2019年6月30日日曜日

【俳誌拝読】『鷹』2019年7月号

【俳誌拝読】
『鷹』2019年7月号


A5判・本文152ページ。発行人:小川軽舟(「鷹」主宰)。

今号の特集「平成、あの年」では、元年から30年まで各年を結社内外の著者が振り返るという趣向。社会事象と私事、俳句の絡め方や按配は書き手それぞれ。ざっくりと平成ではなく1年ごとに焦点を当てた企画が奏功か、また1年1ページという分量のせいか、面白く読める。

若手(どこまでを若手と呼ぶかは置いておいて)の書き手も、五島高資、竹岡一郎、高山れおな、村上鞆彦、神野紗希、関悦史、福田若之、鴇田智哉、髙柳克弘、生駒大祐(登場順)と多く、全体の3分の1を占める。

ところで、小誌『週刊俳句』は平成19年創刊だから、平成後期3分の1を過ごしたことになる。その年の担当は小川軽舟。小川氏の『俳句』誌での「現代俳句時評」連載に触れてあり、そういえば、小誌でも取り上げたことがある(≫こちら)。

ついでに(ということもないが)記しておくと、震災の年2011年は、福田若之「かもめの写真」。
(…)そのしがらみを、ひとびとがしきりに《絆》と呼ぶのが聞こえた。僕には、そんなふうに美しく生きることができなかった。だからといって、しばらくの月日が過ぎたのちに、《詩の被災》などというそれ自体およそ詩的な繊細さに欠けた殺し文句が、どこか得意げな表情でひとびとを戒めようとしたのにも、それはそれで、苛立ちを禁じえなかった。(福田若之)

(西原天気・記)

2019年6月29日土曜日

●土曜日の読書〔日々の泡〕小津夜景




小津夜景







日々の泡

結婚のときに母がもたせてくれた鍋の底を焦がしてしまった。

スチールの束子でこすってみる。黒ずみが少しとれた。ついでに内側もこする。しゃらしゃらしゃら。あらためて眺めると、かすかな傷がいっぱいある。傷というのはなんて綺麗なのだろう。

水が沸騰するとき、さいしょの気泡は鍋の傷から生まれる。逆から言うと、鍋に傷がないとき、水は100℃になってもぜんぜん沸騰しない。

「それほんと? じゃあね、もしも傷のない、完璧なお鍋がこの世に存在したとして、一番はじめの、たったひとつぶの気泡は、いったいいつ、どうやって生まれたらいいの?」

と、いつだったか、会話の流れで、そう夫に質問したことがあった。そのころ夫は、たまたま辿りついたピレネー山脈のふもとの町で、無重力下における沸騰現象の研究をしていたのである。

「その場合、さいしょの泡は、水中の水の分子の密度が低いところが偶然生じたとき、その『穴』から生まれるんだよ」
「密度が低いって、つまりどういうところ?」
「分子と分子とが離れているところ」

いつのまにか、鍋がみちがえるほどぴかぴかになっている。水をはり、コンロにかけて、火を入れる。鍋の底にあえかなゆらぎが見え、傷の中に隠れている空気が気泡になりたがっているのがわかった。あ、くる。そう思ったとたん、気泡が鍋の底からぷっとあらわれ、ゆらりと剝がれて、消えた。
私を眺めやるとき、私は私が、夢のやうに遠い、茫漠とした風景であるのに気付いてゐた(…)私は、その上夢を、その風景を、あかずいとほしんだ。風景である私は、風景である彼女を、私の心にならべることをむしろ好むのかも知れなかつた。そして風景である私は、空気のやうに街を流れた。(坂口安吾「ふるさとに寄する讃歌 夢の総量は空気であつた」岩波文庫)
このまま水を沸かしつづけていると、鍋はいつか、傷のない完璧な器に変わるだろう。それほんと? そんなすごいお鍋がこの世に存在するの? うん、傷のない器のつくりかたはこうだよ。1、水を長時間沸かす。2、とてもしずかに冷ます。これで傷の中に隠れていたすべての空気が抜け、そこに水がしみこんで、できあがりだ。


2019年6月28日金曜日

●金曜日の川柳〔川上三太郎〕樋口由紀子



樋口由紀子






雨ぞ降る渋谷新宿孤独あり

川上三太郎 (かわかみ・さんたろう) 1891~1968

近畿地方はやっと梅雨入りし、一気に雨模様になった。雨は降ったら降ったでたいへんだが、降らないのもたいへんである。雨が降ると気が滅入る。雨はどこにでも降る。もちろん、渋谷新宿にも雨が降る。地方の者には渋谷新宿には賑やかで華やかなイメージがある。賑やかで華やかに見える場所ほど回収され得ない孤独を抱えて込んでいるのかもしれない。

