2018年11月30日金曜日

●金曜日の川柳〔野村圭佑〕樋口由紀子



樋口由紀子






生きられて百になったら何しよう

野村圭佑 (のむら・けいすけ) 1909~1995

2018年中に百歳になる人は32000人以上で、1981年に1000人を超え、1989年に10000人を超え、百歳以上の人は年々急激に増えている。掲句は百歳まで生きた人がそれほどいなかったときに作られたのだろう。それにしてものん気で気楽で平和な一句である。

「朝、店を掃除しているときフッと浮かんだ句です。『なにしよう』といいながら自分で答を出してはおかしいんですが、百歳になっても川柳をつくりつづけていられたらこんな幸せなことはないでしょうね」と本人が対談で語っている。

こういう川柳もいいなあと思う。心身ともに健康であるからこそ詠める川柳であり、そう思える時代に生きているからこそである。自分自身も社会も信用している。〈歌舞伎から帰り返事も七五調〉〈そうそうは飲めぬ四斗樽の酒〉〈川柳がある君がいる君もいる〉

2018年11月27日火曜日

〔ためしがき〕 あけびの色 福田若之

〔ためしがき〕
あけびの色

福田若之


少年はあけびの色を科学する  橋本七尾子

この句とはじめて出会ったのは、夏石番矢『現代俳句キーワード辞典』(立風書房、1990年)を介してのことで、そのころ、僕はまだたしかに少年だった。その時期にこの句に出会えたことは、僕にとって、間違いなくしあわせなことだった。

うまく語ることができないのだけれど、それ以来、この句は、句を書く僕のいとなみにとって、ひとつの勇気そのものでありつづけている。いわゆる「口語俳句」の可能性も、俳句によるいわゆる「児童文学」の可能性も、この句が僕に教えてくれたものだ。かつてこの句から受けた震えが、僕の句には、表向きには見えないかたちで、けれどはっきりと、震えのままにありつづけている。

いま、勇気と書いた。それは思うに、この一句が、ある意志についての句でもあるからなのだろう。あけびの色を前にして、科学することは少年の意志にほかならない。僕は、この句に、系統としての科学することのはじまりとは別に、個体としての科学することのはじまりを読みとる。熟れたあけびの実の表皮の色について、僕はまだうまく語りうる言葉を持ち合わせていない。けれど、あけびの色は美しい。幼いころ、むらさきのクレヨンと、ふじいろと、あかむらさきと、それらをぐりぐりと重ねて塗った空を思い出す。あの色が大好きだった。あけびの実を知るより前に、僕はあの色を知っていた、そんな気がする。

極私的な、とりとめもない、一句との出会いの話だ。
2018/11/22

2018年11月26日月曜日

●月曜日の一句〔飯田晴〕相子智恵



相子智恵






枯に手を置けばすみずみまで眠し  飯田 晴

句集『ゆめの変り目』(ふらんす堂 2018.9)所収

とりとめのない大きな〈枯〉の世界と、そこにそっと置かれた〈手〉という小さな具象。手を置いたのは、実際には一本の冬枯の木であったりするのだろうが、そこは省略がきいて、茫漠と〈枯に手を置けば〉となっているところがいいな、と思う。

それによって、枯の一端に置かれた手を媒介に、木の枯、草の枯、地の枯、水の枯…すべての枯れたものたちの寝息を芋づる式に吸い込んで、同期していくさまが心に浮かぶのである。その寝息の静かな引力が、自分の体をすみずみまで眠りに誘う。これが芽吹きや夏の頃ならば、置いた手から体のすみずみまで力が行きわたることになるのだろうけれど、冬であるところがまたいい。

冬の自然から眠りをもらう手の、そこから体のすみずみまで行きわたった眠気の、なんと安らかなことだろう。

2018年11月24日土曜日

●暮色

暮色

花茣蓙の花の暮色を座して待つ  福永耕二

のこりゐる海の暮色と草いきれ  木下夕爾

白鳥に到る暮色を見とどけし  細見綾子

氷上の一児ふくいくたる暮色  飯田龍太

暮色より暮色が攫ふ採氷馬  齋藤玄

ひとり独楽まはす暮色の芯にゐて  上田五千石

花柘榴すでに障子の暮色かな  加藤楸邨

2018年11月23日金曜日

●金曜日の川柳〔西山茶花〕樋口由紀子



樋口由紀子






次の世は蝶で蜻蛉で舞わんかな

西山茶花 (にし・さざんか)

