ラベル 土曜日の読書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 土曜日の読書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年1月11日土曜日

●土曜日の読書〔抽象の下地〕小津夜景



小津夜景








抽象の下地

あなたは美術作品を見るとき、感動を理屈で説明したくなりますか?

わたしはいつも「すごーい」か「かわいい」ですんでしまう。わざわざ感動に理屈をかぶせる必要はないし、そもそも「すごい」という言葉で言い足りなさを感じたことがない。

とはいえ義理のある相手に求められれば、ある作品のおもしろさを、あえて理屈で説明することもある。わたしにとって義理のある相手といえばまずもって夫だが、この人はわりとむずかしい、わたしがじぶんの頭でかんがえたことのないような質問をたまにする。ヴァンスという村へバスで出かけ、マティスの最高傑作といわれるロザリオ礼拝堂を見学したときも、礼拝堂に入ってしばらくすると、

「この部屋って、なんか隠された意図とかあるの?」

とたずねてきた。ぜったいにそう来るだろうなと確信していたわたしは、アパートを出る前に目を通しておいた岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』のマティス論をぺろっとそのまま夫に喋った。

「かくかくしかじか、ということなの」
「へえ」
「でもね、いつも言うけど、いまわたしが喋ったことは話半分に聞いてね。とくに岡崎さんの書くものは知的興奮度が高い分、読者の頭を盲従的に、薄っぺらくしちゃう力も強い」
「うん。わかるよ」

で、いきなり話はとんで、今年の読み初めは、そんな岡崎乾二郎の「抽象の力──現実(concrete) 展開する、抽象芸術の系譜」(豊田市美術館)だった。これはキュビスム以降の芸術の展開を追いつつ、近代日本美術における抽象の起源と条件を同時にかんがえてゆく論考なのだけれど、おもしろいのは抽象の表現の下地にフレーベル、モンテッソーリ、シュタイナーといった近代教育家たちの考案した教育遊戯を置くところである。たとえば1876年にはすでに日本に導入されていたフレーベルの教育メソッドが、ロマン主義から象徴主義への思潮を汲みつつ到達した《生の合一思想》《球体法則》という一種の神秘思想の上に構築されていたことを解説する下り。
フレーベルの《恩物》の意義は、個々の積み木が静止しているときに現れている幾何形態そのものにあるわけではない。これを操作し、たとえば回転させるときに、まったく別の幾何的な秩序が出現することにこそある。その出現も理解もこの事物と身体行為の交流によってのみ可能になる。こどもたち、あるいは指導者は事物に代わって歌う。「ぐるぐるまわる、うれしいな/ぐるっと向きをかえて うれしいな/赤ちゃん あなたもうれしいな(《恩物》2の歌『フレーベル全集』玉川大学出版部 1989年)」(岡崎乾二郎「抽象の力──現実(concrete) 展開する、抽象芸術の系譜」)
こうした世界把握の訓練方法を近代の抽象美術論につなげることで、著者は抽象の意味を視覚表現や静止表現に限定されないようにうまく工夫する。

で、その結果、すごく風通しがいい。

わたしは個人的に、影絵、風車、花火、噴水、あやとり、シャボン玉などモビール(動く彫刻)的要素のあるかたちに美しさや、かけがえのなさや、原初的な知的興奮を感じるたちなので、書かれていることがたいへん肌に合った。あ、あともういっこ、ゾフィー・トイベル=アルプのかわいい作品がいっぱい引用されているのもうれしかったな。


2019年12月28日土曜日

●土曜日の読書〔紙ヒコーキに乗る〕小津夜景



小津夜景








紙ヒコーキに乗る

友人の伴侶が紙ヒコーキにはまっている。

空力デザインを理詰めでかんがえながら、紙ヒコーキを手ずから折りあげ、家の外でとばす。ただそれだけのシンプルな遊びだ。

で、ある日、ホームメイドの紙ヒコーキをたずさえて埼玉の空き地に出かけ、夫婦でのんびり過ごしていたら、見たことのない男性が、

「まだまだシロートですね」

とかなんとか言いつつ近づいてきた。そして、わたしはさる紙ヒコーキの会に所属している者ですと名乗り、紙ヒコーキについて講釈を垂れたあと、なんと友人夫婦を紙ヒコーキ愛好家たちの会合に招待してくれたのだそうだ。後日、友人夫婦が案内された室内には、いつまでも空中を旋回しつづける神秘的な紙ヒコーキが実在したとのことだった。

「すごかったよ。紙ヒコーキが室内を、勝手にくるくる回ってるの。」と友人。
「そんなことあるの」とわたし。
「ふふ。これがあるんだねえ」

そんな狐につままれたような話を聞いたのはこの春のこと。さいきんふと思い出してネット検索したら、発泡スチロールペーパーでつくった紙ヒコーキは、無風の室内でゆっくりふわふわととぶ、との記述を科学方面のサイトに見つけた。とばすときは、けっして投げてはいけない。そうではなく、前方にしずかに押し出すようにして、空気の層の上に乗せるよう意識するのである。さらに、とんでいるヒコーキのうしろの空気をダンボールなどの板でかすかに押してやると、ヒコーキが上昇気流に乗っていつまでも宙に浮きつづけることもわかった。

映像作家にして民俗学者のハリー・スミスはとらえどころのないものを集めるコレクターでもあった。そんなハリーに、収集物を写真で紹介した『紙ヒコーキ/ハリースミスコレクション vol1』(J&L Books)という本がある。この本に登場する251機の紙ヒコーキはニューヨークの街路や建物でスミス自身が拾ったもので、機体にはいつどこで手に入れたのか記されている。ページをめくると、メニューだったり、政治ビラだったり、聖書だったり、マニラ封筒だったり、段ボールの端だったり、ルーズリーフだったりと、いろんな素材で作られた、ゴミから生還した紙ヒコーキが愉しめる。素材だけでなく、色も造形も、紙に書かれた文字も、なにもかもが生き生きとしておもしろい。

スミスの友人たちの話によると、スミスは新しい紙ヒコーキを、つねに、つねに、つねに探していた。友人の一人は、一度タクシーの中からそれを見つけたときの彼の興奮具合は尋常ではなかったと証言している。スミスは一瞬ですっかり心ここに在らずとなり、その一機を追って街中を探し回ったそうだ。

非常に興味深いのは、スミスがなぜここまで紙ヒコーキを探していたのか、友人たちの誰にもさいごまでわからなかったことである。スミスはなにも語らなかったのだ。とはいえささやかなヒントはある。たとえばこの本の冒頭には、こんな一文が存在する。
まあ、当然のことながら、私の真の使命は人類学であると私は考えています。……しかし、それは単なる娯楽であり、私の真の使命は死の準備です。その日、私はベッドに横になり、私の人生が私の目の前から去りゆくのを見るでしょう。
なるほど。たしかに拾った紙ヒコーキには、人間が触覚的存在としてよみがえる不気味さがあり、またその造形に製作者たちの幼少期の遺物を確認することができるという意味で、人類学や死につうじているーーというのは穿ちすぎで、もしかするとスミスはなにもかんがえず、ただ紙ヒコーキを集めながら、きたるべきその日、死者としていかに空気の上にうまく乗るか、そのエレガントな手順を、さまざまな遺物から考察していただけかもしれない。


2019年12月14日土曜日

●土曜日の読書〔自由をたずさえる〕小津夜景



小津夜景








自由をたずさえる

漢詩の翻訳にまつわることでひとつ興味深いのが、文人による翻訳でしばしば定型が好まれてきた現象だ。

彼らの翻訳は、音数を合わせるために、大筋をまねて細かい点をつくりかえた翻案であることが多い。この手法は、原詩との戯れの中にはっとするような駆け引きがあったりして、見ていてなかなか面白い。

