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2012年1月21日土曜日

●新型携帯懐炉 野口裕

新型携帯懐炉

野口 裕


駅前で物を配っている人から、マンションのチラシを受け取ると、チラシの間に入っている物がティッシュにしては重い。今朝、開いてみるとティッシュではなく携帯カイロが入っていた。新型の携帯カイロで、繰り返し使用可能とのこと。

先ほど調べてみると、

  wikipedia(最近の各種懐炉の項

エコカイロ」という商品名らしい。中に入っているものは酢酸ナトリウムで、一般の携帯カイロのように鉄の酸化反応を利用するのではなく、酢酸ナトリウムの過冷却状態を利用するようだ。中に入っている金属製のボタンをねじ曲げると、液状の酢酸ナトリウムが一気に結晶化し始める。

過冷却状態はすぐに理解できたのだが、金属製のボタンをなぜねじ曲げるのか、ちょっと首をひねった。どうもボタンに仕掛けがあるわけではなく、ねじ曲げるときに発生する熱を利用するようだ。

そういえば、長さ15センチほどの針金を中央で折り曲げ、山にしたり谷にしたりの折り曲げを二三回繰り返すと、折り曲げた部分がかなり熱くなる。下手に触れるとやけどする場合もある。結局、その応用なのだと得心した。酢酸ナトリウムを利用することを思いついただけでは、まだ商品にはならない。中に金属ボタンを入れ、初めて商品として完成する。なかなか象徴的ではある。

ところで商品としての欠点は、発熱時間の短いこと。一時間ほどしか効果がない。朝、発熱させたカイロはもう冷えている。

  はや冷えて酢酸ナトリウムは机上  裕

2011年12月3日土曜日

●脳内処理費用 野口裕

脳内処理費用

野口 裕


アンドリュー・パーカー『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』を読んだときに、一番へえとなったのは、洞窟などに棲息する生物での眼の退化の理由だった。

退化という言葉は語弊があるので適応といった方が良いのだろうが、そうした言葉の問題はともかくとして、眼球から受け取った情報は、そのままでは使えず脳内で処理する必要がある。この処理に必要なエネルギーが結構高くつく。眼をなくして物を見ない方がエネルギーを消費せずに済むので腹が減らない。エサの少ない洞窟内では、腹が減らない方が生存に有利である。というような流れで視覚が押さえ込まれてしまう。そんなことが書いてあった。

そういえば、将棋に凝っていた頃、将棋道場に丸一日いると昼食や夕食を普通に取っているにもかかわらず、体重が前日よりも2kgほど減った。指し手を考え込んでいるときに、脳がやたらエネルギーを使っているということなのだろう。詰将棋の作成にのめり込んだ結核患者が、寝ても覚めても将棋盤が頭から離れず命を縮めてしまった逸話があるが、これも脳の消費するエネルギーが馬鹿にならないことを証明しているだろう。

脳がエネルギーを消費することは理解されにくい。それを示す証左のひとつとして、「マックスウェルの悪魔」が誕生してから悪魔の不在証明に至るまでの歴史を上げることができる。詳しくはウィキペディアの「マックスウェルの悪魔」の項を読んでもらえればよいが、簡単にまとめると以下のようになる。

1. 分子の運動を観察できる悪魔が存在すると仮定する。
2. 悪魔のために、空気の入った箱を用意する。箱の中には沢山の分子が含まれている。
3. 分子の中には、ゆっくり動いているものもあれば、激しく動いているものもある。
4. 箱に仕切りを設け、仕切りには開閉自由の窓を付ける。
5. 窓を閉めたときは、分子は仕切りを通り抜けることができない。
6. 窓を開けたときは、分子を仕切りを通り抜けることができる。
7. 仕切りの左側に、ゆっくりした分子を、右側に激しく動く分子を集めたい。
8. その目的のために、悪魔は分子の動きを監視する。
9. 右側にあるゆっくりした分子が仕切りの左側に移動しようとするときは、窓を開けてやる。
10. 左側にある激しく動く分子が仕切りの右側に移動しようとするときは、窓を開けてやる。
11. 左側にあるゆっくりした分子が仕切りの右側に移動しようとするときは、窓を閉める。
12. 右側にある激しく動く分子が仕切りの左側に移動しようとするときは、窓を閉める。
13. これを続けて行くと、仕切りの左側にゆっくりした分子が、右側に激しく動く分子が溜まる。
14. ゆっくりした分子の集合は温度が低い。
15. 激しく動く分子の集合は温度が高い。
16. 仕切りの左側は低温、仕切りの右側は高温になる。

