2022年1月31日月曜日

●月曜日の一句〔川端茅舎〕相子智恵



相子智恵







生馬(いきうま)の身を大根でうづめけり  川端茅舎

『川端茅舎全句集』(2022.1 角川ソフィア文庫)所載

川端茅舎[1897-1941年]の全句集が、角川ソフィア文庫で出た。掲句はその中から引いた。新解説を宇多喜代子氏が書いている。〈茅舎の句の「凄味」は、おおよそ現実とは遠いことであっても、たしかに自分には見えたのであると「断定」するところにあるのではないか。〉とあって、この「見えて断定するまで」の心と目の動きを追体験できるのも、全句集の面白さだ。例えば掲句は次の大根引の一連として置かれている。

たら■■【二字踊字】と日が真赤ぞよ大根引

生馬(いきうま)の身を大根でうづめけり

大根馬菩薩面して眼になみだ

絃歌わく二階の欄も干大根

大根引身を柔かに伸ばしけり

大根馬かなしき前歯見せにけり

一句目、真っ赤な夕焼けの中、茅舎の目は大根引の帰り支度とその馬にズームしていく。

二句目、馬の背には大根が背に振り分けてぎっしりと積まれ、馬は大根に埋もれてしまっている。

三句目、そんな馬の目は菩薩のように穏やかに、けれども眼には涙を浮かべている。

四句目では三味線の音が聴こえる田舎家の二階の手すりの干大根にふたたび視線を大きく取る。

そして五句目で大根引の男(であろう)に目をやる。男は疲れた腰をやわらかく伸ばしている。

そして六句目、最後にまた馬に戻り、大根の重みを背負ったその哀しい前歯にズームしていくのだ。

夕日の赤、大根の白、馬の目の黒、前歯の白と、色が移り変わり、耳には三味線の音が聴こえてくる。途中で大根引のゆっくりとした伸びが加わり、一方で大根の重みに耐えながら佇んでいる静かな馬の描写に、茅舎は感情を投影していく。まるで一本の静かなドキュメンタリー映画を見ているように、茅舎の作に合わせて、読者の心の目もしみじみと動いていく。茅舎の句は一句を拾っても緊張感があるが、こうして連作として見ると広がりも美しい。

宇多氏の新解説は「ぜひ、若い方々に、と思う。」で結ばれている。手に入れやすい文庫になったことは大変嬉しいことである。

2022年1月29日土曜日

【新刊】上田信治『成分表』

【新刊】
上田信治『成分表』

2022年1月27日/素粒社

2022年1月28日金曜日

●金曜日の川柳〔木暮健一〕樋口由紀子



樋口由紀子






牛の耳ピクリ軍靴か竜巻か

木暮健一 (きぐれ・けんいち) 1936~

私の耳もたまにピクリとする。そのほとんどはよくないことで、予想もしなかったものに出会ったり、夜中に物音がしたときなどである。恐怖で瞬間的に身体が小さく動く。牛の耳がピクリとしたのを見て、災厄が起こるかもしれないと、牛が動物特有の勘で察知したと思ったのだろう。

「朝、牛舎に行くといっせい牛が振り向く」とエッセイに書くように作者は北海道で酪農業に従事している。「牛乳が余ると減産・破棄を言い、一方で輸入は増える、その繰り返しだった。地球や人間社会の平穏こそ、生きものたちへの何よりのプレゼントだと思っている」の一文に作者の思いがよく表れている。戦争や自然災害が忍び寄ってくる世の中は来てほしくないというメッセージがある。「触光」収録。

2022年1月24日月曜日

●月曜日の一句〔加藤瑠璃子〕相子智恵



相子智恵







大鮟鱇べたりと置かれ箱の中  加藤瑠璃子

句集『雷の跡』(2021.10 角川文化振興財団)所載

解説のいらない明瞭な景。〈べたりと置かれ〉がまさに鮟鱇らしい描写である。ぬめぬめとした水の塊のような大きな鮟鱇が、トロ箱の中いっぱいに〈べたり〉と広がっている。〈大鮟鱇〉〈べたり〉の濁音が存在感を際立たせている。

鮟鱇といえば、加藤楸邨の次の名句がすぐに浮かぶ。

 鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる 加藤楸邨『起伏』(昭和24年)

楸邨の鮟鱇は吊るし切りだろうか。身はバラバラになり、もはや元のかたちを留めない中で、なおも骨までぶち切られている。瑠璃子の句は、これからそのように切り刻まれる運命にある鮟鱇の、ふてぶてしくも哀れな最後の姿かたちを淡々と描き、響きあっている。

