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2026年2月16日月曜日

●追悼・樋口由紀子 週刊俳句関連リンク集

追悼・樋口由紀子 週刊俳句関連リンク集



金曜日の川柳:ウラハイ
https://hw02.blogspot.com/search/label/HiguchiYukiko

樋口由紀子 兼題「金曜日」10句 2015-12-13
樋口由紀子 清潔な靴 10句 2018-12-23
樋口由紀子 もうすぐお正月 10句 2019-12-22

樋口由紀子さんへの10の質問 2018-08-19

樋口由紀子・水に浮く・7句×齋藤朝比古・水すべて・7句 2007-06-03
「水」のあと 2007-06-10
上田信治×西原天気 「水に浮く」×「水すべて」を読む 2007-06-10

樋口由紀子 ハラハラ・どきどき 170本の「金曜日の川柳」 2014-08-24

樋口由紀子 特集【 山田耕司句集『不純』を読む】川柳作家から見た『不純』 おとこまえ 2018-09-09
樋口由紀子 需要と供給 斉田仁句集『黒頭』と望月裕二郎歌集『あそこ』 2014-12-14https://weekly-haiku.blogspot.com/2014/12/blog-post_16.html

柳俳合同誌上句会2020 投句一覧 2020-09-06
柳俳合同誌上句会〔2020年9月〕選句結果 2020-09-13

柳本々々 境界破壊者たち 樋口由紀子句集『容顔』の一句 2014-08-10

小林苑を わたしと出会うための一冊 樋口由紀子『めるくまーる』 2020-11-22
西原天気 頻発するカタストロフ 樋口由紀子『めるくまーる』を読む 2019-09-15

山田耕司 爽快、「理解不能で面白い」という感じ方。 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 2011-05-22
柳本々々 斡旋・素手・黒板 樋口由紀子『川柳×薔薇』のあとがき 2017-01-22
西原天気 親切で誠実な批評 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 2012-02-12

五十嵐秀彦 私性と虚実柳誌『MANO(マーノ)』第15号を読む 2010-04-25

川柳 「バックストローク」まるごとプロデュース号 2010-03-07
樋口由紀子 川柳に関する20のアフォリズム 2010-03-07

2025年12月19日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕樋口由紀子



樋口由紀子





アフリカの王ならくよくよはしない

樋口由紀子(ひぐち・ゆきこ)1953~

自分で書いておきながら、なんと無責任な川柳だと思う。「王」ともなれば、「民」の域を大きく超えて、重大な責務をかかえ、くよくよすることも多岐にわたっているはずである。若干の皮肉もあるが、「アフリカ」の広大さに、何ごとにもこだわらない大らかさを優先した。

今年は私にとってたいへんな一年だった。くよくよすることがいっぱいあった。人間だから、生きているのだからくよくよするのはあたりまえだが、それにしても人生が一変した。なんとか遣り過すことはできたが、来年はどうなるかは神のみぞ知るである。しかし、なるようにならないのなら、もう開き直って「アフリカの王」にシンパシーを抱くしかない。『容顔』(1999年刊 詩遊社)所収。

2025年12月12日金曜日

●金曜日の川柳〔松永千秋〕樋口由紀子



樋口由紀子





どうしても容器の口が広すぎる

松永千秋(まつなが・ちあき)1949~

容器の口が狭すぎて、モノが入らないので困ったというのはよくあることだが、ここでは「広すぎる」。容器自体が大きいのではなく、「容器の口が広すぎる」。大は小を兼ねるのはすべてもものに通じない。

すぐの思いつくのは壺や花瓶である。大きな壺のほとんどはその大きさに比例して口も広い。これほど花を活けるのに不都合なことはない。花を多く活けるか、あるいは叉木をしなければ、花は倒れてしまう。「あちらを立てればこちらが立たず」「とかくこの世は住みにくい」。「どうしても」を「どうにかして」、辻褄を合わせるのが、生活していくということだろう。『What's』第9号(2025年刊)収録。

