2016年7月30日土曜日

〔ネット拾読〕昼休みは屋上でバレーボールという日本の原風景

〔ネット拾読〕
昼休みは屋上でバレーボールという日本の原風景

西原天気


今回も拾い読んでいきます。




以前から、聞こえてきてはいましたが、

ユネスコ無形文化遺産 俳句の登録へ発起人会

俳句業界のお年寄りたちは、よほど暇なのでしょう。暇なら暇で、ほかにすることがあるだろう、などと言ってはいけません。

なお、どんなものが登録されているのかを見ると、かなり雑多。俳句が登録されてもそれほど奇異な感じはない。実現するかも、ですね。

俳句世間にいれば、この手の通俗もしばしば目に入ってきてしまう。しかたのないこととあきらめて、長く視界にとどめないことです。





柳本々感想】3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって・中澤系

http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-1462.html

そういえば、駅は番号に満ちております。



同人誌『オルガン第6号がそろそろ出るようです。

目玉は金子兜太との座談会でしょうか。このところ俳句よりも、アベうんぬんやら「平和俳句」やら標語運動で知られる大御所。どんな座談会になっているのか、興味津々。第4号の「震災と俳句」座談会と読み比べても一興。

2016年7月29日金曜日

●金曜日の川柳〔櫟田礼文〕樋口由紀子



樋口由紀子






誘われて鳥獣戯画にまぎれ込む

櫟田礼文 (いちだ・れぶん) 1948~

こう暑いとどこか別の場所に逃げ出したくなる。でも、鳥獣戯画とは、たいそうなところに行ってしまったものである。夢の中の出来事だろうか。

「誘われて」だから、誰かに誘われてで、間違ってとか、偶然とかではない。最初は自分の意志ではなかったが、たぶん前々から興味はあったのだろう。そうでなければいくら誘われてもついて行くところではない。鳥獣戯画に誘うって、どんな人なのかと思う。

「まぎれ込む」だから、正面からではなく、混乱などに乗じて入ったのであって、ここでは自分が異質であることはもちろん重々承知している。気づかれなかったか。さて、そこはどんなところか。ひょっとしてこっち側には帰って来れないかもしれない。「苫小牧市民文芸」(2015年刊)収録。

2016年7月28日木曜日

■夏休み納涼句会の投句締め切りは明後日30日です

夏休み納涼句会の投句締め切りは明後日30日です

詳しくはこちら(↓↓↓)をどうぞ。


2016年7月27日水曜日

●水曜日の一句〔大崎紀夫〕関悦史


関悦史









ががんぼが窓かきむしり港に灯  大崎紀夫


ががんぼがかきむしるのは壁ではなく透明な窓であり、ががんぼはおそらくそこにガラスがあると理解できない。「かきむしる」にも、単に垂直面にとりつこうとしているというのを通り越した必死さがある。

いずれにしても、室内にともにいる虫の生態から引き起こされたもののあわれやおかしさが、作句意欲をかきたてたという句と見えるが、下五「港に灯」で少々様子が違ってくる。ががんぼの生態と、窓の外の叙景の取り合わせとなってくるのだ。

「港」という全体を俯瞰したような捉え方から、ホテルの上階の眺めのように思えてくる。しかし下五は「港は灯」ではなく「港に灯」である。つまり港一面に灯がともった見事な夜景ではない。港の規模が小さいか、あるいはまだ灯がともり始めたばかりの時刻ということである。取り合わせ上のバランスから考えても、一面に灯がともった夜景では、ががんぼが埋もれてしまうからこれで適切なのだろう。

結果として句は、ややものさびしく、その中でががんぼの動作が苦しげでありながら可笑しいといった情調に落ち着くことになる(ががんぼ自身が夜景を愛でたりはおそらくできず、自分がどう見られているかといった自意識もないのでなおさらのことだ)。

その情調は視点人物、ひいては作者自身にも及ぶ。「窓」一枚で表象される数十年規模しか持たない建築に隔てられ、港へじかに到達できない点では、人とががんぼの間に大差はない。地に足のつかない高層階となれば、そのよるべなさは一層増す。そうしたよるべなさを、ががんぼとともにすることで得られた叙景が「港に灯」なのだ。