ただ漢詩をわざわざ定型詩として翻訳するというのは、少し考えてみると奇妙である。というのも松浦友久が述べているように、漢詩は定型詩ではなく、明治になるまで日本で唯一の自由詩だったからだ。

歴史上、日本人が漢詩というとき、いつでもそれは「訓読漢詩」を意味してきた。つまり漢詩は、視覚的・観念的には定型でも、聴覚的・実際的には音数律に縛られないフリースタイルとして人々に受け入れられ、和歌や俳諧ではあらわすことのできない種類のリズムとして愛されてきたのである。

たとえば、日本での李賀の人気は、明らかに型破りの、自由詩的なパッションへの渇望に由来している。また日本でもっとも漢文が盛んだった時期は江戸末期から明治にかけてなのだけれど、頼山陽や夏目漱石みたいな人たちの漢詩のできばえも、たんに彼らの教養や文才にからめるのではなく、近代の夜明けの雰囲気や彼らの思索や情熱が、より自由自在な詩的音律を欲していたと思い描くと、視界がちがってくるかもしれない。

自由への渇望とともに、漢詩をたずさえること。ここで思い出すのが1970年代初め、李賀の詩集をバックパックにつめこんで日本を旅立ち、ユーラシア大陸を横断した沢木耕太郎の『深夜特急』だ。この本の終盤、ギリシアからイタリアまでを船で渡るくだりがある。蓄積された疲労の中で次第に何も感じなった「僕」は、長い旅の終わりを肌で感じながら、旅することの意味を自問自答しつづける。そして辿りついた大いなる空虚の中で、甲板から紺碧の地中海に黄金色の酒をそそぎ、一言、このように綴る。
飛光よ、飛光よ、汝に一杯の酒をすすめん。その時、僕もまた、過ぎ去っていく刻へ一杯の酒をすすめようとしていたのかもしれません。(沢木耕太郎『深夜特急5 トルコ・ギリシャ・地中海』新潮文庫)
李賀「苦昼短」の一節「飛光飛光 勧爾一杯酒」がここにある。で、もしも「苦昼短」をまるまる翻訳するとして、この力強いフレーズをわざわざ定型に押し込めるかと考えてみると、うーん、たぶん無理だ。論理と律動性においては漢文訓読体の遺産を継承しつつも、文体面においては定型を断ち切る自由な言葉を与えることの方が、わたしには面白そうである。





2019年12月7日土曜日

●土曜日の読書〔番外編・インスタント翻訳法〕小津夜景



小津夜景








番外編・インスタント翻訳法

漢詩が海外文学であることに気づいていない人は、思いのほか多い。

そんなに日本人の血肉と漢詩は分かちがたいのだろうか。

そもそも漢文の訓読は古代から存在する習慣で、はじめは翻訳ではなくあくまで読解のいとなみだった。それが返り点などの補助記号が考案され、読み下し方が流派ごとに固まって、しだいに漢文訓読体とよばれる文体として定着してゆくのである。

読解が文体の域に達したとき、いったい何が起こったかというと、まるで書き下し文がそのまま翻訳であるかのような空気ができあがった。とはいえ書き下しただけで意味が正確に理解できる漢詩はまずないから、漢詩の本をひらくと、書き下し文の横にさらに訳がついている。で、この訳というのがまた、ほかの外国詩とはまったく毛色の異なるふつうの説明文で、味わいも何もないのはマシなほう、たまに食べられないくらいまずかったりもする。漢詩が好きで、みんなに勧めたいわたしとしてはそれがとても悲しいのだけれど、今でも漢詩には書き下した時点で翻訳が終わったという了解があって、そんな風になっている。

だが今は悲しみを忘れて漢文訓読の話をつづけよう。というのも、このシステムそのものはかなりおもしろい発明だからだ。たとえば川本皓嗣は、漢文訓読にまつわる一連の流れを即席翻訳法、今でいう機械翻訳システムの開発だったと述べている。このインスタント翻訳法があったせいで日本人は、中国語で音読せず、さりとて日本語にも翻訳せず、といった独特の距離感で漢文とつきあってきたのだ、と。

即席翻訳法はインスタントだけあって、原文の漢字をそのままフルに活用するといった効率性が売りだ。ふつうは翻訳しろと言われたら、「これ、日本語にどうやって置きかえたらいいのかな」と頭を悩ませないといけないが、漢文訓読ではそんなことは気にせず、目の前にある漢字をシンプルに並べかえればよい。さらにこの翻訳法は文法解析能力についても超一流で、並べかえの順番はしっかりマニュアル化されている。

文法解析に強い一方、日本語への変換機能は搭載されていない。ここが大きな欠点だ。わかりやすい例をあげると、中国語と日本語で意味のちがう漢字というのがある。「湯」が中国では「スープ」という意味だったり、「鮎」が「ナマズ」だったり、という風に。ところが漢文訓読ではこんなかんたんな言葉の置きかえさえしないから、せっかくきれいに書き下しても、肝心の意味がさっぱり見えてこない。漢語がむずかしいとか、そういうのじゃなくて、たんに機械翻訳すぎて日本語として意味不明なのだ。

じゃあどうして日本人は、わけのわからない書き下し文を読んで快楽をおぼえることがあるのか。これは漢文訓読体が堂々として美しいという音楽的理由の他に、古代の中央文明に身をゆだねる安心感もあるだろう。あと漢文で書かれた原典はいわば聖典であり、知識人たちにとっては秘語だった方が権威に酔えるし、一般人にとってはふわっと感覚できればそれでじゅうぶんありがたかったという事情も絡んでいそうだ。お経なんて漢文の比じゃなく、ほんとひとつもわからないものね。

2019年11月30日土曜日

●土曜日の読書〔砂糖菓子と石〕小津夜景



小津夜景








砂糖菓子と石

先日、はじめてニースに来たというパリジャンの前でトレーズ・デセールの話をしたら、それほんとにフランスの習慣なの、聞いたことないんだけど、と怪訝な顔をされた。そうだよ、パリだけがフランスじゃないんだよ。ささやかなお国根性を胸のうちに認めつつ、わたしはそう返答した。

トレーズ・デセールは十三のデザートという意味で、クリスマス・イヴの晩ごはんのあとに食べるプロヴァンス地方の伝統食である。かならず用意するのはポンプ・ア・リュイル、白ヌガー、黒ヌガー、干しいちじく、干しぶどう、アーモンド、クルミまたはヘーゼルナッツの七品で、あとは花梨の羊羹、くだものや花の砂糖漬け、干しなつめやしの練りアーモンド入り、みかん、メロン、地元の銘菓などをみつくろって、とにかく十三品を食卓にならべるのだ。

ポンプ・ア・リュイルはバターのかわりにオリーブオイルを練りこんで焼き、粉砂糖をまぶした平べったいパンで、オレンジの花の蒸留水で香りづけがしてある。食べるときはレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」よろしく手でちぎり(パンはキリストの身体ゆえ、ナイフで切るのはご法度らしい)、煮つめたワインにひたす。ヌガーはメレンゲに砂糖、ナッツ、ドライフルーツを混ぜて固めた南仏の郷土菓子だけれど、砂糖菓子を語るならば、わたしはくだものや花の砂糖漬けのほうがずっと食べたい。

よし。クリスマス・イヴのまえに砂糖漬けをもういちど復習しておこう。わたしはそう決めて、今日港に用事があったついでに、そこからすぐのところにある砂糖菓子のアトリエに立ち寄った。このアトリエは、昔ながらの製法でつくるところを目の前で実演してくれるのだ。

胃袋は四次元ではない。この誰しもが知るべき法則と照らし合わせつつ、物腰やわらかに相手をしてくれる店員の横で、わたしは今年のトレーズ・デセールになにを食べるべきかを吟味してゆく。店員は、美しい宝石のような、はたまた妖しい奇岩のような、色とりどりの砂糖菓子をじゅんばんに説明する。

