもの――意味を免除されているものだ)。それらをつや消しにすることに成功すればするほど、それらは想像界から逃れることになる。
これは『ロラン・バルトによるロラン・バルト』の一節だ。ここでいうアナムネーズとはどのようなものだろうか。まずは、そこに示されたわかりやすい一例を挙げておく。
帰りは路面電車で、日曜日の夜、祖父母のところから。部屋で夕食をとる、炉辺で、スープとトーストを。
バルトの説明はこうだ。
私がアナムネーズと呼ぶ行動――悦楽と努力のまぜこぜ――は、それを大きくみせることもなければそれをうちふるえさせることもなしに、ある思い出の微妙を主体にとりもどさせようとする、つまり、それは俳句そのものなのである。
だから、バルトにとっては俳句もまたつや消しであるだろう。すでに『記号の国』において、バルトは俳句に意味の免除を見出していた。

さて、すでに引用したとおり、バルトは、意味が免除されている状態としてのつや消しを、想像界からの逃走と結び付けていた。ところで、想像界とはどのようなものか。
想像界、イメージの包括的な想定は、動物たちにも存在する(だが象徴界はすこしもない)、というのは彼らがおとりのほうへと真っすぐに向かっていくからだ、性的なおとりであれ敵のおとりであれ、彼らに対して差し出されたおとりへと。
そして、イメージはバルトにとってはある品詞と本質的に結びついている。
彼は人間関係の極みはイメージの不在によってもたらされるものだと考えている――親しいあいだで、一方から他方への、形容詞を廃することだ、自らを形容詞化する関係はイメージの側に、支配の、死の側にある。
したがって、想像界は形容詞とかかわりがある。エクリチュールの想像界は、形容詞とともに再来するものとして語られる。
昼のうちに書いたばかりのものに、彼は夜な夜なおそれを抱く。夜は、信じがたいほどに、エクリチュールの想像界――生産物のイメージ、批判的な(ないしは友好的な)うわさ話――をまるごと連れ戻すのだ――こんなのはいきすぎだ、あんなのはいきすぎだ、それは不充分だ……。夜は、形容詞が再来するのだ、群れをなして。
荷風が浮世絵のつや消しの美に夜の行燈の火を思っているのに対してバルトが夜をつや消しの美の損なわれる時間とみなしているように思われることは、ひとまず置いておこう。バルトが俳句について言う意味の免除、すなわち、つや消しを、荷風をともに読むことを通じて、浮世絵の質感として把握してみること――それは、バルトにとっての俳句と荷風にとっての浮世絵の双方を、同時に肌で感じることを可能にするのでないか。何にせよ、両者の擦りあわせには、何かめくるめくものがあるように感じられる。

やがては、昼と夜の区別自体がもはや意味をなさなくなるだろう。黄昏は、もはや昼の終わりではなく、昼と夜の区別そのものを終わらせるものとして捉えかえされるに違いない。とすれば、もしかすると、この擦りあわせの果てには裕明のいう「夜の形式」もまた今一度捉えかえされることになるかもしれない。とりあえずここまでにしておこう。このことは、別の機会に考えてみる価値がありそうだ。

2018/8/26

2018年9月23日日曜日

〔週末俳句〕水辺の散歩 西原天気

〔週末俳句〕
水辺の散歩

西原天気



京・鐵砲洲あたり。高橋(たかばし)から南高橋(1932年開通。人道橋の鋼鉄トラス橋としては都内で2番目に古い)を望む。むこうに見えるのは亀島川水門。こちらは1968年竣工。

その前の週末には、神奈川県葉山町で森戸川。このところ、川の近くで過ごす機会が多く、気持ちが潤っています。

2018年9月22日土曜日

【人名さん】林家ペー・パー子

【人名さん】
林家ペー・パー子

天高く林家ペーとパー子かな  津田このみ


津田このみ句集『木星酒場』(2018年8月/邑書林)
邑書林 on line shop


2018年9月21日金曜日

●金曜日の川柳〔森田律子〕樋口由紀子



樋口由紀子






ミルクキャラメルが痛みになっている

森田律子 (もりた・りつこ) 1950~

ミルクキャラメルが痛み? 甘さが心を癒してくれるのではなく、余計に傷心度が増していくということだろうか。ミルクキャラメルの必要以上に甘くて、あとあとまで口の中にべたべた感が残る、そんな味覚を思い出した。共犯めいた甘さがここにある。

ミルクキャラメルは作者にとっての個人的な思い出として、別の意味合いがあったのかもしれないが、「ミルクキャラメル」と「痛み」の組み合わせは意外だった。なるほどでもなく、解釈もできない。なんでも意味があると思い、なにがしかの意味の通路を見つけようとするのは悪い癖なのだろう。すべてのものに意味があるわけではない。「ミルクキャラメル」がせつなく、小宇宙を作り上げている。

〈ぬかるみは二足歩行がいいみたい〉〈雨が降るから鍵さしたままだから〉〈空き缶を蹴り空想の後始末〉〈水滴が水滴押して水滴〉 『川柳作家ベストコレクション 森田律子』(2018年刊 新葉館出版)所収。

