2016年9月30日金曜日

●金曜日の川柳〔大木俊秀〕樋口由紀子



樋口由紀子






ススキ対アワダチソウの関ヶ原

大木俊秀 (おおき・しゅんしゅう) 1930~

関ヶ原に行ったことがある。しかし、ここがあの「関ヶ原」と拍子抜けしたのを覚えている。そこは戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた天下分け目の戦いがあった「関ヶ原」とは到底思えなかった。

戦のあった昔には多くの人が殺され、殺し、死んでいったが、現在の関ヶ原はあたりまえだが平和である。かっての痕跡はまったく感じないおだやかな風景である。ススキとアワダチソウが咲いている。それはあたかも優劣をつけようと向かい合って風に揺れている。戦はご免してほしい。「対」はススキとアワダチソウで十分である。

〈貴方には何よりマスクが似合う〉〈蛇穴を出ると取られる消費税〉〈満天の星が見ていた流れ星〉 『満天』(2007年刊 武藏野文學舍)所収。

2016年9月29日木曜日

〔人名さん〕ダンプ

〔人名さん〕
ダンプ


秋桜のダンプ松本なりしかな  林 桂


※秋桜に「コスモス」のルビ、松本に「まつもと」のルビ

参考画像

林桂句集『ことのはひらひら』(2015年1月/ふらんす堂)より。

2016年9月28日水曜日

●水曜日の一句〔鈴木明〕関悦史


関悦史









白歳月(しろさいげつ)を埋めよう白ふくろうを育て  鈴木 明


「白歳月」は造語らしい。埋めるべくある、埋めなければならない空白としての歳月のようだが、ブランクではなく、色としての白の印象が強まる造語である。

その「白歳月」は「白ふくろう」を育てることによって埋められるものであるらしい。同一である「白」の部分を仮に約してしまうと、「歳月」と「ふくろう」がほぼイコールということになるが、これだけ別次元のものをいきなり等価交換の場に持ち込むには、やはり茫漠たる空白とものの色彩の両方に通じる「白」との化合は必須なのだろう。「白」はいわば現実的制約の場を離れたところに開けた通路である。

失われた歳月を何か別のもので補償するとなれば、裁判沙汰では金銭に換算されることになるが、ここでの「白ふくろう」は、もっと知性と感情の両面から心を満たしてくれそうである。そればかりではなく、育てた結果(それは飼い主もともに育つということだ)、別種の幸せに通じる回路を開いてもくれそうである。

見るからに手触りのよさそうな白ふくろうの姿かたちと、妙に人くさい顔つきがわれわれに引き起こす感情を正確に言葉に置き換えたら、それは埋めあわされ、満たされた「白歳月」ということになるのかもしれない。いや、置き換えなどというものではなく、これは飛躍である。飛躍によって切り開かれた空白こそが幸福の空間なのである。語り手が「埋めよう」と呼びかける自他いずれともつかない相手もこの「白」のなかにいる。これが語り手自身への呼びかけであったとしても、「白ふくろう」を育てた先には、浄化されるように変貌を遂げた己の姿が待っているはずだ。それは「白」のなかに既に予見されている。


句集『甕』(2016.9 ふらんす堂)所収。

2016年9月27日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム3 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム3

福田若之


アルマイトにまずいポタージュの居残り

しちしちしじゅうくが今日も覚えられず日没

安全講習補助輪の子は僕らだけだ


2016/9/7

2016年9月26日月曜日

●月曜日の一句〔藤木倶子〕相子智恵



相子智恵






銀漢に祷り一つをたてまつる  藤木倶子

句集『星辰』(2016.07 文學の森)より

「思い」はぐるぐると、四方八方へ飛ぶものだが、「祈り」は真っすぐに頭上へ向かう印象がある。ここでは〈たてまつる〉があるから猶更だ。

頭上には天の川が太々と横に流れている。祈りは一本の縦の光となって天の川に到達し、一筋の支流が本流に注ぎ込まれるように、天の川と融合する。

そうした祈りの光をいくつも飲み込んで、天の川が人々の頭上を光り輝きつつ、滔々と流れてゆくところを想像してみる。その果てしなさ、神々しさにくらくらする。

掲句は一つの祈りを捧げる個人が主体の句だが、一つの切実な祈りが天の川の光と重なって、光による救済のような場面を想像させるのである。

2016年9月24日土曜日

★週俳の記事募集

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2016年9月23日金曜日

●金曜日の川柳〔飯田良祐〕樋口由紀子



樋口由紀子






二又ソケットに父の永住権

飯田良祐 (いいだ・りょうすけ) 1943~2006

「二又ソケット」は電気の供給口を二又にして電灯と電化製品を両方同時に使用できるようにしたもので、子どもの頃に家庭で使っていたことを覚えている。便利だったが無理矢理感が半端ではなく、見た目はへんなものであった。その不自然なかたちのまわりには生真面目さと貧しさと可笑しみと哀しさが漂っていた。

