2021年10月29日金曜日

●金曜日の川柳〔飯島章友〕樋口由紀子



樋口由紀子






対岸のささやきVSつぶやき

飯島章友 (いいじま・あきとも) 1971~

対岸は無責任になんでも言う。声が小さいほど聞き取りにくくよけいに気になる。しかも「VS」している。それとも対岸の風の音や川のせせらぎが人の発する、意思の伴った「ささやき」と「つぶやき」が聞こえたのだろうか。それは自分の中にあるモヤモヤしたよくわからないへんなものなのかもしれない。かすかにひと撫でされている。

「VS」の表記が目を引く。「ささやき」と「つぶやき」をいままで誰もこの手で語ってこなかった。差異はあるが兄弟分である。「対岸」で身をかわしているようによそおいながら、「VS」でスポットを当てて拡大している。読みは幾通りにも出せそうな気がする。決着はつかないであろうし、決着をつけるつもりもないだろう。『成長痛の月』(2021年刊 素粒社)所収。

2021年10月27日水曜日

西鶴ざんまい #17 浅沼璞


西鶴ざんまい #17
 
浅沼璞
 

 子どもに懲らす窓の雪の夜     西鶴(表八句目)
化物の声聞け梅を誰折ると       仝(裏一句目)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
雪(冬)から梅(春)への季移りによって雪中梅を詠んでいます。
 
また初裏の折立(一句目)なので表のタブーをいきなり破っています。
 
ごらんのとおり「化物」という物騒な言葉がチョイスされてますね。

これは連歌の時代から「異物の付け」とされてきたもので、たとえば二条良基の『連理秘抄』(1349年)には「常に用ゐざる所の鬼風情の物也」と説明があります。
 
とはいえ(ネタバレ覚悟でいえば)、ここでの「化物」は下女が扮しており、「異物」の度合は低いのですが。

 
句意は「化物の恐ろしい声を聞け、梅は誰が折ったのだぁ、と」といった感じでしょうか。
前句の子どもが貴重な雪中梅を折り、それを懲らしめるため、母親が下女に「化物」役をさせ、おどしているという設定です。

自註を抜粋します。
「雪中の白梅……世にめづらしき折節、知恵のなき童子、心まかせに手折り捨てしを深く惜しみて、下女などおそろしき姿にして色々の作り声させて、母親の才覚にて是をおどしける……」

じっさい絵巻には、母親に抱きつこうとする童子と、それにせまっていく下女の姿が、雪中梅とともに描かれています。染めこみの浴衣をひるがえし、杓子や擂粉木を角のように振りあげ、塗り下駄に赤前垂れの、かなりゆるい「異物」です。

 
では最終テキストにいたる過程を想定してみましょう。

手折られし梅のしつけを下女にさせ〔第1形態〕
    ↓
 梅が香に化けたる下女の声いろいろ〔第2形態〕
    ↓
 化物の声聞け梅を誰折ると    〔最終形態〕

第1形態のままでは「しつけ」が前句「懲らす」に付き過ぎです。
そこで第2形態で「しつけ」を抜き、さらに最終形態で「下女」を抜き、「声いろいろ」を具体化して元禄疎句体に仕上げた、という見立てです。

 
ところで、これら「抜け」の連鎖を、本稿では「飛ばし形態」と呼んできました。
 
そして夫々の付句形態には、さん・くん付けでニックネームもつけてきました。これはシンゴジラを真似たつもりでしたが、そもそも喩的効果を持った付句にニックネームを付けるのは形容過多で、あまり得策ではないと気づきました。
 
なのでウラに入ったのを潮に、ニックネームは取りやめることとします。

「なんや最初の勢いがのうなっとるやないかい。そなたも政治屋、マネとるんちゃうか」

……はい、公約は撤回させて頂きます。

2021年10月25日月曜日

●月曜日の一句〔中村安伸〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




動物園のパンダの近況を伝えるニュースが流れ、街頭インタビューに答える人たちはみな笑顔なのは、この手の報道が、パンダは「かわいらしい」「愛されている」という前提だからであって、しかしながら、パンダについてかわいらしいとも生物種としてとりたたて興味深いとも思わない自分にとっては、画像と音声がただ流れるだけで気に留めることもないのだが、物語にせよ詩句にせよ、そこに登場する事物、まあ、これは話の流れから、生物と限定してもいいでしょう、それはその生き物の、生物学的属性だけでなく、社会学属性もひっくるめ、みながおおむね共有できる内容をともなって読者に伝わる、あるいは、伝わると信じられている。つまり、パンダは、つねに〈パンダ性〉をまとっている。