もし、マックスウェルの悪魔がこの仕事をするのにエネルギーを使わないなら、電気代のいらないクーラーや冷蔵庫ができることになる。そんな馬鹿なことは起こりえない。マックスウェルがこれを考えついた1867年から今日まで、そのことに異論をはさむ者はいない。問題は、どんなやり方をしても悪魔がエネルギーを消費してしまうことをどうやって証明するかにかかっている。そのことに一世紀以上の年月がかかってしまった。

最新の証明によれば、エネルギーを使わずに窓の開閉はできる。また、悪魔が分子を観測するのにもエネルギーを消費せずに済ませることもできる。エネルギーが消費されるのは、一つの分子の開閉作業から次の分子の開閉作業に移るときの脳内作業の切り替えの瞬間に起こる。次の作業に移るために、どうしても前の作業を「忘れる」必要がある。「忘れる」と、その瞬間にエネルギーが消費されてしまうのだ。

マックスウェルの悪魔の脳内を模した電気的な装置を作ろうとした場合、このエネルギー消費の瞬間はジュール熱の放出ということになるので、はなはだ理解しやすい。この最新の証明で、マックスウェルの悪魔には一応の決着がついたとみることができる。

だが、個人的には心穏やかならざるところがある。マックスウェルの悪魔の脳内でエネルギーが消費されるのは、「考える」ではなく、「忘れる」ことで起こるというところだ。もちろん、「考える」ということが何を指し示すかはよく分からない。しかし、丸一日将棋に取り組んで減った体重2kg分のエネルギーが、良い手を考えついたことによるものではなく、悪い手を思い浮かべては捨てる瞬間に起因すると言われているようで、面白くはない。これは、人情というものだろう。

おそらく事態はもう少し複雑なはずで、記憶することにエネルギーが全く消費されないとは考えにくい。それは今後の、マックスウェルの悪魔にかかった年月以上の時間をかけねばならないだろう。マックスウェルの悪魔を手がかりとして、脳が馬鹿にならない量のエネルギーを消費することが理解できるようになったことだけでも良しとしなければならない。

 海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり 若山牧水


2010年6月23日水曜日

〔ぶんツボ〕リブチンスキ 『ねじとねじ回し』

〔ぶんツボ〕
ヴィトルト・リブチンスキ
『ねじとねじ回し この千年で最高の発明をめぐる物語』

文庫のツ ボ、略して「ぶんツボ」
野口 裕


大学に残って実験をしこしことやっていた頃、ちょくちょくプラスドライバー礼賛論を聞いた。生来の怠け者で手先の器用でない当方にも、サイズのぴたりとあったプラスドライバーが+の溝にしっくりとはまり、手元の力をムラなくねじ山に伝える気持ちよさはわかる。それは、マイナスドライバーではちょっと味わえない。マイナスドライバーはサイズがぴたりとあっている場合も、若干の不安な気分が残る。足場が悪い場合や、途中に障害物があり、ドライバーをねじ山に対して真っ直ぐに立てられない時は、ねじ山を潰してしまうのではないかと不安は一層つのる。そこで、プラスドライバー礼賛論者は、-の溝を+にするという、たった一手間でねじ山の崩壊を見事に回避した工夫をおりに触れては讃えるのである。

しかし、いつ頃こんな工夫が生まれたか? その点については礼賛論者も口を噤む。というよりも、そもそもそんな疑問を抱いたことがないだろう。かりに疑問を持ったとしてもどうやって調べれば良いか途方に暮れるのが関の山ではある。

