2020年4月28日火曜日

【名前はないけど、いる生き物】 できあいの郊外 宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
できあいの郊外

宮﨑莉々香

灰色がさくらをずれて見おくるよ
ゆすらうめ薄く日差して丘の家
花の蜜のあんた何時まで吸ふストロー
いたどりやブースカランド今はない
しらかばを友ほほゑみは遅れて来る
蝶のゆく並木はづれの風ぐるり
まなざしてゐるふうせんのまぎれこむ
街かどのふうせんだらけ真つ昼間
傷の手がふうせん握る消え去りぬ
いつかない部屋ふうせんの子どもたち
ヒヤシンス手を振るときをこれまでも
つつじ垣雨のさつきの町暗い
しゃぼん玉ぼんやりを足あととゐる


2020年4月24日金曜日

●金曜日の川柳〔森山文切〕樋口由紀子



樋口由紀子






はんぺんかたまごかすじか退職か

森山文切 (もりやま・ぶんせつ) 1979~

上五中七までは鍋のなかのおでんをどれにしようと迷っているふうである。それが、突然の、結句の「退職か」である。実際におでんを選んでいるときに、ふと、今はそれどころではないことに気づいたのかもしれない。おでんはなんだっていい、どれを食べてもそう大差はない。なによりも人生に影響するものではない。しかし、職を続けるか、辞めてしまうかは、生活していくうえで重要課題であり、目下の最大の悩みである。今、決断を迫られている。

おでんを隠れ蓑して、カモフラージュしないと、大事なことが言えない。どさくさに紛れて、あるいは、たいしたことのないように見せかけて、スルーさせながら、独り言のように、内面を吐露する。それがかえって、現実を一気にぐっと引き寄せる。『せつえい』(2020年刊)所収。

2020年4月22日水曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集

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2020年4月20日月曜日

●月曜日の一句〔菅美緒〕相子智恵



相子智恵







裏山も遺品の一つ木の芽張る  菅美緒

『シリーズ自句自解II ベスト100 菅美緒』(ふらんす堂 2018.6)所載

〈遺品〉とは「死んだ人があとにのこした品物。多く、身につけていた物をいう」と辞書にもあるように、装飾品など小さめの品物をふつうは思うから、〈裏山〉に意外性があって面白い。なるほど、庭や裏山も、その人が愛着をもって日々世話をしていれば、それは〈遺品〉と言えるのだろう。「作庭」という言葉もあるように、庭は作品という感じがして遺品らしさもあるが、〈裏山〉はもっと素朴に、ただそこにある感じがするのも面白い。

元は句集『洛北』(ふらんす堂 2009.4)に収められた句だが、自句自解の企画本より引いた。自解によれば、旧白洲邸の武相荘の裏山を見ての作だという。私は山廬の裏山を思い浮かべた。

生命力のある〈木の芽張る〉がいい。自分の土地か、そうでないかなどおかまいなしに、さらには人が世話したかどうかなど関係なく、木の芽は時が来れば漲り、育つ。〈遺品〉と思うほどに故人の愛着を感じさせながら、一方で何にもとらわれない自然な〈裏山〉。遺品なのに執着や湿っぽさが一片もなく、不思議と元気が出てくる句だ。

2020年4月15日水曜日

●鉄



鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中  三橋敏雄

鉄を打つ一瞬カンナ黄に眩み  三橋鷹女

ひもじきとき鉄の匂ひの秋の風  山口誓子

月夜経て鉄の匂いの乳母車  林田紀音夫

玄冬の鷹鉄片のごときかな  斎藤 玄

年新し狂院鉄の門ひらき  西東三鬼

鉄は鉄幾たび夜が白むとも  生駒大祐〔*〕


〔*〕生駒大祐句集『水界園丁』(2019年6月/港の人)

2020年4月13日月曜日

●月曜日の一句〔小川軽舟〕相子智恵



相子智恵







畳の上で死ぬため春の家探す  小川軽舟

「俳句」2020年3月号 特別作品50句「見つけたり」(角川文化振興財団 2020.2.25)所載

雑誌の発売日から言って、掲句を詠んだのは遅くとも今年の2月初頭以前だろう。そこから世界は大きく変わった。畳の上で(自分の家でという意味で)死ねないかもしれない事態が起き、その恐怖が世界中に渦巻いている。私自身、たかが2、3カ月前までの平穏が、遥か遠い昔のことのように思えて仕方がない。その後の世界となった今の時点から掲句を読むと、懐かしいような、複雑な気持ちになる。掲句は50句を締めくくる一句なのだが、そのひとつ前の句は

  麗かや眠るも死ぬも眼鏡取る

という句で、やはりこれも、今読むと違う意味で重い。作品と社会との間には、こういうことが巡り合わせとして起きてしまうこともあるのだ。作者の代表句には

  死ぬときは箸置くやうに草の花 (句集『呼鈴』2012年)

