2020年2月21日金曜日

●金曜日の川柳〔金築雨学〕樋口由紀子



樋口由紀子






コインロッカー荷物を出して他人になる

金築雨学 (かねつき・うがく) 1941~

「コインロッカー荷物を出して」まではごく普通のセリフである。が、それが「他人になる」であっと思わせる。それまでは身内だったのかと戸惑いを覚える。確かに私の大切な、身近な荷物が入っているときは気になる存在の、言われてみれば身内の感覚で。でも、荷物を取り出してしまえば、もう何の未練もなくなり、さっぱりと「他人になる」と言う。

しかし、他人や身内は人間同士間のことで、モノには無縁で、モノに対して本来は言わない。それを強いて使うことによって、「他人になる」というにはどういうことなのかと、言葉を立ち現わす。そして、他人になった「コインロッカー」はその姿をずっと見せ続ける。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2020年2月20日木曜日

●木曜日の談林〔三千風〕浅沼璞


浅沼璞








梅ひとり後に寒き榾火かな   大淀三千風
『荵摺』(元禄二年・1689)

俳諧の発句だから、季重ねは気にしないけれど、「後(うしろ)に寒き」の写実は俳句っぽい。
これを反転させると、
とつぷりと後暮れゐし焚火かな    松本たかし
となる。
時代を越えた響き合い、などと言えば月並みだが、背後のリアリティの交響はたしかなものだ。

年代から推しても談林というより談林後の元禄正風体。それを承知で取り上げたけれど、「背後」と「談林後」のアナロジーもうかぶ。


三千風という号は、西鶴バックアップのもとになされた矢数俳諧2800句独吟による。仙台居住、諸国行脚、鴫立庵再興と流転の俳諧師であったが、ルーツは談林にほかならなかった。

2020年2月17日月曜日

●月曜日の一句〔岡崎桂子〕相子智恵



相子智恵







息通ふほどのへだたり立雛  岡崎桂子

句集『大和ことば』(朔出版 2020.01)所載

なるほど、確かにそうだなあ、と思った。〈立雛〉は、男雛が両手を横に伸ばした恰好で、女雛は手を閉じているものが多く、男雛のピンと張った片袖の内側に、女雛が寄り添うような配置のものが多い。掲句から私が想像するのも、そのような配置の〈立雛〉だ。

二つの雛人形は寄り添ってはいるけれど、決してくっついてはいない。息が通うほど近く、でも二体の間には明らかに〈へだたり〉がある。

〈息通ふ〉の擬人化によって、この〈立雛〉は人間らしい体温を与えられているが、一方で、〈へだたり〉には人形独特の冷たさがある。その落差によって、温もりがあるのに、しんと冷ややかな雛人形というものがうまく表現されている。

2020年2月14日金曜日

●金曜日の川柳〔倉本朝世〕樋口由紀子



樋口由紀子






間違って「閉経!」と言う裁判長

倉本朝世 (くらもと・あさよ) 1958~

そんなことはさすがにありえないだろうと思いながらも、ひょっとしたらと、にたにたしながら読んだ。裁判長という偉い人でもそういう間違いをすることはあるかもしれない。「閉廷(へいてい)」と「閉経(へいけい)」、「て」と「け」のたった一文字の発音の違いである。けれども意味内容は大きく変わる。一字違いで大違いの、わざとらしさが功を奏している。

誰もがやってしまいそうなことを、誰もが持っている不安感をユーモアで引き出している。言葉の意味性を逆手にとって、とんでもないところを見せる。「閉経」と「裁判長」を象徴的に存在させて、言葉の、社会の、価値観の転覆をはかっているようにも思う。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2020年2月10日月曜日

●月曜日の一句〔宮本佳世乃〕相子智恵



相子智恵







その他はブルーシートで覆はるる   宮本佳世乃

句集『三〇一号室』(港の人 2019.12)所載

掲句、何がブルーシートで覆われているのか明示されていない。ただ〈その他は〉とあるだけだ。〈その他〉は「それ以外のもの」ということだから、逆にどうしても「以外」で区切られた「それ」を思い浮かべる構造になっている。「それ」であるところの「ブルーシートの外の世界」は、「それ」として言及するほど特別であり、つまり、取り立てて言及する必要のない「名もなき日常」の世界ではないことがわかる。これは日常の中で見たブルーシートではなく、やはり被災地のブルーシートなのだろう。

