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2026年6月12日金曜日

●金曜日の川柳〔天谷由紀子〕八上桐子



八上桐子





櫛の歯は等間隔で逃げられぬ 天谷由紀子

手に取った櫛の歯の等間隔を意識したとき、まるで檻のようなその内側に閉じ込められている自分を発見したのだろう。

この句は、誰(なに)が、どこから逃げられないのか書かれていない。窮屈な社会や組織、家庭のことかもしれないし、櫛の歯自身としても読める。

作者本人のことと読んだのは、句集のなかに、どこか危うい状況を冷静に書きとめた作品が多いせいだ。

おはじきと鍋の間にある扉

満月になるまで鉛筆を削る

ひなげしが折れないように受話器おく

目に映るこの世界の歪みと、そこにいる私を淡々と見つめている。

石には石の力があって、ぎゅっと握りしめると安心するように、折々にひらいてしまう句集なのだ。

『白いみしん』 (2001年/私家版)

2026年6月5日金曜日

●金曜日の川柳〔千春〕西原天気



西原天気





どうしよう赤信号が幻に 千春

《赤信号が幻に》なった瞬間からの、この人のこの状態から推測するに、信号機のサインは、なんらかの標/導(しるべ)であったにちがいない(信号機側からすると、それは本懐だ)。

ここで、読者たる私が、この人に向かって告げることは、もう決まっている。

赤が幻になった以上、そこには青しかない。否、青も黄色もない。どうしようもないくりあ、どうにでもしていい、何をしようがかまわない、ということだと思いますよ、はい。

世界ぜんぶが、この人の意のままになる。この人のものになる。その一瞬手前の「どうしよう」。一歩手前の不安や逡巡。それは、歩き出す、駆け出す前の足踏みなのだと思います。

掲句は千春句集『こころ』(2024年4月15日/港の人)より。

2026年5月29日金曜日

●金曜日の川柳〔宇佐美眞一〕まつりぺきん



まつりぺきん





柔らかな拒絶の上に建てる塔  宇佐美眞一

「塔」と聞いて、何を思い浮かべるでしょう。五重塔、エッフェル塔、今なら東京スカイツリーでしょうか。
ただこの「塔」は、もっとプリミティブなもの――たとえばバベルの塔を連想させます。

単一の言語を奪われ、言葉を分かたれた人々が、相互の理解を断たれ、その共同性を失った物語。
そう考えると、「拒絶」という言葉にも納得がいきますが、この句はそこに「柔らかな」という形容を添えています。
拒絶という本来は硬い印象の行為が、なぜか柔らかい。断ち切りたいのに断ち切れない、人間の曖昧さが垣間見えます。

そして、その「柔らかな拒絶」の上に、また「塔」を建てるというのです。人間とは懲りないものですね(笑)
分断し、距離を取り、それでもまた新しい何かを築こうとする。まるで「今度こそ」と言いながら、結局は何度も同じ場所を歩いているように。

私たちは前進しているつもりで、実はメビウスの輪の上を歩いているだけなのかもしれない――そんな静かな問いを、この一句は投げかけているように思えます。

「フードコートへ放牧」(『ときどき放課後、ときどきパラソル』2025)より

2026年5月22日金曜日

●金曜日の川柳〔青砥和子〕まつりぺきん



まつりぺきん





副作用かもしれないプリン食べたい  青砥和子

「副作用」という言葉は、歩んできた人生経験や過ごした時間によって捉え方が変わりやすい、デリケートな言葉のひとつだと思います。

そういった少し重い語を頭に置いておきながら、軽やかにパロール味たっぷりな「プリン食べたい」。

重さをほんの少しやわらげています。何となくホッとしませんか?

