2017年10月31日火曜日

〔ためしがき〕 『ゴドーを待ちながら』の問い 福田若之

〔ためしがき〕
『ゴドーを待ちながら』の問い

福田若之


サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を最初に観るとき、ひとが問うのは、おそらく、ゴドーはいつ現れるのだろうか、ということだろう。

つぎに観るとき、そのひとが問うのは、おそらく、ゴドーはいつか現れるのだろうか、ということだろう。だが、そんなことは分からない。それは何度この劇を観ても分からないことだ。だから、ひとはついついこの問いのもとで立ち止まってしまう。そのとき、このひとは図らずも『ゴドーは待ちながら』の登場人物のひとりになってしまうだろう。

だが、この演劇が提起している問いはもっと別にあるのではないか。たとえば、昨日ゴドーが来なかったという出来事と、今日ゴドーが来なかったという出来事とは、本当に、同じ、ゴドーは来なかったという出来事だろうか。この問いがこれまでの問いと違っているのは、もはやゴドーが何者であろうとかまわないという点である。

ゴドーはいつ現れるのだろうかという問いも、ゴドーはいつか現れるのだろうかという問いも、結局のところ、ゴドーとは何者なのかという問題に行きついてしまう。だが、それは分からない。したがって、こうした問いをめぐる一切は、結局のところ、思考の空費に終わるだろう。要するに、この劇においてはゴドーが何者であるかはそもそも問題にされていない以上、この劇にふさわしい問いは、ゴドーが何者であろうと問題にならないものであるはずなのだ。

だいたい、なぜ、ひとびとは、自分にとってほとんどどうでもいいような連中が待っている相手のことをそこまで知りたがるのだろうか。どうでもいい連中が待っている知らない奴のことがどうしてそんなに気になるのだろうか。ゴドーが神であろうと知ったことではない。考える価値のある問いは、おそらく、もっと別のことである。

2017/10/20

2017年10月29日日曜日

【人名さん】八木沼純子

【人名さん】
八木沼純子






2017年10月27日金曜日

●金曜日の川柳〔西来みわ 〕樋口由紀子



樋口由紀子






ふざけてるんぢやないかしら子ら喰べすぎる

西来みわ (にしらい・みわ) 1930~

食欲旺盛な孫たちを見たら思い出す川柳。「まだ食べるの?」と思わず言ってしまう。本当にふざけているのかと思う。子どもの動作はもうそれだけで微笑ましく、滑稽である。その行為をとらえるだけでも絵になるが、食べている姿はその極め付けともいえる。とぼけて軽妙でその場の雰囲気や心情をとてもうまく伝えている。

子どもの成長記録を川柳にことづけている。定型にとらわれていない自由さがあり、心地よい。話し言葉のようで、その舌足らずに見える口ぶりに生気が通う。〈歩いてみる駆けてみる展けるかも知れず〉〈2001年踏み出す歯型整える〉「川柳研究」(第226号・昭和43年)収録。

2017年10月26日木曜日

●駅前

駅前

駅前の夜風に葡萄買ひにけり  小川軽舟〔*〕

暮早し駅前にして暗き灯も  高浜年尾

駅前のだるま食堂さみだるる  小豆澤裕子

駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり  高山れおな

少年液化す宮沢賢治の駅前まで  高野ムツオ


〔*〕『鷹』2017年11月号より

2017年10月24日火曜日

〔ためしがき〕 歴史を書くとは…… 福田若之

〔ためしがき〕
歴史を書くとは……

福田若之 

歴史を書くとは、年号に表情を与えることである。
(ヴァルター・ベンヤミン「セントラルパーク」、『ベンヤミン・コレクション1』、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、筑摩書房、1995年、366頁)
だとすれば、このためしがきを書くこともまた、日付になんらかの表情を与えることなのだろう。ただし、もちろん、それらの表情はあくまでも主観的なものにとどまるはずだ。