本書、『ねじとねじ回し』の著者、ヴィトルト・リブチンスキが置かれた状況は、さらに茫漠としている。二十世紀が終わろうとしている頃、つまり、ミレニアムとかいう言葉が取りざたされた時期に、この千年間に発明された道具で最高のものは何か、その道具についてエッセイを、と編集者から注文を受けたのである。どうもそれがねじであるらしい、と見当をつけるまでにも、紆余曲折すったもんだが相当にある。

ほとんどの道具は千年以上前に発明されており、候補からずり落ちてしまうのだ。定規、水準器、のこぎり、かんな、のみ、槌、釘、釘抜き、錐、おおかたの道具の場合、古くは古代エジプト、遅くとも古代ローマにその原型がある。どうしても、適当なものが見つからないので、錐の発展型でお茶を濁そうかと考えていたところで、ブレイクスルーがやってくる。

一体なにがあったのかは、本書をひもといてもらうとして、とにかく彼は、古代ローマ人はねじとねじ回しを思いつかなかった、と知ったのだ。著者も驚いているように意外な事実ではある。そこから、最古のねじとねじ回しを探求する彼の旅が始まる。それは二段階に分かれ、まず最古のねじ回し、次に最古のねじ(ねじとねじ回しをセットで考えているので、この辺は若干曖昧ではあるが。)を探すという本書の進行になる。

ねじ回しの探求では、OED(オックスフォード英語辞典)から始まり、ディドロとダランベールの『百科全書』に突き当たる。ねじの探求では、アルブレヒト・デューラーの版画が登場する。もちろんその間にも、当方の知らない本がわんさか登場する。最古のねじとねじ回しがいかなるところに潜んでいるかは、これも本書にあたってもらおう。私なりのヒントを付け加えると、訳者あとがきにもそれについてのエピソードが添えられているように、日本の戦国時代と関連する。

最古のねじとねじ回しの探求が一段落すると、著者の関心は、ねじとねじ回しの発展史に向かう。ねじとねじ回しが、この千年で最高の発明ということを保証するのは、実はこの部分だ。ねじの発展は産業革命と密接に関係している。最初の計算機械、ディファレンス・エンジンもねじの発展なくしてあり得なかった。そして、アメリカ大陸に渡って後は、工場での大量生産の基礎を担う。

この歴史の中で、プラスドライバーも登場する。プラスドライバーが用いられる+の形状のねじ山はフィリップスねじという。しかし、著者のご贔屓はねじ山に四角い穴のある、ロバートソンねじにある。この文の冒頭で言及したフィット感を比べる限り、ロバートソンねじに軍配が上がるようだ。ではなぜ、フィリップスねじの方が使われるようになったのか?これも本書に当たっていただきましょう。

本書はこのあと、ねじを生産する機械としての旋盤の歴史(レオナルド・ダ・ヴィンチが顔を見せる)、グーテンベルグの印刷術を媒介として、ねじの前史に移る。最後にねじの父としてアルキメデスが賞賛されて、終わりを迎える。

文庫本として、最も薄い部類に入る本だが、内容は濃い。たとえば、本書の最後部にある一文、「ねじは古代中国で独自に生み出されなかった唯一の重要な機械装置である。」だけを取り出しても、西洋文明と東洋文明の違いなど、あれこれと考え出すきっかけをあたえてくれる。本書全体を貫く、道具に対する愛情も快い。文庫本の解説にあたる小関智弘氏の肩書、「元旋盤工、作家」がぴたりとはまり、イギリスの小説家アラン・シリトーの自伝などに触れた話題が、画竜点睛となっている。一読して損のない本であることは疑いない。

2009年11月27日金曜日

●鉄バクテリア 野口裕

鉄バクテリア

野口 裕


先日、職場の同僚が鉄バクテリアのことを聞いてきた。とたんに、

  鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中  三橋敏雄

が思い浮かんだが、俳句をやる人ではないのでその話は封印し、聞いてゆくと、どれくらいの倍率の顕微鏡で見えるのかを相談したかったようだ。そう言われても、鉄バクテリアを見たことがない。画像検索をしてみると、一点それらしいのがあった。