前後の落差を考えると、破調でありながら口語的リズムがむしろ奏功しているように思います。

もし今後、「副作用」という言葉に多くの方がナーバスになる時代があったとしても、この句を思い出せば、少し気持ちも楽になるのではないでしょうか。

『雲に乗る』(2023)より。

2026年5月15日金曜日

●金曜日の川柳〔西田雅子〕暮田真名



暮田真名





ある夏の白いページに二泊する  西田雅子

みじかい滞在である。「白いページ」はホテルの一室のよく磨かれた床のようでもあり、洗い替えられた清潔なシーツのようでもある。

「二泊」という単語選びは、「白」を含む「泊」という漢字の上でも、「ハク」という音の上でも、「白いページ」のまばゆさを確かなものにする。夏の強い太陽光の照り返しが、目に見えるようだ。

ところで、白いページとはどのようなものだろう。単行本、文庫本ならば、乱丁本かもしれない。「ある夏」だから、アルバムや日記の可能性もある。その場合は、記録することがなかった、あるいは記録のための時間がなかった、宙に浮いた期間である。いずれにせよ、白いページは人間の作為から解き放たれて無防備だ。そこを気に入った何者かが、すこしのあいだ寝泊まりをして、やがて去っていく。長居をしないところもいい。

白いページは開かれたまま、次の訪れを静かに待っている。

2026年5月8日金曜日

●金曜日の川柳〔柴田午朗〕湊圭伍



湊圭伍





いやな世が来て新聞がおもしろい  柴田午朗

『柴田午朗句集―伯太川』(日本現代川柳叢書題18集)芸風書院、1990年。

今まさに「いやな世」が来ているが、べつに新聞は面白くならない。

という意味でこの句は嘘だなあ。

川柳は社会性や政治性から評価されることも多いけれども、その社会性や政治性は各時代のもろもろの状況にもたれ過ぎていて、時間が経つと雲散霧消する程度のものだ。同時代の、だいたい同じイデオロギーの人間の儚い共感を呼ぶために、社会や政治が使われてきたのだ。

掲句はしかし、そうしたベタな川柳の社会性、政治性からは辛うじて距離をとって、したがって、少なくとも今の時代でも興味をもって読み得る句になっている。「いやな世が来」たなあ、それと、「新聞がおもしろい」なあと、二つの印象がそれなりの納得をもってつなげられた時代があったのだという、現在からの発見が、現在にこの句を読むことにはある。

その発見の感覚が生じるのは、「いやな世が来て」まで7音、「新聞がおもしろい」の10音での2句の切れになっていて、2つの認識にそれぞれ一つのまとまりが充てられているからだ(それとは別に575音でも切れる安心感もあるが)。この2つの言葉=認識のまとまりに飛躍があることが句構造で明示されているのである。

そこから、「いやな世が来」たのに、「新聞がおもしろ」くはないという、私たちの実感が、句の内容へのいささかの反発とともに立ち上がってくる。じゃあ、今、何が面白いのか。代わりになる面白いものがないように感じるとして、それがどうしたのか。

そもそも、掲句で「おもしろい」と言っている主体は、本当に「おもしろい」と感じているようには思えない。多重に屈折したイロニーがそこにはあり、私たちの読みも最後には「おもしろい」という感情の社会性や政治性へと至る。この句と同じ視点に立てなくとも、私たち自身のメディアや言説の環境において、私たちは何を面白がらされているのか、について考えるのである。

2026年5月1日金曜日

●金曜日の川柳〔西沢葉火〕まつりぺきん



まつりぺきん





ライターの音を一切消した窓  西沢葉火

静謐です。

ライターの点火音のような小さな音さえも聞こえない、密閉された空間。

それを成し遂げる「窓」の存在感。

「一切」には、内と外とが完全に切り離された、隔絶の風景を殊更に強調するニュアンスがあり、内面的世界の象徴のようにも感じます。

しかし「窓」である以上、音は聞こえなくても、外からライターの炎が見えてしまいます。

むしろ、聴覚を遮断することで、わざと注目させようとしているのかもしれません。

火はまだ消えていませんよ、と。

『クラドフレビス・レインボー』(2022)より。

2026年4月24日金曜日

●金曜日の川柳〔宮井いずみ〕暮田真名



暮田真名





ボヨンボヨン大王お見舞いにざぼん  宮井いずみ

「ボヨンボヨン大王」なる人物が、お見舞い品に果物の「ざぼん」を提げてやってきた。あるいは、「ボヨンボヨン大王」へのお見舞い品として「ざぼん」を持参した。おおむね、そのように読める句である。

