2013年12月31日火曜日

●What Are You Doing New Years Eve?

What Are You Doing New Years Eve?


2013年12月30日月曜日

●月曜日の一句〔澤田和弥〕相子智恵

 
相子智恵







闇汁の半分がまだ生きてゐる  澤田和弥

「嬉しきひと」(『あすてりずむ』vol.4 2013winter)より

〈闇汁〉は言わずと知れた、灯を消した室内で、めいめいが持ち寄った食べ物の名前を告げぬままに鍋に投じ、煮えた頃に暗中模索し、すくい上げて食べる遊びである。明治・大正期の書生たちが盛んに行ったといい、子規も「ホトトギス」発行所でしばしば楽しんだという。

『世界大百科事典』(第二版)では、闇汁のような食べ方を〈飲食遊戯ないしは遊戯的共食〉と解説しており、衣食が充足された状況下では必ず起こるものだという。

たしかに闇汁は、旬の食べ物を味わったり、栄養を体に取り入れるための食事ではなく、単純に遊戯だ。それは子どもの頃に「食べ物で遊んではいけません」と叱られた道徳観念と対極にある。その後ろめたさと、だからこその背徳的な快楽を、掲句は気味の悪さのなかに思い出させる。

〈半分がまだ生きてゐる〉は、投じた食べ物であろう。暗闇の中で、半死半生でうごめく謎の食材の気味の悪さと、生きたままに煮えていく残酷さ。しかもそれが食べる側の「ただの遊び」だから、食材にとっては二重に残酷である。

しかしそれでも〈まだ生きてゐる〉という食材側の妙な生命力が光っていて、不屈の笑いのようなものを見せつける。不気味ながらに、それがなんとも面白いのだ。

2013年12月29日日曜日

【新刊】山内令南作品集『夢の誕生日』

【新刊】

山内令南作品集『夢の誕生日』(2013年12月19日・あざみエージェント)


問い合わせ・購入は「あざみエージェント」のウェブへ
http://azamiagent.com/modules/myalbum/photo.php?lid=27

2013年12月28日土曜日

●わたくし

わたくし


わたくしを風景として山眠る  須藤 徹

数へ日のともあれわたくしの居場所  土肥あき子

わたくしの中の老人さくら見る  雪我狂流〔*

わたくしの瞳(め)になりたがつてゐる葡萄  野口る理〔***

わたくしに劣るものなく梅雨きのこ  池田澄子


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より
**野口る理句集『しやりり』(2013年12月・ふらんす堂)より

2013年12月27日金曜日

●金曜日の川柳〔峯裕見子〕樋口由紀子



樋口由紀子






しっかりと長さを見せて蛇通る

峯裕見子 (みね・ゆみこ) 1951~

道端などで蛇に出くわすとびっくりする。さも運が悪かったかのように、「きゃー」と言って、逃げてしまう。ぬるっとしていて、異様な動きのする蛇は嫌われものである。しかし、蛇はそんな対応にもメゲることもなく、自分の姿をしっかりと見せて、ゆっくりと進んでいく。作者もあまり堂々さぶりに感心して、頼もしくなって、怖いのも忘れて見入ってしまったのだろう。

今年は蛇年であった。私の干支も蛇。さて、この一年はどんな年であっただろうか。蛇のようにしっかりと長さを見せただろうか。自分の姿できちんと過ごせただろうか。そう思うとはなはだ心もとない。『川柳の森』(大巧社刊 2000年)所収。

2013年12月26日木曜日

【俳誌拝読】『あすてりずむ』第4号(2013年12月23日)

【俳誌拝読】
『あすてりずむ』第4号(2013年12月23日)


CDケースの半分ほどの大きさ。読みたい人がコンビニで番号を入力してプリントアウトし、折りたたんで冊子にするスタイル(≫番号その他はこちら)。



  白鳥に居場所タクシー無線より  後閑達雄

  唐揚げのごつんごろんと年忘れ  金子 敦

  闇汁の半分がまだ生きてゐる  澤田和弥

  風に鳴る高野豆腐や星あまた  小早川忠義

(西原天気・記)

