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2020年2月20日木曜日

●木曜日の談林〔三千風〕浅沼璞


浅沼璞








梅ひとり後に寒き榾火かな   大淀三千風
『荵摺』(元禄二年・1689)

俳諧の発句だから、季重ねは気にしないけれど、「後(うしろ)に寒き」の写実は俳句っぽい。
これを反転させると、
とつぷりと後暮れゐし焚火かな    松本たかし
となる。
時代を越えた響き合い、などと言えば月並みだが、背後のリアリティの交響はたしかなものだ。

年代から推しても談林というより談林後の元禄正風体。それを承知で取り上げたけれど、「背後」と「談林後」のアナロジーもうかぶ。


三千風という号は、西鶴バックアップのもとになされた矢数俳諧2800句独吟による。仙台居住、諸国行脚、鴫立庵再興と流転の俳諧師であったが、ルーツは談林にほかならなかった。

2020年2月6日木曜日

●木曜日の談林〔惟中〕浅沼璞


浅沼璞








文を好むきてんはたらく匂ひ哉   岡西惟中
『時勢粧(いまやうすがた)』(寛文十二年・1672)

「文を好むき」だから好文木、つまり梅のことである。

それに「き転はたらく」を言い掛け、梅の香へともっていく。



周知のように、「晋の武帝が学問に親しむと花開き、怠ると散りしおれた」という故事から好文木という。

「学問」→「気転」という連想から、「匂ひ」へと転じるあたり、連句的である。



〈梅は好文木というだけに、気転の匂いがはたらく〉といったところか。

ただし「梅」という表記はなく、いわゆる談林的「抜け」風の一句。


惟中(いちゆう)は歌学・漢学をこなし、貞門のみならず、談林内部でも論争をよくした。

西鶴ともライバル関係であった。

2020年1月23日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴〕浅沼璞


浅沼璞








俳言で申すや慮外御代の春   西鶴
『歳旦発句集』(延宝二年・1674)

「御代の春」で徳川の世を寿いだ歳旦吟。



俳言(はいごん)というと俗語をすぐに思い浮かべるが、ここでは漢語をさす。雅語・歌語ではない俳言。

具体的には慮外(りよぐわい)という漢語をさしている。「慮外」は無礼という意味。



「や」は「は」「も」等に代替可能な助詞的用法であろう。だから句は中七で軽く切れる。

ご無礼ながら俳言でお祝い申す、というのである。


生玉万句興行ののち、西山宗因の「西」を頂き、鶴永を「西鶴」と改号したころの作。

「慮外」と憚りながら、新町あたりを闊歩する若き談林の雄姿を髣髴とさせよう。

2020年1月9日木曜日

●木曜日の談林〔松意〕浅沼璞


浅沼璞








代はどれも五百八十なな七草   松意
『功用群鑑』(延宝八年・1680頃?)

やはり松意の発句で、食べ物つながり。


「五百八十なな」は「五百八十年七回り」の諺取り(世話取り)。

算式にすれば、
580年+干支の七回り(420年)=1000年
つまり目出度いことの長く続くように、との祝言である。


これに新春の「七草」を尻取的に言いかけたわけで、代は末永く、と七草を俎板にたたく感じだが、そのリズムがここちよい。

濁音続きのあとの「なな」「七」のリフレインが効いている。



この句意に反し、松意の活躍が短かったことは前回ふれたとおりである。

なんとも皮肉な談林の一コマ。

2019年12月26日木曜日

●木曜日の談林〔松意〕浅沼璞


浅沼璞








酢瓶いくつ最昔八岐の大生海鼠   松意
『軒端の独活』(延宝八年・1680)

前回の「薬喰」に続いて冬の食べ物つながり。 

漢字が多いが、「スガメいくつ ソノカミ ヤマタの オホナマコ」と読む。

酢瓶につける大生海鼠を八岐の大蛇(をろち)に見立てた滑稽。

こんな大きな生海鼠を退治する(食べる)には、いくつの酢瓶が必要か。記紀神話の昔、八岐の大蛇の退治には八つの酒瓶を使ったくらいだから、やはり八つほどいるだろう、という洒落である。

