2013年2月26日火曜日

●季語としての「熊」 03 橋本直

季語としての「熊」 03

橋本 直

≫承前 02 01 


子規の短歌に「足たゝば」という題の連作があります。

    徒然坊箱根より写真数葉を送りこしける返事に
  足たゝば箱根の七湯七夜寝て水海の月に舟うけましを
  足たゝば不尽の高嶺のいたゝきをいかつちなして踏み鳴らさましを
  足たゝば二荒のおくの水海にひとり隠れて月を見ましを
  足たゝば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
  足たゝば蝦夷の栗原くぬ木原アイノが友と熊殺さましを
  足たゝば新高山の山もとにいほり結びてバナヽ植ゑましを
  足たゝば大和山城うちめぐり須磨の浦わに昼寝せましを
  足たゝば黄河の水をかち渉り華山の蓮の花剪らましを
  (「竹乃里歌」明治31年 『子規全集』第6巻)

「徒然坊」とは阪井久良伎のこと。送られた絵はがき?に触発され、もし自分が寝たきりでなければ、という思いのもとに連作の歌を詠んでいます。この連作自体とても興味深いものですが、そちらは俵万智『短歌をよむ』(岩波新書)その他を参照していただくとして、本稿において焦点化されるべきは五首目です。ここで子規は、季節ははっきりとしないものの、アイヌの友人とともに一緒に熊を殺すことを夢見て詠んでいます。第一回で引いた「冬枯や熊祭る子の蝦夷錦」を併せて考えれば、子規はアイヌの装束や、熊を祭ることも殺すことも知っているわけで、この明治31年までのどこかでアイヌの風俗を知っていたことがわかります。現存の子規の所蔵目録を見る限りはそれらしきものがなく、どこで知ったのかは未詳ですが、ひとまず新聞雑誌、単行本などによってそれなりに一般に知られていた可能性を考えることができます。

子規と熊について追えるのは、手近の手段ではここまでなので、あらためて「熊祭」という季語に焦点を当ててゆきたいと思います。歳時記の引用は長くなるので略しますが、小学館の『日本国語大辞典』によれば、
〈アイヌの儀式、祭の一つ。熊の子を二、三年養ったのち、儀式としてその肉を共食、宴遊した行事。アイヌは動物を神の化身と考え、特に、熊を最も偉大な神とし、これをその祖国である神の世界に送り返すために、この儀式を盛大荘重に行わなければならないとした。熊送り。《季・冬》〉
と説明されています。その用例として、『休明光記』の説明部分の他、誓子の句「削り木を神とかしづき熊祭」、武田泰淳「ひかりごけ」の一節などが出てきます。『休明光記』は羽太正養著、文化4 (1807)年(詳しくは北海道大学北方関係資料総合目録参照)刊ですから、既に江戸後期には一応、熊祭という言葉とその内容が紹介されていたことになります。

また、「熊送り」についても同辞典では熊祭と同様の説明があり、用例で
〈随筆・百草(1844頃か)一「熊送り 実報 往昔亜伊能人種に於て行ふ祭例あり。之を熊送りと称ふ」〉
とあって、「百草」は『日本随筆大成』所収のものと同じかと思われますが、現物にあたってないのでいまのところ未詳。ともあれ、これも江戸後期に紹介があったことがわかります。さらに言うなら、蝦夷と呼ばれた人々の風俗については既に平安時代に詠まれた歌があります。長承元(1132)年に崇徳院の内裏歌会で藤原顕輔が詠んだ和歌、

あさましや千島のえぞの作るなるとくきの矢こそひまはもるなれ
(「顕輔集」、「夫木和歌抄」http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/menu.html

ここでいう「千島のえぞ」は津軽以北の異民族、すなわちアイヌのこと。「とくきの矢」は毒矢。アイヌが毒矢を使うことを歌に詠んでいます。そこで思い当たるのは、連載二回目で引いた句

熊突や毒矢持ち立ち老アイヌ   靑眼子(ホトトギス)

です。もしかするとこの句は、先の歌(またはその派生歌)を下地にして詠まれたのではないでしょうか。

このように、近代以前にもある程度アイヌの風俗の情報はあったことが分かるのですが、それが俳句の季語になったのはいつか、ということになると、西村睦子氏の『「正月」のない歳時記』(本阿弥書店)には、
「熊祭」
 明42無涯編[新脩歳時記]「熊祭」例句1
   判官は蝦夷の神なり熊祭   一転
 [ホ雑詠]大15=5句、誓子の句が並ぶ。
   飾太刀倭めくなる熊祭    誓子
   雪の上に魂なき熊や神事すむ 誓子
  改造社版「熊祭」誓子の句を含む例句6。
  虚子編「熊祭」誓子の句を含む例句3
   これは北海道開拓による北方季語。誓子と両歳時記により題になった。
  ※引用者注「無涯」は中谷無涯。「ホ雑詠」は「ホトトギス雑詠覧」。

