2020年2月24日月曜日

●月曜日の一句〔瀬戸満智子〕相子智恵



相子智恵







君は今春の眺めのよい部屋に  瀬戸満智子

句集『懐かしき未来』(文芸社 2019.12)所載

自分が今、〈君〉と同じ家にいて、他の部屋から〈眺めのよい部屋〉にいる〈君〉を見ている句だと読んでもよいのだが、私には〈君〉の〈眺めのよい部屋〉を懐かしく思い出している句のように読めた。〈君は今春の眺めのよい部屋に〉の後に「いることだろう」が続く感じである。懐かしい君の〈眺めのよい部屋〉は今、春を迎えて〈春の眺めのよい部屋に〉なっていることだろう。しかし、そこに私はいない。

〈君〉との関係は分からないのだけれど、二人は恋人だったのかもしれない。春は出会いと別れの季節というけれど、掲句からは春の美しい光が、切なく、でもすがすがしく感じられてきて、小説の最後の一行のような余韻のある句だと思った。

この句集は、瀬戸満智子氏の一句一句に矢口晃氏の鑑賞が付く珍しいスタイルの一冊である。掲句についての矢口氏の鑑賞は当然ながら私の鑑賞とは違うのだが、そういう違いを見つけていくのも、こういうスタイルの句集の面白さなのだろう。

2020年2月23日日曜日

【名前はないけど、いる生き物】 「なにか」 宮﨑玲奈

【名前はないけど、いる生き物】
「なにか」

宮﨑玲奈


先週は、週末に金沢に行ったり、ちょっと忙しくしていた関係で、書く時間がなく、おじゃんになってしまいました。すみません。

先々週は、ぼんやり浮かんだ、俳句とか短歌(的なものと言いたい)も、そっと、載っけてみたのですが、これは、宮﨑莉々香が一番イヤだと思っていたタイプのことなのかもしれないなーというようなことを、ふと、思い返していました。最近、宮﨑莉々香の話を聞かれたのもあって、思い出していました。なんだか、しだいに、彼女が、今の自分とはかなり遠い、他人のように思えてきました。けれど、案外、人間というものは、過去の自分が遠い他人のように思えてくる生き物なのかもしれません。

宮﨑莉々香という人は、(たぶん)割と普遍的なモチーフを用いて、文体で勝負するタイプの人で、内容(意味)によって文化背景がわかる、例えば、この人は主婦で、だからこの素材を使った、とか、その人はひっそり暮らしていたけれど、俳句を趣味で続けていて、それをノートにひっそりと書き残していた、みたいなことがすごく好かん!って、なっていたと思われます。俳句は言葉で、文体だし、俳句作家の仕事は、やっぱり、文体で書くってことにある気がしていた。

けれど、次第に、書きたいと思うことが出てきて、見えている世界だけでなく、今、この社会に生きているということを含めて、書こうとすると、俳句という形式がすごく短すぎるように思えてきて、これまで作家として書いてきたこと、書こうとしてきたことと、書きたいと思ったことは、すごく離れているように思って、途端に、俳句が書けなくなってしまった。俳句に関することで嫌だなー、辞めたいと思ったことはあったけど、俳句が嫌いになったことはなかったので、ちょっとショックでした。俳句が切り取る世界への、物足りなさと絶望感を感じていたのだと思います。

演劇や戯曲という表現手段を得て、最近になって、やっと、自分が演劇でやっていることが、過去に宮﨑莉々香が俳句でやっていたこととも、ちょっとつながってくるようになりました。主には、「わからない」ということに対しての捉え方や、物の見方な気がしています。両面、またはそれ以上の多面的な方向から、物事を捉えた時に、「わかっていた」と思っていたことの地盤がぐらついて、わからなくなってくることの方に興味がある。それは、例えば、チューリップを見ていたとして、チューリップがどんどんわからなくなる、みたいなことと似ていると思います。

もう、前のような、宮﨑莉々香にはなれないけれど、ほそぼそと、趣味として、俳句をたまに思い浮かんだ時に書いて、1年に1回くらいだったら、連作にできるのかもしれない、そんな感じです。というのが、宮﨑莉々香氏に関する近況でした。