2018年9月18日火曜日

〔ためしがき〕 おっしゃることの意味が、むなしい。 福田若之

〔ためしがき〕
おっしゃることの意味が、むなしい。

福田若之


おっしゃることの意味が、むなしい。という七七がふいに浮かぶ。

わかりません、ではなく、むなしい。おっしゃるというのだから本来尊敬するべきはずの他者の言葉について、その意味があからさまにうつろだと指摘する言葉。これは、何がしかの発言に宛てられたぶしつけな批判なのだろうか。けれど、この言葉は、何か特定の個別的な他者の言葉に対して思い浮かんだわけではない。だから、この言葉は、無意識の底のほうから、なにか一般的なことを言わんとして意識のうえに浮かんできたのだろう。

この句に言われているのは、まずもって、他者に対する敬意やそれにともなう他者の言葉に対する敬意と、他者の言葉を無意味なものと感じることとは、決して背反しないということだ。 おっしゃることの意味が、むなしい。思えば、そんなふうに感じたことは、生きてきて、これまでにさえすでに百や二百ではおさまらないのではないか。そして、そうしたむなしさは、必ずしも不愉快なものではなかったのではないか。

あるいは、むなしいのはむしろ自分の言葉のほうではなかったか。誰かの言葉に、おっしゃることの意味がわかりません、と言いかけて、そのように言うことのむなしさを感じたことはなかったか。そんなとき、おっしゃることの意味がわかりません、という言葉を、(そんなふうに相手に伝えること自体が)むなしい、という感情が中断したことがなかったか。

そして、そもそも、意味などというものは、突きつめれば、そのつど、むなしいものにすぎないのではないか。俗に意味といわれているものが、たとえば、切れた言葉の傷口の疼きでしかないのだとしたら。

おっしゃることの意味が、むなしい。この句はおそらく絶望の言葉だけれど、同時に、おそらく希望の言葉でもありうる。

2018/8/22

2018年9月16日日曜日

〔週末俳句〕週末鳥見 岡田由季

〔週末俳句〕
週末鳥見

岡田由季



昨年、小津夜景さんへの海鳥のインタビューを担当したことをきっかけに、野鳥を見ることにはまった。

最初は、散歩の途中で、すこし注意して見るくらいだった。それが徐々に近隣の野鳥スポットに出かけるようになり、今年2月に愛犬を失ってからは、その寂しさもあり、予定のない週末はたいてい、ため池や海辺、すこし遠くの公園へ鳥を見に行く生活になった。

ひとことで鳥を見ると言っても、いろいろな方法がある。小津夜景さんは、いつも手ぶらで見に行かれるそう。そういう詩的アプローチにも憧れるけれど、私にはできず、双眼鏡と、望遠のデジカメを持っていくことになる。そうでないと、まず何の鳥かわからない。


鳥を見つけたら、なるべくその鳥の特徴がわかる写真を撮り、家に帰って調べる。身近な環境にも、思った以上に多種の鳥がいて、それぞれにユニークな生態があることを知ると、面白くてたまらない。



イカルチドリ。石の色と同化して、肉眼だと何かが動いた、くらいしかわからない。

こんなに何かに熱中したのは、俳句を始めたとき以来かもしれない。俳句を始めたころは、世の中にこんなに楽しいものがあったのかと思い、毎週末はもちろん、平日の夜も句会に行っていた。いま振り返ってみれば、俳句に熱中していたのではなく、句会という遊びが楽しかっただけだと思うけれど。

俳句は20年も続けているので、だんだん、ただ楽しい、ではすまない複雑な状況になってきてしまった。(いえ、楽しいことは楽しいのですが。)

鳥を見るのに、知識も増やしたい、本当は写真ももっと上手に撮りたい。でも、あまり欲を出さないように、と考えている。多種の鳥を見たり、知識を得るには、野鳥の会の探鳥会などに参加するのが、きっと近道だと思う。でも、気ままに見たいので、あくまでも、空いた時間に、ひとりで見に行くことにしている。カメラも、機材やテクニックを追求せず気楽に。そんな感じで、ずっと楽しい状態を持続できればいいと思っている。

 
この土曜日も海辺にシギチ(シギ・チドリの略)を探しにいった。もう、秋の渡りのピークは過ぎてしまったみたい。でも、これからは鴨がどんどん渡ってくるし、小鳥も見やすい季節になってくる。季節ごとに楽しみが尽きない。


亜種チュウダイサギ。白鷺にもいろいろ。

2018年9月15日土曜日

●夜景

夜景

夜景とは愁ひの灯かや夏の果て  鈴木真砂女

心頭滅却宝石店の夜景すずし  中村草田男

人影を夜色の追へる冬旱  松澤昭

皿の藍に夜色沈める海雲かな  長谷川春草

いまはむかし夜景とあらば桜咲き  高柳重信

2018年9月14日金曜日

●金曜日の川柳〔堀口塊人〕樋口由紀子



樋口由紀子






道歩いとっても桂春団治

堀口塊人 (ほりぐち・かいじん) 1903~1980

偶然に道頓堀で桂春団治と会ったのだろうか。歩く姿を見ただけで、すれ違っただけで春団治だとわかった。「さすが」だと思ったのだ。秀でている人は道を歩いていても、ごはんを食べていても、何をしているときでも独特の雰囲気が満載である。作者はその姿に惚れ惚れした。その惚れ惚れ感がよく表われていて、至福ように語っている。

「道歩いとっても」のさりげない大阪弁が関西の落語家を描くことの面白さを倍増している。書かれた年がわからないので、二代目か三代目か、どちらの桂春団治だろうかと思った。二代目の豪快さが掲句にぴったりと当てはまりそうだが、三代目の飄々さでも充分に納得できる。どちらにせよ人のオーラの凄さを爽快に言い切っている。