台所の小さな窓から見える外の景色、そこには蝶や蜻蛉が飛び回っている。この世では叶いそうもないが、せめて次の世では蝶や蜻蛉のように自由に飛翔でできるようになりたい。そうありたいと願う。さらりと言っているが内容は重い。

女性が自分の思うように生きることができない時代が確かにあった。自由に発言することも自由に行動することも許されていなかった。女性は家の中に居て、家の中のことだけをしていればいいと言われつづけてきた。家の外のことに関心を持つことも、意見を言うこともできず、行きたいところにも行けなかった。今も世界のどこかで抑圧されている女性たちがいる。〈冷めた紅茶を温めて飲んで人恋し〉〈花の木で居ればいいのに笑ったり〉〈歳ですよ バタンバタンと戸が閉まる〉 『瑠璃暮色』(1989年刊 かもしか川柳文庫)所収。

2018年11月22日木曜日

●木曜日の談林〔前川由平〕浅沼璞



浅沼璞








  法師に申せあのいたづらを  由平(前句)
手習の手ぬるくさぶらふ二郎太郎  同(付句)

『大坂独吟集』(延宝三年・1675)

「さぶらふ」は候ふ/三郎をかけている。勉強(手習い)に身が入らない(手ぬるい)三兄弟のいたずらを、寺子屋の先生(法師)にチクってやろう――周囲の子たちはそう思っている。いたずら三兄弟をぎゃふんと言わせたい。藤子・F・不二雄チックな世界。

寺子屋(手習い所)という名称は、江戸以前の教育が寺で行われていた名残である。江戸の手習い所の師匠は、僧侶のほかに浪人・医師・神官などさまざまであった。識字率の向上に手習い所が貢献したことはいうまでもないが、読み・書き・算盤だけでなく、礼儀作法や道徳まで師匠ひとりで教えるケースが多かった。

生徒(手習い子)は6才~12才くらいまでで、総勢30名ほど。小人数学級の先取りといってもいいが、躾けのいきとどかない場合もあったことがこの付合からわかる。
しかも学年制がしかれていないから三兄弟が揃っていたずらをはたらくという寸法である。

*作者の由平(ゆうへい)は前川氏。宗因門。延宝末年、西鶴・遠舟とならぶ大坂俳壇・三巨頭のひとり。元禄期は雑俳点者に専念。

2018年11月20日火曜日

〔ためしがき〕 期待 福田若之

〔ためしがき〕
期待

福田若之

上田信治『リボン』の「あとがき」に次のとおりある。
さいきん、俳句は「待ち合わせ」だと思っていて。
言葉があって対象があって、待ち合わせ場所は、その先だ。

つまり、俳句は、どう見ても、とても短いので。

せっかくなので、すこし遠くで会いたい。
これは、おそらく、阿部完市の「私記・現代俳句」に見られる次の記述を念頭に置いている。
五七五定型には思想はない。内容はない。ただ期待という、待つという――準備性というひとつのエネルギーとしてのみそれはある。共幻覚性という、作者ひとりひとりの中の共通項として煙のごとくにあり、同じようにその香の中で、その香に励起されながら、待ち、望み、準備し、潜勢力として、その存在態を保っている。このように五七五定型は無色であり、直感であり、期待である。共幻覚的直感であり、共幻覚的準備性である。
ところで、この記述は、つづけて完市自身の《あおあおと何月何日あつまるか》という一句を呼び寄せずにはおかない。
  あおあおと何月何日あつまるか    阿部 完市
と、非意味を書く――音を連ね、文字とする作業が終ったとき、この非意味一行は、何かの存在を主張しはじめる、と思う。意味を消して、消しつづけてみて、そこにのこるもの、それは五七五という何か一行、である。意味は、ただ、何月何日にあつまるのか、色あおあおと音のない音を立てて、という単純である。もしこの一句が、一句として成立するとすれば、これは明らかに定型の内包する一念による一句成立以外の何ものでもない。
「何月何日にあつまるのか」。ということは、「待ち合わせ」の約束をしているのだ。「定型の内包する一念」、すなわち、完市が五七五に見出すところの「期待」とは、いつか、ある日付において、「あおあおと」「あつまる」ことだというのである。『リボン』の「あとがき」の言葉は、おそらく、こうした記述を踏まえたものなのだろう。