「こちらはすみれの砂糖漬けです。砂糖の結晶が、アメジストの原石をイメージさせます」

なるほど。眺めるだけで心が安らぎ、浄化され、神聖な気持ちがやしなわれる点は、たしかに原石と向かい合っているときと変わらない。まったくなんという徳を有しているのだろう砂糖漬とは。

「で、こちらは砂糖をまぶしたベルガモットの飴」
「わあ。付け爪みたい」
「シュガーネイル、あとシュガーストーンもこんな感じですよね」

シュガーネイルにもシュガーストーンにも縁はないけれど、わたしは店員の説明に深くうなずく。爪の原石といえば、江戸時代中期の奇石蒐集家で、日本考古学の先駆者の一人ともされる木内石亭が、なんだろうと首をかしげた天狗の爪というしろものがある。
弄石ブームに乗じてへんな石商人も横行していたが、石そのものにもへんなものがあった。一例が天狗の爪石。石亭七十三歳のとき、この石について「天狗爪石奇談」という考証を著している。「いかなる物か不詳。故人も考索せざる異物なり」とあって、正体がよく分からない。大きさは米粒大から三、四分ばかり、なかには三、四寸のものまである。青白色に光り輝いている。海浜の砂のなかや古い船板の間などにみつかる。屋敷などに天狗の乱入した後に残されるともいう。産地は能登、越後などに多い。(種村季弘『不思議な石の話』河出書房新社)
これ、いったいなにかわかりますか。答えはサメの歯の化石です。浅い海の地層から出土し、もっとも巨大なカルカロドン・メガロドンになると歯もすごくて、ティラノザウルスの倍の噛む力があった。平泉の中尊寺や藤沢の遊行寺ではこの化石が天狗の爪として寺宝となっているらしいのだけれど、この石を拝むといったいどんなよいことがあるのかは知らない。




2019年11月23日土曜日

●土曜日の読書〔なつかしい土地〕小津夜景



小津夜景








なつかしい土地

試着室の前に立ち、オリーヴ色の帆布のカーテンをじっと見つめていると、イリナが内側からカーテンをいきおいよくあけて、わたし、ロシアに帰ることにしたの、と言った。

片手でカーテンをつかみ、両脚をクロスさせて、革製のワンピースでポーズをとる目の前の女性が、わたしに相談もなくロシアに帰るとはとうてい思われない。だってわたしたち、とても仲がよいのだから。だがイリナはもういちど「帰ることにした」と言い、硝子の粉をかぶったのかと疑うくらい透きとおる顔色でこちらを見つめている。それでわたしにも、あ、これは本当に帰るな、とわかった。

ワンピースの入った紙袋をさげ、イリナの部屋へゆく。小さなバルコンに出て、ロシア人の密集地域ってどっちにあるんだっけとたずねる。イリナは、あっちのほう、と指にはさんだ煙草で指し示してくれる。

「そこ行ってみたいな」
「止したほうがいいよ。排他的だから」
「へえ」
「もう少しなんとかなってほしいんだけど。どの国の人も、国籍で固まって住むとかえって難しい状況になるわ」
「ん。どうだろうねえ」
「ねえ、この国で死ねる?」

突然、イリナがわたしにたずねた。わたしは地球で死ねるのだったらどこでもいい、この星全体がわたしのなつかしい土地なのと答えた。するとイリナは、わかる、わかるよ、わかるけど、でもやっぱりここで死ぬのがわたしは怖いの、ロシアに帰ったって故郷もなければ家族もいないのにふしぎだねと呟いて、バルコンの棚にのせた植木鉢の根方に煙草の吸殻を落とそうとした。急に指先の灰がまくなぎのようにぱっと舞い上がった。そしてふいをつかれたわたしの胸元でつかのま風に撓んでみせたかと思うと、細い棒をはいあがる花蔓を避けてふわりと地面に散った。その無表情な灰の散華は、在るべき場所を追われ、ゆくあてを見つけられないとまどいの中でにわかに生き絶えたもののようだった。
故郷はまさに環世界の問題である。なぜなら、それはあくまでも主観的な産物であって、その存在についてはその環境をひじょうに厳密に知っていてもほとんどなんの根拠も示せないからである。問題は、どんな動物が故郷をもち、どんな動物がもたないかである。シャンデリアのまわりのきまった空間部分を行ったり来たりかすめ飛ぶイエバエは、だからといって故郷をもっているわけではない。これとは反対に、クモは巣をつくり、たえずそこで生活する。この巣はクモの家であるとともに故郷である。(ユクスキュル、クリザード『生物から見た世界』岩波文庫)
ヒトは故郷をもつ動物だ。わたしもヒトである以上、イエバエ同様シャンデリアのまわりを死ぬまで飛びつづけるのは、うーん、ちょっといやだ。けれども、この地球全体がわたしのなつかしい土地であると信じ、故郷の概念を押し広げさえすれば、いつか来るべき悲しみは存在しない。だから、とりあえず、そう信じることにしている。


2019年11月9日土曜日

●土曜日の読書〔町中に風呂が〕小津夜景



小津夜景








町中に風呂が


フランス人の生活習慣は、自分の知るかぎり地方ごとにずいぶん違うから、いまだに何がふつうなのかよくわからない。彼等自身が共有するセルフ・イメージというものが存在するのかどうかすら謎である。つい先日は、ふと思いついて、

「どうしてフランス人は泡風呂に入るの?」

と知人にたずねた。無論これは全く根拠のない質問であり、あくまでもイメージ上のフランス人の話である。だが知人は間髪入れずにこう答えた。

「だって泡がないと、お湯冷めるじゃん」

なんとあの泡にはそんな意味があったのか。雰囲気を大切にしているのかと思ったら。わたしが本気でおどろくと、いままでそんなことも知らずに生きていたのか、と知人はもっとびっくりしたようだった。

ところで、フランス人が風呂に入らなくなったのはペストの流行がきっかけで、公衆浴場の衛生観念が危ぶまれたからなのだそうだ。だから時代をさかのぼると、たとえば13世紀のパリでは入浴は高く評価される習慣だった。風呂屋もすでに商売として親しまれており、蒸気風呂屋、入浴施設、共同浴場、入浴場などが同業者組合をつくっていた。パリ市の発行する営業規則書もあり、料金はどこも均一、違反すると罰金を払う。面白いのは、朝になると「お湯が湧きましたよ」と街中に触れ回るお知らせ係が存在したことだ。
夜が明けると、お知らせ係が、蒸気風呂が温まりましたと告げて歩く。使用人たちは、今か今かと客を待つ。パリの人びとは、身軽な装いでいそいそと出かけてゆく。体を温めるため、汗をかくため、髭や髪の手入れをしてもらうため、香料を塗ってもらうため、マッサージをしてもらうため、と目的はさまざま。目的に合わせて、ある場合は別個に、浴槽が設置されていた。浴槽の数は規模によって異なったが、どこでも共通していたのは、浸身浴のあとに休憩するための柔らかなマット、温かい毛布、冷やしたワインなどである。思わぬ棘を避けるために、今ならバスタオルに相当する薄い布を借りる場合は、サイズによって一ドゥニエか二ドゥニエが必要だった(…)建物の造りはすべて同じで、地下室に窯、一階は二手に分かれ、一方は貴族と病人用の浴槽、もう一方は下層民用の大浴槽、それに、蒸気を外に出すための穴が天井に開いた、階段状の発汗室、上階には、休憩室が用意されていた。(ドミニック・ラティ『お風呂の歴史』白水社)
おお。楽しそうじゃありませんか。この本によると、フランスの他の地域も同じ形式でお風呂文化が栄えていたらしい。ちなみに、こうした行政公認の入浴施設とは別に、健康や衛生とは関係のない娼館もパリには数多くあって、それも浴槽のある施設ゆえ「風呂屋」と呼ばれていた。目的はいろいろだが、町中に風呂があふれていたのだ。