2018年9月13日木曜日

●一面

一面

水晶の一面光り渡り鳥  小川軽舟

一面の落葉に幹の影が乗り  対中いずみ〔*〕

大榾をかへせば裏は一面火  高野素十

恵方なる一面の火の崖椿  井沢正江

星涼し川一面に突刺さり  野見山朱鳥


〔*〕対中いずみ句集『水瓶』(2018年8月/ふらんす堂)

2018年9月11日火曜日

〔ためしがき〕 たとえば、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない。 福田若之

〔ためしがき〕
たとえば、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない。

福田若之


たとえば、これまで仮に僕と呼び、また、書き慣わしてきたそれを、ためしに彼女と呼び、書いたとき、何が起こるのだろう。たとえば、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない、といったふうに。

彼女は、一方では、これがたんなる文法上の置き換えの試みとして理解されることを望んでいるけれど、他方では、それがたんなる文法上の置き換えの試みでは済まないことを予感してもいる。

彼女が彼女自身のことを彼女と呼ぶことは、彼女にとって、彼女以外の誰かが彼女のことをそう呼ぶこととはまるで違っている。けれど、彼女自身には、いまのところ、その理由がうまく説明できない。それは、彼女が彼女自身のことを彼女と呼ぼうと試みるうえで最初に思い浮かんだのが、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない、ということだったことの理由を、うまく説明できないのと同じことだ。

たしかに、彼女は、いまや、彼女自身について、たとえば、彼女はゴーヤを口にしない、とか、彼女は考えごとをするときに両手で顔を覆うことがある、とか、彼女はきのう飛行機で松山から東京に帰ってきた、とか、彼女はその機内で飲み物を勧められ、キウイジュースを頼んだ、とか、じつは彼女は黄色の服を着ていたことがあるし、いまでもそれを何着か持っている、とか、それにもかかわらず、彼女はもう長らくそれらの服を着ていなかったし、それらを持っていることさえ失念していたのだ、とか、書くことができる。けれど、そうしたことのすべては、彼女は黄色が好きだが、自分でそれを着ようとは思わない、ということのあとにしか書くことができなかったように思う。それだから、彼女はそこになんらかの必然を感じずにはいられない。なぜ黄色なのか、なぜ服のことなのか。ただし、精神分析的な回答を与えられたとしても、彼女はおそらくそれに満足しないだろう。たぶんこのあと、彼女は両手で顔を覆う。

2018/8/22

2018年9月10日月曜日

●月曜日の一句〔対中いずみ〕相子智恵



相子智恵






近々と二百十日の鳶の腹  対中いずみ

句集『水瓶』(ふらんす堂 2018.8)所収

〈二百十日〉は立春から数えて210日で、今年は9月1日だった。稲に甚大な被害を与える台風が相次いで襲来することから、農家の人々は過去の経験からこの日を厄日として警戒した。各地で風を鎮める「風鎮祭」が行われる。

普段は高く飛んでいるであろう鳶の腹を近々と見上げるということは、相当低いところを飛んでいるのだろう。季語によって強い風が感じられてくる。鳶が感知している天気の急変があるのかもしれない。〈二百十日〉という季語と近々と見ている〈鳶の腹〉だけで、その緊張感が見えてくるところが見事だ。

本句集は〈何かよきものを銜へて雀の子〉〈鳥のほか川しづかなる裕明忌〉など、鳥の佳句が多くて(水の佳句も多い)心が広やかに静かになる。

2018年9月8日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

週俳の記事募集

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そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2018年9月7日金曜日

●金曜日の川柳〔德永政二〕樋口由紀子



樋口由紀子






半分のキャベツに夜がやってくる

德永政二(とくなが・せいじ)1946~

料理にもよるが余程の大家族でないかぎりはキャベツ一個を丸ごと夕食に使い切ることはほとんどない。夕方まではもう半分と一緒で一個だったキャベツは今は半分になって一人(?)で夜を迎えなければならない。明るかった外もだんだんと漆黒の闇になる。

掲句を読むまではそんなことは考えたこともなかった。残りのキャベツを何のためらいもなく冷蔵庫にほうり込んでいた。キャベツに限らず、なにもかもに対してそうだったような気がする。俳句で「ものをよく見る」のは既成概念を捨てるためだと聞いたことがあるが、川柳においては「ことをよく見る」のは日常を捉え直すきっかけかもしれない。

〈青い山ときどき通る青いバス〉〈ビニールのひもで結んである真昼〉〈マヨネーズなんかも飛んでくるらしい〉 『川柳作家ベストコレクション 德永政二』(2018年刊 新葉館出版)所収。

2018年9月6日木曜日

●木曜日の談林〔西山宗因〕浅沼璞



浅沼璞








いろはにほへの字なりなるすゝき哉  宗因

「真跡」(万治2年・1659)



これは西鶴の師匠である西山宗因の発句。いわば談林・揺籃期の作だ。

いろは歌を「への字」につなげながら、強風になびく薄の描写へといたる。

「への字なり」とは、漢数字の「一」をヘタに書くと「へ」の字にみえることから、「物事をどうにかこうにかする」という意味のことわざ(世話)である。

談林では本歌取りや謡曲取りに同じく世話取りというサンプリング技法が多用された。

強風にもてあそばれながらも、どうにかこうにか耐える薄の、その「なり」を滑稽かつ写実的に詠んだ世話取りと解すのが妥当だ。



ところで『好色一代男』には吉野太夫による筆おろしのシーンがあるが、そこで西鶴は師匠のこの世話取りをパクり、「物事をどうにかこうにかする」という意味はそのままに、半立ちの一物を「へ」の字の表記で活写した。

