2018年3月30日金曜日

●金曜日の川柳〔谷口義〕樋口由紀子



樋口由紀子






道になる途中の歯間ブラシです

谷口義

「歯間ブラシ」を最初に見たときは細いワイヤーにナイロン製の毛がついていて、へんなかたちで、よくそこまで思いついたものだと感心した。そこまでちまちまとしなくてはならないのかとも思った。今では不可欠とまではいかないまでも需要があり、売り場ではそれなりの位置を占めている。

「歯間ブラシ」が「道になる途中」というのではないだろう。「道になる途中の」と「歯間ブラシ」の間が絶妙であり、かなり大胆である。切れているようで微妙に繋がっている。「歯間ブラシ」は比喩だろう。「歯間ブラシ」は安価で百円ショップで数本も買える。歯と歯の間の汚れを取り除く、そんな一見たいそうでなく、へんなものの存在を鮮明にしている。「道になる途中」とはそんなものかもしれない。作者による発見がある。「おかじょうき」(2018年刊)収録。

2018年3月29日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








大比叡やしの字を引て一霞 芭蕉

延宝五年(一六七七)の作。形も内容も、堂々としている。面白いのは、平仮名のなかの「し」の字を選んでいるところだろう。ぼやけた霞がかかっているので、「し」は横向きに倒した形だろう。曲線が山に似合う。

なぜわざわざ「し」なのか。これも元ネタがある。なんと、私たちがテレビアニメで親しんでいた「一休さん」だ。時代から推定すると、出典は「一休ばなし」(一六六八)。この中に、一休が比叡山の僧侶たち字を所望され、比叡山から麓の坂本まで紙を継いで「し」の字を書いたという逸話がある。芭蕉の頭はこれを踏まえている。

それにしても、なぜ「し」なのか。「一休 比叡 しの字」でインターネット検索をすると、松本健氏の「一休が『し』の字を書いたこと――〈本当の話〉という伝承」という論考が見つかった。詳しくは論を読んでいただきたいのだが、平成に入って作られた伝記やアニメーションが、『一休ばなし』の筋と乖離して読者・視聴者に届いていることが面白い。平成が終わろうとしている今、様々な意味が追加されたことを知った頭で読む芭蕉の句から受け取るものは、延宝時代と当然大きく変わってくるだろう。



また、『泊船集』『彼これ集』などに「大比枝やしを引きすてし一かすみ」の作もあるが、『泊船集』には「此句は翁の吟なるよし、ある人にきゝぬ。実否はしらずしるしぬ」とあるので、こちらの句については、「異形句は存疑とすべきか。」と『芭蕉全句集』(桜楓社)にある。PCやエクセルのない時代、自分で作った句の管理は大変だっただろう……。「しの字を引て」の方が句の立ち姿が美しい気がする。

2018年3月27日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド13 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド13

福田若之・編

ベルは「音声送信器と名づけて特許局に書類を提出した。一八七六年二月一四日の午前一一時のことである。ところが電信機のライバル、エライシャ・グレイがたった二時間遅れて、電話機の特許を出願したのである。「電話王ベルの二時間の幸運」と人々は呼んだが、グレイの方が先に電話を発明していた、と言われ続けたのはベルの電話が未完成だったからだ。文化史にある発明者の名や年月には、さほど意味がない。発明の記録は競争者を列記しなければ価値がないのである。
(木村哲人『発明戦争――エジソンvs.ベル』、筑摩書房、1994年、57-58頁)



アレクサンダー・グラハム・ベルは長い生涯のあいだに興味のあることを数多く追求したが、青年時代から変わらず意欲をかき立てられる関心事がひとつあった。職業を訊かれると、彼はきまって「聴覚障害者の教師」と答えたものだ。ベルの基礎科学に対する最大の貢献は電話の発明ではなく、聴覚障害への取り組みだと考える人は少なくない。ベルは聴覚障害について重要な研究をおこなって聴覚障害者の利益を最大限にしようと努めただけでなく、その人生のあいだに約五〇万ドルを聴覚障害者のために投じたのだった。
(ナオミ・パサコフ『グラハム・ベル――声をつなぐ世界をむすぶ』、近藤隆文訳、大月書店、2011年、117頁)