と解説されています。明治末期から昭和初期に季語になったということになるのですが、季語になる下準備は子規の頃から既にあったと言っていいかもしれません。決定的な仕事をしたのが改造社と虚子の歳時記。俳人では誓子だったということでしょう。蛇足ながら付け加えるならば、今井柏浦編「詳解例句纂集歳事記」(大正15初版、昭和二年の5版で確認)にも「熊祭」が出ています(例句は2)。無涯の歳時記は手近にないので未確認ですが、改造社のも柏浦編歳時記も虚子編歳時記も、祭の内容について丁寧な説明をしているものの、先に引いた『日本国語大事典』にあった江戸の文献についてはまったく触れていません。角川『図説大歳時記』も同様です。また、改造社の歳時記には「熊」の項の末尾に関連語として、「熊祭」を「熊突」と同じく「人事」に出ているとしてあるのですが、実際には「宗教」に分類されています。おそらく編集の過程で「宗教」に修正されたのが、「熊」の項目の方は記述を治し損ねたのでしょう。大和中心の文化である歳時記に異民族の祭礼である「熊祭」を収めるに当たっての、ちょっとした混乱をみることができます。

ここまでをまとめます。アイヌの「熊祭」についての文献は、江戸時代に既に刊行されていたが、近代の歳時記にその反映はされていない。子規の頃何らかの文献でアイヌの生活の紹介がなされてはいたが、「熊祭」が季語になるにはいたらなかった。大正末から昭和初期に刊行された歳時記には相次いで立項されており、代表句は山口誓子のものである。

さて、あらためて最初の問にもどるのですが、「熊突」も「熊祭」も冬に行われるので、季語として冬になるのは至極当然と思われます。しかし、「熊」そのものが近代になって冬の季語になった理由はなんなのでしょう?まず単純に、その二つの季語から派生的に冬季に収められたと考えられましょう。狩られた熊の肉を「薬喰」の対象に含む発想もあったかもしれません。そこで、これまで紹介したように例句に北海道の句が少なからずある、という所には注目してもよさそうです。北海道を開拓するにあたっては、明治20年代から右肩上がりに人口が流入しており、人の生活圏が猛獣であるヒグマと衝突しないわけにはいかない。例えば明治11年1月におきた札幌丘珠事件では、熊によって5名の死傷者が出ています。仕留められた熊は剥製にされ、それを明治天皇が見学したことで報道されて広く知られることになったそうです。本州以西の各地でも、それまで原野であった場所の開拓が進んでいたはずで、江戸期までの「狩猟」とは内実が変わって、実質的に開拓に邪魔なものとして熊を排除していく行為であったということが考えられます。

近代においては、日本では狼が最も典型であったように、結果的に人の生活を脅かすものを滅びるまで排除してしまったものもある訳で、開拓の敵としての猛獣「熊」が狩猟しやすい季節、あるいは籠もる場所を追われて人里に迷い出ることが多くなった季節として、熊が冬に目立つということから、冬の季語におさまるということは、近代的な風景というにふさわしいことかもしれません。

同様に、北海道の開拓によって他者としてのアイヌ文化を一部季語には取り入れつつ、実際の所、同化政策によって彼等の文化を滅ぼしていったことも、同様の文脈ではないかと思われます。改造社の歳時記の解説の末尾に「この神事はアイヌの迷信によるものである」と一言添えてあったり、角川『図説大歳時記』で熊祭の生け贄の熊の写真に「悲しき贄熊」とキャプションが付けられ、解説に「現在ではよほど簡略になって、クマを殺さないで形だけする観光的熊祭のほうが多い」とあるのは、レヴィ=ストロースを持ち出すまでも無く、いまからみれば前世紀の「文明」から「野蛮」への一方的な視座といわれても仕方ない文言と思われます。

さて、冬の季語「熊」をめぐる考察はここでいったんおしまいにします。今のところはっきりしないことで、ちゃんと調べれば分かりそうなこともあるので、いずれまた書くことがあるかもしれません。ここまでお読みいただきありがとうございました。

( 了 )

