2011年6月30日木曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】「渇水期」をめぐって

【裏・真説温泉あんま芸者】
「渇水期」をめぐって

西原天気


いやあ、暑いですねえ。昨日29日は、6月としては観測史上最高気温を各地で記録したそうです。

暑くなると電気が足りなくなってヤバいってな文言がテレビ新聞で頻繁に躍っているわけですが、昔は、水のことをよく言ってました。ダムの貯水量がどうとか、香川県の溜池の水位がどうとか。

で、「渇水期」の話。

このあいだ某所で「渇水期」という≪季語≫が話題になりました。

渇水期を辞書で引くと、「渇水の時期。また、夏など、供給量が増大し水不足になる時期。」(デジタル大辞泉)。渇水とは「雨が降らないため、川・池沼などの水がかれること。」(同)。

日本各地の降水量を見ると、雪の多い北日本を除けば、夏に多く、冬は少ない。渇水期は冬ということになります。

一方、夏になると水をよく使うので、供給不足になる。だから、夏=渇水期ということも言える。多く降っても、それ以上に使うから渇水する。

つまり、渇水期とは、冬だったり夏だったり、場合によって地域によって異なる。

そこで≪俳句的≫には、どうかというと、例えば、講談社『日本大歳時記』で「渇水期」は冬の季語「水涸る」の傍題として載っている。北日本以外の降水量に従ったかたちです。

ついでに角川書店『合本 俳句歳時記 第三版』をめくると、「渇水期」の立項が(副題としても)ない。季語には含まれないというわけです。

試しに角川書店『季寄せ』、これ、いつもカバンに入れてんですけどね、ここには、なんと、春のところに載っている。春?

ありゃま、という感じです。

で、例句が、

  星とんで星数多なる渇水期  山崎ひさを

え? これって、秋の句じゃないの? とまたもや吃驚。「星飛ぶ」は「流れ星」のことで、秋の季語と解していましたよ(『日本大歳時記』では「流星」の副題。三秋)。

とまあ、渇水期という≪季語≫をめぐっては、このようなカオス状態となってしまったわけです。


渇水期といった限界的な例はあまり多くはないでしょうが、「歳時記に載っているから季語」「載っていないから季語じゃない」といったナイーヴな≪歳時記原理主義≫がどこでも通用するわけではないようです。季節は歳時記に添って移り変わるわけではありません。

だいいち、原理主義というからにはスタンダードなテキスト(「すべての俳句はこの歳時記に準じます」といった規準)あるいは統一原理が必要なわけですが、そんなものは存在しないわけです。

なにも歳時記を軽んじるとか季語が不要だとか現代には現代の季語や歳時記が必要だなんて言ってるのでありません。季節にまつわる語について、この季語はその季節か、さらにはその句が有季かどうか。こうした≪判定≫は、俳句というルールのある遊びには(さほど重要ではなくとも、やはりどうしても)付き物ですが、「歳時記にはどう書いてあるか」などという手軽な方法・手順だけでは判定しきれませんよね、という話。



それと井田さんは、もっとシックな服装のほうが似合うと思うのですが。

2011年6月29日水曜日

〔今週号の表紙〕第218号 倉田有希

今週号の表紙〕
第218号 

倉田有希


あまり知られていない話ですが、紫陽花の葉には毒があります。摂取すると過呼吸やふらつき、吐き気、麻痺、そして死に至ることも。葉の表面に毒はないので、触れたりしても害はなく、食べてしまうと危険な訳です。実際、料亭で添え物に出された紫陽花の葉を食べて中毒を起こした事例があります。紫陽花の葉には青酸配糖体が含まれていますが、これはごく微量なので、他の物質による可能性も指摘されています。トリカブトやスズランの毒性はわりと有名ですね。また、チューリップやシキミ等、身近に有毒性のものもすくなくありません。夾竹桃はその枝を箸代わりにして中毒を起こした事故があるそうです。写真は横浜の三渓園にて。


2011年6月28日火曜日

●10句競作(第1回)応募作品

10句競作(第1回)応募作品


本日628日(火)21:00より、審査選考ライブの第2回
6月23日(木)で終わらなかったぶんを引き続き。

感想etcはご自由に(≫コメントの書き込み方
23日の審査選考ライブを待たずとも結構です。

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623日(木)22:00より当エントリーのコメント欄にて。
五十嵐秀彦、関悦史、神野紗希3氏による審査選考ライブ
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【01 垂乳根】

飲み干して思ふことなし夏の水
肉は肉骨は骨なる更衣
あるときは妻の昼寝を見てゐたる
どこからかピアノどこからか夏蝶
風鈴や人はかの世にあこがれて
蝉時雨浴びる言葉を浴びるごと
動きやすき人の林や夏の雨
拭ふものなき唇に西日さす
たらちねの母のよろめく冷酒かな
噴水が人の代はりに立つてゐる

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【02 おかあさん】

青梅青梅青梅青梅だ
海亀の跡なんめりと砂平ら
年々に褌の減る海開き
我が影を袈裟懸けにして蟻赤し
あら嫌なおかみさんだね梅雨入だね
少しばかり押されてくぐる茅の輪かな
ナイターや遂に代打のあの男
さてこれは毛虫入れろといふことか
黒く黒く海はありけり修司の忌
明易きかなにつぽんのおかあさん

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【03 てろりる】

缶コーラプシュり鳩尾解放す
白無垢の棺有桝女郎蜘蛛
金輪際練乳苺唯物観
夏蝶に狙われている狙撃兵
金魚玉かつて火の玉たりしこと
鎌首を擡ぐ少年蛇使い
心臓のザフザフと噛む夏あざみ
夏痩身桃色豚形貯金箱
脳幹注入トニックシャンプー髪洗ふ
海胆の棘てろりる物体Xる

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【04 ラプソディ】

フクシマやアウフヘーベンと泣くアトム
吉良常も飛車角も非在鳥帰る
松島や草間彌生の鯨跳梁
山羊汁に古酒(クース)ほらほらほらイサク
マティニー二杯奥さん鯨は帰ります
来い来いメッキーメッサ向日葵くわえ
海の青空の青飛魚韜晦す
飯蛸の飯食めば緑なす鐘の音
山羊祀る夕陽はよう鎮まりなされ
ミモザ咲きましたかと耳なし芳一

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【05 おのまとぺ】

ツイッツイッチィー。夜明けの唄は。ツイッツイッチィー。
とこぱったむ。とこぱったむ。とことつん雨。
天突く突く天突く突く天天突く傘傘傘
いやあんやんまあええやん猫発情す
うっゲホゲホくっゴホゴホ仮病ですゴフッ
るららるらてぃららてぃらてぃら新品のすかあと
たんまりとすたすたすったかすりりんご
ちちちちちちちちちちちちちちち膣
郵便受けがすたんきゅうぶりっくと軋んだ
玉砂利砂砂利玉砂利砂砂利。煙管ココン。

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【06 百八】

パソコンのうちにかたへに扇風機
五月雨や鍾馗の髭も枝毛にて
家路なり多分梅酒の待つてゐる
満遍無く莢焦がされぬ蚕豆
新じやがの皮貼り付くや塩の粒
短夜や疲れの色は黄金とな
強力や百八本の缶ジュース
置物の狸空見る薄暑かな
妻も子もゐずや中州へ川遊び
腰骨の日灼け具合を較べをり

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【07 青嵐】

おぼろからついに朧がはみ出しぬ
きもちよささうに曲りて春の川
洗濯機回転すれば緑立つ
青田青田に風神も雷神も
新聞紙突如蝿叩きになりぬ
夏すでに錆び街角がひりひりす
影に入りても鉄骨の暑さかな
白日傘バリアのごとくひらきけり
消えさうな片陰ばかりつづきけり
青嵐ここに神社があつたはず