「永住権」とはこみいっている。良祐には〈二輪車の父は鮪になっていく〉〈二等辺三角形な父の脳〉〈銅板の父とも知らず二等席〉など「父」と「二」を組み合わせた川柳がいくつもある。彼の父に対する複雑で屈折した心情を垣間見ることができる。

二又ソケットに永住権のある父、その父の子である私。「私」とは一体なにだろうか。その父は「私」ではないだろうかと問いかけているように思う。『実朝の首』(川柳カード叢書② 2015年刊)所収。


2016年9月22日木曜日

●テーブル

テーブル

テーブルの上の荒野へ百語の雨季  寺山修司

えつえつ泣く木のテーブルに生えた乳房  島津 亮

テーブルにそらしずかなるわが叛乱  津沢マサ子


2016年9月21日水曜日

●水曜日の一句〔高橋睦郎〕関悦史


関悦史









千手千體御手百萬や秋のかぜ  高橋睦郎


「三十三間堂」の前書があり、千手観音像の嘱目である。

立ち並んだ千手観音像に、実際には厳密に千本の腕はついていまいが、もともと千手とは衆生ひとりも残さず救済する観音の慈悲と力を形象化した、いわば、もののたとえである。異形の姿とはいえ理が通った、理詰めによる異形なのだ。それを思えば、彫刻された腕が実際に何本あるにせよ、そのほかに、不可視で非実体の腕が無数に放射されているともとれる。そもそも千という数字がもののたとえに過ぎない。

それをさらに理詰めで計算すると、千手観音×千体=百万の手ということになる。仏典には白髪三千丈式の誇張法が少なくないので、この生真面目な計算の結果として出てきた過剰で奇想的な百万の手のイメージも、そうした修辞法を踏まえているともいえる。

しかしその慈悲と力の現れたるべき百万の御手は、端然と、凝然と秋のかぜを受けるばかりである。手に秋風を受けることで、物件としての千手観音像千体の肌ざわりも立ちあがる。

そうして立ちあがった質感と量感が、衆生救済に届いているかどうかは判然としない。というよりも、おそらく届いてはいないし、この句の語り手も、救済願望やありがたさという回路では、この千手観音像千体とは感応していない。そうした回路から切り離された、無意味な、なまなましい過剰としてこの百万の御手はある。仏を形象化したとき特有の、あの一種のグロテスクさを引き出すのは、仏への帰依でもなければ、無信仰や虚無、悪意、絶望の誇示でもなく、冷やかな秋のかぜとしてその肌に触れる視線なのである。


句集『十年』(2016.8 角川書店)所収。

2016年9月20日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム2 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム2

福田若之


ラプラスの指人形は湯にうかぶ

おむつのとれない炬燵で自慰を覚えていた

鏡をみて犬歯をきしらせる日課吸血鬼になるため

コンパスで生命線つながるとおもった

ともだちだそれでもいるかを魚だと信じて嗤ったあの日の君への憎しみがまだ消せない

秋の暮れに秋の暮らしを書き記す

2016/9/6

2016年9月19日月曜日

●月曜日の一句〔四ッ谷龍〕相子智恵



相子智恵






オルゴール鏡に苦き光(かげ)こもる  四ッ谷 龍

『夢想の大地におがたまの花が降る』(2016.09 書肆山田)より

内側が鏡張りのオルゴールを閉じたところを想像したが、開いたところのようにも感じられてくる。光と闇が混在し、自分の感覚が一瞬分からなくなる。眩しすぎて目の前が暗くなるような、美しく不思議な世界だ。

光に「かげ」とルビが振られている。そのように読む例があるのかどうか、私は不勉強で知らないのだが、そういえば古語では「影」と書いて光のことも指したから、その逆もあるだろうと思われた。