句集『ふな釣り』(2016.7 ウエップ)所収。

2016年7月26日火曜日

〔ためしがき〕 不安 福田若之

〔ためしがき〕
不安

福田若之

今日、電車に乗ってぼーっと窓の外を眺めていたら、ふいに路線を間違えた気がして、慌てて電車の行き先を確認してしまった。

僕は、ときどき、自分が乗っている電車が僕をどこか間違った行き先へ連れて行ってしまうんじゃないかと不安に思うことがある。

2016/6/13

2016年7月25日月曜日

●月曜日の一句〔岡野泰輔〕相子智恵



相子智恵






目の前の水着は水を脱ぐところ  岡野泰輔

句集『なめらかな世界の肉』(2016.07 ふらんす堂)より

海でも川でもよいのだが、私はプールを想像した。目の前を泳いでいた人がざぶんと水から上がる。ぴっちりと体を覆っていた水から、ぬっと体を抜き出すのは、なるほど言われてみれば〈水を脱ぐ〉感じがある。もちろんこれは「水着を脱ぐ」を連想させることは織り込み済みだろうから、何となくエロスを感じさせるのも面白い。

〈目の前の〉と〈ところ〉で画角がが決まっている。まず〈目の前〉で水着がクローズアップされる。読者は目の前の水着しか見えなくなる。そして下五は、たとえば「脱ぎにけり」でもよいわけで、この「ところ」は〈鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波〉と同じ手法だ。辞書の意味で言えば「話題として取り立てる部分」ということになるだろうが、読者はスローモーションのように、そこに視点を集中させることになるのである。

映画のワンシーンのようにアングルを定めて、一句が印象的になっている。

2016年7月24日日曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

長短ご随意、硬軟ご随意。

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。


※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。

2016年7月23日土曜日

〔ネット拾読〕昼に「今日の天気」を聞いてももう遅いかというとそうでもない 西原天気

〔ネット拾読〕
昼に「今日の天気」を聞いてももう遅いかというとそうでもない

西原天気


ツイッターで、どんなツイートが並ぶかは(タイムライン=TLと呼ばれます)、ツイッターを使う人次第、かつ偶然。




スニーカーから西瓜の匂いのするかのように、あるいは、5つのスニーカーが変種の西瓜のように、一瞬見えました。

ツイッターは、こういう、並びの偶然を楽しめたりします。

て。

柳本々々 【希望の川柳 十一日目 】やむをえない希望-高瀬霜石-
http://yagimotomotomoto.blog.fc2.com/blog-entry-1451.html
「ビートルズ」という名詞を出したしゅんかん、すべてを語ることができてしまうような「ビートルズ」という名詞の強度。
なるほどです。その結果として、ここに掲げられた句となる。ちなみに、この句、圧倒的におもしろい。



で、また、ツイッターに話が戻るのですが、オードリー・ヘップバーンの二人羽織が見られたり、セーラー服姿が見られたり、あるいはお馬鹿なレコードジャケットを楽しんだり、読むよりむしろ「見る」もののようにも使えます。



インターネットは、断片化された情報が無数にころがっている場所です。乱雑。でも、それを嘆くことはありません。統合したり、整理したりは、自分のアタマのなかの作業。

きれいに設えられたものが提示されるなら、便利でしょうけれど、それって、ちょっと怖い。

それではまたいつかお会いしましょう。



2016年7月22日金曜日

●金曜日の川柳〔こうだひでお〕樋口由紀子



樋口由紀子






スリッパが全部こっちを向いている

こうだひでお (1948~)

旅館や玄関などに置かれているスリッパのほとんどは履きやすいようにあっちを向いて並べられている。あるいは反対に向いているスリッパやひっくりかえっているスリッパなど雑然としているのが一般的である。それが全部こっちを向いているという。

その映像が出てきて、どきっとした。いままではスリッパがこっち向きであってもあっち向きであっても、また全部であっても一部であっても、それほど気にとめなかったが、掲句を読んで不思議な光景を見たように思った。書かれることによって不意をつかれた。何かが起こる前触れなのか、それともすべてが終わってしまったのか。『触光』47号(2016年刊)収録。

2016年7月21日木曜日

●全集

全集

全集の端本なれば遅き日に  田中裕明

全集は旧居に古りぬほととぎす  藺草慶子〔*〕

糸瓜忌や子規全集に恋あらず  加藤楸邨

全集を積めば墓碑めく冬ごもり  橋本榮治


〔*〕藺草慶子『櫻翳』(2015年10月/ふらんす堂)

2016年7月20日水曜日

●水曜日の一句〔広渡敬雄〕関悦史


関悦史









モノトーンの一塊として冷蔵庫  広渡敬雄


「モノトーン」といえば白も含まれるはずだが、言い方からして白ではなく、グレーか黒らしい。「一塊」とはいっても、モノトーンの無気味な四角い物件というよりは、洗練されたデザインの家電というおもむきの方が強いのではないか。