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【08 梅雨の蝶】

天井の龍の墨絵のさみだるる
夏みかん畑仕事はひとやすみ
中空へ蔓はゆらゆら青葡萄
蜘蛛の子のお家はすでに散り散りに
梅雨の蝶まだらにゆるる斑の目
あめんぼの大きく映る池の底
畦道のなかを歩いて蛇苺
ぐつしよりの新聞を剥ぐキャベツかな
夕立の隅にころがる松ぼくり
梅雨の夜のごきぶりの家たててをり

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【09 雌でせう】

はんざきの姦といふ字の頭かな
終日若葉終日駐車場係
あぢさゐを雲と同定せし淑女
子午線をはみ出すカギの救急車
梅雨空やクレーン車なら雌でせう
カムチャツカ沖へパピコは行つたのだ
ほんたうの父やソーダ水が下品
チューペットに鋏の味のして帰省
撫子咲くなりすでに裂かれてゐる
れもん汁にてみがかれし赤恵比寿

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【10 この夏】

作品に蛍光りて故郷想う
不器用は食わず嫌いか夏魚
君想う節電の夜に蛍飛ぶ
雨雲を琵琶湖で絞り送りたき
夕星(ゆふつつ)願う此岸彼岸の橋渡し
津津に波此岸彼岸を繋ぐ筒(つつ:星)
網の上津筒星(つ、つつ、ツツ)の謎泳ぐ
焼酎の瓶に生けたり水中花
和蘭陀と豪雨を憂う日曜日
ジャポニカの緑のいのち壱萬年

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【11 南吹く】

つま先に触るる卯の花腐しかな
青柿のふへてゆく夜の月青し
袖口の裏がへりたり洗ひ髪
板敷きの同じところを踏む跣足
青嵐見れば川面を渡りけり
赤鱏の静かに沈む地下通路
花槐気泡含みし窓ガラス
柴垣の反対側の桑いちご
瑠璃色の指先土用蜆かな
半袖のかひな白かり南吹く

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【12 フクシマ】

誰がために原発あるや春の惨
福島はフクシマとなり春の空
阿武隈の山越へきたり蟻の列
避難所を変はり変はりて聖五月
蜃気楼三十キロ先の原子炉
原発の風重たきや夏の昼
炎天や作業員の影被爆せり
夏椿逃げて捨てたる故郷の地
卯月野のふる里に黒牛の群れ
父の手に抱かるる夢や夏の海

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【13 微熱】

青梅を煮たるその夜の微熱かな
斑猫を見失ふ六道の辻
鶏の木に上りたる薄暑かな
古書市の紙魚多きもの漁りけり
衣更へて薬の花の咲く樹下に
桃色の干菓子を舌に梅雨の底
波音を吸うて仙人掌咲きにけり
草笛を吹くや潮気の濃き風に
海藻の貼り付いてゐる簾かな
夜涼みや消毒したる舟の上に

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【14 ゐなくなる】

いっせいに少女隠るる茂みかな
一輪車置く薫風の通り道
新緑のなかにもう揺れない木馬
思ひ出の中ではいつも夏帽子
噴水が卵の中にあったころ
玉葱が空をうづめて聖五月
あめんぼは水が嫌ひで空が好き
蚯蚓さかんに跳びはねてをり怖し
またがってひみつのびはを食べようよ
雨音が巻き取ってゆく昼寝かな

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【15 しるし】

またたけば海になりけり夏の川
音をきく背中に鮎の釣られをり
かはせみの彼方より水近づきぬ
あのへんにひとかたまりにゐる河鹿
滝までの道にしるしのやうなもの
渓谷や空のちひさく過ぎるころ
ひとつ忘れて山滴る森滴る
切り株をむかしの夏の蝶が去る
山あひ見えてかはほりはまだゐない
白よりも白き滝なり軽からず

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【16 虫笑・蝶笑】

尺蠖の空を探って立ちん坊
掃除するだけに生まれた蟻ってわけか
でで虫に人身事故のアナウンス
赤とんぼ赤くなれずに山にいる
十五音譜くらい欲しい蝶だね
蚯蚓だって死ぬときゃ天を仰ぐさ
とんぼうが石に抱きつき齧ってる
息かけて薮蚊を空に返そうか
手の平で重さ失う天道虫
癌に効く話は聞かぬ蚯蚓だな

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【17 竹婦人VS. 】

竹林の賢人娶る竹婦人
綾波レイ発進青葉風過ぎた
一線をどこまでとする竹婦人
六月の宝石箱の目玉親爺
かぐや姫産みしはむかし竹婦人
海霧やゴジラ生まるる放射能
しなやかやないすぼでえや竹婦人
お花畑初潮を知らぬちびまる子
棹竹に思ひを寄せる竹婦人
日射病のだめのだめな恋のごと

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【18 マーベロン28】

死ねばいいのにひとやまの蕗の薹
鳥交るつけまつげ用接着剤
春闌液もれしてる万華鏡
風光る幼い姉の枝毛なども
初夏の四角い匙を舐めさせる
なんておおきな苺を摘む昼の恋
梅雨寒やたんすの上に薬箱
令嬢めく小指に蟻を這わせれば
ふとももの涼しきひとや格闘技
花火だいすきにんしんはのぞまない

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【19 ひよいとチヂミを】

波音に驚く赤子合歓の花
蟻の列見えぬ軍旗を翻し
模型屋の風鈴に舌なかりけり
予鈴鳴り田植えの上を谺する
黄鶲やひよいとチヂミを裏返し
菖蒲湯の寝返りを打つ菖蒲かな
全身で梅干の緋を味はへり
毛先から砂となりゆく水中り
羽抜鶏ときどき天を突くなり
鮎釣りのまだ暇さうな左の手

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【20 化石の旅】

春行くや巫女は理学部数学科
春の暮見飽きても見るサザエさん
コンテナを五月の空へぶら下げる
新緑や女ばかりの形見分け
六月の母を背負うて二階にあがる
沖縄の空の青さを豚喰い尽くす
水底で木の葉化石の旅につく
冬の夜の絵本で熊が殺される
山眠る河童は公民館の裏
冬銀河階段下の悪だくみ

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【21 魚眼望遠鏡】

キドナップきゅうにはじまるむぎばたけ
あすてかは浮きがいっぱいみなみかぜ
まぶしくてみやこの鮎はのこすもの
あこがれのあねにひるよる四日間
めきしこはしちみまみれの父である
きんぎょばちきんぎょのゆがみひめくりで
まぼろしの鱏のうらがわ頭脳線
しゅもくざめ天才のメスぬすまれる
象たおれ少年少女合唱団
むしたちのせいきあつまる虫星雲

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【22 黄身】

福わかし湯玉の音はFかG
老犬の漆黒の鼻鳥総松
破魔弓をアクアリウムに立て置きぬ
くされ潮人形浮かべたゆたゆと
初午や疎水に沿ひて稲荷駅
麦笛を憶えてをりぬ両の耳
亡きひとの愛書の上のサングラス
壁と床ひといろの居やそぞろ寒
水槽に動かず万価のずわいがに
寒波来白飯のうへ黄身が顕つ

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【23 またあした】

日盛りやツルハシ置きて雪隠へ
雨しとど満員の船夏に入る
二階へと木がのびている昼寝かな
少年の足投げださる冷奴
自転車のかごのあやめに誰か来る
上履きの歩道の蟻をもてあます
懐に絶滅のトラ五月闇
君が息止めているうち夏の海
向日葵のくろこげのもとまたあした
緑陰を行くどこまでもどこまでも