〈苦き光(かげ)〉も不思議な措辞である。音から導かれた言葉ではないかと思う。この句を読んだとき、まず音が印象的だったからである。

「ORUGOORU KAGAMINI/NIGAKIKAGE KOMORU」と音読をローマ字で表してみると、回文ではないが、前半の音と後半の音が何となく似ている(便宜的に/で区切ってみた)。こうしてみると「ORU」、「KAGE」と「KAGA」、「NI」などの部分が鏡像のように配置されている。ちょうど鏡張りのオルゴールの蓋と箱をパタンと閉じて内部が映し出された時のようだ。

視覚的には光と影が入れ替わり可能なものとして描かれ、聴覚的には鏡像のように音が配置された精緻なこの句は、視覚的にも美しい箱であり、そこに計算された音が閉じ込められているオルゴールそのもののようだ。

「オルゴール」「鏡」「光」から来る祝祭的な気分と「苦き」「かげ」「こもる」から来る憂鬱さ。その対照的な気分も、豪奢なオルゴールを見て聴く時の、明るく、けれどもどこか退廃的な気分に似ている。

2016年9月17日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】句集の読み方 その6・さわる 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その6・さわる

西原天気


手に持ったときの感触。

これ、だいじです。

カバーに使う紙はいろいろ。表面加工もいろいろ。したがって、手ざわりはいろいろです。



『三橋敏雄全句集』=にちゃにちゃしてます。

文庫判ということもあって、見た目、つるつるぴかぴか。表面に光沢をだすのは、句集では少数派。多くは「マット」と呼ばれる系。



高橋睦郎『十年』=しゃかしゃかしてます。



四ツ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』=しゅこしゅしてます。



池田澄子『思ってます』=じょわじょわしてます。



山田露結『ホーム・スウィート・ホーム』=ぞむぞむしてます。



佐藤文香『君に目があり見開かれ』=にむにむしてます。


江渡華子『笑ふ』=もにもにしてます。



野口る理『しやりり』=しゃりりかと思いきや、違いました。じょりじょりしてます。

さわってみると、ぜんぶちがってました。



『三橋敏雄全句集』(2016年8月/鬣の会)
高橋睦郎『十年』(2016年9月/角川書店)
四ツ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』(2016年9月/書肆山田)
池田澄子『思ってます』(2016年7月/ふらんす堂)
山田露結『ホーム・スウィート・ホーム』(2012年12月/邑書林)
佐藤文香『君に目があり見開かれ』(2014年11月/港の人)
江渡華子『笑ふ』(2015年8月/ふらんす堂)
野口る理『しやりり』(2014年1月/ふらんす堂)

2016年9月16日金曜日

●金曜日の川柳〔平井美智子〕樋口由紀子



樋口由紀子






家中の灯りを点けて確かめる

平井美智子 (ひらい・みちこ) 1947~

家中の灯りを点けて確かめたかったのは何か。それは家中の灯りを点けても確かめられるものではないことを知っている。はっきり言えるのはどうしても確かめたいことがあるのだ。たぶん誰かの心(たぶん、恋人の)であり、自分の心だろう。

冷静になって全体を見渡せば、明るくすると見えてくるものがあるという共通項を言い訳にして、無駄で出鱈目な行為をしている。頭ではどうすることもできないから身体を動かして心を落ち着かせている。

家中の灯りを点けまわっている姿を想像するとせつなくなる。簞笥の隅に転がっていたボタンを見つけて、カチカチになっていた頭と心が少しでもほぐれたらと思う。自分だけのフィクションを作り上げて、現実を乗り越えようとしている。

〈家に帰ろう海が優しく笑うから〉〈「ぞうさん」を唄う涙が止まるまで〉〈あっさりと隣の猫になったタマ〉 『なみだがとまるまで』(2013年 あざみエージェント刊)所収。

2016年9月15日木曜日

●犬小屋

犬小屋


犬小屋も月明かりして父の郷(さと)  林 桂〔*〕

犬小屋に扉のなくてクリスマス  土生重次

犬小屋にへちま大きくぶらさがる  仙田洋子


〔*〕林桂句集『ことのはひらひら』(2015年1月/ふらんす堂)