2013年2月25日月曜日

●月曜日の一句〔岡正実〕 相子智恵

 
相子智恵







残像の色失せてなほ紅椿  岡 正実

句集『風に人に』(2013.1 文學の森)より。

鮮烈な紅色の花を、木にびっしりと咲かせる椿。花の色の強さ、花弁と蕊の重量感、てらてらと照る肉厚で健康的な葉っぱ……見るたびに、この花は押出しが強くて貫禄のある花だと思う。ちょっと暑苦しいくらいの存在感で、こちらが気圧されてしまうので、見ていると私はいつも、ちょっと疲れてしまう。

掲句はそんな紅椿を見て、目を閉じたのだろう。まなうらには紅色が失せてなお、その気配が濃厚に残り、紅椿でしかありえない存在感の残像が映り続ける。

〈色失せて〉と、その色をいったん否定しておきながら、〈なほ紅椿〉と重ねることで、かえって色の印象を強めている。目の前を一度暗転しておいてからパッと紅色に焦点を合わせるので、紅椿がより鮮烈に際立つことになるのだ。このたたみかけの表現が、紅椿という花の持つ押しの強さをよく捉えていて巧みだと思った。

2013年2月24日日曜日

〔今週号の表紙〕 第305号 図書館 小津夜景

今週号の表紙〕 
第305号 図書館

小津夜景



コトブスにあるブランデンブルグ工科大学の図書館。ヘルツォーク&ド・ムーロンの設計。内部はごくふつうの文化センターといった雰囲気です。ネットで少し検索してみると、この町は「バームクーヘンの発祥地」とのことで町の中心広場にはバームクーヘンを最初に焼いた女性の像もあるらしい(今、手元にある写真を確認したらその石像がちゃんと写っていた)。こういうことは行く前に知っておくべきだと強く強く思う。



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2013年2月23日土曜日

【新刊】金原まさ子句集『カルナヴァル』

【新刊】
金原まさ子句集『カルナヴァル』


紀伊國屋書店 BOOK WEB




【週刊俳句・過去記事】 第250号 2012年2月5日
金原まさ子さん101歳お誕生日インタビュー
      ……聞き手:「週刊俳句」上田信治 ≫読む
金原まさ子写真館 ≫見る
千代田区麹町六丁目七番地……金原まさ子 ≫読む
金原まさ子断章 ≫読む 
俳句作品 十七枚の一筆箋……金原まさ子 ≫読む
金原まさ子とは……小久保佳世子 ≫読む

2013年2月22日金曜日

●金曜日の川柳〔山村祐〕樋口由紀子



樋口由紀子







神さまに聞こえる声でごはんだよごはんだよ

山村 祐 (やまむらゆう) 1911~2007

私の住む村では夕方になると「○時です。早く家に帰りましょう」という有線放送がかかる。けれども、今は外で遊び回っている子どもをあまり見かけない。一昔前まで子どもは外で遊ぶものであった。ランドセルを玄関に放り投げて、日の暮れるまで遊んだ。すると、誰かの家の人が「ごはんだよ」子どもを呼ぶ。そして、それを合図にその日の遊びは終わり、それぞれ家に帰った。

そんな人間の地上での生活を天にいる神さまに聞こえるように伝える。それはなんのためなのかわからない。この世とこの世の外、二つの世界を意識させる。「ごはんだよごはんだよ」、不思議な川柳である。

山村祐は川柳評論誌「海図」を発行、短詩形詩誌「森林」を主宰。「川柳は現代詩として堪え得るか」「短詩ゴムマリ論」などの革新的川柳論を数多く発表した。

2013年2月20日水曜日

●鉛筆

鉛筆


鉛筆いっぽん引鳥に蹤いてゆく  渋川京子〔*

さんぐわつに浮力がついて赤えんぴつ   嵯峨根鈴子

鉛筆で髪かき上げぬ初桜  星野立子

鉛筆を耳にはさみて鳥の日よ  宮坂静生

鉛筆を削りためたる日永かな  久保田万太郎

生きながら鉛筆にされ秋気澄む  関 悦史


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

俳句図鑑〔1〕えんぴつ:週刊俳句・第2号

2013年2月19日火曜日

●季語としての「熊」 02 橋本直

季語としての「熊」 02

橋本 直

承前 01

引き続き、季語の「熊」そのもの、「熊」の猟、「熊」の祭りの三系統について追いかけてみたいと思います。まずは文献的に追いかけやすいところで、猟から。

そもそも、初冬に栄養を蓄え穴で寝ている熊を狙うことは、相手が猛獣であることへの対処や、毛皮や熊の胆を主目的にする猟として非常に合理的と考えられます。その意味で熊猟は冬季にふさわしい季語と言えるでしょう。