ブルーシートに関する wikipedia に〈阪神・淡路大震災では、避難所の設営、破壊された屋根の雨漏り対策などに使われ、防災グッズとしての利点も見いだされたことから、対策の備蓄品として防災倉庫にストックする自治体も増えた〉と書いてあって、ブルーシートには「災害」という読みのコードが強烈に付加されたのだ、と改めて思う。

ここから〈覆はるる〉で見えてくる景がある。ブルーシートに覆われ、半端に「片づけられた」景だ。掲句はその悲しみを、透明感のある静かな文体で詠む。

かつて、この場所には〈その他〉と「それ」をブルーシートで分ける必要のない、名もなき日常があった。再び日常を取り戻そうとするその場所のあちこちが、今はブルーシートで覆われている。景観を考慮して青色になったというシートの、明るくのっぺりとした人工的な青色に、何とも言えない喪失感がある。

〈その他は〉と極度に風景を抽象化しながら、被災地の風景の本質を静かに掴み出している一句だ。

2020年2月9日日曜日

【名前はないけど、いる生き物】 2/6木曜 に思いついて書いたこと、今週書いたもの 宮﨑玲奈・宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
2/6木曜 に思いついて書いたこと、今週書いたもの

宮﨑玲奈・宮﨑莉々香



ダメな日もいい日もある。


最近夢をよく見る。毎日見ている。もともと、そんなに見る方ではなかったので、毎日見ているということに、自分でもびっくりしているくらいだ。今日はアメリカンダイナーみたいなところで、フィッシュアンドチップスをコーラ片手に、ダラダラ食べていた。



なんとなく今日はなにも書いてない気になって、いそいそとタイピングをしている。

こういう時のために、このノートはあるんじゃないか、っても、ちょっと、思う。

小学校の頃よく書いた自由帳みたいな感じ。わたしの自由帳にはやたら目がでかくて、服装に細かいデイティールが施されたオリキャラがピースをしてよく現れていた。


電車にて
A、椅子に座っている。

B、つり革を持って立っている。
A なんで立ってんの、

B え、

A いや、

B え、

A いや、

B え、

A え、だから、、空いてるじゃん、

B ……ああ、

A なんで立ってんのかなーって、

B ああ、、、

A だって、座ればよくない?
空いてんだし。ほら、

B まあ、

A 誰も、座ってないじゃん、ここ。

B うん、

A ね、

B まぁ、、、

A うん、



A え、

B ん?

A え、

B うん、

A え、だって長いじゃん、

B ああ、

A 目的地まで、

B うん、

A え、

B うん、

A え、どうして、

B いや、

A 座ればよくない?

B いや、、、

A え、いや、なんかあったの?

B いや、

A うん、

B そういう訳じゃないけど、

A うん、
C、来る。つり革を持って、立っている。
A え、

B ん、

A え、

B やめなって、

A え、なんなの、この電車、

B これ(つり革をAに渡す)

A はぁ?

B だから、ん、
A、つり革を持って立っている。
C 旅行、、とか、

A はい、一応、

C へー、

A まぁ、、、
D、電車から離れた少し遠いところに、お麩を片手に持って、出てくる。

もう一度、ここまでの一連の会話を行う。 

繰り返し終わって、
D 今日も疲れたなぁ、、、
D、笑って去る。

B、C、椅子に座る。
A 、、変な電車、

B なに、

A んんん、なんもない。



風邪の窓ちょいあかるさの紹興酒  



お腹の中にゼリーがたまる四時頃でなんもできない甘かった桃



アッバス・キアロスタミの『トスカーナの贋作』を観た。近所のTSUTAYAで借りてきたやつ。1月半ばに『つかの間の道』という演劇作品を上演したのだけれど、この映画のことを思い出したという指摘がアフタートークの中であった。

