2016年5月31日火曜日

〔ためしがき〕 こんなところでヤギたちと出会うとは 福田若之

〔ためしがき〕
こんなところでヤギたちと出会うとは

福田若之


総務課の我妻悟さん(34)は、「ヤギたちは冬の間にやせた。心ゆくまで草を食べてもらいたい」と話す。
(鬼頭恒成、「除草係のヤギ、「職場復帰」――JR立川駅近く 4ヵ月ぶり」、『朝日新聞』、2016年4月14日付朝刊、多摩版、25面)
この、「ヤギたちは冬の間にやせた。心ゆくまで草を食べてもらいたい」ということばを、短歌としても読みうるような気がするのは、僕が短歌のことをよく知らないからというだけなのか、それとも、短歌のことをよく知る人たちにとってもそうでありうるのだろうか。

いずれにせよ、この多摩版の片隅に僕にとって短歌として読みうる言葉を発見したことは、あの立川駅の近くでヤギたちと出会うことと同じぐらい、うれしいおどろきだったには違いない。

2016/4/14

2016年5月30日月曜日

●月曜日の一句〔髙柳克弘〕相子智恵



相子智恵






日盛や動物園は死を見せず  髙柳克弘

句集『寒林』(2016.05 ふらんす堂)より

先日、象のはな子が死んで横たわったニュース映像を見て「これは特別だ」と思ったのは、私の心の中にこの句がずっとあったからだ。

〈山青し骸見せざる獣にも 飯田龍太〉のように、死ぬ姿を見せないという動物の本能を描くのとは対照的に、生きている動物を見せる動物園を管理する人間が、死後も動物を管理し、観客の目に動物の死体をさらすことはないという、どこまでも人工的でクリーン(?)な状態を描いた句。それも「日盛」という、神経をとがらせるような暑苦しさ、隅々まで夏の光に照らされた明るさの中で。

美しく秩序をもって作られた世界の裏側にある「見せないこと」に対して、作者はとても敏感である。同句集の代表句のひとつである〈嗚咽なし悲鳴なし世界地図麗らか〉の世界地図の美しさも同じだろう。

一方で〈見てゐたり黴を殺してゐる泡を〉という句があって、ここにはカビ取り剤を黴に噴射し、その泡が黴を静かに殺していく間を見ているのだが、泡を噴射したのは自分だろう。それを傍観者のように眺める視点は、動物園の句と詩の根は同じである。

CMで流れる“殺す商品”といえば、殺虫剤とカビ取り剤で、それが生き物を殺すという感覚もなく、クリーンな生活の共として私たちは見ているし、使っている。動物園では生きている動物は見るけれど、死んだ動物は見ない。そうして日常はつつがなく流れているのだということを、これらの句によって突き付けられるのである。

2016年5月28日土曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2016年5月27日金曜日

●金曜日の川柳〔酒井麗水〕樋口由紀子



樋口由紀子






ちちははの姿勢で渡る丸木橋

酒井麗水 (さかい・れいすい) 1942~

「ちちははの姿勢」とはしゃきっと背筋を伸ばした姿勢だろうか、それとも背を丸めた穏やかな姿勢だろうか。多分、前者であろう。丸木橋は一本の丸木を渡しただけの橋、安定性はない。心して渡らなければ川に落ちてしまう。丸木橋を渡るは人生を過ごすと同義であろう。そのように意識して生きてきたのだ。

「ちちはは」「丸木橋」と舞台設定はオーソドックスで、今の感覚からすると多少古めいているが安心して読むことができる。当時の女性が持っていた潜在的な意識をうまく表現し、父母に対する心の持ちようが感受できる。「橋」とは不思議なものだとあらためて思う。『橋を渡る』(吉田修一著)を読んでみたくなった。「魚」13号(1981年刊)収録。

2016年5月25日水曜日

●水曜日の一句〔上田貴美子〕関悦史


関悦史









ぺん執るや言葉ひつこむ十三夜  上田貴美子


書くべきモチーフが視野の端にちらちらしながらもそれを「書けない作家」という主題は、古い純文学などでよく目にした気がするのだが、この句においては、その描かれようがいかにも軽快で、あまり深刻な苦悶は感じさせない。