子規の『分類俳句全集』第9巻冬の部「時雨」の項の、下位分類「猪、熊、猿、狐、鹿」中に、

穴熊の出てはひつこむしくれ哉  為有

があります。作者は山城嵯峨の人。『続猿蓑』元禄11(1698)年刊の冬の部所収。子規はこれを「熊」として分類していますが、幸田露伴は『評釈芭蕉七部集』(岩波)で冬籠もりの熊ではなく、いわゆるアナグマ(貛)だとしています。要するに、知識でつくった句と思われ、本当のところはよくわからない。したがって、同じく『分類俳句全集』第10巻冬の部「動物」の項にある「穴熊」三句、

はち巻や穴熊打ちの九寸五分  史邦
穴熊の寝首かいても手柄哉  山店
丹波路や穴熊打ちも悪衛門  嵐竹

も、熊猟の「穴にこもった熊」のことではなく、アナグマの可能性があります。この三句はいずれも史邦編『芭蕉庵小文庫』元禄9(1696)年刊。みな蕉門の俳人達です。

子規のあの膨大な分類作業のなかで筆者が四句しか見つけてないだけかもしれませんが、少なくとも冬季の「熊」ではこの三句のみ分類されています。つまり、子規が近世の俳諧の発句から見つけ出していた冬の季語としての「熊」は、「穴熊」のみであり、しかも元禄年間に出たもののみであると、とりあえずみておきます。そして、その何れもが狩猟の様子を詠んでいることも共通します。そういえば、前回引用した柏浦の『明治一万句』の二句も「熊突」を詠んだものでした。

「熊突」については角川『図説大歳時記』「考証」に「穴熊打」が近世の季寄せ「『忘貝』(弘化四)に十一月として所出」とあります。『忘貝』とは淡水亭伸也編の『合類俳諧忘貝』のこと。弘化(1847)年といえばもう江戸末期です。他に『北越雪譜』の記事の長い引用もあるのですが、しかし例句はすべて明治以降のものです。

熊突や爪かけられし古布子  松根東洋城(渋柿)
熊突の夫婦帰らず夜の雪  名倉梧月(明治新題句集)
熊突の石狩川を渡りけり  深見桜山(青嵐)

一句目は「古布子」も冬の季語です。作者が目の前で熊に爪を引っかけられた猟師をみていた可能性より、狩猟後に熊のひっかき傷のある綿入れを目にして詠んだとみるほうが妥当とすれば、これを熊突きの句とみて良いかは疑いがのこります。また、二句目は柏浦の『明治一万句』の二句目と同句で、三句目も『明治一万句』の一句目となんだか似たような句で、また北海道が舞台です。

ところで、『図説大歳時記』の熊突き解説ページには『日本山海名産図絵』からとった「熊捕り」「熊穴捕り」「熊撃つ斧」という三つの挿絵があります。この書物のことはまだよくしらべていませんが、この挿絵によって「熊」猟の説得力が増すことは確かです。しかし、九州大学デジタルアーカイブ所蔵の資料によると、『日本山海名産図絵』は平瀬徹斉著、長谷川光信挿画で、宝暦4(1754)年刊行ですがこれらの挿絵の画像は無く、同アーカイブに併載されている、平瀬補世著、蔀関月挿画の『山海名産図会』寛政11(1799)年刊行の第二巻にでています。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/meisan/m2/catalog.html

現物を確認しないことにはどっちが正しいのかわかりませんが、ひとまず「熊突」には熊猟とアナグマ猟の両方ありうることは、改造社『俳諧歳時記』に出てきます。またまたところが、なのですが、この歳時記にもその挿絵の一枚「熊撃つ斧」が入れてあるのに、例句は近代の、しかも北海道の風景なのです。

熊突や毒矢持ち立ち老アイヌ  靑眼子(ホトトギス)

はたしてこれは、実景の写実だったのでしょうか?

ここまでを整理します。「熊突」は「穴熊打ち」として近世からわずかながら句に詠まれているが、子規が分類していた「熊」は「熊」ではなく「アナグマ」である可能性もある。近代の歳時記には「熊突」が立項されているが、挿絵は江戸のものであるものの、句は近代以降の例句しかない。①で引いた子規の句と、これまで引いた近代の歳時記の例句七句中の四句は、あきらかに北海道の句であり、うち二句はアイヌを詠んでいる。

そこで次回は、季語「熊祭」やアイヌと熊について考察してゆきたいと思います。

(つづく)