その数日後に、駒場アゴラ劇場で上演していたロロ『四角い2つのさみしい窓』を観た。脚本も、舞台美術も、ツアーとして行われる作品だということも、繋がりが見られて、なんだか、すばらしくて、感動した。フィクション、お話、童話的なラインをどう作るか、みたいなことを考えらされた。

どちらも「ふりをする」「本当になる」「にせもの」ということに関しての話だと自分の中では認識しているのだけれど、どうなんだろう。



物事には確かさのようなもの、なんてなくて、世界自体が流動的で、ものすごいスピードの中で、自分自身も瞬間的に変わりながら進行していっている。言葉にできないその速さの中で、言葉になる、することを選ぶのなら、祈りのように、選びたいものだ。

今日もわたしの街には、川が流れている。川沿いにはラブホテルが2軒あって、どちらも、新しい建物の様相とは言いがたい。海には、工場の煙突があるのだろうかとそんな想像をしながら、今日も自転車を漕いでいる。

2020年2月7日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






お祝いに骨を鳴らしていただいた

きゅういち 1959~

こんなお祝いの仕方もあるのだ。「いただいた」と言っているのだから、骨を鳴らしてもらって、作者も喜んでいるのがわかる。おめでたい話を聞いて、咄嗟にどうやって祝福しようかと考えて、クラッカーとか音を出すものが手元に何もなかったので、とりあえず鳴る関連で骨を鳴らしたのだろう。

もう一つ仕掛けがある。「骨を鳴らして」とは字面だけを見ると、白骨を叩くのかと想像して、一瞬どきっとする。しかし、そんな大それたことではない。指の関節をポキポキと鳴らすだけである。どきっとさせるのも作者の意図だろう。骨関連では「骨を抜く」「骨を折る」「「骨を砕く」などが同類だろう。どれも字面だけを見ると引いてしまう。言葉の落差が生む可笑しさを書いている。

2020年2月6日木曜日

●木曜日の談林〔惟中〕浅沼璞


浅沼璞








文を好むきてんはたらく匂ひ哉   岡西惟中
『時勢粧(いまやうすがた)』(寛文十二年・1672)

「文を好むき」だから好文木、つまり梅のことである。

それに「き転はたらく」を言い掛け、梅の香へともっていく。



周知のように、「晋の武帝が学問に親しむと花開き、怠ると散りしおれた」という故事から好文木という。

「学問」→「気転」という連想から、「匂ひ」へと転じるあたり、連句的である。



〈梅は好文木というだけに、気転の匂いがはたらく〉といったところか。

ただし「梅」という表記はなく、いわゆる談林的「抜け」風の一句。


惟中(いちゆう)は歌学・漢学をこなし、貞門のみならず、談林内部でも論争をよくした。

西鶴ともライバル関係であった。

2020年2月2日日曜日

【名前はないけど、いる生き物】いれもの/かわりみ 宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
いれもの/かわりみ

宮﨑莉々香

https://1.bp.blogspot.com/-1TR-aYkUO0c/XjFjbQb2EBI/AAAAAAAAczU/8GuZAPXd1gscJy7Z8vhHXpLTN_rwlUk6ACLcBGAsYHQ/s1600/RirikaMiyazaki20200202.png


焚火今からだがなくて見ているよ
五本指ソックス薄い光の二〇二
川になるけど口なしではいられん寒っ
むささびと窓のうちがわ昼のこと
ありふれた雪のせかいを歩く靴
道端の冬蜂浮かびくるテレビ
雲がある機嫌いい風枯れてく木
鴨と水見てる知らないわたしひろしま
自転車と葱が遠くになっていく
もみの木をぼーっのっとられて見たよ
テレビにはいない白鳥いない部屋
くらくらが蝋梅のなかへとまじる

2020年1月27日月曜日

●月曜日の一句〔大島雄作〕相子智恵



相子智恵







おそらくは下つ端ならむ風邪の神   大島雄作

句集『一滴』(青磁社 2019.12)所載

掲句、「八百万の神の中で〈風邪の神〉は〈下つ端〉なのだろう」とも読めるし、「自分が今引いている風邪は、〈風邪の神〉の中でも〈下つ端〉の神様が来て引き起こしているのだろう」とも読むことができる。前者の読みだと傍観者めいているが、後者だとより当事者っぽくなる。