モチーフが捕まえきれない悩ましい状況であるにもかかわらず、それを語る上五中七の「ぺん執るや言葉ひつこむ」という対句的表現が、あたかも漫才の掛け合いか餅つきのようなワンセットのリズムを成し、語り手が悩みのなかにうずくまることを許さないからである。こうした状況は何も今回が初めてではなく、いつものことであるらしい。そしてそれを自分で茶化している。言葉となる以前の「前言語的地熱」(蓮實重彦)の高揚と、いざそれを文章化しようとする際に立ちあらわれ、方向をそらしてしまう紋切型表現の相克といった事態が一句の中心を成しているわけでは、必ずしもないのである。

「十三夜」が呼び起こすイメージはまずもって明月である。この点も「書けない」ことの苦悶という主題を一句から遠ざける。「十三夜」月は、そのわずかな陰り・欠落によって、言語化できていない・書けない領域の隠喩を成しているというよりは、書けずにいる状況全体を天から照らし出し、言葉がひっこんでしまったらそれはそれでいいではないかとでも言いたげな明澄な自足を一句に呼び込んでいるのだ。

あるいはこの「十三夜」は、ひっこんでしまった「言葉」と入れ替わりに、その代償として天空にあらわれたのかもしれない。そうであるならば、もはやあえて苦労して言語化する必要もなく、ただその現前と幸福感を享受すればよいというものではないか。……という事態がこの句では言語化されており、しかし句中の語り手はそのことにおそらく気がついてはいない。


句集『暦還り』(2016.4 角川書店)所収。

2016年5月24日火曜日

〔ためしがき〕 視覚の比喩としての存在 福田若之

〔ためしがき〕
像の比喩としての存在

福田若之


虹立ちて忽ち君の在る如し   高濱虚子
虹消えて忽ち君の無き如し

「虹」:像。「君」:存在。

像は立ち、消える。それは見えるか見えないかだ。

存在は在るか無いかだ。

虚子は、この二句において、像を存在の写しと捉えるのではなく、存在を像の比喩としている。

見えるか見えないかが在るか無いかを証し立てるというのではない:虚子の二句は、見えるものは在るとか、あるいは、存在については光学的な語彙で語りうるとかいうような、一切の視覚中心主義から区別される。虹について真に問いうるのは在るか無いかでは全くない。君について真に問いうるのは見えるか見えないかでは全くない。そして、虹が見えているということは、虹が在るということでは全くないし、虹が在るかのようだということでさえ全くない。虹は像にすぎず、像は在るかのようでさえありえない。在るかのようでありうるのは、像ではなく、ただ存在だけだ。像が立つとき、何かが在るかのようだとすれば、それは像ではなく存在なのである。存在は像と決して同一視されてはいない。存在が像によって導き出されることもない。存在と像との間にはいかなる因果関係もない。存在が在ろうが無かろうが、像は立ちうるし消えうる。それでも存在は像の比喩である。おそらく、存在は何らかの仕方で像に似ていると考えられているのだろう。

注意しなければならないのは、ここでは、像が存在の比喩なのではなく、存在が像の比喩であるということだ:像のほうが実態的で、存在のほうが仮想的であるということ。存在は、像という実態的なものから、在るかのようなものもしくは無いかのようなものとしてのみ、把握されている。このとき、存在はもはや在るか無いかではなく、在るかのようか無いかのようかでしかない。

虚子において、どこまでがそうなのだろうか。存在が、どこまでも、在るかのようか無いかのようかでしかないのだとすれば、たとえば、《襟巻の狐の貌は別に在り》の「在り」は、《怒濤岩を嚙む我を神かと朧の夜》の「嚙む」 と同じく隠喩でしかないことになるだろう。

2016/4/12

2016年5月23日月曜日

●月曜日の一句〔須原和男〕相子智恵



相子智恵






揺れ戻す首のちからや白牡丹  須原和男

句集『五風十雨』(2016.05 ふらんす堂)より

牡丹は「花の王」ともいわれる大きくて豪華な花だ。花の華麗な美しさに目が行きがちであるが、掲句は白牡丹の花を支える茎の強さ、しなやかさを詠んでいて発見がある。

風に揺れたのだろう。ぐいっと花が揺れ戻したところに首の力強さを見た。それと同時に、大きく重い花は揺れ戻す反動も大きいので、言外に牡丹の花の大きさ、重さが確かに感じられてくるのである。