ところが、そうした〈パンダ性〉、世の中にゆるーく、ふわーっと共有されている〈パンダ性〉という踏み板をずるっと踏み外すように、読者がよろめいてしまう句もあって。

パンダ眠る野球部員に背負はれて  中村安伸

野球部員が背負えるくらいだから、仔パンダ。したがって、パンダ、かわいい! と、むりくり従来的な〈パンダ性〉に直結させる向きもあろうかと存じますが、さすがにちょっと無理筋、眠っている動物はすべてかわいい! という断定も、同様。

つまり、ニュースでよく経験する〈パンダ性〉からは、この句、ずいぶんと遠いところにある。

わざわざこんなことを言うのは、世間に手軽に流通する〈パンダ性〉に(悪く言えば)倚りかかった造作の句も、まあまあ頻繁だから。

それにしても、この句、物語性を強く匂わせながらも事情のわからなさが際立ち、「夕暮なのだろうか」とか「河川敷のグラウンドっぽいな」とか「どこに帰るんだろう?」とか、断片的な思いが気の抜けかけたサイダーの泡沫のようにふつふつ生起するのみで、当初この句の中で存在として突出していたパンダも野球部員も、やがて消え去り、最後は「眠り」だけが残る。

すやすや。

感情の無重力状態の中に放り出された無定形の眠りを提示するためにだけ、パンダや野球部員が駆り出されたのかと思うと、ちょっと愉しくなる。

掲句は『虎の夜食』(2016年12月/邑書林)より。

2021年10月22日金曜日

●金曜日の川柳〔森中恵美子〕樋口由紀子



樋口由紀子






わたくしの顔を占めてる資生堂

森中恵美子(もりなか・えみこ)1930~

化粧水も乳液もファウンデーションも頬紅も口紅もすべて資生堂の化粧品を使っているということを言っているのだろうが、なにやらおかしく、その顔を拝見したくなる。「わたくしの顔を占めてる」という言いまわしの妙である。意味に若干の意外性を含ませながら、一句がスムーズにおおらかに流れている。

それでいて自分の性格を適度に描写している。若い頃から他のメーカーによそ見もせずに、ずっと資生堂なのだろう。たぶん、化粧品だけではなく、美容院も八百屋も人生も。ここと決めたらここにする。融通が利かなくて、律儀、まっとうさが見える。自分の心持ちに寄り添って、川柳にうまくシフトする。

2021年10月18日月曜日

●月曜日の一句〔上田睦子〕相子智恵



相子智恵







老い母のもたぬくらがり実の芙蓉  上田睦子

句文集『時がうねる』(2021.5 ふらんす堂)所載

老いた母は、暗がりをもたない。なんと、美しく哀しい明るさであろうか。

おそらく老いた母は認知症なのだろう。〈もたぬくらがり〉と書けるまでには、介護する側にも、様々な葛藤や苛立ちもあったのではないか。その上澄みの〈もたぬくらがり〉を掬い取るまでの、「暗がり」の時間を思う。

季語〈実の芙蓉〉によって、掲句は神々しいまでの光の中にある。芙蓉の美しく大きな花が咲いたあとの実は、ぽわぽわと白い毛が生えた雪洞のようで、それが〈老い母のもたぬくらがり〉と美しく響きあうのだ。芙蓉の実は目の前の自然であり母の象徴のようでもあり、これほどまでの取り合わせにはなかなか出あえない。Mの音とFの音の繰り返しからも、淡い光に包まれるようだ。

「芙蓉の実」ではなく「実の芙蓉」としたところに、実を見ていながら花へと心が向かう時間の遡りがある。同様に若き頃の母をどうしても思ってしまう、逡巡のようなものも見えてこようか。

掲句は1981年の「寒雷」に載った、第五回寒雷集賞受賞作の一句。散文を中心にまとめられた本書より引いた。

2021年10月15日金曜日

●金曜日の川柳〔前田雀郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






鮎二ひきしばらく焼かず皿の上

前田雀郎(まえだ・じゃくろう)1897~1960

今年の秋刀魚は高騰でなかなか手がでなかった。しかし、一度は食べたい。やっと買ってきて、まな板の上に乗せたとき、ふとこの句を思い出した。まな板であり、二ひきではなく、舞台設定は異なるが、「しばらく焼かず」にいたく納得し、じっと眺めていた。

「敢えて、『二ひき』と数を限ったのは、その美しいという印象を強めるため、余計なものを捨てたのであり、『皿の上』もまた、注意をここに染めるために設けた一つのワナであって、必ずしも眼前のそれをいったものでない。」と雀郎は自句自注でわざわざ書いている。「鮎」であったどうかもあやしい。「鮎」は「秋刀魚」より確かに絵になり、サマになる。しかし、秋刀魚も食べてしまうのはもったいないくらい青く光って、映えている。