≫画像 http://www.dowatec.co.jp/img/tec/water01-02.jpg

バクテリアとしても小さなもののようで、最低で千倍ほどの倍率が必要になりそうだ。手持ちの顕微鏡では見えないだろうと返事した。その人は、河川の浄化に興味があり、鉄バクテリアがそれに一役買っていることから、調べ出したようだ。

興味を引く句でありながら、なぜ今まで鉄バクテリアの姿を調べようとしなかったのか、改めて考えてみると、句の最後の「鉄の中」がくせ者のようだ。鉄の中にあるんだったら見えなくてもしょうがない、と勝手に思いこんでいた。どんな句でも、虚心に読むというのは難しいものだ。思わぬ形で精読する機会を与えられたような気がした。


2009年7月23日木曜日

●団子虫 野口裕

団子虫

野口 裕


スライドを映写して見せる。1枚目は晩秋の山道、落ち葉がたくさんつもっている。2枚目は夏の山道。あれだけあった落ち葉が見あたらない。どこにいったのか? そこで、3枚目に出てくるのが団子虫。せっせと落ち葉を食べて綺麗に分解してしまうのだ。

昔々中学校の理科を教えていた頃、生産者・消費者・分解者の区別を説明するのにそんなことをやった。もっと遡ると、子どもの頃にいったん丸くなったものがいつになったら元に戻るのか、じっと見ていた記憶もある。結局、元に戻るのを待ちきれず放り出してしまったようだが。

その団子虫が、オカダンゴムシというヨーロッパからの帰化動物だったと知ったときの驚きは大きかった。似た種のワラジムシも同じく帰化動物らしい。

ダンゴムシ≫http://homepage2.nifty.com/e-mon/dango/dango.html
ワラジムシ≫http://ja.wikipedia.org/wiki/ワラジムシ

数多ある歳時記を全部ひもといたわけではないが、ダンゴムシもワラジムシも季語ではない。そのせいか俳句データベースで、ダンゴムシ(団子虫)やワラジムシ(草鞋虫)を検索してもほとんどヒットしない。(俳句検索で1句、続俳句検索で10句)夏の季語となっているフナムシ(船虫、舟虫)を検索した場合(船虫で俳句検索18句、続俳句検索で13句、舟虫で俳句検索75句、続俳句検索で66句)との差は歴然としている。

フナムシは昔からいるが、ダンゴムシはそうではない。その差ではないかと考えることもできるだろう。たしかに、在来種のダンゴムシは森の奥や海岸にいたらしいので、人目に付く量には差があったのかも知れない。

そこで同じ時期に日本にやってきたものと比べてみる。団子虫がいつ頃、日本に渡ってきたかについて確定的なことは言えないようだが、おそらく明治時代に渡ってきたのではないだろうか。同じ頃に渡来したと思われる詰草(クローバー)を検索してみるといくつかの句が見つかる(詰草で俳句検索5句、続俳句検索6句、クローバーで俳句検索17句、続俳句検索で10句)。季語であるかどうかの差が若干出ているようだ。

季語という、言葉に対して仕掛けた社会的装置の威力は非常に大きい。そのため、外界への認識に対してフィルターをかけることの結果がその差だろうか。団子虫の句、もうちょっと増えても良いように思う。

2009年2月8日日曜日

●野口裕 父性の在処

父性の在処

野口 裕


生命は、自身のシステムを増殖しようとする性質を持っている。一番古くからあるのは単性生殖で、ひとつの細胞が複数に分裂して増えてゆく。自身のシステムを増やすにはこれで良さそうなものだが、そのうち有性生殖というものが出てきた。

環境が激変したときに、単一のシステムだと全滅しやすいが、少しずつ異なったシステムを持つ子孫があれば、そのうちのどれかが生き延びるだろう。そんな計算のもとに、自身とは少し異なるシステムを持つ生命とシステムの一部を取りかえっこしたのが、始まりだろう。そのうち、取りかえっこするよりも、最初から自身のシステムを分割しておいて、分割したもの同士が合体した方が効率がよいとなって本格的な有性生殖となる。

