2011年10月31日月曜日

●月曜日の一句〔小島健〕 相子智恵


相子智恵








銀漢に体濡らして戻りけり  小島 健

句集『小島健句集』(2011.9/ふらんす堂)より。

しみじみと美しい句である。

空気が澄んだ秋の夜、作者は満天の星空を見上げている。ことに大きな天の川が印象的だったのだろう。作者の心はまるで、天の川の中をザブザブと泳いできたかのように、戻ってきてからもずっと星の余韻が占めている。

〈銀漢に体濡らして〉は「天の川」という言葉から連想される知性的な把握でありながら、その知的さが「ドヤ顔」をしていない。詩的で主観的だが、それでいて他者が十分に共感できる叙情を内包した一句である。


2011年10月30日日曜日

〔今週号の表紙〕第236号 Jack-o'-lantern 猫髭

今週号の表紙〕第236号 Jack-o'-lantern

猫髭


「ジャック・オー・ランタン (Jack-o'-lantern) 」は、10月31日のハロウィンに、大きな南瓜の蔕のある上部をカットして中の種を取り、顔を刻んで蝋燭を立てて魔除けにするランタンのことである。この猫のランタンは、5年前、ボストンの友人宅でわたくしが俳号にちなんで作ったもの。ジャックにちなんで、普通はランタンを持つ男の顔を刻むことが多いので、猫のランタンは珍しかったのか、玄関に飾ると小悪魔の仮装をした近所の子どもたちが「トリック・オア・トリート(Trick or treat. 悪戯しちゃうよ、御馳走してくれないと)」と寄って来ては、このランタンが欲しいとねだった。

このランタンに使われる橙色の大きな南瓜は、中は空洞に近く、大きな種が一杯入っており、この種を洗って、フライパンで炒って塩を振りかけ、殻を歯で潰して中の実を食べると、香ばしくておいしかった。中華街へ行くと、塩味の向日葵の種や南瓜の種を売っているが、あれのばかでかい奴で、炒りたてはビールやワインのツマミによく合った。


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2011年10月28日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







紀元前二世紀ごろの咳もする


木村半文銭 (きむら・はんもんせん) 1889~1953

今秋は寒暖の差が激しく、急に冷え込むことが多い。すると風邪をひきやすく、喉も痛くなり、咳が出る。身体が異物に反応して、防御する。「紀元前二世紀ごろの咳」とはなんとスケールが大きく、言葉が豊かに使われているのだろうか。「ごろ」と「も」も絶妙である。その咳を通して、遥か昔に繋がっている自分の存在を確かめているようである。

「紀元前二世紀」に意味を持たせようとはしていないと思う。私が今ここに生きて動いていることを実感し、人というものの存在、その不思議さを詠んでいる。

木村半文銭は新興川柳運動に尽力した。〈夕焼の中の屠牛場牛牛牛牛牛牛牛牛牛牛〉(昭和11年)〈亀の子のしっぽよ二千六百年〉(昭和12年)。

2011年10月26日水曜日

●乙女

乙女

乙女の掌乙女くさくて花すみれ  永井龍男

明治節乙女の体操胸隆く  石田波郷

若狭乙女美し美しと鳴く冬の鳥  金子兜太

早わらびの味にも似たる乙女なり  遠藤周作

山焼く火かなしきまでに乙女の瞳  星野麦丘人

乙女らよ空蝉の背の割れざまよ  永島靖子

乙女座に九十年もいて男  渡辺隆夫

2011年10月24日月曜日

●月曜日の一句〔しなだしん〕 相子智恵


相子智恵








流星のあと人間に脚二本  しなだしん

句集『隼の胸』(2011.9/ふらんす堂)より。

〈流星〉と〈脚二本〉が面白い取り合わせだ。流れ星を見かけたあとに、人間には脚が二本あるのだなぁと、しみじみ思っている。

人類は進化の中で立ち上がり、脚が二本になった。教科書には人類の進化の図が掲載され、当然のようにそう習うだけだが、初めて立ち上がってみせた人のことを、ふと考えることがある。最初に二足歩行をした人は、立ち上がれたこと、二本足で歩いたことをどう感じたのだろう。流れ星を偶然見かけたような喜びだろうか。