「への字なりに、埒明(らちあけ)させて」というのが原文の表記だが、吉行淳之介訳『好色一代男』(中央公論社)の訳者覚書をひもとくと、「文章表現の圧巻」と高い評価を得ている。

「への字なり」を「どうやら」とか「なかば萎えたまま」などと換言しては味がなくなると吉行は指摘する。

そういえば吉井勇(創元社版「西鶴好色全集」)や里見弴(河出書房新社版「西鶴名作集」)の訳文も、ほぼ原文のままだ。



かつて国文学者の廣末保は浮世草子の両義性について、〈活写することと、作意の妙を見せること〉が一つであると言いあてた(『西鶴の小説』平凡社)。

その両面的価値のルーツが談林俳諧にあったことは、掲句をみれば明らかだろう。

2018年9月4日火曜日

〔ためしがき〕 『概念』についての覚え書き 福田若之

〔ためしがき〕
『概念』についての覚え書き

福田若之


さんかくやまの『概念』は、《書きたい》を前へと傾かせる。

ごく大雑把に言えば、メタ的な要素が特徴的な4コマ漫画だ。KADOKAWAから単行本も出ているけれど、ひとまず、ニコニコ静画版(『概念』および『概念Ⅱ』)からいくつかの例を挙げることにする。たとえば、隣り合うふたつの4コマ漫画のうち、左のほうに登場する人物が、枠線に紙コップをあてて右のほうの漫画の人物の声を盗聴する。あるいは、オノマトペがうるさいのでスイッチを押してその漫画自体をミュートにするのだが、そのせいで吹き出しのなかまで真っ白になり、人物のコミュニケーションが成立しなくなる。あるいは、4コマ漫画をきりんと一緒にやることの困難――きりんのほうは胴体しかコマに入らないので、顔を並べることができない――を、 遠近法によって解消しようとする(その結果、「くそ遠いな」ということになる)。

作られてある、ということのおもしろみに、《書きたい》がおのずから前へと傾くのだろうか。そういえば、これはとりわけ単行本にまとめられた作品群により顕著だと感じるのだけれど、『概念』の作品群はしばしば、こうしたい、こうなりたい、という望みからはじまる。たとえば、「気持ち良く/なりたい」、「パウダーに/なりたい」、「こんにゃくに/乗りたい」、「ラスボスに/なりたい!」、「暗殺したくて/たまらない…」、あるいは、「仙人の/主食として/知られる/霞を食べたい」といった具合だ。《書きたい》もまた、こうした言葉に引っ張られて生じるのかもしれない。けれど、『概念』を前にしたときに《書きたい》がおのずから前へと傾くことには、ほかにも理由があるように思う。

『概念』は、ときに、漫画としてはあまりにも言語的なおもしろみに傾くことがある。「今まで/やった事がない事に/一緒に挑戦しようぜ」「やった事がない事/何かある?」、「死んだことない」、「それは/やめとこうぜ」。 あるいは、猫「人間って大変だね…」「服を着ないと/いけないなんて…」、花「動物って大変だね…」「動かないと/いけないなんて…」、石「植物って大変だね…」「光合成しないと/いけないなんて…」、無「みんな大変だね…」「存在しないと/いけないなんて…」。最初の印象としては、これらの4コマにおいて、それが絵であることはほとんどおもしろみに奉仕していないように思える。けれど、その場合にも、絵の細部によって、それならではの何かがもたらされている。たとえば、「死んだことない」の4コマでは、2コマ目と4コマ目の構図がほとんど同じなのだけれど、2コマ目では閉じられていた登場人物のひとりの口元が、4コマ目ではわずかに開かれている――違いは極めて微細なものにすぎないけれど、それゆえにこそぐっと惹かれるものがある。「みんな大変だね…」の4コマでは、黒で粗く塗りつぶされた猫の目が、その塗りつぶしの粗さゆえに目を惹きつける。無論、こうした細部は、それぞれの作品の本筋――あきらかに、4コマ漫画においても本筋というものがある――とはさしあたり関係がない。それらは、ロラン・バルトがエイゼンシュテイン映画のフォトグラムを分析しながら語ったあの第三の意味としての「鈍い意味」を思わせるものだ。

ところで、本筋と違うところにあるこうした魅力は、いかにして生じているのだろうか。言語的なおもしろみにせよ、絵画的なおもしろみにせよ、また、それらとは別の漫画的なおもしろみにせよ、『概念』の個々の4コマがその本筋において花開かせているのは、個別に絞り出されたいくつかの形式的な特質にすぎない。たとえば、『概念』においても、枠線がつねに形式的な特質として強く意識されるわけではない(そもそも、『概念』において、つねにメタ的なおもしろみが狙われているというわけではない)。ひとつの4コマで形式の無限の可能性のすべてを汲みつくそうとすれば、おそらく、そのとき作品は失敗するしかないだろう。けれど一方で、本筋によって掬いあげられている以外の形式的な特質もまた、すくなくともいくらかは、個々の4コマにおいてはっきりと表れざるをえない。たとえば、枠線は、それとして意識されない場合にも、むしろあらためて意識されないようにするために、そのつどしっかりと引かれる(枠線が引かれない場合には、かえって枠線の不在が意識されることになる)。『概念』を読むと、そうした余った特質が、本筋とは違うところで働いているのが感じられる。

