2014年1月31日金曜日

●金曜日の川柳〔中島紫痴郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






眼のない魚となり海の底へとも思ふ

中島紫痴郎 (なかじま・しちろう) 1882~1968

何があったのだろう。かなり心が疲れている。人として、陸(この世)に生きていくのがしんどくなったのだろう。いっそ、魚になって、海で生きたい。が、それ以上に深刻である。単に「魚」ではなく「眼のない魚」、単に「海」ではなく「海の底」なのだから、ここまで思うのはかなり重症のはずである。しかし、「とも思ふ」である。そういうことも思ってみたりするということなのか。ずらしかたがおもしろい。

中島紫痴郎は明治期の新傾向川柳の代表的な作家。新傾向とは古川柳以来の客観性と没個性を脱して、作者の個を表出しようとした川柳で、新しい領域をひらき、川柳近代化への先駆となった。

若山牧水の短歌に〈海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり〉がある。〈流れ行く水の素直さじっと見る〉〈こんな川の水でも海に行くのだぜ〉「矢車」(第25号 明治44年4月発行)収録。

2014年1月29日水曜日

●水曜日の一句〔野口る理〕関悦史



関悦史








霧雨やたとへ話に天使の胃  野口る理

何に対する比喩なのかも判然としないまま、ある何かを唐突に「天使の胃のようなものです」と言われたとき、われわれはそれをどう受け止めればよいのか。

さしあたり考えられるのは、この突拍子もない比喩が何を指して用いられたのかを同定するという対応であり、句には「霧雨」という季語が一句の核として呈示されているのであってみれば、「霧雨」と「天使の胃」との間にいかなるアナロジーが介在し得るかを探ってみるのが、常道ではあろう。

しかし非実体と思われる天使に、はたして臓器や肉体があるものだろうか。

キリスト教圏には天使学の鬱然たる蓄積があり、天使が重さを持つや否やといったことについてまで真面目な議論が積み重ねられてきているらしいのが、極めて身軽で敏速な言葉運びを持つこの句が、そうしたものへの鈍重な参照を要求しているとも思えないため、この問いはただちに失効する。

そうではなく、天界と人界の間を浮遊する非実体なものの中の消化器官という矛盾した関係を示すこのイメージは、さしあたりこのまま受け取られなければならない。

すると「天使」の非実体性と「胃」の実体性との関係はただちに「霧雨」へと波及し、「霧」の非実体性と「雨」の実体性との曖昧な混成を喩えたのが「天使の胃」なのかと思われもして、霧雨に包まれることが、そのまま天使の胃に収まることであるかのような、輝かしくも奇妙なイメージへと転換し、そこにこの句の詩的核心があるのだろうと、一応得心してしまいそうにもなる。

しかし一様に広がる粗密の差でしかない霧雨と、器官である胃の確然たる領域性・機能性との間には、何か慣れ合うことを許さない違いがある。その上、霧雨は「や」で隔てられて、「天使の胃」を含む七五とは別の次元にあり、直結はしないのだ。

そうしたずれをあっさりと乗り越えて「霧雨」に「天使の胃」なる比喩を持ち出す野口る理的主体の突拍子もなさを玩味すればよい句であるとも見えるのだが、たとえ話として持ち出されているということは、逆にいえば喩えられた当のものは「天使の胃」ではないということである。

「これは天使の胃ではない」というラベルと曖昧な関係をとりむすぶ「霧雨」。気軽にとりむすばせる野口る理的主体。

ここまで来ると、この句の気まぐれな敏速さを決定づけているのは「たとへ話」の一語なのだということが鮮明になる。

「天使の胃」が、例えば劇画のタイトル『天使のはらわた』のような形で作者から読者へ直接呈示された重いメタファーとなることを回避し得ているのは、「はらわた」と「胃」の軽重の差もさることながら、「たとえ話」の一語が句中に入ってしまっているためなのである。媒介性を担っているのは「天使」よりも「たとへ話」なのだ。

さらに、この作中主体は「たとへ話」を発しているのか、聴いているのかもわからない位置に、確然と浮遊している。

アナロジーから洩れ落ちる身体的残余としての「胃」と、浸潤な外界としての「霧雨」が、それぞれ身軽で明確な項目のひとつであり、同時に生々しい謎の物件でもあるという矛盾を平然と担えるのは、こうした曖昧で錯綜した関係がそのまま明晰な言葉へと置き換えられているからである。