2016年9月14日水曜日

●水曜日の一句〔恩田侑布子〕関悦史


関悦史









海百合のかひなの永し冬の戀  恩田侑布子


ウミユリは百合とはいっても植物ではなく、海底の棘皮動物である。なまじ植物じみた名前がついているだけにかえって海生動物のなまなましさが目立ち、グロテスクさが際立つ。

百合の花びらに相当するのが「かひな」で、腕に見立てられると、海中で揺られているさまが、何かを虚しくいつまでも求めている姿と見えてくる。「長し」ではなく「永し」なので、腕の物理的な長さではなく、時間的な永さだろう。

「冬の戀」は一見季語めいた字面だが、季語ではない(強いて季語をとろうとすれば「冬」だけとなる)。「冬の戀」自体が歌謡曲めいた抒情性が強くて、冬に始まった恋ととっても、あるいは一冬で終わる恋ととっても、海底に人知れず揺らぎ続ける「海百合のかひなの永し」が、丸ごと未練をあらわすただの暗喩になってしまう。もちろん解釈上そう読んでも特にさしつかえはない。

しかしウミユリのなまなましさはその意味的整合性に収まりきるには少々不穏で、現在も生息する生物とはいえ、カンブリア紀から地球上にいたらしいことを思えば、時間的永さも億年単位となる。通常の、人の未練のスケールではない。

ここでは「冬の戀」は、冬に始まった恋とか、一冬で終わる恋ととるよりも、「冬」を本質とする恋とか、「冬」そのものと成り果てる恋、あるいは冬というもの自体が持ってしまった恋情とかいうふうに拡大気味とった方がふさわしそうである。もとは人の恋情に発したものとはいえ、そのスケールを踏み越えた執着は、異形の「かひな」と成り果て、生きた化石として残り続ける。いわばこれは変身譚の句なのだ。


句集『夢洗ひ』(2016.8 角川書店)所収。

2016年9月13日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム1 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム1

福田若之


バズーカを撃つとベッドの上にいた

2016/9/5

2016年9月12日月曜日

●月曜日の一句〔加藤哲也〕相子智恵



相子智恵






幾許か宙に浮きたる踊りの輪  加藤哲也

句集『美しき尾』(2016.8 角川文化振興財団)より

盆踊りの中には跳ね上がる動きもあるから、みんながふわりと浮き上がった一瞬を捉えたのだろうか。

または、櫓を中心にしずしずと進む盆踊りの輪が、光に照らされて少しだけ浮いているように見えているのかもしれない。

いずれにせよ、踊念仏を起源とし、盆に帰ってきた先祖の霊を慰めめるための踊りである盆踊りの、彼の世との近さが思われてくるような不思議な句である。

新鮮な発見であるとともに、納得感もあるのだ。

2016年9月10日土曜日

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2016年9月9日金曜日

●金曜日の川柳〔透明花〕樋口由紀子



樋口由紀子






ひたひたと秋の高さの川になり

透明花

朝夕はめっきり涼しくなって、秋の気配がただよう。秋はほっとする。暑さでばてていた身体が欠けていたものが戻ってくるように回復し、からからに乾いていた心も鎮まってくるのがわかる。

雲を見上げて、秋だと思うことはある。しかし、川はなかった。「秋の高さの川」がいい。まして水が澄むとかではなく、「高さ」。確かにそれはあると気づいた。こんなふうに秋を察知する。日照り続きで水位の下がった川の水嵩が徐々に増してくる光景は懐かしみと共に目に浮かんでくる。

「ひたひたと」もいい。映像的に捉えていて、時間的経過にリアリティーがあり、静かにそれでいて確実にやってくる。何ごともなかったように、いつもの秋になる。

2016年9月8日木曜日

●右手

右手

夏の雨かすかに触れてゐる右手  夏井いつき

右手つめたし凍蝶左手へ移す  澁谷道

東京は暗し右手に寒卵  藤田湘子

左手に右手が突如かぶりつく  阿部青鞋



2016年9月7日水曜日

●水曜日の一句〔四ッ谷龍〕関悦史


関悦史









谷山の予想の隅に咲くおがたま  四ッ谷龍


句集『夢想の大地におがたまの花が降る』では、この句の周辺に「おがたま」と数学用語とを合わせた句が幾つか並んでいるのだが、「多面体」や「互いに素」はまだしも、まさか「谷山・志村予想」まで俳句になるとは思わなかった。