瑠璃子は加藤楸邨の次男・冬樹と結婚。楸邨の死後、「寒雷」選者、編集長を務め、終刊後は後継誌「暖響」の会長、顧問を務めた。本書は遺句集である。

2022年1月21日金曜日

●金曜日の川柳〔桒原道夫〕樋口由紀子



樋口由紀子






電柱を抜いて帰ろうかと思う

桒原道夫 (くわばら・みちお) 1956~

実際には見たことはないが酔っぱらった人が電柱にぶつかり、怒っているとか、説教しているとか、格闘しているとか、しいては抜いて帰りそうなことはありそうである。「かと思う」のだから、自分を見失っているのではなく、かなり冷静だが、そう思うのは尋常ではない。

「抜いて」「帰ろう」「思う」のズレている連想、調子はずれが現実との違和感の感触を再生させる。「わたし」「いま」「ここ」の立脚点から自分の所存を明らかにする一方で、こういう人生もあるのかと思っているのだろう。『近・現代川柳アンソロジー』(新葉館出版 2021年刊)所収。

2022年1月19日水曜日

●西鶴ざんまい 番外編#5 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外編#5
 
浅沼璞
 

常日ごろ雑務にかまけ、積ん読の山、数多なるを、少しは崩さんと、年始休暇、いくつか手にとる中に、さほど目立つ装丁ではないけれど、きわめて興味深いのが一冊ありました。

田原(ティエン・ユアン)編『百代の俳句』(ポエムピース)という昨秋刊行されたアンソロジーがそれで、わが西鶴も収録されています。(田原氏は中国出身の詩人にして翻訳家。)


白地のシンプルな表紙には「誰もが知る名句から/誰も知らない名句まで」というサブタイトルがあり、おなじく白地の帯には高野ムツオ氏の推薦文とともに「注目の国際派詩人が/世界に向けて選りすぐった/400年の131人/1310句」と記されています。
 
繙くと見開きに5句づつ計10句が整然と並び、左ページの終りに簡単な作者紹介があります。
 
とてもシンプルな編集で、選ばれた作者群もスタンダードな感じ。
 
(まだ評価の定まらない現代俳人のラインアップに関しては賛否両論あろうかと思いますが)


そんなオーソドックスな編集の中で、興味深いのは厳選された(であろう)作品群で、「誰もが知る名句から/誰も知らない名句まで」というサブタイトルが嘘ではないことがわかります。

さらに詳しく凡例をみると「選は、日本語での既定の評価ではなく、他言語に翻訳したときに読み手にどう響くかという基準を大事にしました。いわば世界にも通じる誇れる作品です。言語や文化の垣根を越えるという視点によって、作品の魅力を再確認するよすがになれば幸いです」との由。

一読、ここでいう「再確認」を「相対化」と換言したくなりましたが、それはそれ、やや上から目線ではありますが、果敢な試みとも思えました。
 
げんに「やっぱこの句が」とか、「なんでこんな句が」とか、けっこう翻弄されます。


では西鶴ベスト10を検証してみましょう。まず「誰もが知る名句」として一句目に、
 
  大晦日定めなき世の定め哉
 
が掲げられています。この句、かつての連載「木曜日の談林」で扱ったので解説はそっちに譲りますが、浮世草子『世間胸算用』のルーツと目される代表句には違いありません。


さてもう一方の「誰も知らない名句」としては、晩年の発句、
 
  山茶花を旅人に見する伏見哉
 
が目をひきます。土地がら、陸路や船着場から旅人(りょじん)が行きかうとはいえ、秀吉の頃と打って変わって寂れた伏見。そんな伏見に、花の少ない時期に咲く山茶花を取り合わせた隠れ名句で、元禄疎句体に通底する作風といえましょう。


でラストの一句は、辞世「浮世の月見過しにけり末二年」かと思いきや、
 
  茶をはこぶ人形の車はたらきて

「なんや、そなたが本編で扱こうてる百韻絵巻の付句やないかい」

はい、付句が単独でアンソロジーに入るのは珍しいことで、私も意表をつかれたんですが、じつはこれ、江戸からくりの人気とともに人口に膾炙してる一句でもありまして、そういえば去年、横浜髙島屋で開催された「からくり人形師・九代玉屋庄兵衛展」でも、茶運び人形コーナーの案内書きに大きく引用されていました。