句集『しやりり』(2013.12 ふらんす堂)所収。

2014年1月27日月曜日

●月曜日の一句〔榮猿丸〕相子智恵

 
相子智恵







雑居ビル窓の一つに干布団  榮 猿丸

句集『点滅』(2013.12 ふらんす堂)より。

〈雑居ビル〉というのが都会の、しかも場末のチープな感じをよく伝えている。雑居ビルなど俳句にはまず詠まれることのない建物だが、実際にはよく見る風景だ。小さな飲み屋や怪しい金融業の事務所、風俗店などがテナントとして入っているのだろう。そのビルの窓の一つに布団が干してある。きっと日当たりも悪く、布団を干しても乾かないような窓だ。

布団は生活のもっとも身近な道具であるが、干されているのが雑居ビルの窓だと思うと、隠微で貧乏臭く、哀愁が漂ってくる。〈しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ 河野裕子〉の健康的な家族の布団とは真逆の、家族と縁を切った大人が寝ている湿っぽい布団が思われてくるのだ。一人か、あるいは男女二人が一緒に寝ている一枚の布団。

掲句はまず雑居ビルという全体を見せてから、窓の布団という一点にぴしりと焦点を当ててゆく、構造のしっかりとした写生句である。その明確な構成で、いままで詠まれてこなかった現代的でチープな材料を詠むと、こんなにもクリアに、現代の私たちが住んでいるリアルな世界が立ち上がるのだ。

2014年1月26日日曜日

【俳誌拝読】『星の木』第12号

【俳誌拝読】
『星の木』第12号(2014年1月20日)


A5判、本文20頁。同人4氏の俳句作品より。

  凩や我が青春の赤電話  大木あまり

  残る虫残りて我に親しけれ  石田郷子

  大寺のそのもろもろの木の葉かな  藺草慶子

  高きより岩づたひなる木の葉かな  山西雅子

(西原天気・記)





2014年1月25日土曜日

●妹




凭るるは柱がよけれ妹よ  澤 好摩

いもうとを蟹座の星の下に撲つ  寺山修司

妹の泪ふくらむ豊の国  穴井 太

妹が目を閉じ蜜柑咲くおかしな迂路  宮崎二健

いじめると陽炎になる妹よ  仁平 勝

2014年1月24日金曜日

●金曜日の川柳〔岩井三窓〕樋口由紀子



樋口由紀子






寂しさに大根おろしをみんなすり

岩井三窓 (いわい・さんそう) 1921~2011

冬は大根がおいしい。しかし、一人暮らしの娘は大根を一本買ったら、大根炊き、大根サラダと、いつまでも大根がなくならず飽きてしまうと言う。まして、大根おろしならなおさらである。大根おろしは一人暮らしでなくても、そんなにたくさんはいらない。

寂しいという心情と大根おろしをするという行為の結びつき。たかが大根おろしだが、ぼんやりしていたのでは手をすってしまう。一心不乱に大根をすっている間は寂しさを一刻忘れられる。「みんなすり」とは一本全部をすってしまったのだろう。すり終わった大根の真白い山を見て、もっと寂しくなったことまで想像してしまった。「に」と「を」の助詞の使い方が巧み。

岩井三窓は川柳最大の結社「番傘」の編集長を昭和51年から60年まで務め、数多くのエッセイを残した。『句集三文オペラ』(番傘ひこばえ 1959年刊)所収。

2014年1月22日水曜日

●水曜日の一句〔染谷佳之子〕関悦史



関悦史








裏口に山の来てゐる鴨雑煮  染谷佳之子

雑煮にもいろいろあるが、鴨雑煮となると高級感と同時に野趣がある。

その野趣の方を引き立てるレトリックが「山の来てゐる」で、同じ裏口の山を意識するにしても「見えゐる」とは異なり、山河と生命の厚みを頂いている風情となる。

鴨の出汁の複雑な濃密さから土地柄への連想が引き出されたとも取れるので、それと椀の中身がたがいに照らし合い、「山」までが雑煮に滋味をもたらしている。

正面ではなく「裏口」なので、台所が山河と生命の厚みとの紐帯に位置しているようだが、台所俳句的なものに収まるには「鴨雑煮」は晴れやかだ。

地に足のついた中に、晴れやかなもの、閑寂なものを織り込んでいる暮らしぶりが窺われ、そのいずれもを貫いて流れる生命の諸相を多面的に感じ取っているさまが、無駄も力みもなく一句にまとまっているのであると、ひとまずはいえる。