伝説と現実のイメージギャップをねらう談林の典型だ。



田代松意(たしろ・しようい)は江戸談林の中心人物。本コーナーなじみの『談林十百韻』の編者でもある。

宗因没後、俳壇から姿を消すのは高政と類似パターンで、おなじく生没年未詳。

謎多き談林。 

2019年12月12日木曜日

●木曜日の談林〔高政〕浅沼璞


浅沼璞








隠口のはつかなりけり薬喰   高政
『誹諧中庸姿(つねのすがた)』(延宝七年・1679)

またまた高政だが、例によって凝った句なので、まずは語釈から。



隠口(こもりく)は初瀬(泊瀬)にかかる枕詞。

その初瀬から「はつか(僅か)」へと続く。

薬喰(くすりぐひ)は寒中に滋養のため獣肉を食べることで、周知の季語だけれど、当時は俗語でもあった。

よって字面をたどると上五・中七は雅語的な掛詞、下五が俗語的な季の詞で、この落差が句意にも反映している。



長谷寺で知られる信仰の地・初瀬は山に囲まれている。

そんな山にこもっているような地形から隠口(隠国)と言うようになったようだが、それを「口臭を隠す」という意に転じているのが下五「薬喰」である。

下五から上五へ、談林的な「行きて帰る心」といってもいい。




仏教では禁じられている肉食。

その口臭を「はつか」に抑えたい、けどどうしても食べたい、というジレンマが「けり」に読みとれて、笑える。



ちなみにこの発句の脇は――
杉箸寒き二本の里   春澄
初瀬の二本(ふたもと)の杉による挨拶句である。うまい。

2019年11月28日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴〕浅沼璞


浅沼璞








おやの親夕は秋のとま屋かな   西鶴
自筆短冊(年未詳)

新出の西鶴発句。

『東京新聞』(2019年11月17日付)、塩村耕氏の連載「江戸を読む」99回(西鶴とヌケ)より引用。



連句では一昼夜で二万句をこえた西鶴だが、発句は存外すくなく三百ほど。

掲出作品は見たことがないなぁ、と新聞をつぶさに読んでみると、塩村氏蔵の短冊らしく、写真まである。



その塩村氏の解説にそって句をたどると――

「親の親」は歌語として使われてきた表現で、祖父母または先祖のこと。
 
「夕べは秋の苫屋」は定家の〈見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ〉の本歌取り。
 
見わたせば花も紅葉もなかりけり〉が詠みこまれていないのは談林的なヌケ(抜け)の手法。
 
これらに従うと全体の句意は、「祖父母の代は裕福だったけれど、いまや財産という財産はなかりけり。秋風の身にしむ、苫葺きの粗末な家に住んでいる」といった感じになる。

新聞でも指摘されているが『永代蔵』や『置土産』に描かれた当世の俗世間である。



「親の親」は西鶴の好きな歌語だったらしく、連句でも、
親の親その親の親おもひやり(仙台大矢数・1679年)
親の親安達が原へ尋ね行く(西鶴大矢数・1681年) 
などと詠まれている。
 
また定家の本歌取り(あしらひ)については、西鶴に限らず、談林では枚挙に遑がない。



ところで「夕べは秋の苫屋かな」について氏は、「秋の苫屋の夕べかな」を倒置法的に言い換えたもの、と指摘している。
 
けれどこれは、
見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ  後鳥羽院(新古今)
の「夕べは秋」の詠みぶりに近いとみたほうが自然ではないだろうか。「秋は夕暮れ」(枕草子)という固定観念を突っぱね、春の夕霞に美を見出した、その後鳥羽院の詠みぶりに。