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【24 メインイベント】

溽暑へと戸を開け放つ格闘場
兵馬俑の兵のごとくに南風受く
訳有りの過去ある如くサングラス
夏の夜へジェット風船飛ばしけり
隙間無くタトウされたる素足かな
麦酒干すメインイベント始まりぬ
立ち技の攻防となり夏の月
寝技また汗に滑るやタイトル戦
試合果つアロハに着替へ格闘家
晩涼や荒野めきたる埋立地

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【25 誰のものでもない金色】

秋の田の誰のものでもない金色
数寄屋橋アスパラガスとすれ違う
雨蛙アジサイ・テラス#三〇五
熟れた桃わたしの横顔かもしれぬ
グラスホッパー今日の予定に雨宿り
秋霖や革靴履いた大男
秋は影もグレーの長くて滑稽な
ふたりいて別の夜長に埋もれおり
灰色の空も好きだよネコヤナギ
クツクツとカレー煮ている初閻魔

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【26 さなぎ】

KARA踊る児ラッパ水仙板塀に並び
満腔(まんこう)の春泥本籍地の公園
ウロウロしてさなぎのような家(うち)に会える
放置レタス確かに三個雲の気分
眉薄くヤギの愛舎(あいしゃ)に立っている
携帯は沼ワニ母現在育児中
城のごと夕日を重ね裸足の蠅
緋色の土イタチと雨を聴くあいだ
宵ツツジ松にこけ伏す吾が犬は
切り立てんアゲハ蝶らナタデココ持ち

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【27 歯が生える】

乳を呑む夢見てをるや蛙鳴く
立葵バギーの高さより咲きぬ
ナイターの歓声に泣く赤子かな
桃のやうな歯茎に現れる歯の形
嬰児の笑まひ扇を使へとぞ
口開けて扇の風を受くる嬰(やや)
ミルク飲みながらに汗を掻いてをり
うつ伏せの嬰の後頭の玉の汗
二人目を身籠るらしき薔薇香る
八月の六日へ向けて工事中

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【28 アトムの胃】

一月やぱつかと開くアトムの胃
鉄人の鼻とんがつてやや寒し
朧夜のじやんけんグリコチョコレート
ベルサイユだけど気分はミヨソティス
桑の実を食うて火の鳥こんな口
麦藁の海賊団だ夏帽子
ドラえもんのポケットに入る西瓜かな
キャンディのそばかす結ぶ星月夜
糸瓜ぶらりぶうらり使徒が来襲す
のらくろの台詞のやうだじふにぐわつ

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【29 水】

水無月の飛沫模様の色紙かな
燦燦と日の降り注ぐ水中花
若竹や水琴窟の音かすか
万緑のひかり閉ぢこめ水晶体
精密な海賊船や水遊び
水筒の名札ひらがな姫女苑
踏切を越ゆる潮風ソーダ水
あめんぼのまた戻り来る水溜り
水色の紫陽花浮かぶゆふまぐれ
夕闇が原材料の水羊羹

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【30 薔薇色】

新緑の裏ぶううんと空調機
夏空を借りて東京モノレール
薔薇色の未来をあをき薔薇に訊く
噴水は枯れ血をもつもの地下に
のきのきとタワー虹へは届かざる
明易の二十八時のヘッドホン
紫陽花へ滑り込みたる逆走車
緩まざる螺子のざわめく梅雨入かな
ででむしの大好きな人大嫌ひ
紙袋がざつと麦の風捨てた

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【31 ビクターの犬】

マネキンの足組み替へる薄暑かな
枇杷種を吹ひて夕風起こりけり
横丁にビクターの犬ラムネ抜く
少年の声はソプラノ河鹿鳴く
解散は泰山木の花暮れて
山ガール固まってゐる濃紫陽花
五月雨や河童を祀る奥社
ペディキュアにラメ入る夏や鹿の糞
遠き日の脛の白さを蛍の夜
羅や跳ね橋あがる時を待ち

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【32 フド記】

風呂敷の中の秋風年経たり
水母の頭二つに飢えが来て去りぬ
ことごとく墓の前にて息白し
燐寸費す汝寒椿をへだて
燕子花たましいながらムラサキに
鳩冬に不確かなもの啄むや
まなこみな薄紫の神の旅
善人は遅れて来たり寒卵
季節外れベンチおのずから倒れ
地下鉄を乗り継ぐ日々も枯れゆくに

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【33 夏至南風】

朧夜のテールスープの白髪ねぎ
軍艦のごと熊蜂の迫り来ぬ
行く春や雨やり過ごす牛丼屋
嶺颪に鳥大ひなる端午の日
水貝や東京は玻璃ちりばむる
梅雨寒の実験動物室匂ふ
鳥啼いて鳥啼き返す夏座敷
三種盛りなれど五種来て夏至南風(かーちばい)
宛がひて包丁と茄子照り合へる
身の内に森あり滝に濡れ尽くし

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【34 うみねこ】

荷造りの紐の足りない昭和の日
長袖のはみ出す鞄夏隣
余花の地に入るや新幹線静か
張り初めし田水や空をよろこばす
朝凪や砂利青白き線路跡
海恋しからう烏賊釣船解体
浦風を含みし夏シャツの重さ
サルベージ船が薄暑の海つかむ
うみねこの糞たくましく降り来り
夏潮をなだめて夕日落ちにけり

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【35 みづ】

水責の水壺を泳ぐ蟾蜍
時間が壁の高いところにある白夜
ゆふだちを孔雀は「兄(けい)」と告げ渡る
高きより橢円の中に夏尿
羽抜鳥の首に繃帯くれなゐの
河口あれば河尻のある鰻かな
夏雲に端切を當てて粗く縫ふ
つめたさの朝寝の死者の白枕
父の乳首吻ふ母ありき蜜豆来
さいでつか納戸に棲まふ竹婦人

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【36 枇杷の実】

六月や靴の踵で描くベース
口癖は一事が万事茄子の花
枇杷の実に工事の足場触れてをり
サングラスとことん手話で言ひ負かす
人間としては失格さくらんぼ
梅雨の月会議の窓に現はるる
眠る間も血は巡りたるえごの花
夏富士やバケツ鳴らして牛の乳
黒板にヘロンの公式窓に蜂
夏空へ助走短く跳びにけり

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【37 いびつ】

ウヰスキー色の仏陀やひこばゆる
造られて公園となるチューリップ
松いびつ桜が咲けば人の出て
手も足もある春の雲あふぎけり
花は葉にものかんがへるときの口
よき午後や薔薇の味するヨーグルト
一匹の蜘蛛を降らせて松の木は
タクシードライバータクシーを背や遠花火
卓上に魚肉ソーセージありけり紫蘇乾く(「魚肉ソーセージ」に「ギョニソ」とルビ)
ひとにうなじあり颱風が来つつあり

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【38 明滅】

かたつむり雨を痛がる地球の子
明滅や夕立を少女は絶対
蟹追う犬空間が混み合っている
紙で創る世界海月の王も紙
鉄塔をひとするすると日雷
飛魚を食い強運をもてあます
実母義母金魚静まりかえる雨後
帆立貝とみじかい手紙敬称略
ひけらかす死のかりそめを明るい雨季
薔薇を見るあなたが薔薇でない幸せ

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以上 38作品

2011年6月27日月曜日

●月曜日の一句 相子智恵


相子智恵








赤ン坊は闇の塊り砂糖水  男波弘志


『詩客』6月17日号「大道大乗歩行―芸能芸術起信考―【二】「闇と釦」」より。

私は仏教に詳しくない(ほかの宗教にも詳しくないけど)ので「大乗起信論」でも読んでみたら、また鑑賞が変わる句かもしれない。

でもまあ、そういうことに関係なくフラットに読んでみて、この句の「闇」はいいなあと思う。

同時作の〈六月の闇には臍のなかりけり〉〈船虫や膝の裏にも闇溜り〉も気になる句だが、なぜこれらの「闇」がいいと思うのかを自分なりに考えてみたら、それが有機的だからだ。