とはいうものの、自宅内の家電のデザインなど、すぐに見慣れて何とも思わなくなる。買い込んだばかりで、まだ埃ひとつ積もっていないのかもしれない。電気店に並べられている冷蔵庫ということはあるまい。幾つも並んでいるのでは「一塊」がきかなくなる。

見慣れた単なる道具である「冷蔵庫」を、「モノトーンの一塊」と捉えるのは異化である。

異化され、リフレッシュされた「冷蔵庫」が、この句では、デザイン性そのものが量塊として家屋内に居座っているという描かれ方をされているようだ。無気味さも、うっすらとはある。「一塊」はドアが閉じていることを示していて、中に何が入っているのかは隠されたままだし、それ以上に、「冷蔵庫」が無意味な外観に還元されているからだ。

その無気味さ、無意味さが、大量生産品のひんやりとした清潔感の中にあらわされている点がこの句の見どころだろう。いわばポップアートと「もの派」のはざまからとらえられた、現代の生活空間である。


句集『間取図』(2016.6 角川書店)所収。

2016年7月19日火曜日

〔ためしがき〕 「視聴」することと「写生」すること 福田若之

〔ためしがき〕
「視聴」することと「写生」すること

福田若之


俳句結社「炎環」の公式サイト上に掲載された田島健一「見るということ」の末尾には、「タレントの名前に疎い方のための注釈」が付されている。そして、そこには次の文言がある。
 (注2)フットボールアワー・・・吉本興業所属のお笑いコンビ。ブサイクな岩尾とツッコミの後藤の二人。
「ブサイクな岩尾とツッコミの後藤」という言葉のちぐはぐさを僕は興味深く思った。ここで、フットボールアワーはボケとツッコミのコンビではなく、ブサイクとツッコミのコンビとして紹介されているのである。

ザブングル松尾については、
(注3)ザブングル松尾・・・ワタナベエンターテイメント所属のお笑いコンビ、ザブングルのツッコミ担当。ちなみにザブングルのボケ担当はブサイクキャラの相方・加藤。
とある。本来、ツッコミに対応するのはボケであって、これら二つが「担当」される役割であるのに対し、ブサイクは「キャラ」だ。そのことは、この文章においてもはっきり意識されているのである。にもかかわらず、「ボケの岩尾とツッコミの後藤」とせずに「ブサイクの岩尾とツッコミの後藤」という形容が選び取られることのうちには、書き手自身の〈フットボールアワー体験〉が関わっているように思う。おそらく、フットボールアワーの漫才を、ボケとツッコミによる漫才としてではなく、ブサイクとツッコミによる漫才として感受する体験があったのだ。あるいは、岩尾をボケとしてではなくブサイクとして感受するという〈岩尾体験〉があったというほうが実態に近いかもしれない。ボケとしてではなくブサイクとして岩尾を「見る」という体験。実際、こうした〈岩尾体験〉は、多くの人に共有されている体験であるように思う。しかし、その体験をこうして言葉にしたとき、その言葉はフットボールアワーについての一般的な認識をなぞる一方で、ボケとツッコミという制度化された枠組みをいとも簡単に崩してしまうのである。
ある思想的な枠組みが崩れると、目の前の対象の、「それ」が「それ」であることは揺らぎ始める。言い換えれば、私たちがものを見るとき、私たちの認識はある種の思想的な何かに支えられている。
ブサイクとツッコミの二人としてフットボールアワーが語られるのを目にするとき、僕のなかで、岩尾は依然として岩尾でありつづけているにもかかわらず、フットボールアワーはもはやふつうの漫才コンビではなくなり、つまりは、揺らぎ始める。僕は、あらためて、テレビに映るフットボールアワーの岩尾の顔をまじまじと「見る」。すると、どうだろう。今度は、フットボールアワーの岩尾はブサイクである、という暗黙の了解が揺らぎ始めるのだ。 そこにはブサイクな顔があるのでもなければ、その顔を心の底からブサイクだと感じる僕がいるわけでさえもなく、単に、その顔をブサイクなものとして提示する彼らの枠組みに僕らがとらわれているだけなのではないか。
俳句で「ものを見る」というとき、私たちはその「対象以上」のものを見るのだ。そして俳句形式はその五七五という短さの中で「それは、それである。本当か、嘘か」という名指しと問いかけを同時行うのだ。そうして名指されたものが、それ以上のものとしてそこに現れるのである。

ブサイクな岩尾は、ブサイクな岩尾である。本当か、嘘か――こうして、結局のところ、「視聴」することと「写生」することの違いは、テレビで見るか生で見るかの違いではなく、「本当か、嘘か」という問いをもたらすほどの思想的な枠組みの崩壊があるかないかの違いだということになるだろう。