ところで、戸口に迫り来る山河といえば原石鼎の《風呂の戸にせまりて谷の朧かな》があり、裏口の山といえば飯田龍太《父母の亡き裏口開いて枯木山》がある。

掲句には石鼎句の圧倒的な自然の精気は、現代の生活を詠んだ句らしく、もちろんない。あの「谷の朧」に張りあうには、詠み手にも相応の意力が要るのだ。

山河の微弱な精気を引き入れつつ、龍太句への連想を利かせたところに、晴れやかなだけではない、詠み手の、自身の身命への危ぶみがひそかに染み透っているのである。


句集『橋懸り』(2013.12 角川学芸出版)所収。

2014年1月20日月曜日

●月曜日の一句〔野口る理〕相子智恵

 
相子智恵







しづかなるひとのうばへる歌留多かな  野口る理

句集『しやりり』(2013.12 ふらんす堂)より。

一瞬から見えてくる物語がとても豊かな句だ。主人公は物静かな人。控えめで穏やか、でも心の中には見えない壁があり、何を考えているのかわからない。誰とも群れない大人びた(そしてきっと美しい)生徒。男女の別はわからず。……そんな青年像が浮かんできた。

その〈しづかなるひと〉の秘めた心の激しさを不意に見たのが、歌留多取り遊びの場であった。おそらく百人一首、そして素早く奪ったのは、きっと暗記するほどに好きな「恋の歌」の札であったろう。

〈しづかなるひとのうばへる〉というやわらかな平仮名の流れは、穏やかな主人公そのもののようにも感じられる。そして「取る」ではなく〈うばへる〉という一語によって、この人が一瞬見せた内面の激しさを見事に切り出している。この句自体が百人一首に出てきそうな世界だ。

『しやりり』は、独特の美意識が感じられる句集だ。正面切った激しさはないのだが、句の内側には静かな激しさがとろとろと燃えている。その静かな激しさとは、美や言葉へと向かう内向きのもので、日常を描いている句は多いものの、決して自己表現として外へは向かわない。むしろ自分に対しては離れたところから眺めているように見える。しかしその内向きの中に、強い自意識が表れているのだ。妙に浮き世離れした、不思議な手触りの句集である。

2014年1月19日日曜日

【俳誌拝読】『絵空』第6号

【俳誌拝読】
『絵空』第6号(2014年1月15日)


季刊。A5判、本文16頁。同人4氏の俳句作品、「いわき吟行」録など。

  魚の眼のみんなまん丸神の留守  山崎祐子

  さつきから冬の日差しが顔にある  茅根知子

  春を待つ青色多き地図展げ  土肥あき子

  人形にこどもの重さ冬深し  中田尚子

(西原天気・記)


2014年1月18日土曜日

●続・太陽

続・太陽


太陽を濡らして来る鯨かな  渡辺誠一郎

太陽の船の舵音金鳳花  高野ムツオ

太陽は夜を昇りて海辺の部屋  森田緑郎

海に太陽バドミントン選手ら負けて笑ふ  橋 間石

太陽に少し傷あるさくらかな  原裕

骨片のごとき太陽霾れり  南十二国〔*〕


≫ウラハイ過去記事「太陽」
http://hw02.blogspot.jp/2010/08/blog-post_30.html


〔*〕『新撰21』(2009年12月・邑書林)より

2014年1月17日金曜日

●金曜日の川柳〔山下繁郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






栗ほじるレジスタンスは置き忘れ

山下繁郎 (やました・しげろう) 1932~

「レジスタンス」、そういう言葉があった。その言葉が生き生きしている時代が確かにあったなと思った。

栗はおいしい。が、食べにくい。こたつで丸くなって(こたつとはどこにも書いてないが)、小さな栗をほじくって食べている自分の姿がなんだかいじましくなったのだろう。昔はもうちょっと夢や希望もあって、こころざしなんかもあったのにと。栗をほじくっている姿が今の自分のすべてを表わし、全部に通じているように思って、感傷的になったのだろう。

掲句が作られた時代より今はもっと「レジスタンス」は死語になりつつある。この言葉には昔は敬意のようなものが含まれていたように思う。しかし、いつの間にか、時代遅れの、現実を直視できない、いまさらの感がある。社会も自分も大切なものを置き去りにして、どこに向かおうとしているのか。『旗旈(きりゅう)』(啓天出版社刊 1991年)所収。