したがって、『概念』が思い出させてくれることのひとつは、ジャンルによって与えられている形式の特質の全面をあらかじめ意識化しておくことができないとしても、書くことそれ自体が、そのつど、いわばあとからその余剰を救い出すことの可能性だ。近代的な前衛芸術の理論と実践がしばしば形式に対する徹底した意識と引き換えにひとびとの《書きたい》を萎縮させずにはいないのに対し、『概念』は暗闇を動き回るサーチライトのような身ぶりで形式に対する個別的な気づきを誘発し、その結果として、《書きたい》を気楽にする。もちろん、それは決して『概念』がたやすい作品であるということではない。誰かの荷を軽くすることは、その責任感に訴えることよりもはるかにむずかしい。その実践は稀有でさえある。

2018/8/12

2018年9月3日月曜日

●月曜日の一句〔山田耕司〕相子智恵



相子智恵






南瓜切る浅撫でに撫でほめてのち  山田耕司

句集『不純』(左右社 2018.7)所収

いやらしくて、薄情で、南瓜なのにミステリー映画のような仕立てで笑ってしまった。

まず冒頭の〈南瓜切る〉で、この南瓜の運命が、先に読者に提示される。

そして〈浅撫で〉である。これは造語だろうか。立派によく育った南瓜を撫でてほめているのだが、〈浅撫で〉によって南瓜だということを忘れそうになる。〈浅撫で〉は犬の頭をごしごしと撫でてほめるような明るく無邪気なほめ方ではない。肌の上をスーッと撫でる愛撫のような撫で方だろう。〈浅撫でに撫で〉で、執拗に撫でまわす。しかもその育ちぶりをほめながら。

そして、また冒頭に戻る。南瓜は愛から死(?)へ、真っ二つに身を切られる。ゴツリ、と鈍い音を立てながら。立派な南瓜だから、固くて相当な手ごたえがあることだろう。包丁に全体重をかけて切る主人公と、抵抗する南瓜。その手ごたえの重さが容易に想像できる南瓜だから、この句に“バラバラ殺人事件”のような妙な雰囲気が立ち上がる。

南瓜だからこそ笑えるだけでなく、南瓜だからこそ妙なリアリティが生まれていると言えるかもしれない。

2018年9月2日日曜日

〔週末俳句〕移動時間 千野千佳

〔週末俳句〕
移動時間

千野千佳



最近、急に実家に帰ることがあった。

上野駅から新幹線で1時間半。

「トランベール」をひととおり読んだあと、ひまなので、ネット句会に参加してみることにした。

Twitterで見つけた、某ネット句会。お題は「金」「足」「農」「業」。

駅に着くまで、それぞれのお題で1句ずつ、計4句作ってみることにした。

ノートに俳句の断片をランダムに書いていく。移動中に俳句を作るとき、今までは、頭の中で考えて、携帯電話のメモに入力していた。ところが最近、ある句会で、若くて品のよい美人がノートを大切そうにひろげてメモをとっている姿をみた。

その姿がなんとも良くて、ノートを購入し、持ち歩いている。

新幹線は空いていた。俳句を考えることに疲れると、どんどん田舎になっていく外の景色を見たり、トランベールについている路線図を眺めたりした。長野駅に着く。あとは「業」を考えるのみ。スマートフォンで業を含む熟語を探そうとするも、圏外。やっぱり電子辞書を買うべきか。歳時記はアプリのものを愛用している。ものをできるだけ持ちたくないので、本もあまり買わないようにしているが、角川ソフィア文庫の第五版歳時記は表紙がかわいいので買った。

駅に着くまでに、4句作り終えてネット句会の掲示板へ投句した。満足のいく句と、駄句だと思うものとが半々くらい。移動時間内で終了しなければならないので、開き直りができてよい。

帰りの新幹線では、行きに投句したネット句会の一覧が出来上がっていたので、選句と選評の書き込みをした。90句のなかから、17句選ぶ。17句もあるので、選評は1句につき一言ずつ。みなさん、なかなかお洒落な一言をつけていた。真似てやってみる。

移動時間に俳句を作る、俳句を選ぶのは、制限時間が強制的に設けられるので、とてもよい。

わたしは出張のない仕事なので、仕事中の移動には縁がない。

腹六分で仕事をして、移動時間にはひたすら俳句を作るサラリーマンみたいなものになりたいなと思う。この時代、腹六分でやっていける仕事を探すのはとてもとても難しいが。

2018年8月31日金曜日

●金曜日の川柳〔菊地良雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






富士山が見える向かいの火事のあと

菊地良雄

実際の話がどうかかなり疑わしいが、どきっとする川柳である。向かいの家が火事で焼失し、前がすっぽり空いて、今まで見えなかった富士山が見えるようになった。他人に不幸のおかげで幸せをもらうみたいな、なんと不謹慎な川柳なのかと誰もが思う。

けれども、「富士山」の一語に分別を軽々と踏み込んでいく力を感じる。といっても、悪いことがあっても良いこともあるからというような人生訓ではない。均一化されている思考パターンとはあきらかに違う方向に「富士山」が誘う。よいわるいだけでけりをつけられないものがこの世にはわんさとある。みんなが一斉に走り出す発想や見つけにはまらない強さが掲句にある。

