2017年8月19日土曜日

【新刊】福田若之句集『自生地』

【新刊】福田若之句集『自生地』

2017年8月18日金曜日

〔人名さん〕トーリン・オーケンシールド

〔人名さん〕
トーリン・オーケンシールド

トーリン・オーケンシールドの如き溽暑  登貴


『里』2017年8月号より。

2017年8月16日水曜日

●水曜日の一句〔黒澤麻生子〕関悦史


関悦史









弟は寮より寮へつばくらめ  黒澤麻生子


学生寮から社員寮へといったことなのか、寮を出た弟は実家へ帰っては来ない。

「兄弟は他人の始まり」という、その他人化が少し進んだ局面といえる。

当たり前のように一緒にいた家族も緩やかに拡散し、別居し、やがて不在の方が当然になって、あとは法事や介護問題でもなければ顔を合わせることもなくなってゆく。この弟も順調に行けばやがて結婚し、別に一家を構えることになるのかもしれない。

「つばくらめ」のイメージをその身に反映させつつ、「弟」は身軽にしなやかに飛ぶように寮から寮へ移ってゆく。この、一度実家に戻るという過程を経ない連続した転居は、地から足が離れたまま遠ざかっていくさまを思わせ、そこがなおさら「兄弟は他人の始まり」といった格言的な一般論になめされていく前の個別の「弟」の生身と、それにまつわる生々しいもの淋しさを感じさせる。

やがてそのもの淋しさも、毎年巣をかけに帰ってくる「つばくらめ」に寄せるのと大差ない、あたたかくも、遠い関心へと移り変わってゆく。

その変移のなかで、句中の「弟」は、あたかも「つばくらめ」に変身していくようでもある。

不吉なことではあるが、死者の魂が鳥の姿で帰るという神話的な想像のパターンを考えれば、この「弟」は「つばくらめ」の面影を帯びさせられることで、句の語り手の心中に、生身を超えた、別種の存在感を持つに至る、その過程にあるといえる。別れとはそうした変移を強いるものではある。


句集『金魚玉』(2017.8 ふらんす堂)所収。

2017年8月15日火曜日

〔ためしがき〕 波の言葉10 福田若之

〔ためしがき〕
波の言葉10

福田若之


眼というのは疲れるものだ。眼が抽象的なものとして論じられるときには、しばしば、そのことが忘れられている。カメラの眼は眼ではない。

  ●

てのひらを水に押し当てる。手が水に浸ってしまうまでのあいだは、水面が手のかたちにへこんでいる。

  ●

たしかに僕にはふたしかながらもろもろの臓器があるだろう。けれど、内面はないと思う。僕がこのことを思うのは、たぶん身体のはたらきだということになるだろう。ひとが精神とか魂とか呼ぶものは、要するに、身体のはたらきのひとつにすぎないと僕は考える。幽霊は、精神とはまた別のことだ。

2017/8/3

2017年8月14日月曜日

●月曜日の一句〔宮本佳世乃〕相子智恵



相子智恵






蚊が脚をつかひ隣にをりにけり  宮本佳世乃

「あこがれ」(同人誌「オルガン」10号 2017.summer)より

ふと、童話のように泣けてきそうになる句だ。

蚊はそういえば脚が長くて、飛んでいる時も歩いている時も脚が目立つ。〈脚をつかひ〉だから、歩いているのだろうか。〈隣にをりにけり〉だから、蚊を隣で見ている人は刺されていないのかもしれない。

刺したり、刺されまいとして手で叩いて潰したり……と対決する対象として、あるいは鬱陶しさや嫌なものとして蚊を従来通りに認識するのではなく、そのような概念を外して、〈隣にをりにけり〉という静かな、ただ文字通り隣にいる状態を描いている。人間と蚊が並列に描かれることで、動物と人間が同じ言葉でしゃべることも当たり前な、童話の世界のような雰囲気が私には感じられた。

見たままを描いているという意味では写生である。ただ写生というと、今までは対象そのものの姿を(例えばこの句でいえば蚊のみ)を見えるように描くことで、直接読者の脳裏にその対象が見えてくるというような手法だったように思う。