2014年1月16日木曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句が読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

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2014年1月15日水曜日

●水曜日の一句〔榮猿丸〕関悦史



関悦史








春の夜の時刻は素数余震に覚め  榮 猿丸

句集中「2011年・2012年」の部に入っている句で、「余震」はおそらく東日本大震災以後のそれを指す。

制作年次を知らずとも、通常、地震で目が覚めたならば「地震」と書くはずであり、「余震」という語はその前に大きな地震が既にあったことを示している。

句の前半の乖離ぶりは味わうには、この危機感に満ちていて然るべき状況下での地震発生による目覚めという点を汲まなければならない。

目が覚めて時計に目をやると、その示している時刻は「素数」であった。

この記述から、この時計はアナログではなく、デジタル表示であり、しかも「夜」との対応から暗い中でも点灯して読みとれるタイプのそれではないかとイメージできる。携帯電話の時刻表示かもしれない。いずれにせよ、数字と数字の間の曖昧な領域を針がなめらかに移動し続けるアナログ時計では、見た瞬間に「時刻は素数」との認識はもたらされないのだ。

しかし無論、時計の文字盤に「素数」という文字が表示されていたわけではない。文字盤にはあたりまえの数字による時刻のみが表示されていたはずだ。ならばその数字をじかに句中に書き入れてもいいはずなのだが、この句の中心は、覚めた時刻がいつであったかではなく、それがたまたま素数であり、そこにまず気がついてしまったという、緊張と不安が続く日々のなかで、必要とされない、どうでもよい事柄への注意力が不意に作動してしまったという点にこそある。寝ぼけているとも取れるし、緊張疲れで現実からやや乖離しているとも取れる。

ところで、時計では60以上の数字が表示されることは通常ないから、ここで表示されていた「素数」は次のいずれかであることになる。

 2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 31 37 41 43 47 53 59

このうちヒトケタの「2」「3」「5」や、逆にあまり大きな数などは、一般に「素数」との発想が咄嗟にわきにくいものだろうから、このとき表示されていた数字はおそらくこの数列の真ん中あたりのどれかなのだろうと推察できる。できたところでそれ以上はどうにもならない。どの数字であったかには意味はないからである。

注意力のちぐはぐな作動ぶりを記したこの句は、「おもしろさ」も「かなしさ」も持ちつつ、しかし読者の感情移入を誘ったり、何らかのメッセージを伝えたりする暑苦しい同調圧力からは徹底して身を遠ざけており、一句は、夜のデジタル時計に、目覚め際に表示されていた時刻がたまたま「素数」であったという、主情性による濁りも、象徴的・観念的な深みともおよそ無縁な、輝かしく明晰でありながらその細部は曖昧なイメージの記憶、時計の表面へと集約していく。つまりここには、薄く無機的な表面に囲まれたものとして、現在の暮らしをリアライズするという明確な意志が働いており、そのひややかな感触の底に、ひそかな官能と、儚いようで実在感のある肉体が横たわっているのである。どうでもよいような些事に対する精確な慮りのユーモラスさとともに。

1と自分自身でしか割り切れない「素数」は、その肉体の固有性に、遠く‐近くデジタル表示の記号の領域から呼応しているとも取ることができる。


句集『点滅』(2013.12 ふらんす堂)所収。

2014年1月14日火曜日

〔人名さん〕チャーリー・ブラウン

〔人名さん〕
チャーリー・ブラウン


チャーリー・ブラウンの巻き毛に幸せな雪  野口る理

句集『しやりり』(2013年12月25日/ふらんす堂)より


≫清水哲男「チャーリー・ブラウン」:『スピーチ・バルーン』1975年・思潮社



『しやりり』 ふらんす堂オンラインショップ


2014年1月13日月曜日

●月曜日の一句〔堀下翔〕相子智恵

 
相子智恵







一人づつ雪のはう向く自習かな  堀下 翔

「里」2014年1月号「ふるさとはいつも雪」より。

学校の自習室だろうか。あるいは図書室か。窓辺に向かって机が並んでいる風景を思う。あるいは急遽自習になった教室で、〈一人づつ〉窓辺の雪に目を留めているのかもしれない。