2013年12月25日水曜日

●水曜日の一句〔柳沼新次〕関悦史



関悦史








除夜の鐘胎児のやうに妻眠り  柳沼新次

「胎児のやうに」の無力、可憐ぶりからも「妻」がもはや普通の体力を保っていないらしいと察せられるが、この句集『無事』は、老老介護の句が中心となっている。

《老妻と蝶の名を言ひ争へり》《病む妻の浴衣さがして日の暮れる》《妻病みて野菊飾らぬ家となりぬ》《マフラーを二人で捲けば死ぬかもよ》《病む妻の白き唇屠蘇祝ふ》《泣く妻をなだめきれずに初日記》等々。

介護経験者であれば誰もが多かれ少なかれ似たような経験はしているはずで、病人がそれまでの生活習慣を全うできなくなって野菊が飾られなくなったり、屠蘇を祝う唇の血色の薄さに目を引かれたり、そして(これが辛いのだが)泣かれたりといった事ども、皆さもありなんと思わされる。

中で《マフラーを二人で捲けば死ぬかもよ》は、介護中の句と知らずとも、「二人で」「死ぬ」の心中を連想させる緊迫感と、「マフラー」をともに捲く行為、肌ざわり、軽さの感覚から、温かい思慕に包まれた切れない深い縁を引き出していて、口語調の向こうに覚悟のほどが透けて見える佳句。

さて掲出句《除夜の鐘~》は一年の終わりの安らぎのひとときを掬い、とりあえず今は荒ぶりも苦しみもせず、眠りについてくれている無力な妻を慈しみをもって包み込む目と、年の終わり特有の一抹のさびしさを伴う満了感、そして同時に立ち上がってくる、この先どうなるのやらという、ともに虚空に浮いているかのような漂遊感のもとに、妻との繋がりを改めてしみじみと感じ取っている。

悲しみばかりではなく、酷な日々の中、愛情を持って責務を果たしている人ならではの、或る満たされた感じがある。


句集『無事』(2013.12 ふらんす堂)所収。

2013年12月24日火曜日

●the christmas song

the christmas song



2013年12月23日月曜日

●月曜日の一句〔山田真砂年〕相子智恵

 
相子智恵







冬至粥日はうす皮を剥いでゆく  山田真砂年

「諸家自選五句」(『俳句年鑑』2014年版 株式会社KADOKAWA)より

昨日は冬至だったから、今日からはまた日が長くなりはじめる。〈冬至粥〉とは冬至の日に食べる小豆粥のことで、小豆の赤が邪気を祓うため、昔から冬至に食べて邪気を祓ったという。が、残念ながら筆者は食べたことがない。

〈日はうす皮を剥いでゆく〉という表現が繊細で美しい。力が最も弱まる日の、うすうすとした冬の太陽は、これから薄皮を剥ぎながら、夏至へ向けて少しずつ、少しずつ、輝きを増し、強くくっきりとした光になってゆくのだろう。

丸い椀の中の赤い粥から、同じく丸くぼんやりと光る太陽に転じて、冬至という日がかつて持っていた怖ろしさや、そこから太陽が再生していくことへの希望や願いという、精霊信仰を思い出させた。



2013年12月22日日曜日

●共同募金

共同募金


疲れたる紙幣を共同募金とす  日野草城

社会鍋の喇叭の唾を道へ振る  田川飛旅子

社会鍋ふと軍帽を怖るる日  田中鬼骨

最初から重さうな鍋社会鍋  名村早智子

簡単に口説ける共同募金の子  北大路翼〔*〕


〔*〕『新撰21』(2009年12月・邑書林)より

2013年12月21日土曜日

●運河

運河

廃運河何に波立つ雪の中  水原秋櫻子

花種買ふ運河かがよひをりしかば  石田波郷

行春や機械孔雀の眼に運河  中村安伸〔*

くちびるに夏来る運河しづかなり  皆吉司

食器洗う白き運河に卯波立つ  綾野南志

夾竹桃運河一本鉄のごと  永方裕子

いつまでも運河に雪の溶けゆけり  小野あらた〔**


〔*『新撰21』(2009年12月・邑書林)より
〔**『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より



2013年12月20日金曜日

●金曜日の川柳〔郁三〕樋口由紀子



樋口由紀子






人ごとのような五十が来てしまい

郁三

何歳になっても、あれっ、もうそんな年齢になったのかと思う。年の瀬になると余計にそう思う。それにしても「人ごとのような」とは思いつきそうで思いつかない、うまい比喩である。「人ごとのような」と言いながら、「来てしまい」と含羞をこめて、来し方行く末をしんみり考えたのであろう。

