2017年9月22日金曜日

●金曜日の川柳〔山本洵一〕樋口由紀子



樋口由紀子






エレベーターをわたしのために呼びつける

山本洵一 (やまもと・じゅんいち)

エレベーターはボタンを押すだけでいつでもすぐに来てくれる。それは当然のことで、あらためて考えることはなかった。わたしのために黙って来てくれて、希望の階まで連れていってくれる、確かに、ほんとにありがたい。「呼びつけているでしょう」と問いかけられているような気がした。

「呼びつける」というあまり好感の持てない言葉が背景を変えるだけでガラリと変容する。あたりまえのことでも見方を変えると物事は異なった相になる。その一方、誤解を与えてしまいやすい言葉のむずかしさ、ややこしさも考えてしまう。先日、メールのやりとりで思い違いがあって気まずくなったことがあった。幸い、わかりあえたが、気をつけなくてはいけないとつくづく思った。

2017年9月21日木曜日

●自殺

自殺

自殺系空間きりんうるむなり  攝津幸彦

蝶むらさき自殺につけられた理屈  福田若之〔*〕

やがてバスは自殺名所の滝へかな  櫂未知子

月になまめき自殺可能のレール走る  林田紀音夫

二つ三つ不審もあれど春の自死  筑紫磐井


〔*〕福田若之『自生地』(東京四季出版/2017年8月31日)

2017年9月20日水曜日

●昨日は子規忌 橋本直

昨日は子規忌

橋本直


明治35年9月19日は「子規忌」(獺祭忌、月明忌などとも)、旧暦でいうと8月18日にあたる。ちょうど自分がいろいろ俳句を選している最中なので、この句について少し。

  三千の俳句を閲し柿二つ 子規(明治30年)

一読してこの「三千」という句の数字が具体的に何をさすのかよくわからない。わからなくてよく詠んであるのだからリアルな根拠はいらないように思う。〈たくさん〉ほどの意だろう。漢籍でよくやる「万」は俳諧以来のアンソロジーの定番「〇〇一万句」を想起させて「月並」でいただけないし、あまり多いと数自慢の匂いもするので、数と音の調子できめたものだろうか。読者に対するある種の自分らしさの演出、自己演技を感じもする。

実証的な話をすれば、二説あって、一つには『新俳句』(明治30年)の句稿説。『新俳句』を編集した直野碧玲瓏宛書簡で、『新俳句』の版の話題のあったあと、最後にこの句が付してあり、当然碧玲瓏はそう考えていた。

もう一つは、子規の「俳句稿」明治30年秋所収のこの句の前書「ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて」を根拠とするもの。「俳句函」は子規宛に送られてきた投句を収めた箱のことらしい。虚子や『子規全集』16巻の「解題」(担当:池上浩山人)はこちらをとる。

特に池上は後者の方が「自然」(前掲文中)とまで書いているけれども、そこまで言ってよいものだろうか。実際に詠んだときは後者がきっかけだったのかもしれないが、確かに碧玲瓏宛に書いて送ったのだから、そのときはその意味も込めてあったに違いない。要は、子規が同じ句を使い分けたのであって、どっちが正しいとかいうのはナンセンスであるだろう。

子規は句に数字を使うのがけっこう好きなのだが、この「三千~」で始まる句は他に、

 三千の遊女に砧うたせばや (「寒山落木」第二)
 三千坊はなれ\/の霞哉  (「散々落木」第四)
 三千の兵たてこもる若葉哉 (「寒山落木」第五)

がある。

なお、虚子の追悼句「子規逝くや十七日の月明に」では日付のズレがときどき指摘される。子規は19日に日付が変わった頃に亡くなったとされているから、実質18日深夜になくなった。どうやら虚子は、旧暦8月17日の深夜の月を眺めたという意味でこの句を詠んでいる。たまたま新旧の日が近いせいで虚子が命日を間違ってるみたいなことになってしまったのだろう。その理由ははっきりしないけれども、この時なぜ虚子が旧暦の句にしたかは、その後の俳句史を考えると、興味深いことではある。