このことは、当然、ある種の震災俳句の問題と関わっている。そして、また一方では、「プレバト!!」式の、写真を見て一句を書くということの問題とも関わるだろう。だから、たしかに、「写生」を「ものを見る」こととして語ることには、大きな意味がある。

けれど、僕は、そもそも「写生」を「ものを見る」ということと過剰に結びつけることに疑問を持っている。それは、たとえば聴覚的な「写生」がある、とかいう話とはまた別のことだ。僕にとって、「写生」は、見ることの一形態であるよりも、むしろ、描くこと、書くことの一形態なのである。写すということは、なによりもまず、書き写すことではないだろうか。

2016/6/7

2016年7月18日月曜日

●月曜日の一句〔広渡敬雄〕相子智恵



相子智恵






泉より戻りし人の貝釦  広渡敬雄

句集『間取図』(2016.06 角川書店)より

泉から戻ってきた人の夏シャツに、小さな貝釦がついていて、それが光っていた。ただそれだけの句なのだが、静かに心に残る。

たとえばこれが、泉ではなく浜辺から戻ってきた人だとするなら、かつて浜辺のものであった貝が釦になって……のような物語が付き過ぎるが、この句は泉だから、下五までの間に貝釦を呼び出すものは何もない。ただただ、貝釦が作者の目についただけなのだ。

自分が泉に向かっていて、戻ってきた(貝釦のついたシャツを着た)人とすれ違ったのだろうか。それとも、戻ってきた人から泉の話を聞いたのだろうか。いずれにせよ作者は泉にはまだ行っていないのだろう。

私がこの句に惹かれるのはなぜか。それは泉と貝釦の光である。泉に行ってきた人が何も語らずとも、その胸に光る貝釦によって、その泉の清らかな光が自然と連想されてくる。戻ってきた人の胸の中に泉の光が分け与えられたような気持ちになるのだ。もしかしたら、作者がまだ見ていない泉への期待が貝釦に目を行かせたのかもしれない。

泉と貝釦がまったく関係のないものだからこそ、そして泉から戻ってきた人の着ていたシャツに、偶然、貝釦が付いていただけという作為の無い現実の出合いだからこそ、この二つの光は清々しく私の心に残った。

2016年7月17日日曜日

●『週刊俳句』誌上・夏休み納涼句会のお知らせ

『週刊俳句』誌上・夏休み納涼句会のお知らせ

メール句会の開催です。

詳しくはこちら(↓↓↓)をどうぞ。


兼題は3題くらいがいいかなと。さて、何にしようと考えて、糸電話。

インターネットは糸電話に毛の生えたようなものですから、ウェブマガジン週刊俳句にぴったりではないか、と。それに、夏休みっぽいし。


とにもかくにも、みなさま、お誘い合わせのうえ、奮ってご参加ください。

2016年7月16日土曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】句集の読み方 その5・書名 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その5・書名

西原天気


書名(句集タイトル)は、読者がまず最初に「読む」もの(著者名と同時に最初)。かなりだいじです。読者にとって、作者にとって。

で、これ、総花的に扱うのは手に余る。ごく限定的に、エピソード的に。

1 旧仮名含みのタイトル

若手の句集では江渡華子『笑ふ』、野口る理『しやりり』。数は少ない。理由は単純で漢字(あるいは漢字プラス助詞)のタイトルが圧倒的に多いので。

『しやりり』は、個人の感想としてはちょっと引っ掛かる。理由はこれまた単純で、sha-ri-ri (3音節)かshi-ya-ri-ri(4音節)か一瞬迷うから(ふつう迷わないって?)。

オススメは(いまさら奨めても遅いし、なんで私が薦めるのか?)、「Sha-Ri-Ri」とアルファベット表記。ちょっと Sha-Na-Na みたいでステキだと思うのですが。



2 長いタイトル

長いといえば、関悦史『六十億本の回転する曲がつた棒』。長いタイトルは、ぜんぶ言っていられないので、略されることになる。私のオススメ略称は『60棒』。

近刊では岡野泰輔『なめらかな世界の肉』。拙稿「世界のありどころ」で書いたとおり、略称『なめ肉』を推奨。

略称をもつ句集は、「愛されている」感があって、とてもいいと思う。どう略されるかを視野に入れて、長いタイトルを付けるのも一手。

そこで問題は、佐藤文香『君に目があり見開かれ』。ぜんぶ言う(フルネーム)のはちょっとツラいが、どう略すかが難しい。決定打がない。「きみめ」? 「きみかれ」?