この句の骨子を抜き出すならば、やはり「ボヨンボヨンざぼん」になるだろう。三拍の繰り返しが作る、ゴムまりのような弾み。「ボヨンボヨン大王」のビジュアルは、きっと「ハクション大魔王」のようではないだろうか。顔の輪郭も、お腹も、豊かに張り出ているだろう。

では残りの「大王お見舞いに」は蛇足かといえば、そうではない。全十八音のうち七音を占めるO音の二音を抑えつつ、「大王」の「大」という文字によって、世界最大級の柑橘類である「ざぼん」の大きさをも予感させているのだ。

さらに、「ざぼん」の「ぼん」は、「ボヨン」をコンパクトに収納したようでもある。「ざぼん」は、あるいは「ボヨンボヨン大王」の身代わりかもしれない。

2026年4月17日金曜日

●金曜日の川柳〔北川絢一郎〕湊圭伍



湊圭伍





どの糸からもマリオネットは血を貰う  北川絢一郎

操り人形が活き活きと動いているとして、その活力は人形をぶら下げた糸を通じて操っている人物から来ている、というのは当たり前である。ただその活力を「血」と表現し、「血を貰う」として人形とそれを操るものの関係を示すと、急に状況が不穏に見えてくる。「どの糸からも」に示された人形の貪欲さも、この句の怖さを増幅している。

人形は生を持たないモノであり、操るひとは意志を持つ生き物である。この割り切りは分かりやすい。また、人形とそれを見事に操るひとは芸として一体で、共に私たちの視線に向けて生きてある。これも心地よい把握だ。ただ「マリオネット(操り人形)」が動くのを見るとき、上に張り詰めたり緩んだりして垂れている糸、人形に集中しているときは背景にぼんやりとしている操る人の影が見えている。この背後の影や、糸の捉えがたい動きが、私たちの無意識に働きかけている。

「マリオネットは血を貰」っているとしたら、その「血」は操り手のみから来ているものだろうか。人形に流れてゆく血はただその動きのみにきれいに置き換わるものだろうか。また、血を際限なく要求する「マリオネット」を、私たちは操り人形芸という気味の悪さはあるがあくまで優しい演芸以外にもあちこちで見る気がするのだが、どうだろうか。

北川絢一郎『泰山木』(私家版、1995年)より。

2026年4月10日金曜日

●金曜日の川柳〔藤井智史〕まつりぺきん



まつりぺきん





マヨネーズ1本分の陽気です  藤井智史

さて、どうとらえましょうか。

マヨネーズ1本まるごと一気に使おうとするとなかなか難しいものですが、一生に使えるマヨネーズがたった1本とすれば、慎重にならざるをえません。

また、陽気も「春の陽気」のような気候・時候なら、限られた、貴重なあたたかさにも感じられますが、陰気に対する陽気のように性格を言い表すなら、それはそれで心中お察しいたしますという気分にもなります。

後者で読めば、場に水を差さないようにと、無理して陽気に振る舞っているようでなかなか辛いものがありますが、こう詠まれるとコミカルに感じられます。

「マヨネーズ1本分」というサイズ感で表すのが、絶妙ですよね(笑)

『十三月の追い風』(2024)より。

2026年4月3日金曜日

●金曜日の川柳〔細川不凍〕湊圭伍



湊圭伍





春の夜の不思議なものに家族の眼  細川不凍

家族のまなざしはそのまま日常の関係だ。お互いによく知っていると思っているから、見ているつもりでも実はぜんぜん見ておらず、すでに観念になっていて、だからこそ、家族として平穏に暮らせているのかもしれない。