2017年9月19日火曜日

〔ためしがき〕 塔 福田若之

〔ためしがき〕


福田若之 

町に高い塔が建つ。浮きあがって見える。縮尺に違和感を覚える。けれど、しばらくすると、すこしずつ、町の視界にその塔があることがあたりまえになってくる。まわりの建物も、更地になり、あたらしく建物がつくられていくなかで、塔の存在を前提としはじめる。いつしか、塔は町にとって欠かせないものになっている。

2017/9/19

2017年9月18日月曜日

●月曜日の一句〔正木ゆう子〕相子智恵



相子智恵






十万年のちを思へばただ月光  正木ゆう子

句集『羽羽』(2016.09.春秋社)

前書きに〈映画「十万年後の安全」〉とある。フィンランドのオルキルト島に建設中の放射性廃棄物処理施設「オンカロ」(22世紀に完成予定)のドキュメンタリー映画。〈十万年〉は、放射性廃棄物の放射能レベルが生物に無害になるまでの時間。その時に人類は存在しているのか分からず、していたとしても今とはずいぶん違った生物になっているだろうから(今から10万年前はホモ・サピエンスの生息地域が拡大した頃らしい、そのくらいの時間だ)この施設の意味は伝わるのか……など、その途方もなさに茫然とする。

あまりに途方もないものを生み出し、その未来を見届けることなく、思うことすら無化してしまうような目の前には、ただ月光が茫然と白く映るのみ。月そのものではなく、光だけなのも象徴的だが、そもそも十万年後に月があるのどうかはわからない。

この月光は、いま目の前の光で、思うのもいまの私で〈ただ月光〉という終わらせ方は、その限界をまるごと差し出している。



2017年9月16日土曜日

【俳誌拝読】『静かな場所』第19号(2017年9月15日)

【俳誌拝読】
『静かな場所』第19号(2017年9月15日)


A5判、本文18頁。発行人:対中いずみ。

招待作品より。

虹の輪に機影かさなる添ひ寝かな  小津夜景

以下同人諸氏作品より。

仏間居間寝間と続きて冬椿  満田春日

短夜の箱振つて出す句集かな  森賀まり

あの本もこの本もある曝書かな  和田悠

トロフィーの見ゆる窓辺や夏燕  対中いずみ


(西原天気・記)

2017年9月15日金曜日

●金曜日の川柳〔山田ゆみ葉〕樋口由紀子



樋口由紀子






蜘蛛の巣をかぶって猫はあらわれた

山田ゆみ葉 (やまだ・ゆみは) 1951~

猫が蜘蛛の巣をかぶって出てきただけのことが書かれている。軒下からか天井からか、そんな猫が出てきそうであるが、奇妙な光景である。異様な、それでいてなにやら滑稽な雰囲気が漂う。

「かぶって」だから、猫の意志で蜘蛛の巣をかぶって出てきたように作者には見えて、その堂々ぶりに魅せられたのだろうか。あるいは蜘蛛の巣ごときが頭にあろうとそんなことはいっさい動じない、威風堂々とした猫に惹かれたのだろうか。が、蜘蛛の巣が頭についていることに気づかない無邪気な猫でもある。蜘蛛の巣を取り払わないのは意志なのか、ただ気づかないだけなのか。猫に対する思い入れの差も影響して、その姿を畏怖するか、可愛いと思うのか、全く異なった気持ちを引き出す。猫を比喩として使ったわけではなさそうだが、人間にも当てはまると思った。さて、この猫はどうなのだろうか。「ふらすこてん」(第53号 2017年刊)収録。

2017年9月14日木曜日

【俳誌拝読】『鏡』第25号(2017年9月1日)

【俳誌拝読】
『鏡』第25号(2017年9月1日)