紅ではなく、色のない「白牡丹」であるのも、首への注目を無理なくさせる。また、白牡丹と首の「く」の音が重なって、音からも力強さとしなやかさが出ている。

虚子にも、よく知られた〈白牡丹といふといへども紅ほのか〉という白牡丹の本質を発見した句があるが、それに近い観察眼を感じる写生の佳句である。

2016年5月22日日曜日

●パセリ

パセリ

抽象となるまでパセリ刻みけり  田中亜美〔*〕

パセリ嚙む蓬髪の眼は充血し  佐藤鬼房

摩天楼より新緑がパセリほど  鷹羽狩行

雨の朝のたましいにパセリを添えよ  池田澄子

はつなつやかう書いてみむ巴芹なら  中原道夫


〔*〕『俳句界』2016年6月号より。


2016年5月20日金曜日

●金曜日の川柳〔井出節〕樋口由紀子



樋口由紀子






時々は埋めた男を掘り出して

井出節 (いで・せつ) 1944~2005

「埋めた男」とは殺して埋めた男という、物騒な話ではないだろう。自分の分身だろう。自分でも手に負えなくなって葬ったのだ。しかし、平穏に暮らしていくことはできるが、分身の手を借りなければ片づかないものを抱えている。何よりも分身がいないと退屈なのだ。そのために時々分身を「掘り出して」きて、息をつく。自分で埋めて、自分で掘り出す身勝手さ。なんともやっかいな性だ。それをまるで他人事のように、飄々と書いている。

〈一つめの桃は見送ることにする〉〈横顔が複雑すぎる写楽の絵〉〈いかがせむいかがせむとて舞いにけり〉〈哄笑うために赤い鳥居によじ上る〉〈少し長い右手で月を摑まんと〉〈憂きことも無けれど重き菜切りかな〉〈赤いポストを鬼の首と思うとき〉〈五十半ばの河でひたすら桃を待つ〉〈躓いた姿のままで柩に入る〉。井出の柔和でつかみどころのない笑顔を思い出す。そういえば飄々とした人だった。『井出節川柳作品集』(2002年 川柳黎明舎刊)所収。

2016年5月18日水曜日

●水曜日の一句〔髙柳克弘〕関悦史


関悦史









月とペンそして一羽の鸚鵡あれば  髙柳克弘


書き手としての己を恃んだロマン主義的な句ではある。「ペン」の一語がそう読ませ、「月」と「一羽の鸚鵡」が、耽美性、ナルシスティックな孤心への自足、華やかでエキゾティシズムといったものを思わせる。自分の外部にこれだけのものがあれば、「ペン」は突き動かされ、創造していけるという、自信と未知への憧れが、三つの物件のみから立ち現れるのだ。

二物衝撃ならぬ三物の並列が、その背後の心象をうかがわせるという構成が巧みというか、俳句としてはやや珍しいかもしれない。心象が前面に出過ぎると嫌味になりそうだが、表面に並べられた物件たちが形作る印象は、これから書かれる作品が自己表現であると同時に、物の官能性によりそった博物誌的な明快さを持ったものになるのではないかといった期待感をも抱かせるのである。

同じ作者の旧作に《洋梨とタイプライター日が昇る》という、やはり三物を並べ、しかもそのうちの一つは筆記用具であるという句があるが、こちらでも残りの二つは「日が昇る」という天文的事象と「洋梨」というエキゾティックな物件である。

その意味では、配合の仕方はあまり変わっていないのだが、本当に物が並んでいるだけのような旧作に比べると、この「月とペン」では書き手の思念がより前掲化する。その思念自体は、じかに書かれたらさして興趣をそそるといったものにはならないはずなのだが、思念の部分を担っている「ペン」は、「月」や「鸚鵡」と並ぶ(というよりも「そして」が置かれることにより、バランスとしては「一羽の鸚鵡」がむしろ中心的なウェイトを占めている)ことで、単なる物件としての輪郭を獲得してもいる。とはいうものの、全体としては「あれば」の甘味に一句が統御されていることは間違いなく、結果として、これら物件と思念の組み合わせ(及び強弱のバランス)から成る句は、両者が触れ合う内外のはざまに生成し、浮遊する一枚の皮膚のようなものと化す。ナルシスティックな句であるにもかかわらず、思念を直叙する句の暑苦しさから離れられているのは、一句がこうしてしなやかで薄い官能性そのものに変じているからなのだ。