2013年2月18日月曜日

●月曜日の一句〔金原まさ子〕 相子智恵

 
相子智恵







エスカルゴ三匹食べて三匹嘔く  金原まさ子

句集『カルナヴァル』(2013.2 草思社)より。

日本人からすると、エスカルゴは初めて食べるのに勇気がいる食べ物だと思う。食べてみると美味なのだが、どうしても蝸牛のグロテスクさを想像してしまうのだ。そこに〈三匹食べて三匹嘔く〉の「三」という数字の不思議さが重なる。「三位一体」や「三種の神器」など、「三」という数字は、何か大きな意味を感じさせる数字だ。

食べて吐いてしまうという循環が、エスカルゴの殻の渦巻きのようにぐるぐると迫ってくる。それが〈三匹〉であることで、その循環の渦の奥にさらに奇妙な世界を見せる。魅力的な気味の悪さだ。

作者は102歳。100歳からブログ(http://sea.ap.teacup.com/masakonn/)を始めた。帯の惹句に〈102歳の悪徳と愉悦〉。帯文は池田澄子による。〈健気に淫らに冷静に。言葉を以てこんなに強くエレガントに生きることができるなんて!〉 まさにその通り。エレガントでエロティック、魅力的な102歳の不良少女である。

2013年2月17日日曜日

〔今週号の表紙〕 第304号 大規模店舗

今週号の表紙〕 
第304号 大規模店舗

西原天気



歴史ある地方都市なのに主要駅周辺でさえ人通りがまばらで、寂れてしまったのかと思いつつ、駅前の真新しい大規模商業施設に入ると、そこそこ人がいて、活気があったりします。「時代の趨勢」というものですか? これは、新しいかたちの寂れ方なのだなあ、と。



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2013年2月16日土曜日

●季語としての「熊」 01 橋本直

季語としての「熊」 01

橋本 直


ツイッターで、なんで「熊」は冬の季語なんだろう?という疑問が話題に。




よく知られているように、熊は冬に一応「冬眠」するわけで、動物園にでもいかないと目にしない生物です。なぜ冬の季語になっていったのでしょうか。たしかに、なんでだろう、と思って調べてみました。

戦前までの季語大観といえる改造社『俳諧歳時記』も、高度成長期のそれたる角川書店『図説大歳時記』も、「熊」の項で生態についてや古文献の記述は解説しているものの、なんで冬なのかの理由の説明はありません。また、滝沢馬琴編、藍亭青藍補『俳諧歳時記栞草』(岩波文庫版)には立項がないので、近代以降に季語として認められるようになった語と考えていいようです。なお、『―栞草』で「熊」がでてくるのは秋之部で、「熊栗架を搔く(くまくりだなをかく)」。
〈時珍曰、熊、石巌枯木(せきがんこぼく)に在を、山中の人、これを熊舘(くまたち)といふ。性よく木に上り、好で栗を食ふ。故に攀縁(よじのぼり)て梢に至て、枝を折て並べ鋪て居所を設く。是を熊の架(たな)といふ。熊館(くまたち)の類也。〉
と解説がでています。

いわゆる「くまだな」を熊が設けている様子を季語にしたもので、山中では実際に熊に出会わないとしても、それを目にする機会は少なくないはずですから、いかにも秋の山らしい風物といえるでしょう。それにしても、「熊」はなぜ近代以降になって冬の季語に?

齋藤愼爾他編『必携季語秀句用字用例辞典』(柏書房)では、熊に関する冬の季語に「熊」(三冬・動物、類語に黒熊・月輪熊・羆)、「熊穴に入る」「穴熊」(初冬・時候)、「熊穴に蟄る」(仲冬・時候、「本朝七十二侯」の十一月節「大雪」の次侯)、「熊狩」「熊突」「熊猟」「穴熊打/突」(三冬・生活、)、「熊の子」(三冬・動物、類語に贄の熊・神の熊)、熊祭(仲冬・晩冬・行事)が掲載されています。だいたいこれで冬の季語である熊の類語のラインナップが勢揃いしていると考えていいでしょう。

ここで季語として冬と熊との関係の由来が一応はっきりしていると思われるのは「熊穴に入る」(熊蟄穴)です。これは二十四節気と同じく、もともと古代中国が由来の七十二侯を、日本にあわせて江戸時代に改訂された「本朝七十二侯」に由来します。しかし、同じく「本朝七十二侯」に由来する「魚氷に上る」は『―栞草』にありますが、「熊穴に入る」は入集していません。更に言えば、改造社『俳諧歳時記』も、角川書店『図説大歳時記』も、「熊穴に入る」は立項され「穴熊」と同義とし、熊の冬籠もりの生態に触れてあるものの、この「本朝七十二侯」は一言も触れていないのです。なぜでしょう? 生活実感は「魚氷に―」もないわけで、もしかすると季語としては俳人にぜんぜんウケなかったのかもしれません。そうすると、この語の暦由来の成分は熊が冬の季語である根拠にはしにくいでしょう。