2025年11月28日金曜日

●金曜日の川柳〔佐渡真紀子〕樋口由紀子



樋口由紀子





悪人になって動物園に行く

佐渡真紀子(さど・まきこ)

物語が始まりそうである。「善人」だと嘘っぽくなって、物語のワクワク感が薄れてしまう。が、この「悪人」もどうだろうか、ちっとも悪人らしくない。そもそも「悪人になって」いるのかどうかもわからない。自分に言い聞かせている。

「悪人になって」と「動物園に行く」には落差はあり、ちぐはぐである。動物園は癒されるというよりも意外と自分の見えない本音や心情がはっきりと見える場所なのかもしれない。なぜ「悪人になって」なのかは訳も理由もわからないが、意味や雰囲気は残る。そんな人の存在を確かに感じることができる。「What‘s」(9号 2025年刊)収録。

2025年11月21日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子





斎藤と齋藤の夫婦別姓

月波与生(つきなみ・よじょう)

私の本名はワタナベで、いろいろな渡邊、渡辺、渡邉、渡部があるが、どのワタナベも戸籍上と異なる。市役所で正確に書いてくださいと注意されたが、その漢字は市のパソコンに出て来なくて、便宜上、渡邊にした。以後、渡邊と渡辺とパソコンに出ないワタナベをその都合で使い分けている。

「斎藤」普段使いしている夫と「齋藤」と普段使いしている妻はそれも夫婦別姓なるのか。疑問を呈して、皮肉を込めて、呟いている。その皮肉に共感する。法務省のホームページには「現在の民法のもとでは、結婚に際して、男性又は女性のいずれか一方が、必ず氏を改めなければなりません。」と明記されている。夫婦別姓はいまだに認められていない。「What‘s」(9号 2025年刊)収録。

2025年11月14日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕樋口由紀子



樋口由紀子





鯖、鰆、鮭、鯛、鮪、然るべく

なかはられいこ(1955~)

寿司屋の湯飲みに書かれている魚の漢字で寿司が出るまでの時間をつぶした。魚の読み方を覚え、こんなにも魚の種類があるのかを知った。「然るべく」とは、「それにふさわしい」「当然そうなるはず」の意味だが、何が「然るべく」なのか、さっぱりわからない。「読点」で魚の名を列挙したあとの突然の着地は「然るべく」の意味だけを取り残した。

急に話を変えて視点を変えずにアナーキーな世界を形作る。一般の言語期範に収まってくれない。SABA・SAWARA・SAKE・TAI・MAGUROと[A]音がとんとんと連続し、SIKARUBEKUで「I」音になり、別モノになるように音韻に工夫もされている。「川柳ねじまき」(11号 2025年刊)収録。

2025年10月31日金曜日

●金曜日の川柳〔大山竹二〕樋口由紀子



樋口由紀子





かぶと虫死んだ軽さになっている

大山竹二(おおやま・たけじ)1908~1962

かぶと虫の死骸が道端に転がっていた。死んでから日が経っているのか、干乾びている。腰をかがめて、よく見ると、生きているときのぎらぎら感は抜けて、この世を務め終えた安堵感が漂っている。

生きていくのはしんどいことである。否応なく義務と重荷を背負わされ、肉体的や精神的な負担は半端ではない。「死んだ軽さ」にどきりとする。自分も死ねばかぶと虫のようになれるのだろうか。「やって楽になれたね。もうがんばらなくていいよ」とかぶと虫にささやいているようである。「生き物」から「物」へ、すべてから解放され、吹けば飛ぶように身軽になる。『大山竹二句集』(1964年刊 竹二句集刊行会)所収。

2025年10月24日金曜日

●金曜日の川柳〔広瀬ちえみ〕樋口由紀子



樋口由紀子





ゆっくりとひつまぶししてゆきなされ

広瀬ちえみ(ひろせ・ちえみ)1950~

ひらがなのビース玉を糸に通していて、うっかり「ま」と「つ」の順序が前後した。やり直そうかと思ったが、これはこれでまた違った光沢が出たのでそのままにしておく。そんな川柳である。しかし、ビーズ玉のようにはコトはスムーズに運ばない。「ひつまぶし」と「ひまつぶし」は似て非なる、まったくベツモノで、一字違いの大違いで独り立ちしている。