掲句は少なくとも五十年以上前に作句されている。その当時の五十歳と今の五十歳ではその感慨に大きな開きがある。今ならさしずめ七十歳、いや八十歳ぐらいだろうか。その当時の五十歳を客観的にもうまく捉えている。そして、今読むと当時の五十歳の心境も印象も状況もなんとなくわかるような気がする。川柳はこんな役割も担っている。『番傘一万句集』(創元社刊 1963年)所収。

2013年12月19日木曜日

●トランプ

トランプ


トランプのジャックの顔のいなごかな  石田郷子

つまみたる夏蝶トランプの厚さ  高柳克弘

トランプのダイヤに似たる夏ごころ  阿部青鞋

賑やかな骨牌(カルタ)の裏面(うら)のさみしい絵  富澤赤黄男




2013年12月18日水曜日

●水曜日の一句〔五十嵐義知〕関悦史



関悦史








木の扉軋みて青葉時雨かな  五十嵐義知

「青葉時雨」は、青葉した木々に降りたまった雨がぱらぱら滴り落ちることをいうらしい。個人的には、大江健三郎の『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』以来なじみ深いイメージだが、季語としては使ったことがなかった(いろいろあるものだ)。

ただし句中の「青葉時雨」は大江作品のような寓意を担っているわけではない。

「木の扉」は加工されて建材となったとはいえ、元は木であって、いくばくかの生命感は残る。

「軋む」となると、声をあげているようでもあって尚更だ。

いわば「道具」と「生物」の中間にあるような物件だが、そうしたことを感じさせるのは、それと照応しあう「青葉時雨」も中間的な要素、つまり、青葉としての生命感を湛え、水滴を散らしながらも、今現在雨が降っているというわけではなく、青葉自身が水を湧きださせたものでもないという時差と変容の要素を含んでいるからである。

はっきりとは描かれていないが、作中の語り手が木の扉を押し、結果として揺れた木から滴が散ったと取るべきなのだろうか。それとも扉は風か自重で勝手に軋んだだけなのか。

「押せば軋みて」「開けば軋み」といった書き方がなされていれば語り手の動作によると明瞭にはなるが、この語り手の希薄さも「木の扉」「青葉時雨」の中間性にふさわしいものと思える。

扉となった木と、雨滴を散らす青葉とが湛える二種類の異なる時間の経過感と、清冽ながら静かに混みあう生動感を掬うには、こうした希薄な主体の浸透が必要とされたのだ。


句集『七十二候』(2013.12 邑書林)所収。

2013年12月17日火曜日

●ミルク

ミルク

非常口はミルクの膜の破れ目に  須藤 徹

寒さは若さ朝のミルクに膜生れて  川口重美

死を遁れミルクは甘し炉はぬくし  橋本多佳子

花嫁のしるくミルクの深紅かな  攝津幸彦

2013年12月16日月曜日

●月曜日の一句〔小川楓子〕相子智恵

 
相子智恵







山があり山影のあり いちまい  小川楓子

「かうばしい」(『つばさ』2013.12月号/特集:ガールズ・ポエトリーの現在)より。

ひとつの山がある。そこにひとつの山影ができる。〈いちまい〉が山影にかかるとすれば、山から伸びた影が一枚、ぺたりと地に貼り付いているということになるし、〈いちまい〉が山と山影の両方にかかるなら、山と山影のある風景そのものが、一枚の切り絵のようにぺらぺらになる。私は後者の想像をした。

上五から中七までは山影の効果もあって、風景は妙に立体的に想起されてくるのであるが、一字空けをした下五の〈いちまい〉によって、頭の中の山と山影は、一気に「ぺしゃん」と潰れてその質量を失ってしまう。

一字空けの「間」の効果と、〈いちまい〉の「字足らず」の効果は、ちょうどジェットコースターに似ている。ジェットコースターが落ちる寸前の、頂上にいる絶妙な何秒間かが一字空けで、そこから一気に滑り落ちるスピード感が字足らずである。〈いちまい〉には、そんな爽快な破壊力があった。