2020年2月21日金曜日

●金曜日の川柳〔金築雨学〕樋口由紀子



樋口由紀子






コインロッカー荷物を出して他人になる

金築雨学 (かねつき・うがく) 1941~

「コインロッカー荷物を出して」まではごく普通のセリフである。が、それが「他人になる」であっと思わせる。それまでは身内だったのかと戸惑いを覚える。確かに私の大切な、身近な荷物が入っているときは気になる存在の、言われてみれば身内の感覚で。でも、荷物を取り出してしまえば、もう何の未練もなくなり、さっぱりと「他人になる」と言う。

しかし、他人や身内は人間同士間のことで、モノには無縁で、モノに対して本来は言わない。それを強いて使うことによって、「他人になる」というにはどういうことなのかと、言葉を立ち現わす。そして、他人になった「コインロッカー」はその姿をずっと見せ続ける。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2020年2月20日木曜日

●木曜日の談林〔三千風〕浅沼璞


浅沼璞








梅ひとり後に寒き榾火かな   大淀三千風
『荵摺』(元禄二年・1689)

俳諧の発句だから、季重ねは気にしないけれど、「後(うしろ)に寒き」の写実は俳句っぽい。
これを反転させると、
とつぷりと後暮れゐし焚火かな    松本たかし
となる。
時代を越えた響き合い、などと言えば月並みだが、背後のリアリティの交響はたしかなものだ。

年代から推しても談林というより談林後の元禄正風体。それを承知で取り上げたけれど、「背後」と「談林後」のアナロジーもうかぶ。


三千風という号は、西鶴バックアップのもとになされた矢数俳諧2800句独吟による。仙台居住、諸国行脚、鴫立庵再興と流転の俳諧師であったが、ルーツは談林にほかならなかった。

2020年2月17日月曜日

●月曜日の一句〔岡崎桂子〕相子智恵



相子智恵







息通ふほどのへだたり立雛  岡崎桂子

句集『大和ことば』(朔出版 2020.01)所載

なるほど、確かにそうだなあ、と思った。〈立雛〉は、男雛が両手を横に伸ばした恰好で、女雛は手を閉じているものが多く、男雛のピンと張った片袖の内側に、女雛が寄り添うような配置のものが多い。掲句から私が想像するのも、そのような配置の〈立雛〉だ。

二つの雛人形は寄り添ってはいるけれど、決してくっついてはいない。息が通うほど近く、でも二体の間には明らかに〈へだたり〉がある。

〈息通ふ〉の擬人化によって、この〈立雛〉は人間らしい体温を与えられているが、一方で、〈へだたり〉には人形独特の冷たさがある。その落差によって、温もりがあるのに、しんと冷ややかな雛人形というものがうまく表現されている。

2020年2月14日金曜日

●金曜日の川柳〔倉本朝世〕樋口由紀子



樋口由紀子






間違って「閉経!」と言う裁判長

倉本朝世 (くらもと・あさよ) 1958~

そんなことはさすがにありえないだろうと思いながらも、ひょっとしたらと、にたにたしながら読んだ。裁判長という偉い人でもそういう間違いをすることはあるかもしれない。「閉廷(へいてい)」と「閉経(へいけい)」、「て」と「け」のたった一文字の発音の違いである。けれども意味内容は大きく変わる。一字違いで大違いの、わざとらしさが功を奏している。

誰もがやってしまいそうなことを、誰もが持っている不安感をユーモアで引き出している。言葉の意味性を逆手にとって、とんでもないところを見せる。「閉経」と「裁判長」を象徴的に存在させて、言葉の、社会の、価値観の転覆をはかっているようにも思う。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2020年2月10日月曜日