流星は“願い事”を想起させる。「星に願いを」だ。すると〈人間に脚二本〉が、叶えられた願い事のようにも思えてくるのである。


2011年10月23日日曜日

〔今週号の表紙〕第235号 修学院離宮 隠岐灌木

今週号の表紙〕第235号 修学院離宮

隠岐灌木



桂離宮と並ぶ江戸初期の山荘であり、上・中・下の御茶屋から構成されている。

上御茶屋は隣雲亭を中心に広大な苑池と中島からなり、隣雲亭からは、遠く鞍馬・貴船・愛宕の山々を背景に京都市街が一望できる。

なお、見学については事前に宮内庁京都事務所に、郵送・直接申請あるいはインターネットを通じ参観許可を得る必要がある。
http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/shugakuin.html


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2011年10月22日土曜日

●落選展2011、応募締切、迫る!

落選展2011、応募締切、迫る!

締切:10月29日(土)
詳細はこちら▼
http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/09/2011_04.html

2011年10月21日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







明日らしく新金属が煮えている


兵頭全郎(ひょうどう・ぜんろう)1969~

兵頭は以前「書くほどの思いを僕は持っていない」と発言したことがある。確かにこの句に作者の思いは見当たらない。そして、意味を一つ一つ拾っていっても解釈は困難である。

「明日らしく」とはなんという日本語であろうか。しかし、ここを「私らしく」とか「男らしく」にすると何もおもしろくない。「新金属」だって、どんな金属?と首を傾げる。新人類は人類には変わりないが、新金属は金属とは別のもので、煮えるのかもしれないと思ったりもする。未知の明日を想定しながら新金属というものが煮える。

作者の思いや判断があまりにもはっきりと出すぎて、そうとしか読めなくて、かえってつまらなくなってしまう川柳もあるが、この句はその真逆。このような形で意味を放出する川柳もある。「Leaf」(第4号 2011年7月)所収。

2011年10月20日木曜日

【俳誌拝読】『都市』2011年10月号を読む

【俳誌拝読】
『都市』2011年10月号を読む

西原天気


中西夕紀主宰を発行・編集人とする結社誌。

巻頭は外部からの寄稿、筑井磐井「ゆらゆら季語」(俳句の歴史入門講座21)。太陽暦の採用で、さまざまに「よく分からない」ことが起こっているという話題。例えば、月ごとに編集された歳時記では「節分」が冬に含まれてしまうケースがあること、原爆忌は8月なので秋の季語に分類されてしまうことなど。俳句分野に限らずたびたび指摘される不具合ですが、これ、なんとかならないのでしょうかね?

記事は他に、桂信子、蛇笏・龍太、前田普羅など作家論、他誌レビューなど豊富。


以下、主宰および会員諸氏の作品から。

血色の良き僧の出で梅干せり  中西夕紀

少年は鉛筆の芯炎天下  本多 燐

ハンモック通りすがりに揺らしけり  栗山 心

車止めまでふらここの影のくる  城中 良

走り根を階段にして風涼し  高木光香

声のなき鯉の大口柿の花  盛田恵未

日当るや羽色の失せて糸蜻蛉  小林山荷葉

新築の家を映して金魚池  星野佐紀


「都市」俳句会 ウェブサイト

2011年10月19日水曜日

●バス・ストップ

バス・ストップ

ぜつたいのごとし南のばすすとつぷ  阿部完市

バスを待ち大路の春をうたがはず  石田波郷

バスを待つ傘の相寄る花の雨  吉屋信子

玉萵苣の早苗に跼みバス待つ間  石塚友二

巴里祭のおんぼろバスの青けむり  辻田克巳

真冬日をバスは二時間来ぬつもり  櫂未知子


2011年10月18日火曜日

【俳誌拝読】『鏡』第2号を読む 野口裕

【俳誌拝読】
『鏡』第2号(2011年10月)を読む

野口 裕


『鏡』は八田木枯を中心とした集まりで、編集・発行は寺澤一雄。

冊子の表をめくると、細かな色糸を透き込んだ薄い紙が一枚挟んである。体裁には無頓着な当方にも、造本には気を遣っているとわかる。奥付の発行所の住所が間違っていたようで、ボールペンで数字が消されている。冊子の裏には、新しい住所が貼り付けてある。発行部数は知らないが、これを一部一部施した手間は馬鹿にならないだろう。句会に止まらない集団のエネルギーがこんなところにも現れている。