取りかえっこあるいは、合体を行う生命同士を「配偶子」と呼ぶが、おなじ大きさ同士の配偶子が互いに相手を求めて動き回るのは、効率が悪い。動き回る配偶子と動き回らず合体後の生命の成長を助ける栄養分をたっぷり含んだ配偶子とに役割を固定した方がよい。というような段取りで配偶子は、いわゆる精子と卵になる。

さて、この精子と卵の役割は記号的には♂と♀になるが、これを単純に男性、女性と解釈していいのだろうか?先ほど書いた説明からすると、卵の役割は受精後の生命のゆりかごのようなもので、女性というよりも母性と解釈した方が腑に落ちる点が多い。一方、精子の方は、母性と対となる語は父性だが、父性と解釈するのはためらってしまう。たとえば、父性を代表するような句というと、

  子を殴ちしながき一瞬天の蝉  秋元不死男

が上げられるだろう。しかし、この句にあるような生命の成長を叱咤激励する役割は精子にはない。まだしも、男性だろうが、♂は男で♀は母で対の概念になるというのも変な話だ。

どうも、有性生殖という言葉にだまされて、大きな配偶子である卵は女、小さな配偶子である精子は男と単純に対応させるのが少々問題を含んでいると考えた方が良さそうだ。

男、あるいは父という語のもつイメージには、ライオンやニホンザルなど群をなす哺乳動物にある♂の役割が投影されている。群に乱入する者を追い出すときの役割に男のイメージ、群のリーダーの交代劇に父子のイメージなどがそれにあたる。

他方、ゴリラのように他の群との接触を持たず家族単位で生活する♂のイメージは、男あるいは父に投影されていない。さらに言えば、ミツバチのようなほとんど母系社会での♂の役割(男にとっての理想ではある)は、まったく投影されていない。

男と女、父と母、それぞれの対概念に投影されるイメージは、その生物の持つ社会形態に依存する。と、まったく当たり前の結論に行き当たるが、ややもすると対概念のイメージが保証されたような気になることも多いので、こうした駄文を書くことの意味も多少はあるだろう。

 

句会でちょくちょく会う石部明さんが、川柳ではよく父(というよりも、お父さん)が取りあげられるが、その父は戯画化されている、ずっこけたり、間抜けだったりと、笑いの対象であることが多い、という主旨の発言をよくしている。それを思い出して書いてみた。

2008年12月29日月曜日

●野口裕 驢馬餓死譚(下)

驢馬餓死譚(下)

野口 裕

たとえば、真っ直ぐの棒を堅い床に垂直に立てて、真上から強い力で押すと、棒は最後にぐしゃっと曲がる。押す力の方向や床に立てた針金の垂直度を、どんなに完璧に設定しても、棒がぐしゃっと曲がるときに、押す前にあった左右対称性は崩れてしまう。

物理法則が対称であっても、実際に起こる現象は対称性を破ることがある。これを「自発的対称性の破れ」という。南部洋一郎は、低温の世界での超伝導現象で、「自発的対称性の破れ」が実際に起こっていることを洞察した上で、「自発的対称性の破れ」を素粒子の世界に適用することを考え出した。

素粒子に関する物理法則は対称性(ゲージ対称性という)を有している。対称性のあるのは結構なことなのだが、そのままでは素粒子の質量はゼロになってしまう(註)。ここに、南部の考え出した「自発的対称性の破れ」を利用して、素粒子を現実にあるようなゼロではない質量を持たせることができる。この考察は、物質になぜ質量があるのかを、科学的に追いつめた到達点といえる。

「自発的対称性の破れ」の例は、いろいろとある。棒を真上から押す話は、昔々とある講演会で南部洋一郎自身が語った例である。そのとき、他の例としては、液体が固体に変わるときの結晶化現象なども話していた。しかし、一番わかりやすいものとしては、円卓上のナプキンのことを、彼は持ち出した。

円卓上に、ナプキンがぐるりと置かれている。円卓に丸く並んで座った人から見ると、右にも左にもナプキンが置かれている。最初に誰か一人が右側のナプキンを取れば、他の人達も右側のナプキンを取らざるを得ない。逆に最初の一人が左側を取れば、全員が左側のナプキンを取ることになる。初め円対称だった人とナプキンの配置が、ナプキンを取ることによって崩れてしまう。大体、このようなことを南部洋一郎は話した。