言葉にはどう振り払っても、意味が張り付いている。しかし、伝達、説明、報告だけが役目ではない。川柳は意味をターゲットにする。こだわりながら、揶揄(からか)い、意味そのものを味わい、可笑しさや愉しさにたどり着く。意味は謎であり、この上なく魅惑的である。『雨曜日』(2020年刊 文學の森)所収。

2025年10月17日金曜日

●金曜日の川柳〔米山明日歌〕樋口由紀子



樋口由紀子





非常口などない 秋の箱の中

米山明日歌(よねやま・あすか)1953~

「非常口などない」という唐突な宣言のような導入で一句は始まる。それを受け止めるのが魅惑満載で魑魅魍魎な「秋の箱の中」。秋に魅せられ、紅葉に絡めとられたていく。「秋の箱の中」に一歩でも足を踏み入れたら、もうそこから出ることはできない。

一字空けは一呼吸して、この状況を決意するためだろう。その後、勢いをつけて、スピードを上げて、迷いはなくまっすぐに邁進する。これからわが身が遭遇する、すべてを受け入れる覚悟と情念のようなものが見える。最強の恋句であろう。「What's」(8号 2025年4月刊)収録。

2025年10月10日金曜日

●金曜日の川柳〔榊陽子〕樋口由紀子



樋口由紀子





鶏冠にブーケ 病室は鯖を焼く

榊陽子(さかき・ようこ)

ブーケは花嫁が結婚式に持ち、祝福や愛の象徴とも言われている。それを鶏冠にとは、嫌み以外のなにものでもない。病室は当然ながら火気厳禁。食事制限もあるのに鯖を焼くことなんてとんでもない。なぜ、そんなことをするのか。喩として機能しているのでもなさそうで、まして、物語のように、なんらかの事情でそうするしかなかったというのでもないだろう。

どのような読まれ方をしてもしかたがないという開き直りがある。さらっと口にした軽みで、やっかいな自分を投影しているように見せかけているが、作品イコール作者ではない。屈託や逡巡を繰り返す、醒めたセンスのキャラクターを立ち上げたのだ。

2025年9月26日金曜日

●金曜日の川柳〔榎本聰夢〕樋口由紀子



樋口由紀子





雷のお詫びのような虹の橋

榎本聰夢

雷が鳴ったら急いで家の中に入り、雷が鳴り終わったら、家々からは人が出てきて、よう光りましたな、これで少しは涼しくなりますなと口々に言いあった。さっきまで驚かせて、すいませんというように虹が出ている。それまでの雷の恐怖が吹っ飛んで、その美しさに見惚れた。のんびりとした、人柄がしみじみとでる、昭和の川柳である。よくないことが起こっても煽るのではなく、おだやかに済ませる。

しかし、令和の現在はもう、そんな悠長なことはいっておられなくなった。「お詫びのような」では済まないような半端ではない災害が次々と襲ってくる。猛暑、落雷、竜巻、地震、豪雨、線状降水帯、豪雪、突風と容赦がない。一瞬にして生活がひっくり返され、人間社会が叩きのめされる。暗い穴に吸い込まれていきそうである。

2025年9月19日金曜日

●金曜日の川柳〔妹尾凛〕樋口由紀子



樋口由紀子





どんなナムルな日曜でしたか

妹尾凛(せのお・りん)1958~

「どんな」は連体詞で名詞につける。「この」「そちら」「あの」と同様に読み手に想像を預けることのできる都合のいい言葉である。「ナムル」の種類はいろいろあるが、味付けはナムルであり、それほどの変わりない。しかし、「どんなナムル」と問われれば考え込んでしまう。