「谷山・志村予想」は、これを証明することが、360年間解かれずにいた難問「フェルマーの最終定理」の証明に直結するとわかったことから近年急に有名になった予想(現在は証明されてしまったので定理)である。

この「谷山・志村予想」と「フェルマーの最終定理」の関係については、句の鑑賞にさほど関係なさそうな上、筆者の手に余るので概説は省く。ただ見かけのシンプルさのせいもあってか、骨董品的な趣味的・局所的課題と思われていた「フェルマーの最終定理」が、ワイルズによって「谷山・志村予想」と結びつけられ、証明される過程で、思いのほか大がかりな数学的大工事となり、あたりに波及したということは、意識にとどめておきたい。

「谷山・志村予想」とはどういうものかについては、「MATH PDF」というサイトの説明が使いやすそうなので、そこから引いてみよう。
《「有理数体上の楕円曲線はモジュラー関数(modular function)で一意化(uniformization)される」という命題が,谷山・志村予想と呼ばれているものです》
《円の方程式 x2+y2=1 は x=cos t, y=sin t とパラメータ表示され,tを実数の範囲で動かすと円上のすべての点が得られますが,このことを円が三角関数で一意化されるといいます.楕円曲線とモジュラー関数についても同様のことが成り立つというのが上の命題の意味です》
いずれにせよ素人にはイメージがつかみにくいことこの上ないが、ここはさしあたり「楕円曲線」の「すべての点が得られ」るというところだけ押さえればよい。数学的に構想(または抽出)され得る「すべての点」とは、句集タイトルの「夢想の大地」そのものの謂にほかならないからだ。この「夢想」は単なる空想とは少々異なるのである。

そしてそのことは同時にモクレン科の神木「おがたま」が、なぜ谷山の予想の「外」でもなければ「中」でもなく、「隅」に咲かなければならないかの答えともなる。ある定理内に限定されてのこととはいえ、「すべての点」=「夢想の大地」には全領域性とでも呼ぶべきものがあり、それを潰してしまう「外」が選択されることはまずあり得ないのだ。

そしてこの句に取り入れられた数学用語が「フェルマーの最終定理」でもなければ、同じものを指しながら呼び方の一定しない「谷山・志村予想」「谷山・志村・ヴェイユ予想」「谷山・ヴェイユ予想」「ヴェイユ予想」のいずれでもなく、「谷山の予想」という、単語ではなく、展開された言い方によって谷山豊のみに帰属させられていることから、句にはひそかに「夭折(自殺)した天才」という主題も忍び込むことになるのである。谷山豊はこの予想の発表後、31歳で原因不明の自殺を遂げているのだ。婚約者もその後を追った。

神木「おがたま」は、その谷山豊が構想した領域の「中」にあらねばならないが、しかしその中央を制するのではなく、谷山豊への鎮魂にも似た何かと、「夢想の大地」を通じた汎世界性の明るみへの通路を兼ねるようにして、あくまでも「隅」に咲かなければならないのである。


『夢想の大地におがたまの花が降る』(2016.9 書肆山田)所収。

2016年9月6日火曜日

〔ためしがき〕 松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて 福田若之

〔ためしがき〕
松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」に応えて

福田若之


松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」は、『オルガン』4号掲載の座談会「震災と俳句」に対する、BL俳句の担い手の側からの批判だった。

まず、座談会の時点での僕の立ち位置について書いておくことにする。僕はあの座談会の時点では、BL俳句について、ほとんど何も知らなかった。だから、当然、いわゆる震災俳句とそれとがどう関わるのかも分からなかった。僕が「じゃあ、BL読みが先にあって、そのニーズに応えるためにBL俳句が作られるようになってくるってことですか」と問うことしかできなかったのは、そうした理由による。

それでも、かなり切実な批判が行われた以上、それに対して、僕は自分なりに応えたいと考えた。 僕がここでなそうとしているのは、批判に対する反論でもBL俳句に対する非難でもなく、単に、応答である。これまではっきりさせてこなかったBL俳句についての自分の立場を、どうにか書いておこうと思ったのだ。その上で、改めて反論があれば、また、可能なかぎり、考えていきたい。