2019年11月2日土曜日

●土曜日の読書〔風土を感じさせる人々〕小津夜景



小津夜景








風土を感じさせる人々


コート・ダジュールの男性は、道ですれちがった女性によく声をかける。

面白いのは、この公式が人種を越えてあてはまることだ。ミディ・ピレネーに住んでいたときは、人種を越えるどころかナンパ師以外にそんな男性を見たことがなかったので、たぶんコート・ダジュールには声かけの習慣がもともと根強くあり、新しい移住者は「郷に入っては郷に従え」方式でこの習慣を身につけてゆくのだ。

ところで、いったいどのくらいの頻度でどういった男性が声をかけてくるのか。そう思い、しばらくメモをとってみた。まず頻度については1時間につき平均3、4人。人種については黒髪のラテン系と中央アフリカ系が多いが、これは単純に人口比を反映していそうだ。年齢は20代から80代まで偏りがない。

声のかけ方については、ボンジュール、とまずひとこといって、こちらの出方をうかがうパターンが一番多い。が、たまに驚くような人もいる。ある日、仕事鞄をぶらさげて海辺の道を歩いていると、後方から「すみませーん! すみませーん!」と大声で叫びつつ全速力で走ってくる若者がいた。そんな状況に遭遇したら「ん。何か落としものでもしたかな」と思うのがふつうだろう。私も当然のごとく立ち止まり、追いついた若者に「なんでしょう」とたずねた。すると若者は、ちょっと息をととのえてから、

「あの、一緒にお茶しませんか」と、いった。
「は」
「いつもこの道を、にこにこしながら歩いているでしょう? ずっと声をかけようと思ってたんです」

話を聞けば聞くほど、人懐っこい、素直な若者である。思わず「私、すぐそこで働いてるの。ほら、あの建物」という台詞が喉から出かかった。が、いやいやと我に返り、「ごめんなさい。私、結婚してるから」と伝えた。若者は、

「えっ。あー。じゃあ無理ですよね。そうだったのかあ。あの、でもまたいつか声かけますから。気が向いたら、そのときはよろしく!」と、明るい表情で去っていった。

久生十蘭の滑稽小説『ノンシャラン道中記』では、タヌとコン吉が冬のパリを脱出してニースを目指す。興奮にみちた彼らの南仏の旅は、その文体どおりの珍道中である。
「ところで、こいつはたった八百法で買ったんだから、1246-800=446で、四百四十六法も経済したうえに、あたし達は、碧瑠璃海岸(コオト・ダジュウル)の春風を肩で切りながら、夢のように美しいニースの『英国散歩道(プロムナアド・デザングレ)』や、竜舌蘭(アロエス)の咲いたフェラの岬をドリヴェできるというわけなのよ。この自動車はポルト・オルレアンの古自動車市で買ったんだから、立派とか豪華(リュクス)とかっていうわけにはいかないけれど、なにしろコオト・ダジュウルのことですもの、自動車(オオト)の一つくらい持ってなくては、シュナイダアにもコティにも交際つきあうことは難しいのよ。さあ、コン吉、湯タンポをお腹んところへあてて! 車ん中であまり暴れると、踏み抜くかもしれないから用心しなくてはだめよ。いいわね、さ、出発!」(久生十蘭『ノンシャラン道中記』青空文庫)
ものの見方に滑稽小説ならではの類型化が働いているにもかかわらず、コート・ダジュールの風土を感じさせる。読んでいて、ふっと笑ってしまった。




2019年10月26日土曜日

●土曜日の読書〔文章に惚れる〕小津夜景



小津夜景








文章に惚れる


そこそこ惚れっぽい友達がいて、たまに会うと目下好きな人の話を聞かされる。

あのね、さいきんほにゃららさんのことが好きなの。むかしはそう言われるたびに、へえ、あの人のどこがいいんだろう、好みってのはいろいろだなあと感心していたのだけれど、つきあいが長くなるにつれて、ふうん、人を好きになるのにそんな角度があるんだ、とずいぶん勉強させてもらっていることに気づいた。

ひとつ当たりさわりのない例をあげると、友達は文章の上手い男性に弱い。先日も好きな人から来たというメールを見せてくれたのだが、コンマの打ち方、間合い、文量のセンスが絶妙である。なるほど、これなら現実世界でひどい男性だったとしてもしょうがないか、と思えるくらいに。

実のところ、惚れられやすい文章、というのは存在すると思う。ここでいう「惚れられやすい文章」とはあくまでも俗な意味なので、芸術的才能にあふれたものは除外して考えてほしい。本人が魅力的だったり有名だったりという場合も、どこからどこまでが文章の力なのか判断が難しいので考慮しない。仕掛けのはっきりした文章も、魔法がただの手品に堕したものとして無視しよう。そういった様々な手口なしで、文章だけで惚れられるというと、いまふっと、小沼丹の名が思い浮かんだ。
夕方近くになって、金魚のことを思い出したから、雪を踏んで小川迄行ってみると、寒い風の吹く洗い場に片腕の女の人が蹲踞んで泣いていた。片手で目を押えて、肩を震わせていたようである。足音で此方に気附いて、女の人は泣くのをやめて洗濯を始めた。傍に洗濯物の入った手桶があったから、洗濯の途中で泣いていたのだろう。
それを見たら、その女の人が可哀そうでならない。何だか此方が急に大人になって、先方が子供になったような気がした。何とか慰めてやりたい気分になっていたら、お神さんが此方を向いて、
ーー暗くなるから早くお帰り。一番星が出たよ……。
と云った。途端に此方は子供に逆戻りしたから、物足りなかった。小川には金魚もいなくなっていたから、うん、と点頭いてそのまま帰って来たが、そのとき一番星を見たかどうかは覚えていない。
(小沼丹「童謡」『埴輪の馬』講談社文芸文庫)
巧みすぎず、文章にこれといった秘密のなさそうなところが、たぶん色っぽい。いま「たぶん」と書いたのは小沼丹がわたし好みの作家ではないからなのだけれど、それでもこういう佇まいを好きな人がいることは想像がつく。

わたしもまた上手い文章というものに弱い。が、この場合の「上手さ」の定義についてはこの上なく狭量だ。するすると一本の線から生まれてきた風景のような、安西水丸のイラストっぽい文章が目の前にあったらきっと惚れるだろう。けれど、そんなシンプルかつスタイリッシュな文章にはなかなか出会わないし、残念なことに安西水丸の文章もぜんぜん安西水丸のイラストっぽくないのだった。


2019年10月19日土曜日

●土曜日の読書〔抽斗〕小津夜景



小津夜景








抽斗

いまこの部屋に、何を入れてもいい自分用の抽斗がある。

その抽斗に、ふだんはとっておきたいモノを何でも入れている。切れた豆電球。狂った目覚まし。道や海に落ちていた羽根、石、枝、シーグラス、植物のかけら。街路樹の押し葉。細切りにして鳥の巣っぽくまるめた紙。先の曲がったフォーク。計量カップの把手。点かないライター。はずした洋服のタグ。乗り物の半券。ほかいろいろ。

ある夜、抽斗をあけると、ランプの当たり方のせいか、どことなくモノたちの雰囲気がいつもと違っていた。まるで生きているかのように、ぴょんぴょん目に飛び込んでくるのだ。

これ全部、なんでここにあるんだっけ。

モノたちのようすにとまどいながら、ふとそう思った。知り合いからもらったモノについては、ここにある理由がはっきりしている。問題はそれ以外だ。自分用の抽斗は2段しかないから、すべてのモノをとっておけるわけではない。どうしても優先順位をつけねばならず、つまりわたしはふだんから究極の取捨選択と知らず知らずのうちに向き合っているはずなのだ。