気になる句を上げて、鑑賞を織り込んでみることにする。

  老獪のさらしくぢらでありにけり  八田木枯

よくあるやり方に、印刷された句へ直接○を書き込むのがある。当方にはどうも性に合わず、その方法は敬遠していたが、別紙に書き込むゆとりを持つのが難しくなり、今回は直接書き込んでみた。ところが、ここに句を取り上げる段になると、○を書き込んだ句とは異なる場合が多かった。

慣れないことはやるものではないと、ちょっと反省しているが、八田木枯の句に関しては、動かなかった。昨今の鯨を取り巻く状況をも踏まえて、老獪の一語は不敵な面構えの自画像を作り上げる役割と、世の状況に対する韜晦の意味合いをかねて巧みとしか言いようがない。


  パンに牛酪(バタ)たつぷり平塚らいてう忌  大木孝子

久保田万太郎の句が、「パンにバタたつぷりつけて春惜む」。一瞬、平塚らいてうが脂肪分の摂りすぎで太った人だったのか、と思ったが、画像を検索してみると違った。

トーストという名の優秀な牝馬がいた。後にダービー馬の母親になった。そんなことも思い出した。


  舟を出さうか小鼓の穿つ穴  羽田野令

額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」を思い出すが、これは空似か。しかし、頭の中を離れない。小鼓の繰り出す鋭く高い音により、天空に穿った穴が月になるのだろうか。

あるいは、ホトトギスの同人、西山泊雲の作った丹波の地酒は虚子により「小鼓」と命名され今に至る。穿たれた穴は、したたかに酔ったおのれの五臓六腑。小鼓の音は、「チゝポゝと鼓打たうよ花月夜」(松本たかし)とばかり、乱打される。(鑑賞文中、季節の混乱あるも酔いのなせる技、乞寛恕。)


  米ナスを間違へてゐたテロリスト  大上朝美

さうかさうだったのか、と鑑賞文までが歴史的仮名遣いになりそう。


  人間と風が案山子を動かせる  寺澤一雄

案山子を動かせる風となると、実際には強風のはずだが、なんだか優しい風のように聞こえる。乱暴な動物であるはずのホモサピエンスまでが優しく見える。案山子の功徳にちがいない。


  コーヒー豆のやうなる地図記号薄暑  木綿

コーヒー豆に似ている地図記号は、何だろうか。○書いて中にシミみたいな印があるやつだろう。いずれにしろ、街中で地図を睨みつつ目的地を探すとなると、風を感じる余裕などなくなる。涼を求めて、コーヒータイムとしたことだろう。


  新緑や不吉な話ばかりして  村井康司

誰の言葉だったか、「四月は残酷な季節である」というのがあった。句の含意には、同じようなこともあるはずだ。三月は色々なことが次々と起こった。色々なことはまだまだ続く。


  子鹿の目天の河へと流れ入る  谷雅子

生命観の横溢しているはずの子鹿の目が天空に流れ込む。生死のない交ぜになった時間が訪れる。夜の夜たる由縁ではある。


  洋服の青山に入る赤い羽根  西原天気

東京の地名にちなんだ句群。東京にはあまり行ったことがないので、青山というと斎藤茂吉や北杜夫のことぐらいしか思い浮かばない。ではあるが、「洋服の青山」は知っている。背広を買ったこともある。

赤い羽根は、丸善に入った檸檬ほどに誰かをどきどきさせてくれるだろうかと考えると、残念ながら、昨今の赤い羽根は針を持たずにコバンザメよろしく、両面テープでべたりと服地に貼り付ける。情けなくも現代である。