「雨ぞ降る」「渋谷新宿」「孤独あり」と舞台設定が絶妙で、独特の言い回しの、言葉の続け方に感心する。雨の降る渋谷新宿。渋谷新宿に潜む孤独。二つを繋いでいるのは「私」だろう。今雨が降っている渋谷新宿を「私」というものを媒介にして孤独と関係づけている。見える「雨」と見えない「孤独」。その見えない「孤独」を見える「雨」がクローズアップし、「私」にいっそうの「孤独」を感じさせる。それはまぎれもなく生きているということなのだろう。

2019年6月27日木曜日

●木曜日の談林〔辻尾意楽〕浅沼璞



浅沼璞








夕涼み草のいほりにふんぞりて  意楽(前句)
 頓死をつぐる鐘つきの袖    同(付句)
『大坂独吟集』上巻(延宝三年・1675)

草庵でひとり夕涼みをし、誰憚ることなくふんぞり返っている。

かと思いきや、それは頓死で、涙の袖が鐘をつく。



宗因の評語に「卒中風(そっちゅうふう)、夕涼み過ぎ候か」とある。

つまり脳卒中の原因は夕涼みをしすぎたためか、というのである。



 「ふんぞりて」の気楽さを「頓死」に取り成した無常の付け。

談林的な諧謔がスピード感をうむ。



〔作者の意楽(いらく)は辻尾氏。俳諧執筆のプロ。『西鶴大矢数』の執筆も務めた。〕

2019年6月26日水曜日

●西国

西国

西国の畦曼珠沙華曼珠沙華  森澄雄

秋風の西国街道歯ブラシ立つ  坪内稔典

西国の粗櫛つかふ花曇り  柿本多映

2019年6月24日月曜日

●月曜日の一句〔杉阪大和〕相子智恵



相子智恵







近づくにつれて雑なる滝の音  杉阪大和

句集『思郷』(北辰社 2019.4)所収

ああ、そうだよなあと思う。一読、〈雑なる〉の中身をもっと細やかに写生してほしくなるような書き方で、〈雑なる〉が言葉通りの「雑」な表現に思えてしまうかもしれないが、言われてみれば確かに「雑」なのだ。

遠くで滝の音を聞いている時は、「ドーッ」と低い一音にまとまって聞こえている。それが滝に近づくにつれて、様々な水の音が響くようになり、滝のすぐ近くに立てば、水が岩にぶつかって立てる音はみんな違って騒々しくて、まるでパチンコ屋の中に入ったような感じだ。

滝を見ていてもそうだ。遠くから見れば一本にまとまった白い線のように見えるけれど、間近で見れば(当たり前だが)水の動きは統一などしていない。活き活きと「雑」なのである。

大づかみな中に、滝の本質を見事にとらえている句だと思った。

2019年6月22日土曜日

●土曜日の読書〔砂の絵よりも〕小津夜景




小津夜景







砂の絵よりも

掃除していて、古い岩波文庫をひらくと、オチさんとドライブした日のレシートが栞になっていた。

オチさんの喉元には2つの傷跡がある。俺、さいきんシャバに生還したんやけど、一番死にかけてたときは喉の、ここんとこに穴あけて何年も栄養とっててん、と初めて会った日にオチさんは語った。へえ、それでよく大学に入れたね。そら内部生やし。小学生の時に勉強しといてよかったわ。

オチさんとは大学の必修科目の体育で知り合った。登録者が5人の特別養護クラスである。授業はビリヤード、ダーツ、輪投げなどからその日の自分にできるものをやる。私はダーツにはまった。武術に似て、心技体のコントロールがおもしろい。オチさんはビデオゲームをやりたいですとよく教師に掛け合っていた。瞬発力や動体視力を競う種目など、どう考えてもオチさんには過酷すぎるのに。

ドライブの日は海まで行って、鳥など眺めつつ、なんのへんてつもない砂浜を歩いた。

「わ」
「どないしたん」
「足跡がついてきてる」
「ほんまや。これ、空からみたら、ものすごく怪しい砂絵にみえるんちゃう。呪い的な」
「そうだ、この辺に大きなドアを描いておこう。そしたら足跡が迷子にならないし、空からみても怪しくなくなるよ」
「よし」