●月曜日の一句〔宮本佳世乃〕相子智恵



相子智恵







その他はブルーシートで覆はるる   宮本佳世乃

句集『三〇一号室』(港の人 2019.12)所載

掲句、何がブルーシートで覆われているのか明示されていない。ただ〈その他は〉とあるだけだ。〈その他〉は「それ以外のもの」ということだから、逆にどうしても「以外」で区切られた「それ」を思い浮かべる構造になっている。「それ」であるところの「ブルーシートの外の世界」は、「それ」として言及するほど特別であり、つまり、取り立てて言及する必要のない「名もなき日常」の世界ではないことがわかる。これは日常の中で見たブルーシートではなく、やはり被災地のブルーシートなのだろう。

ブルーシートに関する wikipedia に〈阪神・淡路大震災では、避難所の設営、破壊された屋根の雨漏り対策などに使われ、防災グッズとしての利点も見いだされたことから、対策の備蓄品として防災倉庫にストックする自治体も増えた〉と書いてあって、ブルーシートには「災害」という読みのコードが強烈に付加されたのだ、と改めて思う。

ここから〈覆はるる〉で見えてくる景がある。ブルーシートに覆われ、半端に「片づけられた」景だ。掲句はその悲しみを、透明感のある静かな文体で詠む。

かつて、この場所には〈その他〉と「それ」をブルーシートで分ける必要のない、名もなき日常があった。再び日常を取り戻そうとするその場所のあちこちが、今はブルーシートで覆われている。景観を考慮して青色になったというシートの、明るくのっぺりとした人工的な青色に、何とも言えない喪失感がある。

〈その他は〉と極度に風景を抽象化しながら、被災地の風景の本質を静かに掴み出している一句だ。

2020年2月9日日曜日

【名前はないけど、いる生き物】 2/6木曜 に思いついて書いたこと、今週書いたもの 宮﨑玲奈・宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
2/6木曜 に思いついて書いたこと、今週書いたもの

宮﨑玲奈・宮﨑莉々香



ダメな日もいい日もある。


最近夢をよく見る。毎日見ている。もともと、そんなに見る方ではなかったので、毎日見ているということに、自分でもびっくりしているくらいだ。今日はアメリカンダイナーみたいなところで、フィッシュアンドチップスをコーラ片手に、ダラダラ食べていた。



なんとなく今日はなにも書いてない気になって、いそいそとタイピングをしている。

こういう時のために、このノートはあるんじゃないか、っても、ちょっと、思う。

小学校の頃よく書いた自由帳みたいな感じ。わたしの自由帳にはやたら目がでかくて、服装に細かいデイティールが施されたオリキャラがピースをしてよく現れていた。


電車にて
A、椅子に座っている。

B、つり革を持って立っている。
A なんで立ってんの、

B え、

A いや、

B え、

A いや、

B え、

A え、だから、、空いてるじゃん、

B ……ああ、

A なんで立ってんのかなーって、

B ああ、、、

A だって、座ればよくない?
空いてんだし。ほら、

B まあ、

A 誰も、座ってないじゃん、ここ。

B うん、

A ね、

B まぁ、、、

A うん、



A え、

B ん?

A え、

B うん、

A え、だって長いじゃん、

B ああ、

A 目的地まで、

B うん、

A え、

B うん、

A え、どうして、

B いや、

A 座ればよくない?

B いや、、、

A え、いや、なんかあったの?

B いや、

A うん、

B そういう訳じゃないけど、

A うん、
C、来る。つり革を持って、立っている。
A え、

B ん、

A え、

B やめなって、

A え、なんなの、この電車、

B これ(つり革をAに渡す)

A はぁ?

B だから、ん、
A、つり革を持って立っている。
C 旅行、、とか、

A はい、一応、

C へー、

A まぁ、、、
D、電車から離れた少し遠いところに、お麩を片手に持って、出てくる。

もう一度、ここまでの一連の会話を行う。 

繰り返し終わって、
D 今日も疲れたなぁ、、、
D、笑って去る。

B、C、椅子に座る。
A 、、変な電車、

B なに、

A んんん、なんもない。



風邪の窓ちょいあかるさの紹興酒  



お腹の中にゼリーがたまる四時頃でなんもできない甘かった桃



アッバス・キアロスタミの『トスカーナの贋作』を観た。近所のTSUTAYAで借りてきたやつ。1月半ばに『つかの間の道』という演劇作品を上演したのだけれど、この映画のことを思い出したという指摘がアフタートークの中であった。