〈恋人をさがす近所の鍼灸医〉〈風刺画の隅に壊れた炊飯器〉〈へとへとになって地球から戻る〉「ふらすこてん」(第58号 2018年刊)収録。

2018年8月30日木曜日

【新刊】髙柳克弘『どれがほんと?――万太郎俳句の虚と実』

【新刊】
髙柳克弘『どれがほんと?――万太郎俳句の虚と実』

2018年8月29日水曜日

【新刊】四ッ谷龍『田中裕明の思い出』

【新刊】
四ッ谷龍『田中裕明の思い出』


2018年8月28日火曜日

〔ためしがき〕 不純 福田若之

〔ためしがき〕
不純

福田若之


山田耕司『不純』(左右社、2018年)に手をつける。

なるほど、これはたしかに「不純」だ。赤と白。僕としては、3対5で白の勝ち。この遊びが、ひとりでじゃんけんするひとのむなしさを感じさせないのは、やっぱりふたりいるからなのだろう。書き手と読み手と。

2018/8/3

2018年8月27日月曜日

●月曜日の一句〔新井秋沙〕相子智恵



相子智恵






邯鄲の声を懐紙に包みたし  新井秋沙

句集『巣箱』(本阿弥書店 2018.7)所収

懐紙は、今では茶道の際に菓子の下に敷いたり、心付けを包んだりする場面で目にすることが多いので、掲句を読んでまず思い浮かんだのも茶道の和菓子だった。確かに、もしも邯鄲の声が形になったとしたら、懐紙に包んで持ち帰りたくなるような美しい和菓子のようだ、と思う。

声そのものを句に詠むというのは難しいと思うが、〈懐紙に包みたし〉には詩的な驚きと納得感があった。すっと心が澄んでくるような一句である。

2018年8月26日日曜日

〔週末俳句〕上と下 西原天気

〔週末俳句〕
上と下

西原天気


あるときある人が若手俳人の名をあげて、質問してきた。「山口優夢とどちらが上ですか?」。

上?

どちらが?

ううむ。

難しい質問だが、私の知る範囲では、山口優夢のほうがたくさん食べると思う。


すると、こんな新聞記事が。




うわっ! 人を超えてキャラ化しつつある。



ところで、最初にあげた質問。食う話、体重の話ではなくて、俳句のことを訊かれたわけですが、俳句の優劣・俳句の勝敗に興味がないので、答えようがなかった。

例えば、AとB、どちらも素晴らしいなら、そこに優劣・勝敗は要らない。どちらも勝ちでいい。

AとB、どちらもポンコツなら、その勝敗なんて無意味。ポンコツAはポンコツBよりも優れているなどという判断は無意味。

というわけで、山口優夢氏についてすこし心配しているが、じつは他人を心配している場合ではなくて、私も食事制限と運動を本格的に再開すること、余儀なくされている。



知人数人がグループ書道展。見に行く。



とても楽しんだ。


2018年8月25日土曜日

【新刊】岸本尚毅・宇井十間『相互批評の試み』

【新刊】
岸本尚毅・宇井十間『相互批評の試み』

2018年8月24日金曜日

●金曜日の川柳〔金子泉恵〕樋口由紀子



樋口由紀子






加計会見蝉のオシッコより速い

金子泉恵

川柳誌「触光」の「(高瀬)霜石風味時事川柳」からの一句。一読して、上手く言うなあと感心した。時事川柳ではお馴染みの「加計学園」だが一味違っている。

蝉を捕まえようとすると、蝉は尿のような排泄物をかける。なので、つい「排泄物」とひっかけたくなるが、掲句はその速さ、決して早くなかったのに、あっという間に終わった、短さとひっかけている。蝉の尿はほとんどが水で、有害物質はほとんど含まれてないそうだが、加計問題はそうではないだろう。

時事川柳の面目躍如のような一句だが、残念な点もある。6月19日の加計会見からもう3か月以上が過ぎてしまった。川柳誌の締切、編集、発行を経ると日の目を見るのが今になってしまうのはしかたがないが、事近でればもっとインパクトがあったはずである。「触光」第58号(2018年8月刊)収録。

2018年8月23日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








実や月間口千金の通り町  芭蕉

『江戸通町』より。延宝六年作。「実」は「げに」と読む。謡曲に頻出する語であった。ほんとうにまあ、ぐらいのニュアンスだろう。間口千金は間口一間(約1・8メートル)の地価が千両(1両=10万円とすると1億)にあたる繁盛した商業地のことを言う。通り町は今の江戸の神田から新橋辺りまでの商店街。現在の「中央通り」を指すと言われている。実や月、の打ち出し方はさすがは談林調といった派手さだ。きっとこの月は、通りのセンターに位置するのだろうと思う。江戸の繁栄を詠い上げた。

友人に聞いたところ、銀座高島屋は外国人向けの商法にシフトしているらしく、玄人客は日本橋高島屋に行くらしい。この句も、どちらかというと銀座よりも日本橋で月を見上げるときに思い返したい。