たとえば、「電話がない時代」から「電話がある社会」への移行がもたらした変化にくらべれば、「電話がある社会」になってからの変化は――それが電話風俗にみられるような新奇さをともなっていたとしても――周辺的なものだとする見方がある。このような立場は、何かにつけてマクルーハンを引用する昨今のメディア論に共通して見いだされる。メディアはそれまでになかった「身体性」(一口でいえば「ノリ」)を切りひらき、感覚を変容させる……云々。しかしながらシステム理論的な立場からすれば、こうした見解はそれ自体、メディアに固有の「ノリ」をつくりだすのに役立つ「神話」にすぎない。つまり、そうした物言いは、メディアを「分析する」言葉であるとは言えない。説明しよう。
 メディアにはたしかに固有の「ノリ」があるが、それが身体におよぼす効果はいかなるものであれ「社会的文脈」の関数である。たとえば、電話コミュニケーションが対面的コミュニケーションとの間にどんな差異を構成するのかは、「電話であること」によって――つまり電話というメディアによって――決まるわけではない。わたしたちの例が示しているのは、両者の差異を極大化する社会的文脈もありうるということだ。同様に、電話風俗が参加者を「電話共同体」に繰り込むようにはたらくのか、また空間的な距離を感覚的に縮めるようにはたらくのかどうかも、すでにみたように、どんなコミュニケーションがメディアの文脈を構成しているかによってちがってくるのである。
 こうした例をふまえていえば、メディアが重要なのは、「社会的文脈」の変化を固有に「ゆがんだ」かたちで増幅する装置だからである。その「ゆがみ方」は、たしかにメディアごとに独特の様相を示すかもしれない。しかしそうした独特の様相の現われ方もふくめて、システムと環境の差異を――電話的コミュニケーションとそうでないものの差異を――構成しているのは、メディア自体ではなく、そうしたメディアを要求し、またあたえられたメディアを解釈する「コミュニケーションからなる社会的文脈」なのだ。
(宮台真司『制服少女たちの選択――After 10 Years』、朝日新聞社、2006年、102-104頁)

2018/1/9

2018年3月25日日曜日

〔週末俳句〕 洲本 岡田由季

〔週末俳句〕
洲本

岡田由季


土曜日、「淡路関空ライン」の高速船に乗り、淡路島へ。日帰りひとり旅です。


200人以上の定員に対し、乗客は20人いたかどうか。存続が危ぶまれます。

洲本に到着し、Googleで「洲本 ランチ 海鮮」で検索して辿りついた、海鮮食堂魚増さんへ。たこ天丼を食べました。

山の上の小さなお城、洲本城を目指してみます。

頂上につくと、桜はまだでしたが、景色が素晴らしい。

別の道から下山すると、いきなり松林の浜辺に。
私の住んでいる泉州地域以上に、山と海の距離が近いです。

街を散策し、 淡路文化資料館に入ろうかどうか迷い、入りませんでした。付近に新しそうな句碑がいくつか。


淡路出身・在住のホトトギス同人高田菲路の句で「城の花紺屋町までふぶきけり」。

そんな光景が洲本で見られるまで、もうすぐです。



淡路島は、車がないと巡れないイメージがあります。ペーパードライバーの負け惜しみかもしれませんが、徒歩の旅も、なかなか楽しかったです。

私は、歩いて見て回っているときには、あまり俳句は浮かびません。が、その後、船など、乗り物に乗ると、何か思い浮かぶこともあります。

フェリーも高速船も廃止になったり復活したり、経営が厳しそう。頑張ってもらいたいものです。

2018年3月24日土曜日

〔人名さん〕浮世又平

〔人名さん〕
浮世又平

又平に逢ふや御室の花ざかり  与謝蕪村



2018年3月23日金曜日

●金曜日の川柳〔村山浩吉〕樋口由紀子



樋口由紀子






お辞儀する道に落ちてる詩と金魚

村山浩吉(むらやま・こうきち)

挨拶、お礼、遠慮、辞退、などの理由で頭を下げた。すると、落ちているものがあった。それが「詩と金魚」。わかりやすい地点に着地しないで、意味の理屈をはぐらかしている。上から下へ読んできて、最後にあれっというポイントを持ってきているのだが、へんだと思うまでに微妙な時間がかかった。