俳句同人誌「鏡」のブログ

〔関連記事〕
長嶺千晶 俳人はなぜ俳誌に依るのか 『ひろそ火 句会.com』『紫』『鏡』を読む
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2011年10月17日月曜日

●月曜日の一句〔沼田真知栖〕 相子智恵


相子智恵








一木を楔となして大花野  沼田真知栖

句集『光の渦』(2011.9/ふらんす堂)より。

広大な花野を繋ぎとめるかのように生えた、一本の木。この木は何の木だろう。

紅葉しているのか、常緑樹だろうか。あるいは枯ちた大木のようにも、人間が忘れ去った一本の杭のようにも思える。

〈大花野〉は一枚の美しい布のように、この木に繋ぎとめられている。風が吹けば秋の草花たちは一斉に靡き、まるで大きな旗がはためくようだ。その草花をぐっと繋ぎとめた一木は、私の頭の中では堂々とした輪郭の木なのだが、影絵のように漆黒でその姿が見えない。

〈大花野〉はぐんぐんと広がってゆき、やがて空へと舞い上がる。一本の木が〈楔となして〉いることで、私の想像の〈大花野〉は、かえって安心したように、自由に悠々と広がってゆく。

この〈一木〉こそが、広がりを生んでいるのだ。


2011年10月16日日曜日

〔今週号の表紙〕第234号 テント 鈴木麻衣

今週号の表紙〕第234号 テント

鈴木麻衣


朝霧JAMという、キャンプをしながらライブを楽しめる音楽フェスにいってきました。朝霧高原は天気もよく、芝生の緑に色とりどりのテントが広がってきれい。目の前富士山を眺めながら、ビールを飲んでライブ!最高でした。


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2011年10月15日土曜日

●星条旗

星条旗

舞ふブロンドの髪のサラダよ星条旗  攝津幸彦

亜米利加の船へ売らるる干鱈かな  会津八一

アメリカの国旗を巻いて裸なり  依光陽子


2011年10月14日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







滑り台怒ったまんま降りて来る


金築雨学(かねつき・うがく)1941~

「怒ったまんま」と言われて、はじめて滑り台を怒った顔で降りてくる人が少ないことに気がついた。滑り台から降りるときにほとんどの人はなぜか笑っている。口を半開きにして、照れくさそうに滑ってくる。遊具というのはそういう意識で接するもので、そのような意識を持たせる強制力があるのかもしれない。

いやだと言うのに無理矢理滑らされたのだろうか。滑り台をすべったことぐらいでは解消できない怒りがあったのだろうか。「まんま」だから、下に降りて来るまでずっと怒っていたのだろう。笑って降りて来ると思い込んでいる心理の落差をついている。

お悔やみの言葉を言い慣れてしまう〉〈白という面倒くさい色がある〉〈どこまでも追いかけてくる郵便夫〉 雨学の句はあたりまえのことをあたりまえに詠んでいるのに、どこかこわい。川柳作家全集『金築雨学』(新葉館出版 2009年刊)より。