立場をはっきりさせるために、まずは僕なりの理解を整理しておかなければならないだろう。最初に考えたのは、BL俳句は、BLと俳句との関係ではなく、BとLと俳句との関係で捉える必要がありそうだということだった。そこで、三者の関係を、ラカン派の精神分析の用語をごく表面的に借り受けて、以下のように定式化してみたい――
B(少年):現実的なもの
L(愛):想像的なもの
俳句:象徴的なもの
つまり、分かりやすくいえば、現実的な存在としての少年をめぐって、愛を想像するために、俳句という言語形式があるように思われるとき、そこにBL俳句と呼びうる何かがあるのではないかということだ。

ただし、ここでひとまず「少年」と書いておいたのは、僕らの漠然とイメージするあの典型的な「少年」ではなく、具体的な骨肉の塊としての実体のことであり、僕らがそれを「少年」と認識する前の、何者かである。それは、要するに、松本てふこ「『オルガン』とBL俳句」において、「真の理解にはたどり着けないであろうもの」として言及されている、その実体のことだ。二人の少年という現実、その関係としての「×」の想像、一句という象徴。それら三者の有機的なかかわりにおいてBL俳句というものが立ち上がるのだと言って、ひとまずはさしつかえないだろう。

もちろん、「現実」というのは、この場合、少年がいわゆる架空のキャラクターである場合も含む。実在であれ非実在であれ、彼らの実体を「現実」と呼ぶことはできる。それがインクの染みであろうが骨と肉とのかたまりであろうが、「現実」には違いないのだから。

さて、現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものの三つは、どれかが欠けると、残りの二者の関係もまた失われる(ラカンはそのことをボロメオの輪の隠喩で語った)。 三者がそろったとき、はじめて、これらの結びつきがたしかなものとなる。現実的なものなしには、そこに愛を想像することはできず、俳句は象徴たりえない。想像的なものなしには、象徴たるはずの俳句は少年という現実的なものとの結びつきを失う。そして、象徴的なものなしには、現実的な少年と想像的な愛との関係は示されえない。

これに対して、もちろん、次のように問うことはできるだろう――現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものという三者の関係を成立させることだけが問題であれば、現実的なものは少年でなくともよく、想像的なものは愛でなくともよく、象徴的なものは俳句でなくともよいのではないか。

おそらく、科学的にはその通りだ。現に、BL小説は小説を、BL短歌は短歌を象徴的なものとしてそこにあてがうだろう。現実的なものは、たとえば少女同士でもいいだろうし、にくまん・あんまんでも構わないだろう(ガールズラブ、擬人化などなど)。想像的なものは、闘争や友情でも成立する(少年漫画的なもの)。

だが、個人にとってはどうだろうか。BL俳句には「自らの切実な苦しみ」が混ぜ込まれているのだと、松本てふこは書いている。彼女にとって、それは「自分を切り刻んで、煮て焼いて自分で食べているような息苦しさ」と隣り合わせなのだという。さらに、BL俳句誌『庫内灯』をひらけば、「斯くして私は少年だったのだ」(なかやまなな「BL抒情事情」)といった文言も見出される。こうした極度の私性は、おなじ一冊に書かれた、「BL俳句に決まった読み方はありません」(石原ユキオ「BL俳句の釀し方」)ということにも関わっているに違いない。BL俳句の読み書きは明らかに個々の「私」と深く結びついているのだ。

したがって、BL俳句を考える上で重要なことは、BとLと俳句が現実的なものと想像的なものと象徴的なものとにそれぞれ対応しているといった抽象化それ自体に関わるものではない。それは、むしろ、現実的なものとしてなぜ少年なのか、想像的なものとしてなぜ愛なのか、象徴的なものとしてなぜ俳句なのか、と問うときに明らかになる客観的な必然性のなさにこそ関わっているはずだ。その必然性のなさ、説明のつかなさについて、たとえば、佐々木紺は次のとおり書いている――
男性どうしが何故ひかれあうのか、もよく考えますが、なぜこんなに自分(達)はBLにひかれるのかも良く考えてみます。男女と違って完全な対等性が実現できるところなのか、女性とちがって作品中で傷ついても傷つきすぎない感じがするのがいいのか、とか、純粋にうつくしい男性2人が画として快いのか、とか・・・でも結局のところときめく時は理屈じゃないのでこれも本能でしょうか(笑)(あと男性どうしではなく男女でもこれはBLだ・・・!!と感じる時もあります)
(佐々木紺による金原まさ子宛て書簡。2015年6月3日付。『庫内灯』所収)
もちろん、こうした客観的な必然性のなさは、BL俳句の欠陥ではない。むしろ、BL俳句が客観的な必然性を持たずに書かれているということは、BL俳句が、徹頭徹尾、それに理由もなく惹かれてしまう個人のかけがえのなさによるものであることを示している。実際、そうでなければ、松本てふこは「あなたとオルガン」という与えられたテーマに対して、「『オルガン』とBL俳句」というかたちでは応答しえなかったに違いない。