句集『寒林』(2016.5 ふらんす堂)所収。

2016年5月17日火曜日

〔ためしがき〕 メラメラ感 福田若之

〔ためしがき〕
メラメラ感

福田若之


漢字で書くとき、なんとなく、虫のほたるは「螢」と旧字で書きたくて、「蛍光ペン」は新字で書きたいと思う。あるひととのやりとりでその話題になって、その区別は、よくわからないと返された。たしかに、うまく説明できない。

おそらく、慣れの問題というのはある。「蛍光ペン」は、「螢光ペン」として売られていることはまずない。 「蛍光灯」もしかり。

けれど、虫のほたるについて書くとき、「螢」という字の何が捨てがたいって、このメラメラ感だ。物としての蛍光ペンや蛍光灯に備わっていないメラメラ感が、螢の明滅にはたしかにある。

「營み」や「榮え」も、おそらく、古代には、そんなふうにメラメラしていたのだろう。人間の営みがなによりも火と切り離せなかった頃、火が繁栄のなによりの象徴だった頃が、きっと、かつてあったに違いない。

そして、鶯にあたえられた謎のメラメラ感。

2016/4/6

2016年5月16日月曜日

●月曜日の一句〔茨木和生〕相子智恵



相子智恵






蝸牛桜の脂を舐めゐたり  茨木和生

句集『熊樫』(2016.05 東京四季出版)より

蝸牛が、桜の樹液を舐めている。著者の作風からしても、掲句は実景であろう。蝸牛と桜の脂は、実景ならではのハッとする組み合わせである。私は恥ずかしながら、蝸牛は葉を食べる…くらいの知識しかなく、生態に詳しくないのだが、樹液を舐めるのだと驚いた。

掲句は偶然、写生で切り取られた風景でありながら、蝸牛と桜の樹液の色合いや質感が響きあっている。うっすら透き通る殻に、ぬめぬめとした体を持つ蝸牛が、てらてらと光る飴色の桜の樹液を舐めている。自然と雨も感じられてくるから、全体的に濡れ光りしている感じだ。

この句で不思議な力を発揮しているのは、他の樹ではなく「桜」であるということではないか。桜という、物語を多分に含む(文学的には桜ではなく「花」の方がそうなのであるが)季語が、この実景を不思議と祝祭的な気分にしていると感じる。

写生で得た偶然の場面、しかし、作者はもちろん見たものすべてを句にしているわけではないのだから、それを切り取り、残した作者の美意識。野趣あふれる実景の句の中に、その美意識が息づいている。

2016年5月13日金曜日

●金曜日の川柳〔鈴木九葉〕樋口由紀子



樋口由紀子






純金の傷つき易さ詩にならず

鈴木九葉 (すずき・きゅうよう) 1907~1976

純金のような人という、比喩だろうか。純金であろうと銀でも銅でも錫でもアルミでもなんでも傷つくものである。(どんな人でも日々傷ついて生活している。)純金はまじりもののない黄金、まじりものがないだけに純金の傷は深いような気がする。だからそれが「傷つき易さ」だとしても「詩にならず」とはなんと辛辣であろうか。他のものなら詩になるというのだろうか。

とはいっても、私だって、純金の傷よりも木片の傷の方に心が揺さぶられる方だ。単純に胸に迫ってきて、感情移入しやすいからだ。純金に対する感情的な悪態のようでいて、知的な洞察のようである。

鈴木九葉は「ふあうすと川柳社」の椙元紋太亡き後の二代目主幹。〈キリストが眠る粗末な木のベッド〉〈バスが出てしまい炎天無一物〉〈海は静か援軍が来たりはしない〉〈冬苺一つ大きく 神からか〉〈遠き人遠き灯に似て またたける〉など独特の感じの川柳を数多く残した。