「詩と金魚」の並びにびっくりした。どちらの言葉もふくらみと広がりがあるが、質感と触感はまったく違う。理想と現実なのだろうか。「詩」は詩集とか具体的なものというよりは、日常とはまた別次元の、夢のある、想像力の次元のもののような気がする。金魚は死んでなどいなくて、真っ赤でピチピチ跳ねていて、新しいなにかを象徴しているものと思いたいがそうでないのが現実のようだ。「おかじょうき」(2018年刊)収録。

2018年3月20日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド12 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド12

福田若之・編

電話の声に対しては〈夢中〉になる以外の態度の取りようがない。電話の声に対して客観的になることはできない。いくらでも冷静になることは可能だが、それが夢の中の冷静さと同じものであることを忘れてはいけない。そして夢の中の冷静さとは、さめている時の熱狂よりも深い熱狂であることは誰もが知っている事実である。
(鈴村和成『テレフォン――村上春樹、デリダ、康成、プルースト』、洋泉社、1987年、32頁)



 へへへへ。だいたい、電話っていうものは好きなわけ?
 そうだなあ……、酔っぱらうと好きだな。電話したくなるよ、いろんなところに。
 あっそう、だれんとこに?
 えー、いろんな人に。いろいろ。昔つき合ってた女の人とかさ。
 正気のときはしないわけね。
 あんまりしないなあ。
 長い方、短い方?
 長いときはぼく寝ちゃったことあるよ。
 あ、ほんと、ふうん。
 あのさ、電話でね、話してて眠たくなってくるじゃない。で、相手は起こそうと思うじゃない。と、声が聞こえるじゃない。そうすっと、なんか小人みたいな小さな人間がね、遠くの方でなんか叫んでるようなイメージが……幻想? ……そういうのが見えたね、こないだ。
 へえ。酔っぱらってるときね?
 酔っぱらってるとき。
(高橋悠治、坂本龍一『長電話』、本本堂、1984年、10-11頁)



私が聲をひそめて呟くやうに口ごもる質問にも、彼女が手に電話の送󠄁話器󠄁を持つてゐさへすれば、電力によつて、ここで返󠄁事をしてくれるのです。――こんなふうにして、靈的な存在となつた女と私とは、空󠄁間といふものを實證的に無視󠄁して、隨分色々なことを語り合ひましたよ!
(ヴィリエ・ド・リラダン『未來のイヴ』、齋藤磯雄訳、東京創元社、1996年、435頁。太字は原文では傍点。)

2018/1/15

2018年3月18日日曜日

〔週末俳句〕鳥がいる 西原天気

〔週末俳句〕
鳥がいる

西原天気


夏蜜柑が届きました。ほぼ毎年、収穫時季にいただきにうかがうのですが、今年は送っていただき恐縮至極。

ところで、夏蜜柑を春の季語とする歳時記が多い。夏なのに春。冬瓜は秋の季語。冬なのに秋。歳時記は、日本語に歯向かう、あるいは「それ、違うよ」とただすことがあるようで、このへんは気位が高い。

そんなだから、歳時記には、従う・崇めるふりをしておいて、ときどきいたずらをしたくなる。俳人の性ですね(異論は認めます)。



俳誌『なんぢや』(発行人榎本亨)第40号が届く。表紙の「なんぢや」の文字のそばに「nandja」と印字。ブルトン「ナジャ(NADJA)」へのオマージュなんだろうな、と、メインじゃない情報に目が行く。俳人の性ですね(異論は認めます)。

自分のことを「俳人」みたいに言ってるのに気づいて、ちょっと恥ずかしくなりました。でも、たまには言ってもいいよね(誰に訊いてる?)。



あす月曜日は八田木枯1925年1月1日 - 2012年3月19日)の忌日。

 春を待つこころに鳥がゐてうごく 木枯


2018年3月16日金曜日

●金曜日の川柳〔村岸清堂〕樋口由紀子



樋口由紀子






指先の力があまる稲荷鮓

村岸清堂

稲荷寿司はシンプルな食べ物だが、作るには繊細さが必須である。すし飯は牛蒡や人参を入れればいいし、胡麻だけでもなんとかなる。が、問題は油揚げの甘煮。油揚げの油の抜き加減でべたべたしたり、すかすかになったりする。なによりも仕上げの甘煮の油揚げを袋にして、すし飯を詰めるときの力の入れ加減は難関である。