ところで、この円卓の話を、登場人物を一人にして人間から驢馬に変え、左右のナプキンをたっぷりの餌とたっぷりの水に変えるとブリダンの驢馬の話になる。ブリダンの驢馬は、どちらにするか思い悩んで餓死するが、花田清輝が喝破したように、実際はすぐにどちらかを選んで大いに食らいかつ大いに飲むはずだ。もちろん、どちらかを選んだ時点で「自発的対称性の破れ」が起きている。

ブリダンの驢馬について、言い出したのはスピノザであり、反論したのはライプニッツらしいので、「自発的対称性の破れ」を最初に議論したのはこの二人となるだろう。たぶん、論争した二人とも質量の起源がそこに求められるとは思っていなかっただろう。当時は、質量自体がよく分からなかったのだ。なにしろ、スピノザやライプニッツの同世代であるニュートンでさえ、「質量は、体積と密度の積である」という分かったような分からないような定義をしていた時代だから。



(註)ゲージ対称性はもともと電磁気現象で確認された。電磁気現象の元になっている素粒子は光子(光)である。光子の質量はゼロである(相対性理論から、質量がゼロでないと光速にならない)。 このことから、ゲージ対称性のある現象では、元になる素粒子は質量がゼロになると予想される。実際、ゲージ対称性があるような数式に、質量を含んだ項を入れるとゲージ対称性はこわれてしまう。

2008年12月28日日曜日

●野口裕 驢馬餓死譚(上)

驢馬餓死譚(上)

野口 裕


ブリダンの驢馬という話がある。極端に腹が減り、同じぐらい喉の乾いた状態にした驢馬の片側にたっぷりの餌、反対側にたっぷりの水を置いたとき、驢馬は最初に餌を食うべきか水を飲むべきか迷って、ついには餓死してしまうというのである。スピノザが中世のスコラ哲学者ブリダンが言った話として紹介している。花田清輝なども『復興期の精神』で引用していたはずだ。

ところが、ブリダンという人の著作集を調べる限り、この話は載っていない。かなり昔に青木靖三の本、たしか『ガリレイの道』(平凡社1980)、を読んだときにそのように書いてあった。青木靖三によると、ブリダンはスコラ哲学から近代科学への道のりを考えるときに重要な橋渡しを担った人らしい。

当時、神はどのようにこの世界を作っているか、で論争があった。神はことあるごとに奇蹟を行う、という立場の論者と、神は天地創造の時のみに奇蹟を行ったという立場の論者があり、ブリダンは後者の立場の論者だったようだ。

ブリダンのような立場の人は、神が作った世界が不完全であるはずがない。しばしば奇蹟を行うということは、作った世界が不完全だったということになる。そのようなことをするわけがない。天地創造のときに、作った世界が完全であるように完璧な設計をしたはずだ、と考える。そして、天地創造の瞬間のみにはたらいた神の作為を「神の一撃」と表現した。

阪神淡路大震災のおりに起こった地震を、和田悟朗は、

  寒暁や神の一撃もて明くる

と詠んだ。そんなことも思い起こされる。余談。

神が天地創造の時のみに奇蹟をはたらいたのなら、この世に起こる出来事はすべて完璧に計算されているはずだ。では、神がどのような計算をしたのか、この世の出来事を注意深く観察すればすべてが明らかになるはず。と、いうような論理構成で科学への道が開ける。

もし、しばしば神が奇蹟を行うなら、そこに神の計算ははたらいておらず、世の出来事を観察しても何も分からないことになる。それでは科学は成立しない。このようにして、ブリダンの議論は科学への道を用意した。ケプラーが占星術師であったり、ニュートンが錬金術を研究したのも、科学の成立事情を鑑みればそれほど不思議ではない。

ブリダンの功績は以上のようなものだが、いつの間にかそうしたことは忘れられて、ブリダンの驢馬だけが後世に残ったようだ。しかし、いつどのような文脈で言ったのかは、専門家が調べても分からない。言ったかどうかさえはっきりしない。後世の我々は、彼が言った、言わない、の間でそれこそ驢馬のように迷うだけである。