がここ数年、対象と見る者の間を描こうとする姿勢が、特に若手の俳句の中に定着してきたような気がする。物そのものではなく、目と物の“間”にあるもの(あるいはないもの)を捉えなおすことで、視界(と認識)が洗われてハッとするような。写生の新たなステージのような気もする。不勉強なので、それは昔から俳人が考えてきたことなのかもしれないのだが。

2017年8月12日土曜日

〔人名さん〕藤原鎌足

〔人名さん〕
藤原鎌足

セロファンに包まれてきた藤原鎌足  山口ろっぱ

白夜考:200字川柳小説 川合大祐


2017年8月9日水曜日

●水曜日の一句〔樫本由貴〕関悦史


関悦史









原爆ドームの奥を撮る子や苔の花  樫本由貴


報道写真などで目にすることが多いのは原爆ドームの外観、ことにその通称の由来となったドーム部分ばかりで、遺構のなかやその奥の光景というのは、現地に行かない限りなかなかはっきり見る機会はない。

この「子」も滅多に見る機会のない物件に近づき、位置を変えつつ、写真になりにくい構図のものまで何枚も撮ったのではないか。そのようにして、建物の、歴史の、災禍の奥へ奥へと引き込まれる子を、柔らかく、地表と肉体の次元に結びつけておく「苔の花」の慎ましい優しさが素晴らしい。

奥があれば覗き込みたくなる。この子の行動は、おそらくそれだけのありふれたアフォーダンスに則ったものでしかなく、それ以上の目的はない。現在残されている建築の奥をいくら覗き、撮ったところで、原爆炸裂時の模様がわかるわけではない。この子はべつに原爆という未曽有の大規模な蛮行の表象不可能性に迫るべく、カメラを奥に向けているわけではないのだ。そもそも奥には何もない。後でネットに上げるネタとしか思っていないかもしれない。だがそこに厳然と残る現物、建築物件の力は、たしかに何十年か前、ここを原爆の爆風が吹き抜けたのだということを想像させずにはおかない。

そうしたこの子の意識、無意識に起こっているさまざまな波立ちを、句の語り手は後ろから眺め、ともに感じ取っている。この子を、安全な現在の地表という場に引きとめる静かな「苔の花」は、この語り手の化身のようでもある。


「週刊俳句」第537号(2017年8月6日)掲載。

2017年8月8日火曜日

〔ためしがき〕 批評の不要性 福田若之

〔ためしがき〕
批評の不要性

福田若之


2017年7月24日付の『朝日新聞』の11面に掲載された大辻隆弘の短歌時評、「歌会こわい」を読んだ。短歌欄と俳句欄のちょうどあいだに載るので、おのずと目にとまるのである。

「歌会こわい」がとりあつかっているツイッター上での出来事についてはよく知らないし、いまとなってはその全容を把握することも困難だろう。それに、「「歌会こわい」という声の背景には、短歌をコミュニケーションの手段だと考える人々の増大がある。そこではもはや他者の批評は不要だ。自己満足さえあればいい」という一節などは、そもそも筋が通っていないように思うし(短歌がほんとうに「コミュニケーションの手段」として求められているなら「自己満足さえあればいい」はずがない。したがって、すくなくともどちらかの記述は正確ではないはずだ)、実情を知るという意味ではこの記事はあまり役に立ちそうもない。だから、僕は、その出来事については、とくに訳知り顔で何か語ってみせるつもりもない。

だが、短歌欄と俳句欄のあいだに「批評は怖い。が、作品をそこにさらすことでしか文学は成立しない」と書かれているのを見ると、この末尾の一節についてだけは、どうにもよそごとでは済まないように思われてくる。「短歌は」ではなく、「文学は」と書かれているのだ。「歌会こわい」における「批評」や「文学」という言葉は、たとえば、「批評」とは歌会における意見交換のみを意味し、「文学」とは短歌における文学のみを意味するというように、もしかするとひどく限定された意味で用いられているのかもしれないが、そうした断りがない以上、僕には、この一節はもっと広い範囲を射程に入れた警句であるように思われてならない。なるほど短歌は書かないが、俳句を書き、句評や句集評にも手をつけている僕にとって、どうにも気にかかるのはこの一節なのである。