力を入れさえすれば、あるいは頑張れば、なにごともいいのではない。思いきり力を入れることは単純でかえって簡単なことかもしれない。力をセーブする、力をあまらす、その程よく調節することが微妙でむずかしい。生きていく智恵は力のあまらせ具合にあるような気がする。破れた寿司揚げで学ぶことは多い。「あまる」という感触が上手い。「川柳タイムス」(創刊号・昭和5年)収録。

2018年3月15日木曜日

〔人名さん〕水木しげる

〔人名さん〕
水木しげる

水木しげるの水を浮かんでくる蝌蚪よ  羽田野令

『鏡』第24号(2017年6月1日)所収。

2018年3月13日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド11 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド11

福田若之・編

 電話機の前では何人も平等です。
 何人も電話機に対して特権を持つことはできません。
 電話機は誰の言葉でも同じように伝えます。
 電話機は誰に対しても同じように受話器をとり、ダイヤルをまわすことを要求します。
 電話機はあらゆる個別的な権威、名誉といったものを伝えようとしません。
 電話機が伝えるせいぜいの個的なものは声ですが、それすら、高音部と低音部を消してしまい、無個性的なものに近づけているのです。

 電話機こそ、人類の絶対的な平等を実現する仮面なのです。
(小林恭二『電話男』、小林恭二『電話男』、福武書店、1987年、62頁)



これで五年というもの、あなたを拠り所にして生きてきたのよ。あなたがわたしの吸いこむ掛け替えのない空気だったのよ。ただひたすらあなたを待ち暮らしましたわ。あなたが顔をみせるのが遅れでもすると、あなたは死んだと思い、死んだと思って死にそうになり、あなたが戸口に姿をみせると生きかえり、やっと、ここに落ち着いてくれると、今度は出てゆくんじゃないかと生きた心地もなかったわ。今は、あなたが話していてくださるから、こうやって呼吸をしているのよ。わたしの見た夢はまんざらばかげてもいないわ。あなたがこの電話を切れば、呼吸をするパイプを切っておしまいになるのよ〔……〕
(ジャン・コクトー『声』、一羽昌子訳、『ジャン・コクトー全集』、第7巻、東京創元社、1983年、126頁。ただし、「拠」に「よ」、二か所の「呼吸」に「いき」とルビ。太字は原文では傍点。)



ブルーは彼女のことをたまらなく恋しく思う。だがそれと同時に、物事はもう二度と元通りにはならないだろうという思いを彼は感じている。どこからそんな感じがやって来るのかはわからない。けれど、ブラックや、この部屋や、この事件のことを考えているときはまあ一応満ち足りた気持ちでいられるのに、未来のミセス・ブルーのことが意識にのぼったとたん、彼はいつもパニックに陥ってしまう。平静は一瞬にして苦悩に転じ、まるで自分が、暗い、ほら穴にも似た、入ったら最後二度と出られない場所に向かって落下しつづけているような思いに襲われるのだ。毎日のように、彼は、受話器を取り上げ彼女に電話をかけたい誘惑に駆られる。現実の彼女と接触を持てば、金縛りのような気持ちもたちどころに消えるのではないか、と。だが何日かが過ぎ、彼はそれでもまだ電話をかけない。
(ポール・オースター『幽霊たち』、柴田元幸訳、新潮社、1995年、24頁)



「じゃあ行く……」
電話が切れた。
このごろじゃもう誰も、さよならとも言わない。この世界では。
(チャールズ・ブコウスキー『パルプ』、柴田元幸訳、新潮社、2000年、143頁)
2018/1/6

2018年3月12日月曜日

●月曜日の一句〔塩野谷仁〕相子智恵



相子智恵






桃咲いてしんじつ星の滅びゆく  塩野谷 仁

句集『夢祝』(邑書林 2018.3)所収

「桃が咲いている。まったくもって本当に星は滅びゆくのだな」という句。桃からの流れで星が滅ぶというのは、意外な流れでありながら詩的にすっと心に入ってくる。

桃の花のわさわさと咲くイメージが、そのまま夜にびっしりと輝く星の多さにスライドしていく。この花もこの星も、今は咲き、あるいは輝いているけれどすべては滅びの過程にあるのだ。