空っぽの闇ではなく、充填された闇。エネルギーが渦巻いている感じがして、真っ暗なのになぜか、めでたい。

それが〈赤ン坊〉や〈臍〉や〈膝の裏〉といった肉感的な語の働きによるのは、言うまでもない。さらに〈臍〉のない〈六月の闇〉のぷっくり膨らんだ質感や、〈闇溜り〉という過剰な闇の質量。

それにしても掲句の〈赤ン坊は闇の塊り〉は鷲掴みだ。エネルギーそのものではないか。〈砂糖水〉にもベタベタとしたエネルギーがあって、妙に心に残る。


2011年6月26日日曜日

●蚊柱

蚊柱

蚊柱の穴から見ゆる都哉  一茶

蚊柱にゆめのうき橋かゝる也  其角

この家の蚊柱にして傾けり  佐々木六戈

蚊柱を抱きて三ノ輪の女哉  間村俊一

どの蚊にも絶景見えて柱なす  高山れおな

2011年6月25日土曜日

●週刊俳句・第217号を読む 藤 幹子

週刊俳句・第217号を読む

藤 幹子


ほー、とか、へー、とか言っていたら話にはならないのだけれども、今回の週刊俳句・第217号を読むにつけ、私はほーとへーを連発する機械に成り下がっていた。(大概そうだという話もある)これだけ読み応えのある回とは知らず本稿を引き受けてしまった事に怖じ、日曜日は己を叱咤することから始まった。

それにしても、青木亮人氏の論考は、なんと読みやすいのだろう。(週刊俳句 Haiku Weekly: 彌榮浩樹「1%の俳句―一挙性・露呈性・写生」再読 有季定型と「写生」は結婚しうるか(1) 青木亮人

冒頭でまず「批評」という事そのものを説く、それにより、本論にどう接していけばよいか心構えをさせてもらえる。日頃から接する機会の多い人ならばともかく、私のような普段そういうものを読みつけない人間にとっては、研究文・評論文などに類するものに対峙したときに、根本的な事があやふやなままな事がとても多い。

今回「批評」について「断言の魅力」、また「多くの批判と誤解にさらされそれ以上に巨大な無関心に包まれようとも、取りかえの効かない、切実で、緊迫した「文学」像を読者に訴えようとする、その存念が文体に宿っていること」を文学研究においては迫力とも魅力ともする、と書かれた事で、すとん、と納得し、その後の展開において書かれる、「彌榮氏はなぜこのような書き方を選んだのか」がすんなりと頭に入ってきた。

そして「多くの批判と誤解に~「文学」像を読者に訴えようとする」という文はそのまま後段の彌榮氏及びかつての子規の切迫感にかかってくるわけで、先を読み進めながら前段に述べられていたことの理解をさらに深めていくという快さを味わうことができる。子規と彌榮氏の立ち位置の相違、「写生」というキーワード、まだ本稿では言及されていないことにも興味は尽きない。

話題に興味はなくもないけれど、長そうだから読むのはやめておこう、というような方がもしもいたならば(そんな事を言い出すのは私ぐらいなのか?)ぜひ食わずぎらいせず読んでいただきたい。

しかしまたしても私は自分に驚くのだ、どうにも狭い考え方から頭を出せない自分に。

俳人の多くは決して、「文学」および一般世界において、俳句が歯牙にもかけられていない、あるいは通り一遍の理解しかされていない、という事を忘れているわけではないだろう。むしろよくよく知っているからこそ、外へ向けて発信する徒労をやめている。では外の世界は外の世界でやって貰おう、我々は我々で楽しむ、解る人にだけ解っていただければいいんですよ、と。故に、俳論はほぼ俳句実作者にむけて書かれるものであるし、作品もまたそうである。

それはどんな趣味の世界でも言えることであり、悪いことだとは思わない。事実私はそんな閉鎖性を愛している。

ただ、閉鎖性を愛するからといって、そのジャンルを外の世界へ表出させようという試みに対しての想像力まで無くしてしまうようではいけないと、今回強く感じた。何となれば私は、彌榮氏の評論に、「なぜこのように書いたのかわからない」という思考停止状態に陥る事しかできなかったからである。(それはおまえさんの理解力が足りないだけだ、との声が響き渡ります。ごもっとも。)

迷妄する私にとって、青木氏の研究者としての冷静な目は確かな道しるべとなった。「これを針でもって瞼の内側に記しておいたならば、これを恭しく読む者に一つの教訓となるであろう」という千夜一夜物語に繰り返し出てくる一節を思い出しながら、次回の記事を楽しみに待っている次第である。


時評について、悲しいほどに何も書けない事に恥じ怖じている。(週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句時評第36回 吉野の花見 角川春樹『白鳥忌』に思うこと  五十嵐秀彦)全く芸のない感想しか書けない。つまり、とても面白かったのだ。

森澄雄と角川春樹。また、山本健吉、中上健次。「吉野の花見」という場に居合わせていた人々それぞれの言動を節度をもって追いながら、そのバックグラウンドにあろう、折口信夫、角川源義という巨人たちへ思いを馳せる。この短い文章の中で、彼らの軌跡に対しての筆者の愛惜をそこここに感じる事ができる。それがどうにも胸に迫るのだ。不勉強の私は彼らの著作を一つとして読んでいないが、五十嵐氏の文章にそっと寄り添ってみたいが為に、チャレンジしようと思うほどである。これもまた、必読。


おしまいに、10句作品より好きな句を。この乾き方はとても好きです。(週刊俳句 Haiku Weekly: 10句作品 村上鞆彦 海を見に

  まだ息の絶えざるものに蟻たかる

  郭公や水切りかごに皿が立つ

2011年6月24日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







かの子には一平が居たながい雨


時実新子 (ときざね・しんこ) 1929~2007


雨が降り続くと気分が重くなる。洗濯物も乾かなくなり、家の中も心の中もじめじめとして、うっとうしくなる。うっとうしくなるとうっとうしいことが頭をよぎる。時実新子は「川柳界の与謝野晶子」と言われたが、新子自身は晶子よりスケールの大きい岡本かの子に憧れていた。そして、何よりも妻の才能を誰よりも認め、伸ばしてくれた岡本一平というが伴侶がいることが羨ましかった。かの子には一平がいた、それに比べて私はどうだろうか・・・。川柳はモノとモノとの関係性からではなく、モノやコトを自分との関わりの中に引き入れて一句にする。降りしきる雨を見ながら誰にあたるわけにもいかない。『月の子』(たいまつ社 1978年刊)所収。

2011年6月22日水曜日

●週刊俳句・第216号を読む 野口る理

週刊俳句・第216号を読む

野口る理

「詠む」と「読む」は似ている。

手元の広辞苑で調べてみても「よ・む【読む・詠む】」とあり、
「読む」と「詠む」は、一項目に同居している関係だ。

「詠む」とは言語化されていないものを「読む」行為だと言えよう。
たとえば風景や心情など、眼前の未言語を「読む」行為である。

「未言語状態のもの」は、
人間が詠まずともただそれとしてあり、完成しているものである。
それを言語化することは、その本質を変形させてしまう行為でもあり、
そこに構成された「言葉」が本質以上のものであるとは限らない。
それでも我々は、詠んでしまう。

「作品」を「読む」ことも同じである。
「作品」は読者が読まずともただそれとしてあり、完成されている。
「作品」を読み、たとえば文章にするということによって、
その「作品」の本質は、変形してゆく可能性を多分にはらんでいる。
読むために尽くした「言葉」が、「作品」以上のものであるとは限らない。
それでも、読むのだ。

