2023年4月29日土曜日

【新刊】 『音数で引く俳句歳時記・夏』

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2023年4月28日金曜日

●金曜日の川柳〔浮千草〕樋口由紀子



樋口由紀子






ふとももがふとももだった春の昼

浮千草 (うき・ちぐさ) 1950~

ふとももの感触が好きだ。ふとももはいつだってふとももであって、他の部位になりかわることはない。なのに、あらためて「ふとももだった」と書く。「だった」は「そうであった」「そんなときにがあった」の意味もあるが、ここは再確認の「だった」だろう。

冬の寒さで厚着していて、久しく見ていなかった自分のふとももに触れてみた。ずいぶん細くなって弱々しく、若い頃のように名前通りのふとももとは言えないけれど、ふとももであることには変わりはない。穏やかな日差しに包まれて自分を支えてくれているすべてのものに感謝したくなる、春の昼なのだろう。

2023年4月24日月曜日

●月曜日の一句〔三橋敏雄〕相子智恵



相子智恵






みづから遺る石斧石鏃しだらでん  三橋敏雄[1920(大正9)~2001(平成13)]

池田澄子著『三橋敏雄の百句』(2022.12 ふらんす堂)所収

三橋敏雄の第6句集『しだらでん』[1996(平成8)]の表題となった有名句を、百句のアンソロジーから引いた。

現代人の前に土中から現れた縄文・弥生時代の〈石斧(せきふ)〉や〈石鏃(せきぞく)〉は、みずから遺ったのだ、という句。〈しだらでん〉は「震動雷電(しんどうらいでん)」の転訛とされる。震動雷電とは「地震と地鳴りと雷と稲妻とが同時に起こったような騒々しさになること」と辞書にある。転じて〈しだらでん〉は、大雨や大風の様子を指す。

改めて、池田の深い読みに引き込まれる。少し引こう。
他者に頼むわけでなく他者に阿って遺してもらうわけでなく、遺るべきものが、みずからの価値に於いて遺る。(中略)俳句という儚いものも、遺るべきものは遺る、或いは、遺るべきものよ遺り現れよ、の思い。或いは祈り。我が作品への自負であったに違いない。
この〈遺るべきものよ遺り現れよ、の思い。或いは祈り。〉という言葉に驚く。遺ることは必然を超えた「祈り」なのだと。

あえて今に引き付けていえば、社会やテクノロジーの変化があまりにも加速度的で、次々に大きな変化や災厄が大風雨のように起こっているのに、流れが速すぎるがゆえに、表面的には凪いで無風に見えてしまうところもあるのではないか。表現の世界もそうかもしれない。

そんな今にあって掲句を声に出してみれば、呪文のような音の響きもあり、大風雨の世界の中に、小さいけれども錨のように重い石がずしんと現れて腹に宿る思いがする。その遺った石はただの自然石ではない。斧と矢じりという、人の手による仕事が遺っているのだ。俳句もそうあれと、祈るのである。

2023年4月21日金曜日

●金曜日の川柳〔野沢省悟〕樋口由紀子



樋口由紀子






膀胱がウッフンという春の宵

野沢省悟 (のざわ・しょうご) 1953~

孫娘のお供で東京に行ったときに、一番困ったのはトイレだった。新大久保も原宿も駅構内のトイレは長い列。トイレ使用のお客様は入場券をお買い求めくださいとわざわざ構内放送が流れるほどである。竹下通りのダイソーもコンビニもトイレは使用不可だった。「ウッフン」なんて呑気なことはいっておられない。膀胱は「ウッフン」なんていうわけがないとツッコミを入れたくなる。

よくもまあ「膀胱」「ウッフン」「春の宵」と組み合わせたものだと感心する。あまりにばかばかしくて、調子良すぎる。「だから川柳は」と言われるのか、「そこが川柳だ」と思われるのか。しかし、この三つは似てないようだが似ているから、MIXされると猥雑さと妖しさがMAXになる。なんともへんな味の川柳ができあがった。

2023年4月19日水曜日

西鶴ざんまい #42 浅沼璞


西鶴ざんまい #42
 
浅沼璞
 
 
 朽木の柳生死見付くる      打越
跡へもどれ氷の音に諏訪の海  前句
 筬なぐるまの波の寄糸    付句(二オ2句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】二ノ折、表2句目。 雑。 
筬(をさ)=機織りに付属する道具。経糸の位置を整え、緯糸を織り込むために使用。
筬投ぐる間=極めて短き時間をいう。「さを投ぐる間」とも。[定本西鶴全集より]

【句意】筬を前後に動かす一瞬、寄せる波のように糸が織られる。

【付け・転じ】打越・前句=柳から諏訪湖で水辺における危険予知行動。前句・付句=諏訪湖から波へと水辺の言葉を続けながら、危険予知行動を機織り作業へと転ずる。
*波―海(類船集)。[新編日本古典文学全集より]