だから、もしBL俳句に欠けているものがあるとすれば、それは「現実」ではなく、むしろ、「公共性」ではなかろうか。この考えが正しければ、たとえば、BL俳句は同性愛をめぐる社会的な運動に対して、少なくとも直接的に役立つ何かではありえないということになるだろう。だが、そのことは、BL俳句の価値を決して損ないはしないはずだ。BL俳句の価値は、まずもって私的なものにほかならないのだから。

これ以上のことは、具体的な句について語るのでなければ、おそらくは意味をなさないだろう。 だが、そのためには、何よりも僕が、BL俳句に僕自身の切実さを見出しているのでなければならないはずだ。となれば、僕には、少なくとも今のところ、それらについて語る資格がない。結局のところ、BL俳句に応えるために、僕は僕で、僕自身にとっての切実なものについて語っていくよりほかにないのだろう。


2016/8/22

2016年9月5日月曜日

●月曜日の一句〔生駒大祐〕相子智恵



相子智恵






ややありて手花火を手放しにけり  生駒大祐

同人誌『オルガン』6号「夕刊」(2016 summer)より

美しい句だと思った。

手花火が終わった後、暗闇の時間がややあってから、それを手放す。花火が終わった後の、静かな余韻の時間が詠まれている。

〈手花火〉を〈手放す〉。繰り返される「手」の持つ情感が活きている。手花火という何気ない名称が、こんなにも切ない気分をもたらすとは思ってもみなかった。「捨てる」ではなく「手放す」を選んだことによって、名残惜しさが滲み出た。

〈ややありて〉の「て」も含めれば、「て」という音が全体のアクセントとなって心に引っかかりをもたらし、また〈手花火を手放しにけり〉の破調による微かな引っかかりも、名残惜しさを感じさせているように思う。

花火を直接詠むよりも、花火の美しさを感じさせる句である。

2016年9月3日土曜日

〔ネット拾読〕昼の郵便・夜のベンチプレス 西原天気

〔ネット拾読〕
昼の郵便・夜のベンチプレス

西原天気



例によって、記事タイトルに意味はありません。さて、拾い読みます。


福田若之 利口であること、およびその哀愁についての試論 第19回松山俳句甲子園全国大会の一句
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/08/19.html

《利口な睾丸を揺さぶれど桜桃忌 古田聡子》についての論考。

太宰治「桜桃」についてのやや詳しすぎる言及はさておき、〔睾丸桜桃忌サクランボ〕と、形状の相同を指摘、きちんと下品に読解した点、とてもナイス。

俳句甲子園の講評では、この点、どうだったのでしょうか。観ていた人、教えてください。


ただ、この句、私には意味(句意)がとれなくて、反応しにくい。かならずしも句意がわからなくてはいけないということではないのですが、こういう句で、句意が曖昧だと、なんだか無用にブンガク的な感じにも思え、それほど面白がれない。


如月和泉 川柳カード12号―筒井祥文と瀬戸夏子に触れて

『川柳カード』誌・最新号に、ふたつトピックを見出した記事。

ひとつは、《サバンナの象のうんこよ聞いてくれ 筒井祥文》という句。《サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい 穂村弘》の前半部分をそのまま引用(借用/盗用)した句。


私は、アウト、と思うけど〔*1〕


もうひとつは、瀬戸夏子「ヒエラルキーが存在するなら/としても」。

ヒエラルキーとは、

  小説―現代詩―短歌/俳句―川柳

というもの。

手元に『川柳カード』第12号があるので、そちらに直接あたりながら。

ほとんどの人はうすうすはそう思っていて(…)」(瀬戸)等、多くの当事者がこの「ヒエラルキー」を信じているという前提なのですが、困った、いや、ほとほと困った、私には、ぜんぜん思い当たるところがない。

この5つのジャンルが、同じひとつの社会/カテゴリーを形成しているのでもないのに「ヒエラルキー」と言われても困るし、じゃあ、マンガは? 「売上げ、認知度」(瀬戸)では最上位ですけど?