となるとこの発句、字面は歌語(雅語)を連ねながら、ヌケのコンテクストによって当世の美を表現しえた稀代の新出句、ということになるのかもしれない。

祖父母の財産はなくなったけれど、夕暮れといえば秋のあばら家こそ趣深いものなのである。

2019年11月14日木曜日

●木曜日の談林〔高政〕浅沼璞


浅沼璞








木食やこずゑの秋になりにけり   高政
『洛陽集』(延宝八・1680年)

ひきつづき高政の発句。



木食(もくじき)は米穀を断ち、木の実を主食とする修行僧のこと。
梢の秋は、梢の「すゑ」に秋の末をかけていう陰暦九月のこと。

「木食上人にはうれしい、梢に木の実が熟す季節になった」というような意を含んでいよう。



前回の奇抜な「見立て」と比べるとだいぶ大人しめの感じだが、それもそのはず、談林末期のトレンドな俳体として、芭蕉の〈枯枝に烏とまりたりや秋の暮〉(初出句形)と同格に扱われた句であった(『ほのぼの立』延宝九・1681年)。
このあと宗因没(天和二・1682年)を契機に、高政が鳴りをひそめた件は前回もふれたけれど、西鶴のみならず、芭蕉の存在も高政にとっては脅威であったかもしれない。



ところでこの句に先行して
実はふらり梢の秋になりにけり  信徳(後撰犬筑波集)
という類句があり、「木食や」は信徳の推敲句という説もある(荻野清氏説)。

しかし掲出のように『洛陽集』『ほのぼの立』では高政の作として扱われているし、真蹟短冊も認められているので、ほぼ高政作で間違いないだろう(信徳を真似たかどうかは別問題として)。



ここから連想されるのは、おなじダブル切字の作品、
降る雪や明治は遠くなりにけり  草田男
である。

先行作に〈獺祭忌明治は遠くなりにけり〉(志賀芥子)があり、物議をかもしたエピソードは有名である。



俳諧において類句・類想は当たり前のことであるが、「降る雪や」と似たケースが談林末期にもあったことは記憶しておいていい。

2019年10月31日木曜日

●木曜日の談林〔高政〕浅沼璞


浅沼璞








鮨鮒やつひは五輪の下紅葉   高政
『古今俳諧師手鑑』西鶴編(延宝四年・1676)

ここのところ連句が続いたので、しばらくは発句を。


鮒ずしに用いる鮒を「鮨鮒」という。

秋、重石の下のその鰭は紅色になる。
 
ちょうど食べごろで「紅葉鮒」ともいう。
 
それを五輪塔(墓石)の下の紅葉のようだ、と奇抜な「見立て」をしたのである。
 
土葬の匂いがどのようなものか知らないが、嗅覚にもうったえてくる句かもしれない。
 
(むろん鮒ずしの味わいがその臭気に裏打ちされているように、土葬における追悼の念もまたその匂いに媒介されていたかもしれないが)


作者はこうした奇矯な作風から伴天連社高政と呼ばれた京都談林の雄。

その発句を、大坂の雄・阿蘭陀西鶴が編著『古今俳諧師手鑑』で模刻・収載したのである。
 
談林の両雄、相まみえた感じだ。


とはいえ師・宗因の死後、ふたりは真逆のコースをたどる。
 
俳諧師に加えて浮世草子作家としても活躍し始めた西鶴を尻目に、高政は目だった活動をしなくなる。
 
ついには生没年すら未詳で、〈つひは五輪の下紅葉〉は予言的ですらある。


そんな高政の一句、現代のゴリンピッ句として読んだなら、どうであろう。
 
熱中症の真っ赤なイメージは言わずもがな、海の異臭という嗅覚的な危機感も手伝って、やはり予言的なものを感じさせはしないだろうか。

2019年10月17日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴〕浅沼璞


浅沼璞








 音に啼く鳥の御作一躰   西鶴(前句)
月は水膠の大事とかれたり  仝(付句)
『大矢数』第九(延宝九年・1681)