それは、なぜか。



作者に人生があるように、読者にも人生がある。

誰が、何を、いつ、どこで、なぜ、誰に、どのように、どれだけ(6W2H)。
「作品」のコンテクストを考えるときに少し意識するところであろう。
「読まれたもの(散文)」にも、これを意識することはできる。

これを意識することが、
作者の眼前にある「未言語状態のもの」にとって、
読者の眼前にある「作品」にとって、
意義があることもあれば、ないこともある。

その差は、なにか。



生駒大祐氏の「世代論ふたたび」は、
作品のコンテクスト、つまりは作家について非常に意識したものである。
このような世代論を、生駒大祐という人間が書く、ということに、
文章以上のものを受け取り得る。筆者のコンテクストだ。
この文章以上のものを受け取る意識そのものに、
受け手自身のコンテクストが、もう関わり始めている。

かまちよしろう氏の「そんな日」は、
「未言語状態のもの(未イラスト化状態のもの)」を、イラストにしたもの。
イラストと言葉の違いについては、稿を改め考察してみたいところである。

今回の「週俳5月の俳句を読む」は執筆者が六人いる。
もちろん内容は六人六様で、
だからこそ、筆者(読者)のコンテクストなるものが活きるのだろう。
野口裕氏の「林田紀音夫全句集拾読」も同様である。


心あるひとならだれしも、けっして自分自身の知性によって把握されたものを、言葉という脆弱な器に、ましてや取り替えもきかぬ状態に――とは、文字でもって書かれたものの状態に、ということだけれども――、あえて盛り込もうとはしないであろう。
「書簡集」(『プラトン全集 14』長坂公一・水野有庸訳、岩波書店、2006)
それでも、言葉しかないのだ。



2011年6月20日月曜日

●月曜日の一句 相子智恵


相子智恵








曲がりたる時間の外へ蝸牛  花谷 清


句集『森は聖堂』(2011年5月10日/角川書店刊)より。

そういえば今年はまだ、蝸牛に会っていない。

この句の魅力は「時間の外へ」だろう。蝸牛の殻のぐるぐる巻きを「曲がりたる」で無理なく想像させながら、私たちに流れる直線的(?)な時間の世界と、蝸牛がそこからはみ出してゆく(蝸牛にしてみれば、入り込んでゆく)殻の中の曲がった「時間の外」の世界が、ぐにゃりと交差する。

そもそも「時間の外」とは何だろうか。「無時間」ということなのか。

わかったようでわからない、魅力的な問いが頭の中にぐるぐると渦巻いてきたところで、今日のところはとりあえず、眠ることにしよう。なにしろまだ月曜日で、一週間は長いから。いや、今週は短く過ぎそうなんだっけ。

……一週間の長い短いも、わからない。こうしてまた「時間」のことがわからなくなるのだ。「時間の外」は、なおのこと。


2011年6月19日日曜日

〔今週号の表紙〕第217号 渡良瀬 

今週号の表紙〕
第217号 渡良瀬

宮本佳世乃


あるところに行って思いだした質感というのは、ほんとうになって私のそばに寄りそう。
消えることがない思いは、生きている限りたくさん積もる。
それ以上でもそれ以下でもない。
それらを引き受けていくことがすべて。

いつも、どこかに境界がある。
すこし俯瞰できればいいのかもしれないけれども、そうすると何かが遠くなる。
その何かが、やけに人心地があって、すこし俯く。

くらくらしたまま、離さずに、離れていく。

写真は渡良瀬渓谷・下松島橋(わたらせ渓谷鐵道小中駅近く)。雨あがりに。

2011年6月18日土曜日

●父



父の座に父居るごとく雑煮椀  角川春樹

父病めば空に薄氷あるごとし  大木あまり

押し花や熊楠もまた父たらむ  橋本 薫

父よ父よとうすばかげろふ来て激つ  中村苑子

遠泳や父を遥かにはるかにす  行方克己

悲壮なる父の為にもその日あり  相生垣瓜人

父も父の万年筆もとっくになし  池田澄子

夏座敷父はともだちがいない  こしのゆみこ

海鳴やこの夕焼に父捨てむ  奥坂まや

蓑虫の父となくべき父もなく  会津八一

手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太

雪女郎おそろし父の恋恐ろし  中村草田男

冬の山父よ父よと錠を鎖し  柿本多映

雪野へと続く個室に父は臥す  櫂未知子

臨終なる父の口から波の音  仁平 勝

2011年6月17日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







なめくじに眼がない だから私は生れ


中村冨二 (なかむら・とみじ) 1912~1980


現代川柳は中村冨二から始まったと私は思っている。なめくじに眼がないことと私が生まれたことは本来何の関係もなく、別次元のことである。なめくじは触覚の先端に眼があるらしく、懸命に触覚を伸ばしている姿を見かける。その様子と自分の出生を結び付けている。なぜ自分がこの世に生まれてきたのか、なぜ存在しているのかとは誰もが一度は思う。生きて在ることの切なさや空しさを感傷に陥ることなく、アイロニカルに表現している。『中村冨二集』(八幡船社刊 1974年)所収。

2011年6月16日木曜日

●10句競作(第1回)の件

10句競作(第1回)の件


本誌募集の10句競作(第1回)は、38作品と多数の御応募をいただきました。誠にありがとうございます。審査・選考の骨子・日程が決まりましたので、以下にお知らせいたします。

1 621日(火) ウラハイに応募作品を掲載(コメント欄に感想等を自由に書き込んでいただいて結構です)

2 623日(木)22:00より審査選考ライブ。上記記事のコメント欄にて進行します。第1回の審査員は、五十嵐秀彦、関悦史、神野紗希。週俳時評を担当していただいている3氏。

3 審査選考ライブにて、本誌掲載作品を決定(時間切れの場合、日時を改めて、続・審査選考ライブに決定を持ち越します。


ご不明の点等ありましたら、tenki.saibara@gmail.com まで。


作品名一覧

【01 垂乳根】
【02 おかあさん】
【03 てろりる】
【04 ラプソディ】
【05 おのまとぺ】
【06 百八】
【07 青嵐】
【08 梅雨の蝶】
【09 雌でせう】
【10 この夏】
【11 南吹く】
【12 フクシマ】
【13 微熱】
【14 ゐなくなる】
【15 しるし】
【16 虫笑・蝶笑】
【17 竹婦人VS. 】
【18 マーベロン28】
【19 ひよいとチヂミを】
【20 化石の旅】
【21 魚眼望遠鏡】
【22 黄身】
【23 またあした】
【24 メインイベント】
【25 誰のものでもない金色】
【26 さなぎ】
【27 歯が生える】
【28 アトムの胃】
【29 水】
【30 薔薇色】
【31 ビクターの犬】
【32 フド記】
【33 夏至南風】
【34 うみねこ】
【35 みづ】
【36 枇杷の実】
【37 いびつ】
【38 明滅】