A5判、本文32頁。編集人・発行人:寺澤一雄。以下同人諸氏作品より。

塔老いにけりひぐらしの声のこり  羽田野令

本棚をずらせば汽笛夏めく日  笹木くろえ

虹は水また八分の六拍子  佐藤文香

行く夏を首寝違へし人とゐる  谷雅子

姥百合の揺れて真昼の生欠伸  八田夕刈

ここからが中野サンプラザの日陰  三島ゆかり

禁色や玉子喰うとき殻を剝く  村井康司

ふらふらと来て猛りたる火取虫  森宮保子

砂浜に残る海月のその後見ず  大上朝美

キッチンを灯すと淋し夏の暮  佐川盟子

春山の奥に冬山そこまで行けず  寺澤一雄

(西原天気・記)

2017年9月12日火曜日

〔ためしがき〕 自分の書いた句を読みなおす 福田若之

〔ためしがき〕
自分の書いた句を読みなおす

福田若之


てざわりがあじさいをばらばらに知る  福田若之

僕がこの句を読むときに思い出すのは、《あぢさゐはすべて残像ではないか》(山口優夢)や《紫陽花は萼でそれらは言葉なり》(佐藤文香)のことだ。

像や言葉として理解されたあじさい。それらのあじさいが、まなざしによらない、てざわりというものからの出直しによって、生成変化する。そのとき、それらは、ばらばらなるもの(ばらばらなもの/ばらばらというもの)として把握しなおされることになる。知ることは、もはや、すでによく知られたあの知ることではない。すなわち、断片的なものの組織化による体系の獲得のことではないのだ。知ることは、これはあじさいだ、という認識を獲得することではなく(「あじさいと知る」ことではなく)、むしろ、世界についてのそうした認識を失調させ、解体し、それによって、ある引き裂かれた裸性へと到達することなのである。それこそが、ばらばらに知るということだ。

しかし、そうである以上、ばらばらに知るということについてのこの統合的な認識もまた、知ることそのものの生成変化とともに、ただちに失効するのでなければならない。それゆえ、認識の失調は、この句において、言葉の片言性によって表現されるほかはない。通用されている助詞の機能の失調によって。言葉が、書かれ、読まれながらばらばらになることによって。

2017/9/9

2017年9月11日月曜日

●月曜日の一句〔堀下翔〕相子智恵



相子智恵






田一枚夏といふ夏過ぎにけり  堀下 翔

アンソロジー『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』佐藤文香編(左右社 2017.09)所収

田圃の色は収穫期の黄金色までにはまだ遠いものの、夏の青田とは確実に違う色を見せていて、そこに夏がすべて過ぎ去ったのだという感慨を見出している。田を一枚見ながら、夏という夏が過ぎ去った……と思うのは鋭敏な感性だと思う。

もちろんこれは芭蕉の〈田一枚植て立ち去る柳かな〉を踏まえた知的な句でもある。芭蕉の句には、遊行柳の木陰で西行をしのんで感慨にふけっていたところ、その間に早乙女たちが一枚の田を植え終わって立ち去った…という「時間」が描かれている。

芭蕉がしのんだ西行の歌は〈道の辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ〉で、ほんの少し休むつもりが長居をしてしまったという時間が描かれていて、芭蕉はそこを重ねてみせた。

作者はこの西行、芭蕉と続く「時間」の感覚を、「夏といふ夏過ぎにけり」とさらに大づかみに描いてみせている。少し休んでいるつもりが、一瞬のうちに夏という夏は過ぎ去ったのだ。美しく不思議な感慨である。



2017年9月8日金曜日

●金曜日の川柳〔小島蘭幸〕樋口由紀子



樋口由紀子






宇宙から持って生まれてきたセンス

小島蘭幸 (こじま・らんこう) 1948~

あの人はセンスいいとかセンスわるいとかをわりと軽々しく使う。が、さて「センス」とはなにかとあらためて考えると、原因のわからない、つかまえどころがないものであると気づく。そのどこか理解しがたい「センス」を「宇宙から持って生まれてきた」と言われた途端に、理屈ではなく、どっと広大な領域に連れていかれたような気がした。「センス」の謎が解けたような気になった。