ふと、日付の肖像画家という言葉の連なりが思い浮かんだ。悪くない気がする。

2017/10/12

2017年10月23日月曜日

●月曜日の一句〔衛藤夏子〕相子智恵



相子智恵






点滴の音の広がる夜長かな  衛藤夏子

俳句とエッセー『蜜柑の恋』(創風社出版 2017.09)所収

夜の病室。消灯時間も過ぎて、イヤホンで備え付けのテレビを見ることもできないし、本を読むこともできない。しかも夜が長くなった秋のことだ。静かな暗闇の中で時間だけはたっぷりある。

音らしい音は点滴の薬液が規則正しく落ちていく音だけ。それが闇の中で広がっていく。水音は想像の中でどんどん広がり、やがて水の中に自分がいるような想像にまで進んでいくのかもしれない。〈広がる〉からはそんな心象風景が浮かび上がってくる。

2017年10月20日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋蘭 〕樋口由紀子



樋口由紀子






十年先の花簪も面白い

高橋蘭 (たかはし・らん) 1934~

「花簪」、キク科の一年草にそんな名前のかわいい花がある。よくドライフラワーにする。しかし、この「花簪」は髪飾りだと思う。小さな布を花の形につまんで作るかんざしである。舞妓さんの簪や七五三の髪飾りに使われている。

「面白い」はいろいろと含みのある言葉である。十年先が見ものであると面白がっている。変色したり、形が崩れたり、見るに堪えないものになっているのか、あるいは十年先も同じ美しさを保っているのか。扱われ方が一変しているかもしれない。

「花簪も」だから、私も歳はとるが面白いぞと言っている。あるいは「花簪」はあっても、私はもう存在していないかもしれない。さて、どうなっているのか。図太い川柳である。〈棒読みの台詞も十月十日まで〉〈どうだっていいけど息をしてしまう〉〈ぶち切った鎖に生える月夜茸〉 「ふらすこてん」(2017年刊)収録。

2017年10月17日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉11 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉11

福田若之


歴史を紐解いてみれば、自作についてほとんど何も語らずに済ませた書き手にも、自作について多くを語った書き手にも、優れた書き手はたくさんいる。たんに、多くのひとがそのどちらか一方にしか共鳴しえないというだけだ。『新生』におけるダンテの饒舌ぶりを思えば、俳句の書き手たちはまだあまりにも自作について語ることを知らない。

  ●

生きることの目的などと、ひとはたやすく言ってみせる。けれど、生きることに目的があってたまるか。生きることをその目的から考えることは、その目的の達成された具合に応じて生の価値を測ろうとすることにそのまま通じている。それは生を優劣で考えることにほかならない。生きることに目的を与えようとするあの道徳こそが、生についてのおよそ堪えがたい考えの温床となる。生きることに価値などない。どう生きようが価値だけはありえない。この価値のなさにおいてこそ、生は絶対的に肯定されるはずだ。僕は、書くことをこの次元において考える生きものでありたい。これは目的でも価値でもないが、とにかくそのような価値のなさを、思う存分に生きてみたいと思う。

  ●

書かなければ伝わらないかもしれないから、書こう。僕が裏庭で限界だったのは、たしか十歳か十一歳ごろのことだったと思うのだが、いずれにせよ大きいほうだ。尻を拭いたポケットティッシュと一緒に、園芸用のスコップで埋めた。噛まれ、こなされ、数種類の消化液と混ざり合った、じつに健康的な体温を感じさせる、たぶん給食の献立か何かだったのだろう。しばらく前、いまあそこに住んでいるひとの家を見に行ったときには、かつて裏庭だった場所はコンクリートで塗り固められてしまっていたけれど、あの窒息した土のなかには、おそらく、そのあとかたが何らかのかたちでいまだに残っているはずだ。おそらくは、僕が飼い殺した昆虫たちの死骸やなにやらとともに、土のなかの微生物たちによって、気の遠くなるほど分解されて。あの裏庭では、毎年、時期になると、決まっておいしい茗荷が採れたものだったのだけれど。