雪の日の自習という学生生活の一コマ、そこにあるのは「静けさ」である。〈一人づつ雪のはう向く〉からは、誰も彼もがお互いに話すことなく、静かに過ごしている自習時間が見えてくる。一人一人が自身の受験や将来のこと、恋のことや、家族のこと…そういった自分にとって大きな問題を、静かに降り続ける雪を見つめながら内観しているように思えるのである。

一緒に自習をしている仲間が、それでも一人ずつであるという心理的距離感と、そこに降り続ける雪の白さ。青春の切なさのある句で心に残った。

掲句は「堀下翔十八歳八十句」と題された特集より引いた。作者は旭川の高校生。「ふるさとはいつも雪」は30句の作品で、第十回鬼貫青春俳句大会優秀賞受賞作の再録である。〈詫び状を渡さむ冬の霧へ出る〉〈首酔へりゆるく巻きたるマフラーに〉〈雪染みの夕刊父のことが載る〉〈シャッターの音の眩しさ枯木立〉〈樹氷林スケッチに空描き入れず〉など、冬の句ばかりの30句が清新だった。

2014年1月12日日曜日

●明るい日曜日

明るい日曜日


2014年1月11日土曜日

●画廊

画廊


雪あはく画廊に硬き椅子置かれ  山口誓子

冬帽や画廊のほかは銀座見ず  皆吉爽雨

画廊にて奇遇の春を惜しみけり  大島民郎

水澄みて画廊の上に人の棲む  依光陽子


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2014年1月10日金曜日

●金曜日の川柳〔尾藤三柳〕樋口由紀子



樋口由紀子






元旦のかがみへ鼻などをうつす

尾藤三柳 (びとう・さんりゅう) 1929~

「元旦」はいつもと同じ朝なのに、いつもの同じ朝ではないような気がする。一年で最初の朝に最初に出会った自分の顔。去年もこの顔でやってきたし、今年もこの顔でやっていく。その中でもまんなかに鎮座している鼻。普段はそんなに気にならないが、よく見るとその存在に確かなものがあり、私自身を象徴しているようでもある。「今年もどうぞよろしく」と鼻に触れて、もう一人の私に差しだすように、かがみにうつす。なぜ、そんなことをしてみたのか、それは元旦だからである。

「鼻など」は鼻の他にもあるという含みともとれるが、単に鼻などとやわらげて言っているように読んだ。「元旦」の捉え方がユニークである。

尾藤三柳は『川柳総合事典』(昭和59年刊)の編者であり、川柳文芸研究の第一者。サラリーマン川柳の選者も務めた。

2014年1月9日木曜日

●鴉




けろりくわんとして柳と烏かな  小林一茶

北風列車その乗客の烏とぼく  阪口涯子

寒鴉歩けば動く景色かな  永田耕衣


2014年1月8日水曜日

●水曜日の一句〔桑原三郎〕関悦史



関悦史








葉ざくらや一人にひとつ頭蓋骨  桑原三郎

一人にひとつしか命はない、だから大切という種類の文言はあちこちで目にするし、頭蓋骨もひとつしかないものには違いないのだが、命や個の大切さを訴える文言の正しい退屈さとはいささかずれた、奇妙な感覚がこの句にはある。

骨相を見分ける専門家でもない限り、骨になってしまえば個人個人の識別などできず、固有性よりはむしろ、死んでしまえばみな同じという同一性が際立ち、X線写真か標本でも見せられたような不気味さが強まるのである。

そういう、命の大切さを訴える紋切型表現がそっくり「死の舞踏」の図柄へと反転してしまうところが奇妙で可笑しい。「頼朝公三歳の砌のしゃれこうべ」のような、バラバラにでき、交換できるダダ的人体のナンセンス風味も漂う。