と、そんなことより、〔小説―現代詩―短歌/俳句―川柳〕といった序列・階層を、思ったこともないし、これを感じるような場面に遭遇したこともない。

だから、私としては、きょとんとするしかないのですが、記事中、根拠というかエピソードが示してあります。
(…)どうして作家や詩人は、あるいは小説や詩を研究している学者は、短歌や俳句の話をするときあんなにも偉そうなのか。知らなくても当然だという態度を平然ととるのか。なんであんなくだらない小説を書く作家やどうしようもない詩を書く詩人に上から目線で接されなければいけなんだ? (…)数えきれないくらいそんな場面に遭遇した。(瀬戸)
なるほど。これ、ひょっとして、「ヒエラルキー」は、しょうもない作家や詩人の中にだけにある、という話では?

あるいは、短歌、俳句、川柳の一部に、卑下があるだけでは?〔*2〕

実感のない私には、そうも思えるのですが?

なお、「数えきれないくらいそんな場面に遭遇した」瀬戸氏と違って、遭遇したことのない私は、単にラッキーなだけかもしれません。けれども、このさきも、その幸運に恵まれて暮らしていく自信があります。出かける場所/読むものは選べるし、もしも、そんな場面に遭遇しても、「しょうもないヒエラルキー信者」を無視できる/鼻で嗤えるくらいは歳をとってしまったので。


一方、川柳人である如月和泉は、この「ヒエラルキー」をさらになまなましく捉える。
それでは、上位のジャンルから軽視された表現者が下位のジャンルに接するときには、どのような態度をとるのだろうか。私の経験では、上位ジャンルから受けた屈辱を下位のジャンルに向かって晴らすような態度をとる人が多い。
ううむ、これはもうまるっきり一般社会の引き写しですね。

ここで思い当たるのは「上位」とか「下位」とかは、カテゴリーの話ではなくて、人それぞれの話、行動原理の話かもしれないということ。つまり、「上位」「下位」といった序列・ポジションの考え方に染まっているか(上を見たり下を見たり、忙しいことです)、染まっていないか、その差、その話ではないかと。


ちなみに、これを言ってはおしまいなのだけど、どのジャンルにも、わずかだけが放つ輝きと、凡百のつまらなさが併存する。どちらを見て暮らすがいいのか。言うまでもないでしょう。

 *

今回は、そんなところで。

またいつか、ここでお会いしましょう



〔*1〕ちなみに、寺山修司の翻案も、アウトという見解。

〔*2〕当該の場面に遭遇したことがないと言ったが、ひとつ、関連事項を思い出しました。俳句外部の人(学者や文学者)が俳句に言及するのを、ありがたがる傾向が、俳人にはあるようです。たいしたことを言っているわけではないのに、とてもありがたがる。ただ、これは卑下というより、ただ単に、うれしいのだと思います。ひとつには、かまってほしい。外国人による日本論・日本人論がよく読まれるのと似ています、もうひとつには、俳句関係者にはマイナー意識があるので、著名人に弱い。このあたりは、階層というより、勝手に卑屈なだけのようです


2016年9月2日金曜日

●金曜日の川柳〔蚊象〕樋口由紀子



樋口由紀子






新しい簞笥に聲が突き當り

蚊象

簞笥を買った。新しい簞笥が部屋に運ばれた。いままで何もなかった場所にどんと簞笥が置かれた。簞笥はまだ部屋になじまず、こっちも見慣れないので、いつもの部屋なのに他人の家みたいで落ち着かない。

「おーい」と妻を呼んだ。しかし、返事がない。簞笥が邪魔をしている。以前はそこには何もなく、筒抜けだったから、声はすんなり届いた。どうも闖入者である簞笥に声が当たってしまうようだ。もちろん、簞笥は返事などしてくれないし、取り次ぎもしてくれない。新しいものに慣れるまでには時間がかかりそうだ。相変わらずの古い声で、今度は頭も背筋も伸ばして、声が簞笥に当たらないように気をつけながら呼んでみよう。

日常のちょっとしたひとこまの変化や違和感をユーモアに描写している。

2016年9月1日木曜日

〔人名さん〕リリー・フランキー

〔人名さん〕 
リリー・フランキー

枝豆で角度がリリー・フランキー  榊陽子

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