2016年5月12日木曜日

●ペン

ペン

ペン先の金やはらかき暮春かな  小川軽舟

ペンの走り固しとおもひ行火抱く  臼田亜浪

原稿紙ペンの遅速に遠蛙  吉屋信子

天高しきちがひペンをもてあそぶ  西東三鬼

月とペンそして一羽の鸚鵡あれば  髙柳克弘〔*〕


〔*〕髙柳克弘句集『寒林』(2016年5月/ふらんす堂)より。

2016年5月10日火曜日

〔ためしがき〕 「忘れちゃえ」の句についてのメモ 福田若之

〔ためしがき〕
「忘れちゃえ」の句についてのメモ

福田若之


忘れちゃえ赤紙神風草むす屍 池田澄子

思うに、あやまちを犯さないことは、過去のあやまちを忘れないこととはまた別のことだ。僕たちは、第二次世界大戦の記憶を持たなかったとしても、戦争を拒みうる;そのとき僕たちが拒むのは過去の戦争ではなく、今日と未来の戦争にほかならない;僕たちが抗うのは、つねに、今日においてでしかない。

∴もし、過去が僕たちを苛むことによって、僕たちが今日の生と向き合うことがもはや不可能に感じられるときには、トラウマからの解放を希求することが許されていいはずだ。それは、場合によっては、今日において生きて抗うことのために、むしろ必要なことでさえありうる。

そのとき、僕たちは、もはや意識の上では、過去のあやまちを今後くりかえすことに抗うのではないだろう。僕たちは、今後のあやまちに抗うことを通じて、そのさらに未来におけるあやまちのくりかえしに抗うのだろう:《あやまちはくりかへします秋の暮》(三橋敏雄)を、未来において過去のあやまちがくりかえされることの不吉な予言として読むのではなく(過去のあやまちはすでになされてしまったのだから、この読みではあやまちのくりかえしをもはや回避することができないことになってしまう)、これからのあやまちこそが、もしなされてしまえば、さらにその後かぎりなくくりかえされるのだという警鐘として読むこと(この読みにおいては、ひとつのあやまちを回避することが、そのまま、その都度、かぎりない数のあやまちを回避することになる)。

2016/4/4

2016年5月9日月曜日

●月曜日の一句〔宮本佳世乃〕相子智恵



相子智恵






あたたかな橋の向うは咲く林  宮本佳世乃

同人誌「オルガン」5号「咲く林」(2016.05)より

〈あたたかな橋〉というと、主体は橋の上に立って欄干にでも手を置き、橋の温度をじかに感じているように思えるのだが、次に〈橋の向うは咲く林〉といわれると、主体は橋の上に立っているのではなく、橋のこちら側に立っていて、橋および橋の向う側の〈咲く林〉を見ているのだなと思える。すっと読める一句でありながら、主体の立ち位置にずれた印象が残り、おや、と思う。

そこで読者である私は、句の最初に立ち返り、今度は、橋を見ているだけで〈あたたかな橋〉だと感じてみることになる。するとたちまち〈あたたかな橋〉の周りに幸せな春の光が差してくるのである。ふわりとあたたかい春の光が。

〈咲く林〉は、普通なら「桃の花」だとか明確な植物を置きがちだが、ざっくりと詠むことで、いろんな花が咲いている雑木林を思わせる。また、「橋の向うの」ではなく「橋の向うは」としているので、橋のこちら側との区切りがより強調される。

あたたかな光に満ちた橋の向うは、諸々の美しい花が咲く林。こう読んでくると、〈あたたかな橋〉は天国への入口のような、あるいは彼の世と此の世を結ぶ、能の橋掛かりのような不思議さを帯びてくる。

光のことは句の中に一言も書かれてはいないのだが、全体に「あ」の音が多いところからも明るさを感じる。印象派の絵画のように、一句全体が光に包まれ、橋も花咲く林も、ぼわーんとすべてが眩く滲んでゆくようだ。なんだか呆けるような、幸せな一句である。

2016年5月8日日曜日

●肌色

肌色

人の去り人肌色に夜の梅  中西夕紀〔*〕

肌色の土筆まとうは袴のみ  二村典子

くつしたの穴の肌色涅槃西風  如月真菜


〔*〕『都市』2016年4月号より。


2016年5月6日金曜日

●汽笛

汽笛

竹秋の天より降つてくる汽笛  中田尚子〔*〕

日傘して汽笛の音の次を待つ  藤田湘子

荒梅雨の沖の汽笛や誰かの忌  西東三鬼

頓狂汽笛に応える汽笛冬夜長し  鈴木六林男

遠く呼びあふ汽笛その尾に凍る星  佐藤鬼房

神戸美し除夜の汽笛の鳴り交ふとき  後藤比奈夫

なつかしき羅宇屋の汽笛春待てば  加倉井秋を


〔*〕『絵空』第15号(2016年4月15日)より。

2016年5月4日水曜日

●水曜日の一句〔田島健一〕関悦史


関悦史









ひらく雛菊だれのお使いか教えて  田島健一


「だれのお使いか教えて」という口語調が童話的なポエジーを生むが、そこに回収されきるには微妙にずれ出しているものが感じられ、何やら不審者のようでもある。「お使い」という言葉から相手が小さい子供(またはそれに類した存在)らしいとわかる上、問いかけの内容も少々変なのだ。