総合すると、「八百万の神の中の〈下つ端〉の〈風邪の神〉の中でも、さらに〈下つ端〉の神様が自分の風邪を引かせている」というような感じがしてくるので面白い。やはり、自分が風邪を引いた当事者であってこその俳味なのだ。

今話題の、得体の知れぬ新型で強い〈風邪の神〉などではなく、「なんだか今日一日、風邪気味で調子が出ない……」という程度の軽い風邪。〈下つ端〉とはよく言ったもので、疎ましさと親しみやすさがないまぜになって、何とも愛嬌のある〈風邪の神〉である。

2020年1月24日金曜日

●金曜日の川柳〔中尾藻介〕樋口由紀子



樋口由紀子






好きだからする結婚はもう古い

中尾藻介 (なかお・もすけ) 1917~1998

子どものころ、自分たちの親は恋愛結婚なのかお見合い結婚なのか話題になったことがある。そういうことが気になる年頃であった。たぶん、半々だったような気がする。私の両親はお見合い結婚で、遠距離だったせいか、母などは結婚式の日に父に初めて会ったと聞いて、びっくりした。さすがに父は事前にこっそり見に行ったそうだが。

時代を反映した川柳である。「恋愛」というのがもてはやされていた時代だったのだろう。今だったら、「結婚」自体が「もう古い」と思われている節もある。恋愛結婚に憧れている人たちをチクリと皮肉り、先を見通している。風潮に流されない見つけをするのも川柳眼である。当時の私は恋愛結婚の両親を持つ友をなんとなく羨ましいと思っていたのだから、思い切り世相のど真ん中にいて、川柳眼などはまったくなかった。

2020年1月23日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴〕浅沼璞


浅沼璞








俳言で申すや慮外御代の春   西鶴
『歳旦発句集』(延宝二年・1674)

「御代の春」で徳川の世を寿いだ歳旦吟。



俳言(はいごん)というと俗語をすぐに思い浮かべるが、ここでは漢語をさす。雅語・歌語ではない俳言。

具体的には慮外(りよぐわい)という漢語をさしている。「慮外」は無礼という意味。



「や」は「は」「も」等に代替可能な助詞的用法であろう。だから句は中七で軽く切れる。

ご無礼ながら俳言でお祝い申す、というのである。


生玉万句興行ののち、西山宗因の「西」を頂き、鶴永を「西鶴」と改号したころの作。

「慮外」と憚りながら、新町あたりを闊歩する若き談林の雄姿を髣髴とさせよう。

2020年1月20日月曜日

●月曜日の一句〔宮田應孝〕相子智恵



相子智恵







名古屋晴関ヶ原雪京都晴   宮田應孝

句集『空の涯』(ふらんす堂 2019.11)所載

地名と天候だけでできていて、面白い。東海道新幹線の車窓の景色を思った。名古屋駅付近では晴れていたが、関ヶ原、米原のあたりでは雪が降っており、そして京都に着けば、また晴れているのである。自動車の旅でもよいのだろうが、このスピード感のある調子のよい味わいは、やはり新幹線の速さだろう。確かに関ヶ原のあたりは雪のことが多い。

〈関ヶ原〉の地名が効いている。土地の雪深さはもちろんのこと、戦国時代最後の戦い「関ヶ原の戦い」が思われ、雪の荒々しさ、激しさを想像させるのだ。

そして、この雪の匂いと湿り気を保ったまま〈京都晴〉まで読み進むと、今度はしんしんと底冷えのする、雪晴れの京都が心に浮かぶ。〈名古屋晴〉と〈京都晴〉では、その晴れ方も空の色も違う。私には、名古屋には雪がなく、京都では雪が積もっているように感じられた。