2018年8月22日水曜日

〔ネット拾読〕トゥピ=カワイブの伝統を遵守しつつ靴を磨いてみること 西原天気

〔ネット拾読〕
トゥピ=カワイブの伝統を遵守しつつ靴を磨いてみること

西原天気



記事内容と無関係なタイトルを付けるのが、このシリーズの習わしなので、今回もそうしています。あしからず。

丸田洋渡:童話的な俳句について
https://note.mu/jellyfish1118/n/nc701474d9e64

金原まさ子と阿部完市の俳句を「童話」の視点で論じ、示唆深い。

前者については例えば、《ときどき叫びつくしんぼ摘む女》《うつむいて海鼠をわらう女かな》(金原まさ子)を「これを童話で──たとえば、ヘンゼルとグレーテルで二人が向かうお菓子の家の魔女のような女性が、ときどき叫んでつくしを取っていたり、うつむいて海鼠をわらっていたらどうだろう。ぴたっと映像がまとまるのではないだろうか。」といった具合。

なるほど、金原まさ子の俳句には、悪女、聖母、魔女(的)など、女性の虚構上のバリエーションが登場するが、そこに「幼女」を加えると、金原まさ子俳句の輪郭がいっそうはっきりする。

阿部完市については、「(…)童話の世界を描いているというよりは、童話の世界を一時的に措定し、それに関わる存在として、今ここを描いている(…)」とする。

フォークロア的な題材や感触への指摘はこれまで少なくないと思うが、「童話」という異界への通路が一瞬ひらくと捉えれば、阿部完市の俳句のもつ、いわば「常世的な透明感」や独特のなまめかしさの由縁に触れたような気がしてくる。

「「ことばのこてん」というアトラクション」問題反応まとめ
https://togetter.com/li/1258779

ツイートを追っていくと、問題視しているなかにも、引用と転載の区別がついいていない人も多い。この手の問題の根の深さ。

このイベントは作者名を明記していない様子で、それならば無断転載よりも剽窃に近づく。「展示」であることを示していても、作者名ナシの短歌や俳句は、本来の作者とは別の作者(この場合は企画者)との誤解を与えやすい。

一方、引用の要件を満たす合法クリアという点で、俳句作品は微妙な問題を抱えるが、多くは、慣習を重んじて処理される模様。例えば、歳時記の例句掲載は無許可でOK、入門書なのどの例句は(著作権のまだ切れていない)作者に掲載許可をもらう、といった具合。

ちなみに、このウラハイの、モチーフ別に数句を並べる記事(≫例)なども、法律上はアウトだろう。

穂村弘×枡野浩一対談
https://wezz-y.com/archives/57044

ことばvs現実という根源的なテーマが、プライベートなエピソード豊富に語られる。記事末尾の〈次ページへ〉〈次回へ〉をたどっていくと全6回。短歌界隈の出来事に疎くても、飽きずに楽しめるのは、両氏の(対照的な)語り口のおもしろさ?


2018年8月21日火曜日

〔ためしがき〕 原形質 福田若之

〔ためしがき〕
原形質

福田若之


夢のなかで、俳句にも構造はあるのか、と問われ、例となる句――そして、仮に俳句に「構造」のあることを肯定するとして、それはどういう意味での「構造」なのか――を考えているうちに、目が覚めてしまう。眠りに落ちてから、まだ四時間ほどしか経っていない。ほとんど、まちがって悪夢を見たに等しい目覚めだ。

起きてみて、俳句にも構造がある、と語るよりも、むしろ、俳句には構造の原型がある、あるいは、いっそ、俳句には構造の原形質がある、とでも語ってみせたほうがそれらしいのではないか、と思い至る。 しかし、俳句には……の原形質がある――これは俳句について語るときのある種の紋切り型にすぎないのかもしれない。

2018/7/31

2018年8月20日月曜日

●月曜日の一句〔池谷秀子〕相子智恵



相子智恵






もう一度母が華やぐ盆提灯  池谷秀子

句集『ジュークボックスよりタンゴ』(本阿弥書店 2018.7)所収

母の新盆だろう。〈もう一度母が華やぐ〉によって、生前の母の華やかな美しさや、周囲を明るく照らすような性格が思われてくる。きっとそういう人だから、親戚などから感謝を込めて盆提灯がいくつも贈られてきているのかもしれない。精霊棚が華やいでいる。

一方〈もう一度〉によって、亡くなる直前の故人の静かな様子、そして亡くなった後の静けさがより深く伝わってくる。

失った悲しみを湿っぽく詠まずに、故人の人物像が見えてくるような明るさをもって描いたことで、逆にしみじみとした読後感のある一句。

2018年8月19日日曜日

〔週末俳句〕夏が終わる 西原天気

〔週末俳句〕
夏が終わる

西原天気



短歌の現在を概観する講演を聞きに出かけた。参考文献のひとつとして挙げられた山田航編著『桜前線開架宣言』(2015年/左右社)に関して、かねてよりひとつ疑問というか興味があった。それは、帯の背に記された惹句「二十一世紀は短歌が勝ちます」を、みな、どう読むのだろう、ということ。惹句制作者の〈意図ではない。目にした人の受け取り方のことだ。

「二十一世紀は」というのだから、二十世紀は〈負けていた〉のか。

勝ち負けは相対だから、相手がいる。短歌が勝つ相手は何なのだろう。

あるいは、相対ではなく(つまり相手がいるのではなく)、短歌が「勝利」を手にするのか。

人によって、この惹句の読みは変わってきそうだ。

その日の講演者にそのへんのことを質問したかったが、質問時間は設けられていなかった。懇親会で話す機会はあったが、その時点では「勝ちます」問題のことはすっかり忘れていた。



『しばかぶれ』第二集(2018年7月30日/堀下翔編集)に収められた島田牙城インタビューがおもしろい。具体的なエピソードの豊富さにくわえ、質問への応答といったスタイルについてまわる堅苦しさや構えた感じから遠く、炉辺話のような、いい意味の弛緩、気さくが愉しい。