以上のような文章を書いてみたが、書いているうちに、なぜブリダンの驢馬を思い出したかを忘れていた。書き終わって、思い出した。ノーベル物理学賞を受けた南部洋一郎の業績、「自発的対称性の破れ」である。

(明日につづく)

2008年12月7日日曜日

●鳥の四原色 野口裕

鳥の四原色

野口 裕


『鳥の脳力を探る』(細川博昭・ソフトバンククリエイティブ)には、鳥の視力のことが書いてある。それによると、鳥が見ることのできる波長領域はヒトのそれよりも広く、紫外線の領域が見える。

これは寺田寅彦が『とんびと油揚』で論じている以下の事柄のどこが間違っているかを端的に示している。
かりにねずみの身長を十五センチメートルとし、それを百五十メートルの距離から見るとんびの目の焦点距離を、少し大きく見積もって五ミリメートルとすると、網膜に映じたねずみの映像の長さは五ミクロンとなる。それが死んだねずみであるか石塊であるかを弁別する事には少なくもその長さの十分一すなわち〇・五ミクロン程度の尺度で測られるような形態の異同を判断することが必要であると思われる。しかるに〇・五ミクロンはもはや黄色光波の波長と同程度で、網膜の細胞構造の微細度いかんを問わずともはなはだ困難であることが推定される。
さて、どこが間違っているのか。寺田寅彦の文中で〇・五ミクロンとあるのは、五〇〇ナノメートルにあたるが、ヒトが見ることのできる最短波長が四〇〇ナノメートルであるのに対し、鳥は少なくとも三六〇ナノメートル、種類によっては三〇〇ナノメートルまで見える。仮にヒトがとんびの高さまで飛ぶことができても、地上にあるねずみの死骸を見つけるのは容易ではないが、とんびは容易に見つけることができるのだ。

また、ヒトが赤・緑・青の三原色を感じることができるのに対し、鳥は赤・緑・青にプラスして紫を感じることのできる四原色で、色を識別している。ヒトよりもより細かい色の判別ができることになる。

ゴミ袋を、紫色の光を遮断する材質で作ると、ヒトの目からは中の物は普通に見えるが、カラスには識別しにくくなり、食べ物には見えないようになる。このようにして、カラスに啄まれにくいゴミ袋が開発されている。まさに、

  鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ(渡邊白泉)

なのだが、詳しくは、「鶏の見るカンナ」はヒトには見えず、「ヒトの見るカンナ」は鶏には見えない、のだ。


〔amazon〕 鳥の脳力を探る 細川博昭

2008年12月6日土曜日

●鳥声 野口 裕

鳥 声

野口 裕


『鳥の脳力を探る』(細川博昭・ソフトバンククリエイティブ)はいろいろと面白い話や、考えさせられることの多い本だが、後半に「小鳥の歌と人間の言語の共通性」という一節がある。それによると、鳥の鳴き声は、「地鳴き」と「さえずり」に分けられるそうだ。

ウグイスの「笹鳴き」などは、「地鳴き」に分類できる。鳥が生まれながらに持っている声で、多くの場合に一音節である。いわゆる「ホーホケキョ」や「谷渡り」などは、「さえずり」と呼ばれる種類の、多音節からなる音楽的とも感じられる鳴き方である。これができないと、つがいとなるメスや縄張りの獲得に後れを取るので、若鳥は成鳥の「さえずり」を聞きながら上手になるまで練習を繰り返す。ウグイスだけでなく、シジュウカラ、メジロ、ジュウシマツ、カナリア、ブンチョウなど多くの小鳥の種類で独自の「さえずり」がある一方で、カラスのように「地鳴き」だけの鳥もある。

本の前半に書いてある話だが、鳥の聴覚はヒトには無理な細かい音を聞き分ける能力を持っている。「六十四分音符をさらに細かく分割して短い周期で細かく音程を変えたとしても聞き分けが可能」だそうだ。これがあるから、小鳥の「さえずり」は、ヒトの耳には精妙かつ繊細に響くのだろう。