2017/10/11

2017年10月16日月曜日

●月曜日の一句〔日高玲〕相子智恵



相子智恵






馬肥ゆる大津絵の鬼どんぐり目  日高 玲

句集『短篇集』(ふらんす堂 2017.09)所収

大津絵は、江戸時代初期に東海道の宿場町である近江の大津で始まった素朴な民画。元は仏画であったが、後には世俗的な絵も描かれ、旅人のお土産となった。有名な画題としては、仏や鬼(鬼の寒念仏)、藤娘など。藤娘はのちに歌舞伎の舞踊などにも取り入れられていく。

掲句、大津絵の鬼は確かにクリクリしたどんぐりまなこで可愛らしい。3頭身ほどに描かれていて、まったく恐ろしくない。むしろ今のゆるキャラのような雰囲気だ。そこに〈馬肥ゆ〉という、澄んだ秋空の下で馬が豊かに肥えてゆく様子を取り合わせることで、馬を使って往来していた江戸時代の東海道の世界に自然に引き込まれる。季語によって俳味に厚みが出ている。

憂鬱な雨の月曜日にこの句を読むと、どんぐりまなこの鬼と一緒に、秋空のもとでボーっと往来する肥えた馬を眺めていたくなってくる。

2017年10月15日日曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2017年10月14日土曜日

●本日はトニー谷生誕100周年かつ正岡子規生誕150周年

本日はトニー谷生誕100周年かつ正岡子規生誕150周年

トニー谷 1917年(大正6年)10月14日 - 1987年(昭和62年)7月16日

正岡子規 1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日








≫『子規に学ぶ俳句365日』文庫化記念リンク集
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/10/365.html

2017年10月13日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋かづき〕樋口由紀子



樋口由紀子






旅をするハンサムな雲ひき連れて

高橋かづき(たかはし・かづき)

秋祭りのシーズンである。あちこちから太鼓や笛が聞こえてくる。その音色が秋空に向かって高く高く響き渡る。秋空の中にただよう雲。空に負けないくらいに澄んでいて、しなやかできりりとしていて形状も美しい。「ハンサムは雲」、いままでとそういう見方をしたことがなかった。あの鷹揚ぶりはまさしく美男子ならではのものである。「ハンサムな雲」とはなんと深くて優しい言葉だろうか。

日々生きていくにはたいへんなことも嫌なこともある。しかし、誰にも公平な雲がある。余計なことは言わず、黙って私を見ていてくれている。「ハンサムな雲」をひき連れている人生なのだから、日々の多少の不満は遣り過していかなくてはならないと思う。空気も爽やかで美味しい。〈自転車にはじめて乗れた日のように〉〈夕暮れのうしろ姿を手摑みに〉 川柳「杜人」(2017年秋号)収録。

2017年10月12日木曜日

●うどん

うどん


汗女房饂飩地獄といひつべし  小澤實

子規の忌の饂飩が繋ぐ皿と喉  黒岩徳将〔*〕

草の穂を重しと思いうどん屋へ  四ツ谷龍

空爆や鍋焼うどんに太い葱  下村まさる


〔*〕佐藤文香編著『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(2017年8月31日/左右社)

2017年10月10日火曜日

〔ためしがき〕 エックス山メモランダム10 福田若之

〔ためしがき〕
エックス山メモランダム10

福田若之 


鍵忘れて裏庭で限界だったの

転校する子に寄せ書きもうあうことはないだろうけどげんきでね。

土と水になって帰って来たんだから誉めてよ

遊戯室はトランポリンときどき顔面に球が当たる

2017/10/4

2017年10月9日月曜日

●牛乳

牛乳

梅雨日曜牛乳ほどのあかるさに  阪西敦子〔*〕

蛍死んで牛乳びんとなりにけり  五島高資

大脳やミルクの湯気の立ち込めり  松本恭子

愛撫のやうに牛乳流す朝の駅  攝津幸彦


〔*〕佐藤文香編著『天の川銀河発電所 Born after 1968 現代俳句ガイドブック』(2017年8月31日/左右社)

2017年10月7日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】句集レビューのありがたみ 『ににん』第68号の川村研治句集『ぴあにしも』特集 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集レビューのありがたみ
『ににん』第68号の川村研治句集『ぴあにしも』特集