前回に引きつづき、西鶴による謡曲『鵜飼』のサンプリングから。


前句――
「音(ね)に啼く鳥」に「鳥の御作」をかける。
「鳥の御作(ごさく)一躰」は飛鳥時代の仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって作られた仏像一体の意。
鞍作鳥は飛鳥大仏や法隆寺の釈迦三尊像で知られ、止利仏師(とりぶっし)とも記す。

付句――
「月は水」は「月ハ水之精ナリ」(暦林問答集)という当時の認識。
「膠(にかわ)の大事」は乾漆像制作における膠の用法の、その大切さを意味しよう。
だから「とかれ」には「膠の大事を説く」と「膠を水に解く」の両意がかけられている。


二句の付合は難解だが、鞍作鳥による仏像一体は、乾漆技法における膠の大切な解き方を、それとなく人々に説いている、といった感じだろうか。

詞付としては、音に啼く鳥→鶯→法華経→大事(西鶴文芸詞章の出典集成)。

そして謡曲『鵜飼』の、「げにありがたき誓ひかな 妙の一字はさていかに それは褒美の言葉にて 妙なる法と説かれたり」(新潮日本古典集成)からのサンプリング(下線部)。

くわえて「音に啼く鳥→鶯」(春)から「月は水」(秋)への季移りでもあり、かなりの力技だ。

前回の西吟との付合みたいな協調性は微塵もない。


結語――
西鶴独吟はときに強引である。

2019年10月3日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴・西吟〕浅沼璞


浅沼璞








鵜の首をしめ出しに逢ふ恋の闇   西鶴(前句)
 小舟の篝越るはしの子      西吟(付句)
『西鶴五百韻』第一(延宝七年・1679)

西鶴俳諧というと独吟連句のイメージが強いけれど、大坂談林との一座も少なからず残っている。

この五吟五百韻を収録した『西鶴五百韻』もその一つで、西鶴が編集、水田西吟が版下を担当。
ともに宗因門で、のちに西吟は『好色一代男』の版下・跋文によって世に広く知られることとなる。

そんな二人の息のあった付合。
前句――「鵜の首をしめ」と「しめ出し」は掛詞になっている。鵜飼の鵜のように恋の闇に締め出されるイメージ。

付句――「闇」に「小舟の篝」とくれば、謡曲『鵜飼』(注1)のサンプリングとわかる。「はしの子」は梯子のことで、「恋の〆出し」との付合語(俳諧小傘)。鵜飼舟の篝火で恋の闇路を越える、そんな梯子のイメージ。

鵜飼の付合と、恋の闇の付合が混交し、談林らしいカットアップとなっている。


じつはこの九月上旬、長良川の鵜飼舟を初体験。

あいにく雷雨だったけれど、そのせいで篝火の強さを知った。
終盤、つぎつぎと川に篝を沈める光景には息をのんだ。
雷光の川面にわきたつ嘆声と煙。
いやでもあの名句がうかんだ。

おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉   芭蕉(貞享五年・1688)

これも謡曲『鵜飼』(注2)のサンプリングだけれど、ここに恋の闇の文脈を加えたなら、「おもしろうてやがてかなしき」両義性がいや増しに増すであろう。


(注1)鵜舟にともす篝り火の 後の闇路をいかにせん」「鵜舟の篝り影消えて 闇路に帰るこの身の 名残り惜しさをいかにせん」(新潮日本古典集成)

(注2)「鵜使ふことの面白さに……鵜舟にともす篝り火の 消えて闇こそ悲しけれ」「罪も報ひも後の世も 忘れ果てて面白や……月になりぬる悲しさよ」(同上)

なお連歌寄合集『連珠合璧集』によると「後の世の酬」と「恋死」は寄合語との由(同上)

2019年9月19日木曜日

●木曜日の談林〔宗因〕浅沼璞



浅沼璞








 跡しら浪となりし幽霊      宗因(前句)
世の中は何にたとへんなむあみだ   仝(付句)
『宗因千句』(寛文13年・1673)