【自註】前句に「あとへ戻れ」といへる言葉にたよりて、「筬なぐる」と付けよせ侍る。「波のより糸」は、水辺(すいへん)の取合せに句作りせし。何の子細もなし。

【意訳】前句に「あとへ戻れ」という言葉があるのを手掛かりに、「筬なぐる」とその動作を付け寄せました。「波のより糸」は、水辺の縁語で作句したまでで、何の差支えもない。

【三工程】
(前句)跡へもどれ氷の音に諏訪の海

 筬投ぐるその動きにも似て 〔見込〕
  ↓
 筬投ぐるその波の寄糸   〔趣向〕
  ↓
 筬なぐるまの波の寄糸   〔句作〕

前句の危険予知行動「跡へもどれ」から機織りの動作をみとめ〔見込〕、〈水辺の言葉でどう関連付けるか〉と問いかけつつ、海→波→寄糸と連想を広げ〔趣向〕、「筬投ぐる間」という慣用表現を用い、機織りの一瞬を表した〔句作〕。



筬って『世間胸算用』の質種で出てくるアレですよね。
 
「せや、七ツ半の筬一丁いうやつや。よう憶えとるな」
 
はい、ななつなからのおさいっちょう、七五調ですから。
 
「……言われてみるとそうやな。意味は分かっとるんか」
 
いや、韻律だけで。
 
「呵々、わかり安う教えちゃろ。糸四十本を一紀(ひとよみ)としてな、それを基に筬の大小を定めるんや。七ツ半は七倍半のことやからな、三百本の経糸を通す筬のこっちゃ」

……? よくわかりませんが、そんなもんが質種になるんですか。

「ならんもんがなるのが浮世やで」
 

2023年4月17日月曜日

●月曜日の一句〔仁平勝〕相子智恵



相子智恵






永き日といふ長生きのやうなもの  仁平 勝

句集『デルボーの人』(2023.3 ふらんす堂)所収

本句集は第一句目から

  づかづかと夏の踊り子号に乗る

という、〈づかづかと来て踊子にささやける 素十〉のパロディから始まる。そんなエンターテイナーである作者のことだから、掲句は「ながきひ」と「ながいき」の音の相似、「永」と「長」の漢字を見つけたところにまずは膝を打つべきであろう。だが、この句はそんな鮮やかな機知の手柄以上に、深い滋味があるように思った。

〈永き日〉は、春分を過ぎて昼間が長くなってきた感慨、寒い冬をようやく越してきた春の喜びと長閑さを味わう季語。それが悲喜こもごもを経験してきた後の、長く穏やかな余生と、まことによく通じている。

また、掲句は「長生きといふ永き日のやうなもの」と改悪してみれば一目瞭然だが、長生きの人間が主体なのではなく、あくまで主体は日永であるということも上等なのだ。さらに〈のやうなもの〉の、だらんとした述べ方も相まって、緊張感がどこにもなくて、自然に笑みがこぼれてしまう。

虚子の〈去年今年貫く棒の如きもの〉のような、真理と詩と季感とが混然一体となった面白さのある一句である。

2023年4月14日金曜日

●金曜日の川柳〔天根夢草〕樋口由紀子



樋口由紀子






花びらをいっぱい溜めた河馬の口

天根夢草 (あまね・むそう) 1942~

姫路城の桜も散り始めた。人出は去年の数倍だった。姫路城には動物園も併設されているので、今年もこんな場景が見られただろう。河馬にも当然花びらは舞い落ちる。食べ物でないので、飲み込まないから、花びらは口にひっついたままになる。溜めるつもりはないのにいっぱい溜まっていく。

小さい花びらと大きい口、桃色と褐色の色彩や形状や感触などの対比の見つけ。一見、アンバランスのようで、桜と河馬はほのぼのした絵になる。河馬は花びらを溜めた口を開けてのんびりと眠っているだろう。平和な春の風景である。『川柳作家全集 天根夢草』(2009年刊 新葉館出版)所収。

2023年4月10日月曜日

●月曜日の一句〔林昭太郎〕相子智恵



相子智恵






ふらここの子を空へやる手の加減  林昭太郎

句集『花曇』(2023.2 ふらんす堂)所収

ぶらんこに乗る子の背中を押す、その手加減は案外難しい。空を飛んでいるような爽快感を味わってほしいが、本当に空へ飛んでいってしまっては困るのである。

最初は怖がらないように軽く。スピードと高さに慣れてきたら力を込めて。気分がのって前のめりになってきたら、押し過ぎは危険だ。

掲句、動作を直接書かずに〈空へやる〉と表現を飛躍させたことで、そんな機微のすべてが見えてきた。〈空へやる〉の詩的展開は、子どもを空へ差し出す自分のうすら淋しさ、怖さも、子の後ろで同じ空を見上げながら、〈手の加減〉どころか、いつかこの手が要らなくなることも容易に想像させる。