その数日後に、駒場アゴラ劇場で上演していたロロ『四角い2つのさみしい窓』を観た。脚本も、舞台美術も、ツアーとして行われる作品だということも、繋がりが見られて、なんだか、すばらしくて、感動した。フィクション、お話、童話的なラインをどう作るか、みたいなことを考えらされた。

どちらも「ふりをする」「本当になる」「にせもの」ということに関しての話だと自分の中では認識しているのだけれど、どうなんだろう。



物事には確かさのようなもの、なんてなくて、世界自体が流動的で、ものすごいスピードの中で、自分自身も瞬間的に変わりながら進行していっている。言葉にできないその速さの中で、言葉になる、することを選ぶのなら、祈りのように、選びたいものだ。

今日もわたしの街には、川が流れている。川沿いにはラブホテルが2軒あって、どちらも、新しい建物の様相とは言いがたい。海には、工場の煙突があるのだろうかとそんな想像をしながら、今日も自転車を漕いでいる。

2020年2月7日金曜日

●金曜日の川柳〔きゅういち〕樋口由紀子



樋口由紀子






お祝いに骨を鳴らしていただいた

きゅういち 1959~

こんなお祝いの仕方もあるのだ。「いただいた」と言っているのだから、骨を鳴らしてもらって、作者も喜んでいるのがわかる。おめでたい話を聞いて、咄嗟にどうやって祝福しようかと考えて、クラッカーとか音を出すものが手元に何もなかったので、とりあえず鳴る関連で骨を鳴らしたのだろう。

もう一つ仕掛けがある。「骨を鳴らして」とは字面だけを見ると、白骨を叩くのかと想像して、一瞬どきっとする。しかし、そんな大それたことではない。指の関節をポキポキと鳴らすだけである。どきっとさせるのも作者の意図だろう。骨関連では「骨を抜く」「骨を折る」「「骨を砕く」などが同類だろう。どれも字面だけを見ると引いてしまう。言葉の落差が生む可笑しさを書いている。

2020年2月6日木曜日

●木曜日の談林〔惟中〕浅沼璞


浅沼璞








文を好むきてんはたらく匂ひ哉   岡西惟中
『時勢粧(いまやうすがた)』(寛文十二年・1672)

「文を好むき」だから好文木、つまり梅のことである。

それに「き転はたらく」を言い掛け、梅の香へともっていく。



周知のように、「晋の武帝が学問に親しむと花開き、怠ると散りしおれた」という故事から好文木という。

「学問」→「気転」という連想から、「匂ひ」へと転じるあたり、連句的である。



〈梅は好文木というだけに、気転の匂いがはたらく〉といったところか。

ただし「梅」という表記はなく、いわゆる談林的「抜け」風の一句。


惟中(いちゆう)は歌学・漢学をこなし、貞門のみならず、談林内部でも論争をよくした。

西鶴ともライバル関係であった。

2020年2月2日日曜日

【名前はないけど、いる生き物】いれもの/かわりみ 宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
いれもの/かわりみ

宮﨑莉々香

https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjL30GExUTOingj7-tPs5irJBreIN_Dm95MhAdIM89FSlNKyDItJzPhGWjtd1d72hGekq_9PLfNNnRJm2c0ZBV5IDsn4XbylHILncTf36AgbTcgMaaYjOSmSBV2vjWKKMcsvvxTcr7LEk4/s1600/RirikaMiyazaki20200202.png


焚火今からだがなくて見ているよ
五本指ソックス薄い光の二〇二
川になるけど口なしではいられん寒っ
むささびと窓のうちがわ昼のこと
ありふれた雪のせかいを歩く靴
道端の冬蜂浮かびくるテレビ
雲がある機嫌いい風枯れてく木
鴨と水見てる知らないわたしひろしま
自転車と葱が遠くになっていく
もみの木をぼーっのっとられて見たよ
テレビにはいない白鳥いない部屋
くらくらが蝋梅のなかへとまじる