この句に季節を表す語はないのだが、〈いちまい〉で、なぜか色まで失うような気がして、私の心の中にはぺらぺらの、モノクロの冬の山が想像された。

2013年12月15日日曜日

【俳誌拝読】『蒐』第13号

【俳誌拝読】
『蒐』第13号(2013年11月23日)


発行人:馬場龍吉、編集:鈴木不意。A5判。本文(カラー)20頁。

同人各氏より1句ずつ、気ままに。

大南風キリンにつむじ覗かれし  中嶋憲武

手のなかを扇のあそぶ帰郷かな  馬場龍吉

ひやひやと登りて狭き手術台  太田うさぎ

波すこしなだめて覗く箱眼鏡  菊田一平

プールサイドは眠たし荷物番をして  鈴木不意

(西原天気・記)




2013年12月14日土曜日

●インバネス

インバネス


子に靴を穿かすインバネス地に触り  山口誓子

インバネス戀のていをんやけどかな  八田木枯

インバネス飛び立ちさうな名前なり 谷雄介

2013年12月13日金曜日

●金曜日の川柳〔元禄〕樋口由紀子



樋口由紀子






心配もこたつですると眠くなり

元禄

子どもの頃からこたつは好きだった。学校から帰るとすぐにこたつに入った。こたつに入ると身体と同時にこころも温まり、緊張がとけて安心し、にんまりしていた。

先週紹介した〈6俵を321と積み上げる〉は目にした事実を句にしていたが、掲句は経験した事実を句に仕上げている。こたつに入ると身体がぽかぽかし、ほっとして眠くなるのは知っていたが、心配事があるときでもそうだったのだ。

「心配」の本質と「こたつ」の効用を川柳的というか、斜交いに、違う角度からうまく言い当てている。今でもこたつが好きで、秋の初めにこたつを出し、ゴールデンウイーク頃まで仕舞わないでいる。こたつは足から温まる、そこがいい。『番傘一万句集』(創元社刊 1963年)所収。



2013年12月12日木曜日

●The Killers - Read My Mind

The Killers - Read My Mind

2013年12月11日水曜日

●水曜日の一句〔佐々木貴子〕関悦史



関悦史








中空の0おごそかに回転す  佐々木貴子

場所は「中空」である。上下前後左右にはさしあたり何もなく、何によっても支えられていない。

「0」も非実体であり、中空のなかの非実体が描かれていることになるが、それはしかし回転という運動性と動因をも持っている。

実体のない中の動きとなると中観仏教の「縁起」や「空」を連想させられもするのだが、この句の特徴はそれを寓意を背負った実体的イメージとしては表しておらず、代わりに「0」という記号を直に現前させてしまっていることだ。

記号が物と同じ実体感をもって現前するこの夢の中のような非-世界になめらかに量感を与えているのが「おごそかに」だが、この「おごそかに」は同時にちょっとユーモラスでもあり、この光景を目にした語り手の身体と戦慄を思うと、ニュー・ウェーブに影響を受けた川又千秋や、言語実験的作品を書いていた頃のかんべむさし等のシュルレアリスティックなSF作品に通じる味わいも出てくるのである。

こんな「世界の真理」の如きものが安手のガジェットよろしく目の前に在って回転していることの、陰鬱でしかし突き抜けた啓示的感覚。それはSF小説やアニメの表現の数々に通じるところを持ちながら、そうした想像力の基底に触れているようでもあり、どこか懐かしさをも感じさせる。

なお句集『ユリウス』はこの他にも《宇宙船無音で滑る枯野道》《箒木に百億の昼絡まりぬ》《焼鳥の串一本が宇宙の芯》等、SF的なものとの親和性を示す句を少なからず含んでいる。


句集『ユリウス』(2013.11 現代俳句協会)所収。

2013年12月10日火曜日

●尿意

尿意


目薬をさせば尿意や冬籠  林雅樹〔*

猿の芸見てゐて寒き尿意かな  鈴木鷹夫

ピカソ忌の萩寺尿意しきりなり  塚本邦雄


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2013年12月9日月曜日

●月曜日の一句〔鍵和田秞子〕相子智恵

 
相子智恵







鷹放つ山の骨相あらはなり  鍵和田秞子

「2013年100句選 高野ムツオ選」(『俳句年鑑』2014年版 株式会社KADOKAWA)より

きりりとした句だ。山の骨組みがあらわに見えているというから、山じゅうの木の葉が落ちた、裸木ばかりの冬の山なのだとわかる。葉が茂っている春から秋にかけての山とくらべて、全山の木の葉が落ち、ひとまわり小さくなった、枝ばかりのゴツゴツとした冬の山は、なるほど肉の落ちた骨ばった人体のようで、〈山の骨相あらは〉という表現に驚きつつも納得した。