桃の花には田舎じみた向日的な明るさがあって、それが星々の寿命という暗く静かな絶望感と重なると、なんだか今、目の前にあるすべてのものが夢の中のできごとのように遠く感じる。

この星はすべての星であろうが、やっぱり桃が咲くこの地球のことを思うのである。

2018年3月11日日曜日

〔週末俳句〕春のお買い物 小津夜景

〔週末俳句〕
春のお買い物

小津夜景


某日。春の陽気にさそわれて近所をふらふら歩いていると、いつも古道具市の開かれている広場が、とうとう観光シーズンの到来とみえて沢山の人出でした。



古道具市には本を商う店も数件ありPeter Beilenson訳《THE FOUR SEASONS》を入手。出版社はNYのPRTER PAIPER PRESSで1958年発行。サブタイトルに「日本の俳句第二集」とあるのでシリーズものみたいですね。巻頭頁は鶴田卓池、黒川惟草、小林一茶、大江丸。全頁にそれぞれ異なる掛け軸風の挿絵がついています。



去年の春、同じお店でこんな本を買ったこともありました。



Maria Fire著《Knit One, Haiku Too》。出版社はカナダのADAM DEDEA。2006年発行。編み物にまつわるさまざまなエッセイに俳句が添えられた本です。



これは「リズムを聴くこと」というエッセイ。編み物をするときはリズムそのものになれ、という内容みたいです。で、最後にその極意を俳句の形に集約して口伝してくれるという親切さ。編み物の本なのに春らしく思えるのは、頁をめくるたびに軽やかに踊る毛糸のイラストのせいかも知れません。

さいきん関悦史さんが、福田若之さんをゲストに招いて「第2回 悦子の部屋」を西念寺で開催したもよう。関さん曰く「なぜかロラン・バルトと蓮實重彦の話ばかりしました」とのことで、もしかするとかなり文学っぽい会だったのでしょうか。

それはさておき驚いたのがこの現場ツイート。だらだらやるのは知っていたけど、もしかして、みんなごろ寝しちゃったの? いや、まさか全員ってことはないか。そう信じたい(←絶対にごろ寝したくない人)。

2018年3月10日土曜日

◆週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただく「句集『××××』の一句」でも。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。


紙媒体からの転載も歓迎です。

※掲載日(転載日)は、目安として、初出誌発刊から3か月以上経過。

2018年3月9日金曜日

●金曜日の川柳〔藤本秋声〕樋口由紀子



樋口由紀子






おいしいと言うまでじっと見つめられ

藤本秋声(ふじもと・しゅうせい)

じっと見つめられるのはこの上なく嬉しいことのはずである。しかし、それはおいしいと言ってもらうためだけのこと。「おいしい」の一言の偉大さ。「おいしい」というまで目が訴えかける。おいしいと言ってもらうのをじっと待つ可笑しさ、そのためにじっと見つめ続けられなければならない可笑しさ。どちらもごくろうさんなことである。

作者個人の生活状況を、自宅の食卓風景の一コマを、詠んだのではないだろう。たぶん、どこかで見聞きした日常の小さな一瞬を切り取って一句にしたのだろう。古川柳以来の川柳の文芸の特質の一つに客観性がある。世態を客観的にながめて、世態を穿っている。ありふれた日常の、だれもが経験する瑣事を客観的な視点から川柳として、読み手の目に残す。〈笑ってはいけない時に茶が熱い〉〈ボールペンくるくる数学は苦手〉。

2018年3月8日木曜日

●木曜日の談林〔井原西鶴〕浅沼璞



浅沼璞








しれぬ世や釈迦の死跡にかねがある 西鶴

『白根草』(延宝8年・1680)

聖なる神仏と俗なる金銭とのリンク。
前書が何種類か残ってるが、一句として鑑賞しよう。

上五の「や」は文語の切字というより、大坂弁の詠嘆に近いだろう。典型的な初期俳諧の口語調だ。

〈想定外の浮世や。無欲を説いたお釈迦様かて、死に跡にヘソクリ残しとる〉

意外なことの喩えとして、釈迦の私金(わたくしがね)という諺が当時あった。諺の引用はブームだった。

(下五は近松の浄瑠璃っぽく「ね」「る」をやや高音で)