とはいえ命も頭蓋骨も「一人にひとつ」には違いなく、その生命感を「葉ざくら」が照らし出すのである。

頭蓋骨などない葉ざくらの方が、面倒がなくて羨ましいような気もしてくる。


句集『夜夜』(2013.12 現代俳句協会)所収。

2014年1月7日火曜日

●週刊俳句新年詠見物 野口裕

週刊俳句新年詠見物

野口 裕

新年詠 2014 ≫読む

いろいろな人がいろいろな句を寄せている。新年らしく、漫然と見て行こう。

ノイズばかりのA面に初泣を  青山茂根

「B面の夏」というのもあったが、これは大滝詠一「A面で恋をして」だろう。

星遠く四日の顎をのせたまま  赤羽根めぐみ

今年は五日まで余裕ありか。

TV延々火事中継中安倍川餅  池田澄子

東京はそんなことになっていたのか。まるで知らなんだ。

海底に火山噴きつぐ去年今年  池田瑠那

地形変化は、十年単位、いや百年単位か。

マカロンに挟まれている寝正月  石原ユキオ

駄菓子から高級菓子まで、値段様々。寝相もまた。

そこな人破魔矢で背中掻くと見ゆ  岩田由美

孫の手を売っていそうな店はまだ正月休みか。

変電所正月四日よく晴れて
  上田信治

発電所よりは手近にある辺鄙な場所。

四日はや母の小言のはじまりぬ  北川美美 

三日もよく我慢した、とも言える。

いくたびか地名に見惚れ年賀状  小池康生

市名でも区名でもなく、その下あたり。マンション名でもないはずだ。

ひかりからかたちにもどる独楽ひとつ  神野紗希

ベイブレードとかいう最近のベーゴマはど派手ですな。

正月の母のうずうずしてゐたり  齋藤朝比古

これも小言かな?

元旦や信号無視をしてしまふ  杉原祐之

人通りぱらぱら、車皆無の交差点。

野のひかり入る元日の厨かな  涼野海音

竈とは言えないほどには近代化している台所なのかな?

一億のアイヒマン顔(がほ)初詣  関 悦史

百人一首の西行のようです。

初日の出親父がひどくかすれ声   髙井楚良

お大事に。

元朝の真暗闇の歩みかな  筑紫磐井

日の出見物とはまた奇特な。

戦前来何色と問ふ初鴉  渕上信子

初日記より行間にはみ出でし  堀田季何

えらく微妙な並び。

鏡餅罅割れ怒濤聞こえ来る  松野苑子

息吸つて止めてまた吐き姫はじめ  松本てふこ

えらく大袈裟な並び。

自己破産させた人から賀状来る  山田きよし

金は天下の回りもの。

家に居ればすぐ夕方やお元日  依光陽子

有間皇子か。特定秘密保護法施行は今年か。



2014年1月6日月曜日

●月曜日の一句〔高野ムツオ〕相子智恵

 
相子智恵







初日影死者より伸びて来し羽か  高野ムツオ

句集『萬の翅』(2013.11 角川学芸出版)より。

初日の光が明るく射し込んでいる。一年でいちばん、めでたい日光である。しかし、そのめでたいはずの〈初日影〉は〈死者より伸びて来し羽〉ではないかという。初日を見上げ、その光の筋に、天上の死者を思う。死者にはどうしても闇のイメージがつきまとうが、ここでは死者から伸びてきた羽はまばゆい光であり、光と闇が融合しているような感覚を私は受けた。

本書には〈大年の光無限の谷一つ〉や〈もう闇でなき闇のあり大旦〉という句もある。大晦日の〈谷〉という深い闇を感じさせる場所からは無限に光があふれ出し、逆に、闇夜が明けるめでたい元日の朝には、闇ではない〈闇〉があるというのだ。一年という時の節目に、光と闇は一体となる。光と闇(もっといえば生と死かもしれない)を対極にあるものとしてではなく、一つのものと見る作者の感性は、本句集の題名となった一句〈萬の翅見えて来るなり虫の闇〉にも通じているだろう。この闇に目を凝らすと、幾万の虫たちの薄い翅の輝きがキラキラと見えてくるのである。光や闇を描いた句が、この句集には案外多い。

冒頭の作品は平成二十四年の新年の作であり、前後の句からいっても東日本大震災の死者を思い、詠んだ句であることはあきらかだ。この光の羽を、今年のはじまりに読んでおきたかった。

2014年1月4日土曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


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時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。

同人誌・結社誌からの転載刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。自薦・他薦を問いません。

なお、ウラハイのシリーズ記事(おんつぼぶんツボ etc)の寄稿についても、気軽にご相談ください。
そのほか、どんな企画も、ご連絡いただければ幸いです。

2014年1月1日水曜日

●2014年 新年詠 大募集

2014年 新年詠 大募集

新年詠を募集いたします。

おひとりさま 一句  (多行形式ナシ)

簡単なプロフィールをお添えください。
※プロフィールの表記・体裁は既存の「後記+プロフィール」に揃えていただけると幸いです。

投句締切 2013年1月4日(土) 20:00

〔投句先メールアドレス〕

上田信治 uedasuedas@gmail.com
村田 篠 shino.murata@gmail.com


●謹賀新年 2014