そして〈鷹放つ〉。鷹匠が放ったのだろう。力強く飛び立った鷹を追う視線の先に、骨相があらわとなった冬の山が聳え立つ。一点の鷹の色とその鷹が向かう大きな山の色とが響きあい、〈鷹〉と〈骨相〉の硬いK音もまさに対峙するように響き合っている。力強く堂々とした一句である。



2013年12月8日日曜日

●12月8日

12月8日

十二月八日
(月曜 晴 温)岸井君が、部屋の扉を半開きにしたまま、対英米宣戦のニュースを知らせてくれる。そら来た。果たして来た。コックリさんの予言と二日違い。
 帳場のところで、東条首相の全国民に告ぐる放送を聴く。言葉が難しすぎてどうかと思うが、とにかく歴史的の放送。身体がキューッとなる感じで、隣りに立つてる若坊が抱きしめたくなる。
 表へ出る。昨日までの神戸と別物のような感じだ。途から見える温室の、シクラメンや西洋館まで違つて見える。
 阪急会館は客席ガラ空き、そこでジャズの音楽など、甚だ妙テケレンだ。花月劇場も昼夜ともいけない。夜は芝居の途中から停電となる。客に演説みたいなことをして賛成を得、蝋燭の火で演り終る。
 街は警戒管制で暗い。ホテルに帰り、今日の戦果を聴き、ただ呆れる。
徳川夢声『夢声戦争日記』(中央公論社昭和35年)

十二月八日(月曜)
 日米開戦 米英両軍と戦闘 宣戦布告。
 昨夜十二時に床に入ったが寝られない、朝起きつゞきで悪いくせがついた。今日がゆっくり故、薬はのまぬことにして、ガンばったが二時すぎ迄知ってゐた。十一時起される。起しに来た女房が「いよいよ始まりましたよ。」と言ふ。日米つひに開戦。風呂へ入る、ラヂオが盛に軍歌を放送してゐる。食事、ラヂオは、我軍が既に空襲や海戦で大いに勝ってると告げる。一時開始といふことで十二時半迎への車で出る。砧へ行く迄の道、ラヂオ屋の前は人だかりだ。切っぱつまってたのが、開戦ときいてホッとしたかたちだ。砧へ行くと、今日は大衆でエキストラの汚い爺婆がうようよしてる。平野・斉藤・堀井・上山と出張して来て、相談--然し、正月興行も、日米開戦となっては色々考へねばならないし、今日の気分では中々考へがまとまらず。所前のしるこ屋でくず餅を食ひ、ラムネのみて話し、それから三時迄待たされ、三時から支度して、芝居小屋のセットへ入ったら、暫くして中止となる。ナンだい全く。昨日の大衆撮影で、二階のセットが落ちて、怪我人を出した。エキストラが怪我したので、今日はコールしても恐がって来ないさうで、大入満員の芝居小屋が、エキストラ不足のため、一杯にならないため、中止となったのであるが、何もそれが分っていれば、僕までカツラつけさしたり、衣裳つけさせたりしなくてもよさゝうなものだ。こゝらが撮影所のわけの分らぬところである。此うなると、たゞ自動車賃貰ひに来たやうなもの。開戦の当日だ、飲みにも出られないから、山野・渡辺を誘って家へ帰る、途中新宿で銀杏その他買ふ。燈火管制でまっくら。家で、アドミラルを抜き、僕はブラック・ホワイトを抜いて、いろいろ食ふ。ラヂオは叫びつゞけてゐる。我軍の勝利を盛に告げる。十時頃皆帰り、床へもぐり込む。
『古川ロッパ昭和日記・戦中篇』(晶文社1987年)