今夏、松江で開かれた川柳大会の兼題「センス」の私の選んだ天の句である。「あっ」と思った。「ああそうだったのか」と思った。あまりいいとは思わなかった私のセンスも「宇宙から」と言われるとあきらめもつき、なにやらありがたく、かけがえのないもののように思えてくる。このように「センス」を捉える「センス」が素敵で羨ましく思う。自分の感じとる目で世界を見ている。(第10回松江市川柳大会)収録。

2017年9月7日木曜日

●螺旋

螺旋

しんじれば螺旋にかはる夏の島  大塚凱〔*〕

螺旋階下りきし人や草むしる  波多野爽波

見下ろされたる
いらだちの
夜の噴水の
爪立つ螺旋  高柳重信

階段の螺旋の中を牡丹雪  齋藤朝比古


〔*〕佐藤文香編『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(左右社 2017年9月)

2017年9月5日火曜日

〔ためしがき〕 仏滅 福田若之

〔ためしがき〕
仏滅

福田若之



きょう、ようやく、『自生地』が奥付のうえでの発行日を迎えた。そういえばと思って六曜を調べてみると、なんと仏滅だった。

六曜のことは、正直、まったく気にしていなかった。またつまらぬ慣習を破ってしまった、とでもいったところだろうか。決して狙ったわけではないのだけれど、発行日が仏滅というのも、なかなかロックな感じで、わるくない。

仏滅にだって、子どもは生まれる。

2017/8/31

2017年9月4日月曜日

●月曜日の一句〔黒岩徳将〕相子智恵



相子智恵






指が指に逢ふ新涼のバケツリレー  黒岩徳将

アンソロジー『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』佐藤文香編(左右社 2017.09)所収

「新涼」や「指」を感じられる余裕があるのだから、このバケツリレーはもちろん、実際の火災現場のそれではない。新涼の季節には9月1日の防災の日が重なるので、防災訓練のバケツリレーが自然と思い出されてくる。

およそ詩にならなそうな〈バケツリレー〉という言葉がこんなに詩的になるとは……と、美しさと可笑しさで印象に残った。

〈指が指に逢ふ〉の淡い恋情からは、学校の防災訓練が想起される。バケツの水をこぼさないように、しかも素早く受け取って手渡さなければならない中で、恋心を抱いている相手と隣同士になった。バケツを渡すたびに指が触れ合う……そんな場面だろう。〈バケツリレー〉という語のまったく美しくないリアルが情けなくて、〈指に逢う〉が眩しくて、情けなさと眩しさが同居する、いい青春俳句だなあと思う。

バケツの中には澄み渡った秋の水が湛えられていて、それも清々しい。



2017年9月2日土曜日

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2017年9月1日金曜日

●金曜日の川柳〔柴田夕起子〕樋口由紀子



樋口由紀子






難儀とは女優の庭に生える草

柴田夕起子 (しばた・ゆきこ)

夏の草取りほど嫌な仕事はない。暑くて汗はふきでるし、虫は寄ってくるし、おまけに雨が降らないから土は硬くて抜きにくい。それなのに人の苦労も知らないで、どんどんずんずん伸びる。草のどこにその生命力があるのかと思う。

女優の庭に限らず、どこの家でも庭の草は難儀である。「女優」とは作者自身のことだろう。なにをもって「女優」と言っているのかは深く詮索してはいけない。「だって、私は女優なのだから、草取りなんてしないのよ」とおどけているのだ。自分の家の庭の草がぼうぼうになって困っていることを洒落て、ふざけて言っている。「難儀」という言葉に可笑しみがあり、「女優」という言葉にユーモアを感じる。「杜人」(2017年刊)収録。