で、この句集は、「黄色いやつ」と呼ぶことにした。


2016年7月15日金曜日

●金曜日の川柳〔高木夢二郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






べんとうの無い児も君が代を歌ってる

高木夢二郎 (たかぎ・ゆめじろう) 1895~1974

戦時中の社会を描いた映画を観るとそんな馬鹿なと思うことが多々あり、不条理の悔しさで怒りが込みあげてくる。今はそんな時代でなくてよかったと安心していたが、そうとは言っておれなくなってきた。参議院議員選挙の結果にくじけそうになる。「国歌を歌わない選手は日本代表ではない」の発言もまかりとおる世の中になってしまった。

食べるものもないのに国歌を大きな声で歌わされ、国への忠誠心を強要される。戦時中に実際にあったことである。当時の理不尽な社会を鋭く捉えている。こんな時代があった。そして、こんな時代が近づいてきている。

高木夢二郎は反骨の雄と呼ばれ、迫力のある時事吟を書いた。どうすることもできない悔しさが作句の原動力だったのだろう。〈人殺す正しさなどは世に非ず〉〈平和なレンズみがいてもみがいても映る戦車〉〈拍手している間に米の値もバスの値も〉〈バカ力明治百年右に曲げ〉〈玉音放送あの日の暑さ未だつづき〉〈所詮人間である、がーしかし〉。

2016年7月14日木曜日

●お葬式

お葬式


野の錦昼の葬礼通りけり  正岡子規

葬式は昼に終りて春の雲  雪我狂流〔*〕

百日紅町内にまたお葬式  池田澄子

たいそうな葬式すんで秋高し  仙田洋子

かろがろと帰る葬具の寒さかな  渡邊水巴


〔*〕雪我狂流句集『開運出世大黒天』(2016年2月/私家版)

2016年7月13日水曜日

●水曜日の一句〔岡野泰輔〕関悦史


関悦史









シュルレアリスム展みなあたたかし手のしごと  岡野泰輔


戦前の前衛芸術運動、シュルレアリスムの美術作品も、現在から見ると既に古典の位置にある。前衛が成立するのはモダニズムの枠内のことであり、ポストモダン以後である現在から見ると、グループでユートピアを目指すごとく、一団となって新奇な表現へ邁進する姿勢そのものが、古き良き時代に見えてしまうのである。

その古色のついた良さを捉えているのが「みなあたたかし」という表現と、「手のしごと」という着眼なのだ。当時の作品がいかに新奇であろうと、それらは全て手作業で成り立ったものであり、パソコンのディスプレイ上で制作されたものなど当然ながらない。「手のしごと」という把握には、実際に油絵の構図やタッチのひとつひとつを目で追っている者の、感興と息吹きがある。

冒頭からはっきり示されているように、この句は「シュルレリスム」に関する概念的な裁断といったものではなく、「シュルレアリスム展」についての体感的な批評の句なのだ。個々の作品の奇抜なイメージと、あたたかさを感じさせる手仕事の痕跡とのあわい、そこを語り手は緩やかに歩いていく。それは同時に、シュルレアリスムの時代と現在とのあわいでもある。その中にひしめく手仕事の痕跡たちは、虚空的でありながら、とてもなまなましい。


句集『なめらかな世界の肉』(2016.7 ふらんす堂)所収。

2016年7月12日火曜日

〔ためしがき〕 自己言及 福田若之

〔ためしがき〕
自己言及

福田若之


たとえば、《風邪の句が多くて選者にもうつる》(能村登四郎)が、これ自体、風邪の句であるということ。そして、おそらくはこう書いた登四郎自身がこの「選者」であり、まさしくこの句を書くことによって風邪の句が選者にうつったのだということ。こうした構造が、僕はたまらなく好きだ。

ひとはしばしばこうした構造に理屈っぽさや幼稚さ、閉鎖的な志向などを見て取る。けれど、僕はこの構造にある種の情念を見て取る。それは少しばかり完璧主義的な建築家の情念だ。すなわち、塔をそれ自身の過不足ない質量によって独りでに立たせたいという望み。もちろん、この建築家はそれが倒錯的で非現実的であることを自覚している。

僕は自己言及的な俳句を書きたいと思うし、自己言及的な批評を書きたいと思う。その俳句自身について述べる俳句、ある俳句について述べながらその批評自身を最もよく明らかにする批評。後者は、批評として、ある程度まで対象の姿に擬態しようとするだろう。それによって、ある句について語ることが、自らについて語ることに通じるのだ。樹に棲むカメレオンは、そこに棲みたいという情念によって自らの色を変える。僕が書きたいと望む批評は、棲む批評だ。