前句は謡曲取りで、〈怨霊は、又引く汐に、揺られ流れて、跡白波とぞなりにける〉という『船弁慶』からのサンプリング。

「見るべき程の事は見つ」と壇ノ浦で入水した勇将・平知盛の霊を描き、〈白波〉と「知らない」が掛詞になっているのは謡曲ゆずり。

「白波がたち、行方の知れなくなった知盛の幽霊よ」といった感じ。



付句は、〈世の中を何にたとへん朝ぼらけ漕ぎゆく舟のあとの白波〉(拾遺集・沙弥満誓)の本歌取り。

前句〈跡しら浪〉→付句〈世の中は何にたとへん〉
前句〈幽霊〉→付句〈なむあみだ〉
という二つの連想経路をカットアップ、そのイメージギャップで笑いを誘発する。

「世の中を何にたとえたらいいだろう……南無阿弥陀仏」といった感じ。

(本歌の、出家・満誓に対する念仏への連想もあろう)



この付合を集英社版「古典俳文学体系3」で初めて読んだとき、すぐに次の句を思いだした。
明易や花鳥諷詠南無阿弥陀      虚子
いわゆる「句日記」――昭和29年7月19日、千葉県・神野寺での連泊稽古会で詠まれた作。

早朝の勤行への挨拶だろうが、句の仕立てはサンプリング&カットアップの宗因流といっていい。

これは仁平勝氏が『虚子の近代』(弘栄堂書店、1989年)で指摘済みだけれど、収録句に日付を記すという「句日記」の形式を〈連句に代わるフォルム〉として捉えかえすことだってできるのだ。

子規に松永貞徳のような勤勉さを感じる一方、虚子に宗因的な奔放さを感じてしまうのは、きわめて俳諧的なのかもしれない。

2019年9月5日木曜日

●木曜日の談林〔正友・志計〕浅沼璞



浅沼璞







前回は遊女の痴話文(艶書)に関する付合を扱った。

恋文を書けば、それを届ける人が必要なわけで、遊女から客への橋渡しをする文使(ふみづかい)という職業があった。

で、おなじ『談林十百韻』の中から文使の付合をさがすとーー

 君が格子によるとなく鹿 正友(前句)
文使ひ山本さして野辺の秋 
志計(付句)
『談林十百韻』上(延宝3年・1675)

まずは前句。遊里の見世格子に客が近寄ると鹿が鳴くとは奇妙だが、鹿には鹿恋(かこい)女郎の意がかけられている。鹿恋とは太夫・天神に次ぐ廓のクラスで、鹿子位または囲とも書いた。ここは客取りの場面である。

そして付句。鹿の連想から、山麓めざして秋の野辺を急ぐ文使を詠んでいる。飛脚ほど遠くには行かないのだろうが、健脚のイメージだ。



ところで先日、サントリー美術館「遊びの流儀――遊楽図の系譜」という企画展に行った。

目あては『露殿物語絵巻』(1624年頃成立? 逸翁美術館蔵)で、あの名妓・吉野太夫が描かれている逸品だ。

京は島原遊廓の前身・六条三筋町の景が展示されており(折よく場面替があったらしい)、張見世の活気が伝わってくる。

わけても遊女見習の禿が文使をするようすが可憐で、吉野とともに印象に残った。

展示解説にも、禿の文使が散見される旨、書かれてあったが、おなじ「文使」とはいえ、掲句のような飛脚的イメージとはだいぶ違う。

廓内・廓外のエリア分けが、それなりになされていたのかもしれない。



そういえば『露殿物語』成立時(寛永初年)は貞門最盛期で、
 窓さきへ返事もて来る文使  親重
禿やすらふのりものゝかげ   仝
という付合が『犬子集』巻十一(恋)にみられる。

文使の禿が王朝的に描かれ、いかにも貞門っぽい。

2019年8月15日木曜日

●木曜日の談林〔三輪一鉄・杉木正友〕浅沼璞



浅沼璞








 蛍をあつめ千話文をかく 一鉄(前句)
月はまだお町の涼み花筵
  正友(付句)
『談林十百韻』下(延宝3年・1675)