要するに、『リボン』の「あとがき」は、あの「ほとんど作家本人の言葉からなる、阿部完市小論」の、つづきでもあるということなのだろう。ただし、この「あとがき」は、小論とは違って、ほとんど完市の言葉では書かれていない。完市の文章の底に感じられるどこか劇薬じみた危なっかしさ――僕の感じるところでは、それは「共幻覚性」や「香」といった語において表面に噴出している――は、良くも悪くも、信治の文章にはほとんど感じられない。あえてまったくもって図式的なことを書くなら、「待ち合わせ」という語彙は、「共幻覚的準備性」という語彙から「幻覚的」という部分を抜いたうえでさらにやんわりさせたもののように見える。信治は、完市のいう「幻覚」ということをどう引き受けていく(いる)のか、あるいは、引き受けていかない(いない)のか。
2018/11/14

2018年11月18日日曜日

〔週末俳句〕スコッティーな些事 西原天気

〔週末俳句〕
スコッティーな些事

西原天気

ピクルスを漬けてみたり。


酉の市を歩いたり(下写真はその夜の花園神社の裏側)〔*1〕


『ユプシロン』〔*2〕創刊号が届いたり。


猫がいたり。


『はがきハイク』〔*3〕に切手を貼ったり。




〔*1〕この日の模様は、こちらにも。
https://weekly-haiku.blogspot.com/2018/11/604.html

〔*2〕岡田由季、小林かんな、仲田陽子、中田美子、4氏による同人誌。創刊号は2018年11月1日発刊。

〔*3〕笠井亞子+西原天気による俳誌。投函はもうすこし先。

2018年11月16日金曜日

●金曜日の川柳〔河野春三〕樋口由紀子



樋口由紀子






おっとそれは飲めない インクである

河野春三 (こうの・はるぞう) 1902~1984

いくらきれいな色をしていても、同じ水物であっても、インクは飲みものではない。インクと飲みものはあたりまえだが別物である。だから間違うわけはないと思いながらも一句のスパッとした言い切り方と独自のリズムにインクの鮮やかな色が目に飛び込んできて、飲んでしまいそうなインクが見えてきた。インクは飲んだらいけないよとうっかり注意しそうな心境になった。

しかし、作者は河野春三であることで立ち止まった。だったら、そうではないだろう。飲めないイコール受け入れられない、と読むべきだろう。その案件は飲めるものであるかもしれないが、私にとって飲めないインクのようなものであり、決して受け入れることができない。到底納得できないという、強い意志表示であろう。「私」(1950年刊)収録。

2018年11月14日水曜日

●俳句ロボットに関するメモ〔リンク集〕

俳句ロボットに関するメモ〔リンク集〕


三田ミチコ顛末 三島ゆかり
https://misimisi2.blogspot.com/2018/10/blog-post.html

俳句自動生成プログラム開発備忘録
https://ameblo.jp/fuufudekimono/entry-12414451777.html?fbclid=IwAR12MRmyUO-ddAMHeRjGe5KyeYvGkiWelIFnih9eSUxGKK5ryWdR1eWqLVk

裏悪水「悲しい大蛇」10句
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/02/blog-post_3991.html

悪漢俳句:断章 西原天気 ※「悲しい大蛇」解説を転載
http://weekly-haiku.blogspot.com/2014/04/1986-2-2-1997-2-2-2-10-httpweekly-haiku.html

 ●

俳句の詩情や「カワイイ」 感性、表現でAIが人間を超える日
https://media.dglab.com/2018/11/06-ai_nomaps-01/

 ●

るふらんくん「地層」10句
http://weekly-haiku.blogspot.com/2012/09/10_2.html

忌日くん「をととひの人体」10句
http://weekly-haiku.blogspot.com/2012/10/10.html

二物衝撃と俳句ロボット「忌日くん」の爆発力 三島ゆかり×西原天気
http://weekly-haiku.blogspot.com/2012/11/blog-post_11.html

ロボットという愉しみ 三島ゆかり
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/07/blog-post_11.html

【追加】ロボットが俳句を詠む 三島ゆかり;『俳壇』2016年1月号~2017年12月号
http://misimisi2.blogspot.com/search/label/%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%8C%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E3%82%92%E8%A9%A0%E3%82%80

(西原天気・記)

2018年11月13日火曜日

〔ためしがき〕 モードとしての「連作」 福田若之

〔ためしがき〕
モードとしての「連作」

福田若之

「連作」という語については、おそらく、山口誓子や水原秋櫻子よりも、むしろ前田普羅や島村元の議論に立ち返ったほうが実相をうまくつかむことができる。彼らの議論の根本には、「連作」ということを、作品の形態というよりは、むしろ、句を読むことや作ることのモードとして捉える発想がある。すなわち、連作というものがそれとして固まって立つということではなしに、いくつかの句のまとまりを連作と読むということやそれらを連作するということがあったのだ。