「ナムル」から「日曜」に繋がる構成で、「日曜でしたか」と畳みこむことによって、「どんなナムル」は喩としてのはたらきを発揮する。「ナムルな」の「ナ」と「な」の音感で挟み合っているのもいい。「日曜ですか」とすれば七七に収まるのに、「でしたか」と七八で、過去形にして、雰囲気を替える。意図的なのか、無意識なのか。心情の出し方が微妙である。

2025年9月12日金曜日

●金曜日の川柳〔飯田良祐〕樋口由紀子



樋口由紀子





稲刈りが始まる通天閣展望台

飯田良祐(いいだ・りょうすけ)1943~2006

もうすぐ、近隣の田畑のあちこちで稲刈りが始まり、秋を実感する。しかし、「通天閣展望台」で稲刈りが始まることはない。通天閣は個性的なかたちをしていて、大阪を眼下に一望している。ジャンジャン横丁から見上げる通天閣展望台でたわわに実った稲穂が刈り取られていくのを実景として作者には見えるのだろうか。舞台装置は完璧である。

この世にはいくら待っても始まらないものがある。「始まる」ことのないことを「始まる」というのはかなり屈折していて、話が変わっていくが、新らたな関係性を見出していくようでもある。喜怒哀楽では括り切れない心情を垣間みせる。天に通じる塔の稲刈りが終わったあとの視線の行方が気になる。『実朝の首』(2015年刊 川柳カード叢書)所収。

2025年8月29日金曜日

●金曜日の川柳〔岸本水府〕樋口由紀子



樋口由紀子





還暦はよし友達が二千人

岸本水府(きしもと・すいふ)1892~1965

まどみちおの「いちねんせいになったら いちねんせいになったら、ともだちひゃくにんできるかな」を思い出す。「還暦」は干支が一巡し、赤ちゃんに還ると言われ、ここまで無事に生きられたと年祝いする。

現在よりも寿命が短く、還暦は老いの入り口だった時代に「還暦はよし」とはなかなか言いづらい。現実の諸々を素通りし、肩の力をすとんと抜いて、巧みに切り替える。「二千人」のオーバーな表現も功を奏し、突っ込みどころも用意しているポジティブ感が半端ではない。この余裕、この軽みが水府の持ち味で、一句を生き生きとさせる。一年生からどんどん増えて二千人になった。

2025年8月22日金曜日

●金曜日の川柳〔奥村丹路〕樋口由紀子



樋口由紀子





そもそもの噓の初めのゴム乳豆

奥村丹路

「ゴム乳豆」とはおしゃぶりのことである。赤ちゃんが泣きやまないときに、それを与えるとホンモノの乳首と間違えて、あっという間に、ぴたりと泣き止む。摩訶不思議と私も子育てのときにたいへん重宝させてもらった。あれがなければ、睡眠不足で育児ノイローゼになっていたかもしれない。我が子に最初に噓というものを教えたのは私だったのだ。噓は身体から覚えていく。

「ザ、川柳」だなと思う。川柳とはなにかとわからなくなるときに、伝統川柳を読む。「そもそも」「噓の初め」「ゴム乳豆」、それぞれ別種の、役割の違う言葉を無駄なく、抑揚をつけながら平面的に並べて、簡素に言い切る。それでいて、人間観察が優れ、まさしく人生を言い当てている。

2025年8月8日金曜日

●金曜日の川柳〔酒井かがり〕樋口由紀子



樋口由紀子





本日はおひがらもよくキリン柄

酒井かがり(さかい・かがり)1958~

大阪のおばちゃんはアニマルプリントの服が好きで、亡母のクローゼットを整理していたら、アニマルプリントの服ばかりで、ここは動物園か、と弟が叫んだとどこかで読んだことがある。作者のクローゼットにもいろいろな動物が出番を待っているのかもしれない。

目覚めたら、なぜだか「本日はおひがらもよく」の気分だった。だから、キリン柄の服を着ようと何の理由も根拠もなく、直観的にそう思った。なぜ、キリン柄なのか。キリンのしおらしい顔や躍動感に意味や理由を後付けすることはできそうだが、どうもそうではなさそうである。なんとなくのワクワク感とキリン柄が自分のなかでマッチした。「おひがら(日柄)」と「キリン柄」の「柄」繋がりも気に入った。ただそれだけのことを書いているのに独自の空気感を出している。