だが夜も遅いので、何も考えずに寝ることにした。

あかりを消して、仰向くと闇である。耳栓をしているから音もない。眠りに落ちるまでのつかのまは、鼓動の拍を耳の骨で感じ、音ならざる音としてそれを聞いている。
我々が洞窟の入り口を眺める時(冬には鴉がそこに巣をつくり、時には何かに驚いたようにカアカア鳴きながら空へ舞い上がる)そこに見えるのは、単なる真暗闇ではない。鍾乳石や石筍を、さらには天井や壁の凹凸を心の中で光らせ、その燐光を頼りに進んで行くのである。無論、その光は日暮れのように朧気だが、我々はたしかに明るさへの途を歩んでいるのだ。我々はむしろ夜明けを思う。洞窟が与えてくれる第一の教訓は、夜など存在しないということである。(ピエール・ガスカール『箱舟』書肆山田)
時間という壮大な抽斗の中は、行き方しれずになったモノやヒトでいっぱいだ。もしかするとわたしは時間の地質学者になりたいのかなあ。ピエール・ガスカールが教えてくれた、かすかな光を伝うやり方で。あるいは完全な闇の時は、遠すぎて見えない星を想い、胸の火を焚きつけて。あいかわらず鼓動の拍は、ざり、ざり、と砂を刻むようにくりかえし、わたしはそれを聞いている。そして砂の上を、一足ずつゆっくりと辿りつつも、しだいに足をとられ、色も香りもない抽象的な時間そのものに埋もれてゆく自分の光景を夢のとばぐちから眺めていた。


2019年10月12日土曜日

●土曜日の読書〔文字の泡〕小津夜景



小津夜景








文字の泡

むかしは手紙を書くのにとても時間がかかった。まずなにを書こうかかんがえないことには書き出せなかったし、言葉づかいや文章のながれにも頭を悩ませた。それから筆跡にもこだわっていたと思う。

いまではそのような気苦労がない。頭をからっぽにしていきなり書き出し、思いつきをそのまま自由に綴ってゆく。手紙はそれでじゅうぶんだということがわかったのだ。文字の巧拙はもはやどうでもいい。というより最近はひじきみたいなじぶんの文字を面白がっている。

文字は存在である。それは書き手の分身だったり、また時に書き手のまったくあずかり知らない生き物だったりする。なにもない空間から、身をよじるようにして文字があらわれるのを、書きつつ眺めるのはたのしい。踊っていたら、身体の先っぽから知らない生き物がどんどん湧いてくるみたいなきもちだ。なにもないと思っていた空間に、こんなにたくさんの文字が眠っていたとは。眠りを破られ、ぬっと起き上がった文字のよじれは寝癖のように可愛らしく生々しい。こんな生々しいすがたを人前にさらしていいのかしら。そんな思いをよそに、起き上がった当の文字は伸びたり縮んだりしながらどこ吹く風で遊んでいる。

筆跡へのこだわりがなくなってから、かえって人の字をよく観察している。また書体というものの成り立ちにも関心が向くようになった。
「葦手」というかながきの形式は、水辺の草のなびいている感じに、行間や行の頭を不揃いに、連続体のかなで書かれたもので、手紙などが多いが、いかにも王朝の抒情的な文章をつづるのにふさわしい形式である。時代が下って勘亭流の書、また芝居の文字、その楷書とも行書ともつかぬ書体は、江戸の町方の、かたくるしくない生活感情から生まれた表情を持っている。あきまを少なく太く埋めるような書き方にはユーモアもある。(篠田桃紅『墨いろ』PHP研究所)
篠田桃紅の文字は、生活ではない、もっと純粋で透き通った場所にあるけれど、そんな彼女が彼女自身とは別の、生活の中で使われた文字の意匠心をよろこんでいる。生活の息づかいのある意匠かあ。それならわたしの文字は、あっちへうかんだり、こっちにしずんだり、行先のない文章をつづるのにふさわしい、泡のような意匠を奏でてほしい。またそんな文字が、わたしの言葉をもっとゆるやかな場所へ連れていってくれたら、とてもうれしい。


2019年10月5日土曜日

●土曜日の読書〔読書、ある〈貧しさ〉との戦い〕小津夜景



小津夜景








読書、ある〈貧しさ〉との戦い

この「土曜日の読書」は週刊俳句からの依頼ではなく、わたしがやらせてほしいとお願いしてはじめた連載である。はじめた理由は読書がしたかったから。わたしは本が嫌いで、なんの強制もなく読書することができない。それで強制の機会をつくってみたのだ。

それはそうと、どうして本が嫌いなのか。それは、たぶん、読みたいのに読めない期間が長すぎたからだと思う。つまり俗にいう卑屈である。罪のない本に八つ当たりしているわけだ。実家にいたころも、結婚してからも、わたしが読書すると周囲は嫌がった。病弱だったからだ。本当に誰ひとりいい顔をしない。暴力的な手段で禁じられ、監視されていたこともある。世話する方は地獄だったことだろう。が、世話される方もまた地獄だった。

けれどもわたしは本が読みたかった。誰にも気づかれないように事に及ぶ方法はないものか。そう作戦を練りつづけて、おのずと辿りついたのが詩歌の世界である。詩歌であれば、ほんのちょっとした隙に、数行をぱっと盗み読むことができる。またしずかに眠っているふりをして、盗みおぼえた作品を心の中で確認し直すこともできるだろう。そんなジャンルが他にあるだろうか。

わたしが詩歌にのめりこんでいったのは、こうしたやむにやまれぬいきさつだった。フランスに来てからは、10年以上一冊も新しい本を読まなかったのだけれど(これはお金がなかったのも大きいけれど)、そのあいだもずっと空を見ているふりをしながら、頭の中にあるなけなしの詩歌を、真剣に反芻していた。ただのひとつも忘れないように。

で、いまの話に戻って、ここ数年はぴんぴんしている上に、この連載のおかげで毎週かならず本にさわっている。こんな生活は30年ぶりである。30年前は親元を離れて入院していた施設に立派な図書室があったので、誰からも干渉されず本だけは読むことができたのだ。

とはいえ我慢に我慢を重ねてきた時間が長すぎて、読書に対する天真爛漫なよろこびというのはいまもってわからない。わたしにとっての読書とは、さまざまな〈貧しさ〉との戦いの記憶とあまりにも分かちがたく結びついてしまっている。

本当は大好きと言えるはずだったのに、そしていまでもきっとそうなれるはずなのに、いざ頁をひらくとかつての怒りと悲しみがこみあげて、涙が頬をつたう読書というもの。そんな大嫌いな読書が、わたしに対してつかのま優しくなるのは、たとえばこんなささやきを思い出すときだ。

「書物」

この世のどんな書物も
きみに幸せをもたらしてはくれない。
だが それはきみにひそかに
きみ自身に立ち返ることを教えてくれる。

そこには きみが必要とするすべてがある。
太陽も 星も 月も。
なぜなら きみが尋ねた光は
きみ自身の中に宿っているのだから。

きみがずっと探し求めた叡智は
いろいろな書物の中に
今 どの頁からも輝いている。
なぜなら今 それはきみのものだから。
(ヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』草思社文庫)


2019年9月28日土曜日

●土曜日の読書〔タヌキとササキさん〕小津夜景



小津夜景








タヌキとササキさん

ササキさんはメーキャップアーティストから占い師まで60以上の職業を転々としたあと、いったいどういう伝手なのか某所の庭園を管理する財団法人の役付きに収まった、いかさま師っぽい人である。いつも同じ茶色のチョッキと灰色のズボンを身につけ、仕事を休むのはお正月だけ、あとはずっと庭をうろついているという生活で、もしいま生きていたら80歳を超えている。