まずは不易&流行の観点からーー

前句は車胤(しやいん)の故事「蛍雪の功」の不易をベースに、千話文(ちわぶみ)つまり痴話文(艶書)の流行を詠みこんでいる。

付句は花月の不易をベースに、お町(ちやう)つまり御町(官許の遊里)の流行を詠みこんでいる。



まだ月の出ない、夕涼みの花茣蓙(花模様の筵)で、蛍の光をたよりに艶書をものする遊女。



夏の恋の付合ながら、花の定座(二ウラ13句目)へと月をこぼしてもいる。

(「花筵」は雑の正花。「涼み」とあわせて夏の花の座となる。)



花の座の月は蕉門歌仙(初ウラ)で知られているけれど、談林百韻でもなされていたのであった。

芭蕉の式目解釈の革新性を云々するのであれば、談林くらいは多少チェックしておくべきだということの、ひとつの証左となろう。

2019年7月25日木曜日

●木曜日の談林〔松臼・一朝・一鉄〕浅沼璞



浅沼璞








 よだれをながすなみだ幾度(いくたび) 松臼(打越)

肉食(にくじき)に牛も命やをしからん    一朝(前句)
 はるかあつちの人の世中(よのなか)  一鉄(付句)
『談林十百韻』上(延宝3年・1675)

前句は打越の嘆きを牛サイドから「薬喰」として取り成したもの。

それを付句は肉食を常とする西洋人サイドへと見込んだ。

(前句の場面を新たな観点から特定するを「見込」という)



「はるかあつち」などと突っぱなすのが談林らしい。

「の」のリフレインも効いてる。

もう牛も観念するしかないだろう。



これは前にもふれた事だけれど、この連句集を機に、江戸の無名結社の呼称であった「談林」が、宗因流の汎称として世に知られるようになる。



ちなみに十百韻(とつぴやくゐん)とは百韻を十巻(とまき)かさねたもので、つまりは千句のこと。

「とつぴやく」も「あつち」も促音がここちよく、談林っぽい。

2019年7月11日木曜日

●木曜日の談林〔柏雨軒一礼〕浅沼璞



浅沼璞








 此(この)池波の小便に月    一礼(前句)
うたかたの泡五六服霧たてゝ    同(付句)
『投盃』第三(延宝8年・1680)

立小便の泡を抹茶のそれに見立てた付合。

付句では「……服」「……たて」と茶道の縁語をつかいながら、「月」を受けて「霧」で秋のあしらいをしてる。



それにしても泡が五六服とは、ぷくぷくした感じで笑える。

結句に至っては、狭霧つまり水しぶきがたってるようで尚笑える。



ちなみに談林で小便の句といえば「しゝ/\し若子の寝覚の時雨かな」(両吟一日千句)の西鶴発句が知られてるが、付句でも「小便はちく/\出て物思ひ」(独吟一日千句)などと際どい恋を西鶴はしてる。


〔柏雨軒一礼(はくうけん・いちれい)は大坂商人で宗因門。『投盃』(なげさかづき)は独吟百韻十巻を収めた連句集。〕

2019年6月27日木曜日

●木曜日の談林〔辻尾意楽〕浅沼璞



浅沼璞








夕涼み草のいほりにふんぞりて  意楽(前句)
 頓死をつぐる鐘つきの袖    同(付句)
『大坂独吟集』上巻(延宝三年・1675)

草庵でひとり夕涼みをし、誰憚ることなくふんぞり返っている。

かと思いきや、それは頓死で、涙の袖が鐘をつく。



宗因の評語に「卒中風(そっちゅうふう)、夕涼み過ぎ候か」とある。

つまり脳卒中の原因は夕涼みをしすぎたためか、というのである。



 「ふんぞりて」の気楽さを「頓死」に取り成した無常の付け。

談林的な諧謔がスピード感をうむ。



〔作者の意楽(いらく)は辻尾氏。俳諧執筆のプロ。『西鶴大矢数』の執筆も務めた。〕

2019年6月13日木曜日

●木曜日の談林〔岡田悦春〕浅沼璞



浅沼璞








 鵜のまねしたる烏むれゐる   悦春(前句)
ばつとひろげ森の木陰の扇の手  同(付句)
『大坂独吟集』下巻(延宝三年・1675)