掲句では、「春の夜」という漠とした設定によって、一家は少しだけこうした関係から遊離し、即物的な「家族の眼」がすぐそこに浮かんでいる。それは同時に、語り手自身の身体がとりあえずは安定した日常的あり様からごろんと投げ出される体験であろうか。「不思議」とは元は仏教用語で、「人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。」という意味だそうだ(コトバンク)。家族の視線という日常が即「不思議」であるという体験が、この句の内容と言えるだろう。

というような読みをした上でこの句の読み味の核は何かと考え直すとそれは、唐突でかつ日常にはとり立てて影響もなく忘れられるだろうこの認識が、身体を欠いてぽかりと浮かぶ言葉として実現されている事態への驚きである。「不思議なもの」は実は珍しくもないのだろうが、私たちが剥き出しのそれに触れるのは稀である。『細川不凍集』邑書林、2005年。

2026年3月27日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋レニ〕まつりぺきん



まつりぺきん





スナックの隅で宿題してました  高橋レニ

題は「生い立ち」(真島久美子選)。

一読明快で一見簡単そうに見えますが、そう簡単には詠めない句。

川柳の題詠において、ほぼ句の景のみで読ませるには、景の具体性と見つけの驚異が必要で、なおかつ、それを一七音、五七五という形式の制限の中で効果的に表現しなければなりません。

地域性、世代、性別などの影響も受けにくい間口の広さと、物語性・ドラマ性を両立した景を、共感という引き出しから上手く取り出しています。

下五の「してました」の「い」抜き言葉もここでは子供の発話感を強めていて、非常に効果的。

『らくだ忌』第2回川柳大会より。

2026年3月20日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕暮田真名



暮田真名





強い女になろうと蛸の足洗う  樋口由紀子

「強い女」を、ひとまず「自立した女」と言い換えてみる。「自ら立つ」と書いて「自立」である。他のもの、たとえば男性や、家族に頼ることなく、自分の二本の足で地面を踏みしめて立つのだ。

でも、立っているそばから、地面がずぶずぶと沈んでいったらどうしよう。もはや立っていられないほど、ぐらぐらと揺れたらどうしよう。みしみしと音をたてて、まっぷたつに割れたらどうしよう?

人生にはしばしばそういうことが起こりうる。それならば、砂の隙間に潜り込めるような軟らかい足がいい。それも二本では不安だが、八本もあれば十分だ。いざというときのために、強力にくっつく吸盤があればなおいいだろう。

「蛸の足洗う」のはひとまず食べるためだろう。しかし、足を洗うという動作には、相手を敬う、奉仕するという意味もある。どこか蛸への憧憬や、一体化願望のようなものも感じられるのである。

掲句は『樋口由紀子集』(邑書林)所収。抄出を読むかぎり、『ゆうるりと』は「足」の句集です。

2026年3月13日金曜日

●金曜日の川柳〔本間美千子〕湊圭伍



湊圭伍





遠い国のあかい血を見たうたにした  本間美千子

戦争や非業の死をメディアで見て、強い感情を喚起されるのはありふれたことだ。詩的技巧に習熟した人間であれば、情報と感情からたちまち「うた」が成るかもしれない。ただし、出来事を「うた」にしてしまうことについてのためらいを持たない表現は危うくもある。

掲句は、上五での字余りにある溜めから、「遠い」「あかい」「血」「見た」「した」の i 音の連鎖、「見たうたにした」の3連の「た」による締めまで、あまりに見事すぎるリズムで整えられている。「遠い国」とぼやかした設定、「あかい」と「うた」のひらがな、「見た」「した」の過去形も合わさって、くりかえし読むうちに「あかい血」の印象は、まずはメルヘンチックな領域へと回収されていく。しかし、さらに読んでいくと、「うた」へと回収された出来事が、「うた」ってしまった人間にとって取り消しがたい認識、くり返し訪れる疼痛として浮き上がってくる。