「私がササキです。これから簡単な採用試験をします。第一問。はるのその、くれないにおう、もものはな。はい、このあとにはどんな言葉が続くでしょう?」
「したでるみちに、いでたつおとめ。……この職場にぴったりな試験内容ですね」
「いや、こんな質問をしたのはあんたが初めてだよ。僕は自分の勘を試すために、相手がかならず答えられる質問をしようと決めているんだ」

これが履歴書持参で面接にゆき、ササキさんとはじめて交わした会話である。このときから変な匂いはしてはいたけれど、働きだしてからもやはりササキさんは変な人で、なにより女性陣に気味悪がられていたのが、夏になると毎日セミのぬけがらをスーパーのレジ袋いっぱいに集めることだった。私も気になったので、ある日ササキさんと二人きりになったとき、なんのために毎日セミのぬけがらを集めているのですか、とたずねてみた。するとササキさんは、なに、タヌキのごはんさ、タヌキはセミのぬけがらがご馳走なんだと笑い、いきなり目を丸くして、そうだ、あんたをこの重要任務補佐にしよう、と言った。

次の日から、セミのぬけがらを竹箒でかきあつめてはレジ袋につめ、ササキさんに献上するという重要任務が始まった。ササキさんは庭の一角にある旧宮邸の前庭にタヌキたちがあそびにくると、セミのぬけがらを彼らの足元に撒き、また手ずから食べさせた。な。かわいいだろ。女性陣に唾棄されながらもセミのぬけがらを抱え、地面にしゃがんでタヌキをかわいがるササキさんとの時間が私は少しも嫌いじゃなかった。

とろこで森銑三の本に、江戸新橋に住んでいた占い師・成田狸庵(りあん)の逸話がある。狸庵はタヌキと遊ぶのが何より好きで、タヌキとの時間をつくるために20代で武士を辞めて新橋の易者になった。タヌキの看板を出し、夏はタヌキ柄の浴衣を着て、冬のタヌキの皮衣をはおり、床の間にタヌキの掛物をかけ、タヌキを膝元にはべらせてタヌキの今様を歌い、タヌキの百態を自在に描いては惜しげもなく人に与え、『狸説』という書物をものし、タヌキの出てくる夢日記をつけ、75年にわたる夢のような生涯を終えた。で、この狸庵が、タヌキの好物はダボハゼであると書いている。
狸庵の家の狸も、その後年が立つにつれて、また新しいのが加わったりして、多い時には六七匹いたことなどもあったのでした。そうなりますと食物の世話だけでも大変です。狸庵は自分で投網を持って、築地や、鉄砲洲や、深川などへ、狸の御馳走の魚を取りに行きましたが、狸はダボハゼが大好きなので、狸庵もそれだけを目当てとしまして、外の魚はどんなのが網にはいっても、それらは惜しげもなく棄ててしまって帰って来るのでした。(森銑三『増補 新橋の狸先生―私の近世畸人伝』岩波文庫)
なんということだろう。ササキさんに教えてあげたい。人生経験豊富で物知りだったササキさんでも、この真実はいまだ知らないと思うのだ。


2019年9月21日土曜日

●土曜日の読書〔月をつくる〕小津夜景



小津夜景








月をつくる

中秋だけど、とくになんてこともない。と思っていたら、夫がライ麦の餅をつくってくれるという。

ラッキー。ラッキー。そうやって浮かれて長椅子でごろごろしていたら、台所から焼きパンのような匂いがただよってきた。

あれ? これ焼きパン? もしかしてあの人、お餅のつくりかたを知らない? そんな疑いが脳裏をよぎった。が、下手に口出しすると機嫌をそこねて何にも食べられないかもしれない。ここはじっと黙って待つしかないだろう。

作業開始から約一時間後、ついに餅がテーブルに運ばれた。全粒粉でこしらえた凹凸のある餅が、薄い月餅のかたちに8個かさねられ、朱色の花形盆に盛り付けてある。ひなびた情緒がいかにも十五夜風だ。こっそり胸を撫でおろして、いただきますとひとつ齧る。ふつうのお餅よりも軽い嚙みごたえで、ブルターニュの甘い塩の味が口中にじわりと湧き出てきた。おいしい。

「おいしいよ。ありがとう」
「どういたしまして」
「フライパンで焙った? 表面がふっくら割れてる」
「焼き目つけてみた。いいでしょ」
「うん。十五夜のお月さまっぽくはないけどね」
「なんで。クレーターじゃん。リアルじゃん。リアリティ出したんだよ」

なるほどリアルか。そういわれると、たしかに餅の焼き目が月のクレーターに見えそうな気分になってきた。あくまで気分だが。しかし、ということは、この餅の珍妙な色合いもあえてのしわざなのか。

「あのさ。この鹿皮みたいな色は」
「鹿皮って何? これは月の色でしょ」

やはりわざとだったのだ。ふと大昔の洞穴に残っている原始人の絵を思い出す。あれは本当にリアルでおどろいてしまうが、いまわたしの手の中にある月も、きっとものをよく見る人の月なのだろう。夫は星が好きで、よく天体を観察しているから。
鹿を写生してかいたが鹿にみえるだろうか。太閤さんがある歌会に出て、「奥山にもみぢふみわけ鳴く蛍」とかいたら、細川幽斎が「しかとは見えぬ杣(そま)のともしび」と附けた。
この画も鹿と見てほしい。
私は動物園で写生してきた。「あなたは奈良で毎月ゆくのに動物園などに行かなくてもよいでしょう」と云われた。奈良公園の鹿は紙を見ると食べに来る。スケッチブックなど見たら、そばへよってきて写生どころではない。檻の中にいる鹿の方がよい。(中川一政『画にもかけない』講談社文芸文庫)

「今夜、何時に月を見に行く?」
「あ。プーアル茶入れてたの忘れてた」

そう言うと、夫は立ち上がり、台所へ戻った。手をついたとき、テーブルの上の桔梗がゆれた。わたしは具象と抽象を兼ね備えたリアルな月を、また一口嚙んだ。




2019年9月7日土曜日

●土曜日の読書〔お菓子の記憶〕小津夜景



小津夜景








お菓子の記憶

週末、なんのまえぶれもなく、家人がフレンチ・クレオール・ラムを買ってきた。

出会って四半世紀、そんなものを買ってきたことは一度もない。いったいなにがあったのか。私がおどろいていると家人は台所へ行き、戸棚からボウルを出し、ボウルの中にアーモンド粉、卵黄、砂糖、バター、フレンチ・クレオール・ラムを入れて、少量の小麦粉で固さを調節しつつこねこねとアーモンド餡をこしらえた。それから、パイ皿に敷いたパイ生地の上に、大きなスプーンをつかってアーモンド餡をならし、別のパイ生地を餡の上にかぶせ、180度に温めたオーブンに入れてガレット・デ・ロワを焼き出したのだった。

「いきなりどうしたの」
「職場の同僚がレシピを教えてくれたんだよね。つきあい上、やってみないわけにいかないと思って」

同僚の話を聞いているうちにパイが焼きあがる。パイ生地のふちを折り込まなかったので野人の料理っぽい。少し可愛くしようとアピルコのケーキ皿に取り分け、カイ・ボイスンのフォークを添えたら、とりあえずぽてっとした素朴な見た目に落ち着いた。