2016/6/4

2016年7月11日月曜日

●月曜日の一句〔宇野恭子〕相子智恵



相子智恵






月涼し風船かづらふやしては  宇野恭子

句集『樹の花』(2016.07 ふらんす堂)より

風船かづらは夏になると時々、フェンスや窓辺で旺盛に育っている様子を見かける。ゴーヤなどと同じで、いわゆる「緑のカーテン」になるようだ。鬼灯に似た、ころんとした丸い形で、細い蔓をしゅるしゅると巻き付けて伸びる。

夏は、濃い緑色の葉の植物を見ることが多いだけに、薄緑色の風船かづらは、そこだけふわっと新緑のような柔らかさがあって、ほっとするような涼しさがある。

掲句、昼の暑さからようやく解放された夜空に、白く涼しげな月が浮かんでいる。そして月の光が作用して、ぽん、ぽん、ぽんと風船かづらが音を立てて殖えていくようだ。月光を反射し、ぼんやり光る丸い風船かづらは、まるで月の子どもたちのようである。

ロマンティックで、SFっぽくもある美しい句。

2016年7月10日日曜日

●週俳は紙媒体からの転載も大歓迎です

週俳は紙媒体からの転載も大歓迎です


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿のほか、紙媒体(結社誌、同人誌etc)からの転載も募集しております。

自薦・他薦を問わず、お気軽にお問い合わせください(メールアドレスはこちら)。

掲載の可否については、記事を見せていただいてから検討させていただきます。

転載時期は、原則として、紙媒体の刊行から数か月後以降。タイムラグを設けさせていただいております。

2016年7月9日土曜日

〔ネット拾読〕 昼食を抜いてもその日は死なないというアフリカの諺 西原天気

〔ネット拾読〕
昼食を抜いてもその日は死なないというアフリカの諺

西原天気


もちろんウソです。そんな諺、ありません。

て。

佐藤文香 2016.7.4
http://satoayakatoboku.blogspot.jp/2016/07/201674.html

最後の数行で泣いた。


佐藤りえ 人外句境コンテンツまとめ
http://burai-ha.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html

こういう一覧は、ほんと便利。リンク集=インターネット的便利の極み。



で、ですが、あまりにネタがないので、大昔のを掘り起こします。ツイッターをまとめるトゥギャッター。2010年7月。6年前です。

五七五定型=パンツ騒動
http://togetter.com/li/35781

定型=パンツ〕ならば、いわゆる自由律は、パンツさえかなぐり捨てる、といった対照が、話の流れの中にあって、その前提には、「表現」すること自体が恥ずかしい、ましてや、そこに「自己」がくっついて自己表現なんてことになったら恥ずかしくて死ぬ、といった心性があるわけですが、定型うんぬんで羞恥が緩和されるかどうかは、〔文化によります。

一般に、ネイキッドネス(nakedness)、すなわちおまわりさんが飛んでくるたぐいの裸と、ヌーディティ(nudity)、すなわち芸術写真の被写体的な裸、その線引き、言い換えれば、何をネイキッドネス=禁忌とするかは、文化によって異なる。例えば(あくまで机上の例)、ある文化では、足首の露出は、どの部位を露出するよりも恥ずべきこととされるなど。

俳句世間は、ひとつの文化ではありません。いわゆる有季定型の中にも、いくつもの文化がある。したがって、パンツでどこを隠すのかは一律ではありません。


ところで、このツイッターのやりとり、混沌のおもしろさがあります。ツイッターとは「囀り」という意味。ひとこと(ひと鳴き)は、論ではなく、論の断片。断片が集まっても、論になることはないけれど、そこに論の萠芽があるかもしれません。

酒席での俳句話に似ていなくてもないが、それよりあっさり、かつ誰が入ってくるかわからない点、開放的かもしれません。近頃、ツイッター上でのこうしたやりとりの展開、ほとんど見かけない気がします。いや、それは、私が井戸端に足を向けなくなったせいかもしれない。


今回はあっさりこのへんで。

またいつかお会いしましょう。

2016年7月8日金曜日

●金曜日の川柳〔辻一弘〕樋口由紀子



樋口由紀子






本棚の奥を金魚売りが通る

辻一弘 (つじ・かずひろ) 1935~2015

正岡子規の〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉と、最初読んだときに重なった。臥せっているときか気の弱っているときに詠んだ川柳のように思った。

本棚、そこには生きていくなかで数限りない影響を受けた本が並んでいる。その奥を金魚売りが通っていった。本棚の奥は蔵書の中のようであり、本棚に面している路地のようでもある。作者の住む京都の路地にはいろいろな物売りが通っていたのだろう。