ためらいながらであっても、出来事を「うた」にしてしまうことを、分かりやすく称揚することはできない。同時に、ためらいを乗り越えてゆくリズムによって、受け入れがたい事実と共にあることを自らと読者へと突きつける、これこそが詩という体験だろうという気もする。『本間美千子川柳集』(私家版、2005年)所収。

2026年3月6日金曜日

●金曜日の川柳〔森砂季〕まつりぺきん



まつりぺきん





プニヨンマ・プニヨンマ・ンマ・プニマンマ  森砂季

連作「プニヨンマ」の最後の句。

間寛平さんのギャグに「アメマ」というものがあります。(もちろん、芸として発話方法が面白いという部分はあるものの)なぜ「アメマ」という言葉が面白いのかを説明するのは難しいのではないでしょうか。

「アメマ」同様、謎の言葉である「プニヨンマ」は、この連作の中で挨拶だったり、万事休すの意味だったり、姉の名だったり、様々な可能性を示します。

とかく「ロジックが~」「エビデンスが~」と言われる時代、世の中の全てに意味があるという考え方自体が怪しく感じられてきます。

本来、何事にも意味なんてないのに、受け取る側が勝手に意味づけしているだけなのかも…と思わせてくれる一句。

『現代川柳句集プニヨンマ』(2024)より。

2026年2月27日金曜日

●金曜日の川柳〔佐賀山亮太〕湊圭伍



湊圭伍





よくきけばさくら色した鐘の音  佐賀山亮太

鐘の音がどこか遠くから聞こえてくる。耳を澄ませてみると、その音はほんのりと桜色をしていた。

音(聴覚情報)に色(視覚情報)を感じとるというと、「共感覚」という語が思い浮かぶ。ただし、この句はそれとは違う。桜が満開に咲く時期の空気感が、遠くからやってくる音にふんわりと桜色をまとわせている。大きな時間の流れのなかにいることの気づきがここに、俳句の季語のようには整理されていない感覚として保存されているようだ。

「よくきけば」は一見、冗長のようだが、「よくきけばさくら」までのひらがなだけの流れとちょっとした読みにくさ(「聞く」に変換するまでの間)と、それ以降の漢字・体言止めのわずかな重さ(鐘?)の対比もあって、読者を「よくきく」ことに寄り添うことへ誘っている。

音と色彩をクロスさせる句といえば、「海暮れて鴨のこゑほのかに白し」が想起される。「よくきけば」と芭蕉句の「ほのか」(派手な句またがりの技巧性も含め)のどちらがより冗長かなどと、どうでもよいことを考えた。

愛媛・今治の作家、佐賀山亮太(1918-2009)の句は、安野かか志『川柳句文集 二人羽織』(あゆみ出版、2021年)の巻末にまとめられています。

2026年2月20日金曜日

●金曜日の川柳〔翠川蚊〕まつりぺきん



まつりぺきん





ここ 見てて ロバが立てなくなるシーン  翠川蚊

題は「星月夜」。

イメージの幅が広く難しい題で、月は出ていないが星が明るく輝いている夜を指します。
そこにロバという経済動物がいて、立てなくなってしまう光景。

「ここ 見てて」は映像作品を観ながら、視聴済みの主体が初見の相手に対し、これから流れるシーンを注視するよう促すイメージ。

そこには不能へと変化する何かに対する哀感や憐憫とともに、若干の嗜虐的興奮が滲んでいます。

また、差し込まれる一字空けには、どこか未熟な発話を感じます。

漆黒の闇ではなく、少し明るい夜だからこそ見えしまう残酷な何か。

かなりの飛躍を感じつつも、叙情性高く仕上がっており、味わい深い句になっているのではないでしょうか。

「海馬万句合」第二回より。

2026年2月16日月曜日

●追悼・樋口由紀子 週刊俳句関連リンク集

追悼・樋口由紀子 週刊俳句関連リンク集



金曜日の川柳:ウラハイ
https://hw02.blogspot.com/search/label/HiguchiYukiko

樋口由紀子 兼題「金曜日」10句 2015-12-13
樋口由紀子 清潔な靴 10句 2018-12-23
樋口由紀子 もうすぐお正月 10句 2019-12-22