2018年8月17日金曜日

【俳誌拝読】『円錐』第78号(2018年7月31日)

【俳誌拝読】
『円錐』第78号(2018年7月31日)


A5判、本文72頁。編集委員:山田耕司、今泉康弘、澤好摩。

前号に発表となった「第2回円錐新新鋭作品賞」受賞3氏の新作(各15句)を掲載。

間投詞ばかり口にし毛虫焼く  石原百合子

この世にはえんのしたにも秋がきて  高梨 章

赤い星コーラが乾くほど経つた  大塚 凱

なお、第2回新鋭作品賞・受賞作、選考座談会は、ウェブで読める。

≫選考座談会
http://ooburoshiki.com/haikuensui/2018/05/02/ensui_zadankai_77/

≫受賞3作
http://ooburoshiki.com/haikuensui/2018/05/01/sakuhinsho_2018/

(西原天気・記)

2018年8月16日木曜日

【新刊】筑紫磐井『虚子は戦後俳句をどう読んだか―埋もれていた「玉藻」研究座談会』

【新刊】
筑紫磐井『虚子は戦後俳句をどう読んだか―埋もれていた「玉藻」研究座談会』

2018年8月14日火曜日

〔ためしがき〕 興の運転見合わせ 福田若之

〔ためしがき〕
興の運転見合わせ

福田若之


ときどき、ものを読んだり、観たり、聴いたり、味わったり、抱きしめたりしても、もはやまったく満たされないときがある。それらが、おもしろかったり、あたたかかったり、やわらかかったり、きらきらしていたりするのがわからないわけではない。だが、まるですべてが薄膜越しに感じられているにすぎないかのようになる。つまり、それらがいつもどおりおもしろいことはわかるが、そのおもしろみに浸ることができないという状態に陥る。そういうときは、ものを変えても、なにひとつ変わらない。興の運転見合わせは、部分的なものではなく、全面的なものだ。故障は僕自身の身体に起こっている。経験的には、必要なのは眠ることだ。というよりも、それよりほかにしたいことがなくなるのだが。

2017/7/30

2018年8月12日日曜日

〔週末俳句〕家族でする句会 千野千佳

〔週末俳句〕
家族でする句会

千野千佳



2年前の夏、句会が楽しくてしょうがなかったわたしは、自分が主宰となり句会を開くことにした。できれば6人くらいでやりたい。

メンバーをどうしよう。わたしが普段参加している句会のメンバーを誘うのは畏れ多い。職場のひとを誘ったらドン引きされそうだし、ごはんに行く友達は今は1人しかいない。ということで家族を誘って句会をすることにした。

せっかくなので、俳号をつけることにした。

父、俳号「海士」(うみし)。海に潜ってサザエやもずくを採るのが趣味。自らこだわりの俳号をつけてきた。

母、俳号「こつぶっこ」。亀田製菓のお菓子こつぶっこのキャラクターに似ているので。
姉、俳号「キツネ」キツネ顔。

友達、俳号「みやじ」エレカシのファン。

友達の父、俳号「鶴の爺」俳句の腕に覚えありとのこと。

わたしの俳号はスイスロールとした。

1人3句出し。お題は「花火」「夏休み」「その他自由」とした。無記名で短冊に各々記入。3句✕6人で18句集まった。その中から1人3句いいと思うものを選び、うち1つを特選とする。友達とその父は投句のみの参加となった。

わたしの父と母はあまり本も読まないし、勉強を熱心にするタイプではない。姉も同様。句会をやりたいと言うと、父と姉は面白がってやる気になったが、母はそんな難しいことは嫌だ、と言った。母は勉強が苦手で、作文なんてもってのほか。わたしが中学生の頃、母の日記を盗み見て、誤字や文法上の誤りを指摘したら、「いやな子だね」と言われた。
母が作った俳句をみせてもらったら全く意味が通じないものだったので、わたしが手を入れた。

おのおのの作品を一つずつ紹介する。

 大花火五秒遅れて届くおと     父(海士)

 墓参りBGMはひぐらしで        姉(キツネ)

 教えてよ手持ち花火のできる場所      友達(みやじ)

 えごを煮る木べらの重くなりにけり     母(こつぶっこ)

 昼寝する孫を囲んで笑顔かな     友達の父(鶴の爺)

 ひぐらしや母の手紙の誤字だらけ     私(スイスロール)

一番人気はわたしの句「ひぐらしや母の手紙の誤字だらけ」。よかった。内輪ネタを盛り込めたのが高評価につながった。あとは鶴の爺の句が人気を集めた。わかりやすく、まとまりもよい。しかし父が「鶴の爺の句はありがちなんだよなぁ」とつぶやいていた。わたしは父を見直した。

俳句なんてどうしたらいいかわからない、と言っていた面々も、いざ作るとなると指で音数を数えたりして、数日間は頭が俳句モードになっていたようだ。自分で作った俳句には愛着がわくもので、句会で自分の句が読まれるがどうか、とてもどきどきする。句会の一番の醍醐味だと思う。主宰ぶって、「この句のどこがよかったのですか?」と聞いてみたが、面々は少し恥ずかしそうに「なんとなくだよ」と答えていた。

句会を終えて楽しくなったわたしたちは、近所の夏祭へ直行し、東京音頭の輪の中へ飛び込んだ。踊りという季語でなにか作れないかと考えながら。