その涼しそうな声が爽やかな風を運び、部屋の空気も変える。自分だってさっきまでとちょっと違ってきたような気がする。その声に暑い夏の記憶と重なり、ここではないどこかに連れていってくれるような気がしたのかもしれない。「京かがみ」(1959年刊)収録。

2016年7月7日木曜日

●週俳の記事募集

週俳の記事募集


小誌「週刊俳句は、読者諸氏のご執筆・ご寄稿によって成り立っています。

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※俳句作品以外をご寄稿ください(投句は受け付けておりません)。

【記事例】

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

句集『××××』の一句」というスタイルも新しく始めました。句集全体についてではなく一句に焦点をあてて書いていただくスタイル。そののち句集全体に言及していただいてかまいません。

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌、同人誌……。必ずしも網羅的に内容を紹介していただく必要はありません。ポイントを絞っての記事も。


そのほか、どんな企画も、打診いただければ幸いです。

2016年7月6日水曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】句集の読み方 その4・序文 西原天気

【裏・真説温泉あんま芸者】
句集の読み方 その4・序文

西原天気


序文のある句集とない句集、どちらもあります。著者が書いた序文はほとんど見たことがなく、だいたいはエラい人(所属結社の主宰など)が書いています。

で、この序文。

読みません。

映画館に座って、目当ての映画が始まる直前に、その映画のハイライト映像やら解説を観たいと思いますか?

句集をひらいた最初は、やはりその人の句を読みたい。

だから、序文があれば、それを飛ばして、句を読みます。句集を読み終えてから、序文に目を通すことは、たまにありますが。

事情はわかります。想像できます。序文がなぜあるのかというと、おそらく、結婚式の仲人の挨拶みたいなもので、「このたび句集を出すことになった某は、これこれこうで、こういう句を書いているので、どうかよろしく」と紹介するもの。いわば、お披露目の前口上。だからでしょう、第二句集以降は、このたぐいの序文がつかないことが多いようです。

とにかく句集特有の儀礼でありまして、かなり奇妙なものです(歌集とか川柳はどうなのでしょう。手元にサンプル数が足りない)。

もうひとつ、奇異なことに、最初のページに「序文」とだけあって、書き手の名前がないケースがある。ページをめくっていくと、序文の最後に書き手の名前が現れる。これはかなり奇妙です。誰が書いたものなのかわからないまま(記載がなければ著者の文章というのが相場ですが、どうもそうじゃない)、数ページめくって、やっと書き手が判明するのは、不自然。

というわけで、序文は要りません。

もちろん、私は要らない、と言っているだけのこと。付けるか付けないかは、いろいろな事情で決まるはず。ただ、希望を申せば、その手の一文が要るという場合、うしろに持っていただけると(跋文)、たいへんありがたいです。

2016年7月5日火曜日

〔ためしがき〕 意味からの逃走はそう簡単ではない 福田若之

〔ためしがき〕
意味からの逃走はそう簡単ではない

福田若之


俳句における意味からの逃走の試みを否定するつもりはないけれど、それはそう簡単なことではない。ある言葉は、それをとりまく言葉によって意味からの自由を条件づけるのでなければ、あいかわらず意味しつづけるだろう。そして、ある言葉が意味から自由になる条件を整えるためには、その言葉をとりまく言葉たちはむしろ進んで意味せざるをえないだろう。

ただのナンセンスは意味してしまう;言葉どおりの意味もまた意味にほかならない。結局のところ、意味からの逃走は、言葉を言葉ではなくすることによってしか、なしえないように思う。

2016/5/26

2016年7月4日月曜日

●選挙

選挙

箱眼鏡干されて選挙事務所かな  清崎敏郎

選挙近し新米古米まぜて炊く  大元祐子

花に選挙花に争議のこれやこの  久保田万太郎


2016年7月2日土曜日

〔ネット拾読〕昼ひなかのラジオは素麺の茹で汁のよう 西原天気

〔ネット拾読〕
昼ひなかのラジオは素麺の茹で汁のよう

西原天気


ラブ・アンド・ピース!

(ちょっと導入を凝ってみました)

この時期、アタマやカラダがしゃきっとしないときは、昼寝してみるといいです。短時間でも。

さて。

福田若之 それは確かに「早計」というほかはない 筑紫磐井「関悦史の独自性――震災・社会性をめぐる若い世代」に対して
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2016/06/blog-post_48.html

これはつまり、「せめて読もうよ」という話かな?