砂にめりこみ、オチさんの足がうまく上がらない。オチさんの体力にあわせて、私たちはゆっくりと砂の上に線を引く。
私にとっての砂絵の魅力は、その正面性という性格にある。つまり、易しく言うと、平べったいところがいいのである。(…)ドアーが平べったいことは私を感動させる。そして私にとって、ドアーは、ほとんどひとつの象徴性をもっている。それは、その平べったさによって、ひとつにはその向う側にある「奥行き」を暗示しているからでもある。正面性の強い美術作品に私が感動するのは、多分こういうことだと思う。(金関寿夫『ナヴァホの砂絵―詩的アメリカ』小沢書店)
雲の流れがはやい。なぜあんなにはやいのだろう。空と人との正面性について。そういえば、病院のベッドの上で眺めていた天井にはたしかな奥行きがあった。髪が顔にはりつくみたいに、風と波とが両耳をおおう。聞こえない音。その存在を肌で知る音。私はサンド・ペインティングよりも、波と風と砂とが奏でるサウンド・ペインティングの方がずっと好きだった。




2019年6月21日金曜日

●金曜日の川柳〔永田帆船〕樋口由紀子



樋口由紀子






この辺で妥協する気の角砂糖

永田帆船 (ながた・はんせん) 1914~1996

いや、妥協する気なのは角砂糖ではなく作者だろう。夫婦喧嘩でもしたのだろうか。気まずい空気が流れている。どうにかしなくては思いながらも、こちらからあやまるのも癪にさわる。が、この硬直状態が続いているのもかなりしんどい。意地を張り合うのもだんだんと疲れる年齢になってきた。一人で飲む珈琲は美味しくない。なによりもつまらない。角砂糖のように甘く、大人になって、こちらから折れてやろうか。「珈琲が入ったよ。お茶にしよう」と。

実生活に基づいて、あれこれ勝手に想像してみた。温かいものを入れるとまっしろな角砂糖の尖っているところから徐々に溶け出すさまが思い浮かんだ。もう逆らっても無駄である。なるようにしかならない。角砂糖は本当に素直である。見習わなければならない。そういえば、長いこと、角砂糖は使っていない。あれを二つ入れて珈琲を飲んでいたときもあった。糖分の取りすぎだ。まだ、売っているのだろうか。久しぶりに角砂糖を買ってみたくなった。

2019年6月19日水曜日

●ジャズ

ジャズ

みつ豆はジャズのごとくに美しき  國弘賢治

夜汽車暑く発ちゆくジャズが追ひかける  中島斌雄

蛇泳ぐジャズより黒く快く  中村尭子

ジャズの中咳を落してわが過ぎぬ  石田波郷

ジャズが湧く蔦ことごとく枯れ尽くし  高野ムツオ

2019年6月17日月曜日

●月曜日の一句〔中原道夫〕相子智恵



相子智恵







 アンディ・ウォーホル
スープ罐ずらりどれ乞ふ夏の卓  中原道夫

句集『彷徨 UROTSUKU』(ふらんす堂 2019.2)所収

海外詠のみを収めた第13句集より、ニューヨーク近代美術館(MOMA)での作である。アンディ・ウォーホルのポップ・アート『32個のキャンベルのスープ缶』。掲句は〈ずらりどれ乞ふ〉というさらりとした詠み方でこのスープ缶の世界に飄々と入り込んだ。

大量生産された既製品というのは、消費者は「どれを選ぶか」しかなくて、ある意味で主体性は損なわれているのだけれど、まさにそそれを描いた作品に対して、「それなら大いに迷って選ぶことにしましょう。迷うことも楽しいのだから」と、〈ずらりどれ乞ふ〉でひょいと受け取って、涼しい句を付けた。

〈乞ふ夏の卓〉だから自分がスープを温めることすらせず、〈夏の卓〉で選んだスープを頼んで、ウキウキと待つだけの「圧倒的な消費者」を演じている。その諧謔が涼しくてドライで、この絵画と響き合う俳句だと思った。〈夏の卓〉も、これが他の季節ならこんなポップな感じは出せないだろう。

俳諧も、大衆的な言葉遊びから始まったものであり、ポップ・アートとは時代も国も超えて、響き合うところは案外大きいのかもしれない。

2019年6月15日土曜日

●土曜日の読書〔薫る庭、深い皺〕小津夜景




小津夜景







薫る庭、深い皺

休息のために立ち寄ったブルーボトルコーヒーのテラス。アイスコーヒーとカフェラテを飲みながら、もうすこし散歩しようと話しあう。

大横川に出る。葉桜をくぐり、運河に沿って、石島橋をわたり、黒船橋をわたり、越中島橋をわたる。アスファルトの道路とはちがう、心地よい風が吹き抜ける。そして誰ともすれ違わない。なんだか自分の家の庭みたいだ。