整理すると、熊が冬の季語である根拠は、暦由来ではなく経験的または科学的知識としての「冬眠」や「冬籠もり」と同義としての「熊穴に入る」か、「熊突」等の猟にかかわる季語群か、「熊祭」の三系統となるかと思われます。

そこで句を探してみました。いまのところ手近にある資料で調べた範囲なのですが、最も古い記録は、明治31年1月30日『ほとゝぎす』に題詠「熊(冬季)」があり、選者吟で子規が

草枯や狼の糞熊の糞
冬枯や熊祭る子の蝦夷錦

の二句を詠んでいることです。この段階で少なくとも新派(日本派)では、冬季の季語として「熊」を認めていたということができそうです。しかしながら、明治34年3月から38年4月の間の日本派同人の雑誌新聞発表5万句のなかから1万を選んだという今井柏浦編『明治一万句』(博文館 明治38年、参照したのは明治41年の第八版)には、「熊」での立項はありませんでした。ただ「冬の部」人事の項に「熊突」での立項があり、

熊突や氷を渡る天鹽川  桐一葉
熊突の夫婦帰り来ず夜の雪  梧月

が載っています。柏浦は博文館の社員であった意外のことはよくわからない人なのですが、よく日本派の句の収集に努め、この後も数年ごとにアンソロジィを出しています。一方、明治43年にでた星野麥人編『類題百家俳句全集』冬之部には、立項がありません。星野は尾崎紅葉門で秋声会に参加。柏浦より広汎に句を集めていると思われますが、冬季に熊の句はありません。

そうすると、明治31年の題詠募集は、実験的な試みどまりであったのかもしれません。子規は「熊」を冬季とみなしていたか、みなそうとしていたわけですが、先の引用をみればわかるように、選者吟のうちは少なくとも後者「冬枯や熊祭る子の蝦夷錦」は、明らかに行ったこともない北海道を舞台に詠んでいると読めます。子規はいわば、蝦夷地想望句を詠んでいるわけですが、さらに柏浦選の句の一つ「熊突や氷を渡る天鹽川」も北海道が舞台になっています。これと「熊祭」を併せ考えると、明治に北海道を開発した際、ぶつからざるを得なかった猛獣としての「熊」の影がほの見えてくる気がするのです。

(つづく)

2013年2月15日金曜日

●金曜日の川柳〔渡部可奈子〕樋口由紀子



樋口由紀子







生姜煮る 女の深部ちりちり煮る

渡部可奈子 (わたなべ・かなこ) 1938~2004

生姜には健胃効果や鎮嘔効果があり、昨今の話題の食物で、生姜の佃煮、生姜のぽかぽか鍋などのレシピも豊富である。私もときどき生姜料理を作る。そのときいつも苦心するのは辛味をどの程度まで抑えるか。辛味があってこその生姜だが、あまりきついと食べにくい。

生姜を煮ると生姜特有の匂いが立ち上がってくる。それはあたかも重量を持って、その存在を顕わしているかのようである。人間の存在そのものと通じるように思う。独特の辛味はいくら煮ても消えることはない。「ちりちり」のオノマトペが効いている。この言葉の選択に可奈子の情念が感じられる。

渡部可奈子はのちに短歌に転向した。『欝金記』(川柳展望新社刊 1979年)所収。

2013年2月14日木曜日

●Blue Valentine

Blue Valentine


2013年2月13日水曜日

●ペリカン

ペリカン

海原へ夕陽を抱きにペリカン発つ  中嶋いづる

ペリカンのなかなか羽の畳まらぬ  京極杞陽

春の日のペリカンを見て発情す  斉田 仁


2013年2月11日月曜日

●月曜日の一句〔田中哲也〕 相子智恵

 
相子智恵







卵生の悲しみの列鳥帰る  田中哲也

句集『水馬』(2012.12 青沢書房)より。

鳥類はみな、卵のかたちで生まれてくる。

かつて卵の形で産み落とされた渡り鳥たちは、孵り、育ち、海を越えて日本にやってくる。そして日本での越冬を終え、隊列を組んでまた北へと帰ってゆくのだ。

渡り鳥の隊列に〈卵生の〉が挿入されることで、まるでつるつるとした卵そのものが隊列を組んで空を飛んでゆくような、幻の光景が頭の中に浮かんできたりする。

〈悲しみの列〉の悲しみとは、生まれた渡り鳥に作者が感じている悲しみなのだろうが、逆に、孵らなかった卵の悲しみもまた想像される。スーパーで整然とパック詰めされた白い鶏卵の〈悲しみの列〉にまで思いがおよぶのだ。〈卵生〉の効果であろう。