「江戸からくりが人気なんはよろしいけど、なんでこれが〆の一句なんや。芭蕉はんの〆は辞世『夢は枯野』やないかい。わての辞世かて名句やで」

やっぱ芭蕉翁のページが気になるようですね。

「うぬ惚れやないで。飯島耕一いう詩人さんかて、わての辞世をほめて、芭蕉はんのより上かもしれん、そない言うとったはずや」※

どうしても蕉翁を意識しちゃうんですね。

※『江戸俳諧にしひがし』みすず書房(2002年)

2022年1月17日月曜日

●月曜日の一句〔小島明〕相子智恵



相子智恵







定型の冬(樹の中に樹は眠り…)  小島 明

句集『天使』(2021.11 ふらんす堂)所載

〈定型の冬〉の「定型」とは、私たち俳人は、定型詩のことをどうしても思うものだ。〈(樹の中に樹は眠り…)〉の丸括弧で括られた部分は、裸木とは書かれていないものの、〈定型の冬〉によって、葉をすべて落として眠る裸木が呼び出されてくる。

〈樹の中に樹は眠り…〉は複数の木立の中の一樹が眠っているのか、一樹の内なる樹が眠っているのか、捉え方は二つに分かれるだろうが、私はパッと後者で読んだ。〈…〉の効果もあって、樹の中に樹は眠り…そして眠り…眠り…眠り…と入れ子のように、樹の内なる樹がどんどん眠っていくように思われてくるのである。

樹は丸括弧からはみ出ることはなく、「定型の冬」の中にちんまりと収まっていて、丸括弧の中は、みっちりと内なる樹が〈…〉で充填され続けながらも、スーッと遥かに開かれてゆく。

充ちながら、開かれてゆく。定型詩というものの本質を言葉が結ばせる風景だけで描いた、静かで不思議な手触りのある一句である。

本書は第1句集で、遺句集とのことだ。

2022年1月14日金曜日

●金曜日の川柳〔相子智恵〕樋口由紀子



樋口由紀子






片手明るし手袋をまた失くし

相子智恵 (あいこ・ちえ) 1976~

番外編で、もちろん川柳ではなく俳句である。「月曜日の一句」担当の相子智恵さんが句集『呼応』を出版された。相子さんとは2011年から「ウラハイ」を一緒に走ってきた。読みの優しさや深さにいつも刺激をもらっている。しかし、相子さん自身の俳句をまとめて読むのは今回がはじめてである。

「また失くし」で「片手明るし」となつかしいような手つきでを引き出している。手袋をはめていない手は冬の陽が当たり、素の自分を久しぶりに見たようで気恥ずかしくもあり、眩しかったのだろう。本当によく働いてくれる感謝の手である。モノやコトをある距離感の中で詠んでいる句が多いなかで、この句は一歩詰めて心の内側を感づかせてくれる。句集全体はいわゆる体当たり的なものではなく、現代を生きる人の知的で自覚的な心情を表現している。『呼応』(2021年刊 左右社)所収。

2022年1月10日月曜日

●月曜日の一句〔千々和恵美子〕相子智恵



相子智恵







真開きに河豚の鰭干す壇ノ浦  千々和恵美子

句集『飛翔』(2021.11 文學の森)所載

河豚の鰭は、戸板などに広げて貼りつけて干す。〈真開き〉に、一つ一つの鰭を扇のような形にぐっと広げて干しているのだということが分かる。蝶の標本のようにびっしりと戸板に貼られた河豚の鰭を見たことがあるが、グロテスクかつ美しくて、奇妙な気持ちになった。鰭酒はおいしかったけれど。

下五に置かれた〈壇ノ浦〉が、この句の奥行きを決定づけている。全国随一の河豚の名所である下関の地名として中七までの景の解像度を上げながら、「壇ノ浦の戦い」という歴史を重層的に響かせていて見事だ。ピシっと〈真開き〉に開かれ、黒光りした河豚の鰭は、兵士たちの甲冑や関門海峡の鋭い波がしらを遠くにイメージさせるのである。

2022年1月7日金曜日

●金曜日の川柳〔石部明〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




ボクシングジムへ卵を生みにゆく

石部明(いしべ・あきら) 1939~2012

川崎とか墨田区とか、鉄の似合う街、音的には、が行、ば行が鳴っている街。そのはずれのあたり、例えば川沿いの道かなんかに、ボクシングジムは、派手な看板のわりにはあまり人目を引かず、夜になると中の明かりがちょっと漏れたりしているわけです。残念ながら、ボクシングの経験がなく、実際に中に入ったこともないので、たぶんにドラマのイメージです。すみません。サンドバッグがぶらさがり、パンチの音や縄跳びの音がして、汗がむっと匂い、中心には正方形のリング。