作品を批評にさらすことでしか文学は成立しないというのは本当だろうか。僕にとって興味深いのは、そうした言葉が新聞の短歌時評に書きこまれているということだ。そのことは、たとえば、蓮實重彥『『ボヴァリー夫人』論』(筑摩書房、2014年)のこんな一節を思いおこさせる。
あらゆるテクストはテクストを誘発するといういまではごく当然と思われがちな現象は、『ボヴァリー夫人』の書かれた十九世紀中葉のフランスでは、折から隆盛しつつあるジャーナリズムの要請により、新聞の文芸欄に掲載される時評として、文化的な商品の売れ行きを左右するという経済的な利害を惹起しつつ、理論とはいっさい無縁に一般化されたものにすぎない。それは、歴史的には未知の、当時としてはまったく目新しい文化現象だったといってよい。その「新しさ」は、多くの人が、「テクストをめぐるテクスト」を読んでから、そこで対象とされていた当の書物におもむろに目を向ける――あるいは向けずにおく――という文学的な「倒錯」を、ごく自然な事態でもあるかのように社会に定着させたことにある。それが「倒錯」たらざるをえないのは、読まずにおくために読む、あるいは読んだから読まずにおくという無意識の集団的な振る舞いが、あたかもその作品を自分が知っているかのごとき錯覚をあおりたて、その奇態な性癖が知らぬ間にあたりに蔓延し、それがごく自然なこととして社会に受け入れられてしまったからである。
もちろん、これがさしあたりあくまでもフランスに特有の事情として語られている点には注意が必要だが、作品を批評にさらすことでしか文学は成立しないという認識は、そもそも、一語で〈新聞‐の‐文芸‐欄的〉とでもいうべき錯覚にすぎないのではないか、ということは考えてみてもよいように思う。批評というのは、本来は作品にとって必要ないはずの代物ではなかったか。文学の成立のために作品が批評に自らをさらさなければならないというのは本当か、本当だとしたらそれはなぜか。ひとたびこう問いかけてみれば、書かれたテクストについて何らかの批評がなされるということを理論的に正当化することは――その批評が口頭のものであれ書かれたものであれ――不可能であるように思われる。もちろん、このためしがきもまた、そうしたことの例外ではない。

たしかに、歴史的な状況は、文芸時評の存在を前提とした読者の文学的な「倒錯」からの自由を文学にたやすく許してくれるわけではない。『『ボヴァリー夫人』論』にはこう書かれている。
それに深く影響されるか否かにはかかわりなく、名高い批評家が新聞や雑誌向けに執筆する文芸時評の存在を前提とするしかなかったのが、「近代」における読者の身にまとう歴史性にほかならない。あるいは、「テクストをめぐるテクスト」が誘発しがちな文学的な「倒錯」と同時に生まれるしかなかった不幸な存在が、読者なのだといいかえてもよい。文学は、いまなおこの「倒錯」から充分に自由たりえてはいない。
文学が「テクストをめぐるテクスト」ぬきには成立しえないという神話の歴史的な発生とその共有をぬきにしては「近代」の読者は存在しえなかったし、文学はこの神話のもとに成立する「倒錯」からいまだ充分に自由たりえてはいない。したがって、「歌会こわい」に示されている、作品を批評にさらすことなしに文学は成立しないという主張もまた、まさしく今日的な状況を物語る言葉として読むかぎりにおいては、おそらくある程度まで正しいのだろう(けれど、それはまったくもって「不幸」なことではないのか)。しかし、そもそも、作品は、その書き手や読み手がどう思っているかにかかわりなく、「テクストをめぐるテクスト」など決して必要としてはいない。他人の作品を批評するという行為には、いかなる理論的な正当性も与えられてはいないのだ。