2025年7月25日金曜日

●金曜日の川柳〔福尾圭司〕樋口由紀子



樋口由紀子





ブランコの台詞が三日月になった

福尾圭司

ブランコに乗りながらの言った台詞が空に舞い上がり、三日月になったのだろうか。あるいはブランコが揺れるときの、あのきーきーなどの音が風に乗って、夜空を駆けていったのだろうか。どちらにせよ、その台詞はもはや地上には戻ってこない。「ブランコ」から「三日月」までの距離が空想性や寓話性を帯びながら広がっていく。おおよそいままで川柳と趣きが異なり、ロマンチックでエレガントに仕上げている。

「三日月になった」に寂寥感が伴うが、三日月に象徴される陰影をアニメ映画の一場面のように設定している。センチメンタルに終わらずにまるで手品のように変化する。三日月のブランコはいつまでも揺れているのだろう。「第13回卑弥呼の里誌上川柳大会発表誌」(2025年刊)収録。

2025年7月18日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕樋口由紀子



樋口由紀子





宗教家の芋けんぴ破獄などしない

川合大祐(かわい・だいすけ)1974~

時の政府と折り合えなかった多くの宗教家は投獄された。その中には破獄した人もいたかもしれない。芋けんぴなら隙間をぬって脱出できそうなのに、破獄などしないと言い切る。フィクション性を多分に含み、作者ならではの主観の打ち出し方である。

「宗教家」「破獄」と意味性の強い言葉が使われているのに、喜怒哀楽を喚起したり、感情を刺激しない。中ははさまる「芋けんぴ」がシャットアウトしている。そもそも「宗教家の芋けんぴ」とは何だろうか。「の」で素知らぬ顔で結びつけているが、省略が効きすぎて路頭に迷う。職人は目の前にある材料だけでものをつくると言われるが、掲句もそのようである。周知の感覚を上から横から揺さぶってくる。『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』(2025年刊 書肆侃侃房)所収。

2025年7月11日金曜日

●金曜日の川柳〔富永顕二〕樋口由紀子



樋口由紀子





人間じゃないと告白する檸檬

富永顕二(とみなが・けんじ)

檸檬はサワー・サラダ・揚げ物などの添え物でついてくる。皮を残して、果肉をぎゅっと思い切り絞られ、捨てられる。まるで人間のようではないかと。檸檬にそんな告白をされたら、人間の面目丸つぶれである。檸檬に自己投影しているのだろうか。そう読むのが順当だろう。

檸檬が普通に考えて話す視点で書いている。「人間」と「檸檬」は同じ範疇に属している。人間の外部からこの世の現実を書く。立場を変えると世界の見方もくるりと変わり、なにもかもが回りはじめる。言葉を異化しているのでもなく、奇想というほどでもない。そんな世界が実際にあるかのように見せるのも俳諧味だろう。「川柳ねじまき」(11号 2025年)収録。

2025年6月27日金曜日

●金曜日の川柳〔郡司和斗〕樋口由紀子



樋口由紀子





耳が耳2になるのを止めましょう

郡司和斗(ぐんじ・かずと)1998~

「耳2」はただ「耳」をバージョンアップしただけで、耳には変わりがなく、それほどの差異はないと思っていた。しかし、「止めましょう」と言われて、はっとした。「耳」と「耳2」は似て非なるものなのかもしれない。「止めましょう」と自分の意見をダイレクトに持ち込んでいるが、作者はすっと引っ込み、姿はみせない。実にアナーキーで悪意に満ちている。

「耳2」は本来の「耳」から遠く離れて、変貌していて、別物になっている可能性だってある。この世とはそういうところだと世界を把握しているのか。「耳」と「耳2」が実在感を持って立ち上がってくる。決して感傷にふけないで、言葉を意識的に操作している。『川柳EXPO2025―柳―』(2025年刊)所収。