2021年10月13日水曜日

●西鶴ざんまい 番外編#2 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#2
 
浅沼璞
 

オモテ序段が終わったところで番外篇の続きを。


番外篇1で「西鶴晩年の連句を老人文学として」読み直したい旨、記しました。
 
その直後、老いに関する文献を漁ろうとしていたところ、Eテレ「100分de名著」でボーヴォワールの『老い』(1970年)が取りあげられるという幸運に出くわしました。

ゲストの上野千鶴子氏はボーヴォワールの『老い』をダシに、説得力ある自説をたんたんと語っていきます。さっそく入手したNHKテキストも平易で、目から鱗。
 
わけても老化を生理的、社会的、文化的、心理的という四つの次元にわけるエリクソン説への言及に蒙を啓かれました。以下、要約します。

まず生理的老いとは、肉体的な衰え。つぎに社会的老いとは、定年退職に代表される社会的な死といっていいようなもの。文化的老いとは、家族カテゴリー上の変化で、江戸時代なら隠居などがそれに該当します。そして最も遅れてあらわれるのが心理的老い。老化した自分を受けいれられないという自己否定感が他の次元とのアンバランスをうみます。で自己同一性の喪失であるアイデンティティの危機が起きる、といった寸法です。


以上を西鶴にあてはめながら考えてみましょう。
 
まず生理的老い――西鶴没(1693年、享年52歳)の前年の春、つまり『独吟自註絵巻』成立の頃、目の不調、筆の衰えを知人あての書簡にしたためています。実はすでにその前年、『俳諧団袋』序では弟子・団水との両吟歌仙二巻について「中々老の浪のよつてもつかぬぞ」と自らの老化による歌仙中断を嘆いてもいました。【注】

社会的老い――やはり『独吟自註絵巻』成立の年、傑作『世間胸算用』をものしていますし、没後続々と刊行された遺稿集を鑑みるに、浮世草子作家としては生涯現役だったかと(俳諧師としての社会的老化に関しては【注】参照)。

文化的老い――自らの眼病を書簡に記した直後(51歳)、盲目の娘を亡くし、独居老人の身となりました。『世間胸算用』で活写した楽隠居とはほど遠い境涯でした。

心理的老い――発句「難波ぶり」前書において「行年五十、口八十、心は十八」と書いています。実年齢は50歳、軽口は80倍、精神年齢は18歳、といったアンバラはまさに「アイデンティティの危機」を感じさせます。老化を自認できない鶴翁の姿がここにあります。

されば最晩年の西鶴が『独吟自註絵巻』において新風の元禄疎句体にトライしたのは、まさにこの「アイデンティティの危機」を克服せんがためだったのではないでしょうか。

「うーん、えらい理詰めやけど、自分のことは自分でもようわからんて」
 
 
【注】
厳密に言いますと、歌仙二巻の中断については、生理的老化つまり体力的劣化だけでなく、社会的な老いをも考慮する必要がありそうです。というのも浮世草子作家としては生涯現役であった西鶴ですが、俳諧師としてはほぼ引退の状態が長く続いていたからです。その間、団水が転居した京では俳風が大きく変化。中断した歌仙は久々の一座だったわけで、すでに元禄疎句体を身につけていた団水に合わせようと「あとより泳ぎつけども、とかく足のおもたく、やうやう歌仙の中ほど、瀬を越す所にして止みぬ」(『団袋』序)といった体たらくでした。このように社会的老化も歌仙中断には少なからず作用していたわけです。これを巨視的にみれば、二万翁西鶴の「アイデンティティの危機」は生理的かつ社会的な、未分化で複合的な老化現象によってもたらされていたと概括できます。よって歌仙中断は重要なターニングポイントで、たとえば野間光辰氏も、「西鶴晩年の俳風の変化推移は、恐らくこの辺(団水との両吟――浅沼註)から始まつてゐるといつてよいであらう」(『補刪西鶴年譜考證』1983年)としています。ふり返れば西鶴の俳壇復帰は、引退という社会的老化を克服するための然るべき一歩だったと思われます。
 

2021年10月11日月曜日

●月曜日の一句〔茅根知子〕相子智恵



相子智恵







本棚の匂ひのしたる茸山  茅根知子

句集『赤い金魚』(2021.9 本阿弥書店)所載

たくさんの本棚がある図書館や古本屋さんのような場所は、独特な匂いがする。日向のような、日陰のような、少しモワッとした甘い匂いだ。

こう言われてみれば確かに、草や枯葉が入り混じり、さらに日向と日陰も混在している茸山もまた、そんな匂いであるような気がしてくる。本棚と茸山とは驚きのあるつながりなのだけれど、同時にすとんと納得できる比喩でもある。どちらも懐かしさを誘う匂いだ。