単純な仕立ての中に、深みと大きさ、スピード感があり、これも五七五の短い俳句ならではの表現だな、と思う。

2020年1月17日金曜日

●金曜日の川柳〔石部明〕樋口由紀子



樋口由紀子






それぞれに死者青葱をぶらさげて

石部明 (いしべ・あきら) 1939~2012

年末に堺利彦監修の『石部明の川柳と挑発』(新葉館出版)が出版された。満面の笑みの石部の写真が懐かしい。亡くなってもう七年が過ぎた。

彼はつねづね「川柳で大嘘を書いてみたい」と言っていた。掲句もその極みだろう。まずこの世で死者に会うことはない。まして、死者なんだから、青葱をぶらさげることもないはずである。しかし、この大嘘にまんまとのっかかってみようと思うものがある。彼の創りあげる死者たちは不気味でもなく、恐ろしくもない。ユーモアさえ漂わせ、どこかなつかしく親近感を覚える。彼らはどんな顔をして、青葱を持って、どこに行こうとしているのか。青葱は何を物語っているのか。そんな死者がすぐ近くにいるような気がする。『遊魔系』(2002年刊 詩遊社)所収。

2020年1月11日土曜日

●土曜日の読書〔抽象の下地〕小津夜景



小津夜景








抽象の下地

あなたは美術作品を見るとき、感動を理屈で説明したくなりますか?

わたしはいつも「すごーい」か「かわいい」ですんでしまう。わざわざ感動に理屈をかぶせる必要はないし、そもそも「すごい」という言葉で言い足りなさを感じたことがない。

とはいえ義理のある相手に求められれば、ある作品のおもしろさを、あえて理屈で説明することもある。わたしにとって義理のある相手といえばまずもって夫だが、この人はわりとむずかしい、わたしがじぶんの頭でかんがえたことのないような質問をたまにする。ヴァンスという村へバスで出かけ、マティスの最高傑作といわれるロザリオ礼拝堂を見学したときも、礼拝堂に入ってしばらくすると、

「この部屋って、なんか隠された意図とかあるの?」

とたずねてきた。ぜったいにそう来るだろうなと確信していたわたしは、アパートを出る前に目を通しておいた岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』のマティス論をぺろっとそのまま夫に喋った。

「かくかくしかじか、ということなの」
「へえ」
「でもね、いつも言うけど、いまわたしが喋ったことは話半分に聞いてね。とくに岡崎さんの書くものは知的興奮度が高い分、読者の頭を盲従的に、薄っぺらくしちゃう力も強い」
「うん。わかるよ」

で、いきなり話はとんで、今年の読み初めは、そんな岡崎乾二郎の「抽象の力──現実(concrete) 展開する、抽象芸術の系譜」(豊田市美術館)だった。これはキュビスム以降の芸術の展開を追いつつ、近代日本美術における抽象の起源と条件を同時にかんがえてゆく論考なのだけれど、おもしろいのは抽象の表現の下地にフレーベル、モンテッソーリ、シュタイナーといった近代教育家たちの考案した教育遊戯を置くところである。たとえば1876年にはすでに日本に導入されていたフレーベルの教育メソッドが、ロマン主義から象徴主義への思潮を汲みつつ到達した《生の合一思想》《球体法則》という一種の神秘思想の上に構築されていたことを解説する下り。
フレーベルの《恩物》の意義は、個々の積み木が静止しているときに現れている幾何形態そのものにあるわけではない。これを操作し、たとえば回転させるときに、まったく別の幾何的な秩序が出現することにこそある。その出現も理解もこの事物と身体行為の交流によってのみ可能になる。こどもたち、あるいは指導者は事物に代わって歌う。「ぐるぐるまわる、うれしいな/ぐるっと向きをかえて うれしいな/赤ちゃん あなたもうれしいな(《恩物》2の歌『フレーベル全集』玉川大学出版部 1989年)」(岡崎乾二郎「抽象の力──現実(concrete) 展開する、抽象芸術の系譜」)
こうした世界把握の訓練方法を近代の抽象美術論につなげることで、著者は抽象の意味を視覚表現や静止表現に限定されないようにうまく工夫する。

で、その結果、すごく風通しがいい。

わたしは個人的に、影絵、風車、花火、噴水、あやとり、シャボン玉などモビール(動く彫刻)的要素のあるかたちに美しさや、かけがえのなさや、原初的な知的興奮を感じるたちなので、書かれていることがたいへん肌に合った。あ、あともういっこ、ゾフィー・トイベル=アルプのかわいい作品がいっぱい引用されているのもうれしかったな。