2018/11/12

2018年11月11日日曜日

〔週末俳句〕鳥の嵐 木岡さい

〔週末俳句〕
鳥の嵐

木岡さい


三日月を古い駅舎で手に入れた。

フランスのロックバンド「OISEAUX-TEMPÊTE」 (鳥の嵐)の公演に出かけた。会場は人口1900人あまりの小さな村モーベックの旧駅舎。長いあいだ廃駅になっていた建物に約20年前、文化振興協会がふたたび息を吹きこんだ。いまでは年中さまざまなイベントが行われている。



「鳥の嵐」でギターやキーボード、サックスを演奏するのはフレデリック・オーバーラント。彼を知ったきっかけは詩人のクリストフ・マノンで、2人のパフォーマンスをよく最前列で鑑賞した。オーバーラントの演奏に合わせマノンが詠う。例えばこんな詩を。

なにを今さらと愛。    おしむすべ分からず
に。     先のばしするお終い。  焦がしたあの
時めき。    なつかしくて切ない。   ここまで
かけた愛。     閉じこめろ永遠に。  しまつて
その心に。  のこりの毒がまわり。  ゆっくり
とてもゆっくり。    ぼくらを。      殺す。


多才なオーバーラントは写真家でもある。わたしが抱きしめるレコードのジャケットを指さして言った。
「その三日月とったの俺だよ」


2018年11月9日金曜日

●金曜日の川柳〔延原句沙弥〕樋口由紀子



樋口由紀子






臍出して踊っているとは妻知らず

延原句沙弥 (のぶはら・くしゃみ) 1897~1959

ああ、確かに。身近でもそんな話を聞いたことがある。叔父が亡くなって、弔問に来た人たちにその話を聞いて、叔母が仰天したことがあった。堅物で冗談一つ言わない叔父にもう一つの顔があったのだ。

妻だけが知らない夫のこと、夫だけが知らない妻のことなんて、世の中にはごろごろ転がっている。例の叔父だって、叔母が高価な着物やバックを買っていることなどつゆ知らずに亡くなった。だから、家庭が平和にまわっている。

延原句沙弥は須崎豆秋・高橋散二とユーモア川柳三羽烏と呼ばれていた。「寂しければ寂しいだけ、苦しければ苦しいだけ、この人生を明るく、朗らかに生きぬきたい。ハッキリ申せば、自分はもっと笑いたい」と述べている。〈請求書上様とありぼくのこと〉〈西瓜喰う首をだんだん前に出し〉〈妻をどう呼ぶかとアホなアンケート〉〈達者な医者がヤレたべろヤレ歩け〉〈波を見ていると波がものいうている〉。

2018年11月8日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








霜を踏んでちんば引まで送りけり  芭蕉
 
延宝七年作。前書きに「土屋四友子を送りて、かまくらまでまかるとて」とある。霜を踏んで、不自由な足を引いて送ったよ、という。芭蕉と四友とは、「三吟百韻」を成している。(ちなみにそのときの発句は「見渡せば詠(ながむ)れば見れば須磨の秋」である)。霜を踏むところに名残惜しさが募り、「送りけり」まで継続する。動詞が三つもあって普通ならごちゃごちゃしそうだが、意外と読みやすい。この句には謡曲「鉢木」による趣向が凝らされている。「鉢木」のストーリーはwikipediaですぐにでてくる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E6%9C%A8

主人公の佐野源左衛門尉常世が落ちぶれた様から北条時頼に見定められて鉢の木にちなんだ領地を得るのだが、常世と鉢・領地がリンクしているところが面白く、よくまとまった話である。常世は幕府の危急のために鎌倉に馳せ参じたのだが、芭蕉は四友上洛を見送るためであり、物語のスケールには差がある。その差も愛おしく感じるのは「霜」だからだろうか。

2018年11月7日水曜日

●見せるクジラ 橋本直

見せるクジラ

橋本直

1970~80年代に、消費地の販促で「クジラ解体ショー」なるものが行われていたという。いまならマグロでやっているあれだ。田舎の出であるわたしは見たことがないけれど、子供の頃、クジラはスーパーに行けばいつもパック入りで売っている手に入りやすいものだったし、竜田揚げが給食のメニューで出てくるものだった。今や時勢は移り、捕鯨を悪魔の所業のごとく見る向きさえある。そう遠くない未来に、マグロもそうなるのかもしれない、なんて思う。