ところで一茶なら「涅槃図に賽銭箱」と解する(解した?)だろうか。自分でもこんな風に詠んでる。

  ねはん像銭見ておはす顔も有  一茶「七番日記」
  御仏や寝てござつても花と銭   仝「八番日記」

一茶の文化句帖には浮世草子に関したメモも残ってる。ある面、一茶は遅れてきた談林派だった。たぶん。

2018年3月6日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド10 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド10

福田若之・編

電話に関する綺譚、怪談、悲劇も、かぞえあげたら一冊の本になるくらい多いだろう。私にも、ひとつ思い出がある。子供の頃うちで電話を買ったが、前の持主は事業に失敗した商人だった。彼はいよいよ明日は電話をはずされるという前夜に、その電話機に紐をかけて縊死してしまった。仕事のゆきづまりで、もうどうにもならなかったのであろうが、大切な電話を失うことも大打撃だったにちがいない。それだけでも不吉な電話なのに、番号が「四二番」で「死に」通じるのだった。この二重に不吉な電話は、私の家でも気味悪がってしばらくひきとらずにいたが、そのうちにやむなくひきとって、茶の間の押入の中につけられた。重い板戸のなあで、ジーン、ジーンと電鈴がなると、先の持主の恨めしそうな声でもきこえてきそうで、私はたちすくんだのだった。
(式場隆三郎『二笑亭綺譚』、式場隆三郎ほか『定本二笑亭綺譚』、筑摩書房、1993年、57頁。太字は原文では傍点)



 どんな都会も、どんな近代国家も、電話帳というあの本質的な物体、検討されることあまりにすくないあの不朽の著作が欠けていたら存続しえないでありましょう。
(ミシェル・ビュトール「文学、耳と眼」、清水徹訳、ミシェル・ビュトール『文学の可能性――文学、耳と眼』、清水徹ほか訳、中央公論社、1967年、148頁)



広告のなかでも、電話帳広告には寿命の長いコピーが必要である。これが購入を決めているか、決めかけている人々には有効に働く。しかし特殊なこと、たとえば価格のようなものの表示は好ましくない。変動するからだ。この点は、イエローページ業者団体YPPA、広告業者、出版社、広告主とも、価格ははっきり表示しない広告コードをもっている。チラシ広告ではないのだ。そのかわり、チラシは、一日、ときには数秒で捨てられるが、電話帳は一年、半年と保存される。ときに図書館など数十年も貸出す。
(田村紀雄『電話帳の社会史』、NTT出版、2000年、271-272頁)



電話帳やタウン情報誌に見るような情報(記号)空間と都市空間との対応関係に相当するものは、文学テクストの場合にも指摘することができる。そのもっとも見易い例は、実在の地名が意図的に挿入されている都市小説である。私たちがまだ訪れたことがない都市であっても、小説のなかで出会う街の名前には、空想をそそりたててやまないふしぎな色彩や響きがこもっているが、その一方で、作中人物の動きにそって紹介される街の名や通りの名や橋の名の連なりは、都市の解読についやされた作者の精神の歩行を解きほぐす糸口になる。作者の愛着がしみとおっている地名の集合そのものが、都市というテクストから切りだされたメタテクストを構成しているといいかえてもいい。
(前田愛『都市空間のなかの文学』、筑摩書房、1992年、24頁)



ちよつと最初の詩を讀んで御覽なさい。いや、あなたは河童の國の言葉を御存知になる筈はありません。では代りに讀んで見ませう。これは近󠄁頃出版になつたトツクの全󠄁集の一册です。――
(彼は古い電話帳をひろげ、かう云ふ詩をおほ聲に讀みはじめた。)

 ――椰子の花󠄁や竹の中に
   佛陀はとうに眠つてゐる。

   路ばたに枯れた無花󠄁果と一しよに
   基督ももう死んだらしい。

   しかし我々は休まなければならぬ
   たとひ芝居の背景の前󠄁にも。

(芥川龍之介『河童』、『芥川龍之介全集』、第8巻、岩波書店、1978年、372頁。ただし、ルビは煩雑になるため省略した)