西原天気


句集レビューは、読んでいない/おそらく読まない句集の場合も、有益。書き手がどう評しているかもあるんだけれど、引いてある句を読める/知るという点が便利なのです(間接じゃなくて直接読め、という声も聞こえてきそうですが、出る句集ぜんぶを読めるわけがないし、数を追うと、死にます。人生は短い)。

例えば『ににん』第68号(2017年10月1日)には、川村研治句集『ぴあにしも』(2017年6月1日/現代俳句協会)を特集。

海原に雨しみてゆくくらげかな  川村研治

冬支度せねば駱駝の瘤ふたつ  同

ひとつの場面・モチーフにとどまって質感を定着させる前者、いわゆる二物併置で意味を逃れる後者、対照的な二句をメモできた。

句集から、あるいは俳句から、そんなに欲張りに多くのものを得たいと思わなければ、気持ちよさ・愉しみを、日常的にカジュアルに受け取ることができる。

ってことは、あまり肩肘張らずに気軽に句集をレビューしろよ、それはきっと誰かのためになるよ、ということなのでしょう。


ほら、これ読んでる人、書けよ、もとい、書いてください(≫週俳の記事募集)。私も書こうと思います。

2017年10月6日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






輪を叩きつけて天使は出ていった

きゅういち(1959~)

こんな天使は見たことはない。いや、どんな天使も見たことはないのだが、私の想像する天使は輪を叩きつけることなんて決してしない。天使に勝手なイメージを作り上げていたことに気づかされる。言われてみれば、天使だって怒ることはある。いつもいつも平和で穏やかでいられるわけがない。天使なんてやってられないと輪を叩きつけて出ていくのだから、よほどのことで、激昂で、抵抗だろう。違和の感情を持ち、このような行動をとる天使の存在に親近感をもつ。

一般的な天使のイメージをとっぱらって、自ら感じ取った世界を切り取った。威勢のいい言い放ちはユーモアのエッセンスを撒き散らして、天使の行動を一方的に立ち現せた。天使を瞬時に自分のなかにあるものに置き換えているようにも思う。怒るのも、怒っているのを見るのも生きている実感の一つである。不条理の感覚を視覚化している。『ほぼむほん』(川柳カード叢書① 2014年刊)所収。

2017年10月5日木曜日

●酒場

酒場

バーを出て霧の底なるわが影よ  草間時彦

銀河系のとある酒場のヒヤシンス  橋閒石

もの枯れて酒場に地獄耳揃ふ  小檜山繁子

雪降るとラジオが告げている酒場  清水哲男

打水の向ひのバーに及びけり  鈴木真砂女

2017年10月3日火曜日

〔ためしがき〕 雑感 福田若之

〔ためしがき〕
雑感

福田若之 


ことばにして伝わるかは分からないけれど、なんというか、血圧を感じさせる句が書きたい。それも、最近は、どちらかというと、わりと血圧低めのときの感じの句が、書きたい。



このごろ痛感しているのは、僕が、生きているひとたちのことを知らなすぎるということだ。みんなどこで生きているひとたちのことを学んでいるのだろう。



俳句のほかでは自己PRしないことに対する圧を感じてて、俳句では自己PRすることに対する圧を感じてる。けれど、そんなに器用ではないから、どちらかの圧には鈍感に生きていくしかない。いずれにせよ、真空では生きていけないのだから。

2017/10/2

2017年10月2日月曜日

●月曜日の一句〔九条道子〕相子智恵



相子智恵






天高し校歌五番を歌ひ切る  九条道子

句集『薔薇とミシン』(雙峰書房 2017.09)所収

そういえば私の学校の校歌も4番まであった。校歌が長い学校はわりと多いのだろうか。掲句は5番までだから、相当長くて全部覚えるのは大変だろう。それでも歌い切るところに、学校ならではの時間軸を感じる。省略して効率化したりはしないのだ。〈天高し〉が、歌い切った満足感と呼応して爽やかだ。

全部は覚えていなくても出だしは覚えていたりする。校歌というのは案外、大人になっても記憶に残っているものだな、と掲句を読んで思った。