「クジラ解体ショー情報求む 「昭和の風俗」、難航」産経ニュース 2018.10.19
≫こちら:将来リンク切れ)

2018年11月6日火曜日

〔ためしがき〕 俳句は誰にとって長く、あるいは短いのか 福田若之

〔ためしがき〕
俳句は誰にとって長く、あるいは短いのか

福田若之

いくつかのことがらを漠然と思い起こしながら、ふと、腑に落ちたことがある。

俳句は、言葉から発想する傾向があるひとにとっては、しばしば長いと感じられるはずだ。なぜなら、すでにある言葉がひとつだけでは、俳句にならないから。俳句は、たとえば季題から発想される場合には、ふつうはかならずその季題よりも長いものとして考えられる。このとき、俳句を書くことは、もとの言葉に対する足し算として経験される。

これに対して、イメージから発想する傾向があるひとにとっては、俳句はしばしばあまりにも短いと感じられるだろう。ひとつのイメージは、根本的に、言葉では言い尽くしようがない。だから、俳句に書き込むことのできるイメージは、作者の見た、ないしは思い描いたイメージよりは必ず少ないものになる。このとき、俳句を書くことは、もとのイメージからの引き算として経験される。

だから、この意味で、たとえば高柳重信にとって俳句は長く、金子兜太にとって俳句は短かったということはないだろうか。もちろん、結論を出すには慎重になる必要があるけれども、考えてみれば、これはなかなかおもしろい問いかもしれない。実際、この観点からすれば、たとえば重信の句は兜太のそれよりもはるかに今井杏太郎のそれに近いと言えるのではないかという気がする。理由はどうあれ、僕にとって、それはたしかに実感としてそのとおりだ。それも、このことは、『山川蟬夫句集』の重信よりも、むしろ『山海集』や『日本海軍』の重信についてよりよく当てはまることのように思われる。

ところで、読み手にとっては? ——それはもちろん、また別の話だ。

2018/10/31

2018年11月5日月曜日

●月曜日の一句〔堀切克洋〕相子智恵



相子智恵






露の玉こはるるまでを歪みけり  堀切克洋

句集『尺蠖の道』(文學の森 2018.9)所収

草葉の上の露の玉が滑って地面に落ち、壊れたところを想像した。地面に打ち付けられた露の玉が歪んで粉々に壊れてしまうまでの僅かな時間が、ハイスピードカメラのような視点で捉えられている。

〈こはるるまでを歪みけり〉は描写として優れているだけではなく、作者の内面の緊張感や屈折までを伝えている。それは壊れるところに焦点が当たってはおらず、壊れる前の「歪み」の方に焦点が当たっているからだ。粉々に壊れることはある意味、解放である。透明な球体が解放に至るまでのぎりぎりの緊張感の中にある歪みが、とても美しい。

2018年11月4日日曜日

〔週末俳句〕ちょういいぐあいに古い 西原天気

〔週末俳句〕
ちょういいぐあいに古い

西原天気

散歩していて、ちょういいぐあいに古いビルに出会うと、カメラを向けてしまいます。自分にとってのフォトジェニックな物件。誰にとっても、というわけではないかもしれないけれど。


2018年11月3日土曜日

◆週刊俳句の記事募集

週俳の記事募集

小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2018年11月2日金曜日

●金曜日の川柳〔平井美智子〕樋口由紀子



樋口由紀子






座ろうか立とうかバスという世間

平井美智子 (ひらい・みちこ) 1947~

「バスという世間」の見方に驚いた。動物的な勘のような捉え方である。バスに乗るときは肉体的にも精神的にもいつも同じ状態ではない。元気なとき疲れているとき、嬉しいとき悲しいとき、怒っているときもある。たいていは席が空いていたら座り、疲れていたら空いている席を探すか、詰めてもらってでも座る。バスの席とはそういうものだと思っていた。座るか立つかを決めるのを「世間」を見てから判断するというのは、彼女の生き方そのもののような気がする。

いろんな場に遭遇したときにここではどう対処すべきかを咄嗟に思いめぐらして、行動できる。場を一瞬で見抜いて、にぎやかにするのか、おとなしくするのか、察知する。たぶん彼女はどこでもどんなときでもどんな振る舞いも出来る人なのだろう。そうでなければ、この句は生れない。『窓』(2004年刊 編集工房円)所収。