「どう?」
「ん。おいしい」
「よかった」

私はもともと甘いものが苦手で、子供のころは口にすると頭が痛くなって寝込んでしまうほど体質に合わなかった。ひとなみに食べられるようになったのは二十歳もこえてだいぶたってからで、今では「甘いもの=人生」といって差し支えないほどに馴染んだものの、それでも沢山は食べられない。そしてその分、箱や包装紙、ラベルやリボンなどお菓子屋さんの紙もの布ものを眺めて、あの時はおいしかったなあと甘い思い出にふけっている。
その軍医は非常な甘い物好きで、始終胃をわるくして居た。所謂医者の不養生であつた。ふねが港にはいると、取りあへず其処の名物の菓子を買つて来た。さうしてそれを眺め、それを味ひ、それから一々丁寧にそれを写生した。絵の巧い人で、絵の具をさして実物大に写生した。それだけの写生帖があつて、時と所と菓子の名前と、さうして目方と価とが記された。永年のことで、菓子の種類は夥しい数に上つた。静かな航海中、用の無い時は独りその写生帳を取り出し、その美しい色や形を眺め、その味ひを思ひ出して楽しんだ。(岩本素白「菓子の譜」『素白先生の散歩』みすず書房)
岩本素白「菓子の譜」にはこの軍医の話に影響されて、菓子好きの著者が少年のころに始めた遊びのことが綴ってある。どんな遊びかというと、折や箱に貼ってある商標ラベルや 添えられている小箋、包装紙の絵画詩歌で気に入ったものだけを布貼りの菓子折に入れておき、折々に取り出しては丹念に眺めるのである。「柚餅子のやうな菓子」の鉄斎の画。「柿羊羹を台にした菓子」の石埭の詩と墨絵。新潟銘菓「越の雪」の銅版画。砂糖が不自由になった時代は、菓子好きの集まりでそれらを披露し、ご馳走の記憶を皆で分かち合ったこともあるそうだ。


2019年8月31日土曜日

●土曜日の読書〔セミのブローチ〕小津夜景



小津夜景








セミのブローチ

海岸でもらった風船のおすそわけに、友人のアトリエに寄る。

今日は手に入れたばかりのセミのブローチをワンピースにつけている。セミのブローチをつけるのは、季節の帯をしめるようなものだ。プロヴァンスの昆虫界ではセミの地位が一番高く、街にはセミの小物が年中あふれているけれど、それでもセミが夏の幸福のシンボルであることは変わらない。

扉があいていたので勝手にアトリエに入る。友人の姿はない。ものすごく変わった人なので、壁に隠れているかもと思い、壁にさわりながら、室内をゆっくり回ってみる。が、特に変わったこともない。天井を見上げ、てのひらをひらく。ふわん。風船が天井にくっついた。このまま帰っちゃおうかな。そう思いつつ天井を眺めていたところへ、日本にもセミがいるの?と急に友人の声がした。

「わ。びっくりした。どこにいたの」
「裏庭。いいねそのブローチ」
「でしょ。いるよ。いるけど、基本悲しい生き物だって思われてる。すごい短命だから。で、思うところあって、大声で泣いてるんだろうって」
「あはは。あんな美声なのに。昼寝にいいよね。セミの声って眠くなる」

おいで。セミがいるから。友人は私の肩に手をかけると、そのままアトリエの奥といざなった。裏庭の木陰には2脚のデッキチェアが広げられ、セミの声がしんしんと降っている。

さっきまでここで寝てたの。そう言って友人はデッキチェアに横たわると目をつぶった。
「ああ。生きてるたのしさを、うたってるね」
友人は、そのまま眠ってしまった。
セミの彫刻的契機はその全体のまとまりのいい事にある。部分は複雑であるが、それが二枚の大きな翅によって統一され、しかも頭の両端の複眼の突出と胸部との関係が脆弱でなく、胸部が甲冑のように堅固で、殊に中胸背部の末端にある皺襞(しわひだ)の意匠が面白い彫刻的の形態と肉合いとを持ち、裏の腹部がうまく翅の中に納まり、六本の肢もあまり長くはなく、前肢には強い腕があり、口吻が又実に比例よく体の中央に針を垂れ、総体に単純化し易く、面に無駄が出ない。セミの美しさの最も微妙なところは、横から翅を見た時の翅の山の形をした線にある。頭から胸背部へかけて小さな円味を持つところへ、翅の上縁がずっと上へ立ち上り、一つの頂点を作って再び波をうって下の方へなだれるように低まり、一寸又立ち上って終っている工合が他の何物にも無いセミ特有の線である。(高村光太郎『蟬の美と造型』青空文庫)
帰宅して、セミの資料を漁っていて見つけた随筆。光太郎作の木彫のセミは感動ものだが、随筆の方も傑作である。ありのままのセミをちゃんと見ているのもいい。原文ではこの数倍セミの描写がつづくのだけれど、他人の口から借りてきたようなうんちくは一行も混じっていない。


2019年8月24日土曜日

●土曜日の読書〔100年前のパリジェンヌ〕小津夜景



小津夜景








100年前のパリジェンヌ

この世には好きなものを追いかけて、物理的に無理っぽいことも奇蹟的に達成してしまう変人がいる。

このまえ、山間の古道沿いにあるディーニュ・レ・バンという温泉町へ出かけたら、そんな変人の一人であるアレクサンドラ・ダヴィッド=ネール(1868-1969)の旧居があった。

アレクサンドラはチベットのラサ入りに成功した初の外国人女性である。その経歴はいたって魅力的で、ロンドンおよびパリで東洋思想・チベット語・サンスクリット語を学んだのち、生活のためにオペラ座の歌手(なんと音大も卒業しているのだ)となってハノイ、アテネ、チュニスの舞台に立っていたが、仏教への思い絶ちがたく学究生活に戻り、43歳にしてインドへ出発、そこからは玄奘三蔵ばりに諸国を冒険、砂漠や山岳でいくども飢えや死の危険に晒されつつチベットを目指すというのだからとんでもない。しかもこの初回の旅がいきなり14年間にも及ぶのである。当時鎖国中だったチベットの国境をどうやって突破したのかというと、
私はアルジョバ(巡礼)の扮装をしようと決めた。それは、目立たずに旅行する最良の方法だろう。ヨンデンは実際に学識あるラマ僧であって、私の息子の役をうまく果たすにちがいなく、信仰心から長い巡礼旅を企てたという彼の老いた母(私)は、人々の心を打ち、好印象を与えるに違いなかった。
このように考えたことが、こう決心した主な理由だったが、正直なところ、召使や馬や荷物で心を煩わすことなく、毎晩戸外で思いのままに眠るアルジョバの完全な自由に、私は大きくひかれたのだった。
この一〇ヵ月間の旅行の間には、風変わりな巡礼の生活の不自由も苦労も、そして喜びも味わいつくした。それは夢見うるかぎりの甘美な生活であり、また私にとってかつてない最も幸せな日々であった。肩に僅かな貧しい荷物を背負い、山を越え谷を越えて素晴らしい「雪の国」を放浪したのだった。A.ダヴィッド=ネール『パリジェンヌのラサ旅行1』)東洋文庫)
と、乞食巡礼の老婆に扮し、外国人とバレないよう何も持たず、のちに彼女の養子となるラマ僧ヨンデンを連れ、中国雲南地方からラサまでの山々を数ヶ月かけて徒歩で渡りきったのだ。このときアレクサンドラは55歳。過去4度捕まり、5回目での成功だった。

で、そんな情熱家の旧居だもの、さぞかし本気の東洋趣味なのだろうと思ったらこれが違った。楽しく、愛らしく、ブリコラージュ精神があって(単に大雑把とも言う)いかにもパリジェンヌらしい。パリジェンヌといえば、『パリジェンヌのラサ旅行』という書名は売るための邦訳ではなく原題も《Voyage d'une parisienne à Lhassa》というのだけれど、ひょっとしてこの本はいわゆる「パリジェンヌもの」の元祖でもあるのだろうか。刊行は1927年である。もしそうなら、いやそうでなくても、100年前の「パリジェンヌもの」は最高にダイナミックだったんだなあ。


2019年8月17日土曜日

●土曜日の読書〔空気草履〕小津夜景



小津夜景








空気草履

空気が好きで、空気をつかったアイテムについて、日々情報収集している。

その中に、空気草履という名の、よくわからないブツがある。

これは大昔、尾崎翠「空気草履」で知ったのだが、その小説というのが、貧しい女の子が夢で見た空気草履をひょんないきさつから手に入れる話で、甘ったるく感傷的で、エアー感覚が皆無な上に、肝心の草履のしくみが書かれていない。