2011年10月13日木曜日

●きんつば

きんつば

きんつばに硬き四隅や春の空  山口優夢〔*1〕

きんつばの餡透きとほる雪間かな  馬場龍吉〔*2〕


〔*1〕句集『残像』(2011年7月・角川学芸出版)
〔*2〕『蒐』第6号(2011年3月)所収

2011年10月12日水曜日

●皇帝

皇帝

皇帝の最初の和音秋の恋   遠藤治

0:35から

2011年10月11日火曜日

●パンツ

パンツ

少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ  山田耕司

無花果にパンツ一つの明るさ立つ  平畑静塔

ポケットからパンツが出て来た淋しい虎  大原テルカズ

パンツ脱ぐ遠き少年泳ぐのか  山口誓子

侍はパンツの中にシャツを入れ  樋口由紀子

2011年10月10日月曜日

●月曜日の一句〔嵯峨根鈴子〕 相子智恵


相子智恵








おしやべりな臓器ここにも小鳥来る  嵯峨根鈴子

句集『ファウルボール』(2011.7/らんの会)より。

〈臓器〉の一語が異質である。

〈おしやべりな〉と〈小鳥来る〉という季語には絵本的なかわいらしさ・明るさがあるが、そこに埋め込まれた〈臓器〉という語のグロテスクさにドキリとしてしまう。

だがその気持ち悪さを目の前にして、じぃっとこの句に立ち止まってみると、なんだかふつふつと面白さが湧いてくる。

たとえば、人間の心臓や肺や胃が〈おしやべり〉だと想像してみる。

心臓はくぐもった低めの声、肺はすーすーと抜ける声、胃の声音は意外と甲高そうだ。私たちの臓器は働き続け、たしかに音を立てているのだから、意外と想像に難くないな、と思った。

そんなおしゃべりな臓器の自分の前に、にぎやかな鳴き声のたくさんの小鳥たちが遠方から渡ってくる。にぎやかな小鳥の喋りに応じて、臓器がそれぞれ喋りだしたなら。

それはそれで奇妙な絵本のようで、妙に牧歌的な気持ちになるのだった。


2011年10月9日日曜日

〔今週号の表紙〕第233号 工場

今週号の表紙〕第233号 工場

西原天気



富岡製糸場が建てられたのは明治5年(1872年)。歴史については、こちらに詳しいのですが、操業停止は昭和62年(1987年)、ほんの二十数年まで操業していたことにむしろ驚きます。「日本史」のなかの存在だったものですから。

現在、跡地は観光・文化施設として保存され、構内各所、工場内が見学できます。


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2011年10月8日土曜日

〔人名さん〕ギャル曽根

〔人名さん〕
ギャル曽根


天高くギャル曽根ちゃんが結婚する  衣斐ちづ子


馬は肥えるが、ギャル曽根はいくら食べても、肥える気配がない。


掲句は、衣斐ちづ子「ギャル曽根ちゃん」10句〔『雷魚』(第88号・2011年10月1日)所収〕より。

(西原天気)


2011年10月7日金曜日

●金曜日の川柳 樋口由紀子


樋口由紀子
  







なんぼでもあるぞと滝の水は落ち


前田伍健 (まえだ・ごけん) 1889~1960

滝を詠んだ有名な俳句に後藤夜半の〈滝の上に水現れて落ちにけり〉がある。伍健の川柳と並べると俳句と川柳の違いの一端が見えるように思う。夜半の俳句は作者の顔は見えないが、伍健の川柳には作者がぬうっと顔を出している。

どちらも実際に滝を見ての写生句だろう。夜半はあくまでも滝を見ている人であり、滝そのものを詠んでいる。それに比べて伍健は滝に成り代わって詠んでいるのだが、つまりは滝を自分に引っ張り込んでいるのだ。滝を見て、なんぼでもあるぞと言いながら落ちているように、作者が思ったのだ。滝は「なんぼでもあるぞ」なんて考えもしないはずである。「なんぼでもあるぞ」という言い回しのおかしみと生き生きさが川柳の味を引き出している。

前田伍健は野球拳の創始者としても有名である。多才で粋人であったらしく、漫文で活躍し、句に自作の絵を添えたものが数多く残っている。

2011年10月6日木曜日

【俳誌拝読】『ににん』2011年秋号を読む 西原天気

【俳誌拝読】
『ににん』(vol.44 2011年秋号)を読む

西原天気


巻頭、清水哲男氏の短文「写真の目」(シリーズ・下連雀からの眺め 7)は、写真の裏切りについて。
偶然の介入による諸事情によって隠される物、逆に見えなかったものが露出されてしまうという事態。それらは撮影者の意図を簡単に裏切るばかりではなく、可視の世界を何度でも再構成するエネルギーに満ちていて興味は尽きない。
そして、そうした「カメラの目」に言えることは、むしろ「俳句の目」にこそ言えると結ばれる。