2020年1月10日金曜日

●金曜日の川柳〔荻原柳絮〕樋口由紀子



樋口由紀子






元日の日記欄外まで溢れ

荻原柳絮

なんとなく「日記」というものに憧れて、日記を書き始めたことがある。しばらくはそれなりに続いたが、ひと月もすると書くことがなくなってきた。起きた、食べた、遊んだ、寝た、の単調な繰り返しで、テレビドラマのように何かが起こったり、素敵な出会いがあるわけではなかった。

元旦は確かにいっぱい書くことがあった。食べるものもすることも、まわりもすべて、いつもとは別の非日常である。何よりも気持ちの持って行き方が普段とは格段に違っている。元日というものを日記を肴に捉えている。「日記」というもので元旦を語っている。

2020年1月9日木曜日

●木曜日の談林〔松意〕浅沼璞


浅沼璞








代はどれも五百八十なな七草   松意
『功用群鑑』(延宝八年・1680頃?)

やはり松意の発句で、食べ物つながり。


「五百八十なな」は「五百八十年七回り」の諺取り(世話取り)。

算式にすれば、
580年+干支の七回り(420年)=1000年
つまり目出度いことの長く続くように、との祝言である。


これに新春の「七草」を尻取的に言いかけたわけで、代は末永く、と七草を俎板にたたく感じだが、そのリズムがここちよい。

濁音続きのあとの「なな」「七」のリフレインが効いている。



この句意に反し、松意の活躍が短かったことは前回ふれたとおりである。

なんとも皮肉な談林の一コマ。

2020年1月6日月曜日

●月曜日の一句〔浅沼璞〕相子智恵



相子智恵







犬の子やかくれんぼする門の松   一茶
  尻尾のふえて揺るゝ初夢    

句集『塗中録』(左右社 2019.11)所載

俳人であり、連句人(レンキスト)である浅沼璞氏の初句集。故人の発句の「脇起し」(古人の句・夢想の句など、一座していない人の句を立句として、脇の句から作り始めること)の章から引いた。

一茶の発句は、門松のかげに隠れている犬の子。頭は隠れているのだけれど、尻尾は見えているのかもしれない。犬は〈かくれんぼ〉という遊びをしているつもりはもちろんないのだが、一茶らしい捉え方だ。かわいらしくて、新年のめでたさがある。

そこに璞氏の脇句〈尻尾のふえて揺るゝ初夢〉が付いて、めでたさの中に怪しさがほのと出てきた。〈尻尾のふえて揺るゝ〉は、猫又のように尻尾が増えた妖怪を思う。さらには、ちぎれんばかりに尾を振る犬のかわいさも想起させた。漫画の表現では、尾を振る速さを表すのに、尾を何本も増やして描くことがあるが、そんな表現を感じ取ったのだ。もしかしたら単純に子犬がたくさん増えたのかもしれないけれど。夢の中のことだから、こちらも自由に読んでみたい。

そもそも〈かくれんぼ〉からの〈初夢〉は、夢幻能を観ているようだ。また〈ふえて揺るゝ〉には、豊作や繁栄など新年の願いと重なるところがある。怪しいけれど、めでたい心が通じている。

一茶の発句の鑑賞で、私は「頭は隠れているのだけれど、尻尾は見えているのかもしれない」と書いたが、一茶の句からはその描写は見えてこない。これは脇句まで読んで生まれたイメージである。

付けながら転じていく連句。それを自由にイメージを広げて読むのは楽しいものである。

2020年1月5日日曜日

●餅花

餅花


餅花を真中に置き顔華やぐ  細見綾子

餅花のあればさはらずにはおかじ  辻桃子

餅花にをりふしひびく古風鈴  飯田龍太

餅花に立てば触れしよ旅の髪  野沢節子

氷るもの氷り餅花にぎやかに  宇佐美魚目

餅花の高々とある炬燵かな  高浜虚子

2020年1月1日水曜日

●2020年 新年詠 大募集

2020年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。

※プロフィールの表記・体裁は、既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句期間 2020年11日(水)0:00~14日(土) 12:00 正午

〔投句先メールアドレスは、以下のページに〕
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2007/04/blog-post_6811.html