空気草履は志ん生の自伝にも登場する。志ん生の師匠である馬生(4代目)が空気草履をはいて、目の見えなくなった小せん(初代)を見舞うくだりだ。
そうしたら小せんのおかみさんが、師匠が帰ったあとで小せんに
「いま勝ちゃん(馬生)が空気草履をはいてきましたよ」
「ナニ、空気草履をはいてきたと……」
小せんはそれを聞いて、ちょっと眉をくもらせていたが、口述で弟子に手紙を書かせ、それを師匠のもとへ届けさせた。その手紙には、
「お前も江戸っ子だし、俺も江戸っ子なんだ。お前とはこうして若い自分からつきあってきたが、いま聞いたら、お前はうちへ空気草履をはいてきたという。江戸っ子がそんなものをなぜはくんだ。江戸っ子の面よごしだ。きょう限り絶交するからそう思え……」
と書いてある。これを読んで師匠はびっくりして、なんとかという文士を中へ立てて、小せんのところへおわびに行ったというんですよ。そして中に立った文士が
「師匠、とにかくこの人も、わるい了見で空気草履をはいていったわけじゃない。つい出来ごころではいたんだから、どうかこのたびのことはかんべんしてやってもらいたい」
(古今亭志ん生『なめくじ艦隊 志ん生半生記』(ちくま文庫)
空気草履がどんなものか、やはり見当がつかない。大辞林第三版の「かかとの部分をばね仕掛けにして、空気が入っているように見せたもの」との説明からだと、ドクター中松の「スーパーぴょんぴょん」しか思い浮かばないのだが、もしかしてそれでいいのか?

そして月日は流れ、きのう夫と待ち合わせた喫茶店で空気草履のことをふと思い出し、スマートフォンで検索したら、なんと実物写真が一枚だけ見つかった。大辞林の説明とは違い、横からみると、インソールとアウトソールの間が革製アコーディオンになっていて、つま先はミッドソール(すなわちアコーディオン部分)を挟んで上下のソールが固く縫い合わせてある。つまりまるきり鼻緒のついた蛇腹のふいごなのだ。これだと足を上げるたびにかかとの部分がふっと扇型にひらき、ふっ、ふが、ふっ、ふがっとなる。ふいごをふがふがふんで歩くのは、確かにちょっと阿呆っぽい。志ん生の本を読んだときは、江戸っ子の偏屈自慢はお腹いっぱいだよと思ったものだけれど、全くそんな話ではなかった。




2019年8月10日土曜日

●土曜日の読書〔未来から来た人々〕小津夜景



小津夜景








未来から来た人々

仕事から帰ってきて、共同玄関の郵便受けをのぞきこむと、voyanceと書かれたチラシが入っていた。

フランス語のチラシにvoyanceとあったら、それは間違いなく透視術の宣伝である。透視術のチラシはだいたい月2、3枚ポスティングされている。この種のことに興味のない私には完全に未知の世界だ。

というようなことを、いつだったか知人に話した。するとその知人は占い好きだったようでフランスの占い師事情についてあれこれ教えてくれた。まず彼らのほとんどが女性で、残りの男性はおおむねホモセクシュアルである。新聞や雑誌に広告を出し、事務所を構え、時には秘書も抱えている。料金は50ユーロから100ユーロくらい。うんぬん。

「透視の道具はなんなの。水晶かタロット?」
「そうね。あとは手相とか。そうだ、カフェドマンシーってのもあるよ」
「ん?」
「café・do・mancie。コーヒーの飲み残しから運勢を判断するの」

なんと。それは茶柱的なものなのか。文化人類学的な興味が湧いて、知人と別れてから本屋に寄って調べてみた。
この風変わりな透視のメディアは、現代ではフランスの占い師の間で使われることはまれである。大流行したのはベル・エポックの頃で、今ではほとんどかえりみられない。その起源はおそらく十八世紀の終わりであろう。この占い術に関する最初の文章は、フィレンツェの占い師、トマス・タンポネッリによって書かれている。実際にこのメディアを使う場合には二通りのやり方がある。(ジョゼフ&アニク・デスアール『透視術――予言と占いの歴史』白水社)
 この二通りのやり方というのは、(1)よく水を切ったコーヒーの出しがらをソーサーにあけ、数回ゆすって広げる。あるいは、(2)カップの中のコーヒーを少しだけ残し、ひっくり返してソーサーにかぶせる。こうして生まれた模様の形からメッセージを読み取るのだ。他にも卵の白身占いや、インクの染み占い、水中の気泡占いなど、昔の占い師はありとあらゆる現象から未来を読み取ってきたらしい。ふうむ。

私は郵便受けに入っていたチラシを二つに折ると、共同玄関のゴミ箱に捨てた。そういえばフランス人は、デジャ・ヴェキュ(すでに体験した)とかデジャ・ヴュ(すでに見た)といった表現が好きだ。もしかすると彼らが未来に興味があるのは、実は自分がその未来からやってきた証拠が欲しいからなのかもしれない。


2019年8月3日土曜日

●土曜日の読書〔らくがき〕小津夜景



小津夜景








らくがき

チョークをもって、海辺までらくがきに行った。

らくがきすると考えごとがはかどる。身体の中に無意識のテンポが生まれるのだ。逆に手足をうごかさず、じっとしながら考えると全然うまくゆかない。思考の底でまったく別の案件を同時にいくつも思い巡らしてしまい、のうみその動作が重く鈍くなるらしい。

らくがきの癖は母親譲りで、母もまた家中のいたるところにらくがきをする人だった。特に会話をしていると手がとまらない。なんだったのだろうあれは。人と話すのが退屈なのだろうか。
かの有名なポンペイの壁に彫られた落書きもまた、古代の人々の退屈を記録したラテン語碑文であるが、こちらはもっといたずらっぽい感じだ。その壁は一面ラテン語で落書きされていた。古代ローマのどこかのチンピラが、そこに茶化すようにこう彫りつけている。「壁よ! こんなにも大勢の連中の退屈を受け止めて、よく粉々にならないものだな」。(……)今日においてもまさにそうだが、落書きというのはたいてい退屈した若者たちの、暇にまかせた破壊行為の産物なのだ。(ピーター・トゥーヒー『退屈 息もつかせぬその歴史』青土社、168頁)
トゥーヒーによれば、退屈とは世界から疎外された時に感じる空虚であり、セネカが『道徳書簡集』においてそれを「吐き気」と喩えた時代からの長い伝統がある。あの有名なサルトル『嘔吐』もこの系譜だ。もちろんいにしえの素朴な退屈が実存の退屈へと進化をとげるには、近代的知性を通過する必要があるのだけれど。

そう、話をふりだしに戻す。私は海辺に出たのだった。ささやかな、けれども回避しがたい生活上のある難題についてよく考えるため、代謝色をした一世紀前のレンガの壁に、私は波の線を引いた。それからレモンの形をしたクラゲをそのあわいに浮かべた。さらに椰子風の海藻を描いていたら、ストローハットの老人がにこやかに近づいてきて、

「ほら、あそこにたくさん鳥がいる。ぜひあれも描いてください」と空を指さした。

  私は空を見る。鳥は一羽もいない。

「見えないかな。あそこですよ」

  私の肩に手を回すと、老人は空のようすを実況しはじめた。

「よく見える目ですね」

「そうさ。長く生きてきたからとてもよく見えるんだ。あなたのチョーク絵だって、たとえ明日には消えてしまうとしても、いま見えるものをぜんぶ描いておかないとね」

老人は言った。子供に教え伝えるように。その表情から、この老人が、一人で絵を描いている私が孤独にみえて放っておけなかったのだ、とわかった。