2011年6月15日水曜日

●尻



夕貌に尻を揃へて寝たりけり  一茶

卒業や尻こそばゆきバスに乗り  西東三鬼

晒井に和尚の尻の白さかな  会津八一

石にかけて痺れし尻や鳥渡る  内田百閒

朝日あり童貞の尻固すぼみ  金子兜太

観潮船に竝ぶ女の尻撮す  田川飛旅子

三月のお尻にさはる痴漢とは  筑紫磐井

人丸忌お尻は座るためにある  永末恵子

2011年6月14日火曜日

●臍



しぐるるや蒟蒻冷えて臍の上  正岡子規

君が代や臍のあたりを春の風  会津八一

炎日の読み書くも臍密にして  古沢太穂

臍の位置少しずらせば美妓なりき  筑紫磐井

わが恋の臍であぢはふ青畳  山田耕司

2011年6月13日月曜日

●月曜日の一句 相子智恵


相子智恵








干潟から遠き浜見て鳥の中  中西夕紀


『都市』6月号(2011年6月1日発行)「今日」より。

自分が汐干狩をしている干潟から、遠くの浜が見えている。大きな半月型の湾を思う。遠くの浜でも大勢の人たちが汐干狩をしているのかもしれない。

この句、下五の唐突な「鳥の中」が面白い。遠くの浜の方には鳥が群れていて、まるで鳥の中に浜があるような感じなのだろう。

ここであえて「て」に切れがあると読んでみる。遠くの浜を見ていた作者がハッと吾に返ると、自分がすっかり鳥に囲まれていた、というように。

……あえて曲解したけれど、つまり遠くの浜の鳥のかたまりは、いつかこちらの干潟にも飛来しうる鳥たちなのだ。この鳥たちも浅蜊を狙っていると想像すると、長閑な写生句なのに、妙に怖い。そこが面白い。


2011年6月12日日曜日

〔今週号の表紙〕第216号 高架下

今週号の表紙〕
第216号 高架下


撮影場所は、写真にあるように、東京・新橋駅の烏森橋ガード。第215号の後記で少し触れたが、新橋は鉄道ゆかりの地。なにしろ、あの「汽笛一声、新橋を♪」の新橋なのだ。ぶらぶら歩けば、いろいろな鉄道関連ブツが見つかる。(西原天気)


2011年6月11日土曜日

●週刊俳句・第215号を読む 岡村知昭

昂ぶりたく
週刊俳句・第215号を読む

岡村知昭


プリントアウトした一枚の画像をもう一度見つめ直してみる。屋根には高々と掲げられた十字架、古きよき洋風建築のたたずまいに溢れた教会はペーパークラフトによって作られたもの。二週にわたった小池康生氏の「商店街放浪記」大阪千林商店街篇に登場する「ペーパーさん」の手によって再現された旧石巻ハリストス正教会教会堂、ここは大震災によって半壊状態にあるとのことだ。

今回もまた、小池氏と仲間たちは千林商店街の隅々を十二分に味わい尽くしているのだが、途中から小池氏が何かいつもと異なる雰囲気を仲間たちに感じはじめてから、商店街をめぐる筆の運びもまた単に楽しんでいます、というだけではない感情の動きの数々を垣間見せるようになってくるのだが、そんな風情を仲間たちに見せてなるものかとさらなる小池氏の彷徨は続く、いやうろつく。
さらにうろつく。
商店街をうろうろ、住宅街をうろうろ。
一人なら不審人物だ。
わたしなどはもうどこを歩いているかわからない。(文中より)
何ゆえにここまで昂ぶるのか、街のありように駆り立てられるのか、などという問いは、ここでは何の意味も持たないだろう。どうにか答えられたら「なぜこんなにも昂ぶるのかを知りたくて」とだけ言って、すぐに再び自分を駆り立てていくことになるだろう。この昂ぶりを楽しめるかどうかはさまざまに反応あるだろうが、このときの目の輝きや次第に荒くなる呼吸の様子は小池氏の文章からひしひしと伝わってきて、ここで私はいま、この人たちと一緒に千林商店街を歩いているのだという気持ちに駆り立てられていく。そんな文章の最後に登場するのが、「ペーパーさん」作による旧石巻ハリストス正教会教会堂のペーパークラフト。「東北の大震災のすぐあと」になぜ作ろうとしたか、ではなく作ろうとする行為そのものへの驚きに小池氏の眼が向けられるのは当然のことかもしれない、自分たちもここ千林商店街で、同じように街を味わいつくそうとする行為そのものへの昂ぶりに駆り立てられながら歩き続けているのだ。

 夏の客人漂うて来て椅子にゐる   生駒大祐

この一句の「客人」の漂いぶりには、どこか小池氏とその仲間たちの姿を髣髴とさせるものがあるが、作者はあくまでも「客人」を迎える側からの冷静な目線を忘れてはいない。椅子に深く腰掛けてようやくの急速の時を過ごす「客人」への感情移入を、迎える側はなんとか思いとどまろうとしているかのようだ。なぜ歩くのか、なぜ漂うのかという問いを発してしまうと、まっすぐに自分自身に向けて跳ね返ってくるからだろうか、それとも生き方のあまりの違いにただ呆然となるしかないからだろうか。椅子にたたずむ客人の身体にまとわりつく「夏」はこのとき、時候の暑さだけにとどまらず、ひとりの人物が自らの心身に深く抱え込んでしまい、手放すことがどうにも叶わない理由なき昂ぶりに駆り立てられる姿のようにも見えてくるのである。

そして私は、プリントアウトしたペーパークラフトの旧石巻ハリストス正教会教会堂をもう一度、見つめ直してみる。

2011年6月10日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







それはもう心音のないアルタイル


清水かおり (しみず・かおり) 1960年~


川柳は前句付けから始まった文芸である。この句も前句があってそれに対する附句のようである。あるいは今の心の状態を問われての瞬間的な返答かもしれない。アルタイルは七夕星の牽牛星で、彦星であり、いままでは元気な鼓動の音を響かせて、彼女の希望の星であった。しかし、そのアルタイルはいくら耳を澄ましても心音が聞こえなくなってしまった。過去を振りかえりながら冷静に答えている。彼女にはどうすることもできない、どうにもならない心情を見つめている。川柳は嘆きやさびしさをこのように表現できる。「井泉」(No39 2011.5)収録。

2011年6月9日木曜日

〔かしつぼ〕水無月の夜 中嶋憲武

かしつぼ
水無月の夜


中嶋憲武

かしつぼ=歌詞のツボ
作詞・作曲 井上陽水/編曲 星 勝
1976. March アルバム「招待状のないショー」収録
蛍狩りから もどった君は
足も洗わず 籐椅子に
川むこうには たくさんいたと
ゆかたのすそをぬらして
水無月の夜 送り火の前

夏帯解いて ゆかたを着がえ
たけの長さを 気にして
君の作った 砂糖水には
かげろうゆれて 動いた
水無月の夜 迎え火の前

蚊帳をくぐって 蛍かごあけ
笹の葉を持ち とまれと
灯りを消せば 蛍も見える
夜具とゆかたのふれ音
水無月の夜 蛍火の中
「招待状のないショー」というアルバムは、フォーライフレコードへ移籍してはじめてのアルバムで、それまでの陽水のセンチメンタルフォークという路線を打ち破ろうとするアレンジや歌詞の意気込みも感じられますが、アルバム全体から醸し出される寂しい雰囲気があり、そのほうが好きです。この年の2月に陽水が最初の奥さんと離婚したという事実を考えれば、「Good,Good-Bye」「青空、ひとりきり」「曲り角」「今年は」「口笛」「もう………」といった楽曲に、その体験が色濃く反映されているように聞こえます。1976年3月といえば、ぼくにとって中学から高校への非常に不安定な時期であり、かつ寂しい季節と重なり、余計に寂しく寂しく聞こえたのかもしれません。

てなわけで「水無月の夜」なんですが、この曲、このアルバムのなかで一番好きな曲です。印象的なギターのカッティングに始まり、ドラマティックにストリングスが絡んでくるイントロで、ぐっと曲の世界に引き込まれてしまいます。陽水の低音の歌唱で歌が始まるのですが、その低音を聴くと陽水っていい声だなあとしみじみ思います。

歌詞は「蛍狩り」「籐椅子」「ゆかた」「水無月」「送り火」「夏帯」「かげろう」「迎え火」「蚊帳」「蛍かご」「笹の葉」「蛍火」など純日本の情緒ある単語が散りばめられ、アレンジもマイナー調で、陽水の抑制の効いたささやくようなヴォーカルが情感を高めてゆきます。歌詞を眺めていて違和感を覚えるのは、送り火と迎え火の順序が逆である事や、旧暦水無月といえば水が無い月と書くとおり、暑い盛りの季節(今年でいえば7月12日から8月9日の29日間)であり、そんな頃にはもう蛍などいなくなっているのではないかという事や、かげろうは春先に地に立つものであり、砂糖水の入ったコップの口にゆらめくものではないという事など挙げられますが、「心もよう」という曲のなかの詞に「あざやか色の春はかげろう」という一節があり、陽水はこれらの事を知っていて、詞の世界をドラマティックに盛り上げてゆくための、作詞上意図的に書いているのではないかと思えます。送り火と迎え火の順序が逆になっているのは、最終連のクライマックスを導入するためではないかとか。深読みですか?