批評は、歴史的な状況をとりあえずの背景として、いわばなしくずし的に成立してしまっているにすぎない。批評は、それゆえ、いつでもそれがめぐろうとする作品から突き放されてあるほかはない。したがって、批評の担い手が作品を怖がるというのならともかく、作品の担い手が批評を怖がらなければならない筋合いなどどこにもない。批評に作品をさらすことでしか文学が成立しえないという認識は、おそらく「近代」に生じた集団的な錯覚にすぎない(たとえば、今年の5月6日に開催されたイベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」では、川柳というジャンルのありようが「近代」の文学にまつわる諸前提とはおよそ異なる前提をもつものであるということがくりかえし指摘されていたように記憶しているが、その場で開かれた川柳の句会には、選はあっても批評はなかった)。

だから、僕としては、半ば備忘録的に、次のことをここに書いておきたいと思う――作品は怖い。が、さらなる言葉をそこにさらすことでしか批評は成立しない。ただし、批評の成立は、決して作品の期待するところではないのである。
2017/7/24

2017年8月7日月曜日

●月曜日の一句〔対馬康子〕相子智恵



相子智恵






病む夜の百合の重さを一人吸う  対馬康子

「草いきれ」(「俳句」2017.8月号 角川文化振興財団)より

誰かからお見舞いで手渡された百合の花か、あるいは自分で飾ったのかもしれないが、昼間は一人ではなく、誰かといたのだろう。〈一人吸う〉には、言外にそのような一日を想像させる。

夜、ベッドに横たわっている病気の私に、百合の強い香りが部屋中に満ちている。〈百合の重さを一人吸う〉にハッとする。ここに描かれているのは、百合の香りの重さなのである。香りに重さがあるとするなら、百合の香りは確かに重い。

香りの重さが病むことに重なって、欝々とした気分をもたらしている。ただ、それだけではなく、や行の音の繰り返しの幽玄な響きによって、詩的な美しさが感じられてくる句である。

2017年8月5日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】チヤホヤの科学 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
チヤホヤの科学

西原天気



チヤホヤという腹の足しにもならないものにこだわる人が、俳句世間には少なからずいらっしゃるようです。

それだけなら、世の中にはいろいろな人がいる、で済むのですが、チヤホヤ願望がヘンな方向に進展するケースがある。

phase 1 チヤホヤされたい
:まあ正常の範囲。健康という言い方もできるかもしれない。

phase 2 あの人がチヤホヤされて自分がチヤホヤされないのは不当だ
:ルサンチマン入っちゃって、かなりアブナイ。

phase 3 チヤホヤされているあの人も、チヤホヤしている奴らも、最低だ
:病気。

こうした過程は、句会後の酒席やSNSで人の目に触れたりもする。見ている・聞いているほうとしては不快で、遭遇しちゃうと、俳句世間、あるいは俳句からますます気持ちが遠のいたりもします。

対処法は無視。放っておくしかないのですが、これ、ひとつには、「人」にフォーカスしすぎているのではないか。

チヤホヤは、人じゃなく、句や連作や句集に向ければいい。というか、向けるべき。

私たちは俳句愛好者であって、俳人愛好者ではない。

誰かをさかんに持ち上げる人がいたとして、じゃあその誰かにどんな句があるのか? そう訊かれて、ろくに答えられないというケースはないか(ありそう)。

人付き合いは楽しいものですが、俳句そっちのけで、俳人同士の交流に勤しみ、サロンやら俳壇やらをかたちづくり、サロン的言説に終始するというのも、なんだかなあ、です。

2017年8月4日金曜日

●金曜日の川柳〔妹尾凛〕樋口由紀子



樋口由紀子






満ちてきて豆腐のようなものになる

妹尾凛 (せのお・りん) 1958~

「満ちてきて」も「豆腐のようなもの」も具体的に何かとはつかめない。どちらも心象風景だろう。作者の裡にある空間にじわっ~と甦ってくるような、あるいはやわらかく埋めていくようなもので、はっきりと意識していなかったこと、あるいは言葉にできなかった感覚が「豆腐のようなもの」として輪郭をつかまえたのだ。その感覚は普段はなかなか捉えることができない。そうたびたびやってきてはくれない。だから、「満ちてきて」なのだろう。