見知らぬ子供に外でいきなり声をかけるとなれば、例えば「どこへ行くの」といった問いかけの方が自然であり、「だれのお使い」なのかに関心が向いていることを思えば、この質問者に子供(またはそれに類した存在)そのものへの関心はおそらくない。

子供(またはそれに類した存在)などと変な書き方をしているのは、この問いかけの対象が普通の人の子供であるとは限らず、相手が「ひらく雛菊」であるからかもしれないからである。

俳句を読むときの習慣にしたがい、「ひらく雛菊」で切れると一度は取りたくなるのだが、わざわざ「ひらく」と付いているところがあやしい。開花という行為が、だれかのお使いを果たすための移行状態のようにも見えてくるからだ。

質問者がお使いの内容には関心を示していないことを思えば、その伝達内容は季語としての「雛菊」にふさわしく、春の訪れを告げるといった程度のことなのかもしれないし、さしあたりどうでもよいのだろう。

この場合むしろ目立ってくるのは開花する雛菊をメッセンジャーとして使役しうる何ものかが存在するということなのだが、この句においては、それは偉大な自然だとか造物主だとかいった重層的な厚みを持った方向には統合されそうにもなく、そのおかげで、質問者自身もいつまでも立ち位置や目的の曖昧な不審者という立場に宙吊りになり続けることとなる。

いや、宙吊りになるのは質問者だけではない。

ここまでの読み方は根こそぎ間違っていて、質問者ならぬ発話者が「だれのお使いか教えて」あげたおかげで「雛菊」がひらいたという倒置法的な読み方や、あるいは「ひらく雛菊」当人が変容の過程で自分の使命を忘れてしまい、他の誰かに「(私が)だれのお使いか教えて」と哀願していると読むことも、全く不可能とは言い切れないのである。

かくしてこの句から確かに言えることは、「ひらく雛菊」と「お使い」をめぐってある質問あるいは対話がなされ、その背後には誰かを「お使い」に出した何ものかが想定されているということだけとなって、それが誰なのか、またその誰かの存在がなぜ想定されたのかという謎は開かれたまま終わる。

もはや誰が不審者なのかすらわからない。明るく無邪気でフラットなものとして書かれた春そのもの、及びそのなかにいる誰もが、こうした稀薄で正体不明な不審者であるのかもしれない。


「オルガン」第5号(2016年5月)掲載。

●義足

義足

婚礼の荷に入れる弟の義足  上野千鶴子

カチカチと義足の歩幅八・一五  秋元不死男

ゆく秋の虹を義足に呉れないか  小津夜景〔*〕


〔*〕みみず・ぶっくす60回記念 水の音楽

2016年5月3日火曜日

〔ためしがき〕、ただし改行も空白もなく。で、20句。福田若之

〔ためしがき〕、ただし改行も空白もなく。で、20句。福田若之だめなソーセージみたいな春の昼河が「それ」と呼ぶには流れすぎている温暖彼女二つ返事で蝶を賭けに使う死んだ鰆の詩をことごとくまぶしくする荒いねと運転を評し目刺しを嚙む火星、火星。両眼のそれぞれに。蜂も。だからといって天使かたことだし菜の花ぶらんこにふさわしい敬語を使うううううとフィルムは廻る雛の羽化図の低気圧を数えて足りない夕顔の種まき融けてちぎれてくちずさまれて春の雲あまりにごった煮で雉のにおいだよね、これうぐいすの声でうぐいすの見た目で肝臓軍歌に五と七と桜が僕はしもべと読まれたくない文字とあなたが互いに蜃気楼と思う手は鋭さがないひばりを千切れない水銀を叩けば鳴るあたたかくもある耳から垂れつづける春の泥からなる平面さあ読みづらい干潟即席で沈めて数えきる春その声はひとつの海2016/4/1