「そういえば」
「うん」
「人間には誰しも、自分が野垂れ死ぬんじゃないかといった不安があるでしょう? 私もそうなのですけれど、あるとき野垂れ死にの恐怖というのは孤独や不幸の問題であって、路上それ自体とは無関係だってことに気づいたの」
「ほう」
「つまり、北国生まれのせいで、路上を屋内よりも悪いものだとずっと誤解してたんです。今は暖かいところに住んでいるから、死ぬときは外がいいって思う。仏陀みたいに」
「なるほど。実は僕も外で死にたいんだ。僕にとって一番幸福な死に方は、川沿いを自転車で走っている最中に心臓麻痺でころっと逝くことでね」
「へえ。いいですね」
「いいでしょ」

ベンチがあった。少し休む。その人は、鞄の中をさぐって煙草をとり出すと火をつけた。

緑にうずもれた庭。そのあわいを縫って、香りが呼吸する。
それは時に、なにげなく、空間の息ぬきとして、いたるところに姿を見せる。逆に言えば、私たちは、どんなところにも庭をつくらずにはいられないようだ(…)私が庭が大好きなのは、そこに仕掛けられた遊びの空間が、まなざしをはじめとする身体空間を楽しいいたずらでおどろかすからである。(海野弘『都市の庭、森の庭』新潮選書)
煙草の煙はしばらくのあいだ緑の底に籠もっていた。知らない花が揺れている。なんでしょうこれは。なんだろうね。まだもうすこし歩こうか。そう言って、煙草をしまい、指先をぬぐうその人のうつむく眉間には、初夏の緑の濃さに似つかわしい深い皺があった。


2019年6月14日金曜日

●金曜日の川柳〔北村幸子〕樋口由紀子



樋口由紀子






風がはじまる理容はらだのお顔剃り

北村幸子 (きたむら・さちこ) 1958~

五月に神戸新聞の企画「川柳詠みだおれ」で姫路吟行があった。そのときに作られた一句である。駅前の商店街(みゆき通り)を歩いていると一軒の理容院があった。扉は開かれていて、中までよく見えた。なによりも店名の「理容はらだ」が気になった。私も「理容はらだ」という言葉で一句をものにしたいと思ったがうまくできなかった。掲句は「理容はらだ」を引き金にして、「風がはじまる」と「お顔剃り」の独自のアナロジーを見つけ出している。顔を剃ってもらうとまさしく風がはじまる。

姫路の商店街に単独の帽子屋レコード屋呉服屋の多いことに驚かれた。いままでそんなことは思ってもいなかったが、言われてみれば確かにそうである。こんなつまらないことにこんなに興味を持つ、川柳吟行のおもしろさである。〈帽子屋の帽子に歌を教えます〉〈エレキギターどこにも行けぬ兄がいる〉〈ヒツジヤのハギレ正しい終わり方〉〈ビクターの犬より深い海を聴く〉

2019年6月13日木曜日

●木曜日の談林〔岡田悦春〕浅沼璞



浅沼璞








 鵜のまねしたる烏むれゐる   悦春(前句)
ばつとひろげ森の木陰の扇の手  同(付句)
『大坂独吟集』下巻(延宝三年・1675)

前句――「鵜の真似をする烏は水に溺れる」という俚諺のサンプリング。

黒い羽は同じでも、潜水が得意な鵜の真似を安易にすると、烏のように失敗する。

そんな烏合の衆を詠んでいる。



付句――いっせいに飛び立つ尾羽を舞踊の「扇の手」に見立てている。

水辺から陸地へのけざやかなモンタージュ。

(烏と森は付合用語。)



〔作者の悦春(えつしゅん)は岡田氏。商人と思われるベテラン俳人。〕

2019年6月9日日曜日

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2019年6月7日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕樋口由紀子



樋口由紀子






世界からサランラップが剥がせない

川合大祐 (かわい・だいすけ) 1974~

透明で薄くて、すぐにでも剥せそうなサランラップは一見はかなさそうに見えるが、電子レンジにも対応できるほど手強く、強靭さを持っている。サランラップは冷凍冷蔵庫や電子レンジで日常生活に欠かせないものだが、もともとは食品用に開発されたものではなく、戦場などで銃弾や火薬などを湿気から守るために開発されたものであり、その生まれからしてもなにやらいわくありげである。

世界と自分を遮断するものがある。薄っぺらで向こうははっきりと見えるものを境にして、そのたった一枚があるだけで世界に接触しようとしても直に触れられず、思いのままにならず、加わることもできない。世界とは何なのか。近づけない、近づかせない、よそよそしくて、不気味なものが世界なのだろうか。世界に対してのもどかしさやどうしようもなさを感じる。そこに立つしかなく、そのように世界を見ている自分を内省的に観察している。『スロー・リバー』(2016年刊 あざみエージェント)所収。