もあって、〈死ぬとき〉の風景を俳句上で形づくることは作者にとって息の長いテーマのひとつなのだろう。三句の方向性は近い。穏やかな日常の中の死。

こうした「死ぬとき俳句」には、今の心理状態では(いや、きっと平時であっても)実は、ちょっと乗れないところがあって、それは今の私が「生きねば、生かさねば」という人生のフェーズにいるからなのだろう。20年後に読んだら、また違う読後感なのだと思う。

しかし、穏やかな死の風景は、一つの祈りだ。それは穏やかな生を意味するのだから。一人でも多くの人が、穏やかな生を全うできるように祈りながら、行動する春である。

2020年4月10日金曜日

●金曜日の川柳〔緒方美津子〕樋口由紀子



樋口由紀子






酔っぱらい誰の靴でも合わせます

緒方美津子

緊急事態宣言が出された。新型コロナウイルスの感染拡大で憂鬱な日々が続いている。いつまで続くのか。春なのに、桜が咲いているのに、気分は縮こまり、モチベーションが上がらない。

そんなときにふと目にした一句に心がなごんだ。飲み会の後で靴がないというよくある一騒動を思い出す。そのほとんどはサイズも色も違い、間違えるはずのない靴が残っている。残った靴はどう見てもその人にしては大きすぎるか小さすぎる。ということは、間違って履いて帰った人は窮屈だとか、ぶかぶかだったり、ヘンだと思わなかったのか。酔いもまわれば、気分の大きくなり、どんな靴でも足はOKを出してくれる。酔っぱらいの底なしのいいかげんさを見事に言い当てている。

早く、普通の暮らしに戻りたい。句会も飲み会もして、「どうやって、履いて帰ったんやろ」と大声で笑い合いたい。

2020年4月8日水曜日

●デパート

デパート

春の口紅三越の紙の色  須川洋子

遠足の列大丸の中とほる  田川飛旅子

盆セール過ぎしデパート窓灼けて  石塚友二

雛車とまづ伊勢丹が屋に描く  中村汀女

春の楽団デパートの間から  井上郁代〔*〕

幾千代も散るは美し明日は三越  攝津幸彦


〔*〕『街』第138号(2019年8月1日)

2020年4月6日月曜日

●月曜日の一句〔久留島元〕相子智恵



相子智恵







春一番あなたにおすすめのワード  久留島 元

「俳句」2020年3月号 精鋭10句競詠「早春賦」(角川文化振興財団 2020.2.25)所載

一読、「余計なお世話じゃ」と笑ってしまった。その後で「ふーむ」と考えさせられるのである。

例えばAmazonで買い物をすると出てくる「あなたにおすすめ」のAIによるレコメンド。購入者である私たちの趣向性はみごとにAIに把握されている。世界中の何億もの商品の中から自由に選んで買えるはずのインターネットでの購買活動一つ取ってみても、自分の世界は無限に広がったように見えて、実は〈おすすめ〉によって、知らないうちに自分の興味の中だけに狭められている。選択肢が多すぎて選べない私たちにすり寄ってくる、そのうすら寒い親近感。

それが俳句作者に対するものだとしたら〈あなたにおすすめのワード〉ということになるのだろう。自分が使っている言葉を元に、AIがおすすめしてくれる言葉とは。「言葉」とせずに〈ワード〉とした軽さもうすら寒い。

一緒に掲載された短文には〈一年を四等分する本来の考え方からは本末転倒かもしれないが、名のみの春は、暦の感覚が遠い時代ならではの季語としてもいいだろう〉とあって、ああ、季節の実感が乏しくなった現代には、こうした〈名のみの〉こそが一周回って親しくもあるのかもしれないな、と思った。その感覚と〈あなたにおすすめのワード〉というバーチャルな「らしさ」への〈おすすめ〉の感覚は、通底しているように私には思える。

2020年4月3日金曜日

●金曜日の川柳〔北村泰章〕樋口由紀子



樋口由紀子






尾を少しずらすと初春の陽が当り

北村泰章 (きたむら・たいしょう) 1943~2007

縁側で猫が日向ぼっこしているのだろうか。ほどよく陽の当たる位置で眠っている。陽の動きに合わせて、尾も微妙にずらしている。猫は頭がいい。猫を見習わなくてはと思ったのだろう。

こんなちょっとしたことで陽に当たることができる。自分は一体何に意地を張っているのか。少し妥協すれば、少しだけ歩みよれば、そうすれば、陽も当たる。全身ではなくてもいい、さきっちょの尾をほんの少しずらすだけでいいのだ。どうして、そんな簡単なことにいままで気づかなかったのか。そう思うと心にも陽が当たったようで、心が軽くなってくる。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。