ヒトは、残念ながら(残念でもないか)卵生ではないのですが、この句のいわゆる作中主体を鳥かなんかにしてしまってはつまらない。「卵を生む」をなにかの喩えとして読んでしまっては、もっとつまらない。ボクシングジムへと向かうのは、ヒトです。作者でも彼でも彼女でもいいけど、ともかく、なにか思うところがあって、卵を産み落とす場所としてボクシングジムを選んだ。突拍子もないようでいて、駅前やら公民館やらジャスコに比べれば、そんなに不自然でもない。場所のもつ熱気は、孵化にも向いていそうだし、市民の常識からはずれた出来事も、ここなら、騒ぎ立てられることもなさそう。

不思議はそのままに、けっして腑に落ちることはないけれど納得感はある。そんな設えなのですよ、この句。

掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2022年1月5日水曜日

西鶴ざんまい #20 浅沼璞


西鶴ざんまい #20
 
浅沼璞
 

 子どもに懲らす窓の雪の夜  八句目(打越)
化物の声聞け梅を誰折ると  裏一句目(前句)
 水紅にぬるむ明き寺    裏二句目(付句)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
本年も「三句目のはなれ」の吟味にかかります。
 
まず前句は化物に扮する下女の目線から、「誰が梅を折ったんだ~、この化物の声をよく聞け~」と、打越のいたずらっ子をおどしています。この「化物」という言葉が付いたことにより、連歌時代からの「異物の付け」となります。

とはいえ下女が扮した「作り事」ですから、異物の度合は低い。

そこで自註のとおり、「作り事」の化物を現実の「有り事」の化物としてとらえる第三の眼差しが向けられます。いわばホラーの語り手目線が付句には働いているわけです。
 
この目線から、血の池のぬるむ空き寺という、前句にふさわしい「其の場」の付けがなされ、「異物」の度合がぐんとアップ。果たして「三句の転じ」と相成った次第です。


ところで、前回の拙稿を読んだ編者の若殿(若之氏)よりメールがあり、言うことには、

「西鶴本人は自註に書いていないようですが、この『紅』は水面に映る紅梅のイメージでもありますよね。もとは雪中梅として書かれた『梅が枝』を、より遅く咲く紅梅の枝と捉えなおすことで、水温む仲春の季へとなめらかにつないでいるようにも思いました」

との仰せ。つまり打越/前句の雪中梅が、前句/付句の紅梅へと転じられているという指摘です。

西鶴の意識の中で雪中梅が晩冬ならば、春の紅梅への季移り。雪中梅が初春ならば、仲春の紅梅への同季の付合となります。

周知のとおり同季の付合の場合、仲春から初春へ遡るのは「季戻り」といって嫌います。つまり雪中梅から紅梅への順行はOKですが、逆行は禁じ手なわけで、そのへんを知悉した老俳諧師の「抜け風」な季のあしらいとも受けとれます。


「呵々。さすがは若殿や。年も明けたことやし、編者と筆者を入れ変えた方がええんちゃうか」

それ、前にも聞きましたけど。

「呵々。新年のリピートや」

なら、政治屋よろしく自分の座にしがみつくっていうのもリピートさせてもらいます。

「呵々。新春早々、そないな転合、聞く耳持たんで。笑止、笑止」

2022年1月3日月曜日

●月曜日の一句〔福井隆子〕相子智恵



相子智恵







繭玉が揺れ浅草の揺るるかな  福井隆子

句集『雛箪笥』(2021.9 ふらんす堂)所載

紅白の餅を団子状に丸めて、柳の枝などにつけた正月の飾り木「繭玉」は、繭の豊かな収穫を願うことから始まったもので、餅花ともいう。繭玉を模したプラスチック製の飾りなどは商店街の正月飾りとしてよく見かける。本物ではないことに興覚めする向きもあろうが、私はこういう既製品の何ともいえないレトロさも好きだ。

掲句、「浅草」という土地の名前がよく活きている。この繭玉は仲見世通りに飾られたものだろう。浅草寺の参道の左右に整然と立ち並んだ店の屋根から、ずらりと突き出した繭玉(正確にはそれを模したものなのだろうが)。風に繭玉が揺れれば、まるで浅草全体が揺れているようだという。繭玉は風だけではなく、人々の熱気のうねりによって揺れているようにも思える。浅草の新年は、じつに華やかで壮観。その雰囲気を大きく捉えた一句である。