2023年4月5日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇13 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇13
 
浅沼璞
 
 
春の花皆春の風春の雨     打越
 朽木の柳生死見付くる    前句
跡へもどれ氷の音に諏訪の海  付句(二オ1句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

 
前回の「#41」と同じ三句の渡を掲げました。

じつは編集の若之氏とやりとりするうち、前句・付句は〈季戻り〉ではないかという疑義が生じました。
 
つまり現代の歳時記では、柳(晩春)→氷の音≒氷解く(仲春)と解せるからです。

 
そこで近世の俳書にいくつか当たってみたのですが、意外なことに『はなひ草』(1636年)、下って『俳諧歳時記栞草』(1851年)などで、柳は三春と季別されていました。
 
いっぽう氷解くる・消ゆる等は『増山の井』(1663年)以降は一月(初春)と季別されているようです。
 
よって西鶴の付合は柳(三春)→氷解く(初春)と解釈でき、〈季戻り〉の心配はなくなります。


 
ところで打越の花については、今も昔も晩春と季別されているわけで、花(晩春)→柳(三春)→氷解く(初春)となり、三句の渡での〈季戻り〉と解釈する向きも多いでしょう。
 
しかし愚生の所属していた東京義仲寺連句会「水分の会」で、〈季戻り〉は前句・付句の二句間のみに適応する由、話題にのぼった記憶があります。
 
また先日も他門のレンキストH氏から、同様の解釈をお聞きしたばかりです。

 
それかあらぬか、この花(晩春)→柳(三春)→氷解く(初春)という季の按配は、独吟に限らず、西鶴門下で共有されていたらしく、たとえば発句・脇・第三でも次のような作例がみられます。

  花軍名のり懸てや一季(騎)うち   吉清
   しのびの緒をきる青柳の糸     西鶴
  砂土圭(時計)氷の響きあらはれて  幸孝
             『西鶴大矢数』第百(1681年)
 
発句の花軍(はないくさ)は、玄宗と楊貴妃が花にて打ち合った故事によるもので、『俳諧御傘』(1651年)では正花とされています。
 
脇の青柳は柳と同じく三春で、そもそも冒頭に引用した「朽木の柳」の自註には〈朽木の青柳〉とありましたね。
 
第三の氷の響きも、自註に〈氷のひゞき、春の言葉〉とありました。
 
付筋については割愛しますが、花(晩春)→青柳(三春)→氷の響き≒氷解く(初春)という季の流れは確認できるかと思います。
 

 
「ちょいと待ちいな。三春とか初春とかワシはいちいち気にかけておらんで」
 
……そういえば俳文学者のS氏から、季戻りを嫌うようになったのは芭蕉・西鶴の頃よりももう少し後の印象、と以前うかがったような。
 
「せやろ。ワシの時代の俳書に〈季戻り〉いうのは見かけんし、そんなん気にしとったら、十八番の〈逆付〉もでけへんやないか」
 
……たしかに、そうですね。もっと調べて出直します。
 

2023年4月3日月曜日

●月曜日の一句〔山西雅子〕相子智恵



相子智恵






雀の帷子ぽくぽくと土乾く  山西雅子

句集『雨滴』(2023.1 角川文化振興財団)所収

雀の帷子(スズメノカタビラ)はイネ科の越年草。“雑草の中の雑草”で、道端や空地、田畑のまわりなど、実によく見かける。雀が着る単衣の着物にたとえた名前で、春に数ミリの麦のような小さい穂をしゃらしゃらとたくさんつける。

〈ぽくぽくと土乾く〉の「ぽくぽく」が他の季節ではない、春らしさがあるなあ、と思う。土の表面は乾いているのだけれど、内側は潤っている豊かな土を感じさせるのだ。凹凸があって、土の中からこれから萌え出るものも感じることができる。それは人が育てた植物でも、雑草であってもどちらも豊かなのだ。本句集はこのようにささやかなものを見逃さない。

たわたわと松高うあり野分晴

寄貝の渚に年を惜しみけり

鶏頭や下洗ひする泥のもの

夏帽をとり前髪をかきまはし

静かながら滋味深い句が多くて、読後にじんわりと心が澄んでくる句集だ。時々、

海鼠に毛あらばそよいで寂しいか

どんぐりの裸の尻の氷りたる

水筒の中にゆふやけ子は育つ

こんな泣きそうなほどに詩的な不思議が、そっと隠れていたりもする。