最初は本棚を思い、そこから茸山へと広がっていく。包み込んでいる世界が大きくて、一読
で不思議な世界に連れて行ってくれる一句である。

2021年10月8日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






しかしもう歯が一本も無いのです

きゅういち1959~

急にこんなことを言われても困ってしまう。作者の哀歓はいっさい書かれていない。さほど気にしていないのかもしれないが、これから歯が一本も無い状態で世界と向き合っていかねばならないのは確かである。

異なった文脈から突然あらわれたような「しかしもう」の間の取り方が巧みで、不意をつかれる。生きている情けなさや逞しさをあっけらかんと極単純なかたちでひょうひょうと表現している。突き抜けてしまった天然性、楽天性があり、シャープでスコンと抜ける。きゅういちの川柳はおもしろくてかなしく、それでいてかわいく、そしてこわい。自己の現在性を鮮やかに浮かび上がらせる。『ほぼむほん』所収。

2021年10月4日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤文香〕相子智恵



相子智恵







ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪  佐藤文香

句集『菊は雪』(2021.6 左右社)所載

不思議な句である。一つずつ読んでいくと「何も無い」のに、残像の切なさが心を締め付けて、心の中にはそれが「在る」。なのに、さらにそれは「消えて」しまうのだ。無いものが消失するという、不思議な句なのである。

こう書いても分かりにくいと思うので、一つずつ見ていきたい。〈ゆめにゆめ〉まず、夢は現実ではない。夢をいくら重ねたところで、実際には何もない。なのにそれを周到に〈かさねうちけし〉で重ねて塗りつぶすように打ち消してしまう。そして菊の句なのかと思いきや、実はそれは雪で、雪は溶けて無くなってしまう。この句からは、折口信夫がすぐれた歌を雪にたとえた「無内容」の論(「俳句と近代詩」)も思い出す。

〈菊は雪〉はぱっと見、ずいぶん乱暴に組み合わせた断定のように思えるのだけれど、雪は古くから「六花」と呼ばれていたし、菊と雪はそれほど遠くない断定だと私には思われた。〈菊は雪〉から、私は古くからある「雪輪」という文様を思い出した。雪輪文は雪を図案化した文様で、円形のような六角形のような不思議な形をしている。顕微鏡がない時代にこの文様を初めて作った人は、雪をじっと観察し、その結晶が六角形であることを薄々と理解したのであろう。結晶という顕微鏡でしか見られない姿と、実際に肉眼で見える雪の丸さ、さらにはそれが溶けた水滴も思われてきて、一つの文様の中に「見えないのに在る」という視点が何重にも隠れていて、不思議であり、好きな文様だ。

だいぶ脱線してしまった。この表題句のように、無いものを言葉で立たせようとする思いと、そして、やはりそれが無いのだと思わせてしまう切なさがこの句集にはある。手数が多い句集で、いかようにも切り取り方があるのだけれど、私はその中でも以下のような、純粋な思いが性急に表れている句こそが、個人的にはこの人の真骨頂だと思っていて、ぎゅっと心をつかまれてしまう。

みづうみの氷るすべてがそのからだ

言へばいいことの氷つてゆくことの

雪降ればいいのに帰るまでに今

今週の今日のいてふの降りかさなる

桜また来るから桜忘れていい

これらは、言葉が立ち上げた景色が、今この瞬間のどうしようもないくらいの切なさと直結していて、破調のリズムがそれを加速させている。あとがき代わりの句集制作日記の中に、〈日本語の姿や音に意味内容が勝つのであれば、定型詩を書く必要はない〉とあって、それがこの作者のステートメントなのだと思うのだけれど、これらの句には、日本語の姿・音と意味内容の勝ち負けではない融合があって、しかもこの作者にしか書けない痛みのようなものが透けて見えている。この作者の句の中では、私はいつも、こういう句に落とされてしまうのである。

2021年10月1日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






散らかったままのAV女優かな

きゅういち(1959~)

「散らかったまま」とあるから「AV女優」はビデオのことだろう。自分の部屋か友人の部屋か、ふと目にとまった。しかし、それは自嘲とか、片づけなくてはとかの類ではなく、たとえば庭の椿が落ちているのを見たときと同質の、一瞬の純度と一抹の猥雑さが交じり合ったものを感じているようである。

写生なので伝達性は確実にある。見たままをただとつとつと書く。それでいて、自分の一部分からすべてに至るまでを提示している。「AV女優」の象徴力と「散らかったまま」という距離の取り方は絶妙で、何気ないはずの光景がクリアに浮かび上がる。『ほぼむほん』所収。