作者は「小熊座」主宰の高野ムツオと大学からの友人で、同誌同人であったという。本書は自死した彼の遺句集だ。高野は「跋に代えて」で次のように書く。
〈哲也もまた、生き難いこの世を、その生き難さを背負いつつ生きてきたのであった。それは生きること自体が叶わなかった戦中世代から言えば、贅沢過ぎる悩みなのかもしれない。しかし、そこに昭和の戦後から平成の今を生き継ぎ、老いさらばえようとしている、この世代(筆者注:団塊世代)の精神のクレバスの一典型を見る思いになるのである〉
一方、団塊世代といえば、今年の角川俳句賞を受賞した広渡敬雄氏の祝賀会で、「これから俳句の世界に増えるであろう団塊世代の星になってほしい」と正木ゆう子氏がスピーチした明るさが私には印象的だった。ひと口に世代と括ってみても、その捉え方は当たり前だが個人史とともにある。そんな明暗を思った。

2013年2月10日日曜日

〔今週号の表紙〕 第303号 東京港のコンテナターミナル  有川澄宏

今週号の表紙〕 
第303号 東京港のコンテナターミナル

有川澄宏



普段は思ってもみない場所です。たまたま誘われて見学に行き、管理会社の屋上からコンテナの山を目の前にすると、日常空間からまったく別の空間に投げ込まれた気分になります。

横浜・名古屋・大阪・神戸港などと共に日本の心臓、胃袋のようなものと気づきました。いろいろな物がここから外国へ出て行き、また入ってきて、首都圏の人たちの生活が成り立っている! 

スーパーで国産品の表示のない食べ物や衣類の大部分は、このコンテナのお世話になっているらしい。

積む時は、最後の寄港地の分から船底に積み、最初の寄港地のコンテナが一番上にくるよう、コンピューターが指示してくれる‥‥、ふむふむ?

コンテナターミナルを詠んだ句にはどんなのがありますか、教えてください。


■有川澄宏 ありかわ・すみひろ
1933年生まれ。「古志」「円座」会員。web連歌参加。



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2013年2月9日土曜日

〔おんつぼ45〕ダリル・ホール 押野 裕

おんつぼ45
ダリル・ホール
Daryl Hall



押野 裕


おんつぼ=音楽のツボ



70年代から80年代、次々とヒット曲を放ったホール&オーツの一人、ダリル・ホール(1948年10月11日-)。ソロとしても、1980年のアルバム「Sacred Songs」以来キャリアを重ねてきた。次の「Eyes for You」は、最新アルバム「Laughing Down Crying」(2011年)の一曲。




ダリル・ホールは2007年から「Live From Daryl's House」というウェブ・サイトを立ち上げ、身近な仲間やゲストを自宅スタジオに招いたライブを公開。一貫してリズム&ブルースを追究している。

2013年2月8日金曜日

●金曜日の川柳〔清水白柳〕樋口由紀子



樋口由紀子







小銭入れチャックはち切れそうになり

清水白柳 (しみず・はくりゅう) 1905~1970

若い人はそうではないかもしれないが、思い当たる人は多いと思う。私も娘と買い物に行くといつも小銭を使わないと注意される。小銭が財布の中にあるでしょうと。もちろん知っている。けれども、レジの前で小銭を探すのに時間がかかるし、めんどうなのだ。だから、手っ取り早く紙幣を出して、おつりをもらう。このくりかえしで小銭入れは膨らむ一方になる。

人の暮らしを観察して見てみると結構おもしろいものに出合う。膝ポン川柳と言うのがある。膝をたたいて、そうそうとうなづく川柳のことである。どうってことない生活の一部分を切り取って、おかしみを誘う。掲句は稚気をおおらかに詠んでいる。

〈ジャンパーで来るは同窓のトップなり〉〈痩せがまん雲の行方を見ていたり〉〈あとつぎどころか文学をこころざし〉『清水白柳遺句集』

2013年2月7日木曜日

●秒針

秒針

秒針のかがやき進む黴の中  津久井健之〔*

すずしさや秒針は水吸ふごとし  山西雅子

かなかなや鏡を逆にゆく秒針  澁谷道

秒針の強さよ凍る沼の岸  西東三鬼


『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年2月6日水曜日

●ブレッソン 中嶋憲武

ブレッソン

中嶋憲武


ブレッソン観た。ブレッソンといってもバルタザールどこへ行くじゃなくてアンリ・カルティエ=ブレッソンです。銀座でやってるというので、カルティエに入ったらなんかまったくそんな気配がなくてどうしたのかとおもっていたら、通りを挟んでならびのシャネルの四階でやっていたのですね。シャネル・ネクサス・ホール。カルティエなんで間違ったんだね。