前句――「鵜の真似をする烏は水に溺れる」という俚諺のサンプリング。

黒い羽は同じでも、潜水が得意な鵜の真似を安易にすると、烏のように失敗する。

そんな烏合の衆を詠んでいる。



付句――いっせいに飛び立つ尾羽を舞踊の「扇の手」に見立てている。

水辺から陸地へのけざやかなモンタージュ。

(烏と森は付合用語。)



〔作者の悦春(えつしゅん)は岡田氏。商人と思われるベテラン俳人。〕

2019年5月30日木曜日

●木曜日の談林〔山口素堂〕浅沼璞



浅沼璞








目には青葉山ほとゝぎす初鰹     素堂
『江戸新道』(延宝六年・1678)

著名な発句だが、初出年や作風から推して談林のカテゴリーに入る秀吟。

周知のように、これは鎌倉の名物づくし。目には青葉の色、耳には山ほとゝぎすの声、口には初鰹の味、と初夏の風物を視覚・聴覚・味覚で愛でている。

〈耳には〉〈口には〉が省略されているのは談林のいわゆる「抜け」という省略法である。



まずは上五&中七から。

〈青葉〉〈ほとゝぎす〉は初夏の風物詩として古くから和歌に詠まれた雅語(歌語)。
よく例示されるのは、〈ほとゝぎす聞く折にこそ夏山の青葉は花に劣らざりけれ〉(山家集)という西行の歌である。

いわば〈ほとゝぎす〉と〈青葉〉は本歌取りによるバランスのとれた伝統的な取合せとしていい。



つぎに中七&下五。

〈ほとゝぎす〉とおなじ初夏の景物でありながら、商品経済における初物〈初鰹〉が俗語として配されている。

伝統的な雅語(竪題)に当世の俗語(横題)を配す、そんなアンバランスな滑稽味によって意表をついているわけである。



これらを連句の「三句の渡り」の観点でとらえ直せば、雅語どうしの付合(二句一章)から、雅語・俗語の付合(二句一章)へと転じているということになる。

つまりは「三句の転じ」がなされているわけだ。



後年(元禄四年・一六九一)、芭蕉も似たような発想で〈梅若菜まりこの宿のとろゝ汁〉と初春の景物を雅語/俗語で愛でているのは周知のとおりである。

〔素堂は談林期から芭蕉と親交があり、蕉風確立にも影響を与えたといわれている。〕

2019年5月9日木曜日

●木曜日の談林〔如見・西鬼〕浅沼璞



浅沼璞








衆道狂ひ京へのぼせて有りければ    如見(前句)
 東寺あたりの腕の生疵(なまきず) 西鬼(付句)
『天満千句』第六(延宝四年・1676)

トーハクの東寺展が話題のようだが、江戸の浮き世では弘法大師を男色の祖とし、東寺をその本拠地とする俗説があった。

(神仏の茶化しは西鶴にかぎったことではなかった。)

掲出の付合もその俗説によるもので、仏道修行のために息子を京へ行かせ、東寺近辺に住まわせたところ、若衆に狂って腕の生傷が絶えないというのである。

知られているように、衆道の誠の誓いとして、刀で傷つけあう腕引(かいなひき)と称する慣わしがあった。

「若衆」は言わずもがな、「かいな引」も『毛吹草』(重頼編、1645年)の俳諧恋之詞にあるから、これで恋の座となる。

親の愚痴から、息子の生傷へとズームするあたり、談林らしい付合だ。
「東寺あたりの」の大雑把なつかみも効いている。



追記 前句「(親が息子を)上京させて」の意に「(息子が都での衆道に)夢中になって」の意をうっすら掛けているようにも読めるとの由、編集人の若之氏よりコメントをもらいました。納得。