個人的にこの歌の情景にかぶるイメージが、ぼくのなかにずっとあります。それは、この当時小学館から「GORO」という雑誌が出ていて、篠山紀信が「激写」というタイトルで女性をモデルにした写真をグラビアで連載していたものです。なかでも、浴衣を着た髪の長い女性を古い日本家屋や、川などで撮っていた数ページのグラビアのイメージと重なっています。

それゆえか、この曲の歌詞は性的な事柄が暗示されているように思え、第3連の最後の2行、
夜具とゆかたのふれ音
水無月の夜 蛍火の中
は象徴的です。「夜具とゆかたのふれ音」で性的な行為を暗示し、「水無月の夜 蛍火の中」で、そんな二人をロングショットで捉えているというふうに読むことが出来ると思います。読み過ぎ?俺、エッチ?

陽水のこの路線は、のちの「ジェラシー」「リバーサイドホテル」「背中まで45分」などに繋がってゆくのだと思えます。


2011年6月8日水曜日

〔人名さん〕 バカボンもカツオも

〔人名さん〕
バカボンもカツオも


バカボンもカツオも浴衣着て眠る  久野雅樹

掲句は『超新撰21』(2010年12月・邑書林)より。


『超新撰21』・邑書林オンラインショップ



2011年6月7日火曜日

〔今週号の表紙〕第215号 地下鉄

今週号の表紙〕
第215号 地下鉄 


あれはたしか銀座線だったか、昔は、車内の灯りが突然、一秒ほど消えた。その一秒間が「東京」に出てきた頃の気分と結びつき、地下鉄というだけでちょっと感傷的になる。

写真は九段下駅。銀座線とは違う。使用フィルムは富士かコダックのポジフィルム。
ずいぶん昔に撮った写真で製品名は覚えていない。

デジカメだと、もっときちんと映ってしまい、自分の感傷とは違うものになってしまいそうに思う。写真がちゃんとしていないこと、へたっぴぃなことも含めて「自分の気分」。写真も俳句も、自分に近いところで遊ぶのがいい。

(西原天気)


表紙の写真、募集中
http://hw02.blogspot.com/2011/04/blog-post_20.html

2011年6月6日月曜日

●月曜日の一句 相子智恵


相子智恵








和船ぎぃと進み入道雲多淫  橋本 直


「鬼」合同作品集『水の星』(2011年5月21日発行)「エイチ」より。

実験的俳句集団「鬼」(復本一郎代表)が15周年を期に、20~40代の有志8名の俳句・詩・エッセイを一冊にした合同作品集を刊行した。昨今、このように同世代の作品がまとまって読める流れができてきたのはうれしいことだ。

さて、掲句。遠近感はあるのに細部までみっちりと細い線で書き込まれた、浮世絵のような味わいの句である。入道雲が多淫だというのにまず驚くが、たしかに湧き立つ入道雲はエネルギッシュ。そして木製の和船の艪が立てる「ぎぃ」の擬音がよく響いて「みっちり感」を際立たせている。言葉がギュウギュウに詰まりながらも、構図の美しい風景句として成立しているのだから、なんだか不思議な世界である。頭の中に楽しい画を描いてくれた一句。



松尾清隆「赤と青 アンソロジー『水の星』発刊によせて」

2011年6月5日日曜日

●週刊俳句・第214号を読む 田島健一

週刊俳句・第214号を読む

田島健一


深夜2時。週刊俳句第214号を読む。

読む、というより眺めている。三矢サイダーを飲みながら。

一日の仕事を終えて、ある意味途方にくれている時間。

ああ、僕は、つくづく俳句がなくても生きていける。

そんな時間に、こうして週刊俳句を眺めている僕は、一体、何を読みたいのだろう。

週刊俳句第214号の誌上では、俳句についていろいろな視点から論じられている。
それを眺めている僕はそこでは運命のように第三者だ。

それは、いい。

実は、そこに「書かれたこと」自体に、僕はあまり興味がない。
そこに「書かれたこと」は、もう既に、通り過ぎてしまった情熱でしかないからだ。

俳句を読むときも同じだ。

むしろ、それを「書くこと」─ 正確には、その「書くこと」と「書かれたこと」とのあいだの距離が僕の興味の対象だ。

それがなければ、僕にとって俳句は意味がない。

「書かれたこと」の美を支えているものは、この「書くこと」と「書かれたこと」との間にある。

「誰か」が「何か」について書くとき、その「何か」は「誰か」にとっての対象にとどまらない。いつしか、その「何か」はその「誰か」を構成する。「書くこと」と「書かれたこと」との間にあった、言わば「信じる様式」のようなものが、いつしか「書かれたこと」そのものになっていく。

これは、不思議なことだ。

けれども、これがなければ、「対象」は永遠に「対象」のままで、もうしそうであるならば、すべての物が─俳句も景色も、週刊俳句も、すべてが僕の目の前から消えてしまう。


・・・と、ここまで書いて、急に睡魔に襲われる。仕方ないので、寝ることにする。既に深夜3時をまわっている。明日も仕事。


そして、翌日。仕事から帰り、再び深夜2時。


昨日書いたところを、読み直す。


自分でも、何が言いたいのかよくわからない文章に、へこたれる。

これで「週刊俳句を読む」というテーマにそっているのだろうか。


はて。

まあ、いい。


天気さんからは、気楽に書いていい、ということなので、引き続き書く。


なんだっけ?

ああ、「書くこと」と「書かれたこと」の話。

それにしても「書くこと」と「書かれたこと」についての話はややこしい。

きっと読んでいる側も、この「書くこと」と「書かれたこと」との違いについて、ピンと来る人は少ないだろう。

どうしよう。


そう、僕は「読む」とはどういうことなのか、ということについて、週刊俳句第214号を眺めながら考えているのだ。


この号では、今井聖さんが佐々木ゆき子という俳人について書き、関悦史さんが彌榮浩樹さんの書いた評論について論じ、松尾清隆さんが上田信治さんの句について書き、藤幹子さんが、俳誌『豆の木』について書いている。

みんな、何かに「ついて」書いている。「書く」ということは、そういうことだ。

で、僕はそれを「読む」

それを読みながら



・・・とここまで書いて、ふと気がつくと部屋の床にうつぶせになって寝ていた。午前4時半。あ、寝なきゃ。明日も仕事だ。

というわけで、続きはまた明日。うーん、遅々として筆が(キーボードが)進まない。書くのが遅くて、ごめんなさい。


そして、三日目。仕事から帰ってきました。風呂上り。深夜1時54分。

続きを書く。


みんな、何かに「ついて」書いているのだけれど、それを「読む」僕は、何かに「ついて」読んでいるわけではない。

つまり、書いた人の思考を書いた人と同じ順序で歩んで行くわけではないのですね。

うん、三日目にして、ようやく自分が何を書きたいのかが見えてきた。


そう。


例えば、藤幹子さんが「豆の木」について書いていますが、ま、「豆の木」の当事者としての僕は、くすぐったいやら、うれしいやらで、まぁ、こころの中では小躍りしながら、一方では「そんなに、大したものかねぇ」なんて思うところもあるのです。