こちらからは以上ですが、ちょっと一般的なことを。

「なぜ俳句を書くのか?」というと、「書きたいから」でしょう。それ以外にない。「震災俳句」も「原発俳句」も同様。そして、何を「社会性」というかは別にして、「社会性」のある句、「社会詠」(そんな用語、あるのか?)も同様。書きたい人が書きたい句を書くのだから、ぜんぶオッケー。私自身はそう思ってます。もちろん「みんなで、震災俳句を、原発俳句を、平和俳句をつくりましょう」となると、グロテスクな行進めいてきますが、きほん、書きたい句を書けばよろしいのです(あたりまえのこと)。

一方、震災俳句を、原発俳句を、「なぜ書かないのか?」の問いへの答えは、「書きたくないから」のひとつではありません。「書きたいと思わないから」もあれば、「書きたいけど、まだ書いてない」もある。「ない」理由はいろいろだし、説明しにくいんですよね。

だから、ある種の分野の句と距離をとろうとしているとき、「なぜ書かない?」という詰問を自分で設定して(あるいはどこからか突きつけられたような気になって)、答えてみようとする必要はない。というか、そういうのって、たいてい言い訳っぽくなって、うまく行かない。ほんとに言いたかったことが言えない。

「社会詠」について、福田若之さんは、誌上座談会の自分の発言をわざわざ引いています。
(…)社会のなかに生きていて、俳句を作っていれば、社会のことが自然と乗ってくる。それが社会詠だって言いたい」と、僕ははっきり言っています(前掲「座談会「震災と俳句」」、36頁)。
それはそうなんだけれど、俳句業界の言う「社会」と自分にとっての「社会」をむりやり繋ぐこともない(よりによってこの言い方はかなり陳腐に映る)

(というか、福田若之俳句は、リアル自分対リアル社会〕てなかんじで、かなりの度合いで「社会詠」だと、私は思ってるんですけどね)

さて。

書く理由は「書きたいから」なんですが、(ここから余談)いわゆる「社会詠」が社会の「ため」になるのかといえば、ならない。

「ため」を言うなら、税金をきちんと払う(自戒を込めて)、他人をいたわる(自戒を込めて)、既得権益に乗っかりのうのうと暮らすことで人の機会を奪わない(これは自戒の必要なし)、そのへんにゴミを捨てない、ゴミが目についたら拾う、など、つまり善き人として、善き社会人として、心健やかに、慎ましく暮らすほうが、「社会詠」を何百句何千句つくるよりも、よどほど社会の「ため」になります。

為念。「ため」にならないから書かなくていい、書かないほうがいい、という話ではありません。くりかえしますが、「書きたい」なら、何万句でも書けばいいのです)



ネット上の句会はたくさんあります。ふだん記事を掲載しているウェブマガジン的なサイトが催すこともあって、例えば、

第1回 川柳スープレックス前句附句会

附句一覧≫http://senryusuplex.seesaa.net/article/439222123.html
選句結果発表≫
http://senryusuplex.seesaa.net/article/439428353.html

「前句附」がわからない俳人が多いと思います(私も、そう)。上記「附句一覧」記事の末尾にある例示「前句 切りたくもあり切りたくもなし 附句 ぬす人をとらへてみればわが子なり」ならわかりますが、さて、実地に、となると、なかなか難しい。まあ、わからないものはわからないまま、句や合評を楽しむことはできます。

で、そういえばと思い出したのが、小誌『週刊俳句』で以前開催した、この句会。

柳俳合同誌上句会
投句一覧 ≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/08/blog-post_17.html
選句一覧 ≫http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/08/20148.html


句会をオープンにすることには(リアル・ネットを問わず)あまり積極的になれないのですが、企画性の高い誌上句会なら、またやりたい。






尼崎、奥深すぎます。


それでは、また、いつかお会いしましょう。


2016年7月1日金曜日

●金曜日の川柳〔林ふじを〕樋口由紀子



樋口由紀子






悔いるだけ悔い悔いなしと言ひきれ

林ふじを (はやし・ふじお) 1926~1959

「悔い」という語を一句に三度も使っている。その繰り返しにまず気をとられる。「悔い」の持つ意味度はかなり重い。

これから行なうことはたぶん後悔するだろうが、それでも実行し、とことん悔いて、悔いなしと言い切るのだという。「悔い」という気持ちを無垢に表現している。しかし、言いきって気持ちが楽になったわけではないだろう。「悔いなしと言いきれ」と自分に言いきかせることで崩れそうになる身を守っているのだ。痛々しいほどに自分を見据えている。だから必要以上の「悔い」なのだ。

林ふじをは、〈子にあたふ乳房にあらず女なり〉〈抱きよせてわが子の髪の素直さよ〉〈接吻のまま窒息してみたし〉〈ギリギリに生きる私に墓はいらない〉など、わずか三、四年の間に衝撃的な川柳を数多く生んだ。