樋口由紀子さんへの10の質問 2018-08-19

樋口由紀子・水に浮く・7句×齋藤朝比古・水すべて・7句 2007-06-03
「水」のあと 2007-06-10
上田信治×西原天気 「水に浮く」×「水すべて」を読む 2007-06-10

樋口由紀子 ハラハラ・どきどき 170本の「金曜日の川柳」 2014-08-24

樋口由紀子 特集【 山田耕司句集『不純』を読む】川柳作家から見た『不純』 おとこまえ 2018-09-09
樋口由紀子 需要と供給 斉田仁句集『黒頭』と望月裕二郎歌集『あそこ』 2014-12-14https://weekly-haiku.blogspot.com/2014/12/blog-post_16.html

柳俳合同誌上句会2020 投句一覧 2020-09-06
柳俳合同誌上句会〔2020年9月〕選句結果 2020-09-13

柳本々々 境界破壊者たち 樋口由紀子句集『容顔』の一句 2014-08-10

小林苑を わたしと出会うための一冊 樋口由紀子『めるくまーる』 2020-11-22
西原天気 頻発するカタストロフ 樋口由紀子『めるくまーる』を読む 2019-09-15

山田耕司 爽快、「理解不能で面白い」という感じ方。 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 2011-05-22
柳本々々 斡旋・素手・黒板 樋口由紀子『川柳×薔薇』のあとがき 2017-01-22
西原天気 親切で誠実な批評 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 2012-02-12

五十嵐秀彦 私性と虚実柳誌『MANO(マーノ)』第15号を読む 2010-04-25

川柳 「バックストローク」まるごとプロデュース号 2010-03-07
樋口由紀子 川柳に関する20のアフォリズム 2010-03-07

2026年2月13日金曜日

●金曜日の川柳〔落合魯忠〕湊圭伍



湊圭伍

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



深呼吸してから海を吐き出そう

落合魯忠

海を体内に溜め込むには、長い時間がかかりそうだ。この句の場合とくに、わざわざ深呼吸してから吐き出すほどの量なのだから相当である。ただ海をたびたび訪れる程度ではなく、海上に浮かびながら久しい過ごすことで、波のうねりが少しずつ、しかし着実に全身に染み入った結果という風だ。

そうして溜まりに溜まった海を吐き出すに至った経緯も気になるが、句はそれは語らない。かろうじて「吐き出そう」に決意が読み取れる。そこには吐き出すことへの無念の思いが、あるいはそれとは逆に、海の重みからついに解放されることへの安堵が伴っているだろうか。句の言葉からはどちらでもないように感じられる。いや、どちらでもあるのか。

あえて読みを絞り込むと、かすかな明るみの感覚が、そのかすかさにも関わらずくきやかに表現されていると思う。その明るみの中に、海を吐き出し、過去を手放す瞬間、この人物の脳裏にひらめいた数多の光景を思う。

落合魯忠『句集 オンコリンカス』(私家版)より(「オンコリンカス」は、魚のサケ科の学術名)。

2026年2月6日金曜日

●金曜日の川柳〔畑美樹〕なかはられいこ



なかはられいこ


※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



くださいください顔上げて言う魚市場  畑美樹

鯖を買いに来たのだ。いや、秋刀魚でもいいけど。お店の人に「ください」と言う。だけどここは市場だ。声は周囲の喧騒にまぎれてしまう。今度は少し大きな声で「ください」と言う。お店の人はまだ気づいてくれない。うう、っと、勇気をだしてうつむきがちの顔をあげる。そして「くださいください」と連呼するのだ。

(ひたむき)とか(一途)いう概念が具現化された、うつくしくもいとおしい一句。

『現代川柳の精鋭たち』(2000年/北宋社)より。