写真にこちらの意図と違うものが映ってしまう楽しさを、私もたびたび味わっているので、とてもよくわかる一文でした。俳句も、意図の外で言葉が結ばれるようになればいいのですが、こちらはなかなか難しい。


以下、同人諸氏の新作から気ままに。

  姫ごとも此の面さげて睦月かな  伊丹竹野子

  ペンキ屋の二階娼窟守宮鳴く  武井伸子

  かなぶんの花に潜りて花落つる  服部さやか

  稲妻の静かに走る静かな夜  新木孝介

  八月の柱一つを拠り所  岩淵喜代子

2011年10月5日水曜日

●England

England

三椏や英国大使館鉄扉  佐藤鬼房

秋の薔薇英吉利晴れてゐるらしき  梶千秋

マフラーの裏のちひさき英国旗  太田うさぎ〔*〕


〔*〕『蒐』第6号(2011年3月)所収


イギリスの形って胸の大きさ気にしてる女の子に見える


2011年10月4日火曜日

●麻雀

麻雀

麻雀に過去も未来もなきおのれ  藤木清子

リーチ棒灯火親しむべく放る  守屋明俊

麻雀といふ秋の夜の過し方  三村純也


2011年10月3日月曜日

●月曜日の一句〔中西夕紀〕 相子智恵


相子智恵








いくたびも手紙は読まれ天の川  中西夕紀

句集『朝涼』(2011.7/角川書店)より。

この句は〈いくたびも手紙は読まれ〉と手紙を主体にすることで、手紙を書いたり読んだりした「人」の匂いをあえて感じさせない表現となっている。それにより、手紙そのものの本質に迫っていると感じた。

何度も読み返したくなるような、心をつなぐ手紙は、はるか昔から無数の人々の間で取り交わされてきたし、これからも交わされることだろう。

そんな古今東西の数限りない手紙の束と、人と人との心の交流を思うとき、無数の星の集まりである〈天の川〉の輝きを同時に感じることができる。

〈天の川〉の星々の光が地球に届くまでの時間・空間の広がり、川に見えるほどの星の密度。それらが、古今に交わされ、何度も読み返された数限りない手紙の時間・空間の広がり、無数の人々の心にともった光と響きあうのだ。

じつに美しい取り合わせの一句である。


2011年10月2日日曜日

〔今週号の表紙〕第232号 ハンバーガー同盟 藤田哲史

今週号の表紙〕第232号 ハンバーガー同盟

藤田哲史


この世には、いろいろな縁がある。
親子の縁も、落し物を拾った(拾ってもらった)縁も、その一つだ。
そのなかで、恋というのは、なかなか物理的確証に乏しい縁である。

もしかしたら、
恋人たちがどこかへいそいそと出かけるのも、
プレゼントをしきりにあげるのも、
確証、なるものが欲しいからかもしれない。

場所や物を媒介にして、どうにか間柄をたしかめようとして。
目にみえるものが関わると、いくぶん安心すると考えて。

かくしょう。

でも、そんなものなんて、ない、とうすうす気付いてはいる。

窓の外を眺めた。
昼でもずいぶん涼しくなってきた。
かくしょう、と小さくつぶやくと、よけいに身体が冷えた、ように感じた。

もし恋人と行く場所が、決まってハンバーガー屋さんであるなら、
その人とのほんとうの間柄は、恋人ではなく、”ハンバーガー同盟”なのではあるまいか。

そう考えてしまえば、恋心がうすれてしまっても、
その人と一緒にハンバーガーを食べに行く間柄を続けることができるではないか。

これは、すばらしい思いつきだ。

そして、いつかハンバーガーに厭きはじめたら、次の”同盟”を考えたらいい。
考えつかなかったら、”何の同盟にするか考えよう同盟”をむすべばいい。


撮影場所:RACCOS BURGER(岡山)


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2011年10月1日土曜日

●十月

十月

十月の死や切株に星を置き  中島斌雄

十月のてのひらうすく水掬ふ  岸田稚魚

十月の闇のかけらのチョコレート  高野ムツオ

十月の男女はみんな甘納豆  坪内稔典

十月の雨の匂いがして受胎  対馬康子