54点展示してあったけど、世界中のあちこち(アメリカ、フランス、スペイン、イタリア、ロシア、中国、日本等)で撮っていて、どれも構図がびしっと決まっている。

「私にとってカメラは、スケッチブックであり、直観と自発性の操る道具であり、そして視覚的な意味において、質問を投げかけると同時に決定をくだす、瞬間の支配者である」といっている。直観と自発性か。

その日、團十郎さんが亡くなったニュースを聞いて、なんとなく心虚ろな感じだったのだけど、写真展のなかに一枚だけ日本で撮られているものがあって、それに目を引きつけられた。1965年東京青山での11代目市川團十郎の葬儀の写真。なんという偶然だ。告別式と白いペンキで書かれた黒い柱を中心にしての悲しむ群像の構図。柱と顔だけなんだけど、動きが感じられる。

2月10日までやってるんで、もう一回行こうかな。


Henri Cartier-Bresson

2013年2月5日火曜日

●Elvis Presley

Elvis Presley


ああ立春の腰のあたりがプレスリー  佐山哲郎

エルビスのもみあげ長し春燈  松本てふこ〔*

プールまで聞こえてプレスリーの曲  水田光雄


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より


2013年2月4日月曜日

●月曜日の一句〔小滝徹矢〕 相子智恵

 
相子智恵







山焼くや人にプロメテウスの業  小滝徹矢

句集『祗園囃子』(2012.7 本阿弥書店)より。

ギリシア神話でプロメテウスは、土塊から人間を造り、技術を授けた神。ゼウスから火を盗んで人間に与えたために怒りを買い、コーカサスの岩山で生きながらにして鷲に肝臓を食われ続けるという苦役を与えられる。

〈山焼く〉は、早春の山の枯木と枯草を焼き払う季語。飼草や山菜の発育を促し、害虫を駆除するために焼き払うのである。

天上から火を盗んで人間に与えたプロメテウスと、日本の伝統的な山焼きが取り合わされている。火を与えられた人間には〈プロメテウスの業〉もまた、与えられたのだという。技術と火を手に入れ、自分の利益のために野山を焼き払うことができるようになった人間たちに、業の深さを見ているのだ。山焼きの句としてハッとさせられる視点である。今はこれに加えて「第二のプロメテウスの火」といわれる原子力のことも、思わずにはいられない。 


2013年2月3日日曜日

〔今週号の表紙〕 第302号 市場深夜

今週号の表紙〕 
第302号 市場深夜



撮影場所は、東京・築地市場の場外。深夜。

毎日機能している場所は、雑然としているようで、よく見ると、隙がない。機能するために必要な整頓がなされているからでしょう。

(西原天気・記)



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2013年2月2日土曜日

●友



友ら護岸の岩組む午前スターリン死す  佐藤鬼房

怒らぬから青野でしめる友の首  島津亮

友だちのなき麦笛を鳴らしけり  富安風生

晩婚の友や氷菓をしたたらし  西東三鬼

よき友はものくるる友草紅葉  田中裕明

初釜や友孕みわれ潰れゐて  八木三日女

手をあげて此世の友は来りけり  三橋敏雄

2013年2月1日金曜日

●金曜日の川柳〔田路久見子〕樋口由紀子



樋口由紀子







拾われる自信はあった桃太郎

田路久見子 (とうじ・くみこ)

山田露結句集『ホームスウィートホーム』の中原道夫の跋で掲句に久しぶりに出合った。
〈たんぽぽに踏まるるつもりありにけり 露結〉、これは現代川柳の「拾はれる自信はあつた桃太郎」を彷彿とさせる。
こんな、思いがけない再会もあるんだと嬉しくなった。田路久見子の顔が浮んだ。久見子は川柳の場での最初の友人で、ほぼ同年齢だったのでよく一緒に行動した。

中原は「若し拾われなかったとしたら、という噴飯ものの〝仮説〟を立てる」「痛快な一句である」と書く。

時実新子の『花の結び目』でもこの句は紹介されている。新子は「拾われなかったらどうなる。などは微塵も考えない生きざま」にいたく感動し、「もしかして、私はこの考え方で流れ来たのではあるまいか」と述懐している。『花の結び目』は新子の川柳私史的な性格を帯びたものなので、余計に自分にひきつけて鑑賞しているのだが、その対比は興味深く、俳句と川柳の読みの一端がうかがえるような気がする。