それはなにかに役立つような、りっぱなものではないように思う。悟るとか、賢くなるとか、美しくなるとか、一般的な価値基準とは別次元の、共感ベースでは割り切れない名誉の屈折感とでも言おうか、でも、まさしく「私」を実感できる。「豆腐のようなもの」は作者にとっては独自の、至福の感覚なのではないだろうか。「うみの会」(2017年)。

2017年8月3日木曜日

★週俳の記事募集

週俳の記事募集


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2017年8月2日水曜日

●水曜日の一句〔金子敦〕関悦史


関悦史









色白の子が日焼子に言ひ返す  金子敦


子供同士の言い争いというそれ自体としては珍しくもない光景が、どこかしら地上の世俗性を離れたそれに見える。

句の見どころとしては、ふだん野外で活発に遊んでいるらしい「日焼子」を、文弱そうな「色白の子」が押し返し、対等にやりあいだした瞬間の意外性がまず考えられているはずだ。

しかしそれが場面の意外性だけで終わっているわけではなく、「色白の子」じつは強気という転換が、瞬時に変身でも遂げたかのように鮮やかで、しかも両者が肌の焼け具合のみによって区別され、張り合っている分、皮膚(ヴァレリーはそれを最も深いものと呼んだという)の輝かしさに、両者の人格的内実とでもいうべきものが一体化して輝きあっている風情となるからである。「色白」とはいえど青白い不健康なうらなりではない。

言い返している場面の緊張、張り、照りが、そのまま皮膚と声という形で現れた官能と生命感そのものとして句に漲り、単に「日焼け」が夏の季語だからというだけではない、夏のまぶしさが一句を満たしている。


句集『音符』(2017.5 ふらんす堂)所収。

2017年8月1日火曜日

〔ためしがき〕 いましか書けないもの 福田若之

〔ためしがき〕
いましか書けないもの

福田若之

「いましか書けないものを」、とよく言われる。誰かが高校生であったり、新婚であったり、長女なり長男なりが生まれたばかりであったりすると、「いましか書けないもの」を書くことが推奨される。

だが、このような意味での「いましか書けないもの」とは、実際のところ、そのときそのひとにしか書けないものではない。それは、こういう意味で「いましか書けないもの」といわれるとき、ひとは、「いま」ということを、「そのひとが高校生であるいま」とか、「そのひとが新婚であるいま」といった特殊性においてしか把握していないからだ。そのせいで、高校生でありさえすればいまでなくてもそのひとでなくても書けるものや、新婚でありさえすればいまでなくてもそのひとでなくても書けるものが、あたかも「いましか書けないもの」であるかのように錯覚されているのである。

だが、いましか書けないものというものがあるとすれば、それは非記号的なかけがえのなさにかかわるものであるはずだ。記号は反復しうるものの反復においてこそ捉えられるものである。記号の本性は反復にある。それに対して、いましか書けないものの本性は反復しえないということにあるのでなければならない。たしかに、いましか書けないものを書くために何らかの記号を使うことがありうるけれども、そのとき、ひとは決してそれを記号のもつ記号としての性質にもとづいて書くわけではない。

「いま」とは時間のなかでのかけがえのなさにかかわる語である。「いま」とどれだけ繰り返したとしても、ひとは、引用をぬきにしては、二度とたったひとつのこのときを指し示すことはできない(《長男叫ぶ「今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!」》(山田露結)において、叫ばれる「今っ!」は差延している)。「いま」という言葉こそが、まさしくいましか書けないものなのである。もちろん、「いま」という言葉を書くだけでなにか価値が生まれるなどといいたいのではない。いましか書けないものは、べつに、それだけでは何の価値もない。そこにあるのは、ただかけがえのなさだけである。だが、このかけがえのなさを忘れてはならない。というのも、書くということは、それ自体が、このかけがえのなさによってはじめて可能になることがらなのである。

2017/7/22