また、小鳥の「さえずり」には、文法があるらしい。「さえずり」は、基本的に高さや音色の定まった短い音の組み合わせでできあがっている。その組み合わせは、単語や句に相当するような音節の連なりで「チャンク」と呼ばれる。「チャンク」を並べて、十秒〜三十秒ほどの「さえずり」が完成するが、「チャンク」の並べ方には一定のルールが存在する。「さえずり」は、後天的な練習によって獲得される能力である。したがって、「さえずり」に存在するルールの会得も後天的なものである。ヒトの言語能力獲得の過程を追求する際に、参照する事項となり得るのではないか、と期待されている。

別件だが、鳥は「遊ぶ」こともこの本に記されている。公園の滑り台をすべるカラスや電線にぶら下がるカラスなどが目撃されている。自然の状態ではないが、飼われているインコやオウムなども籠の天頂にぶら下がって「遊ぶ」ことも知られている。そこで、

  鶯の身を逆にはつねかな  其角

「逆に」は、「さかしまに」と読む。表記は、『基本季語五〇〇選』(山本健吉)にしたがった。従来、奇矯とされているこの句だが、この本を読んでいるうちに、眼前に起こったことを素直に詠んだ句、という気がしてきた。

それでも、遊びが過ぎる、という反論があるかもしれない。もちろん、そうかもしれない。遊びが過ぎるのは、鶯の方なのだが。



〔amazon〕 鳥の脳力を探る 細川博昭

2008年7月11日金曜日

光と色

光と色 ● 野口 裕




少々汚い紙の箱がある。














なかを覗くと、







のぞき穴に仕掛けがあって、右側に虹の七色が浮かび上がる。分光器という。箱の向こう側に光の取り入れ口がある。上の写真では、左側。

そこから、取り入れる光を変えると…







これは、ナトリウムランプの光。高速道路のトンネルの中でよくお目にかかる。ご覧のように虹の七色ではなく、オレンジ系統ただ一色の光となっている。同種の光は、台所でもちょくちょくお目にかかる。塩分を含んだ汁などがガス火に吹きこぼれると、ガス火は異様に黄色い炎を上げるが、ナトリウム元素を含んだ物質が熱せられるとこのような光を放つことで起こる。

元素が変われば、熱せられたときに発する光の色も異なる。色鮮やかな花火の様々な色は火薬の中に仕込まれた諸々の元素が熱せられることで生まれる。

花火 → http://www.yumenara.com/hanabidb/

蛍光灯は水銀蒸気から発せられる光を用いるが、なるべく自然の光に近くなるように蛍光灯の管内部に蛍光物質を塗ってある。








        
少々取り入れる光が強すぎて、写真の出来の悪いのは勘弁して欲しいが、紫のあたりにぴかりと光る部分が水銀蒸気から発せられるもので、連続的に広がる虹の七色は蛍光物質から発せられている。

ちょっと不思議なのは、紫の部分に肉眼では一本の線しか見えないのにカメラでは二本の線が見えていることだ。一番左側の部分は肉眼では紫外線の領域に入って見えていないのかも知れない。カメラは携帯電話のものなのでそれほど高級でもないのだが。また、写真が悪いので見えにくいが、緑の部分にも、ぴかりと光るところがある。

ナイター照明に使うカクテル光線は、蛍光物質抜きの水銀灯とナトリウムランプを混合して使う。







いつも不思議に思うのは、光の色とは光の波長の違い(この写真では光の取り入れ口から近いか遠いかの距離)に過ぎず、波長という単なる数字で一元的に表されることだ。赤いとか、緑とか、青だとかに質的な相違はない。にもかかわらず我々の感覚では歴然と違う。光の波長という数的で一元的なものを、質的な違いとなぜ感じるのだろうか?

植物の光合成では、虹の七色のうち主に、中央部分を除いた赤い部分と紫の部分が利用される。利用されない光は、植物に吸収されず反射される。植物が緑色に見えるのは、そうしたことが反映している。













我々の色覚は、植物の跳ね返す光の色を基準として、生まれてきたのではないか。というのが、私の妄想だが、あまり当てになる話ではない。