2013年12月7日土曜日

●タイヤ

タイヤ


昭和終るタイヤが咥えたる石と  鈴木六林男

かの死者の股ですそれはタイヤの山  八木三日女

首筋にタイヤの臭いさせて夜  湊圭史〔*〕
 

〔*〕『川柳カード』第4号(2013年11月25日)より。



2013年12月6日金曜日

●金曜日の川柳〔日本村〕樋口由紀子



樋口由紀子






6俵を321と積み上げる

日本村

私は農家生まれなので、祖父や父が収穫時に米俵を積み上げる姿を見て、育った。確かに6俵なら、まず3俵で、その上は米俵と米俵の間に2俵、次も間に1俵を積む。3俵の上に3俵でも、2俵2俵2俵と、縦に積み上がるのではなかった。ピラミッド型に米は備蓄されていた。米俵の形状や米の習性でその方が安定するからだったのだろう。綿々と引き継がれてきた人の知恵である。

人の行う作業を、目にしたものを見事なまでにくっきりと切り取っている。無駄がなく、演出もなく、装飾もなく、それでいて要領を得ている。簡潔ゆえに生き生きと活写している。積み上げられた米俵がくっきりと鮮やかに目に浮かぶ。その景はこの上なく美しかったのだろう。『番傘一万句集』(創元社刊 1963年)



2013年12月5日木曜日

●本日はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト忌

本日はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト忌





馬刺したべ火事の匂いがしてならぬ  金原まさ子


2013年12月4日水曜日

●水曜日の一句〔高野ムツオ〕関悦史



関悦史








落葉溜りあるべし日本海溝に  高野ムツオ

なぜこんなことを推量したのかわからないが、個人的な心情の暗喩ではないだろう。そう思わせるのは落葉が一枚ではなく複数が溜まっているからである。

落葉が海底に達することはあるのかもしれないが、日本海溝となると隔絶の度合いが尋常ではない。

報われず、かえりみられない民族的規模の集団の運命といったものを思わせるが、そこにある感情は、悲しみとも、人知れず身を寄せ合っての安寧ともつかない、少々名状しがたいものだ。

三島由紀夫が武田泰淳に評される体験を「引導を渡される」と表現して、彼岸的な価値観に照らし出され、泣きたいようなありがたいような何とも言えない気持ちになる独特の体験とどこかで語っていたように思うが、この隔絶した深海に積もる落葉も、片がつかないものを抱えつつ、異界独特の安らぎに照らされているような気もする。

そして列島のすぐ脇に、そういうタンギーの絵のような静かな生気と超現実味を持つ深い裂け目が走っていることを急に意識させられるのだ。

東日本大震災以前の作。


句集『萬の翅』(2013.11 角川学芸出版)所収。




2013年12月3日火曜日

●電話

電話


受話器からおじやこぼれる理屈です  佐山哲郎

電話ボックス冬の大三角形の中  今井聖

鶏交るしろき受話器に中毒して  攝津幸彦

明日会ふ人の電話や春の月  小川軽舟

電話鳴る野分のあとの明るさに  矢口晃〔*

月光の差し込んでゐる電話かな  石田郷子

三田二丁目の秋ゆうぐれの赤電話  楠本憲吉

受話器冷たしピザの生地うすくせよ  榮猿丸




〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より



2013年12月2日月曜日

●月曜日の一句〔長嶺千晶〕相子智恵

 
相子智恵







赤松のうろこ乾びて流行風邪  長嶺千晶

-blog 俳句空間-戦後俳句を読む「平成二十五年 冬興帖 第四」(2013.11.22更新)より

〈赤松のうろこ〉とは、うろこ状にひび割れた赤松の樹皮のことだろう。赤くひび割れ、ぽろぽろと乾いてはがれたりもする赤松の樹皮と〈流行風邪〉との、不思議とアンニュイな取り合わせに眼が留まった。

流行風邪に罹患した人が赤松のある場所を歩いているのか、流行風邪に臥せっている窓からぼんやりと赤松を眺めているのか、状況は見えてこないものの、赤松の赤くカサカサとひび割れた樹皮と、鼻や喉の粘膜が荒れ、咳やくしゃみと一緒に、体から水分が抜け出ていってしまうような〈流行風邪〉の様子とが、遠いところで妙に響き合っている。乾燥した冬の空気も感じられてくる、良い意味でヘンな取り合わせである。