でも、このような感想だけでは、この藤幹子さんの文章を読んだことにはならないのですね。

この藤幹子さん・・・ああ、まどろっこしい。いつもどおり、ふじみきさんと呼びますが、このふじみきさんが、この文章を書いたことで、「書くこと」と「書かれたこと」とのあいだに生まれた裂け目のようなものを、じっとみつめることが、本当の意味で「読む」ことなのだろう・・・と、そういうことが言いたいわけですね。

その裂け目には、ふじみきさん自身が気付かなかった、息づかいや言い淀みのようなものがあって、またそれを感じながら、シャイに振舞うふじみきさんの言葉づかいの中に、読み手としての僕が感じるところがあるのです。

もちろん、「週刊俳句第214号を読む」というテーマでは、その「感じ」について書くべきなのでしょうけれど、それを書かないところが、僕のひねくれているところなんだな。

だから、そういう意味で、今井さんが俳人・佐々木ゆき子について書いたことにも、関さんが、彌榮浩樹の書いた評論について書いたことにも、松尾清隆さんが上田信治さんの句について書いたことにも、僕はすごく感じるわけです。


言わば、そうして書かれたものは、書いた人の一種の「態度表明」になっているから。

書いた本人が、そう思っているか思っていないかに関わらず、それを書いたということが、その人自身のある意味すべてを表出してしまっている、ということ。

これは、一種の推理小説を読んでいるような面白さがあるわけですね。

「そのとき、なぜ犬は吠えなかったのか」ということを指摘するホームズのように、「なぜ、セキエツは「1%の俳句」について論じなければならなかったのか」ということが、僕の興味の中心にあるわけです。

もちろん、そこに「書かれたこと」はそれを読み解くための手がかりなわけですけれども、それは直接的に問題の中心を指し示していないのですね。

だから、その「書かれたこと」は「書くこと」との関係性のなかで、ほんとうにその筆者が書きたかったこと(書くべきだったこと)が浮かび上がってくる。それはもっと言えば、そこに書かれていないことが、書かれている瞬間なんですね。

その意味で─そこに書かれていないことを、書き手が書いてしまっている─作者は、作者以上のものなのです。


もちろん、これは週刊俳句第214号を読みながら考えているのです。

この号は、文章が中心ですけれども、俳句作品を読むときも、僕はそうやって読んでいるわけで、こうして夜な夜な、週刊俳句第214号を眺めながら、まるでそれが一句の俳句作品のように─つまりは、大きなひとつの景色のように、僕は限りない第三者として、じっと眠気を耐えながら、ディスプレイを見つめて、そんなことを感じているのでありました。


ああ、無駄に長い文章。

とりとめのない。


おやすみなさい。


たじま。

2011年6月4日土曜日

●週刊俳句・第214号を読む 宮本佳世乃

週刊俳句・第214号を読む

宮本佳世乃


少数派かもしれませんが、私は週刊俳句の表紙と後記が大好きで、毎週そこから読みはじめます。

今回の表紙は、梅雨に入ったこの時期にぴったりです。雨とその背後にうつるぼんやりした集合住宅めいたもの、そして青っぽい何か。濃いめの赤いフォントが魅力的。雨の日の湿度や、気分というよりも、雨であるという事実だけを伝えているように思いました。

ウラハイでみる写真とは一味違って、文字色の効果があります。同記事の正立と倒立に関する野口裕さんのコメント、わかりやすくて楽しめました。



今井聖さんの「奇人怪人俳人」は、いつもエネルギーたっぷりです。生きざまへの筆致や選ばれる俳句を読むと、その俳人への愛情を感じます。

今号では看護師であり俳人でもある佐々木ゆき子さんについて取り上げられています。60歳から15年間医療ボランティアをした横浜の寿町での俳句を読むと、腹を据えて、そこに住む人たちと浸透しながら生きている姿が目に浮かびます。医療の対象には患者という言葉がすぐに出てきますが、彼女らは患者をみてきたのではなく、病気や訴えに関わらず、目の前にある事実をみてきたのではないかと思います。生活のレベルで何でも見てきた看護師は、そんじょそこらのことではたじろぎません。ダイナミックな30句が連なっています。



今回は豆の木宛にラブレターをいただきました。藤幹子さんからです。

ながい長い前置きに、とても気持ちが籠っていました。たぶんこしのさんは相当照れているんじゃないかと思います。

藤幹子さんの文章や言葉遣いは、熟成しています。ここちよいし、丁寧に目配りしてくださいました。ありがとうございます。ふじみきさんの豆の木誌の解体によって、なんだかお化粧していいお洋服を着させてもらった気分です。今度、ぜひ句会をご一緒したいです!たぶん、みんなワクワクしているに違いありません。



そしてふわりとかまちよしろうさん。 たまにスーツなんて着て、雨にあたってしまったようにも見えて、くすり。 お元気そうで何よりです。


毎週の後記をよむとふっと気持ちがやわらぎます。なんだか、深夜にラジオを聴いているような気分です。つぎの日曜日までの時間が、またつづいています。



あっ、忘れてました。6月11日の現俳協青年部のシンポシオンの告知を載せてもらってます。迷っている方、豪華ゲストの話を間近できけるチャンスです。週刊俳句さま、広告を載せていただき、いつもありがとうございます。

2011年6月3日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







くちびるはむかし平安神宮でした


石田柊馬(いしだ・とうま) 1941~


平安神宮の枝垂れ桜は有名で、もうすぐ花菖蒲が見ごろである。しかし、この句は神苑ではないようである。岡崎公園の入り口に聳え立つ朱塗りの鳥居だろう。以前私は鳥居のあまりの大きさに思わずたじろぎ、あとずさりしてしまったことがある。下から見上げたときのでっかさは格別で、朱色にはなんともいえぬ威圧感があった。作者もむかし、女性のくちびるの前でひるんだ経験があるのだろう。それもかわいらしいくちびるではなく、口紅を真っ赤に引いたぶあついくちびるに。柳多留に<百両をほどけば人を退らせる>がある。平安神宮もこのように詠まれては身も蓋もない。『ポテトサラダ』(KONTIKI叢書Ⅰ・2002年刊)所収。

2011年6月2日木曜日

●草笛 中嶋憲武

草笛

中嶋憲武


呉服商をしていた叔父の記憶はあまり無い。きれい好きで、部屋のカーペットの上をしょっちゅうガムテープをちぎっては、ぱたぱた叩いていた事や、自転車を買ってくれた事くらいしか思い浮かばない。あっ。あと草笛が得意だった事か。自転車を買ってくれた時、駅前のデパートから家まで叔父がかついで帰ったのだけど、途中の小さな公園で休んだ時叔父は草笛を吹いた。シイの若葉を唇に当てて上手に吹くので、わたしは感心してしまったのだった。叔父のレパートリーは決まっていて、「青葉の笛」か「水師営の会見」をよく吹いていた。わたしはもの悲しいメロディの「青葉の笛」をよくせがんだ。フユミはこれ好きだねと言って、叔父は吹き始めたものだ。

その黄色い自転車に乗って、わたしは何処へでも行った。叔父が逝って十年。二十歳のわたしは、草笛を聞いた公園へいまも時々行く。新緑の頃は思い出す。「一の谷の戦敗れ」という詞で始まるもの悲しいメロディを。    

  草笛の鳥打帽は叔父である  笠井亞子 (はがきハイク・第4号)

2011年6月1日水曜日

●週俳の誌面は皆様の寄稿でできています

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