2018/1/6

2018年3月5日月曜日

●月曜日の一句〔上田五千石〕相子智恵



相子智恵






暮れ際に桃の色出す桃の花  上田五千石

松尾隆信『上田五千石私論』(俳句四季文庫36 2017.10)所収

元句は『森林』(牧羊社 1968年刊)所収だが、『上田五千石私論』で出会った。松尾氏によれば、五千石は第一句集『田園』後のスランプから脱するために「眼前直覚」を自身の理念としたという。「心の状況が眼前と結びつくこと」ということだが、その後、生涯をかけて、この理念の範囲は「眼前を起点とした飛躍」にまで変遷を遂げていく。その変遷が本書では句と共に時系列で丁寧に描かれていく。

さて、掲句。桃の花の色は日差しによって見え方が変わるが、本当の桃の花の色を出すのは日暮れ間際だという。色濃く、薄暗い桃色、その色こそが本物の桃の花の色だというのである。

〈出す〉という言葉が選ばれることで、強さが生まれている。この色を出すのは桃の花の意志であるかのように読ませながらも、それはもちろん自身の思いだ。“心の状況”が出ている部分だと言えるだろう。

暗い、濃い色こそ桃の花。その美しい断定が、読む者を惹きつける。

2018年3月4日日曜日

〔週末俳句〕写真 近恵

〔週末俳句〕
写真

近恵


カメラ付きの携帯電話を持つようになってから、そっちこっちで写真を撮るようになりました。それまで私はカメラを持っていませんでした。必要なときには使い捨てのカメラを買って、でも結局現像に出し忘れたままだったりとかして。デジカメも持っていません。でもSNSに投稿するようになり、スマホに替えたら更に写真を撮る量が増えました。インスタ映えする写真を撮りたいという訳でもなく、まあ自分の記録の為にというところでしょうか。スマホのカメラの性能の素晴らしい事。もうデジカメとか買う必要もなくなりました。まあもっとも、立派な一眼レフのデジカメが以前懸賞で当たり、一台は家にカメラがあるのですが、使い方がよく解らず、しかも重たい。なので結局その一眼レフを持って出かけることはありません。


桜や梅など、いくら撮っても毎年変わり映えする訳ではないのに、なぜか毎年撮ってしまう。散歩の時も旅行の時も、とにかく目に付いて気になったら直ぐに撮る。なんでもかんでも。だから吟行の時も俳句を考えるより、面白いものや気になるものを見つけては写真を撮っている方が多い。俳句は後で席についてから短冊を目の前にすればなんとか出来るもんです。いや、私の場合ですが。記念写真や人物の写真はとても少なく、殆どが景色や物です。また、食べ物の写真も少ない。いつか使えそうだと思う食べ物の時しか運ばれてきた食事を写真には撮りません。食事はまず食べることが先なのです。

写真は俳句を作る時には時々役にたったりします。写真に写っている物で俳句を作るよりも、その時の気分を思い出してそこから俳句になる言葉を探していくので、被写体よりも被写体を見ていた自分の気持ちを思い出したくて写真を撮っているのかもしれません。だから腕も一向に上がりませんが、別にかまわない。写真家を目指しているわけでもないですし。


最近撮った写真で気に入っているのはこの写真。日曜日の作りかけの道路。そしてこの写真を見ているうちになぜか思い出した一句。

  梅咲いて庭中に青鮫が来ている  金子兜太

梅を見に行った後に通った場所で出会った景色だったからかもしれません。亡くなったばかりだからかもしれません。人の頭の中は不思議です。写真を見ているうちに、その写真とは全然関係ないことを思い出したりしてしまうのです。

2018年3月1日木曜日

●新妻慕情 非婚化に抗ふ 上野葉月

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新妻慕情 非婚化に抗ふ  上野葉月

新妻の真ん中に置く春隣
一月の新妻セラミックの切れ味
新妻が映画のやうに春の雪
新妻のふふふ魚氷に上りけり
新妻を見分ける力佐賀や滋賀
早春のグラス新妻一柱
梅咲けり新妻少し焦げてをり
如月の新妻鎌倉ハムに似る
菜の花の小袖を通す割烹着
新妻が新妻を呼ぶ春炬燵